2021年03月11日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第7回)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






○結論−前方後円墳の世界




そろそろ、まとめに入りたいと思います。ここまで、盾持ち埴輪と家形埴輪の二つの形象埴輪のモデルは何かを主題に考えてきました。これをもとに、埴輪の世界が何を表現したのか、そしてこの埴輪群で飾り立てた前方後円墳とは何か、最後にその他界観や築造の意味やについて考えてみたいと思います



・辟邪と奉仕


埴輪の世界のキーワードは、「辟邪」と「奉仕」にあります。盾持ち埴輪は、その形態的特徴から、モデルは古代中国で葬送を先導し、墓地や他界で邪鬼を駆逐する「辟邪」の方相氏であると考えました。家形埴輪については、最も重視された形式として入母屋高床建物に注目しました。そのモデルは、日本の家屋紋鏡にも影響し、中国漢代の墓室画像石に遡る神仙界の楼閣建物が想定されます。家形埴輪は、蓋形や鶏形埴輪と共に後円部墳頂に最初に配置された欠かすことのできない必須の形象埴輪です。昇仙する被葬者を迎え入れ「奉仕」する、つまり「もてなす」ための重要な役割を果たしていたと考えられます。



・他界の演出−埴輪の世界観

最初に前方後円墳に配置された埴輪は、墳頂や墳丘に配列された円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪です。これらは、弥生時代の墳丘墓に供献された壷と器台の祭祀から発展し成立したものです。前方後円墳では、まずはこの円筒埴輪列が「結界と飲食物供献」両方の道具として、「辟邪と奉仕」双方の役割を果たしていたと考えられます。



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三重県石山古墳における円筒埴輪列(復元図)
(三重県埋蔵文化財センター『石山古墳』より)




その後出現する人物の埴輪では、まず古墳時代前期末頃に「辟邪」の役割の盾持ち埴輪(方相氏の埴輪)が優先して造形され、次いで中期中頃に従来巫女の埴輪と呼ばれてきた食膳「奉仕」の役割の女子埴輪(塚田良道2007年文献)が造形されと考えられます。
二つ目のキーワードは「他界の演出」です。「辟邪」と「奉仕」を表現した埴輪の世界は、前方後円墳を舞台に展開する、他界の演出だったと考えられます。


・前方後円墳の他界観と築造の意味

最後に、「他界の演出」をキーワードに前方後円墳の築造の意味について考えたいと思います。
盾持ち埴輪、さらに入母屋高床の家形埴輪の検討を行い、前方後円墳の時代における中国の神仙思想を起源とする他界観念の存在を指摘しました。神仙思想は、中国の秦、漢代に源流のある不老不死の他界思想です。
高々と築かれた後円部墳頂の埋葬施設、墳丘を囲む周溝や墳丘に附属する島状施設や出島・州浜状施設、周堤などの構造は、前方後円墳に特有の外観上の特徴です。前方後円墳は、神仙思想の崑崙山や蓬莱山への昇仙をイメージし、山上他界あるいは海上他界を演出する舞台そのものだったのではないでしょうか。奈良県巣山古墳の前方部で発見された出島状施設は、水辺の砂浜、すなわち洲浜を表現しており、そこには水鳥埴輪まで配置されていてとても興味深いものです。お祝い事に使われる州浜台というものがありますが、出入りのある浜辺や渚、木石や花鳥をあしらって、仙人のすむ蓬莱山に見立てた飾り物です。巣山古墳の周溝内に設えた出島と洲浜の造形も、前方後円墳を海に浮かぶ蓬莱山に見立てて演出しているかのように思われます。



埴輪の配置が完了し、完成した前方後円墳に演出された他界は、崑崙山や蓬莱山のような死者が昇仙する神仙界であり、倭人流に読み替えると死んだ王や首長の霊が祖霊(≒祖神)として迎えられるところだったのではないかと思われます。要するに、不老不死の神仙界に再生する中国の神仙思想を仲介することによって、前方後円墳は単なる王の墓、政治的モニュメントというだけでなく、王が保持する首長霊が祖霊として再生する装置となったと考えられます。

再生装置としての前方後円墳は、たとえて言えば伊勢神宮の式年遷宮のように定期に造り替えることが不可欠な構築物だったのではないでしょうか(式年遷宮は20年ですが、前方後円墳では王の代替わり毎、ちょうど20年くらいなのかもしれません)。それであれば、この造り替えるという思想において、前方後円墳は、築造行為そのものが再生儀礼としての本源的な意味を持っていたということになります。王や首長の墳墓である各地の前方後円墳が、世代ごとに、繰り返し大規模に築造されなければならない所以もこの辺りにあったのではないかということを、結論の最後として締めくくりたいと思います。


<参考文献>
・近藤義郎『前方後円墳の成立』岩波書店1998年
・塚田良道『人物埴輪の文化史的研究』雄山閣2007年
・和田晴吾『古墳時代の葬制と他界観』吉川弘文館2014年
・塩谷修『前方後円墳の築造と儀礼』同成社2014年
・塩谷修「「盾持ち」人物埴輪から前方後円墳を考える」『太子塚古墳を考える』かみつけの里博物館
2019年



川村学園女子大学文学部・史学科 教授 塩谷修





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2020年12月07日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第6回)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





○家形埴輪は何を表しているか?−原形を明らかにするA


家屋紋鏡は古墳時代前期後半の古墳から出土していますが、古墳時代前半期(古墳時代前期〜中期前半)の家形埴輪と前回整理した家屋紋鏡の図像とを比較するといくつかの共通する部分が認められます。

前半期の家形埴輪には妻入口が目立つこと、また屋根形式に入母屋と切妻が多いことなど、家屋紋鏡の図像との共通性があげられます。入口構造と屋根形式など、建物の基本構造が共通するということは、埴輪の家は家屋紋鏡の家と同じ性格あるいは同じ情景の家を表している可能性が考えられます。もうひとつ、家屋紋鏡の図像と家形埴輪との間に強い親縁性を想定した大きな理由は、鏡の図像構成と形象埴輪群の主たる構成要素との間の共通性にあります。後円部墳頂に配置された初期の典型的な形象埴輪群には、家形埴輪の他に蓋(きぬがさ)形埴輪と鶏形埴輪の二種が必須な構成要素として認められます。そして、この基本構成は埴輪の終焉まで継続されるきわめて重要視された内容だったと考えられます。これは、家屋紋鏡の4棟の建物が、蓋と共に屋根上に鶏と思しき鳥を配置する図像構成と酷似しています。


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前半期古墳における墳頂部の形象埴輪(高橋克壽『古墳時代美術図鑑』原図を改変)



また家屋紋鏡の図像のうち、貴人にさしかける蓋と神像と思しき人物像の存在から考えると、四棟の中では伏屋建物と入母屋高床建物がとくに重要な中心建物であったと考えられます。前回、埴輪に表現された伏屋建物がきわめて少ないことを指摘しました。蓋がさし掛けられた家屋紋鏡の伏屋建物を古墳の被葬者にあたる貴人の住まいと想定すれば、古墳では墳頂部に埋納されたお棺を覆う石室がそれにあたり、あえて埴輪では表現しなかったとする解釈が成り立ちます。三重県石山古墳の後円部墳頂の埴輪配置を見ると、中心にある家形埴輪は入母屋の高床建物です。後円部の墳頂下には被葬者の木棺が埋納されていました。


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(三重県埋蔵文化財センター『石山古墳』より)




小笠原好彦氏は家屋紋鏡の図像について、入母屋高床建物に露台(バルコニーのような施設)が付き、屋根に一対の鳥(入母屋高床建物にはスペースがなく省略されている)、さらに建物と樹木とが有機的な関連を持っていることなどは、漢代画像石の昇仙図に描かれた楼閣建物の構図に共通し、その系譜を引くものと考えました(小笠原好彦「首長居館遺跡からみた家屋文鏡と囲形埴輪」『日本考古学』13 2002年)。昇仙図が表す神仙思想の世界(神仙界)は、重層の建物が図像の中心に描かれており、開放的な楼閣建物として表現されています。つまり、日本の家屋紋鏡の図像は、中国の昇仙図の楼閣建物を原形に神仙界を表現していることになります。


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後漢山東武氏祠堂画像石の昇仙図に描かれた楼閣建物
(信立祥『中国漢代画像石の研究』図44より)



先に類推した家屋紋鏡の図像構成と墳頂部における形象埴輪の群構成との密接な関係を評価すれば、家形埴輪の中心も同じく入母屋高床建物であったろうと思われます。前半期にみられる高床の家形埴輪の中で、入母屋高床建物は四面開放形式が特徴であり、死者すなわち古墳の被葬者が向かう神仙界の開放的な楼閣建物に相応しいものと言えます。
古墳の墳頂部に配置された家形埴輪の実像は、中心にある入母屋高床建物に表されています。漢代画像石の昇仙図に描かれた死者が向かう神仙界の楼閣建物を原形として、前方後円墳に他界を演出する象徴的な装置として、墳頂部埴輪群の中で欠かすことのできない重要な役割を果たしていたと考えられます。


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四面開放の入母屋高床建物埴輪・大阪府美園1号墳(大阪府教育委員会『美園』より)



(7)につづく

川村学園女子大学文学部・史学科 教授 塩谷修




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2020年11月09日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第5回)

地域とともに活躍する川村学園女子大





○家形埴輪は何を表しているか?−原形を明らかにする@

二つ目の話題に移ります。

「辟邪」の役割を果たした盾持ち埴輪とともにあるその他の形象埴輪群は、他界と観念された古墳でどんな役割を果たしていたのでしょうか。二つ目に家形埴輪を取り上げ、やはりその原形となるモデルを探りながら、家形埴輪が何を表しているか?について考えてみたいと思います。

まず、前方後円墳における家形埴輪の配置についてみておきましょう。家形埴輪の配置場所を列記すると以下のようです。

・後円部墳頂(4〜6世紀)
・造り出しや島状施設、あるいは出島状施設(5世紀)
・周堤上(内堤、外堤)(5〜6世紀)
・前方部上(6世紀)
・横穴式石室前面(6世紀)


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(群馬県立博物館『国宝武人ハニワ 群馬へ帰る』より)



以上のように、家形埴輪は前方後円墳の墳丘や付属施設の各所に配置されましたが、古墳時代全期間を通して配置されたのは前方後円墳の中心である後円部墳頂だけです。



家形埴輪と原形を同じくする、あるいは同じ思想的背景によって製作されていると強く想定されるものに奈良県河合町の佐味田宝塚古墳から出土した家屋紋鏡とよばれる日本製の鏡の図像があります。家屋紋鏡に描かれた建物の形式は、伏屋建物(竪穴住居のようなもの)、入母屋高床建物、入母屋平屋建物、切妻高床建物の四つで構成されています。ちなみに、これまで発見された中で建物を図像とする日本製の鏡はこの一面だけです。
もう一つは、宮崎県西都市の西都原170号墳から出土した子持ち家と呼ばれている家形埴輪があります。伏屋建物を中心に、入母屋平屋建物と切妻平屋建物が合体したとても不思議な埴輪です。子持ち家形埴輪もこの一つしか出ておりません。


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家屋紋鏡の図像(辰巳和弘『高殿の古代学』より)  子持ち家形埴輪(東京国立博物館編2005年より)

ここでは、家屋紋鏡の図像を中心に、家形埴輪との関係を両者の比較から探ってみたいと思います。家屋紋鏡に描かれた4棟の建物について、先行研究を総合すると、特徴を次のように整理できます。



○伏屋建物 ※一、二の例外を除き、埴輪ではほとんど造形されない。
・入口:妻側の突き上げ式扉
・基部:土堤の表現 
・付属物:蓋(きぬがさ)、入口柵、千木、鶏、右上の像(神像?)

○入母屋高床建物
・入口:妻側 
・本体:上層は板壁表現、下層は網代状の仕切表現
・付属物:蓋、露台、手摺付梯子、千木、右上の像(神像?)

○入母屋平屋建物
・入口:妻側?(梅原末治氏の推定)
・基部:土台表現
・本体:両開きの板扉表現 
・付属物:千木、鶏、左右に樹木(梅原末治氏の見解)

○切妻高床建物は
・入口:妻側
・本体:上層は板壁表現、下層は網代状の仕切表現
・付属物:梯子、千木、鶏、左右に樹木(梅原末治氏の見解)


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伏屋建物

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入母屋平屋建物


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入母屋高床建物


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切妻高床建物


(上図は、辰巳和弘『高殿の古代学』より)

(6)につづく



川村学園女子大学文学部・史学科 教授 塩谷修





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2020年10月07日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第4回)

地域と共に活躍する川村学園女子大学





○盾持ち埴輪は何者か?−原形を明らかにするA

ところで盾持ち埴輪と同じように、喪葬に関わって、邪悪なものを駆逐する役割を担った「方相」、あるいは「方相氏」と呼ばれるものがいます。

まず古代日本の方相ですが、養老喪葬令に、「凡親王一品。方相轜車各一具。」、「太政大臣。方相轜車各一具。」と、親王一品(皇位継承権をもつ皇族)と太政大臣(律令官制の最高職、皇子など)に対する葬儀における方相の使用が認められています。またこの方相は、葬送以外に追儺(ついな)、すなわち宮中で大晦日に行われた鬼やらいの儀式においても「大儺(たいな)」と呼んで邪鬼を払う役割を果たしていました。

『延喜式』の記載によると、大儺の方相は大舎人(宮中警護の下級役人)の長大なる者が扮し、黄金四目の仮面を着け、黒い衣に朱い裳を身にまとい、右手に戈、左手に楯を執り鬼やらいの先頭に立って邪鬼を駆逐していたと記されています。大儺の方相は、異様な姿をしています。葬送における役割はもとより、恐ろしく異様な姿形、とくに仮面の着装や盾や戈(戟と同じに横に刃をつけた引っ掛ける武器)の装備など細部において盾持ち埴輪の特徴と共通する部分が多く認められます。


古代日本の葬送・追儺ともにその源流は中国に求められます。前漢頃にまとめられた『周礼』には、「方相氏掌。蒙熊皮。黄金四目。玄衣朱裳。執戈揚盾。師百隷。而時難。以索室歐疫。大喪先柩。及墓入壙。以戈撃四隅。歐方良。」 と規定されています。古代中国では「方相」は「方相氏」と呼ばれ、儺における鬼やらいとともに、大喪の際柩を先導し、墓壙に入って戈で四隅を撃ち、魑魅魍魎を歐く役割を果たしていました。

『後漢書』にも同様の記載があり、以後魏晋南北朝、隋、唐の各王朝において葬送を先導する方相氏の規定が認められます。


古代日本の葬送に登場する「方相」が、中国の葬令における「方相氏」を導入したことは明らかです。服装や持物もその形を踏襲しています。以上のことを合わせ考えると、盾持ち埴輪の存在は、日本における方相氏の受容が古墳時代(盾持ち埴輪が出現する4世紀の終わり頃)にまで遡ることを示していることになります。
※日本における方相氏の受容は、他の資料からさらに遡る可能性が高くなってきています。奈良県桜井市纏向遺跡では、弥生時代終末期の3世紀前半頃の井戸跡から、木製仮面とともに木製の彩色盾と鎌の柄が出土しており、鎌を戈のような武器と考えれば、仮面と盾と戈を装備する方相氏の存在が容易に想像されます。


中国の墳墓から出土する俑や画像石の中に、方相氏を造形したものが多数あることが指摘されています。漢代やその後の六朝期とする俑の中には、左手に盾を構え右手に戈を掲げ、頭が大きく怪異な面相をするものがあります。(小林太市郎『漢唐古俗と明器土偶』一條書房 1947年)

また方相氏は、漢代・南北朝期の画像石や画像磚など墓の図像にも描かれています。図像の方相氏は、墓室内での邪鬼の駆逐を任務とし墓主を守護するものと、被葬者の昇仙に随行し、仙界で守護するものの二者があると言われています。後者の方相氏は、下図のように、背景に雲気が立ち込め、明らかに仙界での活動として描写されています。



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雲気の中を動く獣形の方相氏・洛陽北魏墓誌蓋刻画
(上田早苗「方相氏の諸相」『橿原考古学研究所論集』10より)



方相氏を造形した盾持ち埴輪の実像も、これら中国の俑や墓室図像の方相氏と同様だったのではないでしょうか。盾持ち埴輪は、中国の神仙思想の影響の下、他界に暮らす被葬者を邪鬼から守護する「辟邪」の役割を意図して造形されたと考えられます。単独配置の盾持ち埴輪は、古墳の外郭に立って、他界を守護する役割を果たしていました。

要するに、周溝や堤などの外部施設を含む古墳全体が他界と観念されていたのです。一方、群中配置の盾持ち埴輪は、男女の人物や馬などの形象埴輪群の周辺に配置され、これらを守っていたようです。そして、この人物埴輪群は、他界で被葬者に「奉仕」する群集を表現していたと考えられます。



(5)につづく


川村学園女子大学文学部・史学科 教授 塩谷修





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2020年08月05日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第3回)

地域ととも活躍する川村学園女子大学




○盾持ち埴輪は何者か?−原形を明らかにする@


では、本題に入ることにしましょう。

まずは、盾持ち埴輪についてです。ここでは、盾持ち埴輪の原形、モデルは何かに焦点を絞って検討したいと思います。古墳に配置された埴輪の中で、古墳の外周や墳丘の裾部に配置された埴輪群の一画に盾持ち埴輪がいます。この埴輪は男女の人物埴輪に先んじて、4世紀末頃に畿内中枢の大和、いまの奈良県あたりに出現したと考えられ、埴輪がなくなる6世紀末まで衰退することなく継続しています。

盾持ち埴輪の姿は、正面に盾を持ち、構える人物の姿を表しています。円筒形の胴部と頭部とからなり、両腕は盾面に隠れてしまうためか造形されていません。足や手がなく、頭だけのこけしのような特異な形が特徴です。

造形の特徴は、盾を構える人物の独特な姿から、とくに盾と頭部が強調されます。盾の表面は、幾何学文様、とくに三角形を連ねた連続三角紋で装飾されます。また、盾面に戟という武器を表現したものがあります。戟とは、矛や槍のように先端が尖った武器に、戈という横に飛び出した刃をつけて、突き刺したり引っ掛けたりできる武器です。盾は「持ち盾」で、本来は左手に盾、右手に戟を持つ姿を表現しようとしていたと考えられます。これは、盾持ち埴輪が何者かを考えるうえでとても重要なことのひとつです。

つぎに頭と顔面ですが、一つは頭の表現が多様で変化に富んでいること、二つ目は顔面に線刻や彩色で装飾を施すものが多いこと、三つ目は耳が大きく張り出し、笑ったり、怒ったり、威嚇したりと異様な表情をしていること、四つ目は、顔が大きく顎の輪郭が極端に突出するものがあることなど、他の人物には見られない盾持ち固有の表現が多く認められます。とくに、顔面の下に粘土板を貼り付け、意識的に突出した顎と平面的で大型の顔面を造り出しているのは、仮面のようなものを装着した表現ではないかと考えられます(左図の右下)。


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  多様な盾持ち埴輪 原図は各報告書
(塩谷修『前方後円墳の築造と儀礼』同成社より)

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怒る表情の盾持ち埴輪
(群馬県保渡田八幡塚・かみつけの里復元古墳:筆者撮影)


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群馬県太子塚古墳の戟を持つ盾持ち埴輪
(かみつけの里博物館『太子塚古墳を考える』より)




つぎに古墳での配置については、単独配置と群中配置の二つあることが大きな特徴としてあげられます。
前者は、おもに前方後円墳の外堤上や前方部先端・外周など、古墳の外郭や周縁部に盾持ち埴輪が単独で配置されています。群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳では、前方後円墳の外堤に盾持ち埴輪が等間隔に単体で立てられています。同じく群馬県太田市の塚廻り1号墳では、前方部先端に盾持ち埴輪が3体以上配置されています。どちらの単独配置も、古墳の外に向いて盾を構えて立っていたと考えられます。

後者の群中配置では、群馬県高崎市綿貫観音山古墳のように、盾持ち埴輪は、墳丘中段の人物埴輪列の最後尾に立っています。また、同じく高崎市保渡田Z遺跡(前方後円墳か?)では、くびれ部に集合する男女の人物や馬などの形象埴輪群のはずれ、つまり埴輪群で表現された群集の周縁部に盾持ち埴輪が単独で(おそらく外向きに)配置されるなどの特徴が認められます。


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保渡田八幡塚古墳の盾持ち埴輪配置
(群馬県立博物館『国宝武人ハニワ 群馬へ帰る』より)

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前方部外周に立つ盾持ち埴輪・太子塚古墳
(かみつけの里博物館『太子塚古墳を考える』より)



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綿貫観音山古墳の盾持ち埴輪配置
(大阪府立近つ飛鳥博物館『埴輪群像の考古学』より)




造形や配置の特徴を整理すると、以下のような盾持ち埴輪の特質が見えてきます。
@ 人を表した埴輪の中で、最古に位置付けられ、最も出土個体数が多い。
A 左手に盾、右手に戟をもつ姿を意図している。
B 顔が大きく、顎が突出するなど、仮面を着装した姿を表している。
C 多様な頭部表現から、非日常的で現実世界にはない「仮装の姿」を表している。
D 古墳の外郭や人物埴輪群の周縁に立ち、それらを守護している。
E 連続三角紋や戟、異様な表情などから、邪鬼を駆逐し排除する辟邪の性格を持っている。



(4)につづく



川村学園女子大学文学部・史学科 教授 塩谷修




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2020年05月13日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第2回)

地域と活躍する川村学園女子大学



○前方後円墳と埴輪A

次に埴輪の意味についてはどうでしょうか?
いろいろな形の埴輪は、古墳の頂上や中段、裾、造り出しのような付属施設など前方後円墳の各所に立て並べ、配置されました。埴輪の起源については、土師氏の祖先伝承が有名です。土師氏の始祖、出雲出身の野見宿祢の提言によって、殉死の代わりに人や馬など「くさぐさ」の物を埴輪で作ったとする『日本書紀』垂仁天皇8年の記事です。
しかし、人や馬の埴輪は、下の図のように多種多様な埴輪の中では最後に出てくる埴輪で、日本書紀の埴輪起源説話は史実そのままではないことが明らかです。


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埴輪の移り変わり
(高橋克壽『古墳時代美術図鑑』別冊太陽2017年より)



埴輪の起源について、近藤義郎・春成秀爾両氏は、岡山県地方の弥生時代の王(首長)墓にお供えした酒を入れる壷とそれを載せる器台に注目しました。岡山県地方で王墓が大規模になり葬儀が盛大化する中で、これらの壷と器台も装飾化・大型化して特殊器台となり、そこから最初の埴輪である円筒埴輪が生まれたことを、モノの形の変化を読み解くことで証明しました。
岡山県地方の特殊器台の形を残した初期の円筒埴輪は、大和の出現期の大規模前方後円墳からも発見されています。つまり、円筒埴輪も前方後円墳と同様に大和の地で成立したとも考えられます。


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特殊器台から円筒埴輪へ(図の左から右へ)(近藤義郎『前方後円墳と吉備・大和』吉備人出版より)




人物や動物埴輪の意味についても、塚田良道氏が全国の人物埴輪を集成し、形だけでなく、その配置と組合せを調べて読み解いています。
たとえば、塚田氏は有名な「踊る埴輪」は本当に踊っているのかと問いかけています。そして、片手を挙げる「踊る埴輪」の多くが馬形埴輪の脇に配置されることを発見し、飾り馬の手綱をひく馬飼(馬曳き)の埴輪であることを明らかにしました。


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埼玉県熊谷市野原古墳の「踊る埴輪」
(塚田良道『埴輪を知ると古代日本人が見えてくる』より)


片手を挙げて飾り馬の手綱をひく馬飼
(保渡田八幡塚・かみつけの里復元古墳:筆者撮影)




これらは、モノの形の変化を読み解き、その配置と組合せを読み解いて、考古学的手法で埴輪の起源や人物埴輪の本質にアプローチしたものです。

(3)につづく

川村学園女子大学文学部・史学科 教授 塩谷修





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2020年03月12日

前方後円墳の世界−埴輪を読み解く−(第1回)

地域とともに活躍する川村学園女子大学







○前方後円墳と埴輪@

はじめに、前方後円墳と埴輪の関係についてです。

現在の研究では、巨大な前方後円墳は3世紀の中ごろ突如出現し、7世紀の初めころにはつくられなくなり、中心地の畿内大和では6世紀の後半までで終わっています。そして埴輪も、3世紀の後半頃から6世紀の末頃まで、畿内中枢では前方後円墳の出現とほぼ同時かその直後に成立し、前方後円墳がなくなる直前に姿を消しています。このように埴輪は前方後円墳と命運を共にするといっても過言ではなく、前方後円墳の時代と埴輪の時代とはほぼイコールで結ばれます。前方後円墳にとって、埴輪は無くてはならない重要な道具立てだったと考えられます。

本題に入る前に前方後円墳や埴輪の意味について、少し説明しておきたいと思います。
前方後円墳の意味、なぜ前方後円なのか? 下の図は最古の巨大前方後円墳と言われる奈良県桜井市の箸墓古墳で、全長280m、3世紀の中ごろの築造と考えられています。

最古の前方後円墳


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奈良県桜井市・箸墓古墳(奈良県立橿原考古学研究所編『大和前方後円墳集成』より)



一方こちらは最後の巨大前方後円墳と考えられる奈良県橿原市の見瀬丸山古墳で、全長318m、6世紀後半頃の築造です。
最後の前方後円墳



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奈良県橿原市・見瀬丸山古墳

(奈良県立橿原考古学研究所編『大和前方後円墳集成』より)




丸い古墳(円墳)や四角い古墳(方墳)は世界各地にあるのですが、円と方が一緒になった前方後円墳は日本独自の古墳と言われています。ところで、箸墓古墳の形を見ると前方部はやや曲線を描いて広がっており、岡山大学にいた近藤義郎氏がバチ形(三味線の撥のような形)と呼んだ特異な形をしています。一方見瀬丸山古墳の前方部は、直線的に大きく広がっていて、どちらかというと三角形です。前方部は元来、四角い「方」ではなかったようです。



前方後円形の起源については、江戸時代以来諸説が出されています。宮車説や壷形説のような器物(きぶつ)を模倣したとする説があります。宮車とは皇帝などがのる車で、これは前方後円墳の名付け親で、江戸時代の儒者である蒲生君平が「山陵志」の中で横から見た形が宮車に似ていると言っています。また、円丘方丘合体説(古代中国には皇帝が円丘で天を祀り、方丘で地を祀る郊祀制というものがあります)、前方部祭壇説など、壷形模倣説と同様にいずれも興味深いのですが、どの説も前方後円墳との直接の繋がりを証明するのが難しいのです。



今、前方後円の起源として定説になりつつあるのが、箸墓古墳で認識された前方部バチ形の起源についての解明です。箸墓古墳の周辺から、その直前に築造されたと思われる古墳がいくつか見つかっています。下の測量図の纏向石塚古墳や、箸墓古墳のすぐ近くにあるホケノ山古墳などです。これらは弥生墳丘墓の延長線上にある古墳で、全長80〜90数メートル、箸墓古墳の3分の1くらいの大きさです。かたちの特徴は、円墳に短く、低く平らな突出部が付いていることです。下の測量図では、円墳の右下にとび出した部分です。この突出部は本来低くスロープのようなもので、墓の中心部(円丘)への通路、入口の役割を果たしていたと考えられます。バチ形前方部のように、側面が曲線を呈しているものが多いことから、前方部の起源はこの突出部にあると考えられています。前方後円の起源として、この前方部墓道説が年代と形の変化の整合性からもより確からしく、箸墓古墳が280mと突如巨大化するなかで、突出部が前方部へと巨大化したと考えられるのです。



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奈良県桜井市・石塚古墳(全長約96m)

(奈良県立橿原考古学研究所編『大和前方後円墳集成』より)




(2)につづく



文学部・史学科 教授 塩谷修




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2020年01月26日

中世史家の見たフランス革命(7)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






7.革命の終わり

 1794年7月27日ロベスピエール派を逮捕(テルミドール9日の反動)。翌28日処刑。こうして恐怖政治は終わりを告げます。アナトール・フランスの『神々は渇く』という小品を御存知でしょうか。恐怖政治期を扱った文学作品です。

 1795年8月22日に共和暦3年憲法(本文377条)が公布され、同時に革命政府は解体されました。新憲法は独裁防止・権力分散を重視して、制限選挙による2院制議会(500人会と上院)に立法権を託し、10月には総裁政府(シェイエース等5人が担当する行政府)を設立。こうして出来上がった新体制は革命によって土地を手にした新自営農が支持しました。同10月にパリで王党派の暴動が発生しましたが、総裁政府の指示の下、ナポレオンが率いる軍によって鎮圧されました。登場しましたね。

 96年5月10日、独自の共産主義的思想を持ったバブーフの陰謀が発覚し、彼の結社のメンバーは全員逮捕され、翌97年5月27日に処刑されます。さらにイギリスの小ピットの指導で第2回対仏大同盟が結成され、フランス国内政治も、諸外国との交渉も、なかなか安定せず、99年11月9日(ブリュメール18日)ナポレオンがクーデタを決行し、総裁政府を倒し、新たに統領政府を樹立しましたが、これは事実上の軍事独裁政権でした。普通、この独裁政権樹立をもって、フランス革命は終わったと理解します。


おわりに

 何度も繰り返したくはないのですが、革命は何を破壊し、何を生み出したのでしょうか。旧制度社会の構成原理、つまり個人を包み込む多様な社会集団に特権、あるいは自由、を与えつつ王の権威の下に繋ぎとめ、序列化するという基本原理を徹底的に破壊して、個々人をむき出しにしてしまう。その上で、如何なる特権も、如何なる肩書きも持たない自由で平等な個人を「市民」と定義して、これこそ新しい社会構成の基本単位とするのですが、そのような市民に与える唯一の属性が「国民」なのです。したがって「国民」集団を革命は死守し、それに馴染めず、異化する個人は徹底的に排除しようとします。特権を捨てられない貴族、カトリックを捨てられない聖職者、国民の防衛に協力せず、徴兵を忌避する農民、こうした革命の理念実現に抵抗する人々を革命は決して許さないのです。

 このように考えると、人権宣言を生み出した革命が理想の実現を求めて逸脱を排除し、恐怖政治に突入していくことも、また王政か共和政かという政治体制の選択が決して主題ではないということも、良くお分かりいただけるのではないかと思います。絶対君主を打倒して自由と平等の社会を実現することが革命なのではなく、「しがらみ」だらけの古い社会を解体して、個体差の無い国民国家を創出することがフランス革命の根本である。と、西洋史研究者はフランス革命をこのように理解しています。



(本稿は川村学園女子大学 公開講座の一環として2018年10月27日に行った講演に加筆したものです)


参考文献
・松浦義弘『フランス革命の社会史』山川出版社1997年.
・立川孝一『フランス革命―祭典の図像学』中公新書1989年.
・二宮宏之「フランス絶対王政の統治構造」『全体を見る目と歴史家たち』所収 平凡社1995年.
・谷川稔『十字架と三色旗』岩波現代文庫2015年(山川出版社1997年)
・アレクシス・ド・トクヴィル『旧制度と大革命』ちくま学芸文庫1998年.

文学部 史学科 教授 金尾 健美






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2019年11月07日

中世史家の見たフランス革命(6)

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6.暴力と恐怖

 92年8月19日、プロイセン軍により北フランスの城塞ロンウィ陥落。その原因を裏切りと反革命に求めて、容疑者を大量に拘束し、機密漏洩を防いだはずですが、それでも同年9月2日に要塞都市ヴェルダン陥落。刻々と迫りくる敵軍に動揺し、9月2日から6日にかけて連盟兵とパリ民衆は市内の監獄を襲撃。囚人の半数を人民法廷の即決裁判で公開処刑に付します。もちろん全員が濡れ衣を着せられたと言えるでしょう。

敵軍と通じて、軍事機密を流していたという証拠はなかったはずです。陰謀に違いないという思い込み、情報不足から生じる恐怖、そして暴力的な過剰反応。革命政府が周辺諸国の動静に十分な情報を得られないのは仕方ないのかも知れませんが、それにしても対応が稚拙。法の適用と主権の行使を暴力に頼るとはあまりに幼児的と評せざるを得ません。悪に対して公開の民衆制裁を加えて共同体の秩序と平和を維持する、中世的・農村的伝統がこんなところに生き残っているのでしょうか。

振り返ってみれば、革命初期には領主を襲撃して土地台帳を焼却することが各地で発生しました。本来は不法行為である暴力を革命が正当化・日常化したと言えましょう。冷静に考えれば、戦争に負けるのは軍事力と軍事指導力が弱体化しているからで、かりに裏切り者がいたとしても、その役割を過大に評価するのは奇異に思えます。まして国内の革命反対・非協力者を摘発することに血眼になって、軍事力の強化を後回しにするのは、どう考えても本末転倒と思えますが、革命政府は実際にこのような方針を採択したのです。



 1793年3月10日に全国各地に革命裁判所が創設され、これを補完する組織として21日には監視委員会(革命委員会)が設置されました。4月6日に発足した公安委員会は、本来、国防を担う組織でしたが、6月に国民公会からジロンド派が追放され、モンターニュ派(ジャコバン左派)の独裁が成立すると、この派閥の執行機関という性格が強まります。7月27日ロベスピエールをはじめ、サン・キュロットを代表する人々が公安委員会に参加し、12名のメンバーが確定しました。

9月4日から5日にかけて、国民公会は武装した国民衛兵に包囲され、反革命派の拘束と革命政府樹立へ向けて動き出します。まず9日に革命軍を創設し、17日に反革命容疑者の逮捕令を、29日には総最高価格法を決議・発令しました。10月10日、国民公会は「フランスの臨時政府は平和の到来まで革命的である」と宣言して、91年憲法には如何なる規定もなかったはずの革命政府を樹立します。この臨時政府は反革命の取り締まりに異常な情熱を傾け、議会内の二つの委員会、すなわち公安委員会と保安委員会(92年10月発足)、の指示に基づき、反革命容疑者の逮捕令を連発して、各地の革命裁判所をフルに活用するという体制を作り出しました。これが恐怖政治です。



 この93年の10月から11月にかけて、パリで処刑されたのは王妃マリー・アントワネット、ジロンド派、旧フィヤン派など200名足らずでしたが、地方は無政府状態に陥り、実際の処刑者数も判然とせず、凄惨であったと言われますが、フリメール14日(93年12月4日)の法によって地方組織を公安委員会に従属させることに成功し、この無政府状態はひとまず終息しました。他方、革命政府が国家総動員体制を整備したことが功を奏し(決して裏切り者を粛清したためではなく)、93年暮れには戦況も好転、ヴァンデ反乱もほぼ鎮圧することに成功しました。

 この事態を受けて、94年に入ると国民公会内部で恐怖政治を巡る議論が左派エベール派と右派(穏健派)ダントン派の間で活発化しますが、ロベスピエールを中心とする公安委員会は3月から4月にかけて両派を粛清し、さらなる独裁の道を突き進み、4月から5月にかけて地方の革命裁判所を廃止し、パリへの集中を図りました。6月10日プレリアル法を制定し、反革命容疑の解釈を拡大し、裁判手続きの簡素化・迅速化を行いました。判決は死刑か無罪か、二つしかありません。その結果、6月から7月にかけて1,500名以上が処刑されました。恐怖政治期には全国で約50万人が収監され、3万5千人から4万人が処刑されたと言われています。

(9)につづく


文学部 史学科      教授 金尾 健美





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2019年10月10日

中世史家の見たフランス革命(5) 中世史家の見たフランス革命(5)

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5.革命の第3ステージ:拒絶と排除

 革命家は自らの理念・ユートピアを実現するために、教育の重要性を主張します。国民の幸福に直結するユートピア的教育が拒絶されると、その理由が理解できません。そこで反革命家の陰謀ではないかと考えます。疑心暗鬼が監視・告発による恐怖政治を生み、それが一般の抵抗を強化するという悪循環を生み出してしまいます。

 旧制度に代わる新しい社会は自由で平等な個人の結合によって成り立つ「国民」共同体になるはずでした。それを建設することは、理論的に言って「国民」に含まない、含めることができない異質なものを排除することが前提となります。しかしこうした独善的で押しつけがましい社会改革に対する嫌悪や拒絶もまた当然生まれてくるでしょう。つまり自ら異化し、距離を置こうとする個人も現れるはずですが、革命はひたすら同化を求め、離脱も反発も許さないのです。

 革命は89年7月には国民から貴族を排除しました。翌90年7月には聖職者市民法によって国民から教会とカトリック信者を排除し、同年11月27日には全聖職者に「国民と法と国王に忠実」であることを誓約させました。当然ながら、ローマ教皇ピウス6世はこの聖職者市民法に反対を表明しますから、フランスの教会は革命を支持して一体化するグループと教皇を支持して敬虔なるカトリックであり続けようとするグループに分裂することになります。実際にこの法に従って市民であることを誓約したのは聖職者議員の約3分の1に相当する100人超で、そのうち司教は2名だけでした。フランス全体では聖職者の約半数が宣誓を拒否しましたが、特に西部と北部に拒否する者が多かったと言われます。聖職者として教皇に忠実であることと、フランス国民として誠実であることと、二つは両立し得ません。苦悩の末に宣誓を拒否し、聖職者の立場を優先させた司祭に一般の信者はむしろ強い共感を持ったはずです。ところが宣誓拒否者は社会改革を阻害するとして、反革命の側に追いやられ、弾圧されてしまいます。こうして「聖職者市民法」は国民全体を革命派か、反革命派か、いずれかに二分し、対立させることになります。

 92年4月20日、対外戦争の敗北が決定的となりますが、その原因を客観的に分析するのではなく、裏切りや陰謀にあるとして、敵か味方かの二分法で全てを乗り切ろうとします。

 93年2月24日、国民公会は共和国軍強化のために30万人の徴兵を決議しますが、全国でこの徴兵を忌避する動きが表面化します。特に西部のヴァンデ地方では農民と織布工が白地に十字のマークをつけてカトリック王党軍に参加。共和派の拠点を襲撃するまでに激化しました。ところが国民公会はこの動きを旧制度社会再建をめざす特権貴族の陰謀としか見ないのです。徴兵反対には革命に賛成か反対かという理念論争とは全く次元の違う個人的・具体的な理由があるはずです。89年7月の時点では農民は革命に好意的でした。領主権や十分の一税の廃止を喜びましたが、翌90年の聖職者市民法以降、日常の激変を経験して革命(政府)に敵対するようになりました。ところが国民公会の議員は国民の一体化という信念に取りつかれていて、この農民の動向を理解できません。93年、革命は一部の農民に反革命のラベルを貼り付けて、国民から排除することになります。貴族、聖職者、農民、と、こうして革命は排除を繰り返していきます。政策に対する反乱や抵抗という行動は何らかの意味で地方の現実を反映しているはずで、革命か、反革命か、という二分法だけでは理解できるはずもありません。

(8)に続く

文学部 史学科 教授 金尾 健美






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2019年09月16日

中世史家の見たフランス革命(4)

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4.革命の第2ステージ:王国の終焉、共和国の誕生とその防衛

 このようにフランス革命は錯綜した旧制度社会のしがらみを御破算にして、一度まっさらにして、改めて新しい原理に基づく社会を建設する一連の社会改革である、と近年では理解するようになりました。そのために革命は1789年7月のバスチーユ襲撃よりも、6月の国民議会発足に始まると考えた方が、その根本的性格を理解しやすいと思います。つまり革命は国王を倒すことが目的ではなかったのです。繰り返しになりますが、王は絶対権力を振るっていたわけではありません。旧制度社会の人々はそのことを十分に理解していたはずです。むしろ王様は大変だ、でも頑張れ、と応援する人が多かったのではないでしょうか。だからこそ、王の名で発布された封建的特権の廃止は誰もが受け入れましたし、王の変わり身の早さを揶揄する人もいなかったのだろうと思います。

 ところが、市民あるいは国民と王との間に修復不可能な亀裂が生じてしまいました。1791年6月21日、国王一家がパリを脱出し、フランス逃亡を企てたことが発覚しました。一家は東部国境近くのヴァレンヌで発見され、捕縛されたのでヴァレンヌ事件と言います。1789年以来、貴族は革命に加担するか、反対するか、はっきりと二つのグループに分かれました。これまで言及しませんでしたが、もちろん特権と土地を奪われたことに猛烈に反発した保守的貴族もたくさんいました。当然ですね。彼らはパリを脱出し、ライン川流域に滞在して、反革命の準備を着々と進めているという噂が何度となく流布しました。

ルイ16世妃マリー・アントワネットはオーストリア・ハプスブルク家の出身ですから、貴族たちがハプスブルクに援助を求め、ドイツ・オーストリア軍とともに革命を押し潰すために攻めてくる、という噂はいかにもありそうな話です。王一家は国民を見捨てて亡命貴族の下へ逃げて行った。噂は本当だった。王は反動貴族と外国軍を引き連れて侵攻してくるに違いない。裏切り者め! 王の行動は噂が真実であることを証明したと、多くの国民はそう考えたわけです。7月17日、国王廃位のための大衆請願大会が開催されましたが、その時パリ民衆とその整理に当たった国民衛兵が衝突して大混乱に陥り、死傷者が出ました。回り始めた歯車を止めるブレーキはありません。王は暴君で裏切り者だ。つまり否定すべき過去の旧制度社会と一体のもので、新しい社会に王の居場所はない、と。


 
 オーストリアはフランス国王一家の身を案じて、公然とフランス国内政治に干渉します。1792年4月20日、フランス・オーストリア間で戦争が始まりますが、緒戦でフランス軍は敗退を重ねます。フランス亡命貴族は数千名に達したとも言われていますから、歴戦の将軍たちのいない寄せ集めの急造軍隊など知れています。ところが国内の社会改革に、その法整備に忙殺されていた議会は次第に冷静さを失っていきます。フランス軍がこれほどまでに負け続けるのはおかしい。裏切り者がいるからに違いない、軍の機密情報が漏れているに違いない、と。

この92年初夏から、王妃を中心とする反動貴族たちによる「オーストリア委員会」なるものが存在し、それが外国勢力と共謀している。彼らを通じて情報が筒抜けになっている、という噂が、また噂ですが、声高に語られるようになりました。92年5月から6月にかけてパリの外国人を監視下に置く一方、2万名の地方国民衛兵軍を創設し、戦局の打開を図ります。ところが6月13日、王はこの国民衛兵創設の議決に拒否権を発動し、議会主導派の人事に介入。フイヤン(穏健派)登用を主張します。するとパリ民衆は6月20日、王の滞在するテュイルリー宮へ乱入しますが、王は譲歩しません。7月になると地方議会の代表とパリの48行政区のうち47代表が国王の廃位を公然と主張するようになります。8月10日、議会はついに王権停止を宣言し、9月22日、共和国樹立を宣言します。

旧制度の社会は王政であった。それに代わる新制度の社会は王政となじまない。相応しいのは王のいない社会であり、それは共和国である、と。こうしてフランスは歴史上はじめて王のいない社会、王なき政治体制を模索することになります。91年憲法が成立してから1年半、政局は大きく変わりました。



 この92年秋、国民公会と改称した議会は国王裁判を巡って紛糾します。91年憲法は「国王の身体は神聖で不可侵」と規定していますが、王の行動を国家に対する背信行為と見て、裁判に掛けることは適法なのか。前例のない事態を前にして、議会は法律論議に明け暮れることになります。延々と議論の続く中、突然、全く異なる観点から発言する議員が現れました。11月13日サン・ジュストは事実として王は市民・仲間ではなく、敵・叛徒として裁くべきであると言い始めます。12月3日、この発言を受けて、ロベスピエールは「王国と共和国は相容れない。王はフランス人民を叛徒つまり敵と見なした。王と人民の戦いで勝ったのは人民であり、人民の作る共和国だった。この戦いに敗北したことで、王ルイはすでに断罪されている。生き延びるべきは共和国であり、その阻害要因たる彼は死すべきである」と、筋が通っているような、そうでないような、明らかに結論が先にあって、後から理屈をこじつけた政治的発言をしました。

二人とも王ルイを市民として審理するのでなく、王という特別の存在ないし王政という制度そのものが犯罪的であると主張し、王国と共和国、王と市民は両立しえない、二者択一のものであると主張しました。もちろん王の弁護士たちは即座に反駁し、王は特別な存在といえども、91年憲法によって人権を保障されているのだから、憲法に従って適法的に審理すべし、さもなければ法治国家の原則を蔑ろにすることになると主張します。

結局1793年1月17日、国民公会721名のうち387名が無条件で、334名が条件付きで、王の処刑に賛成しました。この採決で反対を表明した議員はゼロでした。この結果を受けて、翌93年1月21日に王は処刑されました。王の死。王政の死。そして王政を支えてきた象徴システムの死。8世紀以来1000年以上にわたって王は単なる支配者ではなく、聖性をそなえたカリスマとして存在し続けたのですが、こうして王のいる社会は葬り去られました。もはや革命は後戻りできないところまでやって来たのです。



 共和国という新しい王のいない国家に、人々は帰属意識を持つことができるでしょうか。できるでしょうか、ではなく、できなければならない、それ以外にはない。個人を団結させ、国民の一体性を実現すること。過去を徹底的に否定して、共和国という制度を作り出した後、その新しい国家と社会に心から調和するような新しい人間を創出すること。つまり教育。これが革命の次なる課題でした。94年の春、新しい共和国のシンボルとして最高存在(理性)の祭典が開催され、共和国の国旗がはためく中、義勇軍の軍歌ラ・マルセイエーズが斉唱されることになりました(95年に国歌として制定)。

 古代地中海世界はともかく、中世ヨーロッパでは教育は教会や修道院で始まりました。教育は誕生した時から宗教色に染まっていましたから、大学でも最高の学問は神学でした。自然学も法学も、神学を学ぶための準備に過ぎません。この数百年にわたる学問体系を革命は根本から変えようとします。コンドルセの自由主義教育に触発されて、1792年8月、教会施設での教育を禁止し、ソルボンヌやアカデミーも廃止し、多様な公教育を構想します。93年7月にはルペルティエ案が議会を通過し、5歳から12歳の全男子に国家が管理する教育を施し、共和国に相応しい人間を育成しようとします。義務教育の先駆です。93年10月5日、16世紀以来のグレゴリウス暦を廃止して共和暦を制定します。同時に度量衡を一新し、地球の子午線の長さを利用するメートル法を採用し、広場・街路の名称をことごとく変更して聖人名を消去し、宗教色を一掃しました。

替わって、到る所に革命のシンボルを散りばめることを始めます。三色帽、自由の木、自由の女神、などなどを印章や貨幣に刻み込んでいくのですが、これらは自由、平等、人権など革命の抽象的理想や価値を可視化するもので、一般市民の教育(洗脳)手段になりました。現在でもフランスの役所には自由・平等・博愛の標語が玄関の目に付くところに掲げられています。ユーロが導入される前は、コインにもこの三語と女神が刻印されていました。日常生活の隅々に革命のシンボルを配し、日常を革命で染め上げ、日常生活を心の習性を変えていく学校にしようとしました。こうした精神文化の革命の中で、教会は揶揄と嘲笑の対象となっていきました。

93年11月10日、パリ・オペラ座の女優が自由と理性の女神に扮し、理性の祭典をノートル・ダム聖堂で挙行しています。反キリスト教運動が頂点に達したと言えましょう。教会は次々に閉鎖され、礼拝は禁止、聖具や銀器は没収・破壊され、司教冠を被せたロバを行列させ、国王や聖職者の人形を教会前広場で燃やすことまで行われました。どことなくカーニヴァルを思わせますね。しかもこうした騒ぎを行ったのは一般民衆だけでなく、聖職者も加わっていたことに注目したいと思います。2,000名を超える司祭が非キリスト教化の宣言・運動に加担したと言われています。聖職者も厳しい階級社会に生きていましたから、下級の聖職者は職禄も低く、困窮を強いられる人も少なくなかったことを付け加えておきましょう。

(7)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美





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2019年08月26日

中世史家の見たフランス革命(3)

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3.革命の第1ステージ

 3-1)アンシャン・レジームの破壊

 6月17日に成立した国民議会は7月9日には憲法制定国民議会と名称を変え、新しい国制の議論を始めます。14日にバスチーユ襲撃事件があり、フランス革命を象徴する大事件として重視されてきましたが、その襲撃目的が自衛のための武器獲得にあったことが詳細にされるにつれ、政治史の一コマにすぎないと考えられるようになりました。もっとも7月14日が革命の記念日で、祝日であることは今も変わりません。真夏の夜空を背景に、エッフェル塔が無数の花火に彩られている様はなかなかの見物です。議会に話を戻しますが、憲法つまり国制の基本を定めるにあたっては、まず旧制度社会のしがらみを一掃しなければなりません。その最初の成果が8月4日の封建制廃止宣言であり、これが11日には法令として発布されました。領主裁判権、賦役など人的隷属を強いる権利と教会十分の一税は無条件で廃止。租税負担の平等、つまり免除特権を認めない。官職売買の撤廃と公職開放、など社会集団の結合と序列化によって構成される旧制度社会の解体を宣言し、法制化したものですが、皮肉なことに、この法令のおかげで、ルイ16世は「フランスの自由の再興者」として称讃されたのです。

 古い社会秩序を一掃する。新しい時代が到来する。この昂揚の中で来るべき新社会の原理を端的に表現したものが、8月26日の人権宣言全17条でした。その第1条はあまりにも有名な、人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である、という画期的な宣言文でした。第2条は自由、所有、安全、圧制への抵抗は不可侵の自然権であるとして、近代市民社会の根本原理は自然権から発していることを明らかにしています。第3条で主権は国民にあることを確認し、そして第4条で、改めて、自由とは他人を害しない限り、何事もなしうることであると、従来とは異なる「自由」の意味を明言します。人権宣言は旧制度を全面的に否定しているがゆえに、その死亡証明書であると理解され、さらに実現すべき新しい理念、つまり過去の社会は打倒すべきものであり、自由で平等な個人が構成する一体的な「国民」の国家を創出すべきであることを提示しています。

 フランス法務省のホーム・ページには現行法がすべて掲載されていますが、その劈頭を飾るのは人権宣言です。すでに200年以上の歳月が流れたわけですが、宣言は今なおフランス法体系の根本にあることを新しいメディアを通じて宣言していると言えるでしょう。



3-2)市民と国民の創出

 個々人は自由と平等を生得的に持つ、という人権宣言は素晴らしいものですが、その実現を保障するのは国家の仕事です。国家権力は個人を抑圧するためにあるのではなく、個人の快適な生存を保障するためにあるのです。したがって国家が各地に残る様々な特権(旧制度の自由)を廃止して、今風の言い方をすれば、一切をリセットして、王国のどこに生きる人もみな同じ権利を享受できることを保障することが必要になります。これが12月14日に発せられた「自治体に関する法」です。さらに12月22日には地方長官区、徴税区、地方総督区、など地方特権と結びついた旧来の行政区画をすべて廃止し、新たに県、地方、区と全国一律に三段階に単純化した行政区画を設置しました。

 こうして旧制度の解体は地方や地域(空間的広がりを持つ団体)に授与されていた特権を廃止することから始まりましたが、翌90年6月16日には世襲貴族が廃止され、7月12日には聖職者市民法が制定されました。どちらも旧制度の社会では十分すぎるほどの免除特権を享受した人々でしたが、この先、そのような特別の身分はない。市民になれと、宣言されたわけです。特権を持たないとは負担(国家運営のコスト)を分かち合うという意味です。90年11月から翌91年3月にかけて課税負担平等の原則に基づき、租税体系の再編がすすめられました。

 聖職者や貴族と同様に、商工業者も職種別の組合によって他者の参入から守られてきました。これも大切な特権ですが、自由の名の下に、全く違う世界に生きていた人が全く新しい発想で、モノづくりに関わりたいと思うかもしれません。91年3月2日のアラルド法は商業と工業の自由を保証して、「自由」は新社会では旧社会のそれとは違い、むしろ逆の意味であるとさえ言えることを明示します。6月14日のル・シャプリエ法は職能団体を廃止してしまいました。


 こうした一連の社会改革の法令を集大成したものが、91年9月3日に公布された91年憲法です。前文に改めて人権宣言17条を置き、本文は全7編210条からなる大部のものです。旧制度社会の社団編成を理念的に解体し、国民主権の原則を謳い、市民的結合に基づく国家を構想した革命の最初の成果と言えるでしょう。しかし国民主権の原則を明言しますが、一定の権力を保持する国王の存在を認めています。また1院制議会は能動市民(給金3日分相当の直接税を支払う25歳以上の男子)による制限選挙でしたから、国民の代表で構成されると言えるかどうか、疑問が残ります。

(6)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






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2019年08月10日

中世史家の見たフランス革命(2)

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2.社会の変容とその対応

 どのような社会でも、それが何百年にもわたって、どのような面から見ても変わらないということはあり得ません。先に述べた社会集団そのものも、諸集団の序列も、緩やかに変化を始めます。たとえば商人団体と言っても、各人の財産も違えば、活動の分野も規模も違い、したがって扱う金額も違うでしょう。進取の気性に富む若き貿易商と、小さな町の老いた小間物商とを比べようとしても、何をどうやって比較しましょうか。生活様式も、メンタリティも違うでしょう。違いばかり目について、仲間意識も持てないかもしれません。つまり内実が多様化していて、「商人」というカテゴリーで一括すること自体が無意味で非現実的に思えてきます。

 さらに従来の序列・身分秩序から逸脱する者が増加します。余所者(外国人)、貧民、放浪者、脱走兵などは集団に属すとも、外部の人間とも、どちらとも言い難く、境界線上に生きる人々と表現することになりましょう。このような帰属のはっきりしない人々の増加が、特に18世紀に入ると、目立つようになり、集団の境界線を曖昧にします。このこともまた社会の変化と流動化の指標となります。

 目線を上に向ければ、成り上がり者も目に付くようになります。モリエールの『町人貴族』という作品を御存知でしょうか。彼は17世紀の現実を巧みに風刺した沢山の喜劇を書き、自ら主役を演じました。1664年ヴェルサイユで初演された『タルチュフ』はルイ14世を笑わせたことで知られていますが、その後、教会に目を付けられて上演禁止となりました。ネッケルは1777年、ルイ16世の財務総監に抜擢され、国家財政の立て直しを託された大銀行家ですが、フランス人ではありません。ジュネーヴ生まれのスイス人で、しかもユグノーでした。それでもスザンヌ夫人は有名なサロンの主催者で、ヴォルテールを始め、多くの文人が出入りしましたし、彼らの一人娘スタール夫人はナポレオンには嫌われたようですが、ドイツ・ロマン主義をフランスに紹介した優れた作家として知られています。

 要するに旧制度の社会はセメントでカチカチに固めた水も漏らさぬ社会ではなかったということです。隙間もあれば、欠落もあり、逆にはみ出したり、いびつに歪んだり、という部分もあちこち目に付く代物だったということです。始まりはいつでも些細な事です。何時できたのか、小さなひび割れや疵が気が付かないうちに大きくなって深刻な事態を引き起こすようになっていきます。もはや放置できない、と、地方長官制を創設して、旧来の官僚制の不備を補ったり、公道警察(軍所属の憲兵隊)を整備して、公共空間の維持、つまり放浪、逸脱、無頼、そして騒乱の取り締まりを強化しますが、傾き始めた巨大な建築を修復するのは簡単ではありません。すると、いっそのこと、という議論を展開する人々が必ず現れます。

 1762年、ルソーは『社会契約論』を公刊して、国家は市民を基本単位とし、契約によって成立する政治的結合体であると論じました。旧制度社会の基本構成単位である諸集団をあっさり無視して、いきなり個々の「市民」と「国家」の関係を論じた驚愕すべき主張です。
 シェイエースは聖職者出身ですが、何と「人は特権によって自由なのではなく、すべての人間に属する権利によって自由である」と人権宣言を先取りするような言い方をしました。自由とは特権であるという旧制度社会の根本原理を否定したことになります。如何なる特権も持たぬ者がすなわち「市民」であり、そのような「市民」が「共通身分」を形成し、共通の法と共通の代表組織を持つ「国民」を構成する、と彼は主張しました。シェイエースはこのような主張を『第三身分とは何か』というパンフレットにまとめて、1789年に発表しました。ラディカル!「市民」も「国民」も言葉としては古くから存在しています。「市民」とは、先祖代々都市に居住する者という意味でしたし、「国民」とは同郷人というにすぎませんでした。シェイエースはこのような古くから使われていた言葉を全く新しい意味を持つ言葉に生まれ変わらせたのです。

 さらにここで注目すべきは、ルソーもシェイエースも、人が生得的に帰属する社会集団を問題にしているのではなく、自らの意志で、言わばゼロから作り上げていく集団を問題にしていますから、議論の出発点が個人だということです。二人とも旧制度社会の権力秩序、絶対王政の構造、その構成原理、こうしたものを根本的に否定していることになります。

 もちろん、こんな社会は壊してしまえ、という方向ではなく、根本は変えずになるべく細部の手直しで立て直す、という方向へ尽力した人々が多かったことは言うまでもありません。社会のひずみを修正するにはどうすればいいでしょう。先立つものはいつでもお金です。フランスに限らず、列強は国土拡大と植民地獲得の手段を戦争に頼り、莫大な資金を蕩尽しました。王妃の首飾りなど高が知れています。国家財政の危機を乗り越えるには財源の確保が最優先課題で、行き着く先は増税です。1749年には20分の1(5%)の付加価値税が導入されました。1776年には財務総監テュルゴの主導の下、改革6王令が発布され、宣誓ギルド、つまり仲間団体の廃止が盛り込まれました。競争原理の導入です。1787年には地方議会の創設が提案されました。王国を機械的に、画一的に分割して、効率的に徴税しようとする試みです。こうした一連の官僚主導で進められた改革は明らかに旧来の団体、職種別団体や地域共同体の特権(すなわち自由)を侵害するものでしたから、貴族だけでなく、あらゆる団体が猛反発しました。

1787年、88年には抜本的な税制改革を求めて、名士会が召集・開催されますが、議題はあまりに深刻・重要であるとして、すぐに解散し、89年5月に全国三部会が開催されました。1614年を最後に百年以上も開催されなかったこの身分制議会は、ご承知のように、開会早々投票方法を巡って紛糾し、6月には第三身分の議員が離脱、まさにシェイエースの主張にそって、「国民議会」なるものを立ち上げました。この「国民議会」という表現自体、身分を前提とする旧制度社会の構成原理を否定するものでしたから、旧制度社会の頂点に立つ王は、立場上、このような新たなコンセプトに基づく集会を認める訳には行かず、その設立を否定せざるを得ませんでした。



(5)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






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2019年07月14日

中世史家の見たフランス革命(1)−3

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1-3)職業集団の序列

 地上の世界は「祈る人」、「戦う人」、「働く人」という三つの社会集団から成り立っている、という考え方を御存知でしょうか。これは11世紀の初め、北フランスに生きたアダルベロという司教が述べたことで、その時代の社会思想・世界観です。

その当時は職業選択の自由などありませんから、生まれた時から人生は決まっていました。貴族に生まれれば、剣を手にして地上の悪と戦い、混乱を平定すればよい。さもなければ、学問を修めて神に祈りを捧げる者になればよい。農民に生まれれば、大地を耕し、人々の糧を生み出せばよい。三集団はそれぞれの生き方で神に仕えているのだから、誰が偉く、誰が卑しいということはない。神は地上に生きる人々にこのように命じ、秩序付けたのだ、と、司教は考えました。

つまり社会三機能論であって、三身分論ではなかったはずなのですが、この思想が広まるにつれ、いつの間にか三機能を担う三集団に序列が出来てしまいました。これが第一身分(聖職者)、第二身分(俗人貴族)、そして第三身分(市民)という身分制社会の起源になったことは理解いただけると思いますが、同時に第三身分の内実が微妙にずれていることにも気づかれたと思います。当初、「働く人」とは農民のことで、都市民つまり商工業者ではなかったのですが、どこかで言葉と現実がずれてしまいました。


 三つの社会集団の内、「働く人」が中世・近世を通じて多様化していったことは容易に理解できると思います。もちろん大多数は農民で穀物栽培と畜産・酪農に従事していましたが、地方によってはブドウ栽培と醸造業に特化していく生産者も現れました。職人や商人も細分化と多様化の一途をたどったことは御承知の通りです。

町で小さな小売店を営む者から、何艘もの大型帆船をチャーターしてアジアやアメリカとの交易を取り仕切る貿易商にいたるまで、規模も業種も様々です。賢い両替は他人から金銭を預かり、融資や投資をする銀行家になり、勘定の才を買われて、時には徴税を請負うようになります。

ローマ法を学んで、弁舌に人生を賭けようとする人も現れます。古代ギリシアの自然観と聖書の記述はどのように理解すれば矛盾せずに両立するか、と議論を戦わせていた人々は教会や修道院とは別に、大学やアカデミーを設立するようになりました。スコラ(閑)を持て余して愚にもつかぬことを真剣に考えている人も、学者という職業人と認められるようになったのです。


 このような職業の多様化は序列化には直結しないはずですが、扱う金銭の多寡、獲得した知識の多少、利用する技術水準の如何、あるいは権威・権力との親密さの度合い、何らかの判断基準が社会通念として序列を生み出してしまいます。しかも単に「立派な」職業と「如何わしい」仕事を区別するだけでなく、従事する人々の団体つまり職業別組合や信心会(特定の守護聖人の下で相互扶助と親睦を目的とする団体)にも序列を持ち込みます。

1691年の調査ではパリに133の職種別組合があったことが確認されます。その中で金銀細工師の組合や食肉業者の組合が乞食の組合よりも高い地位にあるのは当然だと思いますか。そうでしょうね、という気持ちと、割り切れません、という気持ちと半々でしょうか。


 このように旧制度の社会は機能的・職能的な面でも、言わば伝統となった価値観に基づいて序列化され、いわゆる「軽蔑の瀧」を形成していましたが、大切なことはその序列化されたものはやはり個々人ではなく団体ないし集団であり、序列されることで国家権力からその存在を認知されたということです。


 旧制度社会の説明を終えるにあたって、もうひとつ大切なことを付け加えておきましょう。序列化された二系統の社会団体は決して受け身の支配を蒙るだけの存在ではなかったということです。すでに説明したように、官僚や軍隊は、民衆に圧力かける装置という意味では、あまり有効とはいえませんでした。ですから税を強引に取り立てることは実はかなり難しかったと考えられます。村や町、教会や組合、多くの団体は、戦いに明け暮れて財政難に陥った王を助けて協力したことを記憶し、記録にとどめ、国王尚書局の印璽を受けました。そのような証書を交渉の場に持ち込んで、何らかの特権、多くは課税に関わる特権を享受しました。

王もまた様々なレベルの団体に個別に交渉して取引をしながら協力を仰ぐという姿勢をとり続けました。何度も繰り返しますが、旧制度の社会は個別対応です。決して絶対的な王権が民衆を画一的に抑圧した社会ではないのです。王は延々と過去の経緯を主張する様々な団体に耳を傾け、粘り強く個別に交渉することが必要だったのです。途中で切り上げて、交渉を決裂させても何のメリットもありません。王の側からすれば、一度限りのこととして免除を与えたつもりでも、それは先例となり、特権を得たと主張されることになります。旧制度の社会では、「特権」と「免除」と「自由」はほぼ同じ意味で使用されました。「免除特権の実績がある」という意味で、団体は「自由がある」と主張したのです。

(4)につづく

文学部 史学科 教授 金尾健美






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2019年06月24日

中世史家の見たフランス革命(1)−2

地域とともに活躍する川村学園女子大学






1-2)家族を包む空間秩序

 さて、それでは一般社会はどのような実情を抱えていたでしょう。

中世以来ずっと守られてきた絆、人生観(死生観)、価値観つまり生き方の伝統があります。人は家族の中で生まれ、洗礼を受け、司祭の説教を聴いて育ち、父母や兄弟姉妹と同じように働き、同世代の中からパートナーを見つけ、結婚し、子供を授かり、老い、そして死んでいきます。旧制度の社会では孤独は余程の変人か余所者で、普通は何らかの集団ないし共同体に属し、そのメンバーとして生き、死んでいきます。したがって旧制度社会の最小単位は家族であって、個人ではありません。まさにボダンが述べたように「家族こそ国家の基本要素」でした。そして家族を包み込む村や街があり、それが多くの人々にとって日常生活を営む空間、せいぜい夜明けに家を出て、夕暮れまでに帰ることができる範囲です。もちろんこうした生活空間を越える世界があるわけですが、それは二重で、下層世界は地域、上層のより広い世界は地方と呼んで区別することにします。

地域は200を越える局地慣習法に対応する空間ですが、その上に広がる地方はそれぞれ自然環境と方言や習俗が違い、さらに一般慣習法がそれぞれ歴然と異なる文化的一体性を持つ広がりで、ノルマンディ、ブルターニュ、ブルゴーニュなど、フランスでは58を数えると言われています。あのマトリョーシカ人形のように、人々の生きる世界は何層にも包まれていますが、さて、それでは一番外側の世界は何でしょう。現代なら、地球とか宇宙とかになるかもしれませんが、17〜18世紀の旧制度社会では、それが「くに」つまり国家であり、その頂点に王が君臨すると考えます。

 もっとも王国というのも、王の統治権が及ぶ空間の寄せ集めという程度の代物で、王は決して連続した地理空間全域を隅々まで支配していたわけではありません。イメージとしては、虫食いだらけ、隙間だらけ、飛び地だらけの広がりです。

 旧制度社会はこのように人々を何層にも包んで、いわば自然発生的な多層伝統社会を作り上げていました。この自然なまとまりと広がりを巧みに行政制度に対応させて、少し硬い言い回しになりますが、上意下達の秩序として再編したものが同時代のフランス国家であると考えることができます。王の個人的魅力や権威ではなく、王の法的権限に基づいて、王国を司法面では17高等法院管区に、軍事面では39地方総督区に、租税面では34徴税区に分割しました。これらが王国を構成するのですが、この3通りの分割方法は互いに何の関係もありません。ある高等法院管区を2分割して地方総督区を作るとか、どれかが基本で他は派生したとか、そのようにそれぞれが何らかの関係を持つわけではないのです。その結果、たとえばA司法管区にはP地域とQ地域が属しているが、地方総督区の区分けではP地域とQ地域は所属先が別々になる。あるいは、X徴税区はR地域の大半を担当するが、南端のごく一部分は飛び地のようにY徴税区の担当になる、といった事態が頻繁に起こります。過去の様々な経緯の結果なのですが、だからこそ、面倒だから、不合理だからという理由では簡単には変えられないのです。しかも徴税区が違えば、納税期限が違うのはむしろ当然でしたから、予算編成は困難を極めました。

 高等法院とは上級裁判所のことで、パリをはじめとして全国の主要14都市にありました。パリ高等法院はもっとも古く、設立は14世紀に遡ります。以来、この司法組織は重要な権限を持ち続けてきました。王令はこの司法機関に登録されなければ、発効しません。紙屑です。しかも各管轄区域は重複しませんから、王令はすべての高等法院に登録されなければ、王国全土で施行される法令にはならないのです。高等法院はこの権限を死守します。王権に対抗して、その暴走を阻止することができるからです。逆に王権はこれを嫌って、何としても無効にしようとします。この権限を盾にとって、高等法院が王権を制限する限り、絶対王政はありえません。

ルイ14世の治世初期、1648年に始まるフロンドの乱は高等法院の「反乱」と表現されることがありますが、要するにこの権限を巡る二つの権力の激突です。高等法院は、古い血筋を誇る保守的な貴族や地方の伝統を守り、その利害を代弁する立場から、パリの王権に対立することもありました。これは一例ですが、行政機構の中でも特に重要な司法機関でさえ、このように必ずしも王権の意のままに行動したわけではなく、それぞれがそれぞれの立場と伝統を大切にしていたということを理解して頂きたいと思います。つまり歴史上存在した絶対主義とは権力者が思うがままに支配する、何でもできる、という意味ではありませんでした。そのような絶対的な強権は少なくともフランスには存在しませんでした。

 行政機構の末端に位置して、人々の日常生活空間に対応する行政区画は教区です。つまり教会組織を利用して、教区司祭を末端行政官としていることになります。教区は17世紀末には約36,000を数え、1教区には大体100戸前後の世帯が含まれていました。教区民の誕生(洗礼)や死亡(終油)を教区簿冊に記録することは司祭の重要な仕事ですが、それだけでなく、新たな王令が発布されれば、日曜のミサの後に読み上げる。これもまた司祭の大切な仕事でした。

 さてフランス旧制度社会が秩序付けられた多重化空間であることを説明してきましたが、もう一つの側面にも言及しなければなりません。

(3)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美




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2019年06月06日

中世史家の見たフランス革命(1)−1

地域とともに活躍する川村学園女子大学






はじめに
 フランス革命はふつう1789年から99年までの10年間の激動を言いますが、皆さんはこの革命をどのように理解しているでしょうか。

「絶対的権力を持つ国王が優秀な軍隊と官僚制を駆使して民衆を弾圧していた。耐え切れなくなった貧しき民衆が立ち上がり、暴君をギロチンに掛け、自由と平等を謳歌する新しい社会を建設した。フランス革命は近代の幕開けを宣言した人類史上に燦然と輝く大事件である」と、おそらく皆さんの理解はこのようなものかと思います。

しかしフランス革命200年記念祭が行われた1989年前後、今から30年ほど前のことですが、この頃からフランス革命の理解は大きく変わりました。いったい革命は何を破壊し、何を建設したのか。この問いに答えるために、革命以前の社会、いわゆる旧制度(アンシャン・レジーム)の社会はどのような社会であったのか、それを見直すことから始めたいと思います。


1.アンシャン・レジームの社会

1-1)官僚と軍隊
 まず旧制度社会の官僚と軍隊について注目してみましょう。いずれも絶対君主の手足となって民衆を抑圧したと言われてきたのですが、本当でしょうか。

ブルボン朝が始まった16世紀末には約46,000人の官僚がいました。当時のフランス人口は1,700万から1,800万と言われていますから、国民400人足らずに役人が1人いたという割合になります。これだけの役人が隅々まで目を光らせ、水も漏らさぬ監視体制・警察国家を生み出したのでしょうか。

現実はそのようなイメージとは大分違うようです。役人には二つのタイプがありました。ひとつは保有官僚と言って、売官を公認されていました。国家試験を受けて公務員になるのではなく、ちょうど株や国債を買うように、相場の値段で役職を買うのです。配当の替わりに様々な役得がありました。お金さえあれば、誰でも買えます。したがって、このタイプの職は売買、譲渡、相続の対象となり、家産の一部と見なされました。役人が多かったのは人々が欲しがったから、つまり旺盛な需要に刺激されたからではないでしょうか。ともかく国家公認ですから、後には売買は課税対象となり、徴収された税は財源不足を補うようになりました。

もう一方のタイプは直轄官僚と言って、これは期限付きで、きちんと給料が支給されます。私たちが普通に役人と言った時に思い浮かべるイメージは当然こちらになりますが、実は数の上ではこのタイプは非常に少なく、大多数は第1のタイプ、財産と見なされる役職を保持するタイプの役人でした。

地方長官は各地の国王役人を管理監督することが仕事で、直轄官僚です。全国で30余名いましたが、このポストは多くの場合、宮内審理官(一般からの様々な陳情を仕分けして適切な担当者に通知する職務)の経験者から選出されました。しかし宮内審理官は代表的な売官ポストですから、直轄官僚になる近道はこのポストを購入することでした。

 国務卿とは大臣に相当し、国務、外務、陸軍、海軍の4名で構成された王国最高のポストです。これは売官ポストではないのですが、就任するためには多額の権利金を前任者に支払うことが慣例となっていました。1669年コルベールは財務総監(大蔵大臣)と国務卿に同時に就任しますが、この時、前任者ゲネゴーに70万リーヴルを支払ったと言われます。この金額は現代の日本であれば、おそらく億単位の金額になると思われます。これが旧制度社会の現実でした。

 軍隊はどうだったのでしょう。将校は売官ポストですから、多くは見栄っ張りの若い貴族で、地道に軍事訓練を重ねるよりは女性にもてることだけを考えているような連中です。一般兵士の多くは外国人の傭兵でしたから、給金は頂戴するが、なるべく怪我をしないように、という連中でした。これが軍隊の内実ですから、閲兵式が終われば、即座に兵員数が半減してしまうような代物でした。だからこそ革命が勃発すると、あっという間に国軍は壊滅状態に陥ってしまったのです。イメージが違いますか。


(2)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






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2019年05月16日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




2.3 社会批判の機能を隠し持つ翻案---ワイルド『悲劇革命婦人』(1911年)


オスカー・ワイルドのVera, or the Nihilists’は1881年に発表された戯曲である。
主人公ヴェラがロシア皇帝暗殺を企てるものの、身分を隠して民衆の中に潜んでいた当の皇帝と恋仲になり、自身の皇帝暗殺という任務と皇帝への愛との間で苦悩する、という筋書きだ。

ワイルドが劇場での戯曲デビューをもくろんだこの戯曲は、実は研究の対象になることが少ない。
ワイルド戯曲集というタイトルで出版される単行本に収録されることも少なく、ワイルド全集の一部として、ようやく掲載されるほどの低い位置づけだ。

相当にマイナーなこの作品を、明治44年(1911年)に内田魯庵が東京朝日新聞紙上で翻訳翻案、連載した。そして、大評判となったのである。講談調にすることで翻案の体裁をとりつつの翻訳で、テンポよく展開するメロドラマ、という印象を与える魯庵の文章からは、原文の無味乾燥な未熟な文体は、まったくと言っていいほどうかがえない。


Plead to Czar! Foolish boy, it is only those who are sentenced to death that ever see our Czar. Besides, what should he care for a voice that pleads for mercy? The cry of a strong nation in its agony has not moved that heart of stone.
(“Vera, or the Nihilists”, p.691)


何ですと、皇帝陛下に哀訴する?貴下も余程なお馬鹿さんだ。皇帝に哀訴したものは皆死刑に處せられて殺されるばかり。第一彼が貴下の哀訴に何で耳を傾けよう。全露西亜国民の呻吟嗚咽にすら平気になってる石のような心持が如何して動かせよう。
(「悲劇革命婦人、p.206」)


英文と異なり、魯庵の文章は読者の情に訴えかけ、畳みかけてくる勢いが感じられる。

魯庵がこの“Vera, or the Nihilists”を選んだのには、実は理由があった。少し長くなるが、ワイルド側の事情から説明する。

1881年にワイルド自身が演出家として上演が決まっていたこの戯曲だが、上演直前に中止の憂き目にあっている。以後、イギリスにおいてこの戯曲が上演された記録はない。上演中止の理由は、当時のイギリス王室からの圧力とする説が有力だ。

1881年前後の社会情勢を確認しよう。
1881年3月にロシアのアレクサンドル2世がアナーキストに暗殺されているが、彼の後を継いで皇位についたアレクサンドル3世の妻と、イギリスのアレクサンドラ皇太子妃は姉妹関係にあった。そのため、妃の心情に配慮して中止の圧力をかけた、という説が有力だ。そして、暗殺といえば、同年7月にアメリカ大統領ガーフィールドの暗殺未遂事件が起きている。大統領は2か月間の闘病をへて9月に亡くなるが、ワイルドが“Vera”の上演を試みた12月という時期は、いまだガーフィールド大統領死去の打撃が大きく残っていた時期と言えよう。    ”Vera”と暗殺は、切っても切れない関係にあるということだ。

魯庵が狙ったのも、この点だ。「悲劇革命婦人」の筋書きは"Vera"とほぼ同じである。だが、この作品を発表した時期に、意義がある。1910年、幸徳秋水首謀といわれる、社会主義者による大逆事件ののち、ジャーナリズムおよび文学作品への検閲が極めて厳しくなった。大逆事件による幸徳秋水らの処刑は一方的で、文化人らの間では同情する論調が強かったことが、日記や随筆からうかがえる。

この状況下で、「皇帝暗殺」をテーマにした「悲劇革命婦人」を堂々と連載した魯庵の意義は明白であり、丸善の木村毅もどきどきしながら新聞連載を読んだ、と回想している。

文体を講談調に変換することで、近松的なメロドラマの様相であることを強調し、検閲を逃れる、という手法だったとも推測できる。つまり、明治政府に対する異議申し立てを、講談調の翻案、というベールをかけた翻訳物で実行に移した、という解釈が可能になってくるのだ。覚悟を決めた翻案、翻訳の傑作と言ってもよいだろう。


3. まとめ

翻訳、翻案というメディアは、近代化し始めたばかりの明治期の日本にとっては、欧米列強の社会制度や文化を知るためのツールであったことは容易に理解できる。だが、この翻訳、翻案を巧みに用いて、自らの主義主張・社会批判の機能を併せ持つ、複雑な装置にまで仕上げていったのは、明治時代の文筆家たちの新時代へかける情熱のなせる業だったのではないだろうか。


参考文献
Burnett, Frances Hodgson. Little Lord Fauntleroy. 1886, Oxford University Press, 1993
Holland, Merlin. ed. Collins Complete Works of Oscar Wilde. HarperCollins, 2003
Smiles, Samuel. Self-Help. 1866 [1859], Oxford University Press, 2002
川戸道昭、榊原貴教編 『明治翻訳文学全集≪新聞雑誌編≫10 ワイルド集』大空社、
1996年
スマイルズ、サミュエル 『西国立志編』 中村正直訳、講談社、2013年(1981)
バアネット 『小公子』 若松賤子訳、岩波書店、2017年(1927、1939)
**************************
鴻巣友季子 『明治大正 翻訳ワンダーランド』新潮社、2005年
高橋修 『明治の翻訳ディスクール---坪内逍遥・森田思軒・若松賤子』ひつじ書房、
2015年
松沢裕作 『生きずらい明治社会 不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018


文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子





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2019年04月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.2 欧米文化を理解するための翻訳---バーネット『小公子』(1897年)

イギリス生まれだがアメリカに渡って活躍した女性作家、F. H.バーネットのLittle Lord Fauntleroy (1886)は、雑誌で発表されるや否や、アメリカ、イギリスで人気を博した子ども文学の名作である。主人公セドリックがその言動を通じて、「アメリカ」と「イギリス」の架け橋となり、英米の融和を象徴的に描いたとされるこの作品では、清く、正しく、美しい主人公、セドリックが理想の子どもとして際立った存在感を示している。セドリックの端正な服装も物語の重要なカギとなっており、大きな意味を持つ。

バーネット版の特徴は、「天使のような子ども」を意図的に提示していることにある。これはロマン主義の子ども観(=無垢なこども、こどもの神性を強調)の影響を受けた一般読者をターゲット層として想定しているための戦略と考えられるが、この「天使のような子ども」が英米の読者の圧倒的な支持を得た。セドリックの服装も流行し、かわいらしい挿絵で描かれた、濃い色のビロードの服に大きなレースの襟のついた“Fauntleroy suit”は、この時期の子ども服の一つの特徴をなしている。

このLittle Lord Fauntleroyを明治20年に『小公子』と題して雑誌『女学雑誌』上で翻訳し始めたのが、若松賤子である。その滑らかな口語調の翻訳は自然で読みやすく、「翻訳王」森田思軒も「言文一致の極致」として絶賛しているほどだ。若松は、「天使のような美しい子ども」を翻訳においても再現する。以下に原文と邦訳文を併記する。

[Mr Havisham] recognized in an instant that here was one of the finest and handsomest little fellows he had ever seen. His beauty was something unusual. He had a strong, lithe, graceful little body and a manly little face; he held his childish head up, and carried himself with quite a brave little air; he was so like his father that it was really startling; he had his father’s golden hair and his mother’s brown eyes, but there was nothing sorrowful or timid in them. They were innocently fearless eyes; he looked as if he had never feared or doubted anything in his life. ‘He is the best-bred-looking and handsomest little fellow I ever saw,’ was what Mr Havisham thought. what he said aloud was simply, ‘And so this is little Lord Fauntleroy.’ (Little Lord Fauntleroy, pp.24-25)

さて、かくまで非常にハ氏の心を動かしたものは、一種反動的の感情でした、一見して其童児が嘗て見たことのないほど秀逸ものと分かった時、起ったので、殊に容色の美いことは非常の者でした。。其体つきの屈強で撓やかな處、幼顔の雄々しき處、頭をしゃんと擡げて、進退する動作の勇ましき處等の一々亡父に似て居ることは、実に不思議な程でした。髪は黄金色で父にに、眼は母の茶勝な處にそっくりでしたが、其眼付には、悲しそうな處も、臆せ気味な處もなく、只あどけない中に、毅然とした處のあるは、一生涯、なににも怖ぢたことなく、疑ったこともないという気配でした。ハ氏は、心の中に、是は又大した上品で、立派な童児だと思いましたが、口に出しては、極くたんぱくに、『左様ならば、これがフォントルロイ殿で御座るか。』といいました。
(『小公子』p.36)

若松は、英文で絶賛されているセドリックの様子を、当時としては自然な話し言葉で訳出しており、「言文一致の極み」とされる名調子である。

だが、翻訳が難しい箇所については、いさぎよく削って訳す、という大胆さも併せ持っていた。

‘Dearest,’ said Cedric (his papa had called her that always, and so the little boy had learned to say it) ‘dearest, is my papa better?’
He felt her arms tremble, and so he turned his curly head, and looked in her face. There was something in it that made him feel that he was going to cry.
(Little Lord Fauntleroy, p.6)

「かあさま、とうさまは、もう、よくなって?」
と、セドリックが云ひましたら、つかまったおっかさんの腕が、顛へましたから、ちゞれ髪の頭を挙げて、おっかさんのお顔を見ると、何だか、泣きたい様な心持がして来ました。 (『小公子』p.6)

原文の‘Dearest’とは、セドリックが母に対して使う呼称で、「最愛の人」という意味だ。父親が母親をそう呼んでいたことから自分のそのように呼び始めた、と上記の引用文で説明されているのだが、翻訳ではばっさりとカットされている。「細君」「愚妻」などという呼び方が一般的だった明治期において、この‘Dearest’は訳しても読者に意味が通じないと考えてのことだったと推測される。

英米文化にあこがれを抱かせ、それを理解するツールとして機能していたであろう『小公子』だが、読者の理解を超えてしまう箇所は削除するという、実は偏りのある翻訳になっている点は注目に値する。翻訳『小公子』は、制限つきの文化理解を提示した一例と言えよう。

(5)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子





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2019年03月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.1 明治時代の自己啓発本---スマイルズの『西国立志編』(1871年)

サミュエル・スマイルズによるSelf-Helpは1859年、イギリスで初版が出版されるとたちまち売り切れる人気を博す。著者スマイルズはスコットランドの医者から一転、カリスマ的指導者となった。自己啓発本の元祖である。

スマイルズのSelf-Helpの特徴は二点あり、まず、自己学習の重要性を強調した点、そして、努力すれば「紳士」にもなれるかもしれない、と思わせた点である。がんばれば報われる、というスマイルズの言説は現代版紙媒体の表紙にも受け継がれ、オックスフォード大学出版、ケンブリッジ大学出版のSelf-Helpの表紙には、いずれも自ら努力することの重要性をあらわす図版が使用されている。


自己学習の重要性について、British Libraryは以下のように説明している。


[Smiles] proposes knowledge as one of the highest human enjoyments and education as somewhat erratic road along which knowledge is acquired.

(www.bl.uk/collection-items/self-help-by-samuel-smiles)


つまり、スマイルズによると、知識とは人間にとって最高の楽しみのひとつであるものの、教育は知識を修得する際に迷走を伴うものでもある、ということになろう。そして、もう一点の、努力すれば「紳士」になれるかもしれない、というくだりについては次のように解説する。


One of Smiles’ most striking claims at the time was that even the poor could be gentlemen: ‘Riches and rank have no necessary connexion with genuine gentlemanly qualities’, which he describes as being ‘diligent self-culture, self-discipline and self-control --- and above all […] that honest and upright performance of individual duty which is the glory of manly character’.

(同上、下線部小泉)


下線部を中心に訳出すると、「貧乏な人間でも「紳士」になることができるが、「紳士」に必要な性質とは勤勉さと自己鍛錬、自己修養、自制心である」と述べていることがわかる。明白な階級制度が存在するイギリスにおいては、たとえ、労働者階級の人間が事業に成功して成り上がり、中産階級以上の資産を所有することができたとしても、内面が伴っていなければ所詮は労働者階級どまりで中産階級の仲間入りは果たせない、というのが通例だ。しかし、スマイルズのSelf-Helpの登場によって、そうした人物でも、努力すれば紳士階級の仲間入りができるかもしれない、と希望が持てるようになった、その意義ははかりしれない。この、努力すれば、夢はかなう、という言説は明治初期の日本においてもひろく受け入れられることとなった。

明治4年(1871年)、中村正直による訳出でSelf-Help (1866[1859])は『西国立志編』として出版され、人気を博した。この『西国立志編』は、1866年に出版された増補版を原典としているが、初版と同様、「自学」「勤勉」「向上心」の必要性を説き、「自助の精神」を提唱する内容で、「天はみずから助くる者を助く」という有名なフレーズもこの『西国立志編』第一編の第一文に由来する。たとえるならば、自己啓発本の元祖と言えよう。

自立し、人に頼り切らないことが重要、とのメッセージを持つ『西国立志編』だが、財源不足でインフラ整備もままならない明治政府にとっては、大変都合のよい内容だったことだろう。

松沢裕作が『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』において、「明治政府は、クーデターによって成立した、人びとから信頼されていない政権だったので、高い税金をとることができず、政府の財政を通じて、豊かな人から貧しい人へ富を再分配するような力をもちようがなかった」(pp.69-70)と述べているように、国民ひとりひとりが努力する必要性を感じざるを得なかったのだ。


明治時代のバイブルとも言われた、翻訳版の『西国立志編』では、原文とはレイアウトを変えて十八、十九世紀の偉人たちについてそれぞれ項目を分けて説明しているが、そのなかでも自助の精神が特に顕著な項目は以下の通りとなる。「忍耐力こそ成功の源泉」「勤勉な努力と忍耐が成功を導く」「いかにしてチャンスをつかむか」「意志の力の重要性」「勤勉な仕事ぶり=人格形成に貢献」「自学による立身出世」「「真の君子」たるべし」である。この項目の中から二つ、「忍耐力こそ成功の源泉」と「「真の君子」たるべし」の翻訳を分析したい。


まず、「忍耐力こそ成功の源泉」である。原文と翻訳を併記する。


All nations have been made what they are by the thinking and the working of many generations of men. Patient and persevering labourers in all ranks and conditions of life, cultivators of the soil and explorers of the mine, inventors and discoverers, manufacturers, mechanics and artisans, poets, philosophers, and politicians, all have contributed towards the grand result, one generation building upon another’s labours, and carrying them forward to still higher stages.

(Self-Help, pp.19-20)


およそ諸邦国、今日の景象に至るものは、みな幾世幾代を経て、諸人あるいは心思を労し、あるいは肢体を苦しめて、成就せしものなり。忍耐恒久の心をもって、職事(仕事)を勉強する人、尊卑貴賤の別なく、(土地を耕墾する人、鉱山を検尋する人、新器新術を発明する人、工匠の人、品物を製造する人、詩人、理学者、政学家)これらの人、古より今に至るまで、しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり。 (『西国立志編』p.63)


原文では “contributed towards the grand result”, “to still higher stages”とある箇所が、「しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり」と変わってはいるものの、「一人一人の努力が大きな結果につなげがる」というニュアンスは少しだが読み取れよう。

だが、「「真の君子」たるべし」になると、‘gentleman’の翻訳が難しくなってくる。‘Even the common soldiers proved themselves gentlemen under their trials.’ (Self-Help, p.331)という英文が、中村の訳では、「尋常の兵卒といえども、患難の際に臨んでは、化して温柔の君子となるなり。」(『西国立志編』p.537)と変わってしまう。中産階級以上に所属し、マナーおよび礼節を兼ね備えた男性(ただし貴族ではない)、という意味を持つ‘gentleman’を「紳士」という単語で置き換えることが一般化したのは、少し時代が下ってからのことである。

『広辞苑』によれば、「紳士」という言葉は明治20年〜22年に発表された二葉亭四迷の『浮雲』の一節からとあり、「「搢紳の士」の意」と説明される。中村が訳出した際には、まだこの用例はなかったため、「紳士」ではなく「君子」を使ったと考えるのが妥当だろう。階級制度を内包する‘gentleman’を、「君子」という階級を超えた言葉で言い換えた翻訳者中村正直のセンスには、驚かされる。


最後に、『西国立志編』が翻訳された意義についてまとめると、新時代「明治」における日本人の「向上心」に合致した、ということがまず、言える。欧米列強に追いつけ追い越せ、の精神に合致したわけだ。そして、すべての人民の自助と努力が国の繁栄に貢献するというメッセージからは、明治政府にとって都合の良い国民の創生が促され、同時に、努力は裏切らないことを知るべしというメッセージからは、当時の国民にとってまさに必要不可欠なパラダイムが提供されたことになる。翻訳『西国立志編』は、国民の自己肯定感の向上を図るための、うってつけの装置だったと言えよう

(4)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子




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2019年02月24日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に (2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




1.2 明治時代の名(迷)翻訳

英語圏以外の翻訳作品を含めると、明治時代にはそうそうたる面々が並ぶ。明治21年(1888年)には二葉亭四迷によるツルゲーネフの『あひびき』『めぐりあひ』が、明治25年(1892年)には内田魯庵によるドストエフスキーの『罪と罰』(未完)、同時期には森鴎外によるアンデルセンの『即興詩人』も翻訳が始まっている。

また、前後するが、明治23年(1890年)には若松賤子によるバーネットの『小公子』の連載が始まり、これが大人気を博して25年1月まで続く。明治29年には坪内逍遥によるシェイクスピアの『ハムレット』が世に出る。(補足だが、シェイクスピアの翻訳で名高い逍遥が全訳を表舞台に出すのは明治40年代以降となる。)
さらに、「翻訳王」森田思軒、「翻案王」黒岩涙香らジャーナリズム出身の翻訳者が大活躍したのも、明治20年代である。

「翻訳王」森田思軒の主な仕事は、ヴィクトル・ユゴーの『探偵ユーベル』(明治22年)を筆頭として、ジュール・ヴェルヌの『鉄世界』『十五少年』(十五少年漂流記)、エドガー・アラン・ポオの『間一髪』(陥穽と振り子)など、有名どころ満載だ。「郵便報知新聞」に所属しその編集に携わったジャーナリストであると同時に、翻訳の仕事もこなしていたこの思軒について、前述の鴻巣友季子は次のように述べている。

思軒の場合は英文書以外はすべて英語からの重訳だったが、漢文の素養をいかした「漢七欧三」と呼ばれる原文に忠実な訳で、日本の翻訳にひとつの大きな流れをつくった。当時はまだ翻訳といっても、大胆な翻案や乱暴な抄訳が多く、「乱訳・豪傑訳の時代」と称されていたのだけれど、思軒の周密な、現代の翻訳に近い「直訳」は、文字どおり当時の翻訳の文体に大変革をもたらしたのだ。
(鴻巣友季子,『明治大正 翻訳ワンダーランド』p.19)

森田思軒の名は現代人にはあまり知られていないが、我々が翻訳作品を楽しみ理解する、という翻訳文化の基礎をつくったのは、ほかならぬ森田思軒だったということになる。知らないうちに、我々もその恩恵に与っている「翻訳王」なのだ。

一方、「翻案王」と称された黒岩涙香も、『萬朝報』を発行したジャーナリストという素地を持つ。明治25年に名高い『鉄仮面』を翻案して世に出したのち、明治34年には、デュマによる『巌窟王』(『モンテ・クリスト伯』)、明治35年にはユゴーの『噫無情』(『レ・ミゼラブル』)を翻案している。

デュ・フォルチェネ・ボアゴベによる『鉄仮面』(原題は『サン・マール氏の二羽のツグミ』)は、涙香の翻案によって日本で絶大なる人気を博したといっても過言ではない。ボアゴベの原作は「ルイ14世治下のフランスにいた、鉄仮面をかぶせられた謎の囚人」というモチーフを使った歴史小説で、デュマやユゴーにも同じ題材をあつかった作品がある。だが、涙香の『鉄仮面』では原作からかけ離れたストーリーが展開し、そもそも原作には存在しない場面も多くある。そして、原作に存在しなかった場面、展開こそ、明治の読者を捉えて離さない魅力があった。鴻巣友季子は涙香の『鉄仮面』についてこう述べる。

「翻訳者」にとって、筋立てのこうした改竄は必然のものであり、あのハッピーエンドこそが正史だったのだろうか……。

現代の翻訳界ではとうてい考えられない(著作権法からいっても許可されない)荒業だが、この手直しのおかげで、『鉄仮面』がこの国で多くの読者をつかみ、その結果、末永く読みつがれるようになった(百年あまりを経て新訳が出るほどに)のもたしかだろう。 (鴻巣,『翻訳ワンダーランド』,p.57)

読者を楽しませる、エンターテインメントとしての翻案だったことは確かである。また、「当時の新聞は掲載する小説・読み物の人気・不人気で売り上げ部数が激変した」(鴻巣, p.58)ことは現代と大きく事情が異なっている。涙香は『鉄仮面』を自身の発行した『萬朝報』で連載していたが、この連載後、『萬朝報』の売り上げは激増した。

明治時代に登場した、新聞という新しいメディアを得て、涙香は自由自在に活躍した。当時の新聞は、リアルタイムで自身の信条を(形式は変わるが)訴えることのできる媒体だったと言えよう。「荒業」と称される黒岩涙香の仕事だが、大勢の読者に自分の仕事を読んでもらうことで自分の信じるところを知ってもらう、という目的があった。だからこそ、おもしろくなければ読んでもらえない、という立場をとったのだ。

いずれにせよ、「翻訳王」の森田思軒と「翻案王」の黒岩涙香の二人が、それぞれジャーナリストであったことは注目に値する。明治における翻訳、翻案とはすなわち、読者という一般大衆と密接に関わる新しいメディア=新聞を活動の舞台として世に出たと言えるからだ。次章では、まず、明治初期に広く読まれた自己啓発本の翻訳と、この新しいメディア=新聞で、そしてもう一つの新しいメディアである雑誌でそれぞれ翻訳、翻案された作品について分析する。

(3)につづく


文学部 国際英語学科 準教授 小泉 朝子





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