2019年11月07日

中世史家の見たフランス革命(6)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





6.暴力と恐怖

 92年8月19日、プロイセン軍により北フランスの城塞ロンウィ陥落。その原因を裏切りと反革命に求めて、容疑者を大量に拘束し、機密漏洩を防いだはずですが、それでも同年9月2日に要塞都市ヴェルダン陥落。刻々と迫りくる敵軍に動揺し、9月2日から6日にかけて連盟兵とパリ民衆は市内の監獄を襲撃。囚人の半数を人民法廷の即決裁判で公開処刑に付します。もちろん全員が濡れ衣を着せられたと言えるでしょう。

敵軍と通じて、軍事機密を流していたという証拠はなかったはずです。陰謀に違いないという思い込み、情報不足から生じる恐怖、そして暴力的な過剰反応。革命政府が周辺諸国の動静に十分な情報を得られないのは仕方ないのかも知れませんが、それにしても対応が稚拙。法の適用と主権の行使を暴力に頼るとはあまりに幼児的と評せざるを得ません。悪に対して公開の民衆制裁を加えて共同体の秩序と平和を維持する、中世的・農村的伝統がこんなところに生き残っているのでしょうか。

振り返ってみれば、革命初期には領主を襲撃して土地台帳を焼却することが各地で発生しました。本来は不法行為である暴力を革命が正当化・日常化したと言えましょう。冷静に考えれば、戦争に負けるのは軍事力と軍事指導力が弱体化しているからで、かりに裏切り者がいたとしても、その役割を過大に評価するのは奇異に思えます。まして国内の革命反対・非協力者を摘発することに血眼になって、軍事力の強化を後回しにするのは、どう考えても本末転倒と思えますが、革命政府は実際にこのような方針を採択したのです。



 1793年3月10日に全国各地に革命裁判所が創設され、これを補完する組織として21日には監視委員会(革命委員会)が設置されました。4月6日に発足した公安委員会は、本来、国防を担う組織でしたが、6月に国民公会からジロンド派が追放され、モンターニュ派(ジャコバン左派)の独裁が成立すると、この派閥の執行機関という性格が強まります。7月27日ロベスピエールをはじめ、サン・キュロットを代表する人々が公安委員会に参加し、12名のメンバーが確定しました。

9月4日から5日にかけて、国民公会は武装した国民衛兵に包囲され、反革命派の拘束と革命政府樹立へ向けて動き出します。まず9日に革命軍を創設し、17日に反革命容疑者の逮捕令を、29日には総最高価格法を決議・発令しました。10月10日、国民公会は「フランスの臨時政府は平和の到来まで革命的である」と宣言して、91年憲法には如何なる規定もなかったはずの革命政府を樹立します。この臨時政府は反革命の取り締まりに異常な情熱を傾け、議会内の二つの委員会、すなわち公安委員会と保安委員会(92年10月発足)、の指示に基づき、反革命容疑者の逮捕令を連発して、各地の革命裁判所をフルに活用するという体制を作り出しました。これが恐怖政治です。



 この93年の10月から11月にかけて、パリで処刑されたのは王妃マリー・アントワネット、ジロンド派、旧フィヤン派など200名足らずでしたが、地方は無政府状態に陥り、実際の処刑者数も判然とせず、凄惨であったと言われますが、フリメール14日(93年12月4日)の法によって地方組織を公安委員会に従属させることに成功し、この無政府状態はひとまず終息しました。他方、革命政府が国家総動員体制を整備したことが功を奏し(決して裏切り者を粛清したためではなく)、93年暮れには戦況も好転、ヴァンデ反乱もほぼ鎮圧することに成功しました。

 この事態を受けて、94年に入ると国民公会内部で恐怖政治を巡る議論が左派エベール派と右派(穏健派)ダントン派の間で活発化しますが、ロベスピエールを中心とする公安委員会は3月から4月にかけて両派を粛清し、さらなる独裁の道を突き進み、4月から5月にかけて地方の革命裁判所を廃止し、パリへの集中を図りました。6月10日プレリアル法を制定し、反革命容疑の解釈を拡大し、裁判手続きの簡素化・迅速化を行いました。判決は死刑か無罪か、二つしかありません。その結果、6月から7月にかけて1,500名以上が処刑されました。恐怖政治期には全国で約50万人が収監され、3万5千人から4万人が処刑されたと言われています。

(9)につづく


文学部 史学科      教授 金尾 健美





posted by 園遊会 at 10:26| Comment(0) | 明治維新150年

2019年10月10日

中世史家の見たフランス革命(5) 中世史家の見たフランス革命(5)

地域ともに活躍する川村学園女子大学

5.革命の第3ステージ:拒絶と排除

 革命家は自らの理念・ユートピアを実現するために、教育の重要性を主張します。国民の幸福に直結するユートピア的教育が拒絶されると、その理由が理解できません。そこで反革命家の陰謀ではないかと考えます。疑心暗鬼が監視・告発による恐怖政治を生み、それが一般の抵抗を強化するという悪循環を生み出してしまいます。

 旧制度に代わる新しい社会は自由で平等な個人の結合によって成り立つ「国民」共同体になるはずでした。それを建設することは、理論的に言って「国民」に含まない、含めることができない異質なものを排除することが前提となります。しかしこうした独善的で押しつけがましい社会改革に対する嫌悪や拒絶もまた当然生まれてくるでしょう。つまり自ら異化し、距離を置こうとする個人も現れるはずですが、革命はひたすら同化を求め、離脱も反発も許さないのです。

 革命は89年7月には国民から貴族を排除しました。翌90年7月には聖職者市民法によって国民から教会とカトリック信者を排除し、同年11月27日には全聖職者に「国民と法と国王に忠実」であることを誓約させました。当然ながら、ローマ教皇ピウス6世はこの聖職者市民法に反対を表明しますから、フランスの教会は革命を支持して一体化するグループと教皇を支持して敬虔なるカトリックであり続けようとするグループに分裂することになります。実際にこの法に従って市民であることを誓約したのは聖職者議員の約3分の1に相当する100人超で、そのうち司教は2名だけでした。フランス全体では聖職者の約半数が宣誓を拒否しましたが、特に西部と北部に拒否する者が多かったと言われます。聖職者として教皇に忠実であることと、フランス国民として誠実であることと、二つは両立し得ません。苦悩の末に宣誓を拒否し、聖職者の立場を優先させた司祭に一般の信者はむしろ強い共感を持ったはずです。ところが宣誓拒否者は社会改革を阻害するとして、反革命の側に追いやられ、弾圧されてしまいます。こうして「聖職者市民法」は国民全体を革命派か、反革命派か、いずれかに二分し、対立させることになります。

 92年4月20日、対外戦争の敗北が決定的となりますが、その原因を客観的に分析するのではなく、裏切りや陰謀にあるとして、敵か味方かの二分法で全てを乗り切ろうとします。

 93年2月24日、国民公会は共和国軍強化のために30万人の徴兵を決議しますが、全国でこの徴兵を忌避する動きが表面化します。特に西部のヴァンデ地方では農民と織布工が白地に十字のマークをつけてカトリック王党軍に参加。共和派の拠点を襲撃するまでに激化しました。ところが国民公会はこの動きを旧制度社会再建をめざす特権貴族の陰謀としか見ないのです。徴兵反対には革命に賛成か反対かという理念論争とは全く次元の違う個人的・具体的な理由があるはずです。89年7月の時点では農民は革命に好意的でした。領主権や十分の一税の廃止を喜びましたが、翌90年の聖職者市民法以降、日常の激変を経験して革命(政府)に敵対するようになりました。ところが国民公会の議員は国民の一体化という信念に取りつかれていて、この農民の動向を理解できません。93年、革命は一部の農民に反革命のラベルを貼り付けて、国民から排除することになります。貴族、聖職者、農民、と、こうして革命は排除を繰り返していきます。政策に対する反乱や抵抗という行動は何らかの意味で地方の現実を反映しているはずで、革命か、反革命か、という二分法だけでは理解できるはずもありません。

(8)に続く

文学部 史学科 教授 金尾 健美






posted by 園遊会 at 13:48| Comment(0) | 明治維新150年

2019年09月16日

中世史家の見たフランス革命(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






4.革命の第2ステージ:王国の終焉、共和国の誕生とその防衛

 このようにフランス革命は錯綜した旧制度社会のしがらみを御破算にして、一度まっさらにして、改めて新しい原理に基づく社会を建設する一連の社会改革である、と近年では理解するようになりました。そのために革命は1789年7月のバスチーユ襲撃よりも、6月の国民議会発足に始まると考えた方が、その根本的性格を理解しやすいと思います。つまり革命は国王を倒すことが目的ではなかったのです。繰り返しになりますが、王は絶対権力を振るっていたわけではありません。旧制度社会の人々はそのことを十分に理解していたはずです。むしろ王様は大変だ、でも頑張れ、と応援する人が多かったのではないでしょうか。だからこそ、王の名で発布された封建的特権の廃止は誰もが受け入れましたし、王の変わり身の早さを揶揄する人もいなかったのだろうと思います。

 ところが、市民あるいは国民と王との間に修復不可能な亀裂が生じてしまいました。1791年6月21日、国王一家がパリを脱出し、フランス逃亡を企てたことが発覚しました。一家は東部国境近くのヴァレンヌで発見され、捕縛されたのでヴァレンヌ事件と言います。1789年以来、貴族は革命に加担するか、反対するか、はっきりと二つのグループに分かれました。これまで言及しませんでしたが、もちろん特権と土地を奪われたことに猛烈に反発した保守的貴族もたくさんいました。当然ですね。彼らはパリを脱出し、ライン川流域に滞在して、反革命の準備を着々と進めているという噂が何度となく流布しました。

ルイ16世妃マリー・アントワネットはオーストリア・ハプスブルク家の出身ですから、貴族たちがハプスブルクに援助を求め、ドイツ・オーストリア軍とともに革命を押し潰すために攻めてくる、という噂はいかにもありそうな話です。王一家は国民を見捨てて亡命貴族の下へ逃げて行った。噂は本当だった。王は反動貴族と外国軍を引き連れて侵攻してくるに違いない。裏切り者め! 王の行動は噂が真実であることを証明したと、多くの国民はそう考えたわけです。7月17日、国王廃位のための大衆請願大会が開催されましたが、その時パリ民衆とその整理に当たった国民衛兵が衝突して大混乱に陥り、死傷者が出ました。回り始めた歯車を止めるブレーキはありません。王は暴君で裏切り者だ。つまり否定すべき過去の旧制度社会と一体のもので、新しい社会に王の居場所はない、と。


 
 オーストリアはフランス国王一家の身を案じて、公然とフランス国内政治に干渉します。1792年4月20日、フランス・オーストリア間で戦争が始まりますが、緒戦でフランス軍は敗退を重ねます。フランス亡命貴族は数千名に達したとも言われていますから、歴戦の将軍たちのいない寄せ集めの急造軍隊など知れています。ところが国内の社会改革に、その法整備に忙殺されていた議会は次第に冷静さを失っていきます。フランス軍がこれほどまでに負け続けるのはおかしい。裏切り者がいるからに違いない、軍の機密情報が漏れているに違いない、と。

この92年初夏から、王妃を中心とする反動貴族たちによる「オーストリア委員会」なるものが存在し、それが外国勢力と共謀している。彼らを通じて情報が筒抜けになっている、という噂が、また噂ですが、声高に語られるようになりました。92年5月から6月にかけてパリの外国人を監視下に置く一方、2万名の地方国民衛兵軍を創設し、戦局の打開を図ります。ところが6月13日、王はこの国民衛兵創設の議決に拒否権を発動し、議会主導派の人事に介入。フイヤン(穏健派)登用を主張します。するとパリ民衆は6月20日、王の滞在するテュイルリー宮へ乱入しますが、王は譲歩しません。7月になると地方議会の代表とパリの48行政区のうち47代表が国王の廃位を公然と主張するようになります。8月10日、議会はついに王権停止を宣言し、9月22日、共和国樹立を宣言します。

旧制度の社会は王政であった。それに代わる新制度の社会は王政となじまない。相応しいのは王のいない社会であり、それは共和国である、と。こうしてフランスは歴史上はじめて王のいない社会、王なき政治体制を模索することになります。91年憲法が成立してから1年半、政局は大きく変わりました。



 この92年秋、国民公会と改称した議会は国王裁判を巡って紛糾します。91年憲法は「国王の身体は神聖で不可侵」と規定していますが、王の行動を国家に対する背信行為と見て、裁判に掛けることは適法なのか。前例のない事態を前にして、議会は法律論議に明け暮れることになります。延々と議論の続く中、突然、全く異なる観点から発言する議員が現れました。11月13日サン・ジュストは事実として王は市民・仲間ではなく、敵・叛徒として裁くべきであると言い始めます。12月3日、この発言を受けて、ロベスピエールは「王国と共和国は相容れない。王はフランス人民を叛徒つまり敵と見なした。王と人民の戦いで勝ったのは人民であり、人民の作る共和国だった。この戦いに敗北したことで、王ルイはすでに断罪されている。生き延びるべきは共和国であり、その阻害要因たる彼は死すべきである」と、筋が通っているような、そうでないような、明らかに結論が先にあって、後から理屈をこじつけた政治的発言をしました。

二人とも王ルイを市民として審理するのでなく、王という特別の存在ないし王政という制度そのものが犯罪的であると主張し、王国と共和国、王と市民は両立しえない、二者択一のものであると主張しました。もちろん王の弁護士たちは即座に反駁し、王は特別な存在といえども、91年憲法によって人権を保障されているのだから、憲法に従って適法的に審理すべし、さもなければ法治国家の原則を蔑ろにすることになると主張します。

結局1793年1月17日、国民公会721名のうち387名が無条件で、334名が条件付きで、王の処刑に賛成しました。この採決で反対を表明した議員はゼロでした。この結果を受けて、翌93年1月21日に王は処刑されました。王の死。王政の死。そして王政を支えてきた象徴システムの死。8世紀以来1000年以上にわたって王は単なる支配者ではなく、聖性をそなえたカリスマとして存在し続けたのですが、こうして王のいる社会は葬り去られました。もはや革命は後戻りできないところまでやって来たのです。



 共和国という新しい王のいない国家に、人々は帰属意識を持つことができるでしょうか。できるでしょうか、ではなく、できなければならない、それ以外にはない。個人を団結させ、国民の一体性を実現すること。過去を徹底的に否定して、共和国という制度を作り出した後、その新しい国家と社会に心から調和するような新しい人間を創出すること。つまり教育。これが革命の次なる課題でした。94年の春、新しい共和国のシンボルとして最高存在(理性)の祭典が開催され、共和国の国旗がはためく中、義勇軍の軍歌ラ・マルセイエーズが斉唱されることになりました(95年に国歌として制定)。

 古代地中海世界はともかく、中世ヨーロッパでは教育は教会や修道院で始まりました。教育は誕生した時から宗教色に染まっていましたから、大学でも最高の学問は神学でした。自然学も法学も、神学を学ぶための準備に過ぎません。この数百年にわたる学問体系を革命は根本から変えようとします。コンドルセの自由主義教育に触発されて、1792年8月、教会施設での教育を禁止し、ソルボンヌやアカデミーも廃止し、多様な公教育を構想します。93年7月にはルペルティエ案が議会を通過し、5歳から12歳の全男子に国家が管理する教育を施し、共和国に相応しい人間を育成しようとします。義務教育の先駆です。93年10月5日、16世紀以来のグレゴリウス暦を廃止して共和暦を制定します。同時に度量衡を一新し、地球の子午線の長さを利用するメートル法を採用し、広場・街路の名称をことごとく変更して聖人名を消去し、宗教色を一掃しました。

替わって、到る所に革命のシンボルを散りばめることを始めます。三色帽、自由の木、自由の女神、などなどを印章や貨幣に刻み込んでいくのですが、これらは自由、平等、人権など革命の抽象的理想や価値を可視化するもので、一般市民の教育(洗脳)手段になりました。現在でもフランスの役所には自由・平等・博愛の標語が玄関の目に付くところに掲げられています。ユーロが導入される前は、コインにもこの三語と女神が刻印されていました。日常生活の隅々に革命のシンボルを配し、日常を革命で染め上げ、日常生活を心の習性を変えていく学校にしようとしました。こうした精神文化の革命の中で、教会は揶揄と嘲笑の対象となっていきました。

93年11月10日、パリ・オペラ座の女優が自由と理性の女神に扮し、理性の祭典をノートル・ダム聖堂で挙行しています。反キリスト教運動が頂点に達したと言えましょう。教会は次々に閉鎖され、礼拝は禁止、聖具や銀器は没収・破壊され、司教冠を被せたロバを行列させ、国王や聖職者の人形を教会前広場で燃やすことまで行われました。どことなくカーニヴァルを思わせますね。しかもこうした騒ぎを行ったのは一般民衆だけでなく、聖職者も加わっていたことに注目したいと思います。2,000名を超える司祭が非キリスト教化の宣言・運動に加担したと言われています。聖職者も厳しい階級社会に生きていましたから、下級の聖職者は職禄も低く、困窮を強いられる人も少なくなかったことを付け加えておきましょう。

(7)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美





posted by 園遊会 at 13:27| Comment(0) | 明治維新150年

2019年08月26日

中世史家の見たフランス革命(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





3.革命の第1ステージ

 3-1)アンシャン・レジームの破壊

 6月17日に成立した国民議会は7月9日には憲法制定国民議会と名称を変え、新しい国制の議論を始めます。14日にバスチーユ襲撃事件があり、フランス革命を象徴する大事件として重視されてきましたが、その襲撃目的が自衛のための武器獲得にあったことが詳細にされるにつれ、政治史の一コマにすぎないと考えられるようになりました。もっとも7月14日が革命の記念日で、祝日であることは今も変わりません。真夏の夜空を背景に、エッフェル塔が無数の花火に彩られている様はなかなかの見物です。議会に話を戻しますが、憲法つまり国制の基本を定めるにあたっては、まず旧制度社会のしがらみを一掃しなければなりません。その最初の成果が8月4日の封建制廃止宣言であり、これが11日には法令として発布されました。領主裁判権、賦役など人的隷属を強いる権利と教会十分の一税は無条件で廃止。租税負担の平等、つまり免除特権を認めない。官職売買の撤廃と公職開放、など社会集団の結合と序列化によって構成される旧制度社会の解体を宣言し、法制化したものですが、皮肉なことに、この法令のおかげで、ルイ16世は「フランスの自由の再興者」として称讃されたのです。

 古い社会秩序を一掃する。新しい時代が到来する。この昂揚の中で来るべき新社会の原理を端的に表現したものが、8月26日の人権宣言全17条でした。その第1条はあまりにも有名な、人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である、という画期的な宣言文でした。第2条は自由、所有、安全、圧制への抵抗は不可侵の自然権であるとして、近代市民社会の根本原理は自然権から発していることを明らかにしています。第3条で主権は国民にあることを確認し、そして第4条で、改めて、自由とは他人を害しない限り、何事もなしうることであると、従来とは異なる「自由」の意味を明言します。人権宣言は旧制度を全面的に否定しているがゆえに、その死亡証明書であると理解され、さらに実現すべき新しい理念、つまり過去の社会は打倒すべきものであり、自由で平等な個人が構成する一体的な「国民」の国家を創出すべきであることを提示しています。

 フランス法務省のホーム・ページには現行法がすべて掲載されていますが、その劈頭を飾るのは人権宣言です。すでに200年以上の歳月が流れたわけですが、宣言は今なおフランス法体系の根本にあることを新しいメディアを通じて宣言していると言えるでしょう。



3-2)市民と国民の創出

 個々人は自由と平等を生得的に持つ、という人権宣言は素晴らしいものですが、その実現を保障するのは国家の仕事です。国家権力は個人を抑圧するためにあるのではなく、個人の快適な生存を保障するためにあるのです。したがって国家が各地に残る様々な特権(旧制度の自由)を廃止して、今風の言い方をすれば、一切をリセットして、王国のどこに生きる人もみな同じ権利を享受できることを保障することが必要になります。これが12月14日に発せられた「自治体に関する法」です。さらに12月22日には地方長官区、徴税区、地方総督区、など地方特権と結びついた旧来の行政区画をすべて廃止し、新たに県、地方、区と全国一律に三段階に単純化した行政区画を設置しました。

 こうして旧制度の解体は地方や地域(空間的広がりを持つ団体)に授与されていた特権を廃止することから始まりましたが、翌90年6月16日には世襲貴族が廃止され、7月12日には聖職者市民法が制定されました。どちらも旧制度の社会では十分すぎるほどの免除特権を享受した人々でしたが、この先、そのような特別の身分はない。市民になれと、宣言されたわけです。特権を持たないとは負担(国家運営のコスト)を分かち合うという意味です。90年11月から翌91年3月にかけて課税負担平等の原則に基づき、租税体系の再編がすすめられました。

 聖職者や貴族と同様に、商工業者も職種別の組合によって他者の参入から守られてきました。これも大切な特権ですが、自由の名の下に、全く違う世界に生きていた人が全く新しい発想で、モノづくりに関わりたいと思うかもしれません。91年3月2日のアラルド法は商業と工業の自由を保証して、「自由」は新社会では旧社会のそれとは違い、むしろ逆の意味であるとさえ言えることを明示します。6月14日のル・シャプリエ法は職能団体を廃止してしまいました。


 こうした一連の社会改革の法令を集大成したものが、91年9月3日に公布された91年憲法です。前文に改めて人権宣言17条を置き、本文は全7編210条からなる大部のものです。旧制度社会の社団編成を理念的に解体し、国民主権の原則を謳い、市民的結合に基づく国家を構想した革命の最初の成果と言えるでしょう。しかし国民主権の原則を明言しますが、一定の権力を保持する国王の存在を認めています。また1院制議会は能動市民(給金3日分相当の直接税を支払う25歳以上の男子)による制限選挙でしたから、国民の代表で構成されると言えるかどうか、疑問が残ります。

(6)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 12:28| Comment(0) | 明治維新150年

2019年08月10日

中世史家の見たフランス革命(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.社会の変容とその対応

 どのような社会でも、それが何百年にもわたって、どのような面から見ても変わらないということはあり得ません。先に述べた社会集団そのものも、諸集団の序列も、緩やかに変化を始めます。たとえば商人団体と言っても、各人の財産も違えば、活動の分野も規模も違い、したがって扱う金額も違うでしょう。進取の気性に富む若き貿易商と、小さな町の老いた小間物商とを比べようとしても、何をどうやって比較しましょうか。生活様式も、メンタリティも違うでしょう。違いばかり目について、仲間意識も持てないかもしれません。つまり内実が多様化していて、「商人」というカテゴリーで一括すること自体が無意味で非現実的に思えてきます。

 さらに従来の序列・身分秩序から逸脱する者が増加します。余所者(外国人)、貧民、放浪者、脱走兵などは集団に属すとも、外部の人間とも、どちらとも言い難く、境界線上に生きる人々と表現することになりましょう。このような帰属のはっきりしない人々の増加が、特に18世紀に入ると、目立つようになり、集団の境界線を曖昧にします。このこともまた社会の変化と流動化の指標となります。

 目線を上に向ければ、成り上がり者も目に付くようになります。モリエールの『町人貴族』という作品を御存知でしょうか。彼は17世紀の現実を巧みに風刺した沢山の喜劇を書き、自ら主役を演じました。1664年ヴェルサイユで初演された『タルチュフ』はルイ14世を笑わせたことで知られていますが、その後、教会に目を付けられて上演禁止となりました。ネッケルは1777年、ルイ16世の財務総監に抜擢され、国家財政の立て直しを託された大銀行家ですが、フランス人ではありません。ジュネーヴ生まれのスイス人で、しかもユグノーでした。それでもスザンヌ夫人は有名なサロンの主催者で、ヴォルテールを始め、多くの文人が出入りしましたし、彼らの一人娘スタール夫人はナポレオンには嫌われたようですが、ドイツ・ロマン主義をフランスに紹介した優れた作家として知られています。

 要するに旧制度の社会はセメントでカチカチに固めた水も漏らさぬ社会ではなかったということです。隙間もあれば、欠落もあり、逆にはみ出したり、いびつに歪んだり、という部分もあちこち目に付く代物だったということです。始まりはいつでも些細な事です。何時できたのか、小さなひび割れや疵が気が付かないうちに大きくなって深刻な事態を引き起こすようになっていきます。もはや放置できない、と、地方長官制を創設して、旧来の官僚制の不備を補ったり、公道警察(軍所属の憲兵隊)を整備して、公共空間の維持、つまり放浪、逸脱、無頼、そして騒乱の取り締まりを強化しますが、傾き始めた巨大な建築を修復するのは簡単ではありません。すると、いっそのこと、という議論を展開する人々が必ず現れます。

 1762年、ルソーは『社会契約論』を公刊して、国家は市民を基本単位とし、契約によって成立する政治的結合体であると論じました。旧制度社会の基本構成単位である諸集団をあっさり無視して、いきなり個々の「市民」と「国家」の関係を論じた驚愕すべき主張です。
 シェイエースは聖職者出身ですが、何と「人は特権によって自由なのではなく、すべての人間に属する権利によって自由である」と人権宣言を先取りするような言い方をしました。自由とは特権であるという旧制度社会の根本原理を否定したことになります。如何なる特権も持たぬ者がすなわち「市民」であり、そのような「市民」が「共通身分」を形成し、共通の法と共通の代表組織を持つ「国民」を構成する、と彼は主張しました。シェイエースはこのような主張を『第三身分とは何か』というパンフレットにまとめて、1789年に発表しました。ラディカル!「市民」も「国民」も言葉としては古くから存在しています。「市民」とは、先祖代々都市に居住する者という意味でしたし、「国民」とは同郷人というにすぎませんでした。シェイエースはこのような古くから使われていた言葉を全く新しい意味を持つ言葉に生まれ変わらせたのです。

 さらにここで注目すべきは、ルソーもシェイエースも、人が生得的に帰属する社会集団を問題にしているのではなく、自らの意志で、言わばゼロから作り上げていく集団を問題にしていますから、議論の出発点が個人だということです。二人とも旧制度社会の権力秩序、絶対王政の構造、その構成原理、こうしたものを根本的に否定していることになります。

 もちろん、こんな社会は壊してしまえ、という方向ではなく、根本は変えずになるべく細部の手直しで立て直す、という方向へ尽力した人々が多かったことは言うまでもありません。社会のひずみを修正するにはどうすればいいでしょう。先立つものはいつでもお金です。フランスに限らず、列強は国土拡大と植民地獲得の手段を戦争に頼り、莫大な資金を蕩尽しました。王妃の首飾りなど高が知れています。国家財政の危機を乗り越えるには財源の確保が最優先課題で、行き着く先は増税です。1749年には20分の1(5%)の付加価値税が導入されました。1776年には財務総監テュルゴの主導の下、改革6王令が発布され、宣誓ギルド、つまり仲間団体の廃止が盛り込まれました。競争原理の導入です。1787年には地方議会の創設が提案されました。王国を機械的に、画一的に分割して、効率的に徴税しようとする試みです。こうした一連の官僚主導で進められた改革は明らかに旧来の団体、職種別団体や地域共同体の特権(すなわち自由)を侵害するものでしたから、貴族だけでなく、あらゆる団体が猛反発しました。

1787年、88年には抜本的な税制改革を求めて、名士会が召集・開催されますが、議題はあまりに深刻・重要であるとして、すぐに解散し、89年5月に全国三部会が開催されました。1614年を最後に百年以上も開催されなかったこの身分制議会は、ご承知のように、開会早々投票方法を巡って紛糾し、6月には第三身分の議員が離脱、まさにシェイエースの主張にそって、「国民議会」なるものを立ち上げました。この「国民議会」という表現自体、身分を前提とする旧制度社会の構成原理を否定するものでしたから、旧制度社会の頂点に立つ王は、立場上、このような新たなコンセプトに基づく集会を認める訳には行かず、その設立を否定せざるを得ませんでした。



(5)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 13:56| Comment(0) | 明治維新150年

2019年07月14日

中世史家の見たフランス革命(1)−3

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1-3)職業集団の序列

 地上の世界は「祈る人」、「戦う人」、「働く人」という三つの社会集団から成り立っている、という考え方を御存知でしょうか。これは11世紀の初め、北フランスに生きたアダルベロという司教が述べたことで、その時代の社会思想・世界観です。

その当時は職業選択の自由などありませんから、生まれた時から人生は決まっていました。貴族に生まれれば、剣を手にして地上の悪と戦い、混乱を平定すればよい。さもなければ、学問を修めて神に祈りを捧げる者になればよい。農民に生まれれば、大地を耕し、人々の糧を生み出せばよい。三集団はそれぞれの生き方で神に仕えているのだから、誰が偉く、誰が卑しいということはない。神は地上に生きる人々にこのように命じ、秩序付けたのだ、と、司教は考えました。

つまり社会三機能論であって、三身分論ではなかったはずなのですが、この思想が広まるにつれ、いつの間にか三機能を担う三集団に序列が出来てしまいました。これが第一身分(聖職者)、第二身分(俗人貴族)、そして第三身分(市民)という身分制社会の起源になったことは理解いただけると思いますが、同時に第三身分の内実が微妙にずれていることにも気づかれたと思います。当初、「働く人」とは農民のことで、都市民つまり商工業者ではなかったのですが、どこかで言葉と現実がずれてしまいました。


 三つの社会集団の内、「働く人」が中世・近世を通じて多様化していったことは容易に理解できると思います。もちろん大多数は農民で穀物栽培と畜産・酪農に従事していましたが、地方によってはブドウ栽培と醸造業に特化していく生産者も現れました。職人や商人も細分化と多様化の一途をたどったことは御承知の通りです。

町で小さな小売店を営む者から、何艘もの大型帆船をチャーターしてアジアやアメリカとの交易を取り仕切る貿易商にいたるまで、規模も業種も様々です。賢い両替は他人から金銭を預かり、融資や投資をする銀行家になり、勘定の才を買われて、時には徴税を請負うようになります。

ローマ法を学んで、弁舌に人生を賭けようとする人も現れます。古代ギリシアの自然観と聖書の記述はどのように理解すれば矛盾せずに両立するか、と議論を戦わせていた人々は教会や修道院とは別に、大学やアカデミーを設立するようになりました。スコラ(閑)を持て余して愚にもつかぬことを真剣に考えている人も、学者という職業人と認められるようになったのです。


 このような職業の多様化は序列化には直結しないはずですが、扱う金銭の多寡、獲得した知識の多少、利用する技術水準の如何、あるいは権威・権力との親密さの度合い、何らかの判断基準が社会通念として序列を生み出してしまいます。しかも単に「立派な」職業と「如何わしい」仕事を区別するだけでなく、従事する人々の団体つまり職業別組合や信心会(特定の守護聖人の下で相互扶助と親睦を目的とする団体)にも序列を持ち込みます。

1691年の調査ではパリに133の職種別組合があったことが確認されます。その中で金銀細工師の組合や食肉業者の組合が乞食の組合よりも高い地位にあるのは当然だと思いますか。そうでしょうね、という気持ちと、割り切れません、という気持ちと半々でしょうか。


 このように旧制度の社会は機能的・職能的な面でも、言わば伝統となった価値観に基づいて序列化され、いわゆる「軽蔑の瀧」を形成していましたが、大切なことはその序列化されたものはやはり個々人ではなく団体ないし集団であり、序列されることで国家権力からその存在を認知されたということです。


 旧制度社会の説明を終えるにあたって、もうひとつ大切なことを付け加えておきましょう。序列化された二系統の社会団体は決して受け身の支配を蒙るだけの存在ではなかったということです。すでに説明したように、官僚や軍隊は、民衆に圧力かける装置という意味では、あまり有効とはいえませんでした。ですから税を強引に取り立てることは実はかなり難しかったと考えられます。村や町、教会や組合、多くの団体は、戦いに明け暮れて財政難に陥った王を助けて協力したことを記憶し、記録にとどめ、国王尚書局の印璽を受けました。そのような証書を交渉の場に持ち込んで、何らかの特権、多くは課税に関わる特権を享受しました。

王もまた様々なレベルの団体に個別に交渉して取引をしながら協力を仰ぐという姿勢をとり続けました。何度も繰り返しますが、旧制度の社会は個別対応です。決して絶対的な王権が民衆を画一的に抑圧した社会ではないのです。王は延々と過去の経緯を主張する様々な団体に耳を傾け、粘り強く個別に交渉することが必要だったのです。途中で切り上げて、交渉を決裂させても何のメリットもありません。王の側からすれば、一度限りのこととして免除を与えたつもりでも、それは先例となり、特権を得たと主張されることになります。旧制度の社会では、「特権」と「免除」と「自由」はほぼ同じ意味で使用されました。「免除特権の実績がある」という意味で、団体は「自由がある」と主張したのです。

(4)につづく

文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 13:35| Comment(0) | 明治維新150年

2019年06月24日

中世史家の見たフランス革命(1)−2

地域とともに活躍する川村学園女子大学






1-2)家族を包む空間秩序

 さて、それでは一般社会はどのような実情を抱えていたでしょう。

中世以来ずっと守られてきた絆、人生観(死生観)、価値観つまり生き方の伝統があります。人は家族の中で生まれ、洗礼を受け、司祭の説教を聴いて育ち、父母や兄弟姉妹と同じように働き、同世代の中からパートナーを見つけ、結婚し、子供を授かり、老い、そして死んでいきます。旧制度の社会では孤独は余程の変人か余所者で、普通は何らかの集団ないし共同体に属し、そのメンバーとして生き、死んでいきます。したがって旧制度社会の最小単位は家族であって、個人ではありません。まさにボダンが述べたように「家族こそ国家の基本要素」でした。そして家族を包み込む村や街があり、それが多くの人々にとって日常生活を営む空間、せいぜい夜明けに家を出て、夕暮れまでに帰ることができる範囲です。もちろんこうした生活空間を越える世界があるわけですが、それは二重で、下層世界は地域、上層のより広い世界は地方と呼んで区別することにします。

地域は200を越える局地慣習法に対応する空間ですが、その上に広がる地方はそれぞれ自然環境と方言や習俗が違い、さらに一般慣習法がそれぞれ歴然と異なる文化的一体性を持つ広がりで、ノルマンディ、ブルターニュ、ブルゴーニュなど、フランスでは58を数えると言われています。あのマトリョーシカ人形のように、人々の生きる世界は何層にも包まれていますが、さて、それでは一番外側の世界は何でしょう。現代なら、地球とか宇宙とかになるかもしれませんが、17〜18世紀の旧制度社会では、それが「くに」つまり国家であり、その頂点に王が君臨すると考えます。

 もっとも王国というのも、王の統治権が及ぶ空間の寄せ集めという程度の代物で、王は決して連続した地理空間全域を隅々まで支配していたわけではありません。イメージとしては、虫食いだらけ、隙間だらけ、飛び地だらけの広がりです。

 旧制度社会はこのように人々を何層にも包んで、いわば自然発生的な多層伝統社会を作り上げていました。この自然なまとまりと広がりを巧みに行政制度に対応させて、少し硬い言い回しになりますが、上意下達の秩序として再編したものが同時代のフランス国家であると考えることができます。王の個人的魅力や権威ではなく、王の法的権限に基づいて、王国を司法面では17高等法院管区に、軍事面では39地方総督区に、租税面では34徴税区に分割しました。これらが王国を構成するのですが、この3通りの分割方法は互いに何の関係もありません。ある高等法院管区を2分割して地方総督区を作るとか、どれかが基本で他は派生したとか、そのようにそれぞれが何らかの関係を持つわけではないのです。その結果、たとえばA司法管区にはP地域とQ地域が属しているが、地方総督区の区分けではP地域とQ地域は所属先が別々になる。あるいは、X徴税区はR地域の大半を担当するが、南端のごく一部分は飛び地のようにY徴税区の担当になる、といった事態が頻繁に起こります。過去の様々な経緯の結果なのですが、だからこそ、面倒だから、不合理だからという理由では簡単には変えられないのです。しかも徴税区が違えば、納税期限が違うのはむしろ当然でしたから、予算編成は困難を極めました。

 高等法院とは上級裁判所のことで、パリをはじめとして全国の主要14都市にありました。パリ高等法院はもっとも古く、設立は14世紀に遡ります。以来、この司法組織は重要な権限を持ち続けてきました。王令はこの司法機関に登録されなければ、発効しません。紙屑です。しかも各管轄区域は重複しませんから、王令はすべての高等法院に登録されなければ、王国全土で施行される法令にはならないのです。高等法院はこの権限を死守します。王権に対抗して、その暴走を阻止することができるからです。逆に王権はこれを嫌って、何としても無効にしようとします。この権限を盾にとって、高等法院が王権を制限する限り、絶対王政はありえません。

ルイ14世の治世初期、1648年に始まるフロンドの乱は高等法院の「反乱」と表現されることがありますが、要するにこの権限を巡る二つの権力の激突です。高等法院は、古い血筋を誇る保守的な貴族や地方の伝統を守り、その利害を代弁する立場から、パリの王権に対立することもありました。これは一例ですが、行政機構の中でも特に重要な司法機関でさえ、このように必ずしも王権の意のままに行動したわけではなく、それぞれがそれぞれの立場と伝統を大切にしていたということを理解して頂きたいと思います。つまり歴史上存在した絶対主義とは権力者が思うがままに支配する、何でもできる、という意味ではありませんでした。そのような絶対的な強権は少なくともフランスには存在しませんでした。

 行政機構の末端に位置して、人々の日常生活空間に対応する行政区画は教区です。つまり教会組織を利用して、教区司祭を末端行政官としていることになります。教区は17世紀末には約36,000を数え、1教区には大体100戸前後の世帯が含まれていました。教区民の誕生(洗礼)や死亡(終油)を教区簿冊に記録することは司祭の重要な仕事ですが、それだけでなく、新たな王令が発布されれば、日曜のミサの後に読み上げる。これもまた司祭の大切な仕事でした。

 さてフランス旧制度社会が秩序付けられた多重化空間であることを説明してきましたが、もう一つの側面にも言及しなければなりません。

(3)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美




posted by 園遊会 at 14:37| Comment(0) | 明治維新150年

2019年06月06日

中世史家の見たフランス革命(1)−1

地域とともに活躍する川村学園女子大学






はじめに
 フランス革命はふつう1789年から99年までの10年間の激動を言いますが、皆さんはこの革命をどのように理解しているでしょうか。

「絶対的権力を持つ国王が優秀な軍隊と官僚制を駆使して民衆を弾圧していた。耐え切れなくなった貧しき民衆が立ち上がり、暴君をギロチンに掛け、自由と平等を謳歌する新しい社会を建設した。フランス革命は近代の幕開けを宣言した人類史上に燦然と輝く大事件である」と、おそらく皆さんの理解はこのようなものかと思います。

しかしフランス革命200年記念祭が行われた1989年前後、今から30年ほど前のことですが、この頃からフランス革命の理解は大きく変わりました。いったい革命は何を破壊し、何を建設したのか。この問いに答えるために、革命以前の社会、いわゆる旧制度(アンシャン・レジーム)の社会はどのような社会であったのか、それを見直すことから始めたいと思います。


1.アンシャン・レジームの社会

1-1)官僚と軍隊
 まず旧制度社会の官僚と軍隊について注目してみましょう。いずれも絶対君主の手足となって民衆を抑圧したと言われてきたのですが、本当でしょうか。

ブルボン朝が始まった16世紀末には約46,000人の官僚がいました。当時のフランス人口は1,700万から1,800万と言われていますから、国民400人足らずに役人が1人いたという割合になります。これだけの役人が隅々まで目を光らせ、水も漏らさぬ監視体制・警察国家を生み出したのでしょうか。

現実はそのようなイメージとは大分違うようです。役人には二つのタイプがありました。ひとつは保有官僚と言って、売官を公認されていました。国家試験を受けて公務員になるのではなく、ちょうど株や国債を買うように、相場の値段で役職を買うのです。配当の替わりに様々な役得がありました。お金さえあれば、誰でも買えます。したがって、このタイプの職は売買、譲渡、相続の対象となり、家産の一部と見なされました。役人が多かったのは人々が欲しがったから、つまり旺盛な需要に刺激されたからではないでしょうか。ともかく国家公認ですから、後には売買は課税対象となり、徴収された税は財源不足を補うようになりました。

もう一方のタイプは直轄官僚と言って、これは期限付きで、きちんと給料が支給されます。私たちが普通に役人と言った時に思い浮かべるイメージは当然こちらになりますが、実は数の上ではこのタイプは非常に少なく、大多数は第1のタイプ、財産と見なされる役職を保持するタイプの役人でした。

地方長官は各地の国王役人を管理監督することが仕事で、直轄官僚です。全国で30余名いましたが、このポストは多くの場合、宮内審理官(一般からの様々な陳情を仕分けして適切な担当者に通知する職務)の経験者から選出されました。しかし宮内審理官は代表的な売官ポストですから、直轄官僚になる近道はこのポストを購入することでした。

 国務卿とは大臣に相当し、国務、外務、陸軍、海軍の4名で構成された王国最高のポストです。これは売官ポストではないのですが、就任するためには多額の権利金を前任者に支払うことが慣例となっていました。1669年コルベールは財務総監(大蔵大臣)と国務卿に同時に就任しますが、この時、前任者ゲネゴーに70万リーヴルを支払ったと言われます。この金額は現代の日本であれば、おそらく億単位の金額になると思われます。これが旧制度社会の現実でした。

 軍隊はどうだったのでしょう。将校は売官ポストですから、多くは見栄っ張りの若い貴族で、地道に軍事訓練を重ねるよりは女性にもてることだけを考えているような連中です。一般兵士の多くは外国人の傭兵でしたから、給金は頂戴するが、なるべく怪我をしないように、という連中でした。これが軍隊の内実ですから、閲兵式が終われば、即座に兵員数が半減してしまうような代物でした。だからこそ革命が勃発すると、あっという間に国軍は壊滅状態に陥ってしまったのです。イメージが違いますか。


(2)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 14:43| Comment(0) | 明治維新150年

2019年05月16日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




2.3 社会批判の機能を隠し持つ翻案---ワイルド『悲劇革命婦人』(1911年)


オスカー・ワイルドのVera, or the Nihilists’は1881年に発表された戯曲である。
主人公ヴェラがロシア皇帝暗殺を企てるものの、身分を隠して民衆の中に潜んでいた当の皇帝と恋仲になり、自身の皇帝暗殺という任務と皇帝への愛との間で苦悩する、という筋書きだ。

ワイルドが劇場での戯曲デビューをもくろんだこの戯曲は、実は研究の対象になることが少ない。
ワイルド戯曲集というタイトルで出版される単行本に収録されることも少なく、ワイルド全集の一部として、ようやく掲載されるほどの低い位置づけだ。

相当にマイナーなこの作品を、明治44年(1911年)に内田魯庵が東京朝日新聞紙上で翻訳翻案、連載した。そして、大評判となったのである。講談調にすることで翻案の体裁をとりつつの翻訳で、テンポよく展開するメロドラマ、という印象を与える魯庵の文章からは、原文の無味乾燥な未熟な文体は、まったくと言っていいほどうかがえない。


Plead to Czar! Foolish boy, it is only those who are sentenced to death that ever see our Czar. Besides, what should he care for a voice that pleads for mercy? The cry of a strong nation in its agony has not moved that heart of stone.
(“Vera, or the Nihilists”, p.691)


何ですと、皇帝陛下に哀訴する?貴下も余程なお馬鹿さんだ。皇帝に哀訴したものは皆死刑に處せられて殺されるばかり。第一彼が貴下の哀訴に何で耳を傾けよう。全露西亜国民の呻吟嗚咽にすら平気になってる石のような心持が如何して動かせよう。
(「悲劇革命婦人、p.206」)


英文と異なり、魯庵の文章は読者の情に訴えかけ、畳みかけてくる勢いが感じられる。

魯庵がこの“Vera, or the Nihilists”を選んだのには、実は理由があった。少し長くなるが、ワイルド側の事情から説明する。

1881年にワイルド自身が演出家として上演が決まっていたこの戯曲だが、上演直前に中止の憂き目にあっている。以後、イギリスにおいてこの戯曲が上演された記録はない。上演中止の理由は、当時のイギリス王室からの圧力とする説が有力だ。

1881年前後の社会情勢を確認しよう。
1881年3月にロシアのアレクサンドル2世がアナーキストに暗殺されているが、彼の後を継いで皇位についたアレクサンドル3世の妻と、イギリスのアレクサンドラ皇太子妃は姉妹関係にあった。そのため、妃の心情に配慮して中止の圧力をかけた、という説が有力だ。そして、暗殺といえば、同年7月にアメリカ大統領ガーフィールドの暗殺未遂事件が起きている。大統領は2か月間の闘病をへて9月に亡くなるが、ワイルドが“Vera”の上演を試みた12月という時期は、いまだガーフィールド大統領死去の打撃が大きく残っていた時期と言えよう。    ”Vera”と暗殺は、切っても切れない関係にあるということだ。

魯庵が狙ったのも、この点だ。「悲劇革命婦人」の筋書きは"Vera"とほぼ同じである。だが、この作品を発表した時期に、意義がある。1910年、幸徳秋水首謀といわれる、社会主義者による大逆事件ののち、ジャーナリズムおよび文学作品への検閲が極めて厳しくなった。大逆事件による幸徳秋水らの処刑は一方的で、文化人らの間では同情する論調が強かったことが、日記や随筆からうかがえる。

この状況下で、「皇帝暗殺」をテーマにした「悲劇革命婦人」を堂々と連載した魯庵の意義は明白であり、丸善の木村毅もどきどきしながら新聞連載を読んだ、と回想している。

文体を講談調に変換することで、近松的なメロドラマの様相であることを強調し、検閲を逃れる、という手法だったとも推測できる。つまり、明治政府に対する異議申し立てを、講談調の翻案、というベールをかけた翻訳物で実行に移した、という解釈が可能になってくるのだ。覚悟を決めた翻案、翻訳の傑作と言ってもよいだろう。


3. まとめ

翻訳、翻案というメディアは、近代化し始めたばかりの明治期の日本にとっては、欧米列強の社会制度や文化を知るためのツールであったことは容易に理解できる。だが、この翻訳、翻案を巧みに用いて、自らの主義主張・社会批判の機能を併せ持つ、複雑な装置にまで仕上げていったのは、明治時代の文筆家たちの新時代へかける情熱のなせる業だったのではないだろうか。


参考文献
Burnett, Frances Hodgson. Little Lord Fauntleroy. 1886, Oxford University Press, 1993
Holland, Merlin. ed. Collins Complete Works of Oscar Wilde. HarperCollins, 2003
Smiles, Samuel. Self-Help. 1866 [1859], Oxford University Press, 2002
川戸道昭、榊原貴教編 『明治翻訳文学全集≪新聞雑誌編≫10 ワイルド集』大空社、
1996年
スマイルズ、サミュエル 『西国立志編』 中村正直訳、講談社、2013年(1981)
バアネット 『小公子』 若松賤子訳、岩波書店、2017年(1927、1939)
**************************
鴻巣友季子 『明治大正 翻訳ワンダーランド』新潮社、2005年
高橋修 『明治の翻訳ディスクール---坪内逍遥・森田思軒・若松賤子』ひつじ書房、
2015年
松沢裕作 『生きずらい明治社会 不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018


文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子





posted by 園遊会 at 10:10| Comment(0) | 明治維新150年

2019年04月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.2 欧米文化を理解するための翻訳---バーネット『小公子』(1897年)

イギリス生まれだがアメリカに渡って活躍した女性作家、F. H.バーネットのLittle Lord Fauntleroy (1886)は、雑誌で発表されるや否や、アメリカ、イギリスで人気を博した子ども文学の名作である。主人公セドリックがその言動を通じて、「アメリカ」と「イギリス」の架け橋となり、英米の融和を象徴的に描いたとされるこの作品では、清く、正しく、美しい主人公、セドリックが理想の子どもとして際立った存在感を示している。セドリックの端正な服装も物語の重要なカギとなっており、大きな意味を持つ。

バーネット版の特徴は、「天使のような子ども」を意図的に提示していることにある。これはロマン主義の子ども観(=無垢なこども、こどもの神性を強調)の影響を受けた一般読者をターゲット層として想定しているための戦略と考えられるが、この「天使のような子ども」が英米の読者の圧倒的な支持を得た。セドリックの服装も流行し、かわいらしい挿絵で描かれた、濃い色のビロードの服に大きなレースの襟のついた“Fauntleroy suit”は、この時期の子ども服の一つの特徴をなしている。

このLittle Lord Fauntleroyを明治20年に『小公子』と題して雑誌『女学雑誌』上で翻訳し始めたのが、若松賤子である。その滑らかな口語調の翻訳は自然で読みやすく、「翻訳王」森田思軒も「言文一致の極致」として絶賛しているほどだ。若松は、「天使のような美しい子ども」を翻訳においても再現する。以下に原文と邦訳文を併記する。

[Mr Havisham] recognized in an instant that here was one of the finest and handsomest little fellows he had ever seen. His beauty was something unusual. He had a strong, lithe, graceful little body and a manly little face; he held his childish head up, and carried himself with quite a brave little air; he was so like his father that it was really startling; he had his father’s golden hair and his mother’s brown eyes, but there was nothing sorrowful or timid in them. They were innocently fearless eyes; he looked as if he had never feared or doubted anything in his life. ‘He is the best-bred-looking and handsomest little fellow I ever saw,’ was what Mr Havisham thought. what he said aloud was simply, ‘And so this is little Lord Fauntleroy.’ (Little Lord Fauntleroy, pp.24-25)

さて、かくまで非常にハ氏の心を動かしたものは、一種反動的の感情でした、一見して其童児が嘗て見たことのないほど秀逸ものと分かった時、起ったので、殊に容色の美いことは非常の者でした。。其体つきの屈強で撓やかな處、幼顔の雄々しき處、頭をしゃんと擡げて、進退する動作の勇ましき處等の一々亡父に似て居ることは、実に不思議な程でした。髪は黄金色で父にに、眼は母の茶勝な處にそっくりでしたが、其眼付には、悲しそうな處も、臆せ気味な處もなく、只あどけない中に、毅然とした處のあるは、一生涯、なににも怖ぢたことなく、疑ったこともないという気配でした。ハ氏は、心の中に、是は又大した上品で、立派な童児だと思いましたが、口に出しては、極くたんぱくに、『左様ならば、これがフォントルロイ殿で御座るか。』といいました。
(『小公子』p.36)

若松は、英文で絶賛されているセドリックの様子を、当時としては自然な話し言葉で訳出しており、「言文一致の極み」とされる名調子である。

だが、翻訳が難しい箇所については、いさぎよく削って訳す、という大胆さも併せ持っていた。

‘Dearest,’ said Cedric (his papa had called her that always, and so the little boy had learned to say it) ‘dearest, is my papa better?’
He felt her arms tremble, and so he turned his curly head, and looked in her face. There was something in it that made him feel that he was going to cry.
(Little Lord Fauntleroy, p.6)

「かあさま、とうさまは、もう、よくなって?」
と、セドリックが云ひましたら、つかまったおっかさんの腕が、顛へましたから、ちゞれ髪の頭を挙げて、おっかさんのお顔を見ると、何だか、泣きたい様な心持がして来ました。 (『小公子』p.6)

原文の‘Dearest’とは、セドリックが母に対して使う呼称で、「最愛の人」という意味だ。父親が母親をそう呼んでいたことから自分のそのように呼び始めた、と上記の引用文で説明されているのだが、翻訳ではばっさりとカットされている。「細君」「愚妻」などという呼び方が一般的だった明治期において、この‘Dearest’は訳しても読者に意味が通じないと考えてのことだったと推測される。

英米文化にあこがれを抱かせ、それを理解するツールとして機能していたであろう『小公子』だが、読者の理解を超えてしまう箇所は削除するという、実は偏りのある翻訳になっている点は注目に値する。翻訳『小公子』は、制限つきの文化理解を提示した一例と言えよう。

(5)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子





posted by 園遊会 at 11:27| Comment(0) | 明治維新150年

2019年03月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.1 明治時代の自己啓発本---スマイルズの『西国立志編』(1871年)

サミュエル・スマイルズによるSelf-Helpは1859年、イギリスで初版が出版されるとたちまち売り切れる人気を博す。著者スマイルズはスコットランドの医者から一転、カリスマ的指導者となった。自己啓発本の元祖である。

スマイルズのSelf-Helpの特徴は二点あり、まず、自己学習の重要性を強調した点、そして、努力すれば「紳士」にもなれるかもしれない、と思わせた点である。がんばれば報われる、というスマイルズの言説は現代版紙媒体の表紙にも受け継がれ、オックスフォード大学出版、ケンブリッジ大学出版のSelf-Helpの表紙には、いずれも自ら努力することの重要性をあらわす図版が使用されている。


自己学習の重要性について、British Libraryは以下のように説明している。


[Smiles] proposes knowledge as one of the highest human enjoyments and education as somewhat erratic road along which knowledge is acquired.

(www.bl.uk/collection-items/self-help-by-samuel-smiles)


つまり、スマイルズによると、知識とは人間にとって最高の楽しみのひとつであるものの、教育は知識を修得する際に迷走を伴うものでもある、ということになろう。そして、もう一点の、努力すれば「紳士」になれるかもしれない、というくだりについては次のように解説する。


One of Smiles’ most striking claims at the time was that even the poor could be gentlemen: ‘Riches and rank have no necessary connexion with genuine gentlemanly qualities’, which he describes as being ‘diligent self-culture, self-discipline and self-control --- and above all […] that honest and upright performance of individual duty which is the glory of manly character’.

(同上、下線部小泉)


下線部を中心に訳出すると、「貧乏な人間でも「紳士」になることができるが、「紳士」に必要な性質とは勤勉さと自己鍛錬、自己修養、自制心である」と述べていることがわかる。明白な階級制度が存在するイギリスにおいては、たとえ、労働者階級の人間が事業に成功して成り上がり、中産階級以上の資産を所有することができたとしても、内面が伴っていなければ所詮は労働者階級どまりで中産階級の仲間入りは果たせない、というのが通例だ。しかし、スマイルズのSelf-Helpの登場によって、そうした人物でも、努力すれば紳士階級の仲間入りができるかもしれない、と希望が持てるようになった、その意義ははかりしれない。この、努力すれば、夢はかなう、という言説は明治初期の日本においてもひろく受け入れられることとなった。

明治4年(1871年)、中村正直による訳出でSelf-Help (1866[1859])は『西国立志編』として出版され、人気を博した。この『西国立志編』は、1866年に出版された増補版を原典としているが、初版と同様、「自学」「勤勉」「向上心」の必要性を説き、「自助の精神」を提唱する内容で、「天はみずから助くる者を助く」という有名なフレーズもこの『西国立志編』第一編の第一文に由来する。たとえるならば、自己啓発本の元祖と言えよう。

自立し、人に頼り切らないことが重要、とのメッセージを持つ『西国立志編』だが、財源不足でインフラ整備もままならない明治政府にとっては、大変都合のよい内容だったことだろう。

松沢裕作が『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』において、「明治政府は、クーデターによって成立した、人びとから信頼されていない政権だったので、高い税金をとることができず、政府の財政を通じて、豊かな人から貧しい人へ富を再分配するような力をもちようがなかった」(pp.69-70)と述べているように、国民ひとりひとりが努力する必要性を感じざるを得なかったのだ。


明治時代のバイブルとも言われた、翻訳版の『西国立志編』では、原文とはレイアウトを変えて十八、十九世紀の偉人たちについてそれぞれ項目を分けて説明しているが、そのなかでも自助の精神が特に顕著な項目は以下の通りとなる。「忍耐力こそ成功の源泉」「勤勉な努力と忍耐が成功を導く」「いかにしてチャンスをつかむか」「意志の力の重要性」「勤勉な仕事ぶり=人格形成に貢献」「自学による立身出世」「「真の君子」たるべし」である。この項目の中から二つ、「忍耐力こそ成功の源泉」と「「真の君子」たるべし」の翻訳を分析したい。


まず、「忍耐力こそ成功の源泉」である。原文と翻訳を併記する。


All nations have been made what they are by the thinking and the working of many generations of men. Patient and persevering labourers in all ranks and conditions of life, cultivators of the soil and explorers of the mine, inventors and discoverers, manufacturers, mechanics and artisans, poets, philosophers, and politicians, all have contributed towards the grand result, one generation building upon another’s labours, and carrying them forward to still higher stages.

(Self-Help, pp.19-20)


およそ諸邦国、今日の景象に至るものは、みな幾世幾代を経て、諸人あるいは心思を労し、あるいは肢体を苦しめて、成就せしものなり。忍耐恒久の心をもって、職事(仕事)を勉強する人、尊卑貴賤の別なく、(土地を耕墾する人、鉱山を検尋する人、新器新術を発明する人、工匠の人、品物を製造する人、詩人、理学者、政学家)これらの人、古より今に至るまで、しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり。 (『西国立志編』p.63)


原文では “contributed towards the grand result”, “to still higher stages”とある箇所が、「しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり」と変わってはいるものの、「一人一人の努力が大きな結果につなげがる」というニュアンスは少しだが読み取れよう。

だが、「「真の君子」たるべし」になると、‘gentleman’の翻訳が難しくなってくる。‘Even the common soldiers proved themselves gentlemen under their trials.’ (Self-Help, p.331)という英文が、中村の訳では、「尋常の兵卒といえども、患難の際に臨んでは、化して温柔の君子となるなり。」(『西国立志編』p.537)と変わってしまう。中産階級以上に所属し、マナーおよび礼節を兼ね備えた男性(ただし貴族ではない)、という意味を持つ‘gentleman’を「紳士」という単語で置き換えることが一般化したのは、少し時代が下ってからのことである。

『広辞苑』によれば、「紳士」という言葉は明治20年〜22年に発表された二葉亭四迷の『浮雲』の一節からとあり、「「搢紳の士」の意」と説明される。中村が訳出した際には、まだこの用例はなかったため、「紳士」ではなく「君子」を使ったと考えるのが妥当だろう。階級制度を内包する‘gentleman’を、「君子」という階級を超えた言葉で言い換えた翻訳者中村正直のセンスには、驚かされる。


最後に、『西国立志編』が翻訳された意義についてまとめると、新時代「明治」における日本人の「向上心」に合致した、ということがまず、言える。欧米列強に追いつけ追い越せ、の精神に合致したわけだ。そして、すべての人民の自助と努力が国の繁栄に貢献するというメッセージからは、明治政府にとって都合の良い国民の創生が促され、同時に、努力は裏切らないことを知るべしというメッセージからは、当時の国民にとってまさに必要不可欠なパラダイムが提供されたことになる。翻訳『西国立志編』は、国民の自己肯定感の向上を図るための、うってつけの装置だったと言えよう

(4)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子




posted by 園遊会 at 11:28| Comment(0) | 明治維新150年

2019年02月24日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に (2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




1.2 明治時代の名(迷)翻訳

英語圏以外の翻訳作品を含めると、明治時代にはそうそうたる面々が並ぶ。明治21年(1888年)には二葉亭四迷によるツルゲーネフの『あひびき』『めぐりあひ』が、明治25年(1892年)には内田魯庵によるドストエフスキーの『罪と罰』(未完)、同時期には森鴎外によるアンデルセンの『即興詩人』も翻訳が始まっている。

また、前後するが、明治23年(1890年)には若松賤子によるバーネットの『小公子』の連載が始まり、これが大人気を博して25年1月まで続く。明治29年には坪内逍遥によるシェイクスピアの『ハムレット』が世に出る。(補足だが、シェイクスピアの翻訳で名高い逍遥が全訳を表舞台に出すのは明治40年代以降となる。)
さらに、「翻訳王」森田思軒、「翻案王」黒岩涙香らジャーナリズム出身の翻訳者が大活躍したのも、明治20年代である。

「翻訳王」森田思軒の主な仕事は、ヴィクトル・ユゴーの『探偵ユーベル』(明治22年)を筆頭として、ジュール・ヴェルヌの『鉄世界』『十五少年』(十五少年漂流記)、エドガー・アラン・ポオの『間一髪』(陥穽と振り子)など、有名どころ満載だ。「郵便報知新聞」に所属しその編集に携わったジャーナリストであると同時に、翻訳の仕事もこなしていたこの思軒について、前述の鴻巣友季子は次のように述べている。

思軒の場合は英文書以外はすべて英語からの重訳だったが、漢文の素養をいかした「漢七欧三」と呼ばれる原文に忠実な訳で、日本の翻訳にひとつの大きな流れをつくった。当時はまだ翻訳といっても、大胆な翻案や乱暴な抄訳が多く、「乱訳・豪傑訳の時代」と称されていたのだけれど、思軒の周密な、現代の翻訳に近い「直訳」は、文字どおり当時の翻訳の文体に大変革をもたらしたのだ。
(鴻巣友季子,『明治大正 翻訳ワンダーランド』p.19)

森田思軒の名は現代人にはあまり知られていないが、我々が翻訳作品を楽しみ理解する、という翻訳文化の基礎をつくったのは、ほかならぬ森田思軒だったということになる。知らないうちに、我々もその恩恵に与っている「翻訳王」なのだ。

一方、「翻案王」と称された黒岩涙香も、『萬朝報』を発行したジャーナリストという素地を持つ。明治25年に名高い『鉄仮面』を翻案して世に出したのち、明治34年には、デュマによる『巌窟王』(『モンテ・クリスト伯』)、明治35年にはユゴーの『噫無情』(『レ・ミゼラブル』)を翻案している。

デュ・フォルチェネ・ボアゴベによる『鉄仮面』(原題は『サン・マール氏の二羽のツグミ』)は、涙香の翻案によって日本で絶大なる人気を博したといっても過言ではない。ボアゴベの原作は「ルイ14世治下のフランスにいた、鉄仮面をかぶせられた謎の囚人」というモチーフを使った歴史小説で、デュマやユゴーにも同じ題材をあつかった作品がある。だが、涙香の『鉄仮面』では原作からかけ離れたストーリーが展開し、そもそも原作には存在しない場面も多くある。そして、原作に存在しなかった場面、展開こそ、明治の読者を捉えて離さない魅力があった。鴻巣友季子は涙香の『鉄仮面』についてこう述べる。

「翻訳者」にとって、筋立てのこうした改竄は必然のものであり、あのハッピーエンドこそが正史だったのだろうか……。

現代の翻訳界ではとうてい考えられない(著作権法からいっても許可されない)荒業だが、この手直しのおかげで、『鉄仮面』がこの国で多くの読者をつかみ、その結果、末永く読みつがれるようになった(百年あまりを経て新訳が出るほどに)のもたしかだろう。 (鴻巣,『翻訳ワンダーランド』,p.57)

読者を楽しませる、エンターテインメントとしての翻案だったことは確かである。また、「当時の新聞は掲載する小説・読み物の人気・不人気で売り上げ部数が激変した」(鴻巣, p.58)ことは現代と大きく事情が異なっている。涙香は『鉄仮面』を自身の発行した『萬朝報』で連載していたが、この連載後、『萬朝報』の売り上げは激増した。

明治時代に登場した、新聞という新しいメディアを得て、涙香は自由自在に活躍した。当時の新聞は、リアルタイムで自身の信条を(形式は変わるが)訴えることのできる媒体だったと言えよう。「荒業」と称される黒岩涙香の仕事だが、大勢の読者に自分の仕事を読んでもらうことで自分の信じるところを知ってもらう、という目的があった。だからこそ、おもしろくなければ読んでもらえない、という立場をとったのだ。

いずれにせよ、「翻訳王」の森田思軒と「翻案王」の黒岩涙香の二人が、それぞれジャーナリストであったことは注目に値する。明治における翻訳、翻案とはすなわち、読者という一般大衆と密接に関わる新しいメディア=新聞を活動の舞台として世に出たと言えるからだ。次章では、まず、明治初期に広く読まれた自己啓発本の翻訳と、この新しいメディア=新聞で、そしてもう一つの新しいメディアである雑誌でそれぞれ翻訳、翻案された作品について分析する。

(3)につづく


文学部 国際英語学科 準教授 小泉 朝子





posted by 園遊会 at 10:45| Comment(0) | 明治維新150年

2019年01月21日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に

地域とともに活躍する川村学園女子大学




1.概説:明治時代の翻訳・翻案

1.1 明治時代の翻訳とその土壌

鴻巣友季子の『明治大正 翻訳ワンダーランド』によると、明治時代の翻訳作品には、かなりの「力技」が見られるという。明治の読者を興奮させ感動させたエピソードが、実は原作には存在しない、翻訳者による完全創作エピソードだった、ということも多かった。

 こうした事態が生じたのはいくつか要因がある。ひとつには、明治期の日本が西洋諸国の文化を吸収し始めた、いわば西洋化の初期にあったということ、そして、もうひとつは、英語という言語が明治期の翻訳者にどれほど理解されていたかというと、必ずしも肯定的な答えを返せない、微妙な問題だったという点だ。

現代人は明治期の英語理解度を常に考慮せねばならない。1853年のペリー来航、そして1854年の日米和親条約締結により、維新前から英語への理解は進んではいたものの、本格的な英和辞典が編纂、出版されたのは、1862年の『英和対訳袖珍辞書』を待たねばならない。

これ以降、『改正増補英和対訳袖珍辞書』が1866年に出版、さらに版を重ねて1867年、1869年と増刷されていく。この英和辞書は、オランダ語系の辞典を介した、英欄辞典に依拠して編纂されたものだ。オランダ語の影響を受けずに、英英辞典を参考に編纂された英和辞書は、1873年(明治6年)の『附音挿図英和字彙』となる。

 森田思軒、黒岩涙香、若松賤子、内田魯庵ら、翻訳・翻案の第一人者が登場したのは、おおむね明治20年代英和辞書が誕生してたった数十年後という、英和創成期であったことは驚異と言えよう。そして、上記の翻訳者らの手によって、数多くの大ヒット小説が生まれ、大衆読者の人気を得た。つまり、当時の読者層において、翻訳小説という装置を用いて欧米列強の社会や文化を学び、それを自らの身体に取り込んでいく、という一連の流れが確立されていったのは明治時代だったということになる。




(2)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子




posted by 園遊会 at 19:48| Comment(0) | 明治維新150年

2018年09月13日

光源氏の行方をたどって(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





4.『狭衣物語』と「光源氏」(2)〜光源氏は生きていた〜

 さて、『狭衣物語』における「光源氏」は、すべて、主人公である狭衣が、自分と重ね合わせる場面に登場してきました。では、狭衣というキャラクターは、「『源氏物語』の愛読者」という設定だと考えればいいのでしょうか。

 実は、そうではないのです。いよいよ光源氏の行方をとどってみましょう!

 巻4に、狭衣が蹴鞠を楽しむ場面があります。この部分を見てみましょう。

【本文】
宰相中将を、大将殿、強ひてすすめたまへれば、「若々しきわざかな」とはすまへども、げに、人よりはをかしうなまめかしきさまかたちにて、数もこよなく多くあがるを、大将殿などは、いみじう興じたまうて、「ややもせば、下りたちぬべき心地こそすれ。などて、今しばし若うてあらざりけん」とのたまへば、御簾の中の人々、「まめ人の大将は、おはせずや侍りける」「さらばしも、花の散るも惜しからじ」など、口々、いと立てたてまつらまほしげなるけはひどもなり。「そのいたう屈じたる名ざしこそ、よそへつべかめれど、こよなう見くらべたまはんが、妬ければ」とて、うち笑みたまへる愛敬、花の匂ひよりもこよなうこそ勝りたまへれ。

 花のいたう散りかかるを見たまひて、「桃李先散りて、後なるは深し」と忍びやかに口ずさみたまひて、高欄にをしかかりたまへるまみ・けしき・御声などは、かの「桜を避きて」とて、花の下にやすらひたまへりし御さまを、その折は見しかど、この御ありさま、また類なげにて、何事の折節も見ゆる。



【訳】
宰相中将を、大将殿(=狭衣)は、蹴鞠に出るよう強いておすすめになったので、「若い人のやることでしょう」とはこばんだが、なるほど、他の人よりはすぐれて美しい容姿で、毬の回数もたいそう多く上がるのを、大将殿などは、とても面白がって、「ややもすれば、庭におりたってしまいそうな気持ちがするよ。どうして、もう少し若くなかったのかな」とおっしゃるので、御簾のなかの女房たちは、「『まめ人の大将』は、いなかったでしょうか」「だとすれば桜の散るのも惜しくないでしょう」なとど、口々に、蹴鞠に加わりに立ってほしそうな様子を見せている。狭衣は、「そのぱっとしないアダ名は、ぴったりだろうと思うけれど、彼と見比べられるのも、嫌だからね」といって微笑んでいらっしゃる愛敬は、桜の美しさよりたいそうまさっていらっしゃる。

桜がひどく散りかかっているのをごらんになって、「桃李がまず散り、後になるのは深い」とそっと口ずさみなさって、高欄に寄りかかっておいでの目元、様子、お声などは、かの「桜を避きて」と言って、桜の下で休んでおいでだった様子を、その時は見たが、いまのこのご様子は、また比類ないもので、何かにつけても見えるのだ。



 この場面で狭衣は、「ややもすれば、庭におりたってしまいそうな気持ちがするよ。どうして、もう少し若くなかったのかな」と蹴鞠を傍観することにします。実は、『源氏物語』の若菜上巻に蹴鞠の場面があるのですが、そこで光源氏は夕霧や柏木といった若者たちに向かって、「かばかりの齢にては、あやしく見過ごす、口惜しくおぼえしわざなり(私もお前たちぐらいの歳のときでは、見ているだけで済ませるのを、残念に思っていたものだよ)」と言って蹴鞠への参加を促しています。狭衣の言葉は、明らかにこの光源氏のセリフを意識したものでしょう。

 狭衣は、自分と光源氏を心のなかで重ね合わせるだけでなく、光源氏を意識した発言もしているのです! それに対して、周囲の女房たちは、「『まめ人の大将』は、いなかったでしょうか」と言います。「まめ人の大将」とは、光源氏の息子である夕霧のことです。光源氏であるかのような発言をした狭衣にたいして、女房たちは、夕霧のように蹴鞠に参加してくださいと促すわけです。


 
さて、問題はその次です。ここでの狭衣の様子は、「かの『桜を避きて』と言て、桜の下で休んでおいでだった様子」と比較されています。この、「『桜を避きて』と言って、桜の下で休んで」いたのは、『源氏物語』若菜上巻の柏木です。それを、語り手は、「その折は見しかど(=その時は見たが)」と言っているのです!

この物語の語り手は、柏木を「見た」のです。これはつまり、『源氏物語』という別の物語のなかの出来事が、『狭衣物語』にとっては「過去に実際にあった出来事」になっているということになります!
ということは、狭衣が何度も自分を重ね合わせ、意識した「光源氏」は、「フィクションのなかのキャラクター」なのではなく、「過去に実在した人物」ということになります。光源氏は、『狭衣物語』のなかで生きていたのです。


おわりに

 『狭衣物語』のなかで、「光源氏」は、主人公である狭衣が自分と重ね合わせようとしている人物でした。狭衣は心の中で重ね合わせるだけでなく、意識した発言もしていました。一見すると狭衣は『源氏物語』の愛読者であるかのように見えます。

でも、そうではないのです。見てきたように、『狭衣物語』において「光源氏」は、「過去に実在した人物」になっているのです。
 
 狭衣にとって光源氏は、そうなりたいという憧れの実在人物≠ネのでしょう。ただし、この蹴鞠の場面をよく読むと、狭衣の周囲の人たちは、狭衣を夕霧や柏木と比べています。ということは、狭衣というのは、「光源氏になりたくてもなれない主人公」ともいえますね。

では、逆に、「光源氏」とは何でしょう。

彼は、「『源氏物語』という物語の時間・空間を飛び越え、『狭衣物語』の主人公にあこがれを与えるとともに、決して超えることを許さない主人公」といえるのではないでしょうか。
でもそれは、『狭衣物語』が仕掛けたものです。光源氏は、『狭衣物語』の力によって君臨させられているのです。




文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子





 
posted by 園遊会 at 15:01| Comment(0) | 知の旅人

2018年08月20日

光源氏の行方をたどって(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学







3.『狭衣物語』と「光源氏」(1)〜自分を重ね合わせるキャラクター〜

 そんな『狭衣物語』ですが、次のように始まります。
(なお、本文の引用は小学館の新編日本古典文学全集を用います。『狭衣物語』は現存している諸本の本文異同がとても多くなっています。そのため、身近に手に取ることができるものでも、今回引用する小学館の全集の本文と、新潮社の日本古典集成の本文では、かなりの違いがあります)

【本文】

少年の春惜しめども留らぬものなりければ、三月も半ば過ぎぬ。御前の木立、何となく青みわたれる中に、中島の藤は、松にとのみ思ひ顔に咲きかかりて、山ほととぎす待ち顔なり。池の汀の八重山吹は、井手のわたりにやと見えたり。光源氏、身もなげつべし、とのたまひけんも、かくやなど、独り見たまふも飽かねば、侍童の小さきして、一房づつ折らせたまひて、源氏の宮の御方へ持て参りたまへれば、御前に中納言、少、中将などいふ人々、絵描き彩りなどせさせて、宮は御手習せさせたまひて、添ひ臥してぞおはしける。


【訳】
少年時代のような春は惜しんでも止まってくれないものだから、三月も半ばが過ぎてしまった。お庭の先の木立が、何となく青々としてくる中に、池の中島の藤は、松にだけまとわりつくものだと思っているような顔をして咲きかかっていて、山ほととぎすを待っている顔だ。池の水際の八重山吹は、山吹の名所である井手のあたりかと思うほどに見える。「光源氏が『身も投げつべし』とおっしゃったのも、こんなふうだったのかな」と、独りでご覧になるのももの足りないので、お仕えしている童で小さい子を使って、藤と山吹を一房ずつ折らせなさって、源氏の宮のお部屋へ持参なさると、源氏の宮の前では中納言、少将、中将、などという女房たちに、絵を描き色塗りなどさせて、宮はお習字をなさって、ものに寄りかかっていらっしゃる。



このように、冒頭から「光源氏」が登場するのです! ここでは、狭衣が庭を眺めながら、「光源氏が『身も投げつべし』とおっしゃったのも、こんなふうだったのかな」と思っています。つまり『狭衣物語』は、主人公が、光源氏に思いをはせるところから始まっているのです!


それから、巻2です。巻1のヒロインであった飛鳥井女君は海に身を投げてしまいました。狭衣は、道成から形見の扇を手に入れます。この扇は、狭衣が道成への餞別に贈ったものだったのですが、飛鳥井女君はこれを見て道成が狭衣の家来であることに気づき、絶望して死を選んでしまったのでした。この扇を狭衣が見るのが、次の場面です。

【本文】

この扇は見知りたりけるなめり、あはれ、いかばかり思ひけんと思しやらるる涙の水脈になりぬべし。
唐泊底の藻屑も流れしを瀬々の岩間もたづねてしがな
かひなくとも、なほかの跡を見るわざもがなと思せども、心にまかせぬありさまなれば、いかがは。光源氏の須磨の浦にしほたれわびたまひけんさへぞ、うらやましうぞ思されける。

【訳】
この扇は私のものだと見知っていたに違いない。可哀想に、どれほどの思いだっただろうと、思いをはせる涙が海流のようになってしまいそうなほどだ。
唐泊の水底の藻屑となって流れていったのを、浅瀬の岩間もたずねていきたい
甲斐がなくても、やはりその入水してしまった後の白波を見る手立てがほしいとお思いになるが、心のまま自由にできる身ではないので、どうしようもない。光源氏が須磨の浦で涙にくれてわび住まいをなさっていたことさえも、うらやましく思われるのだった。



 またもや「光源氏」と、はっきりと名前が出ています。光源氏には須磨に流謫するというエピソードがありますが、狭衣は飛鳥井女君の入水した地に行きたくても気軽に行ける身ではないので、「光源氏が須磨の浦で涙にくれてわび住まいをなさっていたことさえも、うらやましく思われる」わけです。冒頭と同じように、やはり光源氏に思いをはせて、自分を重ね合わせていますね。


 そして、物語の最終盤にも「光源氏」は出てきます。巻4で狭衣は飛鳥井女君の遺品の絵日記を受け取ります。それは、次のような場面です。

【本文】

ありつる唐櫃を引き寄せさせたまひて、「これや、昔の跡ならん。見れば悲しとや、光源氏ののたまはせたるものを」とはのたまはすれど、御覧ずるに、自ら描き集めたまへりける絵どもなりけり。

【訳】
置いてあった唐櫃を引き寄せなさって、「これが、あの人の筆跡なのだろうか。『見れば悲しい』と、光源氏がおっしゃっていたものを」などとおっしゃるが、ご覧になると、飛鳥井女君自身が描き集めておいでだった絵の数々なのであった。



ここでも、やはり光源氏に思いをはせているのです。ちなみに、「『見れば悲しい』と、光源氏がおっしゃっていた」場面は、『源氏物語』の幻巻のことでしょう。光源氏が亡き紫の上の手紙を処分しようとする場面です。ただ、そこで光源氏が詠む和歌は、「かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ」と、「見れば悲し」ではなく「見るもかひなし(=見ても甲斐がない)」なのです。『狭衣物語』のミス、と考えることもできますが、あくまで狭衣のセリフの中ですし、もしかしたら意図的に変えたのかもしれません。
幻巻の光源氏はもう最晩年。自らも出家に向かって身辺の整理をしていくなかで紫の上の手紙を見て、「見るもかひなし」と燃やしてしまいます。しかし、同じ物語の終盤とはいえ狭衣はまだ20代後半の青年です。光源氏とは対照的に、「見れば悲し」と言いながらも絵を見て、やがてすき返して経典にします。光源氏を引用するからこそ、その違いが明確に浮かびあがる表現と言えるかもしれません。



ともかく、物語の冒頭から最終盤にいたるまで、狭衣は3度にわたって光源氏に思いをはせ、自分と重ね合わせているのです。

(4)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子






posted by 園遊会 at 14:05| Comment(0) | 知の旅人

2018年06月28日

光源氏の行方をたどって(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





光源氏の行方をたどって(2)

2.禖子内親王の文化圏と『狭衣物語』



禖子内親王は25回にも及ぶ歌合を開催していますが、なかでも注目されるのが、天喜3年(1055)5月3日の物語歌合です。なんと、女房たち18人(『栄花物語』では20人とされていますが)がそれぞれ物語を新作してきて、それに関する和歌で歌合を行ったのです。物語を作れる女性が18人(もしかしたら20人)も周辺にいたということになります。この時期の文化の凄さが分かりますね……! 

もちろん、『狭衣物語』の作者とされる宣旨も、この物語歌合に参加しています(その時に出したとされる『玉藻に遊ぶ権大納言』という物語は、残念ながら現存していません)。


さて、前置きが長くなりました。今回話題にする『狭衣物語』はそういった文化のなかで書かれた作品です。

和歌が大好き、物語が大好き、といった人たちのなかで生まれてきたのです。『狭衣物語』は、作中に和歌や他の物語を引用した表現が非常に多いのですが、背景を知っていると納得できますね。

そんな『狭衣物語』に……光源氏がいるのです。

 光源氏の行方をたどる前に、『狭衣物語』について少し説明しておきましょう。
この物語は全4巻。兄妹同然に育った従妹である「源氏の宮」という女性への片思いに苦しむ主人公の物語です。この主人公は、物語のタイトルの由来でもある「いろいろに重ねては着じ人知れず思ひそめてし夜の狭衣」という和歌を詠んでいるので、「狭衣」とか「狭衣大将」などと呼ばれています。

 この物語は全4巻と言いましたが、4巻それぞれに新しいヒロインが登場するとともに、源氏の宮はメインヒロインのような形でずっと登場するという構成になっています。


【図2】


図1chino.jpg




巻1に登場する飛鳥井女君は、狭衣と交際することになりますが、狭衣の家来である道成に略奪され(道成は飛鳥井女君が狭衣の恋人だと知らなかったのです!)、自ら死を選びます。

巻2に登場する女二宮は、帝の皇女で、狭衣との結婚が打診されていました。しかし、狭衣はふとしたきっかけで彼女と密かに関係を結び、女二宮は妊娠してしまいます。女二宮の周囲は、腹の子の相手が誰か知らなかったために諸々の偽装工作をすることになり、女二宮の母親は心労がたたって死んでしまい、女二宮本人も出家してしまいます。

巻3に登場する一品宮は、飛鳥井女君の遺児である姫君を引き取っていました。狭衣は娘に会いたくて一品宮の邸に忍び込んでいたところを見つかってしまい、一品宮との関係が噂になって結婚することになってしまいます。もとより望まぬ結婚なので、夫婦生活が円満にいくわけがありません。

こうした悲劇続きの展開なのですが、巻4に登場する宰相中将の妹君は、源氏の宮に生き写しの女性で、狭衣は彼女を引き取って妻にすることで、一応の充足を得ることになります。その後、天照大御神のお告げがあって狭衣は天皇になるのですが、最後まで源氏の宮や女二宮への未練は消えない、という筋です。


(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子




posted by 園遊会 at 13:04| Comment(0) | 知の旅人

2018年05月28日

光源氏の行方をたどって(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学


光源氏の行方をたどって(1)

はじめに

「光源氏」とは、平安時代中期に成立した長編物語『源氏物語』の主人公です。フィクションの世界、それも、『源氏物語』というひとつの物語の世界のなかで生きている存在……の、はずなのですが。
実は、平安時代後期の成立である『狭衣物語』のなかにも、彼は存在しているのです。
一体どういうことなのか、光源氏の行方をたどってみましょう!

1.平安時代後期の物語

『源氏物語』を書いたとされる紫式部は、一条天皇の中宮である彰子に仕えていました。彰子は藤原道長の娘。この道長がパトロンとなって文化活動を支えていたわけです。また、紫式部と並んで有名な清少納言は、一条天皇の皇后である定子に仕え、『枕草子』を書きました(ちなみに定子の父親は、道長の兄である道隆です)。

今回話題にする『狭衣物語』が書かれたのは、これより少し後の時代です。

彰子が生んだ一条天皇の皇子は、後一条天皇・後朱雀天皇として次々と即位しました。後朱雀天皇には彰子の妹である嬉子が入内し、後冷泉天皇が生まれます。

この後冷泉天皇の時代、永承(1046〜1053)・天喜(1053〜1058)年間は、歌合の黄金期とも呼ばれ、文化活動が非常に盛んな時期でした。特に多く歌合を開催したのは、後朱雀天皇の皇女である祐子内親王・禖子内親王の姉妹と、後冷泉天皇の皇后である寛子です。寛子は、藤原頼通(道長の息子)の娘です。
祐子内親王・禖子内親王の姉妹ですが……系図をご覧ください。

【図1】


図1chino.jpg




 母親は嫄子女王。彼女は敦康親王の娘です。敦康親王というのは、清少納言が仕えたあの定子の生んだ皇子です。こうして系図がつながるのは面白いですよね。

それで、嫄子女王なのですが、彼女は母親が頼通の妻の妹という縁があり、頼通の養女となっていました。そのため、祐子内親王・禖子内親王も、頼通のもとで育ちました。

つまり、この歌合の黄金期を築いた女性たちを支えていたのは藤原頼通なのです。

紫式部が彰子に仕えていたように、彼女たちにも優秀な女房たちが使えていました。祐子内親王に仕えていた女房には、菅原孝標の娘がいます。彼女は『更級日記』の筆者であり、平安後期物語の代表作である『夜の寝覚』『浜松中納言物語』の作者ではないかと言われています。

そして、禖子内親王に仕えていたのが、今回話題にする『狭衣物語』の作者とされる宣旨(源頼国の娘)です。

『源氏物語』が書かれたころを「藤原道長の時代」というならば、平安後期物語が書かれたころというのは、その息子である「藤原頼通の時代」ということになりますね。


(2)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子





posted by 園遊会 at 12:19| Comment(0) | 知の旅人

2018年04月09日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





 

(4)労働力の簒奪・400年続いた拉致

1.鉱山技師だった奴隷たち

 16世紀末まで繁栄を誇っていたサブサハラ・アフリカは2度滅びた。400年に及ぶ奴隷狩りで社会と経済が滅び、19世紀後半の植民地化で国が滅びた。古来アフリカにあった奴隷は敗戦国の民や罪人であったが、商家に買われた奴隷は「賢い奴隷は主人の財産を引き継ぐ」とのアフリカの諺にある通り、主人の娘さんの婿になり、また王宮に入った奴隷は近衛部隊を構成したり、王位継承権に発言権を有したりしていた。今日でもモロッコ国王の曾祖母は黒人奴隷であり、そのことはむしろアフリカとの結びつきとして誇りにされている。すなわち、人間を人間として扱わない奴隷はヨーロッパの産物である。

 このような奴隷狩りを始めたのはポルトガル人である。ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを攻略し、イスラム帝国が支配するアフリカ大陸を次第に南下して行き、1444年にはセネガル北部からリスボンに最初の奴隷が連れてこられた。ポルトガルは西アフリカ沿岸の南下を続け、それにつれて本国に送る奴隷は増え続けた。

 現在のアンゴラの首都ルアンダに要塞を築いたポルトガルはここを本格的な奴隷の積出拠点とし、次々とコンゴ王国(今日のアンゴラおよびコンゴ)の人々を拉致していった。ブラジルに向かう大西洋上では鎖に繋がれたまま船倉にびっしりと並べられ、その不潔で過酷な状況で命を落とす人が多かったが、船旅を生き延びた人たちがブラジルに着いてみるとそこには何もなく、食糧生産から始めなければならない状態であった。コンゴ王国からは平民、貴族ひいては王族に至るまで奴隷として連れ去られ、多くのインテリや技能者を含んでいた。彼らがブラジルに到着して気が付いたのは、大地がアフリカと同じ赤土、テラ・ロッサ(赤土)だということで、それならば鉄があるに違いないと考えた。こうして奴隷たちが鉄鉱石を探し出して鉄を打ち、自分たちで農機具を作っていったのである。他方、奴隷の「所有者」であったポルトガル人には、そのような鉱業に関する知識や能力はなかった。

 この奴隷たちの熱帯農業及び鉱業の知識が白人の主人たちよりすぐれているとの実態は、ナイジェリアからガーナにかけての海岸線(「奴隷海岸」)からオランダ人やイギリス人などによって連れ去られたアフリカ人たちについても記録されている。カリブ海や新大陸における過酷な労働で熱帯農業と特に鉱業に秀でた奴隷たちが次々と死んでいく中、新たな奴隷を補給する需要がますます高まり、奴隷の価格は高騰していき、1771年には「黄金海岸」で働いていた英国の奴隷買い付け代理人からロンドンの役員宛に支払いを金(きん)で行わなければ奴隷を入手できないとの報告が記録されている。



2.ヨーロッパの繁栄をもたらした奴隷たち

 いったい何人の人が連れ去られたかについては、正確な記録が一部にしかないため推計によるが、1000万人から1200万人、研究者によっては3000万人との指摘もある。

記録に基づく人数をいくつか例示すれば、
@ルアンダで奴隷の積み込みに携わっていたイエズス会のキリスト教宣教師たちがつけていた正確な記録を見ると、ルアンダからだけでも1468年から1641年の間に138万9千人が新大陸に「船積み」された。

A国王フェリペ1世(スペイン王フェリペ2世がフェリペ1世としてポルトガル王を兼ねていた)への報告によれば、アンゴラからブラジルに1575年から1591年の間に52,023人の奴隷が送られた。

Bポルトガルが抑えていたアンゴラとモザンビークを併せると、1580年から1680年の100年の間に約百万人、すなわち年平均1万人が連れ去られた。

奴隷は、北はセネガル川河口から南は今日のアンゴラの南端におよぶ5000キロにも及ぶ地域、さらに東海岸のモザンビークなどアフリカ各地から集められたので、これらの数字は氷山の一角でしかない 。

 スペインは 、1492年にイベリア半島最後のイスラム王国グラナダを陥落させ、また同年コロンブスがアメリカを「発見」した。こうして、新大陸で鉱山とプランテーションに手を付け始めたが、「インディアン」達は鉱山技術を持たず、スペイン人による過酷な使役によって絶滅寸前に追い込まれた。スペインが「発見」した当時、イスパニョラ島には113万人のインディアンがいたが、1518年には1万1千人以下となったと当時のスペイン人が記述している。その代替労働力として1505年にセビリアの船が新大陸に向けて17人のアフリカ人を鉱山設備と共に船積みした。1510年には王室がアフリカ人のアメリカ行きを公認、その6年後にはスペイン領のカリブ海諸島で奴隷が栽培した砂糖の最初の出荷がスペインに届いた。さらに2年後の1518年には、アフリカのギニア湾からスペイン領アメリカに向けて、アフリカ人奴隷を積んだスペイン船が直航するようになった。
 
 ポルトガルに始まり、スペイン、オランダ、デンマークなどに続いて海洋進出して帝国を築いたイギリスは、奴隷貿易で大いに繁栄することとなった。特に奴隷貿易の拠点港となったリヴァプールとブリストルは一気に富を蓄積していった。例えば、リヴァプール港では1783年から1793年の11年間で約900回の奴隷船の航海がおこなわれて30万人以上の奴隷を運搬、その価格は1500万ポンドに上り、そのうち純益は1200万ポンド以上、すなわち毎年100万ポンド以上の儲けをもたらした。

 ブリストルについて1881年に歴史家J.F.Nichollsは次のように記述した。
「ブリストルには奴隷の血で固められていない煉瓦は一つもない。豪華な館や贅沢な生活は、ブリストルの商人が売買した奴隷の苦しみとうめき声で出来ている。」  歴史上の偉人もその元をたどれば奴隷で富を蓄積した例もある。例えば英国史上有名な首相となったグラッドストンの父親ジョン・グラッドストンは奴隷船と奴隷のプランテーションで富を築いた。また、英領北米植民地の反乱の首謀者(イギリスの見方)ないしアメリカ建国の英雄(アメリカの見方)であるジョージ・ワシントンは500人の奴隷の所有者であった。



3.奴隷貿易の泥沼化とヨーロッパ人による正当化

 では、なぜアフリカからかくも大勢の人たちが奴隷として拉致され続けたのか。それは奴隷を鉄砲の代金としてヨーロッパ人が要求したことによる。当初、ポルトガル商人たちは、コンゴ王国内の部族長などに下剋上をささやきつつ鉄砲を欲しければ奴隷で支払えと強要した。ある村ないし部族がこのような方法で鉄砲を入手するということは、近隣の村ないし部族にとっては自分たちが襲われて奴隷に売られるという大きなリスクを意味する。そのため後者も鉄砲と火薬を入手しようとしてポルトガル人商人に接触する。ポルトガル商人は金や象牙では鉄砲を売らずに、ブラジルの開拓やプランテーションに必要な奴隷を持って来させる。この悪循環はその後アフリカに進出していったオランダ、イギリス、デンマーク、ブランデンブルグ(プロイセン)ほかのヨーロッパ諸国にも引き継がれていき、売り手と買い手双方の事情から、アフリカ人による近隣の王国からの奴隷の拉致とヨーロッパ人による奴隷を対価とする銃の売り込みは一つのシステムとして確立し、その悪循環の上に400年にわたって奴隷貿易が続いていった。

 こうして4世紀にわたる奴隷狩りと奴隷貿易で大西洋の対岸にたどり着いたアフリカ人は1000万人ないし1200万人に上ると推計されているが、住んでいた村から拉致されてから海岸線のヨーロッパの侵略拠点で船に積み込まれるまで、さらに大西洋の航海中に死亡したアフリカ人は何百万人にも上った 。

 航海の途中に死亡したアフリカ人たちはそのまま海に捨てられたが、「積み荷」が劣化する、すなわちカリブやアメリカにつく時点で奴隷が病気になっていると売りさばけないために、病気になると生きたまま海に捨てられた例もある。「奴隷」の法的位置づけについて、例えば1781年のゾング号(ZONG)事件として知られる裁判において次の実例がある。「人間」を海に捨てたのかどうかについて、裁判長のマンスフィールド卿は、「奴隷たちの案件は、馬が船外に放り込まれた案件と同じである。」と宣言した。また、同裁判の荷主側弁護人は、「人間が船から放り投げられたとの話はいったい何だ?これはモノ(goods)の案件である。これはモノの投棄の案件である。彼らはモノであり財産である。」

 ヨーロッパ人は、奴隷は人間ではなく動産であるとの法的位置づけを行い、そのため売買も自由、なればこそ奴隷商人たちは自分の持ち物であることを示すために家畜にするのと同様、赤く熱した鉄ごてを奴隷に押し付けて烙印をつけた。また、多くの奴隷市では最も残酷なことに意を用いた。すなわち、同じ部族、同じ家族を一緒に買わないようにしたのであった。それは奴隷たちが相互にコミュニケーションをして反乱などを目論まないようにするためであり、結果としてきちんと学ぶ機会もないまま所有者の言語を見よう見まねで話さざるを得なくなった。ヨーロッパ人たちは拉致したアフリカ人から人間が人間たるゆえんである言語を奪ったばかりか、所有者の言語をきちんと話せないことをもってさらに見下したのである。



4.奴隷貿易とはアフリカからの労働力の喪失だった

 アフリカ側から見ると、本来彼らの祖国における労働力として農業、金、銅などの採掘、あるいは交易などの経済活動を担うべき健康かつ屈強な若者たちが、少なくとも1000万人、推計によっては3000万人 、すっぽり抜け落ちたことを意味する。すなわち、セネガルからアンゴラに至る沿岸地方の奴隷を狩られた地域においては、労働力がなくなってしまったがゆえに経済活動が停滞してしまった。体に例えれば、いつまでも出血が止まらない状態が四百年続いたからである。これこそがアフリカにおける奴隷狩りの最大の経済的インパクトである。

 イギリスに巨大な富をもたらした三角貿易を担った貿易船の例を見ると、その三辺のいずれにおいても積み荷は満杯であった。ロンドン、ブリストルないしリヴァプールを出港する時には銃、火薬、繊維製品、ビーズ、ろうそく、砂糖、タバコ、酒などの商品を満載してアフリカに向かい、アフリカで奴隷と交換する。アフリカからカリブ海向けの航海は奴隷で満杯となり、ジャマイカなどで砂糖、香料、ラム酒、タバコ、コーヒーなどと交換される。カリブからイギリスへの帰路はこれらの商品を満載し、イギリスで売りさばく。

 こうして確立していったイギリスーアフリカーカリブ・アメリカの三角貿易システムは、アフリカの産業にも負のインパクトを与えていくこととなった。すなわち、イギリスで産業革命が起きると、イギリスからアフリカ向けの積み荷は機械生産による綿布や金属製品となり、これが現地製の綿製品や古来の日用の鉄製品を駆逐していった。かつて16世紀には、ポルトガルが西アフリカ産の綿布をヨーロッパに輸出していたが、三角貿易の中で流れが逆転した。こうして奴隷貿易ネットワークに組み込まれたアフリカ沿岸諸王国における家内繊維産業が近代産業に転化する芽を摘んでいった 。

元来、アフリカの繊維産業は決して侮るべきものではない。例えば、内陸に位置していたことが幸いして三角貿易の埒外にあったカノ(現北部ナイジェリアの町)は中世以来綿製品と藍染めで有名であり、19世紀半ばにカノに滞在したドイツ人ハインリッヒ・バルト は、カノにはセネガルからチャド湖に至る西スーダン地方の綿製品需要を賄うに十分な綿産業と呼べる水準に達している家内産業の隆盛があったと記録している 。しかしこれも砲撃による植民地化で衰退の道をたどった。



5.なぜ奴隷制の禁止ではなく奴隷貿易の禁止だったのか

 15世紀にアフリカからの奴隷狩りが始まってから4世紀後の後、1807年にイギリスで奴隷貿易が廃止され、1833年にイギリス本国と大英帝国領内での奴隷制が議会によって廃止された。なぜ奴隷貿易が廃止されてから奴隷制の廃止までさらに26年、言わば一世代を要したのか。逆に言えば、なぜ奴隷制ではなく、奴隷貿易を廃止したのか。

 それは、奴隷貿易が成立しなくなったからである。その一つの理由は、ジャマイカの砂糖産業がキューバやアメリカの大プランテーションの前に競争力を失い、キングストンの奴隷市で奴隷を買う人がいなくなっていった。すなわちアフリカから奴隷をキングストンに運ぶ経済的メリットが消滅したのである。二つ目の理由は、産業革命によってイギリスの経済構造が大きく変わり、富の源泉が植民地の大プランテーションから国内の製造業依存に移行していったからである。労働集約性が極めて高い大規模プランテーションに富を依存している限り、その労働力を大量かつ不断に供給する必要があった。すなわち、過酷な労働条件のもと奴隷が次々と死ぬのでアフリカから大勢の人を拉致し続ける必要があったが、国内の製造業に富の源泉が移ったことによって、労働力確保の関心はアフリカからの奴隷ではなく、エンクロージャーで農村を追われて都会に流れ込んだイギリス人労働者達に向いたのである。

(出典:石川薫、小浜裕久著、「『未解』のアフリカ」、勁草書房、より抜粋)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




posted by 園遊会 at 11:10| Comment(0) | 知の旅人

2018年03月03日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






3.「普通の」大陸だったアフリカ

(1)「普通の」大陸だったアフリカ

 アフリカの王国がヨーロッパに大使館を開設し、国王は自由にポルトガル語を話して書簡を書き、上流階級の子弟はヨーロッパに留学し、カトリックの司祭にも叙せられた。これはおとぎ話ではなく、16世紀のコンゴ王国のことである。

 英国が支援した明治維新以降ヨーロッパ史観で教育された私達が忘れがちな非欧米世界の歴史。アフリカで人類が生まれたことは知っていても、ヨーロッパ人が自分の発明だと言っている多くの概念、例えば正義を量る天秤(今日あまねく裁判所のロゴとなっている)、死後の審判と復活などが6000年以上前から文明を誇ったエジプト人が考えだしたとは知らない人が多い。エジプトの学問では、厳格な租税制度と検地のために発達した幾何学(6000年前の数学の教科書がパピルスに記されて現存する。当時の円の面積計算を当てはめると円周率はおおむね3.15となり、「ゆとり教育」で日本が教えたとされる3よりはるかに正確)、解剖や外科手術など枚挙に暇がない。

 キリスト教はヨーロッパの宗教だと思い込んでいる向きも多いが、それは使徒ペトロの建てたヴァチカン史観によるもの。世界で最初にキリスト教を国教にしたのは3世紀のアルメニアであり、次はエチオピアに系譜をつなげるアクスム王国。イスラムは非寛容というヨーロッパ人の主張に反して、イスラム世界では魔女狩りも異端裁判も火あぶりもなかったし、イスラム支配下のイベリア半島ではキリスト教徒もユダヤ教徒も2級市民ではなかった。「異教徒」を追い払ったキリスト教のイザベラ女王とは大違いである。イスラムが支配した北アフリカでは、紀元60年に使徒マルコが建てたアレキサンドリア大聖堂が現在までエジプト正教会の法王を抱いて続き、今でもエジプト人のキリスト教徒は800万人いる。古来エチオピア教会はアレキサンドリア大聖堂の末寺の位置づけであり、主教はアレキサンドリアから派遣されてきた。エジプトを支配していた歴代イスラム王朝がそれを許していたからである。

 東部アフリカでは、英国人をして「アフリカのバーミンガム」を言わしめた製鉄が盛んだったクシュ王国、あるいはインド洋貿易で栄えていたキルワ通商王国。西アフリカではヨーロッパ人の誇るフランク王国より古いガーナ王国が知られ、またマンサ・ムーサ王の黄金の巡礼で14世紀にはヨーロッパにまでその名をとどろかせたマリ帝国、首都のガオには蜜が流れるとまで言われたソンガイ帝国、そしてマリやソンガイの治世下で知の殿堂となったトゥンブクトゥーなどの大学。学者・学生の数は後のフランスのソルボンヌ大学よりも多かった。

 アフリカはヨーロッパの暴虐に屈するまで、ほかの大陸と同じように時間が流れ、文化を謳歌し、経済活動も行っていた。アフリカに栄えた王国のすべてを書くことは紙面の関係でかなわないが、主な王国の地図をお示しする。



石川(3)−1.jpg



     
   
    
(地図はMichigan State University ホームページより)



 ユダヤ人の地図師によるカタロニア図 (1375年)に描かれたサハラ砂漠の向こうに広がる黄金の帝国(地図の下部に金の王冠を被り、金の笏を持ち、金塊を手に掲げる王が描かれている。)マリ最盛期の王、マンサ・カンカン・ムーサ1世(在位推定1307-1332)である。1324年のメッカ巡礼の往路滞在したカイロで、王の一行はマムルーク帝国側の受け入れ関係者にあまねく金(きん)を贈り、また金で大量の買い物をしたため、当時の世界で最も繁栄していた都市の一つであったカイロの金の相場が急落してしまい、そののち十数年たっても相場は回復しなかった。



石川(3)−2-1.jpg



   



(2)権力基盤、富、知

 字数の都合でアフリカの王国全てを記述できないが、権力、富、そして知の観点から、ガーナ王国とマリ帝国に触れてみたい。
 
 (イ)ガーナ王国(8世紀―13世紀)
 ガーナは、ニジェール川上流と西のセネガル川にはさまれた地域一帯に栄え、アラブ人は紀元8世紀に「金の土地」として知ったが、伝承によればさらに古い起源を示唆しており、紀元前300年ころに鉄器の使用が開始されたとの推測もある。都であったとされるクンビサレーの遺跡からは鉄製品が出土している。王たちが住んでいた城砦街区と、そこから10キロばかり離れたところにつくられた北から来たイスラムの商人たちが住む街区の二つからなり、王宮では貴族はもとより、金の装飾が施された剣や楯を持つ侍従、金の優雅な飾りをつけた馬や番犬が王を囲んでいた。イスラム商人地区には12のモスクがあり、イスラムの聖職者やイスラム法学者たちも住んでいた。(エル・ベクリ著‘Kitab al-Masalik wa al-Mamalik’,1068年)
 ガーナ王国は、サハラ北部の塩の集散地タガザを抑え、南方の森の民が掘り出す金を独占的に購入した。これが「北から南への塩」と「南から北への金」というサハラの交易の基本パターンとなった。ガーナ王国は金の相場の維持にも配意して、金塊はすべて王のものとして供給量をコントロールしたが、金屑は国民の自由にさせた。ここにアフリカにおける富の集中と再分配のひとつの形がみられる。すなわち、王は富を蓄積するが、王は富を配分する役割も担っており、この配分をうまく行うことが王の権力の一つの基盤になっていた。 
 ガーナ王国の繁栄は政治権力の確立、通商とそれを支える行政機能と軍事力、例えば金の北への通商を独占できる力、通商路の安全を確保できる力、関税制度を作りそして関税を徴収できる組織と力、正確な度量衡、相場の維持への工夫などによると考えられる。

 (ロ)マリ帝国(13世紀―16世紀)
 ガーナ衰退後混乱していた西スーダン地方を統一して栄えたのがマリ帝国である。建国の王、マンディンゴ族のスンディアタは、ニジェール川上流サンカラニ川沿いのニアニを首都と定めた。ニアニは脅威となりうるサハラ砂漠の遊牧民がいる地域から遠く、山に囲まれて守りやすく、サンカラニ川は季節にかかわらず航行可能、さらに金・コーラの実・パーム油が豊かな南の森林地帯に接し、また交易に携わる商人が綿布や銅を売りに来る場所でもあった 。ニアニで足場を固めたマリはその後ニジェール川中流域にかけて急速に支配を広げていった。

 なぜニジェール川の中流域を中心としてマリやソンガイなどの帝国が成立したのだろうか。

 マリ帝国は当初から金による帝国だったと考えられがちだが、そもそもの国の起りは全長4200キロのニジェール川の恵みにあった。中流で大きく湾曲して豊かな土壌を堆積して農業と漁業を育み、水路として交通を盛んにさせ、軍事力としての水軍も生んだ。その上で、金や銅などの通商によってますます栄えたが、富は行政基盤を固め、そして文化を生む。

 イブン・バトゥータの紀行記によれば、マリでは不正は数少なく、国内は全般的に完璧に安全である。旅人も住民も、強盗、泥棒、横領をまったく恐れる必要がない。北アフリカの貿易商などが客死した場合には莫大な財産を保有している場合ですらマリ人はその財産を没収せず、当該財産が正統に属すべき人が現れるまでの間、北アフリカ人たちの中で信頼されている者にその財産を預ける、黒人たちは(イスラムの)祈りを正しく唱え、金曜日のモスクは早く行かないと祈る場所がないほど大勢の人が祈りに行く、金曜日には清潔な白い衣服を身にまとい、一張羅しか持っていない人は仮にそれが擦り切れたものでも必ず洗濯をして祈りの場に行く。

 他の大陸においてそうであったように、サブサハラ・アフリカでも豊かさは文化を生み、そして学問を生んだ。砂漠を超える隊商ルートはマリに来訪するイスラム学者やマリからメッカへの巡礼者も多く通る道であり、これがマリの「知」を支える重要な要素であった。サハラ砂漠の隊商が行う交易の中で最も量が多く利鞘が大きかったのはカイロやグラナダから輸入されるイスラム関連の書籍であった。地元出身の学者を輩出し、彼らはアラビア語のみならずアラビア文字起源の表音文字アジャニ文字で自分たちの言葉を記述していたのである。


(4)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)


文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫







posted by 園遊会 at 13:47| Comment(0) | 知の旅人

2018年02月08日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.アフリカという大陸



(1)アフリカは大きい

 【地図が生む錯覚と偏見】

 飛行機でロンドンから南アフリカ最南端のケープタウンに飛ぶと11時間40分かかる。これは英国航空が営業で使っている時間であるが、実はその英国航空はロンドンと東京も11時間40分で結んでいる。
 私たちが見慣れている世界地図はおおかたメルカトール図法に端を発するミラー図法であるから、アフリカ大陸は随分と小さく描かれている。これは地球が球であることを忘れさせてしまう2次元の図法であって、世界中の人々の世界観はここから歪みが始まるといっても過言ではない。しかし、2次元に「つぶした」球で世界情勢を見るのは不適切である。




アフリカ2−1.jpg

   




 多くの教室や事務所でこのような地図を見慣れていると思うが、ひとつの点にすぎない北極や南極がこの地図の右から左までの長さに引き伸ばされていることの意味、また球状にカーブしている南北の線を直線で表している結果何が起きているかを考えていただきたい。

 この地図から、ロンドン・ケープタウン間とロンドン・東京間が同じ距離に見えるだろうか。地球は丸い球であって2次元ではないことを、アフリカを考える時にはまず念頭に置いていただきたい。
 この地図からは信じられないかもしれないが、アフリカ大陸の面積は3037万㎢、南北は8000キロ、東西は7400キロである。そのアフリカ大陸に今日54の国がある。
 NASAによる宇宙から見た地球の写真を見るとこのことをより実感できるのではないだろうかる。




アフリカ2−2.jpg






(2)多民族・多言語国家とアフリカの多様性

 【広い国土とたくさんの民族、たくさんの言語】

 この大陸の中央部、赤道直下に広がるコンゴ民主共和国。2次元の地図で見るとせいぜいフランスとスペインを足した程度にしか見えないが、実は国を横断する距離はおおむねスペインのマドリッドから東欧のポーランドのワルシャワまでの距離に匹敵する。そのような広い地域に国土が広がっているので、そこに住む民族もさまざまである。言い換えれば、一つの国だと言うのに言葉は200以上あり、絞り込んだグループ別でも、キコンゴ語、リンガラ語、チルバ語、スワヒリ語があり、公式言語はフランス語である。公式言語ないし「公用語」。日本で、私たちの母語以外の言葉、例えばロシア語が「公用語」だと言われたら、何のことかさっぱりわからないと思うが、アフリカではそれが殆どの国で起きていることである。

 しばしばヨーロッパの開発論者や政治家、マスコミはアフリカの国家の一体性をめぐり、なぜアフリカ人は自分の国の「国家の一体性」を保てないのだ、とか、内戦をやめて民主主義を早く導入すればよい、とかコメントする。あえてこのようなヨーロッパ人の指摘に対して皮肉を述べれば、コンゴと大差ない面積に広がるヨーロッパは「1000年の間30年ごとに殺しあってきた」ではないか、マーストリヒト条約(1992年)でヨーロッパの一体性にたどり着いたのはその後だったではないか、と言いたくもなる。なお、この「ヨーロッパは1000年の間30年ごとに殺しあってきた」とは、1992年5月2日ヘルムート・コール・ドイツ首相がボンの首相府において訪独中の宮澤喜一総理(当時)に述べた言葉であり、筆者はその訪独に同行していた。

 そもそも、アフリカにおける国家の一体性を根底からひっくり返したのはヨーロッパの侵略とアフリカの分割である。ヨーロッパ人たちはアフリカの王国の国境、言語分布、歴史に一顧だにすることなくヨーロッパ人だけで談合して自分たちの勢力圏を決めたのであった(1884‐85年のベルリン会議)。


 【アフリカの多様性】

 他方、これだけ広い大陸であるから、アフリカは多様である。「アジア」とヨーロッパ人が名付けた地域には日本もインドもイランも含まれている。サッカーの「ドーハの悲劇」がなぜ起きたかといえば、ドーハがあるカタールも日本もアジアに分類されているからであるが、カタールやサウジアラビアやイランがアジアだと聞いて正直なところきわめて不思議な気がしないだろうか。

 「アフリカは一つ」という考えは政治的には「汎アフリカ主義」が背景にあるが、しかし、実際は同じ「アジア」に属する日本とイランがとても異なっているように、アフリカにはとても異なる国が存在している

 そもそも、「アジア」とか「アフリカ」という呼び名は西洋の歴史の中で生まれてきたものであった。近世以降における展開を考えると、世界を制覇した大英帝国で地理学が発展したこととも関係がある。ロンドン近郊にグリニッジという場所があってその町に古い天文台がある。天文台の横には帆船カティー・サーク号が停泊していて大英帝国全盛の時代を想起させるが、そのような時代に世界の時間の基準をグリニッジ標準時と定め、また世界の地点を規定する方法として東西に走る線を緯度、南北に走る線を経度と定め、そして世界の中心としてグリニッジ天文台を通過する北極から南極までの直線を0度とした。その上で、球状の地球を360度で規定し、グリニッジ天文台から東を東経、西を西経と定めた。その結果、日本の標準時の明石市は東経135度に存在し、グリニッジから東回りでも西回りでもちょうど180度になる太平洋の真ん中が東経180度かつ西経180度となり、そこで日付が変わるのである。日本が「極東―Far East」にあると言われるのも同じ理由による。読者の皆さんが周知の事実をくどく書いた理由はここにある。すなわち、歴史のみならず、地理もある時点の勝者が書き、そのような観点からの判断が後世も続くということの典型例だからである。


(3)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫





posted by 園遊会 at 10:09| Comment(0) | 知の旅人