2017年02月16日

祭が生まれる、祭りが変わる(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(2)


4.祭りの消極的変化@―人的側面

以上を前提に、祭りの変化の様態を、消極的変化と積極的変化に分けて考えてみます。望まずに、もしくはそれと気づかぬうちに変わらざるを得なかったという変化と、変わろうとして変わったものとを分けて考えようということです。

最初に検討するのは人的側面です。祭りの担い手集団も世代交代していきますが、それが祭りの変化につながるケースも見受けられます。先ほども取り上げた佐原の祭礼を事例にしてみます。

佐原では、平成初頭に祭礼に関する意識変化がはかられました。関係者に話をうかがうかぎりでは、従来は地元の人びとが山車の曳き回しに熱中する、自分たちが「楽しむ祭り」になっていた。これを「見せる祭り」に変えてゆこうという意識変化があったのだといいます。これは単なる観光化ではありません。そもそも、佐原の祭礼の背景には商人の町としての経済発展があります。各町内の富裕な旦那衆が顧客や他町内に権勢を示す機会だった。つまり、本来的に「見てもらうこと」と結びついた祭りだったのだと、意識転換を推し進めた人びとは考えたのです。そのような往時のあり方は第二次世界大戦後のある時期に失われてしまった、だから往時に回帰しようと彼らは主張しました。往時とは、佐原が商都としての繁栄を誇っていた時代でもあります。こういう議論を、彼らは古文書を読み込み、勉強を重ねながら、組み立てていったのです。これなどは積極的変化の範疇に属するものともいえますが、世代の推移によって祭りのあり方が変わっていくことをよくあらわしています。

 また、人的な問題として各地で問題化しているのが人手不足です。過疎地域ばかりでなく、都市部でも氏子圏の空洞化や地域に関心のない新住民の増加が問題になっています。神田明神のお祭りなどは東京の真ん中で、氏子圏にはオフィス街が形成されている関係で、担い手として企業の参加を受け入れています。青森市の青森ねぶた祭りの場合は、豪勢なねぶたを作成することが経済的負担になることもあり、参加団体は企業が増加しています。「住民の手から祭礼が離れていく」という感傷を捨てて現実を捉えるなら、企業が祭礼を通して地域と関わろうとするあり方は、祭りの今日における意味を物語っています。祭りは新たな集団を巻き込みながら地域統合・融和を果たそうとする機会になっているのです。



5.祭りの消極的変化A―環境的側面

環境的な要因で祭りが変わるケースを取り上げます。とりわけ、環境変化が著しいのは都市です。都市空間は内部の激しい新陳代謝を特徴にしています。非常に短い期間で景観がかわっていく。では、そういう環境変化が祭りにどのように関わってくるのでしょうか。

 例えば、電線や歩道橋が道路に渡されると、大型の山車を曳きまわす祭礼は変化を余儀なくされます。東京の山王祭りの場合、電線の敷設は山車が廃れる一因となり、むしろ神輿の盛大化を導きます。山王祭の山車は、江戸城の城門をくぐるために高さを調節する「せり出し」という仕掛けを備えていました。この仕掛けが佐原の山車に引き継がれているのですが、佐原では電線敷設に対応するために受容されました。とはいえ、佐原の山車がスムーズに電線に対応できたわけではありません。佐原の山車は、大人形という非常に大きな飾り物を頂上部に設置しています。昔の写真をみていると、かつての大人形は全身像なのです。せり出しを取り入れたとしても全身像では電線をくぐることができません。そこで人形の下半身をとりはずすという対処が行なわれました。取り外された下半身が処分されてしまった例もあります。また、青森市のねぶた祭りですが、どういうかたちをしているかご存知でしょうか。あれは、横幅と奥行が突出し、高さはさほどないのです。これも、戦後、都市の形態にあわせて「ねぶた」を大規模化していった結果です。今日の祭りのあり方は、都市環境の変化の柔軟に対応してきた結果であるといえるでしょう。

祭りに影響を及ぼすものは電線だけではありません。例えば、道路のアスファルト化からの影響もあります。佐原の山車はただ曳き回すだけでなく、曲曳きというものを行ないます。その中に「のの字まわし」というものがあり、「の」の字を描くように山車を回転させる、見どころの一つです。これにアスファルトが影響してきます。「のの字まわし」は車輪と地面との間に摩擦をおこすのです。かつては、地面は砂利や土でした。えぐれるのは地面のほうだったわけですが、アスファルト化した場合、削れるのは車輪ということになります。実際、佐原の山車の車輪の耐久年数はぐっと短くなったと言われていますし、「のの字まわし」を行なうテクニックにも変化が生じました。力の込め方が変化したわけです。



(3)につづく


【参考文献】
・及川祥平2010 「佐原祭礼の変容−山車の維持・修理の分析を通して−」松崎憲三編『小京都と小江戸』、岩田書院


文学部 日本文化学科 講師 及川祥平




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2017年01月26日

祭りが生まれる、祭りが変わる

地域とともに活躍する川村学園女子大学





祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(1)



はじめに

「祭り」といえば「伝統」や「ふるさと」というイメージと親和的です。しかし、それはあくまでもイメージです。それらは大小さまざまな変化を経ながら今日のかたちをとっていますし、新たな「祭り(らしきもの)」が生み出されてもいます。本講座では、民俗学の立場から、変化と創造に満ちた祭りの姿を検討してみます。


1.「祭り」とは

もっとも狭義における「祭り」とは、周期的な神の来臨に際して、これに奉仕しつつ神託を乞い、祈願を届け、また感謝の意を告げて、再び送り返す、集団成員による集団のための宗教儀礼もしくはその複合と捉えるべきものです。祭りは、「まつらう」こと、つまり奉仕することを意味します。一年に一度、決まった日に来臨した神に奉仕することが祭りの一つの根幹とみることができるでしょう。



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写真1 埼玉県秩父郡小鹿野町の大徳院稲荷神社の祭り。2016年及川撮影。





写真1は大徳院という寺にある稲荷神社の祭りです。祭典には地区の人びとのみが臨み、観光客はきません。地区の人びとが、地区のために行なう「祭り」です。
ただし、祭りの宗教的側面に注目するのみでは、現実を理解する上で不十分です。現代と比較して娯楽の選択肢の乏しい生活環境では、「祭り」はきわめて「楽しみ」な機会の一つでもありました。



2.「祭り」「祭礼」「イベント」

私達は、祭りは喧騒と興奮の機会であるというイメージをもっています。民俗学では、集団が集団のためだけに行なうもの「祭り」とは別に、「祭礼」という概念を使っています。相違点は「観客」の存在です。「祭礼」は、「祭り」に観客を意識した趣向を組み入れ、それが盛大化したものを指します。写真2は佐原の祭礼です。立派な山車を各町内で曳きまわす、とても賑やかな「祭礼」です。



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写真2 千葉県香取市佐原の祭礼。2008年及川撮影。




 祭り(祭礼)は二つの顔をもつといえます。厳粛な神迎えの祭儀と大騒ぎの機会という二側面です。人びとは祭りに刺激をもとめ、新しさ・面白さを競っていきます。こういうエネルギッシュな側面もまた、祭りの根幹と考えたほうがよいでしょう。

 このことを前提に目を向けてみたいのは、現在、各地で行なわれているイベントです。宗教性の希薄な、もしくはまったく伴わない「祭り的なるもの」が各地にあふれている。これらは、ときとして「○○祭り」などと銘打つわけですが、果たして祭りといって良いのか否か。これはたしかに「神なき祭り」ではあります。しかし、体験される様態としては、宗教的な祭りと連続性があるということができます。祭りは、神が来臨し、人間に活力を与える機会です。もしくは、淡々とした日常にリズムを与え、人びとを賦活するものでもあります。イベント祭りもまた、非日常の体験によってリフレッシュする機会ということができます。



3.真正性

こうした祭りや祭礼の「いま」を考えようとする場合、難しい問題が存在します。それが真正性です。



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写真3 秋田のなまはげ。2009年及川撮影。



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写真4 埼玉県の人形サミット。2016年及川撮影。




写真3は秋田の「なまはげ」です。男鹿半島等で小正月の日に、村の若者たちがこれに扮し、各家をまわるという行事ですが、この写真は村の行事を撮影したものではありません。実は、秋田市の駅前にある居酒屋のショーなのです。問題は、この居酒屋でのなまはげ体験は、「本当の」なまはげ体験といえるのか否かということです。一年の特定の時期、特定の村で、村人たちのために行われていた行事と、この居酒屋のなまはげを同列に見てよいのか否か。

この種の問題は枚挙に暇がありません。写真4は市民ホールで秩父市白久の串人形が演じられている場です。伝統文化の普及啓蒙のために行われている催しですが、ここにはナマハゲと同じ問題が横たわっています。祭りの雑踏のなかで観客の息遣いを間近に感じながら、彼らを楽しませるために、つまり観客との相互性のなかで演じられていた人形芝居と、市民ホールのステージで披露される人形芝居とは、同じものといって良いのか否か。

本来の文脈から切り離されたところに存在する行事や芸能は、文化の真正性にこだわる立場からは問題視されかねません。しかし、これらがあるからこそ、文化の継承の可能性は拓かれ、担い手のモチベーションにもなります。そもそも、前近代的な生活文脈から切り離されていない伝統文化など現代社会にあり得るのでしょうか。ひるがえって、文化に偽物と本物という区分を持ちこむことが有効かどうか、という問題も発生します。文化は人間に営まれるもののすべてと言ってもよろしい。とすれば、そもそも「偽物の文化」など、あり得えないのかもしれません。厄介な問題ですが、現代社会で文化を考えようとする時、この点は必ず検討してみるべき課題の一つといえるでしょう。




(2)につづく

文学部 日本文化学科 講師 及川 祥平




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2017年01月15日

アメリカ大統領選挙2016 (4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





4.なぜクリントンが負けたのか


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ヒラリー・クリントンは政治経験もあり、多くの研究者、メディアが勝利すると予想していました。今回はクリントンが負けた原因について考えたいと思います。



クリントンは11月9日の敗北宣言の中で、「最高で最も困難な『ガラスの天井』は打ち破れませんでした。しかし、いつか誰かが、私たちが考えているよりも早く達成することでしょう」と述べました。

この「ガラスの天井」という言葉は、クリントンがよく使っていた表現です。これは女性がいくら頑張っても、能力があっても、組織のトップになることを阻む見えない障害があることを意味します。この言葉は、アメリカで女性の社会進出が本格的に始まった1980年代から使われ始めました。


アメリカでは女性の社会進出が進んでいるというイメージがありますが、必ずしもそうとは言えない現状があります。スイスの世界経済フォーラムが毎年出している世界各国の男女間の不均衡を示す指標であるGlobal Gender Gap Reportでは、今年のアメリカの順位は144か国中45位でした。アメリカでは政治の世界への女性進出が意外と進んでいない現状があります。

このような状況にあって、政治の世界の最高の職である大統領に女性が初めて就任するということを多くのアメリカ人女性が望んでいるのでは、と私たちは想像しますが、実際にはそうではありませんでした。



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CNNの出口調査(CNN: Presidential Election Results 2016)で女性票はクリントンに入ったという結果が出ましたが、上記の表にみられるように、白人女性はトランプに投票している人が多いのです。



女性がクリントンを支持しなかった理由は2つあります。1つ目はサンダース旋風です。当初、クリントンは余裕で民主党の大統領候補となると予想されていました。しかし、それを阻んだのが自らを「民主社会主義者」と呼ぶバーニー・サンダースです。彼は政府の役割の大幅拡大を主張し、所得格差の拡大に対する怒りを持つ1980年から2000年ごろに生まれた「ミレニアル世代」と呼ばれる若い人々の支持を拡大しました。彼は予備選の際、クリントンを「富裕層の代表」と呼ぶキャンペーンを展開し、この見方が若年層の間に広がりました。クリントンが民主党の大統領候補になった後は、サンダースはクリントンに投票するよう呼びかけましたが、一度ついたイメージを払拭するのはなかなか難しかったようです。



また、アメリカ人の間には思いのほかクリントンに対する嫌悪感、不信感が広がっているようです。クリントンは、夫のビルと共にかつてから不正のうわさが尽きませんでした。アーカンソー州知事夫人時代には土地開発不正融資問題であるホワイトウォーター疑惑、ファーストレディ時代にはホワイトハウスの旅行事務所職員全員を解雇し、後任に大統領の知り合いを据えたというトラベルゲート、また、FBIが保存する個人情報を不正に取り寄せたというファイルゲートといったスキャンダルがありました。さらに、国務長官時代には、家族で運営するクリントン財団に献金した外国政府や企業に有利な扱いをしたという疑惑を持たれています。

また、ファーストレディ時代に医療保険制度改革プロジェクトの責任者に就任したという事実が、ファーストレディは前面に出るべきではないと考える保守派の反感をかったともいわれています。



クリントンが最も苦しめられたのはメール問題です。これは彼女が国務長官だった時に、私用アドレスで公務上のメールをやり取りしていたという問題です。大統領選直前の10月29日にFBIの長官が捜査再開を報告するという事態を記憶している方もいると思います。この報告は、少し前に明らかになったトランプの女性問題を打ち消すインパクトがありました。このような10月になってからの大統領候補にまつわる新事実を「オクトーバー・サプライズ」といいます。

クリントンのメール問題は日本でも大きく報道されましたが、なかなか日本人には理解しにくい部分があります。私的なメールサーバーを利用していたというセキュリティ上の問題に加え、クリントンに対する不信感がこの問題の裏にあるのです。

アメリカ政府の公式文書は、将来公的記録として公開されることが義務付けられています。ある一定の期間を経れば、大統領の直筆のメモでも直接見ることができるようになるのがアメリカの制度です。このルールに従えば、国務長官時代のクリントンのメールも将来的には公開されるものとなります。しかし、クリントンのように自分でメールを管理していれば、当局から開示請求があったとしても、私的なメールとして提出を拒むことができます。すでにクリントンは個人的なメールとして大量のメールを消去しているといわれています。そのメールの多くは、クリントン財団をめぐるやり取りだったという見方が強いのです。このような経緯を見たアメリカ人は、公開情報が操作されているのではないかという疑念をクリントンに持っているのです。

したがって、アメリカ人の多くは女性大統領の誕生に対して拒否感を持っているわけではありませんが、クリントンでなくてもよいと考えていたと思われます。また、サンダースを支持したような若い女性は、女性であるというだけではクリントンを支持できないという状況にあるのです。



このように大統領選は現代アメリカ社会を大いに反映しているといえます。日本に大きな影響を与えるアメリカの動きはこれからもメディアで頻繁に報道されると思いますので、ぜひ関心を持ってもらいたいと思います。

(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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2016年12月15日

アメリカ大統領選2016(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





3.なぜトランプが勝ったのか




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今回の選挙では当初泡沫候補だとされていたトランプが勝利しました。彼が勝った要因とは何でしょうか。

選挙結果を見てみると、トランプは激戦州(swing states)といわれる10州のうち、6州で勝利しています。特に、1964年以来50年間、その勝者が13回連続で大統領になっているオハイオ、また、2000年の選挙で勝敗を分け、ヒスパニック系有権者が多いためにクリントンに有利だとみられていたフロリダでトランプが勝利したことは大きかったといえます。また、ペンシルバニア、ウィスコンシン、ミシガンという30年近く民主党が勝利し続けてきた州でもトランプは勝利を収めています。




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CNNの出口調査からどのような層がトランプを支持したのかを見てみましょう。人種別では、非白人は圧倒的にクリントンを支持していますが、白人はトランプ支持が多数派です。また、女性がクリントンを支持する一方で、男性はトランプを支持しています。年齢別では、44歳以上の半数以上がトランプ支持に回りました。




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一方、こちらの表では、4年前と比べて個人の経済状況が悪いと思っている人、また、国の進んでいる方向が間違っていると思っている人の大多数がトランプに投票していることがわかります。これらの結果をまとめると、トランプは、4年前と比べて経済状況が悪化していると考える白人の中高年男性を中心に支持を集めていたことがわかります。



アメリカは貧富の差が大きい国だというイメージがありますが、最近はますますその格差が増しています。これは、経済のグローバル化が進んだ結果、大量生産の機能が国外に移り、一部のエリートが得ることができる企画、研究、開発などの知的な職種しかアメリカには残っていないからです。つまり、アメリカ国内が空洞化しているのです。中でもその影響を受けているのは、過去にミドルクラスとしてアメリカの繁栄を享受した一方で、現在はその地位からこぼれそうになっている白人中高年の賃金労働者です。政治もメディアもこれらの層を取り上げることはありませんでした。



今回の選挙で激戦となった州、あるいは民主党地盤の州のいくつかは、ラストベルトと呼ばれる、斜陽産業が集中する中西部から東部にかけての工業地帯にまたがっています。これらの地域の多くの産業は、第二次大戦後製造業で栄えていましたが、経済のグローバル化によって空洞化が起こっており、人口減少率も高いです。前述の白人中高年の賃金労働者の怒りがこれらの地域のトランプ支持率を押し上げたのでしょう。

また、トランプが声高に訴えている反移民の姿勢も、白人労働者に魅力的に映っているようです。アメリカでは年々白人の比率が低下しています(2016年は全体の68%)。一方、ヒスパニック系は増加しており、白人労働者は移民(特に不法移民)に職を奪われる脅威を強く感じています。トランプが述べた「メキシコ国境に壁を作る」という主張は、不法移民に苦しめられる白人にとって受け入れやすい主張であるようです。

さらに、トランプを支持した人たちに共通してみられる態度は反エスタブリッシュメントです。エスタブリッシュメントというのは既得権益層、いわゆるワシントンのエリートを指します。この半世紀の間で、アメリカの経済は成長し続けてきましたが、労働者階級に実質的な恩恵はなく、貧富の差がますます広がるという結果となりました。これはワシントンで政治に携わる人々が労働者の利益を代表する者ではないからだという思いを白人労働者は強く持っていたようです。トランプの集会で繰り返されていた“Drain the swamp of Washington!”というスローガンは「ワシントンのヘドロを掻き出せ!」という意味です。

一方、トランプは政治経験も軍人の経験も全くない初の大統領になります。これまでの政治とは異なる方向にかじを取ってくれるとの期待がトランプを支持する要因のひとつだったといえるでしょう。



次回はなぜクリントンが負けたのかについて考えてみたいと思います。


(4)につづく
(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子




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2016年12月08日

アメリカ大統領選2016(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.大統領選挙の制度

今回は大統領選挙の制度について説明します。 

今年の大統領選挙では、トランプが勝利しましたが、全体の得票数はトランプ46.6%、クリントン48.1%で、クリントンの方が多く票を獲得しています(Real Clear Politics)。なぜこのようなことが起こるのか、そこにはアメリカの大統領選挙独特の選挙人制度というものがあります。

総理大臣を国会議員が決めるという制度を持つ日本人からすると、アメリカの大統領は直接選ばれているような印象がありますが、実際、アメリカの大統領選挙は間接選挙です。厳密にいえば、11月の一般選挙で、国民は大統領を直接選んでいるのではなく、自分たちの代わりに投票する選挙人を選んでいるのです。ここで選ばれた選挙人が12月に大統領に直接投票することによって、その勝者が正式な次期大統領となります。

選挙人の数は州ごとに、その人口に基づいて決定されます。例えば、人口が多いカリフォルニア州では55人の選挙人が割り当てられています。それに対し、ワイオミング州のような人口が少ない州で割り当てられている選挙人の数はわずか3人です。50州全体の選挙人の数は538人で、これは各州の連邦議会上院・下院議員の合計と同じです。

選挙人は、大統領候補を擁立している党すべてがそれぞれの州ごとに選挙人を登録します。例えば、カリフォルニア州であれば、共和党も民主党も、そして第三政党もみな55人の選挙人を用意します。ここで登録された選挙人はそれぞれの政党の擁立する候補者に投票することを誓約しています。まれにその約束を破り、別の候補に投票する選挙人もいますが、数が非常に少なく、11月の選挙結果が覆ったことはありません。

11月の一般投票では、大統領候補の名前を選びますが、ここで多数派となった大統領候補が属する政党の選挙人が12月の投票に臨む権利を得ることとなります。

ここでもう1つ理解しておかなくてはならないのは、「総取り方式(Winner-take-all)」です。これは各州の最高得票の候補者がその州に割り当てられた大統領選挙人をすべて獲得できるという制度です。僅差であっても勝ったほうがすべてを取り、負けたほうは選挙人0になります(メイン州とネブラスカ州では比例割り当て方式)。

例えば、今年の大統領選挙で、接戦となったペンシルバニア州でのそれぞれの得票率はトランプ48.8%、クリントン47.6%でした。パーセンテージでは1.2%の僅差でしたが、この州に割り当てられている選挙人20人はすべてトランプのものになります。すなわちペンシルバニア州では、共和党が登録した選挙人20人が12月の本選挙に臨むことになるのです。

今回の大統領選挙では、接戦州と言われていた州のほとんどで、トランプが僅差で勝利しました。結局、トランプは306人、クリントンは232人の選挙人を獲得し、トランプが勝ちました。これが、冒頭に述べた、得票率が勝敗に反映しなかった理由となります。

得票率が低い候補者が大統領になった例として有名なのは、2000年のジョージ・ブッシュとアル・ゴアの選挙です。得票率ではブッシュ47.9%、ゴア48.4%で、ゴアの勝利でしたが、選挙人はブッシュが271人の選挙人を獲得し、266人の獲得にとどまったゴアに勝利しました。



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ジョージ・W・ブッシュ(2001‐2009)



今回の選挙でトランプが勝利したことで、選挙人制度が見直されることになるかもしれません。


次回はトランプが勝利した理由を考えてみたいと思います。


(3)につづく
(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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2016年11月30日

アメリカ大統領選2016

地域とともに活躍する川村学園女子大学





11月に大方の予想を覆し、ドナルド・トランプがアメリカの次期大統領に選ばれました。日本でも大きく報道されたので、関心を持たれた方もいると思います。これから4回に渡り、アメリカの大統領制や選挙制、また、今回の大統領選挙を振り返ってみたいと思います。

1.大統領に関する豆知識


さてクイズです。トランプは何代目の大統領となるのでしょうか。

正解は45代目です。初代ジョージ・ワシントンが大統領になった1789年から今年で227年になりますが、この間に44人の大統領が政権についています。一方、日本では、伊藤博文が初代総理大臣となった1885年からの131年間で62人が総理大臣になりました。この数の違いは、制度の違いから生まれます。


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初代大統領 ジョージ・ワシントン(1789−1797)



皆さんご存知の通り、日本では議院内閣制がとられ、総理大臣は国会の多数政党の議員によって選ばれます。したがって、解散や不信任決議などにより、任期途中でやめることも少なくありません。一方、アメリカの大統領制では基本的に大統領が辞任をしない限り、任期いっぱい務めることができます。

アメリカの大統領44人の中で唯一辞任した大統領は、リチャード・ニクソンです。彼はウォーターゲートという事件に関わったとして弾劾されそうになる前に、自ら辞任したのです。  


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リチャード・ニクソン(1969‐1974)



辞任以外で、大統領が任期途中で変わる理由としては、暗殺があります。これまでアメリカでは4人の大統領が暗殺されました。ジョン・F・ケネディやリンカーンなど暗殺された大統領をご存知の方もいるのではないでしょうか。

辞任であれ、暗殺であれ、大統領が任期途中でその職から離れる場合は、副大統領が大統領になります。トランプと共に大統領選を勝ち抜いた次期副大統領マイク・ペンスは、連邦下院議員や州知事を歴任した政治家であり、政治経験のないトランプをサポートし、また、共和党の主流派とのパイプ役となることを期待されています。

また、大統領の任期は4年で、2期まで務めることができます。これは、初代大統領のワシントンが長期に渡り権力の座に就くものは腐敗していくとし、3選を固辞したということから、長い間慣習として守られてきました。しかし、1933年に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、第二次大戦という有事を理由に1940年と44年の選挙に立候補し、当選します。彼はアメリカ史上唯一4選された大統領です。現在は憲法修正22条により、3選は正式に禁止されています。どんなに素晴らしい大統領でも最大8年間しかその職にとどまることはできません。


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フランクリン・ルーズベルト(1933‐1945)




また、大統領に立候補するには、35歳以上の合衆国内で生まれた合衆国市民であることと、14年以上合衆国内に住んでいる必要があるため、移民は大統領になることはできません。もちろん、移民でも、合衆国内で生まれた子孫であればその資格があります。今回の大統領選挙で共和党の候補者だったマルコ・ルビオはキューバ系の移民の子孫であり、ヒスパニック(中南米)系の票が期待されましたが、トランプ氏の勢いに撤退を余儀なくされました。

次回は大統領選挙の制度についてご説明します。
(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)

(2)につづく


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子







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2016年10月26日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





5. イクメン・兼家


 あちこちに愛人を作って作者を嘆かせた兼家ですが、作者のたった一人の息子道綱の教育には細かく気を配りました。母ひとりの家庭で育つ道綱には「片飼いの駒」で淋しい思いをしているのではないかと心配する長歌も残しています。

 兼家はさびしい環境に育った道綱を、元服前の正月から、自分の屋敷東三条殿に通って貴族たちの顔を覚えさせ、誰と誰は仲が良いとか、あの人は有能だとか、貴族たちの品定めができるようにました。また、あいさつの仕方から立ち居振る舞いまでも、見よう見まねで学ぶことができました。これは、父親や親せきしか寄り付かない母の家では、決して得ることのできないことであり、貴族社会の複雑な有職(ゆうそく)故実(こじつ)と人間関係は、父兼家の屋敷で実地教育がされました。

 道綱が慣れたころを見計らって、兼家は道綱を吉野の御嶽(みたけ)(金峰山(きんぷせん))詣でや初瀬(はつせ)(長谷寺)に連れ出します。この小旅行は疎遠だった父と息子の垣根をとりはらったのかもしれません。兼家は道綱に、天皇の住む内裏の清涼(せいりょう)殿(でん)に見習いにあがる童(わらわ)殿上(てんじょう)をさせ、上流貴族の子息として貴族社会にデビューさせます。さらには、内裏での華やかな行事である賭(のり)弓(ゆみ)の射手として出場、おまけに勝ち組代表として納蘇利の舞うことも約束されます。この練習には、作者の家は手狭だということで、大勢の仲間と兼家の屋敷に移動したりしています。ちなみに、舞の師匠多好(おおのよし)茂(もち)は、『古事記』編者太安万侶の子孫で、現在、雅楽奏者として活躍する東儀秀樹はその子孫にあたるそうです。この師匠への謝礼は、兼家が支払っているようで、他にも兼家が経済的な負担を担っていると推測される場面は何カ所かあります。子どもの養育費はすべて母方がもつ、という通説はやはり誤りでしょう。

こうして、兼家邸や内裏での見習い実習を終え、元服をすませ、叙爵(従五位下の位階を受けること)されて貴族官僚としてスタートしました。正妻時姫から生まれ、父の屋敷で育った道隆・道兼・道長らに比べると、叙爵の年齢もその後の昇進も若干の遅れています。兼家は父との縁が薄く育ち、ハンディキャップを負った道綱をいとおしく感じていたのでしょう、道綱には甘い父親として、彼の頼みをいれて牛車に乗せて相撲(すまいの)節会(せちえ)に参加したりします。

兼家と道綱の関係が深まるのに反して、兼家と作者との仲は冷え切っていきました。「三十日(みそか)三十夜(みそよ)はわがもとへ」と兼家を独り占めにしたい作者と、肉親との政争に必死の兼家とはまったく別の方向を向いていたのです。実家から兼家の提供する屋敷を2,3移り住んでいた作者は、とうとう実家を売却して都の郊外中川のほとりに転居します。これは、作者と兼家との実質的な離婚です。面白いのは、この後も兼家は道綱の送り迎えに中川の屋敷を訪れますが、作者とは没交渉でした。

幼年期・少年期を人交わりもなく育ち、仲違いする両親の間にたって、双方から愚痴や罵声をあびて育った道綱は、作者にとってはいつまでも「幼き人」です。社会学者のT.パーソンズがいう‘子どもの社会化’がうまく機能しなかった子育てであったと言わざるをえません。「望月の欠けたること」のなきと権勢を誇った異母弟道長に「一日だけでも大臣にしてほしい」とねだって、周辺の貴族から冷笑されるなど、道綱を腐す逸話がたくさん残されています。


6. おわりに

 今までお話ししてきたように、男の日記は子孫の朝廷での地位を保守する実用の日記であるのに対して、女の日記は自己の一生を振り返る回想録と言って良いでしょう。(『紫式部日記』の一部は男日記の色合いが濃いものです。)男日記は歴史学者が史料として扱い、女日記は国文学者が文学作品として論ずる傾向があります。しかし、『蜻蛉日記』は年月日や人物が特定できますから、一定の注意を払えば史料として扱うことができます。こうして日記を虚心に読むと、平安時代中期の貴族の家庭の中で、正妻として夫と同居するのではなく、男の使用人として女房勤めと性的奉仕をする妾でもない妻たちがおり、日記の作者もこのような立場であった女性だと言えます。作者は夫とは別の屋敷に住み夫がそこに通ってくる、その屋敷は作者の持ち物であったり、夫の提供したものであったりするが、屋敷の維持や使用人など家計は基本的には夫が支えている、子どもの社会化は夫の人間関係、社会的地位の中でおこなわれる、夫婦の絆はきわめてゆるいものである、などが日記からうかがえます。作者の立場を副妻とか次妻とか呼ぶことがあります。副妻の社会的出自は正妻と変わらなくても、妻としての立場は一段と弱く、それは子どもに大きく影響しました。日記を読んで伝わってくる作者の嘆きやいらだちは、このような社会の仕組みがもたらすものでもあったのではないでしょうか。
 今回は、時間の都合で史料や日記の原文は提示していません。また、参考文献や先行研究も紹介できなかったことをお断りして、終わりにいたします。



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年09月29日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





4. 日記にみる兼家と作者の結婚生活



 では、日記から読み取れる作者の家庭生活はどのようなものだったのでしょうか。

作者との結婚以前に、兼家は時姫と結婚し少なくとも息子と娘がありました(最終的に時姫は3人の男子と2人の女子の母となります)。時姫の出身身分は作者と変わりありません。結婚生活は作者の実家(一条大路右近馬場(ばんば)に隣接)に兼家が通う形態です。 

 ふたりの結婚は、平安時代の結婚の典型的な形、妻問い婚とか通い婚の代表例といわれます。確かに作者と兼家は生涯同居はしていません。それは、兼家が時姫と同居していたからだと考えれば、当然のことだと言えるでしょう。同じ屋敷に住んでいればともかく、ひとりの男が別の屋敷に住むふたりの女と同時に同居はできません。どちらかと同居すれば、もうひとりとは別居、通うしかないのです。『源氏物語』の後半、光源氏は六条院を4つに区切って春の御殿に紫の上、夏の御殿に花散里、秋の御殿は秋好む中宮の里院、冬の御殿は明石の上の御殿として多数の妻たちと同居していたように描かれます。細かく述べる字数がありませんので結論だけ述べますと、この御殿は完全に仕切られており、天皇の内裏や江戸の大奥のように女たちが交わるわけではありません。今のところ、実在の平安貴族の屋敷で、妻たちがひとつ屋敷に住み合う例はみつかっていません。同じような身分の妻たちならば、別々の離れた屋敷に住んでいます。

このような妻たちの中で、夫と同居している女性を、まわりの人々は正妻とみなしました。これをわたしは社会的認知を受けた正妻と呼んでいます。正妻以外の妻たちは、出身階級は正妻にひけはとらなくても、No2の存在にあまんじなければなりません。公的な場に夫と同席するのは正妻に限られますし、なによりも生まれた子どもたちが微妙な差別を受けるのです。男子は元服(男子の成人式)したあと朝廷の役人として出仕しますが、その時の位階(身分の上下)や官職(役所のポスト)は、正妻の子の方が恵まれています。貴族というのは、朝廷での位置をできるだけ高めるのが生涯の目標のような人々です。同じ父親をもちながら、そのスタート時点で差が付けられるというのは、本当に不公平だといえるでしょう。

女子の場合は結婚相手を選ぶときに、その差があらわれます。上流貴族は天皇との外戚関係を築くために娘を天皇のキサキ(女御・更衣)に入れるのにやっきとなります。その際、キサキ候補になれるのは正妻から生まれた娘だけです。父親と母親の住む屋敷から入内していき、その付き添いは正妻になります。『源氏物語』で明石の姫君が入内するときには、紫の上が養母として付き添い、明石の上はただの女房(使用人)の形でついて行っています。

日記でもこの原則は守られています。作者が時姫に対抗するためか、兼家の愛人だった女性の娘(近江で育って母を亡くした)を養女しますが、着裳の儀式(女性の成人式、西洋のデビュタントのようにお披露目もおこないます)には、時姫のいる兼家の本邸に引き取られてしまいます。この娘は、『源氏物語』で頭中将の娘で不作法で後宮でひんしゅくをかう近江の君のモデルになったようです。


(5)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年09月12日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(3)

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3. 平安時代の結婚は‘妻問い婚’でしょうか?



女性史の創始者ともいえる高群逸(たかむれいつ)枝(え)は、平安時代の貴族の結婚生活は、夫が妻のところに通う‘妻問い婚’が基本であると主張しました。また、平安時代はまだ母系制の影響が色濃く残っているので、子育てはすべて妻の家が担うこと、夫の生活にかかわる費用も妻の家が負担すること、女の子の婿選びは母親に発言権があることなど、家庭における女性の優位を強く述べました。さらに貴族社会では一夫多妻がふつうだが、大勢の妻たちの立場は対等であって、特に‘正妻’とよべる妻はいなかった、としています。女の立場が後の時代に比べるとまだまだ強かったと、高群は述べています。

私が女性史の研究を始めたばかりのころは、まだまだ女性には不利な社会状況でしたから、高群の本を読んでいると、そうだその通りだ、と感激する文章に出会います。しかし、何か腑に落ちないところもありました。

その第一は、『竹取物語』の翁(おきな)と媼(おうな)はいっしょに住んでいたのでは?『源氏物語』の葵上の両親、左大臣と大宮も一緒に住んでいるような、『落窪物語』の父親と継母も同居している、と物語の脇役たちのことを思い浮かべたからです。まだ年若い光源氏や在五中将といった主人公は、あちらこちらの女性のもとへ気ままに訪れて愛を語らいますが、彼らの背後にいる熟年の夫婦は、同じ屋敷に暮らしている、少女のころ読んだ物語を改めて読み直してみました。

また、研究を進めていくうちに、『大鏡』という歴史物語の家族や平安貴族の日記での妻たちの書き方、また、貴族の子どもたちのその後の活動などから、どうも高群のいう妻問い婚とか、平等な妻たち、は誤っているのではないか、と確信をもつようになりました。
その、解答を与えてくれた最初の資料が、『蜻蛉日記』です。

(4)につづく




川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年07月21日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(2)

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2.メモワール 『蜻蛉日記』



 男の日記が、自身の、そして子孫のための実用書として記され、一族の象徴として扱われてきたのに対して、女の日記はメモワールとよぶのがふさわしいでしょう。今の私も同じような状況にいますが、老いの坂道を下り、そろそろ生の終焉を迎えようという時、ひたすら峠の頂上をめざして一途に歩んでいた頃を想い起こすようです。『蜻蛉日記』も一人息子道綱が独立し、夫であった兼家が手の届かない身分となってしまったと実感したとき、若き日の兼家との愛憎を日記の形を借りて書き綴りました。

 ご存じの方も多いでしょう。平安時代の女性で実名が知られているのは、公的な身分つまり中宮・女御などの天皇のキサキや尚侍・典侍などのキャリア女官、そして位階を授けられた大臣クラスの正妻などに限られます。紫式部も清少納言も女房としての通称にすぎません。そのようなわけで、『蜻蛉日記』の作者は職業を持ちませんでしたから、実名はわかりません。藤原倫(ふじわらのとも)寧(やす)の女(むすめ)とか、右大将道綱の母、そして藤原兼家の妻などと呼ばれますが、今回は、‘作者’と呼んでいきます。また、私の専門は歴史学なので、文学的なアプローチはできるだけ避けようと思います。

 再び系図をみて下さい。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg





作者の父藤原倫(とも)寧(やす)は地方巡りの有能な受領として活躍する人物で、祖母は清和源氏の嫡流源満仲(みなもとのみつなか)の妹です。典型的な平安中流貴族の家庭の娘として育ちました。「本朝三美人」のひとりとされ、優れた歌人であった彼女のもとにはさぞや多くの求婚者があらわれたことでしょう。その中で父のめがねにかなったのは藤原師輔(前述した九条流の祖)の三男兼家でした。系図をみると「かつらぎの高きわたり」(身分違いの高い家柄)と作者が謙遜するのも納得の家柄です。権力者の一族とはいえ、父師輔が政権を担うのは、まだ先の時ですし、まして兼家は三男坊で身分も低く、おまけに既に妻(正妻)がいることを考えれば、決してベストの選択とはいえません。それでも、倫寧は陸奥守として任地に向かう日が迫っており、4年間の任期を田舎で過ごせば結婚適齢期を大きく過ぎてしまいます。限りない可能性をもつはずの愛娘を兼家に託して、父は陸奥へ旅立ちました。

日記の中での兼家は、次々と愛人を作りますし、正妻時姫とは、従者も巻き込んでの抗争もありました。これは、『源氏物語』の葵祭での葵上と六条御息所との車争いのモデルともなったくらいです。日記の中に作者はいろいろ兼家の悪行を書き綴るのに、それでもなおあふれ出る兼家への想いは、文学研究者ではない私にも伝わってきます。決して理想の夫とは言えない人物ですが、なぜかとても魅力的に映ります。アメリカの南北戦争を舞台にしたベストセラーで映画でも大ヒットした『風と共に去りぬ』の登場人物、レット・バトラーを彷彿とさせる、といったら『蜻蛉日記』ファンに怒られるでしょうか。

(3)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年06月09日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー

地域とともに活躍する川村学園女子大学





   男もすなる日記というもの、女もしてみんとてすなり

 誰もが諳誦したことのある紀貫之『土佐日記』の一節です。今回は、この「男もすなる」という平安時代の貴族男性の日記『清(せい)慎(しん)公記(こうき)』と、「女もしてみん」として書かれた『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』を材料として、平安時代の政治手法や貴族の家族生活についてお話しします。




1. 日記が示す一族の明暗


『清慎公記』という名前はあまり知られていません。この日記は、藤原実頼(さねより)の日記です。系図をみて下さい。実頼は藤原北家忠(ただ)平(ひら)の長男で摂政・関白までつとめた平安中期の最高位の貴族で、この一族は彼の屋敷の名前をとって「小野宮流(おののみやりゅう)」と呼ばれます。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg



 もう一度系図をよくみて下さい。小野宮一族の娘から何人か天皇のキサキが出ますが、男(おとこ)皇子(みこ)は誕生していません。「(「)素(す)腹(ばら)の后(きさき)」と陰口をたたかれた女性もいます。ご存じのように、この時代は天皇家の外戚(がいせき)になった者が権力の中枢に立つ時代です。それでも藤原北家嫡流という家柄によって実頼は摂関の地位は確保しましたが、実権は弟の師(もろ)輔(すけ)にありました。この師輔の一族は「九条流」と呼ばれます。小野宮一族が、外戚になれなかったのに対して、九条流では、代々外戚の地位に恵まれました。『蜻蛉日記』の作者の夫である兼家(かねいえ)、その三男道長(みちなが)によって、小野宮の一族は完全に九条の一族の下位に立たされることになってしまいます。

 そんな小野宮一族にとって、自らの拠り所は家柄でした。一族の祖ともいえる忠平から受け継いだ儀式運営のノウハウや宮中でのマナーの正しい知識、これこそが彼らが誇る一族の財産です。儀式のマナーなど政治活動になんの力があるか、と考えるのは現代だからです。平安貴族にとっては。儀式の円滑な運営こそが「政治」であったといえるのです。マナーに欠ける人物は貴族社会の笑われ者になりました。ちなみに『蜻蛉日記』作者の一人息子道(みち)綱(つな)は、これでよく悪口を言われています。

 実頼も弟の師輔も、朝起きて身支度を調えると、何をおいても前日の朝廷での儀式を細々と記しました。出席者、担当、備品、開始時刻から終了まで、だれがどこで何をどう行ったか、と記録します。本人にとっての次回の備忘のためだけでなく、子孫が同じ儀式に参加するとき滞りなく振る舞えるためにです。それなら、同じ内容を伝えるようですが、そこに書き手の個性がでるようです。豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な師輔(この性行は兼家・道長にもありますが)に対して、謹厳(きんげん)実直(じっちょく)といわれた実頼の日記の方がより詳細で正確であったと思われます。

 「思われます」と表現したのは、実頼の日記『清慎公記』はほとんど残っていないからです。孫の実資(さねすけ)の日記(『小右記(しょうゆうき)』(」))や同じく孫の公(きん)任(とう)の儀式書(『北山抄(ほくざんしょう)』)などに、日記の一部が引用されていますから、それらの逸文から少しだけ知ることができるだけなのです。なぜ、一族のお宝ともいえる日記がなくなってしまったのでしょうか。それは、日記は孫たちの共有財産として融通しあっていたようですが、その一部は、実資の娘婿で道長の娘婿教通(のりみち)から頼まれて貸しているとき、火事がおきて屋敷とともに焼けてしまい、また他の一部は、公任がスクラップにして儀式書の下書きに使われて原本はなくなり、また残りは一族の誰かが、借金の形にして今で言う質屋に預けられ流される寸前までいった、とあとかたもなくなってしまったからです。

 孫世代のリーダーであった実資にとって、この日記の消失はどんなに嘆いても、怒っても足りないものでした。彼にとっての『清慎公記』は、本当なら道長親子ではなく、自分こそが摂政・関白であったはずだという思いの拠り所でした。祖父の日記が失われたことこそ、小野宮一族が斜陽になった原因だと考えることで、自らの不遇を慰めたのかもしれません。その後、道長親子から儀式・作法の参考にしたい、と『清慎公記』の借用を頼まれても、自筆のメモや口答で返事をすることで、小野宮流を有職故実の家として認めさせていきます。実資の長大な日記を丹念に読んで行くと、彼の謹直な仕事ぶりとともに、一族の衰退を止められないやるせなさも伝わってきます。



(2)につづく


川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子

(元大学院人文科学研究科長)



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2016年05月19日

「紫の物語」としての『源氏物語』(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)



 光源氏が、若紫の君に詠みかけた和歌は、作品の中にあまた詠みだされる和歌の中でも、特に著名なものです。「藤の花の色である紫色が、その根にかよっている野辺の若草」とは、平安時代の人々が、紫色を染める時に染料としていた、紫草を指しています。つまり、「若紫の君」とは、「瑞々しい紫草を思わせる女の子」という意味なのです。

紫草は、花や葉ではなく、その根が染料として使用されます。下の写真は、掘ったばかりの紫根(しこん/紫草の根)です。



ムラサキ1.jpg






 この光源氏の和歌をもって、藤壺宮から若紫へと引き継がれる「紫のゆかり」が、読者にはっきりと示されます。




また、ここであらためて振り返り、藤壺宮や若紫を物語に呼び込む原動力となった、桐壺更衣に考えを遡らせてみましょう。光源氏の母親は、なぜ「桐」という植物を、その呼び名としたのでしょうか。

 実は桐もまた、下の写真のように、紫色の花なのです。


ムラサキ2.jpg





『源氏物語』のほぼ同時代に記された、清少納言による『枕草子』には、以下のような描写があります。

【『枕草子』第一二五段「木の花は」】
桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、

【現代語訳】
桐の木の花が、紫色に咲いているのは、やはり情趣があるものであって、



 「紫」という色彩を介した、藤壺宮と若紫の「ゆかり」を認めたとき、おそらく平安時代の『源氏物語』読者たちは、桐の花も同じく紫色であることに思い至ったでしょう。桐壺更衣が、なぜ「桐」壺更衣だったのかを、この時点で初めて認識するのです。つまり「紫のゆかり」は、『源氏物語』の作者である紫式部が読者たちに投げかけた、大掛かりな「知的謎かけ・知的遊戯」とみることができるのです。



【資料出典】
・ 小学館 新編日本古典文学全集『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』。ただし現代語訳は、解説の便宜上、私訳を織り交ぜた。

【主要参考文献】
・ 荒木良雄「源氏物語象徴論―特に女性の呼び名について―」(『国文学 解釈と鑑賞』第13-3号、1948年3月)
・ 伊原昭氏『平安朝文学の色相―特に散文作品について―』(笠間書院 1967年)
・ 拙著『平安朝文学における色彩表現の研究』(風間書房 2011年)
・ 鈴木宏子氏『王朝和歌の想像力―古今集と源氏物語』(笠間書院 2012年)
・ 原岡文子氏『源氏物語とその展開―交感・子ども・源氏絵』(竹林舎 2014年)


文学部 日本文化学科 講師 森田直美






2016年04月21日

「紫の物語」としての『源氏物語』(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(3)

 10代後半の光源氏は、報われることのない藤壺宮への恋に煩悶する日々を送っていました。そんなある日、流行り病の療養のために訪れた北山で、光源氏は一人の少女に出会います。それが若紫の君、のちの紫の上です。

【本文】
十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来る女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

【現代語訳】
十歳くらいかと見えて、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)などの着なれた表着(うわぎ)を着て走って来た女の子は、大勢姿を見せていた他の子供たちとは比べものにならず、成人後の美貌もさぞかしと思いやられて、見るからにかわいらしい顔だちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔は手でこすってひどく赤くして立っている。



 周りの子どもたちと見比べると、紛れようもなく血筋の良さが感じられる少女に、光源氏の目は引きつけられます。その少女の顔かたちは、焦がれてやまない藤壺宮にそっくりなのです。後々分かることですが、この少女は、藤壺宮の姪なのです。つまり、「他人の空似」であった桐壺更衣・藤壺宮とは違い、藤壺宮と少女には血縁(ゆかり)があるのでした。

 さて、一目で若紫を見初めた光源氏は、紆余曲折の末に彼女を自邸へ引き取り、養育するようになります。若紫は、お顔立ちがかわいらしいだけではなく、とても頭の良い少女でした。書も和歌も、砂が水を吸収するように、瞬く間に上手になっていきます。そんな若紫の様子に心から満足した光源氏は、ある日彼女にひとつの歌を詠み贈ります。

【本文】
手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草

【現代語訳】
早くこの手で摘み、そばで眺めたいものだ。(藤の花の色である)紫色が、その根にかよっている、野辺の若草のような少女の美しさを。





(4)につづく

文学部 日本文化学科 講師 森田直美





2016年04月04日

「紫の物語」としての『源氏物語』(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)

 桐壺更衣は、桐壺帝に寵愛を受けたことで周囲に疎まれ、幼い光源氏を残して他界します。更衣は、桐壺帝に最後の別れを告げる際、以下のような和歌を詠んでいます。

「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」

【現代語訳】
「これを今生の限りと、お別れしなければならない死出の道が悲しく思われるにつけて、私の行きたいのは生きる道のほうでございます」

 実は、この場面に至るまで、作中に桐壺更衣の言葉や和歌は、一度も記されていません。
 夫である帝との今生の別れに、初めて記された更衣の和歌は、温和でか弱い彼女のイメージから考えると、とても強い、きっぱりとした詠みぶりです。まさに末期の絶唱と言えるでしょう。
 この和歌を皮切りに、「紫のゆかり」は動き出します。


さて、桐壺更衣を亡くし、桐壺帝はなかなか悲しみから立ち直ることができません。その姿を見かねた周囲は、更衣に顔かたちがそっくりな、先帝四の宮(藤壺)を入内させます。

【本文】
藤壺ときこゆ。げに御容貌(かたち)ありさまあやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、ひともえおとしめきこえたまはねば、うけばりてあかぬことなし。

【現代語訳】
藤壺と申しあげる。いかにもお顔だち、お姿が、不思議なまで亡き更衣に似ておいでになる。このお方は、ご身分も高いだけに、申し分なくご立派で、どなたも貶め申しあげることがおできにならないので、何の気がねもなく堂々とふるまっておられる。

 桐壺更衣に「あやしきまでぞおぼえたまへる(不思議なまでにそっくりな)」藤壺宮の入内によって、桐壺帝の心は次第に慰められていきます。そして光源氏は、時々ものの隙間から、ちらと目にした藤壺宮の美しさに心惹かれ、やがて彼女を思慕するようになります。しかし、父親の后である藤壺は、どんなに恋い焦がれても、決して手の届かない女性です。

(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 森田 直美




2016年03月16日

「紫の物語」としての『源氏物語』

地域とともに活躍する川村学園女子大学






「紫の物語」としての『源氏物語』(1)

 日本文学史上屈指の名作であり、世界初の本格的な長編小説である『源氏物語』。

 この物語を、平安時代の人々は、「紫の物語」、「紫のゆかり」などと別称していました。
たとえば、『源氏物語』から50年ほど後に著された、菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ)の『更級日記』に、
以下のような記述があります。

菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ) 作『更級(さらしな)日記(にっき)』の一節

【本文@】
紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。
【現代語訳】
『源氏物語』の紫の上にまつわる巻を読んで、その続きが見たくてならなかったが、人に頼むことなどもできなかった。

【本文A】
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。
【現代語訳】
ここは、『源氏物語』に宇治の姫宮たちのことが書かれているのを、いったいどういう場所柄ゆえに、ここを選んで住まわせたのだろうと、以前から一度は見たいと思って


 なぜ、『源氏物語』は、「紫の物語」と呼ばれるのでしょうか。
 それは、この作品の根幹を形づくっている、以下の3人のヒロインに由来しているのです。


桐壺更衣…源氏の母親。桐壺帝の寵愛を受けるが、光源氏が3歳の夏に他界する。
藤壺宮…先帝の四の宮。桐壺更衣に瓜二つ。桐壺帝の后となる。
紫の上(若紫)…藤壺宮の姪。幼少期、光源氏に見初められ、引き取られる。



(2)につづく


文学部  日本文化学科  講師  森田 直美




2016年02月18日

氷河期の下総(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(5)−化石から環境を復元する

 1.上岩橋貝層

 千葉県酒々井町(本学から車で約40分)には、リス氷期の後期(15〜24万年前)に古東京湾に堆積された「上岩橋貝層」という地層が厚さ約50cmの化石床をなして見られます(図13)。この貝層からは、トウキョウホタテやエゾタマキガイなどの貝化石が産出します。これは本州の北から南に向かって流れた寒流の影響を受けた化石群集と考えられており、氷河期の痕跡を知る上で貴重なものです。このため、写真の地層は、昭和50年に千葉県の指定文化財に登録されています。なお、この露頭の西側には15世紀後半に、千葉氏による築城「本佐倉城」(国指定の史跡)があり、この周辺でも上岩橋貝層が見られます。


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図13. 酒々井町で見られる上岩橋貝層(厚さ50~70cm)。


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図13の拡大図


 

2.木下貝層

 千葉県印西市周辺(本学から車で約20分)には、リス―ウルム間氷期の約12−13万年前に下末吉海進により古東京湾で堆積された厚さが1m以上の貝化石の地層があります。この地層からは、二枚貝のアサリ、バカガイ、サラガイ、タマキガイなどの他に巻貝のアカニシやウニのカシパンウニなどが見出され、暖流系の化石群集とされています。また、この化石層の上には、ウルム期に箱根火山や古富士山などの火山から噴出した火山灰によって形成された関東ローム層が見られます。この貝化石の見事な地層は、印西市の木下万葉公園の道路沿いの崖(成田線木下駅から徒歩5〜10分)で見ることができます((図14、15)。



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図14.印西市にある木下万葉公園の北西部で見られる木下貝層
(国指定の天然記念物)



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図15.木下万葉公園の南側で見られる木下貝層
(国指定の天然記念物)




この木下貝層の一部は、いわゆる続成作用により固結し、比較的硬い部分が見られます。これ以外に下総地域には、硬い岩盤(岩石)が地表に露出していないため、唯一の岩石となっています。なお、硬い岩石は、最も近いところで、茨城県の筑波山か、または、千葉県の銚子に行かないと、見ることができません。したがって、この地域では、古くは、古墳時代に古墳の石材として、この木下貝層が切り出されていました。例えば、博物館「千葉県立房総のむら」近くにある龍角寺岩屋古墳の石室は、この化石層によって出来ています。また、江戸時代以降は、神社仏閣等の石灯籠や民家の石塀として、広く利用されていました。例えば、石灯籠では、上述の木下万葉公園から北へ500mぐらいのところに位置する「山根山(やまねさん)不動尊」の境内で、2基の立派な石灯籠が保存・管理され、間近で見ることが出来ます(図16)。なお、この寺のお堂は、極最近に破損し、残念ながら現在、お堂を見ることが出来ません。



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図16(左右)。 山根山不動尊の境内で見られる木下貝層を使った石灯籠




3.江古田泥炭層

 東京都中野区江古田には、「江古田泥炭層」とよばれる少なくとも3層の泥炭層の存在が知られています。泥炭層は、別名「ピート」ともよばれ、植物の遺骸や花粉等を多量に含む地層で、寒冷地域(特に緯度45度以北)で多く形成される堆積物です。この泥炭は、時には燃えるため、燃料として使われることもあるものです。江古田泥炭層は、こうした植物の遺骸を含むため、放射性炭素法(C14法)を使って、地層の形成された年代(絶対年代)が求められています。その結果、3つの泥炭層のうち最下層のものは、2万8770±2600年前の主ウルム氷期時代に形成されたものであることが分かりました。この地層から産出する植物化石は、イチイ、アオモリトドマツ(オオシラビソ)、カラマツ、イラモミ、コメツガなどの針葉樹のほか、ハンノキ、サワシバ、ブナ、シナノキなどの広葉樹、さらには、キタヨシ(寒冷型の葦)やカキツバタ(アヤメの仲間)など21種類の寒系の植物が知られ、これらを含む地層を「江古田針葉樹層」ともよんでいます。このような植物群集から、当時の気温は現在よりも8〜14℃低かったことが推定されています。このことは、少なくとも江古田では、現在の日光の戦場ヶ原や尾瀬沼のような環境であったことが推定され、冬場は雪によって閉ざされていたことが考えられています。

したがって、下総台地は、こうした江古田から地理的にさほど遠くないことを考えると、ウルム氷期の最も寒かった頃に江古田と同様な環境であったと考えることができます。
このような環境を考えると、もしかしたら、氷期には本学の庭にもマンモスが闊歩し、ライチョウが飛び回っていたことを想像するかもしれません。しかし、残念ながら、マンモスは、現在までの化石の証拠から北海道まで進出しましたが、下総台地までは来なかったと考えられます。




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





posted by 園遊会 at 10:24| Comment(0) | 東葛我孫子発見伝

2016年01月14日

氷河期の下総(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(4)−地形の変遷−

 前述したように、気候の変動と海水面の変動は連動しています。つまり、氷期には海水面が下がり、これを地質学的に「海退」といいます。一方、間氷期には海水面が上がり、これは「海進」とよばれます。それでは氷河時代の下総台地はどのような水陸の分布を示したのでしょうか。


 
1.リス―ウルム間氷期


図9に示したように、リス―ウルム間氷期の12〜13万年まえの関東地方は、現在の関東平野のほとんどが海に沈んでいました。房総半島南部の比較的標高の高い房総丘陵(最も高い地点で標高408m)が大きな島となっており、また、銚子には現在の愛宕山(標高74m)という小高い地域がありますが、ここが太平洋の小島としてわずかに海面から顔をだしていたようです。当然ですが、大学のある我孫子(最も高い地点で標高22m)は、古東京湾の沖合で海底に沈んでいました。この当時、関東地域の西側では、古箱根火山や古八が岳火山が活発となり、その降り積もった火山灰などにより、主に関東地域の西側の陸地に下末吉ロームという最も古い関東ローム層(赤土)が形成されました。


二上9.jpg


図9.リス―ウルム間氷河期の水陸の分布
(破線は現在の海岸線)





2.ウルム氷期


次に、今から約6万年前の古ウルム氷期になると、気候の寒冷化に伴って海退が進みました。図10に示すように、東京湾はかなり小さくなったと考えられています。この時代には、本学のある我孫子は完全に陸化しており、箱根火山から出された火山灰等によって武蔵野ロームという赤土が形成されました。
 また、最も寒くなった時期の一つとして、約2万年前の主ウルム氷期の時代には、さらに海退が進み東京湾は完全に消失しました。その結果、利根川(江戸時代まで現在の東京湾に注いでいました)や多摩川の河川が延長され、現在の東京湾のほぼ中央に古東京川という“まぼろしの川”を形成し、深い谷地形をつくっていました(図11)。この時代には、現在の富士山の前身である古富士山の活動によって、立川ローム(関東ローム層の一番上にある赤土)が形成されています。



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図10.古ウルム氷河(約6万年前)における水陸の分布



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図11.主ウルム氷河(約2万年前)における水陸の分布



3.後氷期


氷期の終わった後の時代を後氷期(第四紀完新世)といいます。縄文時代前期の約6,000年前には、温暖化により関東平野の奥(群馬県や栃木県)まで海が広がりました。このことは、貝塚の痕跡からも認めることができます。また、館山では、現在の標高で15〜20mぐらいのところに熱帯から亜熱帯に生息する造礁性サンゴの化石が大量に見つかっています(通称「沼のさんご礁」といわれています)。こうしたことからも、当時は現在よりもかなり気温が高かったことが推定されます。ちなみに、この時期の本学は、内湾の海底にあったことが分かっています(図12)。

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図12.縄文前期(約6000年前)の水陸の分布




(5) につづく


教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫









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2015年12月10日

氷河時代の下総(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(3)−気候変動の要因−

ここでは、氷河時代(気候変動)を引き起こす原因について簡単に触れてみたいと思います。



1.地球の自転・公転による気候変動

セルビアの有名な天文学者、ミリューシン・ミランコビッチは、

@地球が太陽を回る公転軌道が円くなったり、楕円になったり一定ではないこと、
A地球が太陽の周りを回る公転軌道面に対して、地球の自転軸が23.4度傾いており、

これが変化することなどを指摘しています。

これらのことは、太陽からの日射量が時代によって繰り返し変化すること(ミランコビッチサイクル)により気候変動が生じる、すなわち、前述しました氷期と間氷期が交互に引き起こされるということが考えられています。



2.太陽活動の変化による気候変動

 地球の気候をコントロールしている要素には、まず、地表温度にあります。この地球表面温度は、大局的に、地球が太陽から受けるエネルギー(主に紫外線や可視光線など)と逆に地球から放射するエネルギー(主に赤外線)のバランスで決まってきます。

このことは、当然のことながら、太陽放射エネルギーが大きく、地球放射エネルギーが小さければ、地球は次第に温暖化になり、その逆であれば、寒冷化となるわけです。実はご存知のとおり、太陽活動は一定ではなく、変動していることが分かっています。

太陽活動の変化を知る一つとして、昔から太陽表面に小さく黒くなっている部分(黒点)の存在が知られており、黒点はその周囲の温度よりも低くなっていますが、その周囲ではむしろ温度がより高くなっています。黒点の長い観測から、黒点が多くなるときには太陽の活動が大きくなり、少ないと小さくなる傾向があります。

このことは、気候変動の要因と考えられますが、最近の研究では、こうした太陽活動の最大期と最小期が単純に温暖化と寒冷化をもたらすのではなく、むしろ暖かくなる地域と寒くなる地域、さらには湿潤な地域と乾燥化地域といった具合に地域差を大きくしたり、小さくしたりするシステムとなっていることが指摘されています。

ともかく、太陽活動の大小が少なくとも間接的には、気候変動に関与していることが考えられます。



3.プレート運動による大陸の配置による気候変動

今からおおよそ3億年前の古生代末期には、大きな大陸が一つであったと考えられています。この大陸はパンゲア大陸とよばれています。

この時代には、海岸線の総延長が現在よりも少ないため、波打ち際から海水に取り込まれるCO2の量が少なく(大気中のCO2濃度が高い)、温室効果によって気候の温暖化が続くと考えられます。

しかし、中生代に入り大陸が分裂すると、海岸線が長くなりCO2が大量に海水に吸収される(大気中のCO2濃度が低い)ため、寒冷化にすることが考えられます。しかし、こうした大陸の分裂による気候変動は単純ではなく、大陸の分裂や移動の際には、プレートの沈み込みに伴って火山活動が活発になることにより、CO2量は大量に大気中に放出され、温暖化を引き起こすことにもなります。

このように、大陸の移動によるCO2量の変化が気候変動に少なくとも関与していることが指摘されています。



4.大気中の二酸化炭素量の変化による気候変動

 上記の3でも説明したように、長期的にみるとCO2の循環システムは、大気と海洋または岩石との間を行ったり来たりしています。例えば、大気中のCO2は、雨や海水面から海に吸収されています。陸からは岩石や土壌の風化によって、海に金属イオン(Ca2+、Mg2+、K+など)が鉱物中から溶け出します。これらが海中で結合すると、例えば炭酸カルシウム(CaCO3)を成分とする鉱物が作られます。石灰岩の成因の一つはこのようにして形成されています。

また、海水中には、炭酸カルシウムからなる殻をもった二枚貝や巻貝、さらにはサンゴなどの生物が多数生息しており、これらも基本的には同様なメカニズムで炭酸カルシウムを造っています。

このようにCO2は、一時的に岩石や生物に閉じ込められますが、火山活動等に伴って、これらのCO2を含む物質は再び大気中に放出されることになります。これは「炭素循環」といわれるメカニズムが働いているためです。

このメカニズムは面白いことに気温の変化にかなり左右されることが指摘されています。温暖化すると、陸上で風化作用が促進され、さらに海水中に閉じ込められるCO2量が多くなります。すると、温室効果が減少することになり、逆に寒冷化が引き起こされます。さらに寒冷化が進むと風化作用や海水によるCO2の吸収が抑制されるため、逆に温暖化が始まります。このようにして、大気中のCO2濃度が変化することにより、気候変動がもたらされると考えられています。

 以上、基本的な気候変動の要因を述べましたが、実際には決定的要因は、まだ分かっていません。もしかしたら、これら複合的な要因で気候変動が起こっているのかもしれません。



(4)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2015年11月19日

氷河時代の下総(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





氷河時代の下総(2)−氷河とその痕跡−

1.氷河のでき方


 氷河が形成される仕組みは、一言でいうと水の循環が一時的に途絶えることです。つまり、大局的に水の循環は、海で蒸発した水蒸気が上昇気流で雲をつくり、雨や雪となって陸上に降り注がれます。こうした雨や雪による水は、一般に川や地下水として再び海に戻るといったサイクルを繰り返しています(図4A)。


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図4. 水の循環(左図:A)と氷河の形成(右図:B)




 これに対して、海から蒸発した水蒸気が雪となって降っても夏に溶けない場合があります。このような雪を「万年雪」といいますが、この万年雪が高いところから低い方へ向かって動くものが氷河です(図4B)。したがって、水の循環で水(雪・氷)が長期間にわたって陸上に留まるため、この水のサイクルが一時的にストップすることになるわけです。その結果として、氷河が発達すると、海水面の低下が起こります。なお、この万年雪が解けて水になるところを「雪線」、その標高を「雪線高度」といいます。したがって、氷河はこの雪線高度よりも標高が高いところに形成されることになります。当然ながら、この雪線高度は、緯度が高くなると雪線高度は低くなる特徴を示します。ちなみに、本学のある下総地域は、緯度が北緯36度ぐらいです。現在、この緯度で想定される雪線高度は4,300m程度であるとされていますので、氷河は形成されません(大きな山があれば、雪線高度はさらに低くなります)。



2.氷河とはどのようなものか 


氷河とは万年雪が氷の集合体に変化したものです。氷河の重さは一般に0.8g/cm3程度(氷は0.91g/cm3で無色透明)、また、重力の作用で流動(0.01~40m/日)しています。氷河の流れは、河の中心付近ほど速く、また、地形によっても大きく左右されます。その結果、氷河は帯状になって流れたり(図3,5)、また、クレバスが出来たりと川と異なり複雑な形状を示します。なお、氷河は雪が降ったときの大気(空気)を含むことから、一般には白い色を呈しています。また、氷河のクレバスをのぞいてみると、白色よりは青く見えることがあります。この青い氷河は、氷の中で可視光線の赤色の光(波長が長い)よりも青色の光(波長が短い)がより多く選択吸収されるためです。

 ところで、本学の北側には利根川(全長が約322km)が流れています。ここの最上流で降った雨は、川の速さを1m/sとした場合、4日もあれば海に流れ着く計算になります。これに対して、もし氷河であったとしたらどの位の時間がかかるのでしょうか。その速度を仮に0.01m/日(ヒマラヤで見られる氷河と同じぐらいの速度)で計算すると、おおよそ9,000年もの時間がかかって、氷河がやっと銚子の海にたどり着くことになります。こうした計算からも、氷河の流れは大変ゆっくりであることが分かります。


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図5.スイス、アルプス山脈のアレッチ氷河



 氷河の種類には、山地の谷などのへこんだ低いところに出来る「山岳氷河」と基盤の地形に係らず陸地の広域を覆う「大陸氷河」とがあります。この大陸氷河は「氷床」ともよばれ、現在、南極大陸とグリーンランドがこれに相当します。南極大陸では、氷河の厚さが平均1,600mにも達しており、古くは数十万年前できた氷も知られています(図6)。


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図6.南極大陸の氷床





 3.日本にも氷河がある


 最近まで日本には氷河はないといわれてきました。ところが、今から3年前の2012年に日本雪氷学会がその存在を認定しています。それは富山県にある立山(標高3,015m)の御前沢(ごぜんざわ)氷河と剱岳(標高2,999m)の三ノ窓(さんのまど)氷河と小窓(こまど)氷河の三ヶ所が山岳氷河として認められました(図7)。これらの氷河は長さがおおよそ700〜1,000m、幅が200m、氷の厚さが30mあります。
 これらは氷河ですので、当然ながら山の上から下に向かって流れています。その速度は、観測によれば17〜32cm/月という結果がでており、この速度は、おおよそヒマラヤ山脈で見られるものと同程度のものであることが報告されています。
 なお、氷河時代の氷期には、日本アルプスや北海道の日高山脈に氷河があったことが知られており、現在、その痕跡として、カール(Kar:圏谷ともいう)という氷河の浸食によってできた半円形の窪地はこれらの山脈の頂上付近に多数が残されています。


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図7.立山(写真左側)にある氷河 (御前沢氷河)




  4.全球凍結という大氷河時代


 氷河に関連して、2004年に放映された「デイ・アフター・トウモロー」は、ニューヨークが氷河によって閉ざされるというストリーの映画で、この映画を見た方も多いかと思います。ところが、この映画をはるかに凌ぐ地球全体が完全に凍ってしまうという大氷河時代「全球凍結:Snowball Earth」があったことが、最近、地球科学で大きな話題となっています。この考え方は、元々イギリスの地質学者、B. ハーランド(Brain Harland)が1964年に出した仮説が基になっています。その約40年後、この説はアメリカの科学者たち(例えば、J. カーシュヴィンク、1992やP. ホフマン、1998)による研究で、大きな反響がもたらされました。
 これらによると、地球表面は少なくとも−50℃となり、陸はもちろんのこと、海が深さ約1,000mまで氷によって覆われたと考えられています(図8)。しかも、これが地史的に原生代(先カンブリア時代の後半)のヒューロニアン氷期、スターティアン氷期、マリノアン氷期の3回も全球凍結があったというのです。こうした全球凍結を引き起こす大きな要因は、二酸化炭素の循環にあると考えられています。
当然のことですが、もしこの全球凍結が起これば、生物に多大な影響を及ぼすことが考えられ、恐らく、生物のほとんどが絶滅するに違いありません。


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図8.全球凍結の想像図 「地球は白かった」



 
余談ですが、1961年、世界で最初の宇宙飛行士、ユーリイ・ガガーリンは「地球は青かった」という有名な言葉を残しています。しかし、もし全球凍結になると「地球は白かった」ということになるのでしょう。




(3)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫




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2015年11月04日

氷河時代の下総

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氷河時代の下総(1)−氷河時代とは−

 1.氷河時代のイメージとマンモス


氷河時代のイメージを本学の学生に聞いてみました。すると、そのイメージは、@寒い、Aマンモス、B氷、氷河といったイメージを持つことが分かりました。したがって、図1に示したように、陸地が氷河によって覆われており、マンモスが吹雪の中を闊歩するといった氷河時代の姿を思い浮かべるようです。本文を読んで頂いている皆さんも、恐らく、このようなイメージをお持ちではないでしょうか。


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図1 イメージに基づく氷河時代



 

そこで、簡単にマンモスについて触れてみたいと思います。マンモスは今からおおよそ500万年前(新生代新第三紀の鮮新世)に出現して、約1万年前(新生代第四紀の更新世末期)に絶滅したゾウの一群(分類学的にはマンモス属:Mammuthus )を指します。マンモスは頭が極端に高く短くて特に後頭部が上に突出していること(図1、2)や巨大な牙を持つことなどが特徴です(5m以上の長さの牙が発見されています)。

現在までに14種類が知られており、氷河時代には、南・北アメリカ大陸、ユーラシア大陸、アフリカ大陸など広い生息分布域を持っていました。

マンモスといえば、一般に巨大な動物というイメージを持ちます。例えば、北アメリカ大陸に生息していたインペリアマンモス(Mammuthus imperator)コロンビアマンモス(Mammuthus columbi)は体長が5m、体高が3〜5m、ヨーロッパで知られるステップマンモス(Mammuthus trogontherii)は体長が4.7~5.2m、体高が4〜5m、また、日本では有名なシベリアの永久凍土から出土するケナガマンモス(Mammuthus primigenius)で体長が4〜5m、体高が2.7〜4mと大きな動物です。その一方、大変小さなものも知られており、北極海沿岸で見つかったコビトマンモス(Mammuthus exilis)は体長が1.4〜2m、体高が1mぐらいしかありません。


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図2 ケナガマンモスの復元図




 
2.過去の氷河時代の記録

 広い意味で氷河時代とは、地球に氷河が存在する時代のことをいいます。今までに、氷河時代は少なくとも6回、確認されています。すなわち、24.5−22億年前(ヒューロニアン氷期)、7.6−7億年前(スターティアン氷期)、6.2−5.5億年前(マリノアン氷期)、4.5−4.2億年前(アンデス―サハラ氷期)、3.6−2.6億年前(カルー氷期)、そして60−1万年前の第四紀氷河がそれです。

現在、地球には極地域を中心として、氷河が存在することに私たちは何の変哲も感じません。しかし、例えば、中生代(おおよそ2億5千万年前〜6千5百万年前)、すなわち恐竜時代ですが、この時代の白亜紀には氷河が発達するどころか極地域の海水面の温度が20℃以上にも達したとする研究が報告され、氷河の存在はまったく確認されていません。

このように、実は、地球の歴史46億年の間で、氷河が発達した時代の方が極めて短く、私たちは地史学的に極めて稀な時代に生きているといっても過言ではありません。

3.氷期と間氷期

現在の氷河の発達は、おおよそ260万年前頃から始まったと考えられています。この頃から気温が低下し始め、その後に、極端に寒くなった時期と暖かくなった時期といった具合に寒暖の時代が交互に繰り返されたことが分かっています。

気温が極端に低下した時代を氷期といい、また、温暖化した時代を間氷期といいます。

これらは一般に、260−60万年前をドナウ寒冷期、60−55万年前をギュンツ氷期、55−45万年前をギュンツ・ミンデル間氷期、45−38万年前をミンデル氷期、38−24万年前をミンデル・リス間氷期、24−15万年前をリス氷期、15−7.2万年前をリス・ウルム間氷期、7.2−1万年前をウルム氷期とそれぞれよばれています。

したがって、最近の氷河時代(新生代第四紀氷期)は、4回の氷期と3回の間氷期からなっており、狭義には、今から60万年前から1万年前の時代を指します。なお、現在も氷河時代が続いていると考える研究者もいます。

このように、氷河時代とは、寒い時代だけではなく、暖かな時代(時には現在よりも暑い時代がありました)も併せて氷河時代と呼ばれています。


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図3. カナダ、ユーコン州の氷河





(2)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





 
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