2019年05月16日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




2.3 社会批判の機能を隠し持つ翻案---ワイルド『悲劇革命婦人』(1911年)


オスカー・ワイルドのVera, or the Nihilists’は1881年に発表された戯曲である。
主人公ヴェラがロシア皇帝暗殺を企てるものの、身分を隠して民衆の中に潜んでいた当の皇帝と恋仲になり、自身の皇帝暗殺という任務と皇帝への愛との間で苦悩する、という筋書きだ。

ワイルドが劇場での戯曲デビューをもくろんだこの戯曲は、実は研究の対象になることが少ない。
ワイルド戯曲集というタイトルで出版される単行本に収録されることも少なく、ワイルド全集の一部として、ようやく掲載されるほどの低い位置づけだ。

相当にマイナーなこの作品を、明治44年(1911年)に内田魯庵が東京朝日新聞紙上で翻訳翻案、連載した。そして、大評判となったのである。講談調にすることで翻案の体裁をとりつつの翻訳で、テンポよく展開するメロドラマ、という印象を与える魯庵の文章からは、原文の無味乾燥な未熟な文体は、まったくと言っていいほどうかがえない。


Plead to Czar! Foolish boy, it is only those who are sentenced to death that ever see our Czar. Besides, what should he care for a voice that pleads for mercy? The cry of a strong nation in its agony has not moved that heart of stone.
(“Vera, or the Nihilists”, p.691)


何ですと、皇帝陛下に哀訴する?貴下も余程なお馬鹿さんだ。皇帝に哀訴したものは皆死刑に處せられて殺されるばかり。第一彼が貴下の哀訴に何で耳を傾けよう。全露西亜国民の呻吟嗚咽にすら平気になってる石のような心持が如何して動かせよう。
(「悲劇革命婦人、p.206」)


英文と異なり、魯庵の文章は読者の情に訴えかけ、畳みかけてくる勢いが感じられる。

魯庵がこの“Vera, or the Nihilists”を選んだのには、実は理由があった。少し長くなるが、ワイルド側の事情から説明する。

1881年にワイルド自身が演出家として上演が決まっていたこの戯曲だが、上演直前に中止の憂き目にあっている。以後、イギリスにおいてこの戯曲が上演された記録はない。上演中止の理由は、当時のイギリス王室からの圧力とする説が有力だ。

1881年前後の社会情勢を確認しよう。
1881年3月にロシアのアレクサンドル2世がアナーキストに暗殺されているが、彼の後を継いで皇位についたアレクサンドル3世の妻と、イギリスのアレクサンドラ皇太子妃は姉妹関係にあった。そのため、妃の心情に配慮して中止の圧力をかけた、という説が有力だ。そして、暗殺といえば、同年7月にアメリカ大統領ガーフィールドの暗殺未遂事件が起きている。大統領は2か月間の闘病をへて9月に亡くなるが、ワイルドが“Vera”の上演を試みた12月という時期は、いまだガーフィールド大統領死去の打撃が大きく残っていた時期と言えよう。    ”Vera”と暗殺は、切っても切れない関係にあるということだ。

魯庵が狙ったのも、この点だ。「悲劇革命婦人」の筋書きは"Vera"とほぼ同じである。だが、この作品を発表した時期に、意義がある。1910年、幸徳秋水首謀といわれる、社会主義者による大逆事件ののち、ジャーナリズムおよび文学作品への検閲が極めて厳しくなった。大逆事件による幸徳秋水らの処刑は一方的で、文化人らの間では同情する論調が強かったことが、日記や随筆からうかがえる。

この状況下で、「皇帝暗殺」をテーマにした「悲劇革命婦人」を堂々と連載した魯庵の意義は明白であり、丸善の木村毅もどきどきしながら新聞連載を読んだ、と回想している。

文体を講談調に変換することで、近松的なメロドラマの様相であることを強調し、検閲を逃れる、という手法だったとも推測できる。つまり、明治政府に対する異議申し立てを、講談調の翻案、というベールをかけた翻訳物で実行に移した、という解釈が可能になってくるのだ。覚悟を決めた翻案、翻訳の傑作と言ってもよいだろう。


3. まとめ

翻訳、翻案というメディアは、近代化し始めたばかりの明治期の日本にとっては、欧米列強の社会制度や文化を知るためのツールであったことは容易に理解できる。だが、この翻訳、翻案を巧みに用いて、自らの主義主張・社会批判の機能を併せ持つ、複雑な装置にまで仕上げていったのは、明治時代の文筆家たちの新時代へかける情熱のなせる業だったのではないだろうか。


参考文献
Burnett, Frances Hodgson. Little Lord Fauntleroy. 1886, Oxford University Press, 1993
Holland, Merlin. ed. Collins Complete Works of Oscar Wilde. HarperCollins, 2003
Smiles, Samuel. Self-Help. 1866 [1859], Oxford University Press, 2002
川戸道昭、榊原貴教編 『明治翻訳文学全集≪新聞雑誌編≫10 ワイルド集』大空社、
1996年
スマイルズ、サミュエル 『西国立志編』 中村正直訳、講談社、2013年(1981)
バアネット 『小公子』 若松賤子訳、岩波書店、2017年(1927、1939)
**************************
鴻巣友季子 『明治大正 翻訳ワンダーランド』新潮社、2005年
高橋修 『明治の翻訳ディスクール---坪内逍遥・森田思軒・若松賤子』ひつじ書房、
2015年
松沢裕作 『生きずらい明治社会 不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018


文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子





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2019年04月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(4)

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2.2 欧米文化を理解するための翻訳---バーネット『小公子』(1897年)

イギリス生まれだがアメリカに渡って活躍した女性作家、F. H.バーネットのLittle Lord Fauntleroy (1886)は、雑誌で発表されるや否や、アメリカ、イギリスで人気を博した子ども文学の名作である。主人公セドリックがその言動を通じて、「アメリカ」と「イギリス」の架け橋となり、英米の融和を象徴的に描いたとされるこの作品では、清く、正しく、美しい主人公、セドリックが理想の子どもとして際立った存在感を示している。セドリックの端正な服装も物語の重要なカギとなっており、大きな意味を持つ。

バーネット版の特徴は、「天使のような子ども」を意図的に提示していることにある。これはロマン主義の子ども観(=無垢なこども、こどもの神性を強調)の影響を受けた一般読者をターゲット層として想定しているための戦略と考えられるが、この「天使のような子ども」が英米の読者の圧倒的な支持を得た。セドリックの服装も流行し、かわいらしい挿絵で描かれた、濃い色のビロードの服に大きなレースの襟のついた“Fauntleroy suit”は、この時期の子ども服の一つの特徴をなしている。

このLittle Lord Fauntleroyを明治20年に『小公子』と題して雑誌『女学雑誌』上で翻訳し始めたのが、若松賤子である。その滑らかな口語調の翻訳は自然で読みやすく、「翻訳王」森田思軒も「言文一致の極致」として絶賛しているほどだ。若松は、「天使のような美しい子ども」を翻訳においても再現する。以下に原文と邦訳文を併記する。

[Mr Havisham] recognized in an instant that here was one of the finest and handsomest little fellows he had ever seen. His beauty was something unusual. He had a strong, lithe, graceful little body and a manly little face; he held his childish head up, and carried himself with quite a brave little air; he was so like his father that it was really startling; he had his father’s golden hair and his mother’s brown eyes, but there was nothing sorrowful or timid in them. They were innocently fearless eyes; he looked as if he had never feared or doubted anything in his life. ‘He is the best-bred-looking and handsomest little fellow I ever saw,’ was what Mr Havisham thought. what he said aloud was simply, ‘And so this is little Lord Fauntleroy.’ (Little Lord Fauntleroy, pp.24-25)

さて、かくまで非常にハ氏の心を動かしたものは、一種反動的の感情でした、一見して其童児が嘗て見たことのないほど秀逸ものと分かった時、起ったので、殊に容色の美いことは非常の者でした。。其体つきの屈強で撓やかな處、幼顔の雄々しき處、頭をしゃんと擡げて、進退する動作の勇ましき處等の一々亡父に似て居ることは、実に不思議な程でした。髪は黄金色で父にに、眼は母の茶勝な處にそっくりでしたが、其眼付には、悲しそうな處も、臆せ気味な處もなく、只あどけない中に、毅然とした處のあるは、一生涯、なににも怖ぢたことなく、疑ったこともないという気配でした。ハ氏は、心の中に、是は又大した上品で、立派な童児だと思いましたが、口に出しては、極くたんぱくに、『左様ならば、これがフォントルロイ殿で御座るか。』といいました。
(『小公子』p.36)

若松は、英文で絶賛されているセドリックの様子を、当時としては自然な話し言葉で訳出しており、「言文一致の極み」とされる名調子である。

だが、翻訳が難しい箇所については、いさぎよく削って訳す、という大胆さも併せ持っていた。

‘Dearest,’ said Cedric (his papa had called her that always, and so the little boy had learned to say it) ‘dearest, is my papa better?’
He felt her arms tremble, and so he turned his curly head, and looked in her face. There was something in it that made him feel that he was going to cry.
(Little Lord Fauntleroy, p.6)

「かあさま、とうさまは、もう、よくなって?」
と、セドリックが云ひましたら、つかまったおっかさんの腕が、顛へましたから、ちゞれ髪の頭を挙げて、おっかさんのお顔を見ると、何だか、泣きたい様な心持がして来ました。 (『小公子』p.6)

原文の‘Dearest’とは、セドリックが母に対して使う呼称で、「最愛の人」という意味だ。父親が母親をそう呼んでいたことから自分のそのように呼び始めた、と上記の引用文で説明されているのだが、翻訳ではばっさりとカットされている。「細君」「愚妻」などという呼び方が一般的だった明治期において、この‘Dearest’は訳しても読者に意味が通じないと考えてのことだったと推測される。

英米文化にあこがれを抱かせ、それを理解するツールとして機能していたであろう『小公子』だが、読者の理解を超えてしまう箇所は削除するという、実は偏りのある翻訳になっている点は注目に値する。翻訳『小公子』は、制限つきの文化理解を提示した一例と言えよう。

(5)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子





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2019年03月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(3)

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2.1 明治時代の自己啓発本---スマイルズの『西国立志編』(1871年)

サミュエル・スマイルズによるSelf-Helpは1859年、イギリスで初版が出版されるとたちまち売り切れる人気を博す。著者スマイルズはスコットランドの医者から一転、カリスマ的指導者となった。自己啓発本の元祖である。

スマイルズのSelf-Helpの特徴は二点あり、まず、自己学習の重要性を強調した点、そして、努力すれば「紳士」にもなれるかもしれない、と思わせた点である。がんばれば報われる、というスマイルズの言説は現代版紙媒体の表紙にも受け継がれ、オックスフォード大学出版、ケンブリッジ大学出版のSelf-Helpの表紙には、いずれも自ら努力することの重要性をあらわす図版が使用されている。


自己学習の重要性について、British Libraryは以下のように説明している。


[Smiles] proposes knowledge as one of the highest human enjoyments and education as somewhat erratic road along which knowledge is acquired.

(www.bl.uk/collection-items/self-help-by-samuel-smiles)


つまり、スマイルズによると、知識とは人間にとって最高の楽しみのひとつであるものの、教育は知識を修得する際に迷走を伴うものでもある、ということになろう。そして、もう一点の、努力すれば「紳士」になれるかもしれない、というくだりについては次のように解説する。


One of Smiles’ most striking claims at the time was that even the poor could be gentlemen: ‘Riches and rank have no necessary connexion with genuine gentlemanly qualities’, which he describes as being ‘diligent self-culture, self-discipline and self-control --- and above all […] that honest and upright performance of individual duty which is the glory of manly character’.

(同上、下線部小泉)


下線部を中心に訳出すると、「貧乏な人間でも「紳士」になることができるが、「紳士」に必要な性質とは勤勉さと自己鍛錬、自己修養、自制心である」と述べていることがわかる。明白な階級制度が存在するイギリスにおいては、たとえ、労働者階級の人間が事業に成功して成り上がり、中産階級以上の資産を所有することができたとしても、内面が伴っていなければ所詮は労働者階級どまりで中産階級の仲間入りは果たせない、というのが通例だ。しかし、スマイルズのSelf-Helpの登場によって、そうした人物でも、努力すれば紳士階級の仲間入りができるかもしれない、と希望が持てるようになった、その意義ははかりしれない。この、努力すれば、夢はかなう、という言説は明治初期の日本においてもひろく受け入れられることとなった。

明治4年(1871年)、中村正直による訳出でSelf-Help (1866[1859])は『西国立志編』として出版され、人気を博した。この『西国立志編』は、1866年に出版された増補版を原典としているが、初版と同様、「自学」「勤勉」「向上心」の必要性を説き、「自助の精神」を提唱する内容で、「天はみずから助くる者を助く」という有名なフレーズもこの『西国立志編』第一編の第一文に由来する。たとえるならば、自己啓発本の元祖と言えよう。

自立し、人に頼り切らないことが重要、とのメッセージを持つ『西国立志編』だが、財源不足でインフラ整備もままならない明治政府にとっては、大変都合のよい内容だったことだろう。

松沢裕作が『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』において、「明治政府は、クーデターによって成立した、人びとから信頼されていない政権だったので、高い税金をとることができず、政府の財政を通じて、豊かな人から貧しい人へ富を再分配するような力をもちようがなかった」(pp.69-70)と述べているように、国民ひとりひとりが努力する必要性を感じざるを得なかったのだ。


明治時代のバイブルとも言われた、翻訳版の『西国立志編』では、原文とはレイアウトを変えて十八、十九世紀の偉人たちについてそれぞれ項目を分けて説明しているが、そのなかでも自助の精神が特に顕著な項目は以下の通りとなる。「忍耐力こそ成功の源泉」「勤勉な努力と忍耐が成功を導く」「いかにしてチャンスをつかむか」「意志の力の重要性」「勤勉な仕事ぶり=人格形成に貢献」「自学による立身出世」「「真の君子」たるべし」である。この項目の中から二つ、「忍耐力こそ成功の源泉」と「「真の君子」たるべし」の翻訳を分析したい。


まず、「忍耐力こそ成功の源泉」である。原文と翻訳を併記する。


All nations have been made what they are by the thinking and the working of many generations of men. Patient and persevering labourers in all ranks and conditions of life, cultivators of the soil and explorers of the mine, inventors and discoverers, manufacturers, mechanics and artisans, poets, philosophers, and politicians, all have contributed towards the grand result, one generation building upon another’s labours, and carrying them forward to still higher stages.

(Self-Help, pp.19-20)


およそ諸邦国、今日の景象に至るものは、みな幾世幾代を経て、諸人あるいは心思を労し、あるいは肢体を苦しめて、成就せしものなり。忍耐恒久の心をもって、職事(仕事)を勉強する人、尊卑貴賤の別なく、(土地を耕墾する人、鉱山を検尋する人、新器新術を発明する人、工匠の人、品物を製造する人、詩人、理学者、政学家)これらの人、古より今に至るまで、しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり。 (『西国立志編』p.63)


原文では “contributed towards the grand result”, “to still higher stages”とある箇所が、「しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり」と変わってはいるものの、「一人一人の努力が大きな結果につなげがる」というニュアンスは少しだが読み取れよう。

だが、「「真の君子」たるべし」になると、‘gentleman’の翻訳が難しくなってくる。‘Even the common soldiers proved themselves gentlemen under their trials.’ (Self-Help, p.331)という英文が、中村の訳では、「尋常の兵卒といえども、患難の際に臨んでは、化して温柔の君子となるなり。」(『西国立志編』p.537)と変わってしまう。中産階級以上に所属し、マナーおよび礼節を兼ね備えた男性(ただし貴族ではない)、という意味を持つ‘gentleman’を「紳士」という単語で置き換えることが一般化したのは、少し時代が下ってからのことである。

『広辞苑』によれば、「紳士」という言葉は明治20年〜22年に発表された二葉亭四迷の『浮雲』の一節からとあり、「「搢紳の士」の意」と説明される。中村が訳出した際には、まだこの用例はなかったため、「紳士」ではなく「君子」を使ったと考えるのが妥当だろう。階級制度を内包する‘gentleman’を、「君子」という階級を超えた言葉で言い換えた翻訳者中村正直のセンスには、驚かされる。


最後に、『西国立志編』が翻訳された意義についてまとめると、新時代「明治」における日本人の「向上心」に合致した、ということがまず、言える。欧米列強に追いつけ追い越せ、の精神に合致したわけだ。そして、すべての人民の自助と努力が国の繁栄に貢献するというメッセージからは、明治政府にとって都合の良い国民の創生が促され、同時に、努力は裏切らないことを知るべしというメッセージからは、当時の国民にとってまさに必要不可欠なパラダイムが提供されたことになる。翻訳『西国立志編』は、国民の自己肯定感の向上を図るための、うってつけの装置だったと言えよう

(4)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子




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2019年02月24日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に (2)

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1.2 明治時代の名(迷)翻訳

英語圏以外の翻訳作品を含めると、明治時代にはそうそうたる面々が並ぶ。明治21年(1888年)には二葉亭四迷によるツルゲーネフの『あひびき』『めぐりあひ』が、明治25年(1892年)には内田魯庵によるドストエフスキーの『罪と罰』(未完)、同時期には森鴎外によるアンデルセンの『即興詩人』も翻訳が始まっている。

また、前後するが、明治23年(1890年)には若松賤子によるバーネットの『小公子』の連載が始まり、これが大人気を博して25年1月まで続く。明治29年には坪内逍遥によるシェイクスピアの『ハムレット』が世に出る。(補足だが、シェイクスピアの翻訳で名高い逍遥が全訳を表舞台に出すのは明治40年代以降となる。)
さらに、「翻訳王」森田思軒、「翻案王」黒岩涙香らジャーナリズム出身の翻訳者が大活躍したのも、明治20年代である。

「翻訳王」森田思軒の主な仕事は、ヴィクトル・ユゴーの『探偵ユーベル』(明治22年)を筆頭として、ジュール・ヴェルヌの『鉄世界』『十五少年』(十五少年漂流記)、エドガー・アラン・ポオの『間一髪』(陥穽と振り子)など、有名どころ満載だ。「郵便報知新聞」に所属しその編集に携わったジャーナリストであると同時に、翻訳の仕事もこなしていたこの思軒について、前述の鴻巣友季子は次のように述べている。

思軒の場合は英文書以外はすべて英語からの重訳だったが、漢文の素養をいかした「漢七欧三」と呼ばれる原文に忠実な訳で、日本の翻訳にひとつの大きな流れをつくった。当時はまだ翻訳といっても、大胆な翻案や乱暴な抄訳が多く、「乱訳・豪傑訳の時代」と称されていたのだけれど、思軒の周密な、現代の翻訳に近い「直訳」は、文字どおり当時の翻訳の文体に大変革をもたらしたのだ。
(鴻巣友季子,『明治大正 翻訳ワンダーランド』p.19)

森田思軒の名は現代人にはあまり知られていないが、我々が翻訳作品を楽しみ理解する、という翻訳文化の基礎をつくったのは、ほかならぬ森田思軒だったということになる。知らないうちに、我々もその恩恵に与っている「翻訳王」なのだ。

一方、「翻案王」と称された黒岩涙香も、『萬朝報』を発行したジャーナリストという素地を持つ。明治25年に名高い『鉄仮面』を翻案して世に出したのち、明治34年には、デュマによる『巌窟王』(『モンテ・クリスト伯』)、明治35年にはユゴーの『噫無情』(『レ・ミゼラブル』)を翻案している。

デュ・フォルチェネ・ボアゴベによる『鉄仮面』(原題は『サン・マール氏の二羽のツグミ』)は、涙香の翻案によって日本で絶大なる人気を博したといっても過言ではない。ボアゴベの原作は「ルイ14世治下のフランスにいた、鉄仮面をかぶせられた謎の囚人」というモチーフを使った歴史小説で、デュマやユゴーにも同じ題材をあつかった作品がある。だが、涙香の『鉄仮面』では原作からかけ離れたストーリーが展開し、そもそも原作には存在しない場面も多くある。そして、原作に存在しなかった場面、展開こそ、明治の読者を捉えて離さない魅力があった。鴻巣友季子は涙香の『鉄仮面』についてこう述べる。

「翻訳者」にとって、筋立てのこうした改竄は必然のものであり、あのハッピーエンドこそが正史だったのだろうか……。

現代の翻訳界ではとうてい考えられない(著作権法からいっても許可されない)荒業だが、この手直しのおかげで、『鉄仮面』がこの国で多くの読者をつかみ、その結果、末永く読みつがれるようになった(百年あまりを経て新訳が出るほどに)のもたしかだろう。 (鴻巣,『翻訳ワンダーランド』,p.57)

読者を楽しませる、エンターテインメントとしての翻案だったことは確かである。また、「当時の新聞は掲載する小説・読み物の人気・不人気で売り上げ部数が激変した」(鴻巣, p.58)ことは現代と大きく事情が異なっている。涙香は『鉄仮面』を自身の発行した『萬朝報』で連載していたが、この連載後、『萬朝報』の売り上げは激増した。

明治時代に登場した、新聞という新しいメディアを得て、涙香は自由自在に活躍した。当時の新聞は、リアルタイムで自身の信条を(形式は変わるが)訴えることのできる媒体だったと言えよう。「荒業」と称される黒岩涙香の仕事だが、大勢の読者に自分の仕事を読んでもらうことで自分の信じるところを知ってもらう、という目的があった。だからこそ、おもしろくなければ読んでもらえない、という立場をとったのだ。

いずれにせよ、「翻訳王」の森田思軒と「翻案王」の黒岩涙香の二人が、それぞれジャーナリストであったことは注目に値する。明治における翻訳、翻案とはすなわち、読者という一般大衆と密接に関わる新しいメディア=新聞を活動の舞台として世に出たと言えるからだ。次章では、まず、明治初期に広く読まれた自己啓発本の翻訳と、この新しいメディア=新聞で、そしてもう一つの新しいメディアである雑誌でそれぞれ翻訳、翻案された作品について分析する。

(3)につづく


文学部 国際英語学科 準教授 小泉 朝子





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2019年01月21日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に

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1.概説:明治時代の翻訳・翻案

1.1 明治時代の翻訳とその土壌

鴻巣友季子の『明治大正 翻訳ワンダーランド』によると、明治時代の翻訳作品には、かなりの「力技」が見られるという。明治の読者を興奮させ感動させたエピソードが、実は原作には存在しない、翻訳者による完全創作エピソードだった、ということも多かった。

 こうした事態が生じたのはいくつか要因がある。ひとつには、明治期の日本が西洋諸国の文化を吸収し始めた、いわば西洋化の初期にあったということ、そして、もうひとつは、英語という言語が明治期の翻訳者にどれほど理解されていたかというと、必ずしも肯定的な答えを返せない、微妙な問題だったという点だ。

現代人は明治期の英語理解度を常に考慮せねばならない。1853年のペリー来航、そして1854年の日米和親条約締結により、維新前から英語への理解は進んではいたものの、本格的な英和辞典が編纂、出版されたのは、1862年の『英和対訳袖珍辞書』を待たねばならない。

これ以降、『改正増補英和対訳袖珍辞書』が1866年に出版、さらに版を重ねて1867年、1869年と増刷されていく。この英和辞書は、オランダ語系の辞典を介した、英欄辞典に依拠して編纂されたものだ。オランダ語の影響を受けずに、英英辞典を参考に編纂された英和辞書は、1873年(明治6年)の『附音挿図英和字彙』となる。

 森田思軒、黒岩涙香、若松賤子、内田魯庵ら、翻訳・翻案の第一人者が登場したのは、おおむね明治20年代英和辞書が誕生してたった数十年後という、英和創成期であったことは驚異と言えよう。そして、上記の翻訳者らの手によって、数多くの大ヒット小説が生まれ、大衆読者の人気を得た。つまり、当時の読者層において、翻訳小説という装置を用いて欧米列強の社会や文化を学び、それを自らの身体に取り込んでいく、という一連の流れが確立されていったのは明治時代だったということになる。




(2)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子




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2018年09月13日

光源氏の行方をたどって(4)

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4.『狭衣物語』と「光源氏」(2)〜光源氏は生きていた〜

 さて、『狭衣物語』における「光源氏」は、すべて、主人公である狭衣が、自分と重ね合わせる場面に登場してきました。では、狭衣というキャラクターは、「『源氏物語』の愛読者」という設定だと考えればいいのでしょうか。

 実は、そうではないのです。いよいよ光源氏の行方をとどってみましょう!

 巻4に、狭衣が蹴鞠を楽しむ場面があります。この部分を見てみましょう。

【本文】
宰相中将を、大将殿、強ひてすすめたまへれば、「若々しきわざかな」とはすまへども、げに、人よりはをかしうなまめかしきさまかたちにて、数もこよなく多くあがるを、大将殿などは、いみじう興じたまうて、「ややもせば、下りたちぬべき心地こそすれ。などて、今しばし若うてあらざりけん」とのたまへば、御簾の中の人々、「まめ人の大将は、おはせずや侍りける」「さらばしも、花の散るも惜しからじ」など、口々、いと立てたてまつらまほしげなるけはひどもなり。「そのいたう屈じたる名ざしこそ、よそへつべかめれど、こよなう見くらべたまはんが、妬ければ」とて、うち笑みたまへる愛敬、花の匂ひよりもこよなうこそ勝りたまへれ。

 花のいたう散りかかるを見たまひて、「桃李先散りて、後なるは深し」と忍びやかに口ずさみたまひて、高欄にをしかかりたまへるまみ・けしき・御声などは、かの「桜を避きて」とて、花の下にやすらひたまへりし御さまを、その折は見しかど、この御ありさま、また類なげにて、何事の折節も見ゆる。



【訳】
宰相中将を、大将殿(=狭衣)は、蹴鞠に出るよう強いておすすめになったので、「若い人のやることでしょう」とはこばんだが、なるほど、他の人よりはすぐれて美しい容姿で、毬の回数もたいそう多く上がるのを、大将殿などは、とても面白がって、「ややもすれば、庭におりたってしまいそうな気持ちがするよ。どうして、もう少し若くなかったのかな」とおっしゃるので、御簾のなかの女房たちは、「『まめ人の大将』は、いなかったでしょうか」「だとすれば桜の散るのも惜しくないでしょう」なとど、口々に、蹴鞠に加わりに立ってほしそうな様子を見せている。狭衣は、「そのぱっとしないアダ名は、ぴったりだろうと思うけれど、彼と見比べられるのも、嫌だからね」といって微笑んでいらっしゃる愛敬は、桜の美しさよりたいそうまさっていらっしゃる。

桜がひどく散りかかっているのをごらんになって、「桃李がまず散り、後になるのは深い」とそっと口ずさみなさって、高欄に寄りかかっておいでの目元、様子、お声などは、かの「桜を避きて」と言って、桜の下で休んでおいでだった様子を、その時は見たが、いまのこのご様子は、また比類ないもので、何かにつけても見えるのだ。



 この場面で狭衣は、「ややもすれば、庭におりたってしまいそうな気持ちがするよ。どうして、もう少し若くなかったのかな」と蹴鞠を傍観することにします。実は、『源氏物語』の若菜上巻に蹴鞠の場面があるのですが、そこで光源氏は夕霧や柏木といった若者たちに向かって、「かばかりの齢にては、あやしく見過ごす、口惜しくおぼえしわざなり(私もお前たちぐらいの歳のときでは、見ているだけで済ませるのを、残念に思っていたものだよ)」と言って蹴鞠への参加を促しています。狭衣の言葉は、明らかにこの光源氏のセリフを意識したものでしょう。

 狭衣は、自分と光源氏を心のなかで重ね合わせるだけでなく、光源氏を意識した発言もしているのです! それに対して、周囲の女房たちは、「『まめ人の大将』は、いなかったでしょうか」と言います。「まめ人の大将」とは、光源氏の息子である夕霧のことです。光源氏であるかのような発言をした狭衣にたいして、女房たちは、夕霧のように蹴鞠に参加してくださいと促すわけです。


 
さて、問題はその次です。ここでの狭衣の様子は、「かの『桜を避きて』と言て、桜の下で休んでおいでだった様子」と比較されています。この、「『桜を避きて』と言って、桜の下で休んで」いたのは、『源氏物語』若菜上巻の柏木です。それを、語り手は、「その折は見しかど(=その時は見たが)」と言っているのです!

この物語の語り手は、柏木を「見た」のです。これはつまり、『源氏物語』という別の物語のなかの出来事が、『狭衣物語』にとっては「過去に実際にあった出来事」になっているということになります!
ということは、狭衣が何度も自分を重ね合わせ、意識した「光源氏」は、「フィクションのなかのキャラクター」なのではなく、「過去に実在した人物」ということになります。光源氏は、『狭衣物語』のなかで生きていたのです。


おわりに

 『狭衣物語』のなかで、「光源氏」は、主人公である狭衣が自分と重ね合わせようとしている人物でした。狭衣は心の中で重ね合わせるだけでなく、意識した発言もしていました。一見すると狭衣は『源氏物語』の愛読者であるかのように見えます。

でも、そうではないのです。見てきたように、『狭衣物語』において「光源氏」は、「過去に実在した人物」になっているのです。
 
 狭衣にとって光源氏は、そうなりたいという憧れの実在人物≠ネのでしょう。ただし、この蹴鞠の場面をよく読むと、狭衣の周囲の人たちは、狭衣を夕霧や柏木と比べています。ということは、狭衣というのは、「光源氏になりたくてもなれない主人公」ともいえますね。

では、逆に、「光源氏」とは何でしょう。

彼は、「『源氏物語』という物語の時間・空間を飛び越え、『狭衣物語』の主人公にあこがれを与えるとともに、決して超えることを許さない主人公」といえるのではないでしょうか。
でもそれは、『狭衣物語』が仕掛けたものです。光源氏は、『狭衣物語』の力によって君臨させられているのです。




文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子





 
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2018年08月20日

光源氏の行方をたどって(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学







3.『狭衣物語』と「光源氏」(1)〜自分を重ね合わせるキャラクター〜

 そんな『狭衣物語』ですが、次のように始まります。
(なお、本文の引用は小学館の新編日本古典文学全集を用います。『狭衣物語』は現存している諸本の本文異同がとても多くなっています。そのため、身近に手に取ることができるものでも、今回引用する小学館の全集の本文と、新潮社の日本古典集成の本文では、かなりの違いがあります)

【本文】

少年の春惜しめども留らぬものなりければ、三月も半ば過ぎぬ。御前の木立、何となく青みわたれる中に、中島の藤は、松にとのみ思ひ顔に咲きかかりて、山ほととぎす待ち顔なり。池の汀の八重山吹は、井手のわたりにやと見えたり。光源氏、身もなげつべし、とのたまひけんも、かくやなど、独り見たまふも飽かねば、侍童の小さきして、一房づつ折らせたまひて、源氏の宮の御方へ持て参りたまへれば、御前に中納言、少、中将などいふ人々、絵描き彩りなどせさせて、宮は御手習せさせたまひて、添ひ臥してぞおはしける。


【訳】
少年時代のような春は惜しんでも止まってくれないものだから、三月も半ばが過ぎてしまった。お庭の先の木立が、何となく青々としてくる中に、池の中島の藤は、松にだけまとわりつくものだと思っているような顔をして咲きかかっていて、山ほととぎすを待っている顔だ。池の水際の八重山吹は、山吹の名所である井手のあたりかと思うほどに見える。「光源氏が『身も投げつべし』とおっしゃったのも、こんなふうだったのかな」と、独りでご覧になるのももの足りないので、お仕えしている童で小さい子を使って、藤と山吹を一房ずつ折らせなさって、源氏の宮のお部屋へ持参なさると、源氏の宮の前では中納言、少将、中将、などという女房たちに、絵を描き色塗りなどさせて、宮はお習字をなさって、ものに寄りかかっていらっしゃる。



このように、冒頭から「光源氏」が登場するのです! ここでは、狭衣が庭を眺めながら、「光源氏が『身も投げつべし』とおっしゃったのも、こんなふうだったのかな」と思っています。つまり『狭衣物語』は、主人公が、光源氏に思いをはせるところから始まっているのです!


それから、巻2です。巻1のヒロインであった飛鳥井女君は海に身を投げてしまいました。狭衣は、道成から形見の扇を手に入れます。この扇は、狭衣が道成への餞別に贈ったものだったのですが、飛鳥井女君はこれを見て道成が狭衣の家来であることに気づき、絶望して死を選んでしまったのでした。この扇を狭衣が見るのが、次の場面です。

【本文】

この扇は見知りたりけるなめり、あはれ、いかばかり思ひけんと思しやらるる涙の水脈になりぬべし。
唐泊底の藻屑も流れしを瀬々の岩間もたづねてしがな
かひなくとも、なほかの跡を見るわざもがなと思せども、心にまかせぬありさまなれば、いかがは。光源氏の須磨の浦にしほたれわびたまひけんさへぞ、うらやましうぞ思されける。

【訳】
この扇は私のものだと見知っていたに違いない。可哀想に、どれほどの思いだっただろうと、思いをはせる涙が海流のようになってしまいそうなほどだ。
唐泊の水底の藻屑となって流れていったのを、浅瀬の岩間もたずねていきたい
甲斐がなくても、やはりその入水してしまった後の白波を見る手立てがほしいとお思いになるが、心のまま自由にできる身ではないので、どうしようもない。光源氏が須磨の浦で涙にくれてわび住まいをなさっていたことさえも、うらやましく思われるのだった。



 またもや「光源氏」と、はっきりと名前が出ています。光源氏には須磨に流謫するというエピソードがありますが、狭衣は飛鳥井女君の入水した地に行きたくても気軽に行ける身ではないので、「光源氏が須磨の浦で涙にくれてわび住まいをなさっていたことさえも、うらやましく思われる」わけです。冒頭と同じように、やはり光源氏に思いをはせて、自分を重ね合わせていますね。


 そして、物語の最終盤にも「光源氏」は出てきます。巻4で狭衣は飛鳥井女君の遺品の絵日記を受け取ります。それは、次のような場面です。

【本文】

ありつる唐櫃を引き寄せさせたまひて、「これや、昔の跡ならん。見れば悲しとや、光源氏ののたまはせたるものを」とはのたまはすれど、御覧ずるに、自ら描き集めたまへりける絵どもなりけり。

【訳】
置いてあった唐櫃を引き寄せなさって、「これが、あの人の筆跡なのだろうか。『見れば悲しい』と、光源氏がおっしゃっていたものを」などとおっしゃるが、ご覧になると、飛鳥井女君自身が描き集めておいでだった絵の数々なのであった。



ここでも、やはり光源氏に思いをはせているのです。ちなみに、「『見れば悲しい』と、光源氏がおっしゃっていた」場面は、『源氏物語』の幻巻のことでしょう。光源氏が亡き紫の上の手紙を処分しようとする場面です。ただ、そこで光源氏が詠む和歌は、「かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ」と、「見れば悲し」ではなく「見るもかひなし(=見ても甲斐がない)」なのです。『狭衣物語』のミス、と考えることもできますが、あくまで狭衣のセリフの中ですし、もしかしたら意図的に変えたのかもしれません。
幻巻の光源氏はもう最晩年。自らも出家に向かって身辺の整理をしていくなかで紫の上の手紙を見て、「見るもかひなし」と燃やしてしまいます。しかし、同じ物語の終盤とはいえ狭衣はまだ20代後半の青年です。光源氏とは対照的に、「見れば悲し」と言いながらも絵を見て、やがてすき返して経典にします。光源氏を引用するからこそ、その違いが明確に浮かびあがる表現と言えるかもしれません。



ともかく、物語の冒頭から最終盤にいたるまで、狭衣は3度にわたって光源氏に思いをはせ、自分と重ね合わせているのです。

(4)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子






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2018年06月28日

光源氏の行方をたどって(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





光源氏の行方をたどって(2)

2.禖子内親王の文化圏と『狭衣物語』



禖子内親王は25回にも及ぶ歌合を開催していますが、なかでも注目されるのが、天喜3年(1055)5月3日の物語歌合です。なんと、女房たち18人(『栄花物語』では20人とされていますが)がそれぞれ物語を新作してきて、それに関する和歌で歌合を行ったのです。物語を作れる女性が18人(もしかしたら20人)も周辺にいたということになります。この時期の文化の凄さが分かりますね……! 

もちろん、『狭衣物語』の作者とされる宣旨も、この物語歌合に参加しています(その時に出したとされる『玉藻に遊ぶ権大納言』という物語は、残念ながら現存していません)。


さて、前置きが長くなりました。今回話題にする『狭衣物語』はそういった文化のなかで書かれた作品です。

和歌が大好き、物語が大好き、といった人たちのなかで生まれてきたのです。『狭衣物語』は、作中に和歌や他の物語を引用した表現が非常に多いのですが、背景を知っていると納得できますね。

そんな『狭衣物語』に……光源氏がいるのです。

 光源氏の行方をたどる前に、『狭衣物語』について少し説明しておきましょう。
この物語は全4巻。兄妹同然に育った従妹である「源氏の宮」という女性への片思いに苦しむ主人公の物語です。この主人公は、物語のタイトルの由来でもある「いろいろに重ねては着じ人知れず思ひそめてし夜の狭衣」という和歌を詠んでいるので、「狭衣」とか「狭衣大将」などと呼ばれています。

 この物語は全4巻と言いましたが、4巻それぞれに新しいヒロインが登場するとともに、源氏の宮はメインヒロインのような形でずっと登場するという構成になっています。


【図2】


図1chino.jpg




巻1に登場する飛鳥井女君は、狭衣と交際することになりますが、狭衣の家来である道成に略奪され(道成は飛鳥井女君が狭衣の恋人だと知らなかったのです!)、自ら死を選びます。

巻2に登場する女二宮は、帝の皇女で、狭衣との結婚が打診されていました。しかし、狭衣はふとしたきっかけで彼女と密かに関係を結び、女二宮は妊娠してしまいます。女二宮の周囲は、腹の子の相手が誰か知らなかったために諸々の偽装工作をすることになり、女二宮の母親は心労がたたって死んでしまい、女二宮本人も出家してしまいます。

巻3に登場する一品宮は、飛鳥井女君の遺児である姫君を引き取っていました。狭衣は娘に会いたくて一品宮の邸に忍び込んでいたところを見つかってしまい、一品宮との関係が噂になって結婚することになってしまいます。もとより望まぬ結婚なので、夫婦生活が円満にいくわけがありません。

こうした悲劇続きの展開なのですが、巻4に登場する宰相中将の妹君は、源氏の宮に生き写しの女性で、狭衣は彼女を引き取って妻にすることで、一応の充足を得ることになります。その後、天照大御神のお告げがあって狭衣は天皇になるのですが、最後まで源氏の宮や女二宮への未練は消えない、という筋です。


(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子




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2018年05月28日

光源氏の行方をたどって(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学


光源氏の行方をたどって(1)

はじめに

「光源氏」とは、平安時代中期に成立した長編物語『源氏物語』の主人公です。フィクションの世界、それも、『源氏物語』というひとつの物語の世界のなかで生きている存在……の、はずなのですが。
実は、平安時代後期の成立である『狭衣物語』のなかにも、彼は存在しているのです。
一体どういうことなのか、光源氏の行方をたどってみましょう!

1.平安時代後期の物語

『源氏物語』を書いたとされる紫式部は、一条天皇の中宮である彰子に仕えていました。彰子は藤原道長の娘。この道長がパトロンとなって文化活動を支えていたわけです。また、紫式部と並んで有名な清少納言は、一条天皇の皇后である定子に仕え、『枕草子』を書きました(ちなみに定子の父親は、道長の兄である道隆です)。

今回話題にする『狭衣物語』が書かれたのは、これより少し後の時代です。

彰子が生んだ一条天皇の皇子は、後一条天皇・後朱雀天皇として次々と即位しました。後朱雀天皇には彰子の妹である嬉子が入内し、後冷泉天皇が生まれます。

この後冷泉天皇の時代、永承(1046〜1053)・天喜(1053〜1058)年間は、歌合の黄金期とも呼ばれ、文化活動が非常に盛んな時期でした。特に多く歌合を開催したのは、後朱雀天皇の皇女である祐子内親王・禖子内親王の姉妹と、後冷泉天皇の皇后である寛子です。寛子は、藤原頼通(道長の息子)の娘です。
祐子内親王・禖子内親王の姉妹ですが……系図をご覧ください。

【図1】


図1chino.jpg




 母親は嫄子女王。彼女は敦康親王の娘です。敦康親王というのは、清少納言が仕えたあの定子の生んだ皇子です。こうして系図がつながるのは面白いですよね。

それで、嫄子女王なのですが、彼女は母親が頼通の妻の妹という縁があり、頼通の養女となっていました。そのため、祐子内親王・禖子内親王も、頼通のもとで育ちました。

つまり、この歌合の黄金期を築いた女性たちを支えていたのは藤原頼通なのです。

紫式部が彰子に仕えていたように、彼女たちにも優秀な女房たちが使えていました。祐子内親王に仕えていた女房には、菅原孝標の娘がいます。彼女は『更級日記』の筆者であり、平安後期物語の代表作である『夜の寝覚』『浜松中納言物語』の作者ではないかと言われています。

そして、禖子内親王に仕えていたのが、今回話題にする『狭衣物語』の作者とされる宣旨(源頼国の娘)です。

『源氏物語』が書かれたころを「藤原道長の時代」というならば、平安後期物語が書かれたころというのは、その息子である「藤原頼通の時代」ということになりますね。


(2)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子





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2018年04月09日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





 

(4)労働力の簒奪・400年続いた拉致

1.鉱山技師だった奴隷たち

 16世紀末まで繁栄を誇っていたサブサハラ・アフリカは2度滅びた。400年に及ぶ奴隷狩りで社会と経済が滅び、19世紀後半の植民地化で国が滅びた。古来アフリカにあった奴隷は敗戦国の民や罪人であったが、商家に買われた奴隷は「賢い奴隷は主人の財産を引き継ぐ」とのアフリカの諺にある通り、主人の娘さんの婿になり、また王宮に入った奴隷は近衛部隊を構成したり、王位継承権に発言権を有したりしていた。今日でもモロッコ国王の曾祖母は黒人奴隷であり、そのことはむしろアフリカとの結びつきとして誇りにされている。すなわち、人間を人間として扱わない奴隷はヨーロッパの産物である。

 このような奴隷狩りを始めたのはポルトガル人である。ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを攻略し、イスラム帝国が支配するアフリカ大陸を次第に南下して行き、1444年にはセネガル北部からリスボンに最初の奴隷が連れてこられた。ポルトガルは西アフリカ沿岸の南下を続け、それにつれて本国に送る奴隷は増え続けた。

 現在のアンゴラの首都ルアンダに要塞を築いたポルトガルはここを本格的な奴隷の積出拠点とし、次々とコンゴ王国(今日のアンゴラおよびコンゴ)の人々を拉致していった。ブラジルに向かう大西洋上では鎖に繋がれたまま船倉にびっしりと並べられ、その不潔で過酷な状況で命を落とす人が多かったが、船旅を生き延びた人たちがブラジルに着いてみるとそこには何もなく、食糧生産から始めなければならない状態であった。コンゴ王国からは平民、貴族ひいては王族に至るまで奴隷として連れ去られ、多くのインテリや技能者を含んでいた。彼らがブラジルに到着して気が付いたのは、大地がアフリカと同じ赤土、テラ・ロッサ(赤土)だということで、それならば鉄があるに違いないと考えた。こうして奴隷たちが鉄鉱石を探し出して鉄を打ち、自分たちで農機具を作っていったのである。他方、奴隷の「所有者」であったポルトガル人には、そのような鉱業に関する知識や能力はなかった。

 この奴隷たちの熱帯農業及び鉱業の知識が白人の主人たちよりすぐれているとの実態は、ナイジェリアからガーナにかけての海岸線(「奴隷海岸」)からオランダ人やイギリス人などによって連れ去られたアフリカ人たちについても記録されている。カリブ海や新大陸における過酷な労働で熱帯農業と特に鉱業に秀でた奴隷たちが次々と死んでいく中、新たな奴隷を補給する需要がますます高まり、奴隷の価格は高騰していき、1771年には「黄金海岸」で働いていた英国の奴隷買い付け代理人からロンドンの役員宛に支払いを金(きん)で行わなければ奴隷を入手できないとの報告が記録されている。



2.ヨーロッパの繁栄をもたらした奴隷たち

 いったい何人の人が連れ去られたかについては、正確な記録が一部にしかないため推計によるが、1000万人から1200万人、研究者によっては3000万人との指摘もある。

記録に基づく人数をいくつか例示すれば、
@ルアンダで奴隷の積み込みに携わっていたイエズス会のキリスト教宣教師たちがつけていた正確な記録を見ると、ルアンダからだけでも1468年から1641年の間に138万9千人が新大陸に「船積み」された。

A国王フェリペ1世(スペイン王フェリペ2世がフェリペ1世としてポルトガル王を兼ねていた)への報告によれば、アンゴラからブラジルに1575年から1591年の間に52,023人の奴隷が送られた。

Bポルトガルが抑えていたアンゴラとモザンビークを併せると、1580年から1680年の100年の間に約百万人、すなわち年平均1万人が連れ去られた。

奴隷は、北はセネガル川河口から南は今日のアンゴラの南端におよぶ5000キロにも及ぶ地域、さらに東海岸のモザンビークなどアフリカ各地から集められたので、これらの数字は氷山の一角でしかない 。

 スペインは 、1492年にイベリア半島最後のイスラム王国グラナダを陥落させ、また同年コロンブスがアメリカを「発見」した。こうして、新大陸で鉱山とプランテーションに手を付け始めたが、「インディアン」達は鉱山技術を持たず、スペイン人による過酷な使役によって絶滅寸前に追い込まれた。スペインが「発見」した当時、イスパニョラ島には113万人のインディアンがいたが、1518年には1万1千人以下となったと当時のスペイン人が記述している。その代替労働力として1505年にセビリアの船が新大陸に向けて17人のアフリカ人を鉱山設備と共に船積みした。1510年には王室がアフリカ人のアメリカ行きを公認、その6年後にはスペイン領のカリブ海諸島で奴隷が栽培した砂糖の最初の出荷がスペインに届いた。さらに2年後の1518年には、アフリカのギニア湾からスペイン領アメリカに向けて、アフリカ人奴隷を積んだスペイン船が直航するようになった。
 
 ポルトガルに始まり、スペイン、オランダ、デンマークなどに続いて海洋進出して帝国を築いたイギリスは、奴隷貿易で大いに繁栄することとなった。特に奴隷貿易の拠点港となったリヴァプールとブリストルは一気に富を蓄積していった。例えば、リヴァプール港では1783年から1793年の11年間で約900回の奴隷船の航海がおこなわれて30万人以上の奴隷を運搬、その価格は1500万ポンドに上り、そのうち純益は1200万ポンド以上、すなわち毎年100万ポンド以上の儲けをもたらした。

 ブリストルについて1881年に歴史家J.F.Nichollsは次のように記述した。
「ブリストルには奴隷の血で固められていない煉瓦は一つもない。豪華な館や贅沢な生活は、ブリストルの商人が売買した奴隷の苦しみとうめき声で出来ている。」  歴史上の偉人もその元をたどれば奴隷で富を蓄積した例もある。例えば英国史上有名な首相となったグラッドストンの父親ジョン・グラッドストンは奴隷船と奴隷のプランテーションで富を築いた。また、英領北米植民地の反乱の首謀者(イギリスの見方)ないしアメリカ建国の英雄(アメリカの見方)であるジョージ・ワシントンは500人の奴隷の所有者であった。



3.奴隷貿易の泥沼化とヨーロッパ人による正当化

 では、なぜアフリカからかくも大勢の人たちが奴隷として拉致され続けたのか。それは奴隷を鉄砲の代金としてヨーロッパ人が要求したことによる。当初、ポルトガル商人たちは、コンゴ王国内の部族長などに下剋上をささやきつつ鉄砲を欲しければ奴隷で支払えと強要した。ある村ないし部族がこのような方法で鉄砲を入手するということは、近隣の村ないし部族にとっては自分たちが襲われて奴隷に売られるという大きなリスクを意味する。そのため後者も鉄砲と火薬を入手しようとしてポルトガル人商人に接触する。ポルトガル商人は金や象牙では鉄砲を売らずに、ブラジルの開拓やプランテーションに必要な奴隷を持って来させる。この悪循環はその後アフリカに進出していったオランダ、イギリス、デンマーク、ブランデンブルグ(プロイセン)ほかのヨーロッパ諸国にも引き継がれていき、売り手と買い手双方の事情から、アフリカ人による近隣の王国からの奴隷の拉致とヨーロッパ人による奴隷を対価とする銃の売り込みは一つのシステムとして確立し、その悪循環の上に400年にわたって奴隷貿易が続いていった。

 こうして4世紀にわたる奴隷狩りと奴隷貿易で大西洋の対岸にたどり着いたアフリカ人は1000万人ないし1200万人に上ると推計されているが、住んでいた村から拉致されてから海岸線のヨーロッパの侵略拠点で船に積み込まれるまで、さらに大西洋の航海中に死亡したアフリカ人は何百万人にも上った 。

 航海の途中に死亡したアフリカ人たちはそのまま海に捨てられたが、「積み荷」が劣化する、すなわちカリブやアメリカにつく時点で奴隷が病気になっていると売りさばけないために、病気になると生きたまま海に捨てられた例もある。「奴隷」の法的位置づけについて、例えば1781年のゾング号(ZONG)事件として知られる裁判において次の実例がある。「人間」を海に捨てたのかどうかについて、裁判長のマンスフィールド卿は、「奴隷たちの案件は、馬が船外に放り込まれた案件と同じである。」と宣言した。また、同裁判の荷主側弁護人は、「人間が船から放り投げられたとの話はいったい何だ?これはモノ(goods)の案件である。これはモノの投棄の案件である。彼らはモノであり財産である。」

 ヨーロッパ人は、奴隷は人間ではなく動産であるとの法的位置づけを行い、そのため売買も自由、なればこそ奴隷商人たちは自分の持ち物であることを示すために家畜にするのと同様、赤く熱した鉄ごてを奴隷に押し付けて烙印をつけた。また、多くの奴隷市では最も残酷なことに意を用いた。すなわち、同じ部族、同じ家族を一緒に買わないようにしたのであった。それは奴隷たちが相互にコミュニケーションをして反乱などを目論まないようにするためであり、結果としてきちんと学ぶ機会もないまま所有者の言語を見よう見まねで話さざるを得なくなった。ヨーロッパ人たちは拉致したアフリカ人から人間が人間たるゆえんである言語を奪ったばかりか、所有者の言語をきちんと話せないことをもってさらに見下したのである。



4.奴隷貿易とはアフリカからの労働力の喪失だった

 アフリカ側から見ると、本来彼らの祖国における労働力として農業、金、銅などの採掘、あるいは交易などの経済活動を担うべき健康かつ屈強な若者たちが、少なくとも1000万人、推計によっては3000万人 、すっぽり抜け落ちたことを意味する。すなわち、セネガルからアンゴラに至る沿岸地方の奴隷を狩られた地域においては、労働力がなくなってしまったがゆえに経済活動が停滞してしまった。体に例えれば、いつまでも出血が止まらない状態が四百年続いたからである。これこそがアフリカにおける奴隷狩りの最大の経済的インパクトである。

 イギリスに巨大な富をもたらした三角貿易を担った貿易船の例を見ると、その三辺のいずれにおいても積み荷は満杯であった。ロンドン、ブリストルないしリヴァプールを出港する時には銃、火薬、繊維製品、ビーズ、ろうそく、砂糖、タバコ、酒などの商品を満載してアフリカに向かい、アフリカで奴隷と交換する。アフリカからカリブ海向けの航海は奴隷で満杯となり、ジャマイカなどで砂糖、香料、ラム酒、タバコ、コーヒーなどと交換される。カリブからイギリスへの帰路はこれらの商品を満載し、イギリスで売りさばく。

 こうして確立していったイギリスーアフリカーカリブ・アメリカの三角貿易システムは、アフリカの産業にも負のインパクトを与えていくこととなった。すなわち、イギリスで産業革命が起きると、イギリスからアフリカ向けの積み荷は機械生産による綿布や金属製品となり、これが現地製の綿製品や古来の日用の鉄製品を駆逐していった。かつて16世紀には、ポルトガルが西アフリカ産の綿布をヨーロッパに輸出していたが、三角貿易の中で流れが逆転した。こうして奴隷貿易ネットワークに組み込まれたアフリカ沿岸諸王国における家内繊維産業が近代産業に転化する芽を摘んでいった 。

元来、アフリカの繊維産業は決して侮るべきものではない。例えば、内陸に位置していたことが幸いして三角貿易の埒外にあったカノ(現北部ナイジェリアの町)は中世以来綿製品と藍染めで有名であり、19世紀半ばにカノに滞在したドイツ人ハインリッヒ・バルト は、カノにはセネガルからチャド湖に至る西スーダン地方の綿製品需要を賄うに十分な綿産業と呼べる水準に達している家内産業の隆盛があったと記録している 。しかしこれも砲撃による植民地化で衰退の道をたどった。



5.なぜ奴隷制の禁止ではなく奴隷貿易の禁止だったのか

 15世紀にアフリカからの奴隷狩りが始まってから4世紀後の後、1807年にイギリスで奴隷貿易が廃止され、1833年にイギリス本国と大英帝国領内での奴隷制が議会によって廃止された。なぜ奴隷貿易が廃止されてから奴隷制の廃止までさらに26年、言わば一世代を要したのか。逆に言えば、なぜ奴隷制ではなく、奴隷貿易を廃止したのか。

 それは、奴隷貿易が成立しなくなったからである。その一つの理由は、ジャマイカの砂糖産業がキューバやアメリカの大プランテーションの前に競争力を失い、キングストンの奴隷市で奴隷を買う人がいなくなっていった。すなわちアフリカから奴隷をキングストンに運ぶ経済的メリットが消滅したのである。二つ目の理由は、産業革命によってイギリスの経済構造が大きく変わり、富の源泉が植民地の大プランテーションから国内の製造業依存に移行していったからである。労働集約性が極めて高い大規模プランテーションに富を依存している限り、その労働力を大量かつ不断に供給する必要があった。すなわち、過酷な労働条件のもと奴隷が次々と死ぬのでアフリカから大勢の人を拉致し続ける必要があったが、国内の製造業に富の源泉が移ったことによって、労働力確保の関心はアフリカからの奴隷ではなく、エンクロージャーで農村を追われて都会に流れ込んだイギリス人労働者達に向いたのである。

(出典:石川薫、小浜裕久著、「『未解』のアフリカ」、勁草書房、より抜粋)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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2018年03月03日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






3.「普通の」大陸だったアフリカ

(1)「普通の」大陸だったアフリカ

 アフリカの王国がヨーロッパに大使館を開設し、国王は自由にポルトガル語を話して書簡を書き、上流階級の子弟はヨーロッパに留学し、カトリックの司祭にも叙せられた。これはおとぎ話ではなく、16世紀のコンゴ王国のことである。

 英国が支援した明治維新以降ヨーロッパ史観で教育された私達が忘れがちな非欧米世界の歴史。アフリカで人類が生まれたことは知っていても、ヨーロッパ人が自分の発明だと言っている多くの概念、例えば正義を量る天秤(今日あまねく裁判所のロゴとなっている)、死後の審判と復活などが6000年以上前から文明を誇ったエジプト人が考えだしたとは知らない人が多い。エジプトの学問では、厳格な租税制度と検地のために発達した幾何学(6000年前の数学の教科書がパピルスに記されて現存する。当時の円の面積計算を当てはめると円周率はおおむね3.15となり、「ゆとり教育」で日本が教えたとされる3よりはるかに正確)、解剖や外科手術など枚挙に暇がない。

 キリスト教はヨーロッパの宗教だと思い込んでいる向きも多いが、それは使徒ペトロの建てたヴァチカン史観によるもの。世界で最初にキリスト教を国教にしたのは3世紀のアルメニアであり、次はエチオピアに系譜をつなげるアクスム王国。イスラムは非寛容というヨーロッパ人の主張に反して、イスラム世界では魔女狩りも異端裁判も火あぶりもなかったし、イスラム支配下のイベリア半島ではキリスト教徒もユダヤ教徒も2級市民ではなかった。「異教徒」を追い払ったキリスト教のイザベラ女王とは大違いである。イスラムが支配した北アフリカでは、紀元60年に使徒マルコが建てたアレキサンドリア大聖堂が現在までエジプト正教会の法王を抱いて続き、今でもエジプト人のキリスト教徒は800万人いる。古来エチオピア教会はアレキサンドリア大聖堂の末寺の位置づけであり、主教はアレキサンドリアから派遣されてきた。エジプトを支配していた歴代イスラム王朝がそれを許していたからである。

 東部アフリカでは、英国人をして「アフリカのバーミンガム」を言わしめた製鉄が盛んだったクシュ王国、あるいはインド洋貿易で栄えていたキルワ通商王国。西アフリカではヨーロッパ人の誇るフランク王国より古いガーナ王国が知られ、またマンサ・ムーサ王の黄金の巡礼で14世紀にはヨーロッパにまでその名をとどろかせたマリ帝国、首都のガオには蜜が流れるとまで言われたソンガイ帝国、そしてマリやソンガイの治世下で知の殿堂となったトゥンブクトゥーなどの大学。学者・学生の数は後のフランスのソルボンヌ大学よりも多かった。

 アフリカはヨーロッパの暴虐に屈するまで、ほかの大陸と同じように時間が流れ、文化を謳歌し、経済活動も行っていた。アフリカに栄えた王国のすべてを書くことは紙面の関係でかなわないが、主な王国の地図をお示しする。



石川(3)−1.jpg



     
   
    
(地図はMichigan State University ホームページより)



 ユダヤ人の地図師によるカタロニア図 (1375年)に描かれたサハラ砂漠の向こうに広がる黄金の帝国(地図の下部に金の王冠を被り、金の笏を持ち、金塊を手に掲げる王が描かれている。)マリ最盛期の王、マンサ・カンカン・ムーサ1世(在位推定1307-1332)である。1324年のメッカ巡礼の往路滞在したカイロで、王の一行はマムルーク帝国側の受け入れ関係者にあまねく金(きん)を贈り、また金で大量の買い物をしたため、当時の世界で最も繁栄していた都市の一つであったカイロの金の相場が急落してしまい、そののち十数年たっても相場は回復しなかった。



石川(3)−2-1.jpg



   



(2)権力基盤、富、知

 字数の都合でアフリカの王国全てを記述できないが、権力、富、そして知の観点から、ガーナ王国とマリ帝国に触れてみたい。
 
 (イ)ガーナ王国(8世紀―13世紀)
 ガーナは、ニジェール川上流と西のセネガル川にはさまれた地域一帯に栄え、アラブ人は紀元8世紀に「金の土地」として知ったが、伝承によればさらに古い起源を示唆しており、紀元前300年ころに鉄器の使用が開始されたとの推測もある。都であったとされるクンビサレーの遺跡からは鉄製品が出土している。王たちが住んでいた城砦街区と、そこから10キロばかり離れたところにつくられた北から来たイスラムの商人たちが住む街区の二つからなり、王宮では貴族はもとより、金の装飾が施された剣や楯を持つ侍従、金の優雅な飾りをつけた馬や番犬が王を囲んでいた。イスラム商人地区には12のモスクがあり、イスラムの聖職者やイスラム法学者たちも住んでいた。(エル・ベクリ著‘Kitab al-Masalik wa al-Mamalik’,1068年)
 ガーナ王国は、サハラ北部の塩の集散地タガザを抑え、南方の森の民が掘り出す金を独占的に購入した。これが「北から南への塩」と「南から北への金」というサハラの交易の基本パターンとなった。ガーナ王国は金の相場の維持にも配意して、金塊はすべて王のものとして供給量をコントロールしたが、金屑は国民の自由にさせた。ここにアフリカにおける富の集中と再分配のひとつの形がみられる。すなわち、王は富を蓄積するが、王は富を配分する役割も担っており、この配分をうまく行うことが王の権力の一つの基盤になっていた。 
 ガーナ王国の繁栄は政治権力の確立、通商とそれを支える行政機能と軍事力、例えば金の北への通商を独占できる力、通商路の安全を確保できる力、関税制度を作りそして関税を徴収できる組織と力、正確な度量衡、相場の維持への工夫などによると考えられる。

 (ロ)マリ帝国(13世紀―16世紀)
 ガーナ衰退後混乱していた西スーダン地方を統一して栄えたのがマリ帝国である。建国の王、マンディンゴ族のスンディアタは、ニジェール川上流サンカラニ川沿いのニアニを首都と定めた。ニアニは脅威となりうるサハラ砂漠の遊牧民がいる地域から遠く、山に囲まれて守りやすく、サンカラニ川は季節にかかわらず航行可能、さらに金・コーラの実・パーム油が豊かな南の森林地帯に接し、また交易に携わる商人が綿布や銅を売りに来る場所でもあった 。ニアニで足場を固めたマリはその後ニジェール川中流域にかけて急速に支配を広げていった。

 なぜニジェール川の中流域を中心としてマリやソンガイなどの帝国が成立したのだろうか。

 マリ帝国は当初から金による帝国だったと考えられがちだが、そもそもの国の起りは全長4200キロのニジェール川の恵みにあった。中流で大きく湾曲して豊かな土壌を堆積して農業と漁業を育み、水路として交通を盛んにさせ、軍事力としての水軍も生んだ。その上で、金や銅などの通商によってますます栄えたが、富は行政基盤を固め、そして文化を生む。

 イブン・バトゥータの紀行記によれば、マリでは不正は数少なく、国内は全般的に完璧に安全である。旅人も住民も、強盗、泥棒、横領をまったく恐れる必要がない。北アフリカの貿易商などが客死した場合には莫大な財産を保有している場合ですらマリ人はその財産を没収せず、当該財産が正統に属すべき人が現れるまでの間、北アフリカ人たちの中で信頼されている者にその財産を預ける、黒人たちは(イスラムの)祈りを正しく唱え、金曜日のモスクは早く行かないと祈る場所がないほど大勢の人が祈りに行く、金曜日には清潔な白い衣服を身にまとい、一張羅しか持っていない人は仮にそれが擦り切れたものでも必ず洗濯をして祈りの場に行く。

 他の大陸においてそうであったように、サブサハラ・アフリカでも豊かさは文化を生み、そして学問を生んだ。砂漠を超える隊商ルートはマリに来訪するイスラム学者やマリからメッカへの巡礼者も多く通る道であり、これがマリの「知」を支える重要な要素であった。サハラ砂漠の隊商が行う交易の中で最も量が多く利鞘が大きかったのはカイロやグラナダから輸入されるイスラム関連の書籍であった。地元出身の学者を輩出し、彼らはアラビア語のみならずアラビア文字起源の表音文字アジャニ文字で自分たちの言葉を記述していたのである。


(4)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)


文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫







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2018年02月08日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.アフリカという大陸



(1)アフリカは大きい

 【地図が生む錯覚と偏見】

 飛行機でロンドンから南アフリカ最南端のケープタウンに飛ぶと11時間40分かかる。これは英国航空が営業で使っている時間であるが、実はその英国航空はロンドンと東京も11時間40分で結んでいる。
 私たちが見慣れている世界地図はおおかたメルカトール図法に端を発するミラー図法であるから、アフリカ大陸は随分と小さく描かれている。これは地球が球であることを忘れさせてしまう2次元の図法であって、世界中の人々の世界観はここから歪みが始まるといっても過言ではない。しかし、2次元に「つぶした」球で世界情勢を見るのは不適切である。




アフリカ2−1.jpg

   




 多くの教室や事務所でこのような地図を見慣れていると思うが、ひとつの点にすぎない北極や南極がこの地図の右から左までの長さに引き伸ばされていることの意味、また球状にカーブしている南北の線を直線で表している結果何が起きているかを考えていただきたい。

 この地図から、ロンドン・ケープタウン間とロンドン・東京間が同じ距離に見えるだろうか。地球は丸い球であって2次元ではないことを、アフリカを考える時にはまず念頭に置いていただきたい。
 この地図からは信じられないかもしれないが、アフリカ大陸の面積は3037万㎢、南北は8000キロ、東西は7400キロである。そのアフリカ大陸に今日54の国がある。
 NASAによる宇宙から見た地球の写真を見るとこのことをより実感できるのではないだろうかる。




アフリカ2−2.jpg






(2)多民族・多言語国家とアフリカの多様性

 【広い国土とたくさんの民族、たくさんの言語】

 この大陸の中央部、赤道直下に広がるコンゴ民主共和国。2次元の地図で見るとせいぜいフランスとスペインを足した程度にしか見えないが、実は国を横断する距離はおおむねスペインのマドリッドから東欧のポーランドのワルシャワまでの距離に匹敵する。そのような広い地域に国土が広がっているので、そこに住む民族もさまざまである。言い換えれば、一つの国だと言うのに言葉は200以上あり、絞り込んだグループ別でも、キコンゴ語、リンガラ語、チルバ語、スワヒリ語があり、公式言語はフランス語である。公式言語ないし「公用語」。日本で、私たちの母語以外の言葉、例えばロシア語が「公用語」だと言われたら、何のことかさっぱりわからないと思うが、アフリカではそれが殆どの国で起きていることである。

 しばしばヨーロッパの開発論者や政治家、マスコミはアフリカの国家の一体性をめぐり、なぜアフリカ人は自分の国の「国家の一体性」を保てないのだ、とか、内戦をやめて民主主義を早く導入すればよい、とかコメントする。あえてこのようなヨーロッパ人の指摘に対して皮肉を述べれば、コンゴと大差ない面積に広がるヨーロッパは「1000年の間30年ごとに殺しあってきた」ではないか、マーストリヒト条約(1992年)でヨーロッパの一体性にたどり着いたのはその後だったではないか、と言いたくもなる。なお、この「ヨーロッパは1000年の間30年ごとに殺しあってきた」とは、1992年5月2日ヘルムート・コール・ドイツ首相がボンの首相府において訪独中の宮澤喜一総理(当時)に述べた言葉であり、筆者はその訪独に同行していた。

 そもそも、アフリカにおける国家の一体性を根底からひっくり返したのはヨーロッパの侵略とアフリカの分割である。ヨーロッパ人たちはアフリカの王国の国境、言語分布、歴史に一顧だにすることなくヨーロッパ人だけで談合して自分たちの勢力圏を決めたのであった(1884‐85年のベルリン会議)。


 【アフリカの多様性】

 他方、これだけ広い大陸であるから、アフリカは多様である。「アジア」とヨーロッパ人が名付けた地域には日本もインドもイランも含まれている。サッカーの「ドーハの悲劇」がなぜ起きたかといえば、ドーハがあるカタールも日本もアジアに分類されているからであるが、カタールやサウジアラビアやイランがアジアだと聞いて正直なところきわめて不思議な気がしないだろうか。

 「アフリカは一つ」という考えは政治的には「汎アフリカ主義」が背景にあるが、しかし、実際は同じ「アジア」に属する日本とイランがとても異なっているように、アフリカにはとても異なる国が存在している

 そもそも、「アジア」とか「アフリカ」という呼び名は西洋の歴史の中で生まれてきたものであった。近世以降における展開を考えると、世界を制覇した大英帝国で地理学が発展したこととも関係がある。ロンドン近郊にグリニッジという場所があってその町に古い天文台がある。天文台の横には帆船カティー・サーク号が停泊していて大英帝国全盛の時代を想起させるが、そのような時代に世界の時間の基準をグリニッジ標準時と定め、また世界の地点を規定する方法として東西に走る線を緯度、南北に走る線を経度と定め、そして世界の中心としてグリニッジ天文台を通過する北極から南極までの直線を0度とした。その上で、球状の地球を360度で規定し、グリニッジ天文台から東を東経、西を西経と定めた。その結果、日本の標準時の明石市は東経135度に存在し、グリニッジから東回りでも西回りでもちょうど180度になる太平洋の真ん中が東経180度かつ西経180度となり、そこで日付が変わるのである。日本が「極東―Far East」にあると言われるのも同じ理由による。読者の皆さんが周知の事実をくどく書いた理由はここにある。すなわち、歴史のみならず、地理もある時点の勝者が書き、そのような観点からの判断が後世も続くということの典型例だからである。


(3)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫





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2018年01月18日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1.文化と野蛮


(1)文化とは何か

 日本にもファンが多い画家モジリアーニ。彼の書いた人物像は首が長く、顔がラグビーボールのようで、鼻が長く、瞼は一重。実はこれはアフリカでしばしばみられる木彫りの人物像の様式である。モジリアーニの芸術がアフリカ芸術の影響を強く受けていることは今日よく知られるところとなっており、フランスではモジリアーニとアフリカ芸術というテーマで展覧会が開催されたりする 。


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(左図)Amedeo Modigliani: Jeanne Hébuterne, 1919
http://www.artcyclopedia.com/artists/modigliani_amedeo.html
(右図)Art africain le masque africain Baoule
http://www.masque-africain.com/masque-africain/masque-baoule/masque-africain.jpg



 
 おそらく日本の西洋芸術のファンにとってより驚きが大きいと思われるのは、ピカソの作品である。ピカソはアフリカ芸術をテーマに集うグループに入っていたが、例えば「アヴィニョンの乙女たち」に描かれている少女たちの中にはアフリカの女性も描かれており、その描き方はアフリカのお面を模したとみられている。



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(左図:中央図の一部)Demoiselles d’Avignon http://geotourweb.com/nouvel229.jpg
(右図)Le masque MBANGU chez les Pende  http://detoursdesmondes.typepad.com/dtours_des_mondes/page/41/  
  (ただし、右のマスクから直接左の絵になったわけではない。)




 ピカソやモジリアーニといった一流の芸術家がアフリカ芸術に魅せられた事実は何を意味しているのだろうか。
 モジリアーニは貧困の中に亡くなり、ピカソは存命中に名声を博したが、二人の天才は美を探究していく中で、美を描きだす方法としてアフリカの美の表現法に出遭った、少なくとも、アフリカの美の表現法に「も」出遭ったと考えても良いのではないだろうか。そう考えるためには、美は大陸や文化を越えて人間の感性に訴える共通性を有していると認識することも大切なのではないだろうか。そして、そのような認識を持ちうるためには先入観というものを排除する必要がある。なぜなら先入観こそはその人が生まれ育った文化や環境の中で生まれるものだからであり、それ以外のものを排斥する排他性を備えているからである。

 アフリカの芸術には、それを生まれて初めて見る部外者にもストレートに美の感動を与えるものと、なかなかその美を理解しにくいものの双方がある。例えば伝統的宗教行事に使われたであろういくつかのお面は率直に言って部外者にはなじみにくい。
 そこで何枚かの写真をお見せしたい。初めはアフリカの伝統的な宗教行事から発したお面と、お面をかぶった人々の行進である。いかにもおどろおどろしいと感じるかもしれない。



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 では、次の写真はどうだろうか。これは日本の秋田県男鹿半島に伝わる国の重要民俗無形文化財、なまはげの写真である。


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 http://www.namahage.co.jp/namahagekan/exhibit.php (なまはげ館、男鹿真山伝承館ホームページより)




 このような写真を見て、こういったものはアフリカや日本のある特定の地方の郷土伝統に過ぎない、と考えるべきだろうか。
 ところが、実はヨーロッパにも似たようなお面がある。ドイツ南部のバイエルン地方やオーストリア、ハンガリーなどに伝わる風習で、おどろおどろしいお面をかぶってモノがクリスマスの聖人セント・ニコラスとともにクリスマスの街を歩いている。ドイツ観光局のホームページは「屋台の並ぶ小路では、クランプス (西洋版なまはげ) を従えた、教父の聖ニコラウスに出くわすかもしれません。これらは、500年来のアルプス地方の風習を、今に伝える存在です。」と広報している。http://www.germany.travel/jp/specials/christmas/christmas-market-in-munich.html



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(2)野蛮とは何か

 若い読者の皆さんは女優のオードリー・ヘップバーンをご存じだろうか。若い方はご両親やお祖父様、お祖母様に伺えばおそらくファンだとおっしゃる方が多いのではないだろうか。「ローマの休日」や「マイフェアレディ」、「戦争と平和」などが有名だが、晩年ユニセフその他の活動を応援して、アフリカなどの恵まれない子供たちのためにも大きな貢献をした方である。

 日本ユニセフ協会のホームページから引用させていただく:
(日本ユニセフ協会ホームページ:「オードリー・ヘップバーンは、1989年にユニセフ親善大使に就任しました。亡くなるまでの4年間、当時最悪の食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、子どもたちの声なき声を代弁し続けました。」http://www.unicef.or.jp/special/ 

 筆者もオードリー・ヘップバーンのファンとして彼女が主演した映画は随分見たが、その中で1本だけどうしても好きになれなかったものがあった。それは「尼僧物語」、戦前ベルギーの良家のお嬢さんが出家して修道院に入りベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)の病院などで働きながら現地の人の医療にかかわる、そうした中第2次大戦が始まりドイツのベルギー攻撃によって父親が殺される、映画の主題は信仰と愛と憎しみとは何かなど非常に深いものがあると思う。ただ、そこでコンゴ人はいかにも「未開で野蛮な人」という扱いで描かれていた。

 実はコンゴは1904年までベルギー王レオポルド2世の私領であって、ベルギー国の植民地ではなかった。英国ではSirに叙せられて英雄視されている一発屋のスタンレーが宣教師兼探検家のリヴィングストンを探し当てたと自己宣伝して英国に凱旋した後、再度中部アフリカに戻り、今日のルワンダ、ブルンディ、ウガンダを経て大河コンゴ河を下りきり、自分を王であると宣言した。誰に断って王となったかは誰も問わなかった摩訶不思議な話だが、スタンレーはヨーロッパに戻ってコンゴを英国王室に「売り渡そう」としたが英国王室はこれを断ったため、ベルギー王に話を持っていったところレオポルド2世が飛びついて購入した。すなわち、コンゴ人の知らないところで勝手に王となった男が、コンゴを新興国ベルギーのレオポルド2世国王に売り払い、国王は広大なアフリカの土地を私領としたのである。これに怒ったポルトガルがコンゴは自分のものだと文句を言い、それを見たビスマルクが調停をすれば新興国ドイツ帝国の存在感を示す絶好の機会となると考えて開いたのが1884−85年のベルリン会議であった。そのアフリカ分割会議でまんまとコンゴを自分のものとしたレオポルド2世。念のため再度述べるが、コンゴは国王の私領(「コンゴ自由国」と言う名前の下で)とされたのであってベルギー王国の植民地になったのではない。何から何まで当事者を完全に無視した身勝手な話であるが、ヨーロッパ人はこれを不思議とは思わない。

 さて、スタンレーはコンゴの天然ゴムに目をつけて生産を強制したため、コンゴは世界有数の天然ゴムの産地となった。ところが、現地のベルギー人達は村々にゴム生産のノルマを課し、やがてそれが異様な忠誠心競争へと展開していった。ノルマを果たせなかった村の男たちの手首を切り落とし、それを袋詰めにしてベルギーに送り始めたのである。やがてこのことに気づいた英国の副領事が本国に報告し、国際的な批判・非難が起きた結果1904年にベルギー国政府がコンゴを引き取ったのである。

 野蛮とは何であろうか。

 そのコンゴに鉄道が建設された記念碑を訪れたことがあるが、その記念碑には、「この鉄道がコンゴを文明に開いた」との記載があった。しかしコンゴには昔から文明がなかったのだろうか。あるいは何らかの原因で繁栄が衰退し、歴史が中断したのだろうか。今から500年前のコンゴ王国は貴族の子弟たちをローマやリスボンに対等な立場で留学させていたし、大使館も置いていたことを多くの人は知らないか、あるいは忘れてしまっている。

 1992年、ヨーロッパでEU統合の集大成としてマーストリヒト条約が結ばれた。ヨーロッパが統合を目指していた1988年、ベルギーのブリュージュでマーガレット・サッチャー英国首相はヨーロッパを自画自賛して、’We civilized the world’(我々ヨーロッパは世界を文明化した)と演説した。本当にそうだろうか。歴史をたどればヨーロッパのルネサンスはイスラムから来た文化のおかげであり、ヨーロッパが誇るゴチック建築も、化学も数学も、エジプトやイスラムから学んだものである。スペインがイスラムだったころ、ヨーロッパの学生はグラナダに留学して学んだし、科学で言えば例えばナトリウムの語源はエジプトのエル・ナトゥルーン湖から来ている。その湖の塩で古代エジプト人はミイラを作っていた。砂糖のsugarもアラビア語のスックルから来ている。フランスのパティスリー(お菓子)を多くの方は好きだと思うが、フランスでは本来甘いお菓子のことをla vienoiserieといった。オーストリアの首都ウィーン(Vienne)のもの、という意味である。日本で言えば「京もの」とか「おさがり」と言ったところであろうか。それはオスマン・トルコがウィーン包囲の後攻略をあきらめて引き揚げた時に(1529年第1次包囲、1532年第2次包囲、1533年ハンガリーについてオスマン・トルコの優位をオーストリアに認めさせて和睦)甘いお菓子や砂糖、そしてコーヒーを大量に放置し、そこからウィーンで菓子製造(およびコーヒー嗜好)が始まったことに由来する。

 文化や文明は相身互い、一方が歴史のすべての期間を通じて他方よりすぐれているということはない。サブサハラ・アフリカ由来のものでは例えばイソップ物語のたぐいの民話はガボンなど多くのアフリカ各地に存在する。アフリカの生きる知恵であるが、例えばフランスではそれをJean de la Fontaine(1621-95)による寓話(Fables)として扱っている。フランス語で紹介し世界に知らしめた功績は大きいと思うが、もともとはフランス人の生きる知恵ではなくてアフリカ人の生きる知恵であった。



(その2)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)



文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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2017年12月21日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





5.皇帝退位後のキーラーヴォッヘの変容


 皇帝の、そしてヨーロッパの上流階級にとってのキーラーヴォッヘは、しだいに戦時色が濃くなっていく過程で、軍港キールとドイツ帝国海軍の軍備を誇示する目的での開催へと変容していく。しかし、これは長くは続かなかった。第1次世界大戦の終結と皇帝の退位によって状況は大きく変化する。大戦によって失われたものは、皇帝というヨット競技の支援者・キール軍港・軍需産業・造船業・艦隊・帆船そしてヨット連合のメンバーの命であった。また、ヴェルサイユ条約による軍縮ゆえに、戦艦の建造と取得は禁止されていた。

 1919年のキーラーヴォッヘの終了後に今後の開催内容について、ヨットマン・ヨット競技以外のスポーツ連合・キール市の間で話し合いが行われた。しかし、斬新かつ普遍的な催し物を創設することは不可能であった。そこでキール市は1920年から新たな道を模索する努力を開始した。

 とはいっても、一般市民は皇帝の時代からただのエキストラであり、本来、社会的な娯楽など存在しない階級であった。特に労働者階級に至っては、ヨットスポーツを思想的に拒否していた。そもそもドイツのヨットの伝統は、皇帝に帰する政治的なものとの認識が一般的であった。そこで結論としては、芸術・文化・スポーツのヘルプストヴォッヘに転換することを決定した。秋の○○週間という、どこにでも見られる催し物である。

 この盛り上がりを欠く状況を大きく転換させたのは、1924年にキール港に入港した、祭典用に装飾されたバルト海艦隊であった。これを見た市民にかつてのキーラーヴォッヘの景観がよみがえったのではないかともいわれている。つまり市民の間で、軍港とヨット競技の結合を歓迎するムードが高まっていった。そしてこれが正式にキール市議会で決定されたのが、1927年のことであった。戦前に回帰して、競技と社交的な催し物のコラボでいくという方針を軍港都市キールは選択したのである。

 ところで、現在でもこの思想は変わっていない。300万人の観客を楽しませる世界的な海の祭典として、100隻の帆船によるパレードとヨットレース、そして老若男女を楽しませるための催し物を満載して、毎年6月に開催される。




3−1海の祭典.jpg



レンツブルクの鉄道橋から北海・バルト海運河を望む
(ヨットもここを航行してキーラーヴォッヘに向かった)




海の祭典写真3-2.jpg



キーラーヴォッヘの会場となるキール峡湾
(左手奥に軍港があり、手前は大型フェリーの埠頭)



おわりに

 海には疎いと言われていたホーエンツォレルン家であるが、2つの軍港の発展のみならず、軍港が立地する都市の発展にも寄与したことが明らかにされたと思う。
海・船そして船旅を愛したアーダルベルト・フォン・プロイセンの軍港適地を選択する観察眼の鋭さや自分の名前を港ならびに都市の名称として与えたヴィルヘルム1世が綴りの間違いに対し極めて寛大な処置を行ったことは、今でもヴィルヘルムスハーフェン市民の誇りである。港湾適地は軍港に限らず、21世紀においても、ドイツで唯一の大水深港湾の建設地として選定されることになった。

キーラーヴォッヘは軍港でのヨットレースに端を発するが、ヴィルヘルム2世の家族を伴っての参加が、ヨーロッパの上流階級の老若男女をキールに集結させることになった。海のスポーツの祭典は、競技と社交的な催し物を結合させた世界的な海の祭典へと発展し、現在でもキールを最も特徴づけるものとなっている。


参考文献

1.Brune-Mettcker Druck-und Verlaggesellschaft mbH, Wilhelmshaven,
2003, pp.152
2.Feldhahn,U. Die preußischen Könige und deutschen Kaiser, Kunstverlag, 2014, pp.40
3.Hofbauer,K. Das Preußische Königshaus, Börde-Verlag, 2016, pp.47
4.Kaack,U. und Kliem,E. Wilhelmshaven Gestern und Heute, Sutton Verlag, 2015, pp.119




文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年11月30日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(2)〜(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.軍港ヴィルヘルムスハーフェンと大水深港湾ヤーデヴェーザーポート

 前述したように、アーダルベルト王子の軍港建設地の選定は、彼の体験によって培われた観察眼に負うところが大きい。彼はヤーデ湾の一画を高く評価し、そこには現在でも軍港が立地している。そして2001年ドイツ連邦共和国は、ドイツ初の大水深港湾建設予定地を選定することになった。今回はコンピュータを用いて、自然条件ならびに人文・社会条件に関するデータを総合的に分析した結果、ヤーデ湾の一画、アーダルベルト王子の選定と同じ場所が選ばれた。

ドイツの港は基本的に河川港であり、ドイツ最大の貿易港ハンブルクもエルベ川の河川港で、北海まで110kmのところに位置している。1990年代に入ると、船の大型化が予想をはるかに超える速度で進み、河川港では水深18mを確保することは困難になった。そのためには、沿海岸港を開発する必要があった。
2016年にドイツ初の大水深港湾ヤーデヴェーザーポートが全面的に供用を開始した。その結果、ヴィルヘルムスハーフェン市には、軍港と最新鋭のコンテナ港が並存することになった。



3.軍港都市キールと海の祭典キーラーヴォッヘ

 1865年プロイセン王国ヴィルヘルム1世の時代に、現在ではポーランド領になっているが、ダンツィヒから海軍の駐屯地がキールに移転してきた。1871年には、キールはドイツ帝国の軍港となった。第2次世界大戦が終了すると、1955年からはNATO軍の軍港として機能するようになったが、1990~2010年にかけて軍縮により平和のための出動へと役割が変化していく。2015年には、海軍関係者は3,800人で、そのうち海軍の兵士は1,650人であった。これが、軍港都市キールの成立と変容についての概要である。

 ところで、軍港キールにどうして海の祭典キーラーヴォッヘKieler Wocheが誕生したのだろうか。この祭りは北ヨーロッパ最大の規模を誇り、海の祭典としては世界的なものである。2016年には、6月18日から26日まで開催され、訪問者は約300万人、ヨットマンは4,000人を超えた。
きっかけは、キール峡湾で海軍のヨットマンが仲間内で楽しんでいたレースであった。1881年9月1日に、このレースを目撃した2人の人物がいた。北ドイツレガッタ協会に所属する2人は、もっと大々的にヨットレースを開催したいと考えるようになった。

ようやく1881年の冬に、ハンブルクとキールのヨットマンをハンブルクの商人マインホルト家に集結させ、以下のような協定を締結することに成功した。それは、1882年の夏に、北ドイツレガッタ協会がキール峡湾で最大規模のヨットレースを開催するというものであった。その後、海軍の協賛を取り付けることにも成功している。こうして、1882年7月23日に第1回ヨットレースが開催された。2~3年後には、キールのヨットレースはレガッタスポーツの最高峰と称されるようになり、キーラーヴォッヘへと昇格していくことになる。
ところで、この海の祭典がひと際注目されるようになったのは、1889年から、毎年のように皇帝ヴィルヘルム2世が家族を伴って参加するようになったからである。

バルト海に面するキール峡湾でのレースに北海側からやってくるヨットマンのために、テニングからアイダー運河を利用してキールを訪れることが推奨された。その当時はまだ、北海・バルト海運河が建設されていなかったからである。その後、1887~1895年にかけて北海・バルト海運河が建設された。キール軍港を拠点とする戦艦とキール峡湾で開催されるヨットレースに参加する船のサイズを考慮して、運河の幅・水深・鉄道橋の高さが設定された。また、船のサイズの大型化に対処するために、1907~1914年にかけて拡張工事が行われた。

4.ヴィルヘルム2世とキーラーヴォッヘ


 1889年に初めてレガッタに参列したヴィルヘルム2世は、ヨット競技の初心者ではあったが、熱心なファンであった。彼はこの時に、持ち回り優勝杯を提供している。皇帝は家族同伴でやってきたので、しだいにヨーロッパの貴族・外交官・軍人・政治家も皇帝に倣い家族を伴って参加するようになった。そのため女性や子供にも配慮することが求められた。

しだいにキーラーヴォッヘは、単にヨット競技だけに力点を置いたスポーツの祭典にとどまらず、ヨーロッパの社交界をも巻き込んで華やかな祭典へと変容していった。軍艦やヨットにも花飾りが付けられてお祭り気分を盛り上げ、軍艦上ではダンスパーティーや食事会なども開催された。また海上だけではなく、市内の森ではピクニックも行われた。キーラーヴォッヘは、ヨーロッパの上流階級の老若男女にとって、誰もが何らかの娯楽を見いだせる祭典として人気があった。

 これは皇帝ヴィルヘルム2世にとっても、1年で最高の楽しみとなった。皇帝は彼のヨットである流星号やホーエンツォレルン号に、海のスポーツマンであるという条件つきで、上流階級に属さない市民をも招待している。キーラーヴォッヘには1892年、ロシアのアレクサンドル3世が北極星号で訪れ、1897年には、ベルギーのレオポルド2世、1904年にはイギリスのエドワード7世が参列している。


(5)につづく


文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年11月02日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





海の祭典 −ホーエンツォレルン家と海−

はじめに

南ドイツのシュヴァーベンを発祥の地とするホーエンツォレルン家は、北ドイツ平原に進出して以降も海には疎い一族と評されてきた。しかし、この一族から海を愛し船を愛する2人の人物が現れた。1人は、アーダルベルト・フォン・プロイセン(1811~1873年)であり、もう1人はドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)である。

前者はプロイセン王国の軍港建設にあたり、場所の選定をはじめプロジェクトを一任された海軍大将である。軍港の所在地ヴィルヘルムスハーフェン市には、彼の銅像とヴィルヘルムという名前を港の名称として与えたヴィルヘルム1世(1797~1888年)の銅像が立っている。一方後者は、軍港キールで開催される、世界最大級の海の祭典、キーラーヴォッヘの創設と発展に寄与したドイツ帝国最後の皇帝である。

実は、軍港も海の祭典も、元をただせば2人の趣味がその地を求めたことが発端であり、加えて軍港にはむしろ似つかわしくないと思われるような、ほのぼのとしたエピソードに彩られていることについては、日本ではあまり知られていない。

そこで本講座では、ホーエンツォレルン家にとっての軍港が、本来の機能以外に所在都市にもたらした経済的・文化的意義について考察する。




海の祭典1−写真1.jpg



ホーエンツォレルン城よりシュヴァーベンの山々を望む






1.軍港ヴィルヘルムスハーフェンの成立

 プロイセン王国は、1843年から1852年にかけて断続的に続いたデンマーク王国との第1次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に敗北を帰することになった。当時、軍港を有していなかったプロイセン王国にとって、デンマーク王国による海上封鎖は決定的で、そのため早急に北海沿岸に軍港を建設する必要に迫られていた。
 ところで、海・船・港には疎いホーエンツォレルン家にあって、唯一人これらに精通する王子が現れた。それがアーダルベルト・フォン・プロイセンである。彼の父はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の弟で、彼自身もその次男であることから、王位継承の可能性は極めて低く、それだけに自由度が高いという立場にあった。

 海・船を好み、船旅をこよなく愛した王子は、この立場を生かしてオランダ・イギリス・ロシア・トルコ・ギリシャ・ブラジル等に出かけている。ここでは、これが単に趣味に終わらなかったということが特記すべき点である。まずは海軍力について、それが戦時だけに限らず、通商・工業発展にとっても重要であることを主張している。さらに彼は、自身の体験から軍港の場所はヤーデ湾の一画にあるヘペンスHeppens以外にはありえないと提言した。現在のように豊富なデータを駆使してコンピュータで導いた結論ではなく、各地を旅した際に磨かれた観察眼によるものであった。この観察眼が並外れたものであることは、21世紀になってコンピュータが証明してくれることになる。これについては後述する。

 そこでプロイセン王国は、1853年にオルデンブルク大公国との間にヤーデ条約を締結し、軍港建設のために313haの土地を獲得した。軍港の建設は、海軍大将でもあった王子に一任され、彼はエンジニアで水利工学の専門家でもあったハーゲンを指名して計画立案にあたらせた。1856年、アーダルベルト王子の従兄にあたるプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がこの計画を承認している。
 ところで、プロイセン王は軍港の完成を待たずに死去したので、彼の弟であるヴィルヘルム1世の治世となった。後の初代ドイツ皇帝である。ヴィルヘルム1世は、完成したばかりの海のツォレルン港Hafen Zollern am Meer(通称ヘペンス港Hafen Heppens)に自分の名前を付けるように言った。つまり、ヴィルヘルムの港Wilhelmshafenとせよとのことであった。ここまでは、大変めでたい話であった。

 ところが、1869年6月17日、港湾建設総監督のゲーカーが事もあろうに、駐屯地教会の礎石にWilhelmshavenと低地ドイツ語で綴って刻印してしまった。一方、ベルリンでは正式な書類に正書法でWilhelmshafenと記していた。自分の間違いに気付いたゲーカーは、厳罰を覚悟で問い合わせをすると、なんとヴィルヘルム1世からは、低地ドイツ語のままでよいとのお達しがあり、しかも何のお咎めもなかったのである。おまけにベルリンの書類の方を書き変えておくというあまりにも寛大な処置であった。ヴィルヘルム1世の当地における人気は、もちろん急上昇したのである。




海の祭典1の写真2.jpg



アーダルベルト・フォン・プロイセンの銅像

(ヴィルヘルムスハーフェン市の中央駅に近い公園にある)







海の祭典1の写真3.jpg



ヴィルヘルム1世の銅像

(ヴィルヘルムスハーフェン市の中央駅に近い公園にある)



(2)につづく


文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年09月14日

エジプトの祭(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





エジプトの祭り:古代エジプトとイスラームのはざまで(3


3. キリスト教の祭り・その他の祭り

 「そよ風の祭り」の説明の際、エジプトのキリスト教徒、コプト教会のイースターについて述べました。現在も、エジプトの人口のおよそ1割は土着のキリスト教教会である、コプト教会に属する人々です。コプト教会は451年のカルケドンの公会議の決議に反対したアレクサンドリア主教たちがその後ビザンツ教会から分離しつくりあげた教会です。教義についてここでは詳しく述べませんが、暦は東方教会のそれに従い、カトリック教会やプロテスタント系教会とはずれがあります。

 コプト教会の主な祭りはクリスマスとイースターです。この時期になりますと教会はもちろん、キリスト教徒が多い地区や外国人の多い地区では町全体がクリスマスやイースターの雰囲気になります。この他にもエジプト各地ではその土地にまつわるコプト教会の聖人や古くから伝わる聖ジョージの祭りなどが開催されており、祭りにはキリスト教徒のほか、地元のイスラーム教徒も参加しています。

 例えば聖母被昇天の祝日(アサンプション)には、中部エジプトのアスユート、ミニヤー、ソハーグなどでは盛大なお祭りが開かれます。これにはキリスト教徒とともにイスラーム教徒も祭りに参加するそうです。このようなお祭りは、各地方最大の縁日として、近郊の農村から人を集め商売が繁盛する、そういった役割も果たしているようです。

 キリスト教の祭りの流れを汲みながら、イスラーム教徒のために姿を変えたのではないかと思われるものが、イスラームにおける聖者の祭りです。最も有名なものとしてはエジプト北部のタンターという町で毎年行われるアフマド・バダウィー生誕祭(マウリド)が挙げられます。アフマド・バダウィーは13世紀に生きたスーフィーの聖者で、その崇敬は現在まで続いているのですが、祭りに関してはイスラームのものでありながら、古代エジプト時代やキリスト教時代の慣習が色濃く反映されているように思われます。

 以上述べてきましたように、エジプトの祭りには全世界のイスラーム教徒に共通する祭り、古代エジプト時代から続く祭り、そしてキリスト教の祭りなどがあります。ナイル川の増減にあわせた農事暦のなかで日々の暮らしを営んだ人々、生活のなかで大切にされてきた様々な慣習、そしてキリスト教やイスラームの信仰。このようなものに想いを馳せることができるのがお祭りの行事となります。


エジプトの祭 写真3.jpg



<キリストの降誕(ナタヴィティ)>






文学部 史学科 講師 辻 明日香




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2017年07月29日

エジプトの祭(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





エジプトの祭り:古代エジプトとイスラームのはざまで(2)



2. 古代エジプト時代から続く祭り


 古代エジプト時代から続いていると思われるエジプトの祭りとしては、シャンム・アンナシーム、すなわち「そよ風の祭り」が挙げられます。これは春を祝う祭りで、4月に行われ、国民の祝日となっています。シャンムはもともと古代エジプト語の「シェム」、収穫月の名前であったようです。1世紀頃にギリシア人の著述家プルタルコスが書き残したことによると、古代のエジプト人はこの祭りの日に塩漬けの魚、レタス、そしてタマネギを食べていたそうです。

 現在、この祭りはコプト教会のイースターの翌日に祝われているのですが、おそらくこれはエジプトにキリスト教が広まった3世紀以降に、この祭りと復活祭、すなわちイースターが結びつけられたものと考えられます。そして7世紀以降、エジプトがアラブ・イスラーム政権の支配下に入り、人々の言葉が古代エジプト語の最終形態であるコプト語からアラビア語へと変わると、祭りの名前は「シェム」からアラビア語でそよ風を意味する「シャンム」に変化したようですが、太陰暦であるイスラーム暦ではなく、農事暦の役割も果すコプト暦で祝われる習慣は変わらなかったようです。

 このように随分と長い歴史を持つ祭りであるわけですが、変わらないことがいく点かあります。一つはこの日、人々はナイル川や公園にピクニックにいくこと、もう一つはこの日に塩漬けの魚、レタス、タマネギを食べることです。塩漬けの魚は食中毒を起こしやすく、これを食べた人が毎年死んでいる、と1世紀に生きたプルタルコスが記しているのですが、いまだにこの祭りの時期になるとメディアでこの魚を食べないよう呼びかけがあり、毎年死者がでています。危険と隣り合わせであるのに食べたい、というのはご老人にとってのお正月のお餅でしょうか。

 このほかにも、例えばルクソールで行われるアブー・アルハッジャージュの祭り(マウリド)は12-13世紀に生きたイスラームの聖者、アブー・アルハッジャージュの生誕祭のはずが、古代エジプト時代にカルナック神殿とルクソール神殿の間で行われていたオペト祭の伝統を引き継いでいる、と考える人もいます。祭りの最終日に、ルクソールの町を大きな船の山車がパレードする様子は、確かにアムン神を聖舟に乗せカルナック神殿からルクソール神殿へと運んだオペト祭を想起させます。




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<シャンム・アンナシームの日の公園>





(3)につづく


文学部 史学科 講師 辻 明日香




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2017年06月29日

エジプトの祭

地域とともに活躍する川村学園女子大学





エジプトの祭り:古代エジプトとイスラームのはざまで(1)


はじめに

 エジプトの祭りといったら、皆さんはどのようなものを想像されるでしょうか。エジプトといったらピラミッドなど古代エジプトのイメージが強いと思われますが、同時に、現代のエジプトに住む人々の大半はイスラーム教徒であるということもご存じかと存じます。

 では、そもそも現代のエジプトにお祭りはあるのでしょうか。実は、エジプトには数多くのお祭りがあります。お見せできる写真がないのが残念なのですが、お祭りが行われている町へいってみると、屋台や見世物がたくさん並び、ハレの衣服を着た人々が家族づれで祭りを楽しんでいる姿をみることができます。以下においては、「祭り」をとおしてエジプトの人々の日常生活とその楽しみについて紹介していきます。


1. イスラームの祭り

 エジプトの人口の9割程度はイスラーム教徒ですので、エジプト人の生活リズムの一つにイスラームの戒律があります。イスラーム教徒が守るべき義務、すなわち六信五行のうちの五行にあたるものが信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼となります。これらのうち断食と巡礼に関連するものが、全世界のイスラーム教徒が祝う祭り、すなわち断食明けの祭りと犠牲祭です。

 断食明けの祭りとは、イスラーム暦の第9月にあたる断食月、すなわちラマダンが終わった際の祭りです。祭りの日の朝、世界中のイスラーム教徒はまずイード礼拝へ向かいます。町の地区や村の成員がそろって礼拝用の広場や大モスクに集まり、集団礼拝を行ったあとにイマーム(指導者、説教師)の話を聞きます。礼拝が終わったあと、人々は新しい服を身にまとい、親族や隣人、友人のもとへイード(祭り)の挨拶へ行きます。日本でいうならば、新年の挨拶のようなものでしょうか。この祭りの際には、周囲の貧しい人々に特別な喜捨を与える習慣もあります。

 犠牲祭とは、イスラーム暦の第2月の10日から三日間行われるメッカ巡礼にあわせて祝われる祭りです。この祭りでは、各家庭が羊やラクダ、牛といった動物(羊が一般的です)を屠り、家族で食するとともに、肉の一部、三分の一ほどを貧しい人々へ寄付します。この祭りは旧約聖書における、イサクの犠牲の物語をもとにしており、イスラームの聖典である『クルアーン』ではイブラーヒーム(アブラハム)が神の命に従い息子イスマーイール(イシュマエル、旧約聖書ではイサク)を犠牲にしようとした瞬間、身代わりの犠牲獣が与えられたという物語になっています。

 このほかに、エジプトでは祝われるものの、他国では人気がない、あるいは禁止されている祭りとして、預言者ムハンマドの生誕祭というお祭りがあります。これは名前のとおり、預言者ムハンマドの誕生日(イスラーム暦第3月12日)を祝って催される祭りで、起源は11−12世紀、ファーティマ朝後期にもとめられます。初めは参加者が政府高官や宗教者に限られていたようですが、その後の王朝で民衆のお祭りとなっていきました。

 特徴としてはスーフィー教団を中心に預言者ムハンマドを讃える様々な儀礼やコーランの朗誦、預言者物語などのパフォーマンスが行われることで、この祭りの一ヶ月間には町や村の広場に娯楽施設や屋台が並びます。また、ファーティマ朝期にはこの祭りの際にカリフから政府高官へ砂糖が振る舞われていたのですが、この習慣の名残りでしょうか、エジプトではこの祭りの期間に砂糖でできた花嫁人形を女の子に贈る習慣があります。

 イスラームの法学者たちはこの祭りの存在自体は認めながらも、そこで行われる儀礼や行事の一部が非イスラーム的であるとして、批判することが多いです。これがエジプトでは人気のある祭りであっても、他国では現在あまり祝われない原因のようです。


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<預言者生誕祭の際の砂糖菓子>




(2)につづく


文学部 史学科 講師 辻 明日香




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2017年06月08日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回 東大寺誕生仏立像と大仏



奈良・東大寺には国内を代表する誕生仏立像が現存しています(前回の画像参照)。この像は奈良時代半ば、8世紀後半に造立されたと推定されており、金銅製で像の高さは47.5pもあり、国内の誕生仏立像のなかでは出色の大きさです。現在、香水を受ける灌仏盤とあわせて国宝に指定されています。この誕生仏立像は同じ東大寺の主尊としておなじみの大仏さまの完成前後につくられたと推測されています。

大仏は正式には盧舎那仏坐像といい、天平15年(743)に聖武天皇によって発願(大仏造立の詔)され、天平勝宝4年(752)4月9日に開眼供養会が行われています。この法会には聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ僧侶や俗人などあわせて1万人以上が参加したと伝えられ、かつてない盛大な仏教行事となりました。

この大仏開眼供養もじつは花まつり、お釈迦さまの誕生日と関わりがあります。なぜなら、この法会の日付はじつは当初の予定から順延されたことが記録から知られており、本来は4月8日であったことが知られているからです。

さらにこの開眼供養の時点では、大仏はまだ完全に完成しておらず、台座や光背も揃っていない状態であったことが当時の文献から判明しています。では開眼供養を急いだのはなぜでしょうか。これには752年という年が深く関係しています。日本に初めて仏教が伝えられた年代は諸説ありますが、『日本書紀』は欽明天皇13年(552)としています。この年を踏まえると、大仏の開眼供養が行われた752年は仏教伝来から200年目に当たるのです。大仏の開眼供養はこの大きな節目の年の、お釈迦さま生誕の日にあわせたのだと考えられています。




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東大寺大仏





【参考文献】
吉村怜「東大寺大仏開眼会と仏教伝来二百年」『美術史研究』9号、1972年


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光




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