2016年07月21日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






2.メモワール 『蜻蛉日記』


 男の日記が、自身の、そして子孫のための実用書として記され、一族の象徴として扱われてきたのに対して、女の日記はメモワールとよぶのがふさわしいでしょう。今の私も同じような状況にいますが、老いの坂道を下り、そろそろ生の終焉を迎えようという時、ひたすら峠の頂上をめざして一途に歩んでいた頃を想い起こすようです。『蜻蛉日記』も一人息子道綱が独立し、夫であった兼家が手の届かない身分となってしまったと実感したとき、若き日の兼家との愛憎を日記の形を借りて書き綴りました。

 ご存じの方も多いでしょう。平安時代の女性で実名が知られているのは、公的な身分つまり中宮・女御などの天皇のキサキや尚侍・典侍などのキャリア女官、そして位階を授けられた大臣クラスの正妻などに限られます。紫式部も清少納言も女房としての通称にすぎません。そのようなわけで、『蜻蛉日記』の作者は職業を持ちませんでしたから、実名はわかりません。藤原倫(ふじわらのとも)寧(やす)の女(むすめ)とか、右大将道綱の母、そして藤原兼家の妻などと呼ばれますが、今回は、‘作者’と呼んでいきます。また、私の専門は歴史学なので、文学的なアプローチはできるだけ避けようと思います。

 再び系図をみて下さい。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg





作者の父藤原倫(とも)寧(やす)は地方巡りの有能な受領として活躍する人物で、祖母は清和源氏の嫡流源満仲(みなもとのみつなか)の妹です。典型的な平安中流貴族の家庭の娘として育ちました。「本朝三美人」のひとりとされ、優れた歌人であった彼女のもとにはさぞや多くの求婚者があらわれたことでしょう。その中で父のめがねにかなったのは藤原師輔(前述した九条流の祖)の三男兼家でした。系図をみると「かつらぎの高きわたり」(身分違いの高い家柄)と作者が謙遜するのも納得の家柄です。権力者の一族とはいえ、父師輔が政権を担うのは、まだ先の時ですし、まして兼家は三男坊で身分も低く、おまけに既に妻(正妻)がいることを考えれば、決してベストの選択とはいえません。それでも、倫寧は陸奥守として任地に向かう日が迫っており、4年間の任期を田舎で過ごせば結婚適齢期を大きく過ぎてしまいます。限りない可能性をもつはずの愛娘を兼家に託して、父は陸奥へ旅立ちました。

日記の中での兼家は、次々と愛人を作りますし、正妻時姫とは、従者も巻き込んでの抗争もありました。これは、『源氏物語』の葵祭での葵上と六条御息所との車争いのモデルともなったくらいです。日記の中に作者はいろいろ兼家の悪行を書き綴るのに、それでもなおあふれ出る兼家への想いは、文学研究者ではない私にも伝わってきます。決して理想の夫とは言えない人物ですが、なぜかとても魅力的に映ります。アメリカの南北戦争を舞台にしたベストセラーで映画でも大ヒットした『風と共に去りぬ』の登場人物、レット・バトラーを彷彿とさせる、といったら『蜻蛉日記』ファンに怒られるでしょうか。

(3)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年06月09日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー

地域とともに活躍する川村学園女子大学





   男もすなる日記というもの、女もしてみんとてすなり

 誰もが諳誦したことのある紀貫之『土佐日記』の一節です。今回は、この「男もすなる」という平安時代の貴族男性の日記『清(せい)慎(しん)公記(こうき)』と、「女もしてみん」として書かれた『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』を材料として、平安時代の政治手法や貴族の家族生活についてお話しします。



1. 日記が示す一族の明暗

『清慎公記』という名前はあまり知られていません。この日記は、藤原実頼(さねより)の日記です。系図をみて下さい。実頼は藤原北家忠(ただ)平(ひら)の長男で摂政・関白までつとめた平安中期の最高位の貴族で、この一族は彼の屋敷の名前をとって「小野宮流(おののみやりゅう)」と呼ばれます。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg



 もう一度系図をよくみて下さい。小野宮一族の娘から何人か天皇のキサキが出ますが、男(おとこ)皇子(みこ)は誕生していません。「(「)素(す)腹(ばら)の后(きさき)」と陰口をたたかれた女性もいます。ご存じのように、この時代は天皇家の外戚(がいせき)になった者が権力の中枢に立つ時代です。それでも藤原北家嫡流という家柄によって実頼は摂関の地位は確保しましたが、実権は弟の師(もろ)輔(すけ)にありました。この師輔の一族は「九条流」と呼ばれます。小野宮一族が、外戚になれなかったのに対して、九条流では、代々外戚の地位に恵まれました。『蜻蛉日記』の作者の夫である兼家(かねいえ)、その三男道長(みちなが)によって、小野宮の一族は完全に九条の一族の下位に立たされることになってしまいます。

 そんな小野宮一族にとって、自らの拠り所は家柄でした。一族の祖ともいえる忠平から受け継いだ儀式運営のノウハウや宮中でのマナーの正しい知識、これこそが彼らが誇る一族の財産です。儀式のマナーなど政治活動になんの力があるか、と考えるのは現代だからです。平安貴族にとっては。儀式の円滑な運営こそが「政治」であったといえるのです。マナーに欠ける人物は貴族社会の笑われ者になりました。ちなみに『蜻蛉日記』作者の一人息子道(みち)綱(つな)は、これでよく悪口を言われています。

 実頼も弟の師輔も、朝起きて身支度を調えると、何をおいても前日の朝廷での儀式を細々と記しました。出席者、担当、備品、開始時刻から終了まで、だれがどこで何をどう行ったか、と記録します。本人にとっての次回の備忘のためだけでなく、子孫が同じ儀式に参加するとき滞りなく振る舞えるためにです。それなら、同じ内容を伝えるようですが、そこに書き手の個性がでるようです。豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な師輔(この性行は兼家・道長にもありますが)に対して、謹厳(きんげん)実直(じっちょく)といわれた実頼の日記の方がより詳細で正確であったと思われます。

 「思われます」と表現したのは、実頼の日記『清慎公記』はほとんど残っていないからです。孫の実資(さねすけ)の日記(『小右記(しょうゆうき)』(」))や同じく孫の公(きん)任(とう)の儀式書(『北山抄(ほくざんしょう)』)などに、日記の一部が引用されていますから、それらの逸文から少しだけ知ることができるだけなのです。なぜ、一族のお宝ともいえる日記がなくなってしまったのでしょうか。それは、日記は孫たちの共有財産として融通しあっていたようですが、その一部は、実資の娘婿で道長の娘婿教通(のりみち)から頼まれて貸しているとき、火事がおきて屋敷とともに焼けてしまい、また他の一部は、公任がスクラップにして儀式書の下書きに使われて原本はなくなり、また残りは一族の誰かが、借金の形にして今で言う質屋に預けられ流される寸前までいった、とあとかたもなくなってしまったからです。

 孫世代のリーダーであった実資にとって、この日記の消失はどんなに嘆いても、怒っても足りないものでした。彼にとっての『清慎公記』は、本当なら道長親子ではなく、自分こそが摂政・関白であったはずだという思いの拠り所でした。祖父の日記が失われたことこそ、小野宮一族が斜陽になった原因だと考えることで、自らの不遇を慰めたのかもしれません。その後、道長親子から儀式・作法の参考にしたい、と『清慎公記』の借用を頼まれても、自筆のメモや口答で返事をすることで、小野宮流を有職故実の家として認めさせていきます。実資の長大な日記を丹念に読んで行くと、彼の謹直な仕事ぶりとともに、一族の衰退を止められないやるせなさも伝わってきます。



(2)につづく


川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子

(元大学院人文科学研究科長)



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2016年05月19日

「紫の物語」としての『源氏物語』(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)



 光源氏が、若紫の君に詠みかけた和歌は、作品の中にあまた詠みだされる和歌の中でも、特に著名なものです。「藤の花の色である紫色が、その根にかよっている野辺の若草」とは、平安時代の人々が、紫色を染める時に染料としていた、紫草を指しています。つまり、「若紫の君」とは、「瑞々しい紫草を思わせる女の子」という意味なのです。

紫草は、花や葉ではなく、その根が染料として使用されます。下の写真は、掘ったばかりの紫根(しこん/紫草の根)です。



ムラサキ1.jpg






 この光源氏の和歌をもって、藤壺宮から若紫へと引き継がれる「紫のゆかり」が、読者にはっきりと示されます。




また、ここであらためて振り返り、藤壺宮や若紫を物語に呼び込む原動力となった、桐壺更衣に考えを遡らせてみましょう。光源氏の母親は、なぜ「桐」という植物を、その呼び名としたのでしょうか。

 実は桐もまた、下の写真のように、紫色の花なのです。


ムラサキ2.jpg





『源氏物語』のほぼ同時代に記された、清少納言による『枕草子』には、以下のような描写があります。

【『枕草子』第一二五段「木の花は」】
桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、

【現代語訳】
桐の木の花が、紫色に咲いているのは、やはり情趣があるものであって、



 「紫」という色彩を介した、藤壺宮と若紫の「ゆかり」を認めたとき、おそらく平安時代の『源氏物語』読者たちは、桐の花も同じく紫色であることに思い至ったでしょう。桐壺更衣が、なぜ「桐」壺更衣だったのかを、この時点で初めて認識するのです。つまり「紫のゆかり」は、『源氏物語』の作者である紫式部が読者たちに投げかけた、大掛かりな「知的謎かけ・知的遊戯」とみることができるのです。



【資料出典】
・ 小学館 新編日本古典文学全集『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』。ただし現代語訳は、解説の便宜上、私訳を織り交ぜた。

【主要参考文献】
・ 荒木良雄「源氏物語象徴論―特に女性の呼び名について―」(『国文学 解釈と鑑賞』第13-3号、1948年3月)
・ 伊原昭氏『平安朝文学の色相―特に散文作品について―』(笠間書院 1967年)
・ 拙著『平安朝文学における色彩表現の研究』(風間書房 2011年)
・ 鈴木宏子氏『王朝和歌の想像力―古今集と源氏物語』(笠間書院 2012年)
・ 原岡文子氏『源氏物語とその展開―交感・子ども・源氏絵』(竹林舎 2014年)


文学部 日本文化学科 講師 森田直美






2016年04月21日

「紫の物語」としての『源氏物語』(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(3)

 10代後半の光源氏は、報われることのない藤壺宮への恋に煩悶する日々を送っていました。そんなある日、流行り病の療養のために訪れた北山で、光源氏は一人の少女に出会います。それが若紫の君、のちの紫の上です。

【本文】
十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来る女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

【現代語訳】
十歳くらいかと見えて、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)などの着なれた表着(うわぎ)を着て走って来た女の子は、大勢姿を見せていた他の子供たちとは比べものにならず、成人後の美貌もさぞかしと思いやられて、見るからにかわいらしい顔だちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔は手でこすってひどく赤くして立っている。



 周りの子どもたちと見比べると、紛れようもなく血筋の良さが感じられる少女に、光源氏の目は引きつけられます。その少女の顔かたちは、焦がれてやまない藤壺宮にそっくりなのです。後々分かることですが、この少女は、藤壺宮の姪なのです。つまり、「他人の空似」であった桐壺更衣・藤壺宮とは違い、藤壺宮と少女には血縁(ゆかり)があるのでした。

 さて、一目で若紫を見初めた光源氏は、紆余曲折の末に彼女を自邸へ引き取り、養育するようになります。若紫は、お顔立ちがかわいらしいだけではなく、とても頭の良い少女でした。書も和歌も、砂が水を吸収するように、瞬く間に上手になっていきます。そんな若紫の様子に心から満足した光源氏は、ある日彼女にひとつの歌を詠み贈ります。

【本文】
手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草

【現代語訳】
早くこの手で摘み、そばで眺めたいものだ。(藤の花の色である)紫色が、その根にかよっている、野辺の若草のような少女の美しさを。





(4)につづく

文学部 日本文化学科 講師 森田直美





2016年04月04日

「紫の物語」としての『源氏物語』(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)

 桐壺更衣は、桐壺帝に寵愛を受けたことで周囲に疎まれ、幼い光源氏を残して他界します。更衣は、桐壺帝に最後の別れを告げる際、以下のような和歌を詠んでいます。

「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」

【現代語訳】
「これを今生の限りと、お別れしなければならない死出の道が悲しく思われるにつけて、私の行きたいのは生きる道のほうでございます」

 実は、この場面に至るまで、作中に桐壺更衣の言葉や和歌は、一度も記されていません。
 夫である帝との今生の別れに、初めて記された更衣の和歌は、温和でか弱い彼女のイメージから考えると、とても強い、きっぱりとした詠みぶりです。まさに末期の絶唱と言えるでしょう。
 この和歌を皮切りに、「紫のゆかり」は動き出します。


さて、桐壺更衣を亡くし、桐壺帝はなかなか悲しみから立ち直ることができません。その姿を見かねた周囲は、更衣に顔かたちがそっくりな、先帝四の宮(藤壺)を入内させます。

【本文】
藤壺ときこゆ。げに御容貌(かたち)ありさまあやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、ひともえおとしめきこえたまはねば、うけばりてあかぬことなし。

【現代語訳】
藤壺と申しあげる。いかにもお顔だち、お姿が、不思議なまで亡き更衣に似ておいでになる。このお方は、ご身分も高いだけに、申し分なくご立派で、どなたも貶め申しあげることがおできにならないので、何の気がねもなく堂々とふるまっておられる。

 桐壺更衣に「あやしきまでぞおぼえたまへる(不思議なまでにそっくりな)」藤壺宮の入内によって、桐壺帝の心は次第に慰められていきます。そして光源氏は、時々ものの隙間から、ちらと目にした藤壺宮の美しさに心惹かれ、やがて彼女を思慕するようになります。しかし、父親の后である藤壺は、どんなに恋い焦がれても、決して手の届かない女性です。

(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 森田 直美




2016年03月16日

「紫の物語」としての『源氏物語』

地域とともに活躍する川村学園女子大学






「紫の物語」としての『源氏物語』(1)

 日本文学史上屈指の名作であり、世界初の本格的な長編小説である『源氏物語』。

 この物語を、平安時代の人々は、「紫の物語」、「紫のゆかり」などと別称していました。
たとえば、『源氏物語』から50年ほど後に著された、菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ)の『更級日記』に、
以下のような記述があります。

菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ) 作『更級(さらしな)日記(にっき)』の一節

【本文@】
紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。
【現代語訳】
『源氏物語』の紫の上にまつわる巻を読んで、その続きが見たくてならなかったが、人に頼むことなどもできなかった。

【本文A】
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。
【現代語訳】
ここは、『源氏物語』に宇治の姫宮たちのことが書かれているのを、いったいどういう場所柄ゆえに、ここを選んで住まわせたのだろうと、以前から一度は見たいと思って


 なぜ、『源氏物語』は、「紫の物語」と呼ばれるのでしょうか。
 それは、この作品の根幹を形づくっている、以下の3人のヒロインに由来しているのです。


桐壺更衣…源氏の母親。桐壺帝の寵愛を受けるが、光源氏が3歳の夏に他界する。
藤壺宮…先帝の四の宮。桐壺更衣に瓜二つ。桐壺帝の后となる。
紫の上(若紫)…藤壺宮の姪。幼少期、光源氏に見初められ、引き取られる。



(2)につづく


文学部  日本文化学科  講師  森田 直美




2016年02月18日

氷河期の下総(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(5)−化石から環境を復元する

 1.上岩橋貝層

 千葉県酒々井町(本学から車で約40分)には、リス氷期の後期(15〜24万年前)に古東京湾に堆積された「上岩橋貝層」という地層が厚さ約50cmの化石床をなして見られます(図13)。この貝層からは、トウキョウホタテやエゾタマキガイなどの貝化石が産出します。これは本州の北から南に向かって流れた寒流の影響を受けた化石群集と考えられており、氷河期の痕跡を知る上で貴重なものです。このため、写真の地層は、昭和50年に千葉県の指定文化財に登録されています。なお、この露頭の西側には15世紀後半に、千葉氏による築城「本佐倉城」(国指定の史跡)があり、この周辺でも上岩橋貝層が見られます。


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図13. 酒々井町で見られる上岩橋貝層(厚さ50~70cm)。


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図13の拡大図


 

2.木下貝層

 千葉県印西市周辺(本学から車で約20分)には、リス―ウルム間氷期の約12−13万年前に下末吉海進により古東京湾で堆積された厚さが1m以上の貝化石の地層があります。この地層からは、二枚貝のアサリ、バカガイ、サラガイ、タマキガイなどの他に巻貝のアカニシやウニのカシパンウニなどが見出され、暖流系の化石群集とされています。また、この化石層の上には、ウルム期に箱根火山や古富士山などの火山から噴出した火山灰によって形成された関東ローム層が見られます。この貝化石の見事な地層は、印西市の木下万葉公園の道路沿いの崖(成田線木下駅から徒歩5〜10分)で見ることができます((図14、15)。



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図14.印西市にある木下万葉公園の北西部で見られる木下貝層
(国指定の天然記念物)



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図15.木下万葉公園の南側で見られる木下貝層
(国指定の天然記念物)




この木下貝層の一部は、いわゆる続成作用により固結し、比較的硬い部分が見られます。これ以外に下総地域には、硬い岩盤(岩石)が地表に露出していないため、唯一の岩石となっています。なお、硬い岩石は、最も近いところで、茨城県の筑波山か、または、千葉県の銚子に行かないと、見ることができません。したがって、この地域では、古くは、古墳時代に古墳の石材として、この木下貝層が切り出されていました。例えば、博物館「千葉県立房総のむら」近くにある龍角寺岩屋古墳の石室は、この化石層によって出来ています。また、江戸時代以降は、神社仏閣等の石灯籠や民家の石塀として、広く利用されていました。例えば、石灯籠では、上述の木下万葉公園から北へ500mぐらいのところに位置する「山根山(やまねさん)不動尊」の境内で、2基の立派な石灯籠が保存・管理され、間近で見ることが出来ます(図16)。なお、この寺のお堂は、極最近に破損し、残念ながら現在、お堂を見ることが出来ません。



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図16(左右)。 山根山不動尊の境内で見られる木下貝層を使った石灯籠




3.江古田泥炭層

 東京都中野区江古田には、「江古田泥炭層」とよばれる少なくとも3層の泥炭層の存在が知られています。泥炭層は、別名「ピート」ともよばれ、植物の遺骸や花粉等を多量に含む地層で、寒冷地域(特に緯度45度以北)で多く形成される堆積物です。この泥炭は、時には燃えるため、燃料として使われることもあるものです。江古田泥炭層は、こうした植物の遺骸を含むため、放射性炭素法(C14法)を使って、地層の形成された年代(絶対年代)が求められています。その結果、3つの泥炭層のうち最下層のものは、2万8770±2600年前の主ウルム氷期時代に形成されたものであることが分かりました。この地層から産出する植物化石は、イチイ、アオモリトドマツ(オオシラビソ)、カラマツ、イラモミ、コメツガなどの針葉樹のほか、ハンノキ、サワシバ、ブナ、シナノキなどの広葉樹、さらには、キタヨシ(寒冷型の葦)やカキツバタ(アヤメの仲間)など21種類の寒系の植物が知られ、これらを含む地層を「江古田針葉樹層」ともよんでいます。このような植物群集から、当時の気温は現在よりも8〜14℃低かったことが推定されています。このことは、少なくとも江古田では、現在の日光の戦場ヶ原や尾瀬沼のような環境であったことが推定され、冬場は雪によって閉ざされていたことが考えられています。

したがって、下総台地は、こうした江古田から地理的にさほど遠くないことを考えると、ウルム氷期の最も寒かった頃に江古田と同様な環境であったと考えることができます。
このような環境を考えると、もしかしたら、氷期には本学の庭にもマンモスが闊歩し、ライチョウが飛び回っていたことを想像するかもしれません。しかし、残念ながら、マンモスは、現在までの化石の証拠から北海道まで進出しましたが、下総台地までは来なかったと考えられます。




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2016年01月14日

氷河期の下総(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(4)−地形の変遷−

 前述したように、気候の変動と海水面の変動は連動しています。つまり、氷期には海水面が下がり、これを地質学的に「海退」といいます。一方、間氷期には海水面が上がり、これは「海進」とよばれます。それでは氷河時代の下総台地はどのような水陸の分布を示したのでしょうか。


 
1.リス―ウルム間氷期


図9に示したように、リス―ウルム間氷期の12〜13万年まえの関東地方は、現在の関東平野のほとんどが海に沈んでいました。房総半島南部の比較的標高の高い房総丘陵(最も高い地点で標高408m)が大きな島となっており、また、銚子には現在の愛宕山(標高74m)という小高い地域がありますが、ここが太平洋の小島としてわずかに海面から顔をだしていたようです。当然ですが、大学のある我孫子(最も高い地点で標高22m)は、古東京湾の沖合で海底に沈んでいました。この当時、関東地域の西側では、古箱根火山や古八が岳火山が活発となり、その降り積もった火山灰などにより、主に関東地域の西側の陸地に下末吉ロームという最も古い関東ローム層(赤土)が形成されました。


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図9.リス―ウルム間氷河期の水陸の分布
(破線は現在の海岸線)





2.ウルム氷期


次に、今から約6万年前の古ウルム氷期になると、気候の寒冷化に伴って海退が進みました。図10に示すように、東京湾はかなり小さくなったと考えられています。この時代には、本学のある我孫子は完全に陸化しており、箱根火山から出された火山灰等によって武蔵野ロームという赤土が形成されました。
 また、最も寒くなった時期の一つとして、約2万年前の主ウルム氷期の時代には、さらに海退が進み東京湾は完全に消失しました。その結果、利根川(江戸時代まで現在の東京湾に注いでいました)や多摩川の河川が延長され、現在の東京湾のほぼ中央に古東京川という“まぼろしの川”を形成し、深い谷地形をつくっていました(図11)。この時代には、現在の富士山の前身である古富士山の活動によって、立川ローム(関東ローム層の一番上にある赤土)が形成されています。



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図10.古ウルム氷河(約6万年前)における水陸の分布



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図11.主ウルム氷河(約2万年前)における水陸の分布



3.後氷期


氷期の終わった後の時代を後氷期(第四紀完新世)といいます。縄文時代前期の約6,000年前には、温暖化により関東平野の奥(群馬県や栃木県)まで海が広がりました。このことは、貝塚の痕跡からも認めることができます。また、館山では、現在の標高で15〜20mぐらいのところに熱帯から亜熱帯に生息する造礁性サンゴの化石が大量に見つかっています(通称「沼のさんご礁」といわれています)。こうしたことからも、当時は現在よりもかなり気温が高かったことが推定されます。ちなみに、この時期の本学は、内湾の海底にあったことが分かっています(図12)。

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図12.縄文前期(約6000年前)の水陸の分布




(5) につづく


教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫









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2015年12月10日

氷河時代の下総(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(3)−気候変動の要因−

ここでは、氷河時代(気候変動)を引き起こす原因について簡単に触れてみたいと思います。



1.地球の自転・公転による気候変動

セルビアの有名な天文学者、ミリューシン・ミランコビッチは、

@地球が太陽を回る公転軌道が円くなったり、楕円になったり一定ではないこと、
A地球が太陽の周りを回る公転軌道面に対して、地球の自転軸が23.4度傾いており、

これが変化することなどを指摘しています。

これらのことは、太陽からの日射量が時代によって繰り返し変化すること(ミランコビッチサイクル)により気候変動が生じる、すなわち、前述しました氷期と間氷期が交互に引き起こされるということが考えられています。



2.太陽活動の変化による気候変動

 地球の気候をコントロールしている要素には、まず、地表温度にあります。この地球表面温度は、大局的に、地球が太陽から受けるエネルギー(主に紫外線や可視光線など)と逆に地球から放射するエネルギー(主に赤外線)のバランスで決まってきます。

このことは、当然のことながら、太陽放射エネルギーが大きく、地球放射エネルギーが小さければ、地球は次第に温暖化になり、その逆であれば、寒冷化となるわけです。実はご存知のとおり、太陽活動は一定ではなく、変動していることが分かっています。

太陽活動の変化を知る一つとして、昔から太陽表面に小さく黒くなっている部分(黒点)の存在が知られており、黒点はその周囲の温度よりも低くなっていますが、その周囲ではむしろ温度がより高くなっています。黒点の長い観測から、黒点が多くなるときには太陽の活動が大きくなり、少ないと小さくなる傾向があります。

このことは、気候変動の要因と考えられますが、最近の研究では、こうした太陽活動の最大期と最小期が単純に温暖化と寒冷化をもたらすのではなく、むしろ暖かくなる地域と寒くなる地域、さらには湿潤な地域と乾燥化地域といった具合に地域差を大きくしたり、小さくしたりするシステムとなっていることが指摘されています。

ともかく、太陽活動の大小が少なくとも間接的には、気候変動に関与していることが考えられます。



3.プレート運動による大陸の配置による気候変動

今からおおよそ3億年前の古生代末期には、大きな大陸が一つであったと考えられています。この大陸はパンゲア大陸とよばれています。

この時代には、海岸線の総延長が現在よりも少ないため、波打ち際から海水に取り込まれるCO2の量が少なく(大気中のCO2濃度が高い)、温室効果によって気候の温暖化が続くと考えられます。

しかし、中生代に入り大陸が分裂すると、海岸線が長くなりCO2が大量に海水に吸収される(大気中のCO2濃度が低い)ため、寒冷化にすることが考えられます。しかし、こうした大陸の分裂による気候変動は単純ではなく、大陸の分裂や移動の際には、プレートの沈み込みに伴って火山活動が活発になることにより、CO2量は大量に大気中に放出され、温暖化を引き起こすことにもなります。

このように、大陸の移動によるCO2量の変化が気候変動に少なくとも関与していることが指摘されています。



4.大気中の二酸化炭素量の変化による気候変動

 上記の3でも説明したように、長期的にみるとCO2の循環システムは、大気と海洋または岩石との間を行ったり来たりしています。例えば、大気中のCO2は、雨や海水面から海に吸収されています。陸からは岩石や土壌の風化によって、海に金属イオン(Ca2+、Mg2+、K+など)が鉱物中から溶け出します。これらが海中で結合すると、例えば炭酸カルシウム(CaCO3)を成分とする鉱物が作られます。石灰岩の成因の一つはこのようにして形成されています。

また、海水中には、炭酸カルシウムからなる殻をもった二枚貝や巻貝、さらにはサンゴなどの生物が多数生息しており、これらも基本的には同様なメカニズムで炭酸カルシウムを造っています。

このようにCO2は、一時的に岩石や生物に閉じ込められますが、火山活動等に伴って、これらのCO2を含む物質は再び大気中に放出されることになります。これは「炭素循環」といわれるメカニズムが働いているためです。

このメカニズムは面白いことに気温の変化にかなり左右されることが指摘されています。温暖化すると、陸上で風化作用が促進され、さらに海水中に閉じ込められるCO2量が多くなります。すると、温室効果が減少することになり、逆に寒冷化が引き起こされます。さらに寒冷化が進むと風化作用や海水によるCO2の吸収が抑制されるため、逆に温暖化が始まります。このようにして、大気中のCO2濃度が変化することにより、気候変動がもたらされると考えられています。

 以上、基本的な気候変動の要因を述べましたが、実際には決定的要因は、まだ分かっていません。もしかしたら、これら複合的な要因で気候変動が起こっているのかもしれません。



(4)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2015年11月19日

氷河時代の下総(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(2)−氷河とその痕跡−

1.氷河のでき方


 氷河が形成される仕組みは、一言でいうと水の循環が一時的に途絶えることです。つまり、大局的に水の循環は、海で蒸発した水蒸気が上昇気流で雲をつくり、雨や雪となって陸上に降り注がれます。こうした雨や雪による水は、一般に川や地下水として再び海に戻るといったサイクルを繰り返しています(図4A)。


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図4. 水の循環(左図:A)と氷河の形成(右図:B)




 これに対して、海から蒸発した水蒸気が雪となって降っても夏に溶けない場合があります。このような雪を「万年雪」といいますが、この万年雪が高いところから低い方へ向かって動くものが氷河です(図4B)。したがって、水の循環で水(雪・氷)が長期間にわたって陸上に留まるため、この水のサイクルが一時的にストップすることになるわけです。その結果として、氷河が発達すると、海水面の低下が起こります。なお、この万年雪が解けて水になるところを「雪線」、その標高を「雪線高度」といいます。したがって、氷河はこの雪線高度よりも標高が高いところに形成されることになります。当然ながら、この雪線高度は、緯度が高くなると雪線高度は低くなる特徴を示します。ちなみに、本学のある下総地域は、緯度が北緯36度ぐらいです。現在、この緯度で想定される雪線高度は4,300m程度であるとされていますので、氷河は形成されません(大きな山があれば、雪線高度はさらに低くなります)。



2.氷河とはどのようなものか 


氷河とは万年雪が氷の集合体に変化したものです。氷河の重さは一般に0.8g/cm3程度(氷は0.91g/cm3で無色透明)、また、重力の作用で流動(0.01~40m/日)しています。氷河の流れは、河の中心付近ほど速く、また、地形によっても大きく左右されます。その結果、氷河は帯状になって流れたり(図3,5)、また、クレバスが出来たりと川と異なり複雑な形状を示します。なお、氷河は雪が降ったときの大気(空気)を含むことから、一般には白い色を呈しています。また、氷河のクレバスをのぞいてみると、白色よりは青く見えることがあります。この青い氷河は、氷の中で可視光線の赤色の光(波長が長い)よりも青色の光(波長が短い)がより多く選択吸収されるためです。

 ところで、本学の北側には利根川(全長が約322km)が流れています。ここの最上流で降った雨は、川の速さを1m/sとした場合、4日もあれば海に流れ着く計算になります。これに対して、もし氷河であったとしたらどの位の時間がかかるのでしょうか。その速度を仮に0.01m/日(ヒマラヤで見られる氷河と同じぐらいの速度)で計算すると、おおよそ9,000年もの時間がかかって、氷河がやっと銚子の海にたどり着くことになります。こうした計算からも、氷河の流れは大変ゆっくりであることが分かります。


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図5.スイス、アルプス山脈のアレッチ氷河



 氷河の種類には、山地の谷などのへこんだ低いところに出来る「山岳氷河」と基盤の地形に係らず陸地の広域を覆う「大陸氷河」とがあります。この大陸氷河は「氷床」ともよばれ、現在、南極大陸とグリーンランドがこれに相当します。南極大陸では、氷河の厚さが平均1,600mにも達しており、古くは数十万年前できた氷も知られています(図6)。


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図6.南極大陸の氷床





 3.日本にも氷河がある


 最近まで日本には氷河はないといわれてきました。ところが、今から3年前の2012年に日本雪氷学会がその存在を認定しています。それは富山県にある立山(標高3,015m)の御前沢(ごぜんざわ)氷河と剱岳(標高2,999m)の三ノ窓(さんのまど)氷河と小窓(こまど)氷河の三ヶ所が山岳氷河として認められました(図7)。これらの氷河は長さがおおよそ700〜1,000m、幅が200m、氷の厚さが30mあります。
 これらは氷河ですので、当然ながら山の上から下に向かって流れています。その速度は、観測によれば17〜32cm/月という結果がでており、この速度は、おおよそヒマラヤ山脈で見られるものと同程度のものであることが報告されています。
 なお、氷河時代の氷期には、日本アルプスや北海道の日高山脈に氷河があったことが知られており、現在、その痕跡として、カール(Kar:圏谷ともいう)という氷河の浸食によってできた半円形の窪地はこれらの山脈の頂上付近に多数が残されています。


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図7.立山(写真左側)にある氷河 (御前沢氷河)




  4.全球凍結という大氷河時代


 氷河に関連して、2004年に放映された「デイ・アフター・トウモロー」は、ニューヨークが氷河によって閉ざされるというストリーの映画で、この映画を見た方も多いかと思います。ところが、この映画をはるかに凌ぐ地球全体が完全に凍ってしまうという大氷河時代「全球凍結:Snowball Earth」があったことが、最近、地球科学で大きな話題となっています。この考え方は、元々イギリスの地質学者、B. ハーランド(Brain Harland)が1964年に出した仮説が基になっています。その約40年後、この説はアメリカの科学者たち(例えば、J. カーシュヴィンク、1992やP. ホフマン、1998)による研究で、大きな反響がもたらされました。
 これらによると、地球表面は少なくとも−50℃となり、陸はもちろんのこと、海が深さ約1,000mまで氷によって覆われたと考えられています(図8)。しかも、これが地史的に原生代(先カンブリア時代の後半)のヒューロニアン氷期、スターティアン氷期、マリノアン氷期の3回も全球凍結があったというのです。こうした全球凍結を引き起こす大きな要因は、二酸化炭素の循環にあると考えられています。
当然のことですが、もしこの全球凍結が起これば、生物に多大な影響を及ぼすことが考えられ、恐らく、生物のほとんどが絶滅するに違いありません。


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図8.全球凍結の想像図 「地球は白かった」



 
余談ですが、1961年、世界で最初の宇宙飛行士、ユーリイ・ガガーリンは「地球は青かった」という有名な言葉を残しています。しかし、もし全球凍結になると「地球は白かった」ということになるのでしょう。




(3)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫




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2015年11月04日

氷河時代の下総

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(1)−氷河時代とは−

 1.氷河時代のイメージとマンモス


氷河時代のイメージを本学の学生に聞いてみました。すると、そのイメージは、@寒い、Aマンモス、B氷、氷河といったイメージを持つことが分かりました。したがって、図1に示したように、陸地が氷河によって覆われており、マンモスが吹雪の中を闊歩するといった氷河時代の姿を思い浮かべるようです。本文を読んで頂いている皆さんも、恐らく、このようなイメージをお持ちではないでしょうか。


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図1 イメージに基づく氷河時代



 

そこで、簡単にマンモスについて触れてみたいと思います。マンモスは今からおおよそ500万年前(新生代新第三紀の鮮新世)に出現して、約1万年前(新生代第四紀の更新世末期)に絶滅したゾウの一群(分類学的にはマンモス属:Mammuthus )を指します。マンモスは頭が極端に高く短くて特に後頭部が上に突出していること(図1、2)や巨大な牙を持つことなどが特徴です(5m以上の長さの牙が発見されています)。

現在までに14種類が知られており、氷河時代には、南・北アメリカ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸など広い生息分布域を持っていました。

マンモスといえば、一般に巨大な動物というイメージを持ちます。例えば、北アメリカ大陸に生息していたインペリアマンモス(Mammuthus imperator)コロンビアマンモス(Mammuthus columbi)は体長が5m、体高が3〜5m、ヨーロッパで知られるステップマンモス(Mammuthus trogontherii)は体長が4.7~5.2m、体高が4〜5m、また、日本では有名なシベリアの永久凍土から出土するケナガマンモス(Mammuthus primigenius)で体長が4〜5m、体高が2.7〜4mと大きな動物です。その一方、大変小さなものも知られており、北極海沿岸で見つかったコビトマンモス(Mammuthus exilis)は体長が1.4〜2m、体高が1mぐらいしかありません。


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図2 ケナガマンモスの復元図




 
2.過去の氷河時代の記録

 広い意味で氷河時代とは、地球に氷河が存在する時代のことをいいます。今までに、氷河時代は少なくとも6回、確認されています。すなわち、24.5−22億年前(ヒューロニアン氷期)、7.6−7億年前(スターティアン氷期)、6.2−5.5億年前(マリノアン氷期)、4.5−4.2億年前(アンデス―サハラ氷期)、3.6−2.6億年前(カルー氷期)、そして60−1万年前の第四紀氷河がそれです。

現在、地球には極地域を中心として、氷河が存在することに私たちは何の変哲も感じません。しかし、例えば、中生代(おおよそ2億5千万年前〜6千5百万年前)、すなわち恐竜時代ですが、この時代の白亜紀には氷河が発達するどころか極地域の海水面の温度が20℃以上にも達したとする研究が報告され、氷河の存在はまったく確認されていません。

このように、実は、地球の歴史46億年の間で、氷河が発達した時代の方が極めて短く、私たちは地史学的に極めて稀な時代に生きているといっても過言ではありません。

3.氷期と間氷期

現在の氷河の発達は、おおよそ260万年前頃から始まったと考えられています。この頃から気温が低下し始め、その後に、極端に寒くなった時期と暖かくなった時期といった具合に寒暖の時代が交互に繰り返されたことが分かっています。

気温が極端に低下した時代を氷期といい、また、温暖化した時代を間氷期といいます。

これらは一般に、260−60万年前をドナウ寒冷期、60−55万年前をギュンツ氷期、55−45万年前をギュンツ・ミンデル間氷期、45−38万年前をミンデル氷期、38−24万年前をミンデル・リス間氷期、24−15万年前をリス氷期、15−7.2万年前をリス・ウルム間氷期、7.2−1万年前をウルム氷期とそれぞれよばれています。

したがって、最近の氷河時代(新生代第四紀氷期)は、4回の氷期と3回の間氷期からなっており、狭義には、今から60万年前から1万年前の時代を指します。なお、現在も氷河時代が続いていると考える研究者もいます。

このように、氷河時代とは、寒い時代だけではなく、暖かな時代(時には現在よりも暑い時代がありました)も併せて氷河時代と呼ばれています。


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図3. カナダ、ユーコン州の氷河





(2)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





 
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2015年10月28日

日本の美術にみる色彩と文化(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





V.北斎・広重のプルシャンブルー



江戸時代中頃、ベロ藍と呼ばれる美しく鮮やかな青色の化学染料が初めて販売された。

その名は当時プロイセンの首都であったベルリンに由来したようで、ベロリンとの名も書見されます。そもそもベロ藍は別の合成化学染料色を抽出作成するための製造過程で、誤って偶然鮮やかな青色が生れたといわれており、近年は色の呼称を“プルシャンブルー”の名称で示されることが多くなっています。

田中優子氏は著書「江戸はネットワーク」(平凡社ライブラリー633、平凡社)の中で、宝暦13年(1763年)発行の『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)において、平賀源内が「ベイレンブラーウ」として紹介し、数回開かれた薬品会に実物が出品されたらしいと指摘しています。   

また秋田藩主の佐竹曙山が著わしたヨーロッパ絵画のマニュアルにも、プルシャンブルーに関する記述があり、日本に輸入され始めた頃は大変に高価な染料で、御用絵師でもない限り、浮世絵師の手に入ることはなかったようです。


江戸時代の後半になると、上方も江戸も庶民の暮らしが向上して、手の届く値段で買える浮世絵に人気が高まります。初期の浮世絵は墨一色の墨摺り絵でしたが、やがて黒と朱を用いた「丹絵(たんえ)」が登場します。さらに赤や緑の色を少し入れた「紅摺り絵(べにずりえ)」によって飛躍してゆき、さらに美しい色彩の絵が求められる中で、江戸では鈴木春信による多色刷りの錦絵が登場しました。浮世絵は一層の人気を得た。春信の作品には、藍色が効果的に用いられたものがあります。

プルシャンブルーは高価なため浮世絵に用いられませんでしたが、やがて中国が量産に成功したことでアジア諸国へ広まり、幕末近くになると日本でも出回るようになった。文政12年(1829年)、「藍摺り絵」の絵師として人気を集めた溪齊英泉が、浮世絵に初めてプルシャンブルーを使用したといわれ、数枚の板を用いて濃淡(グラデーション)を出すと、それまでにない鮮やかな青の色を団扇や浮世絵に表現し始めました。(図−1)。


江戸時代の後期は旅のブームが起こり、武家も庶民も日常の暮らしを休み、社寺参詣などを理由にして泊りがけの旅に出ることが大きな夢となりますが、必然的に日本の名所や各地の風景が美しく描かれた浮世絵の風景に人気が集まり、大いに期待されてゆきました。初めに手懸けた英泉の浮世絵には、江戸市中における風景の定番である富士山、お城、日本橋がしばしば描かれ、富士山は遥か遠くに雪を戴いた姿がプルシャンブルーを用いて、一際巧みに描かれています。(図−2)


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図−1                        図−2 
溪齊英泉 仮宅の遊女                 溪齊英泉 江戸日本橋より冨士を見る図
天保6年(1835年) 千葉市美術館            天保前期(1830〜44年)江戸東京博物館
プルシャンブルーに魅せられた英泉             定番の江戸風景、富士・城・日本橋



同時代の巨匠・葛飾北斎は風景に限らず、あらゆる森羅万象を描いていますが、特に70歳を越えてから仕上げた「富嶽三十六景」にはプルシャンブルーがふんだんに用いられ、その鮮やかな青色に、19世紀印象派の画家をはじめ、多くの芸術家が魅せられました。さらに「千絵の海」、「諸国名橋奇覧」、「諸国滝巡り」、「百物語」といった他の北斎作品群でも、鮮やかな青色が画面に満ち溢れています。初代歌川広重も、「東海道五十三次」、「名所江戸百景」等、数々のシリーズものにプルシャンブルーを巧みに活かし、江戸っ子の粋と爽やかさに満ちた独自の世界を作り出して、さらに人気を博します。(図−3〜8)


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図−3                        図−4 
葛飾北斎 千絵の海 五島鯨突             葛飾北斎 諸国名橋奇覧 摂州天満橋
天保4年(1833年頃)東京国立博物館          天保4〜5年(1833〜4年) 山口萩美術館
長崎五島列島の捕鯨大漁法を描く            プルシャンブルーも一文字の黒もお洒落




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図−5                       図―6 
葛飾北斎 神奈川沖浪裏              初代歌川広重 東海道五十三次 箱根湖水
天保2年(1832年頃)メトロポリタン美術館      天保4〜5年(1833〜4年)浦上コレクション
 世界の誰もが知っている日本の絵          色面分割の大胆さはゴーギャンの絵に影響




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図−7                        図―8 
初代歌川広重 名所江戸百景 猿若町の夜       初代歌川広重 近江八景之内 唐崎夜雨
安政3年(1856年)神戸市立美術館          天保4=年(1833〜4年)中山道広重美術館
  月明りの人影と西洋遠近法の奥行           真っ直ぐに降る雨、黒の格調ある美





                   参考文献・資料
T.徳島・阿波藍の歴史と文化
  田村善昭著『日本の藍―染織の美と伝統』 日本放送出版
  小笠原小枝著 『染めと織の鑑賞基礎知識』 至文堂 1990年     
大滝義春著『着物のふるさと・染色めぐり』 グラフィック社 2010年
U.古伊万里・有田の染付の魅力
  藤原義近編集『ガラスと染付』TheあんてぃーくVol.7号
  鈴田由紀夫監修『有田焼の歴史』DVD 佐賀県立九州陶磁文化館制作
V.北斎・広重のプルシャンブルー
  福田英雄編集 『太陽浮世絵シリーズ 広重』 平凡社 1975年
  田中優子著 『江戸はネットワーク』 平凡社 2008年 



教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元
  



2015年09月28日

日本の美術にみる色彩と文化(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界ー



U.古伊万里・有田の染付の魅力



佐賀県有田市は日本の磁器誕生の地で、伝わるところによれば江戸時代初期に朝鮮半島から来た李三平という人が、鍋島藩内の有田泉山(図−1)で白磁土を発見し、器の成型と焼成に成功したと云われています。


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図1 泉山採石の様子
 


鎖国の時代、長崎の出島にてオランダや中国との貿易が始まると、様々な物資とともに中国景徳鎮の優れた磁器が舶来し、その影響を受けて有田の磁器はいよいよ発達してゆきます。やがてオランダ東インド会社との交易が盛んになり、有田焼はヨーロッパでは通称“Imari”と呼ばれて、王侯・貴族たちに好まれました。

有田窯の当初は李氏朝鮮風でしたが、やがて中国の呉須(コバルト)による青い絵付「青花(せいか)」を模倣して、花・風景・祥瑞・吉祥文などの染付を生産してゆきます。
やがて17世紀後期になると白磁に青一色の染付のみならず、白磁に赤などの鮮やかな色絵付けを施した柿右衛門様式が登場、色絵付けと染付を組み合わせた技法「染錦手(そめにしきで)」による完成度の高い磁器をも生産し始めます。(図−2)(図―3)


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図2景徳鎮の青花大皿
(県立九州陶磁文化館)

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図3 染付白鷺図三脚皿
(県立九州陶磁文化館)




17世紀のヨーロッパ貴族はバロック趣味であり、豪華絢爛なものを好むことを注文主のオランダから知ると、有田では早速中国の青花芙容手皿、器にみる大柄な意匠等を手本として、より華やかな金襴の染錦手を工夫して注文に応じてゆきました。このことはいかにも日本人の融通無碍を心得た機敏さを表していて、大変興味深いところです。

先年、佐賀城と鍋島家の徴古館、及び佐賀県立博物館、県立九州陶磁文化館、有田赤絵町の今泉今右衛門窯、肥前鹿島市の鍋島木版更紗の鈴田滋人工房を訪ねました。このことにより鍋島藩には伝統的な武家の美意識の高さと、優れた産業振興育成策を常に発揮し、現在においても佐賀県の文化には、独自性とその感性の豊かさを見ることが出来ます。

平成24年8月、筆者知人の鈴田滋人氏(鍋島木版更紗・人間国宝)より紹介を頂き、御用釜で色鍋島の伝統を継承する有田赤絵町の今泉今右衛門窯と今右衛門古陶磁美術館2ヶ所を訪ねて、14代今右衛門氏より直々に鍋島の磁器についての解説をして戴きました。また九州陶磁文化館においては、館長の鈴田由紀夫氏が各展示室の案内と解説をして下さり、館長が作成の“九州陶磁の歴史”の映像を頂き、より深く学習する機会を得ました。(図―4)(図―5)(図―6)


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図4 染付風車文皿 鍋島様式
(今右衛門古陶磁美術館)

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図5 柿右衛門様式・色絵梅鶯文皿
(今右衛門古陶磁美術館 )

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図6 古伊万里・源右衛門窯
   (県立九州陶磁文化館)




九州陶磁文化館内に特別展示されている柴田夫妻コレクション展示は、古伊万里の染付を中心に数千点の寄贈作品で構成されていました。呉須(コバルト)を用いた初期伊万里の名品もよく揃い、その量と質の高さに驚くばかりです。それらの染付の絵柄には唐草・青海波・亀甲・吉祥文字そして何と言っても蛸唐草文様の皿や壺が多いのには驚きました。そば猪口の数量の多さにも目を見張るものが有り、その猪口の楽しさも感じました。正に染付は庶民の器そのものと云えます。

ちなみに西洋で磁器の生産が始まるのは、Imari(輸出伊万里)がヨーロッパの貴族たちに競って購入された頃より30年が経ってからです。やがて“カオリン”と呼ぶ白磁土が見つかり、磁器の生産が始まりますと、最初はドイツのマイセンがその焼成に成功します。時代はシノワズリー(中国趣味)でしたが、特に日本の染付が好まれて手本となり、伊万里の色絵柄も数多く模倣されました。やがて各国では西洋磁器の新しい技法も工夫されて、イギリスをはじめとしてヨーロッパの諸国で様々な展開を見せてゆく事になります。(図―7)


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図7 色絵桜樹群馬文八角壺、広口瓶 (有田焼成)
  (県立九州陶磁文化館)




やがて、鍋島藩は御用窯を大川内に築くと、朝廷と幕府への献上品と鍋島家の調度品としての用途以外には一切外に販売することのない高級磁器、即ち“鍋島”を製作し始めました。初期鍋島には染付の小皿などに優品を見ることができますが、その特徴はどこか素朴な温かみを感じる良さがあります。淡青ともいえる染付が美しい。絵柄には白鷺、桃,兎などをはじめ、小動物や果実、草花、風車などがあり、呉須(コバルト)の青と白でシンプルに色分けして表現しています。染付の中には墨を吹き付けたような「吹き墨」と呼ばれる技法が見られ、初期鍋島の特徴の1つになります。(図―8)(図―9)


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図8 色鍋島 岩牡丹文 
  (戸栗美術館)

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図9 鍋島・吹き墨技法
  (県立九州陶磁文化館)
 



元禄期の“色鍋島”は日本の色絵磁器の最高峰と言えるでしょう。そもそも外様大名であった鍋島家は武家の格調と高い美意識による高品質な磁器の生産に力を注ぎ、毎年新しい色鍋島を朝廷と将軍、徳川家へ献上してゆきます。この誰も真似することの出来ない最高級の磁器を、鍋島家の誇りと藩の存亡をも考えた最重要な品物として考えていたと思います。

今回、公開講座で用いた図像資料は、九州陶磁文化館長の鈴田由紀夫氏より戴きましたもので、それを存分に用いる事ができたことは誠に幸いでした。改めて感謝申し上げたい。


(3)につづく

教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




 
            

2015年09月14日

日本の美術にみる色彩と文化

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界―

 
    
「日本の美術にみる色彩と文化」―青の世界―
T徳島・阿波藍の歴史文化  U古伊万里・有田の染付の魅力 
V北斎・広重のプルシャンブルーの3つのテーマを選びました。

T、Uは実際に現地に赴き、資料館、専門の作家および研究者を訪ねて学んだこと、
Vでは浮世絵の展覧会にて鑑賞して、多くの美術書籍、参考文献等から参照しました。

ここでは、川村学園女子大学公開講座での内容に加え、
本年、再び徳島を訪ねて撮影した写真と新たに研究した事柄も加えて、≪青の世界≫をテーマの話をいたします。


T.徳島・阿波藍の歴史と文化


日本の藍染めの歴史について、「日本の藍―染織の美と伝統」(田村善昭著、日本放送出版)の序文「庶民の藍・永遠の藍」(北村哲郎氏筆)には「魏志倭人伝に正始4年(西暦243年)、倭国から絳箐(こうせい)の縑縑(かとり)、すなわち赤や青に染めた絹織物が献上された」とあり、その歴史の古さを知らされます。

日本の藍染めでとりわけ有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、現在の徳島県山間部にいた忌部氏の藍に染める衣料にはじまると云われており、古文献では平安時代の村上天皇の御世に著された『阿州藍草貢々記』に“阿波の藍を最勝とする”と記されています。

鎌倉時代中期ごろから戦国時代には吉野川流域に藍栽培が広がりはじめますが、やがて天正13年、蜂須賀家政が阿波に入国すると、領地となった吉野川流域が砂地であり、温暖多雨な土地の為、毎年、河川の氾濫により肥沃な腐葉土が大量に畑へ流れ込み、藍栽培に適した地であることを知ります。

しかし藍の収穫において農民は毎年吉野川の氾濫に苦しみ、堤防を築いて欲しいと要望しますが、全く叶えられず長年にわたり苦労して土地に生きてきました。
ただ、城のある武家町側には早くから堤防が造られています。

明治時代になると藍栽培はますます盛んとなり、明治36年には作付面積が全国の過半数にまで広がり栄えますが、明治末期になると安価なインド藍と合成染料の輸入により、徳島のみならず日本の藍産業は衰退の一途をたどる事になりました。

昨年と今年の夏に徳島市藍住町にある「藍の館」資料館を訪ねました。
ここは江戸時代の大藍商旧奥村家の屋敷内に建つ資料館で、徳島の阿波藍の歴史と藍製造の技を詳しく知ることができます。藍住町および近隣の上板町周辺地域は、吉野川流域のなかでも蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中していて、この地区は“すくも”(藍玉ともよばれる)を造る、藍師又は水師と呼ばれる匠の人たちが暮らしています。

「藍の館」では藍染の着物、夜着、布団、暖簾、風呂敷、武具、調度等が数多く展示され、さらに写真及び見事な和紙人形による、蓼藍栽培の風景と“すくも”造り、大藍商人の様子などを良く理解することが出来ます。
特にここでは蓼藍の葉を深い甕に入れて発酵させて、藍染料となる「すくも」に関する生産過程を詳しく藍師佐藤昭人氏が記していて、阿波藍の歴史・文化についてより関心を深めることができます。


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(図1)藍の館(旧奥村家)

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(図2)藍の館(藍染めのきもの)

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(図3)蓼藍の葉(夏に2回収穫)

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(図4)藍染め(和紙人形で再現)




             
今日、天然藍染めの商品を製造する全国の工房の多くは、藍住町、上板町で生産された「すくも」を使用しており、そのシェアーはおよそ90%にもなるといわれています。

江戸時代の農業全書全十巻(宮崎安貞著)には、人々に必要な植物として“三草四木”という考え方があり、三草は麻・藍・紅花叉は麻・藍・木綿、四木は桑・茶・楮・漆とされ、藍が選ばれています。日本では古代より高い身分の人しか身に着けることを許されない「禁色(きんじき)」が各時代にありますが、“藍の色”は誰もが自由に使用できました。

そして武家においては“勝”につながるとして、藍染めでは最も濃い染めの“褐(かち)色”を好まれて、現在でも剣道の稽古着は、藍染めが防菌・防臭にもなる事もあり多く使用されています。そして薄い藍染めの色は“甕のぞき”といい、以降は色の濃くなっていく順に浅葱色、縹(はなだ)色、藍色、紺色、そして褐色と呼ばれます。




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図−5 藍染の色名 




江戸時代になると木綿の生産が各地で広まり、きもの、ゆかた、半纏、足袋、暖簾、布団、風呂敷など、特に庶民は藍染め物を生活の中で様々に用いてゆきます。

明治時代に来日した小泉八雲の日記には、出会う人々の衣服や店に懸けられた暖簾など、あらゆるものが紺色であることに驚く記述があり、この一文により当時の様子がすぐさまにイメージされて、不思議と何処か遠い明治の面影が思い浮かんできます。

ところで、徳島市藍住町から吉野川沿いを上流に向かって、高速バスで30分ほど行くと美馬市脇町が有ります。ここは伝統的重要建造物群地区とされ、江戸時代中期から明治時代中期頃にかけて、藍商人達が商をして暮らした、“うだつのある町”として知られる古き町並が約400m続き、白壁の蔵・うだつ・虫篭格子の日本建築が美しく、阿波藍が長くこの地を繁栄させてきたかを知らされます。


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図―6 、図―7、図―8   藍商人により栄えた脇町・うだつのある伝統的重要建造物群



(2)につづく


教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




2015年07月30日

音コミュニケーション(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(2)音楽療法の実践的研究も行いました。



目的: 即興を用いた能動的音楽療法の効果を検討。

方法: 実験協力者 適応指導教室に通う不登校児童とスタッフ

手順: コップを用いた即興演奏の音楽療法を実施する前後に質問紙調査を行う。
  実験協力者は、音楽療法の意図を十分に説明され、同意した上でインフォームドコンセント用紙に署名して参加した。


図3



蓑下図3.jpg




 図3のように、音コミュニケーション実施後は、より笑顔になって、調子も良くなっています。
それでは、音コミュニケーション(即興的作曲療法)を体験した適応指導教室に通学中の児童の感想を紹介しましょう。


、コップで演奏をしてすごくたいへんでした。キレイな音のだし方やたたき方コップでもこんなにキレイですごい音がだせるなんてびっくりしました。自分の番ではきちんとやってなど、コップでもピアノなどの楽しいようなえんそうができて楽しかったです。アイコンタクトでえんそうするときは他の人の目をみたりしてえんそうしておもしろかったです、かえるのえんそうはりんしょうをして後からついてくるようにえんそうしたりおもしろかったです、ピアノとあわせてえんそうしたのもすごく楽しかったです。ピアノのえんそうもとてもキレイな音で心が晴れたような元気になりました。はじめる前は元気がなかったけどやってみたらすごく元気がでました。

、一つ一つのコップの音が違うので初めは驚いたけれどとてもきれいにひびき楽しく笑顔で演奏することができました。これからもっと良くなっていくのが楽しみです。またやりたいと思いました。やっているときに自然と笑ってしまったり、気持ちが良くなってきてやって良かったです。これからも頑張ってください。

、楽器じゃなくてコップを使って曲を演そうしたのが楽しかった。自分の番を忘れてしまいそうなときに友達が教えてくれたりして助かったし、うれしかった。自然と笑える場っていいなと思った。

、みんなと合そうができて楽しかったです。でもコップの音がどうしてなるのかとふしぎに思いました。

、今日は音楽療法を勉強できてよかったです。自分は音楽でドラムを習っているのですごい楽しかったです。


以上のように、登校拒否状態にある児童もアイコンタクトを遊びの中でやることで、普段「人と眼をあわせるのが怖い!」から「人と眼があうと安心するし、愉しいかも?!」に変化していくことがあるという体験ができました。そこで、以下のようにまとめました。




音コミュニケーション
  音をつかった人と人とのコミュニケーション


@アイコンタクト
 対人恐怖ぎみの人も、必要のためにアイコンタクをしてみる
          ↓
       怖くない→いえ、むしろ楽しい?
          ↓
 アイコンタクトで生まれる心のつながり

A共同作業
 いっしょに何かやることで、生まれるワクワク♪
       ↓
 集団ってもしかしたら、そんなに嫌なことじゃないかも???
       ↓
 いつもより周りの人が優しくみえるなあ、、、。

B創造性
 ワクワクすることで生まれる独創性♪
       ↓
 あれ?自分にもできる???
       ↓
 自分らしさの取り戻し。→自己実現(byロジャース)

Cチャレンジ精神
 怖いこともやってみると楽しい♪
       ↓
 あれ、最初は怖くても何とかできるかも???
       ↓
 克服→「人生は冒険」 (byロジャース)



                        
来談者中心療法のロジャース

全ての人は自己実現する力をもっている。不適応な状態にいても、自分で克服する事ができる。カウンセリングは受容的に聴いて行くことで本人の立ち直る力を回復させる。

自己実現:自分らしくのびのびと生きる力

人生は冒険:日々人は危険をおかして前に進んでいく。   



これからもいろいろな方たちに音コミュニケーションを体験していただこうと考えています。


    
文学部 心理学科 教授 簑下成子





2015年06月25日

音コミュニケーション

地域とともに活躍する川村学園女子大学





音コミュニケーション


高齢者施設をはじめとしたグループ療法のひとつに音楽療法があります。音楽療法にも色々あり、音楽を聴く方法や演奏を取り入れた方法で、受動的音楽療法と能動的音楽療法があります。

受動的音楽療法では、静かな環境をととのえ、名曲を聴いて浸らせます。能動的音楽療法では、以下の手法があります。

@高齢者施設などで行われる唱歌の合唱など
A様々な楽器の演奏、手足を使った、簡単なリズム遊び、など
B作曲療法などです。

対象となる人たちは、健康なにとから、不登校児童、高齢者、入院患者、精神障害者等です。

高次脳機能障害者へのピアノを用いた音楽療法では、記憶障害が改善されたという報告もあります(熊本,2003)。

左半側空間無視という、頭を打つ事故の後の障害で、右側しか歯磨きできなくなった人も音楽にあわせてリズムにのって行うことで、歯みがきできるようになった例もあります(甲谷,2004)。

海外の研究では、不安、うつ病、認知症だけでなく、認知機能(作業能力、判断能力、情報処理能力)が改善し、生活の質(QOL)もよくなった報告があります(ブラックバーン,2014)。

ブラッドは、がん患者30名に集団的に作曲療法を試みて、患者の感情表現が豊かになって、リラックスできるようになり、自分らしさを取り戻せたといいます。(ブラッド,2014)。

 精神的な症状では、家庭や職場に復帰するときには、ひとつひとつの症状よりも普段の人付き合いが重要になってきます。そのためには、能動的な音楽療法の作曲療法が特に効果を発揮します。

即興を用いた能動的音楽療法の一例(簑下ら,2012による)

ウォーミングアップ
1.ウォーミングアップ後、キラキラ星、かえるの歌。
2.コップと水を用いた即興的な能動的音楽療法
1オクターブ分の8名で、それぞれの音階になるように水を入れたコップを持ち、バチで叩くことによって演奏し、コミュニケーションをとりながら即興演奏する手法です。

参加者は、スタートの人からアイコンタクトをとった人へと次のコップを叩く人を廻していき、8つ全ての音階が奏でられるように工夫します。3回繰り返すと、一定のメロディが聴こえてくるので、ピアノで伴奏をつけて楽曲を完成させます。コップを叩くリズムや回数、音階の順番を変えることである程度無限のメロディが生まれます。




         
 図1.即興的作曲療法の方法



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   図2.音コミュニケーションを取り入れた音楽療法を実施している
健常大学生たちとピアニスト渡辺かづきさん。
トーンチャイムでアイコンタクトしながらメロディを作っていきます。



(2)につづく




文学部 心理学科 教授 簑下成子




2015年06月10日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(4)



 皆さんよくご存じの「十二支」。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、ですが、これをこの順序で、アナログ時計の文字盤に当てはめていって下さい。

 子を真上(12時)にすると、丑が1時、寅が2時…午が6時…亥が11時、ということになりますね。

 そしてその、子丑寅卯…が書き込まれた文字盤を、方位を示す羅針盤に見立てるとどうなるでしょう。子(12時)が真北、卯(3時)が東、午(6時)が南、酉(9時)が西というように見立てることが出来ます。

 詳しい説明は省きますが、戦国中期においては「子から未が生まれ、未から寅が生まれ、寅から酉が生まれ、酉から辰が生まれる」とされました(ちなみにこの段階では、ネズミとかヒツジとかトラといった動物とは全く関連がありません)。これは楽器の音階を調律する時の音楽理論に関わるもので、従って当時の人々にとって十分科学的なものでした。

 この子(12時)・未(7時)・寅(2時)・酉(9時)・辰(4時)の各方位に、水・火・木・金・土という五行がそれぞれ当てはめられました。それはやがて単純化され、「北=水、南=火、東=木、西=金、中央=土」と当てはめられます。


 方位の次は色彩です。

 北は太陽が隠れる方位、南は太陽が最も高まる方位。というわけで、北=水には黒色、南=火には赤色を当てはめます。そして東=木に植物の色である青、西=金に金属の色である白、中央=土は土壌の色である黄色が、それぞれ結びつけられました。


 季節だってすぐ想定できますね。
 北=水は冬であり、南=火は夏です。当然、東=木が春で、西=金が秋で…あれ、中央=土はどうしましょう。

 土が象徴する季節は、春夏秋冬のそれぞれの終わりにやってくる、とされました。四分割されて春夏秋冬の後ろにくっつけられたわけですね。

 五行説はこのような自然界の事象について説明を可能としました。そして、それを凌駕するような体系だった説明は当時存在しませんでした。

 しかも古代にあっては、自然界の現象と人間界の政治はひとつながりのものと認識されていました。だから前回述べたとおり、董仲舒は歴史上の出来事を五行説で説明し、王朝交代も五行にのっとって展開するとされたわけです。

 ここまで来れば、なぜ漢王朝のシンボルカラーが赤、魏王朝のシンボルカラーが黄色だったのか、もうおわかりでしょう。漢王朝は火徳、魏王朝は土徳とされていたからです。

 世界史をしっかり勉強した方なら、後漢王朝が成立する前の「赤眉の乱」をご存じでしょう。眉を赤く染めて反乱軍のメンバーの目印としたからその名がありますが、なぜ赤く染めたのかといえば、いったん滅亡した漢王朝の復活を願って起こされた反乱だからです。

 それと逆なのが、三国志ファンならおなじみ、後漢末期の農民反乱「黄巾の乱」。黄色い頭巾が反乱軍の目印でしたが、それは彼らが「打倒漢王朝=新しい世の中の到来」を目標にしたからで、「赤の次の色」である黄色をシンボルにしたのです。

 こうして、五行説は世の中のあらゆる事象を説明する理論として、社会の隅々まで浸透していきました。

 そして隋唐の時代には、遣隋使・遣唐使を通じて日本に伝えられます。日本では当時、隋唐をモデルとした国家を建設していましたから、奈良・平安時代の社会と国家について調べれば、多くの場面で五行説の影響を見て取ることが出来ます。

 なぜ、平安京の南の入口は「朱雀門」である(「朱」の字がつく)のか。もうおわかりですね。

 日本でも五行説は社会に深く浸透して中世近世へと至ります。中には当然、日本独自の文化の中に組み込まれたものもあります。

 わかりやすい例は、例えば「大相撲の土俵の上で、天井からたれ下がっている房の色は青赤白黒である」。土俵(土=黄色)を中心として考えれば、おわかりですよね。




高津 last.jpg







 山手線には「目白」と「目黒」駅があり、東京に慣れてない人から紛らわしいと言われたりするのですが、あれは「目白不動」「目黒不動」というお寺の名前から来ています。

 実は江戸東京の街には、他にも「目赤不動」「目青不動」「目黄不動」も存在するのです。もし全部駅の名前になっていたら、大変でした(笑)。

 「土用」という言葉をご存じですか。今では「土用の丑」という、うなぎがバカ売れする日についてのニュースぐらいでしか聞かなくなりました(「土用波」なら聞いたことある人もいるかもしれません。夏の終わりに日本を襲う高波のことです)。

 この「土用」とは本来は、春夏秋冬の後ろにやってくる、土が象徴する季節を指します。だから年に四回あるわけで、うなぎで有名なのは正確には「夏の土用の期間内の丑の日」ということになります。

 現代日本で「漢方」として継承されている東洋医学のルーツはもちろん中国医学ですが、その基本は体調のバランスを整えて健康な身体を作ることにあります。病気の治療も当然行いますが、それは対症療法というよりは、バランスが崩れたものを回復させるという発想でした。

 そこでは、人体とは小宇宙であり、自然界の延長にあると考えられました。

 となれば、当然五行説の出番です。身体の部位、臓器、分泌液、味覚や感情など、あらゆる要素が五行に配当され、それらは相互に関連づけられていきました。

 現在、陰陽五行について調べようと思ったとして、例えばグーグルで検索をかけると、そこに挙げられる情報の大半は東洋医学関係のものです。つまり、現代日本でも東洋医学の世界では、五行説が現役の理論として生きているのです。

(了)



文学部 史学科 教授 高津純也




2015年05月25日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(3)

 「木・火・土・金・水」がこの世界の基本元素だというのは何となく理解できますが、決まった順序で交代し循環する、というのはどういうことでしょうか。

 戦国時代中期の『尚書』洪範篇の記述では、基本元素は「一に水、二に火、三に木、四に金、五に土」という順序で挙げられていますが、その順序になっている理由は明確でありません。まあ、何となくこの中では水と火が他以上に重要そうですけどね。

 鄒衍は、「木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち、水は火に勝ち、土は水に勝つ」という説を唱えます。つまり「木→金→火→水→土→木→金…」と循環することになる、というわけです。

 
 イメージできますでしょうか。

  木は、土を破って生えてきます。
  金属は、木を簡単に切断します。
  火は、金属を溶かします。
  水は、火を消し止めます。
  土は、水をせき止めます。
 という、「どちらが勝つか」比べをするとこうなる、という説明を加えたわけです。

 この「木→金→火→水→土→木→金…」という順序で循環する、という理論のことを、「五行相勝説」(もしくは「五行相剋説」)と呼びます。

 そして鄒衍は、彼の時代までに成立した中国の王朝をこの説に当てはめます。 

 「夏王朝は木徳、殷王朝は金徳、周王朝は火徳をそれぞれ天から授かって地上を支配した。従って、周の次の王朝は水徳である」と。

 このような発想は、周王朝の命運が風前の灯火となっていた戦国後期に生きた鄒衍ならではかもしれません。いったい天下の行方はどうなるのか、全ての知識人の関心事だったのですから。

 こうして、水・火・木・金・土という五元素は、単にこの世の物質を全て作っているという自然科学的な説明にとどまらず、中国を支配する王朝のあり方をも理論づけるものとなりました。この考え方に従い、周の次に中国を支配した秦王朝−ご存じ始皇帝によって天下統一が果たされました−は水徳であり、さらにその滅亡後に建国された漢王朝は土徳である、とされました。


 そして前漢中期(紀元前1世紀)になると話はさらにエスカレートします。

 董仲舒(とうちゅうじょ)という学者がいました。彼は陰陽五行説を導入し、歴史書に記されている、日食や干ばつといった天変地異の原因を、同時期の政治的事件で説明していったのです。

 天変地異と政治的事件とを関連づけることは、古くから行われてきました。例えば「○王が暴君だから、ひどい洪水が起きたのだ」「×国の当時の殿様が寛大だったので、この時期は豊作が続いたのだ」といった具合です。

 董仲舒はそこに陰陽五行説を持ち込んだわけです。五行は決まった順序で交代し循環しますから、そこにうまく歴史上の事件を当てはめることが出来れば、「ほら、こういう結果になったのは必然だったのだよ」と説得できます。

 これが21世紀の現代であれば、いくら見事に説明したって、うさんくさい「トンデモ本」として笑われるのがオチです。

 しかしそれは、五行説以上に説得力のある近代以降の自然科学の世界を、我々が学んでいるからです。そんなものが存在しなかった古代において、五行説以上に全てをうまく説明する理論はありませんでした。


 ところで、「木・火・土・金・水」がどういう順序で交代するか、という点については、鄒衍と別の考え方をする人もいたようです。

 木から火が生まれる(←木は容易に燃える)。
 火から土が生まれる(←火が消えた後には灰が出現する)。
 土から金が生まれる(←金属は土の中から掘り出される)。
 金から水が生まれる(←金属製品の表面には結露する)。
 水から木が生まれる(←木は水を吸収して生えてくる)。
 という、「どれからどれが生まれるか」を見極めるとこうなる、という説です。

 つまり、「木→火→土→金→水→木→火…」という順序で循環する、という理論になります。こちらの理論のことを「五行相生説」と呼びます。

 董仲舒の時代からしばらく経った前漢後期には、こと王朝交代については五行相勝説より五行相生説で説明する方が主流となりました。そこで、漢王朝は土徳ではなく火徳である、そして漢の次の王朝が土徳である、という説明になりました。




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 こうして、後漢の時代(紀元1〜3世紀)には、陰陽五行説は、自然界・人間界を問わず、あらゆる事象を説明する理論として隆盛を極めました。

 しかし、そんなに何でもかんでも五行で説明できるものでしょうか。
 次回、いくつかの事例をご紹介しましょう。


(4)につづく




文学部 史学科 教授 高津純也




2015年05月11日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)



 『尚書』洪範篇と相前後して、万物の根本となるいくつかの元素とその特徴を説明することで、この世界の基本法則を解き明かそうとする記述が、いくつかの文献に見え始めます。やがて、挙げられる元素が水・火・木・金・土に固定していきます。最も説得力があったということでしょうね。

 「この世界は水・火・木・金・土という五つの元素から成り立っている」「それぞれ特徴的な性質があるのだから、それに従って上手に利用することこそ、事をうまく運ぶための基本である」という五行説の基本が確立すると、それより先に成立していた、「万物には陰と陽という二つの側面がある」という陰陽説と容易に結びつきます。こうして成立したのが「陰陽五行説」というわけです。


 紀元前に栄えた古代文明で、「この世をつかさどっている根本は何か、万物の全てを形作っている元素は何か」という原理を探求した…ということですぐ思い起こされるのは、古代ギリシアの哲学者たちでしょう。

 万物の根源は「水だ」「数だ」「火だ」「原子だ」と、多くの学者が多彩な学説を遺しました。タレス、ピタゴラス、ヘラクレイトス、デモクリトス…。中には、現在から見ても「鋭いなあ」と唸らされるような記述も少なくありません。




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 それにわずかに遅れる形で、ギリシアの存在すら知らない遠方の古代中国にも、似たような思索をする人々が出現した、ということです。

 ただし五行説の特徴は、単に自然界の法則、万物の根源を解明するという点に留まらず、人間の精神的営みである感情や「徳」も五つの要素からなる、と守備範囲が非常に広かったことです。この王朝のシンボルカラーはこれだ、という話もそこから出てきます。

 『尚書』洪範篇の後段には、
 「雨・日照り・暖かさ・寒さ・風、という五つの徴候を重視せよ。これらがバランスよく、順序を違えずやってくれば、豊作になるのである。逆に一つだけが多すぎたり少なすぎたりすると、よくない結果となる。王が慎ましやかなら適度に雨が降り、王が物事をよく治めれば適度に日照りがあり、王が聡明なら適度に暖か、王が明敏なら適度に寒く、王が万事に通ずれば適度に風が吹くのである」とあります。

 
つまり、農耕民族であった古代中国の人々にとって最も重要だった気候・天候の善し悪しは、為政者である王の行いの善し悪しに懸かっているのである、と説くわけです。
 
このように五行説は、そのスタートの段階から、自然科学と政治思想とを結びつけるものでした。


 戦国時代後期(紀元前3世紀)、斉(せい)の国(今の中国東部、山東省あたり)に、鄒衍(すうえん)という人物が現れます。この人の著作は残っていませんが、現在に伝わるいくつかの古典文献に、鄒衍はこんなことを説いた、という記述が残っています。

 
それによれば…
 「この世には『木徳』『火徳』『土徳』『金徳』『水徳』という五つの徳がある」
 「そして各王朝は、それらの徳の一つと結びついている」
 「これらの徳は循環する。王朝が交代するごとに、徳も次へ次へと移ってゆく(五回王朝が交代すれば元に戻る、ということになる)」


 …なんだかよくわかりませんね。

 
そもそも、「徳」って何なんでしょうか。「徳」に種類があるってどういうことでしょうか。

 
我々が「徳」という単語でイメージする用法といえば、「あの人は人徳がある」とか「徳の高い殿様」とか、そんなカンジですよね。つまり、人柄のすばらしさ、周囲から尊敬されるような立ち居振る舞い、といったイメージ。


 『広辞苑』(第五版)で「徳」を引くと、「@道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。」とあります。これは、我々が普通に考える「徳」の説明ですね。


 しかし実は、中国で2000年も3000年も前にこの単語=漢字が誕生した当時、この語には「立派だ」とか「善い」とかいう評価や、「行為」とか「性格」とかいう意味は、全然含まれていなかったんです。


 もともと、この「徳」という単語は、「人を動かす『目力(めぢから)』」を指すものだったのです。
 現在なお「目力」という言葉があるように、人が強いまなざしを何かに向けるとき、その視線にはパワーがある、と何となく思ったりしますよね。まるで、目からビームが出て相手を射貫くように。

 
呪術とかオカルトとかの世界がもっと身近だった古代では、なおのことそう信じられていました。人の視線には、その先にあるものを攻撃したり癒やしたりする力が宿っている、と。「徳」という漢字のうち、左側の「ぎょうにんべん」と右下の「心」を取り去った右上部分は、もともと「目からビーム(?)が出ている」姿をかたどったものです。


 だから「善い」とか「立派だ」とか、そういう道徳的な評価とは関係なかったんです。何かこう、もっと超自然的なパワーを指すものでした。


 「徳」とはそういう意味であったという前提で、もう一度上述した鄒衍の説を見直してみましょう。何となく、今度はイメージできる気がしませんか。


 五種類の、超自然的な力。
 それはそれぞれ、木・火・土・金・水というこの世界の基本元素と結びついている。

 この人間社会を支配する存在=王朝は、その超自然的な力を味方に付けているからこそ、社会を支配できるのである。そのパワーを失えば、王朝は滅びる。そして、次の種類のパワーを味方に付けた王朝が、新たに誕生する。…



 鄒衍の説のもう一つの特徴は、その五種類の徳は決まった順序で交代し循環する、という点です。次回はその点から見ていきましょう。


(3)につづく


文学部 史学科 教授 高津 純也




2015年04月29日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−

地域とともに活躍する川村学園女子大学







(1)

 「シンボルカラー」「シンボルマーク」
 …みなさんよくご存じですよね。何か一つ、色や紋章を決めておいて、それによって自らを象徴するということは、どんな時代でも地域でも、個人やチームや企業、そして国家や王朝が行ってきたことです。

 源平の合戦なら、源氏は白旗、平家は赤旗。

 サッカーのナショナルチームなら、フランスは青、オランダはオレンジ。

 徳川家のシンボルは三つ葉葵の紋章、皇室のシンボルは菊の紋章。キリスト教のシンボルは十字、イスラームのシンボルは三日月。…いくらでもありますよね。




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 古代中国でも、王朝ごとにシンボルカラーが決まっていました。例えば漢王朝は赤。そして漢(後漢)の滅亡後に成立した魏(三国時代)は黄色でした。

 しかし特異なのは、そのシンボルカラーはその王朝が独自に決めたものではなく、その王朝が成立する前から決定されていたものだと言うことです。将来、今の王朝が滅亡したら、次の王朝のシンボルカラーはこれだ、と。

 新しい王朝を立てる人と言えば、かなりの英雄か、そうでなくても相当の権力者に決まっています。そんな権力者をもってしても変更できない、運命づけられた王朝の色。…どうやって決められていたのでしょうか?
 それを決めていたのが、古代中国で「万物を貫く基本法則」として広く浸透していた、「五行説(ごぎょうせつ)」という理論なのです。

 「五行説」…名前ぐらいは聞いたことあるでしょうか。

 日本では、「陰陽五行(いんようごぎょう)」という熟語となって知られているかもしれませんね。何となく、平安時代あたりの、占いとかオカルトとか妖怪変化とか、ファンタジーの世界を連想する方も多いかもしれません。

 この「陰陽五行」とは、「陰陽説」と「五行説」という二つの理論が合わさって出来た言葉なのです。どちらも、世の中の全てを説明する基本法則として信じられてきました。

 「陰陽説」の方がわかりやすいですかね。「万物は、全て二つの相反する要素(陰と陽)から成り立っている」ということです。天と地。右と左。プラスとマイナス。光と影。雄と雌。暑さと寒さ。…なるほど。どれをとっても、その片方だけが存在するということはあり得ません。

 では今回のテーマ、「五行説」はどうでしょう。

 それは、「万物は、全て五つの要素からなり、その五つは循環するように交代していく」という理論なのです。

 五つとは、例えば色なら、青・赤・黄・白・黒。

 例えば方角なら、東・南・西・北・中央。味覚なら、酸っぱい、苦い、甘い、辛い、しょっぱい。など、無数にあります。

 それらの根本となっているのが、この世界を形成しているとされた五つの元素である、水・火・木・金・土なのです。

 この五つが「循環する」とはどういうことか、その点は後回しにするとして、とりあえず「万物は水・火・木・金・土という五つの元素から成り立っている」という五行説の根本となる考え方は、いつごろ成立したのでしょうか。

 正確にはわかっていませんが、このことについて記している文献で最古のものが、いわゆる四書五経の一つである『尚書』の洪範(こうはん)篇であることは定説です。そしてその成立は、戦国時代中期(紀元前4世紀半ば)ではないかと言われています。

 そこには、古代中国の伝説の聖王である禹(う)が、世の中をうまく治めるために必要な基本原理について天から啓示を受けたことが語られています。その基本原理とは人間の行いや性格、国家の官職など9つの分野にわたります。

 その中で筆頭にあげられているのが、水・火・木・金・土という五つの元素のことです。「まずは『五行』である。一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である」と紹介した上で、「水は流れ下り、火は燃え上がり、木は曲がったり伸びたりし、金は形を自在に変え、土は種をまき収穫するのを助ける」と、それぞれの性質が説明されます。この性質をよく理解して活かすことが重要だ、というわけです。

 この「水・火・木・金・土こそ、万物の根源だ」は、五行説の初歩中の初歩。次回は、そこからどう展開していったかを見てゆきます。


(2)につづく



文学部 史学科 教授 高津 純也