2018年04月09日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





 

(4)労働力の簒奪・400年続いた拉致

1.鉱山技師だった奴隷たち

 16世紀末まで繁栄を誇っていたサブサハラ・アフリカは2度滅びた。400年に及ぶ奴隷狩りで社会と経済が滅び、19世紀後半の植民地化で国が滅びた。古来アフリカにあった奴隷は敗戦国の民や罪人であったが、商家に買われた奴隷は「賢い奴隷は主人の財産を引き継ぐ」とのアフリカの諺にある通り、主人の娘さんの婿になり、また王宮に入った奴隷は近衛部隊を構成したり、王位継承権に発言権を有したりしていた。今日でもモロッコ国王の曾祖母は黒人奴隷であり、そのことはむしろアフリカとの結びつきとして誇りにされている。すなわち、人間を人間として扱わない奴隷はヨーロッパの産物である。

 このような奴隷狩りを始めたのはポルトガル人である。ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを攻略し、イスラム帝国が支配するアフリカ大陸を次第に南下して行き、1444年にはセネガル北部からリスボンに最初の奴隷が連れてこられた。ポルトガルは西アフリカ沿岸の南下を続け、それにつれて本国に送る奴隷は増え続けた。

 現在のアンゴラの首都ルアンダに要塞を築いたポルトガルはここを本格的な奴隷の積出拠点とし、次々とコンゴ王国(今日のアンゴラおよびコンゴ)の人々を拉致していった。ブラジルに向かう大西洋上では鎖に繋がれたまま船倉にびっしりと並べられ、その不潔で過酷な状況で命を落とす人が多かったが、船旅を生き延びた人たちがブラジルに着いてみるとそこには何もなく、食糧生産から始めなければならない状態であった。コンゴ王国からは平民、貴族ひいては王族に至るまで奴隷として連れ去られ、多くのインテリや技能者を含んでいた。彼らがブラジルに到着して気が付いたのは、大地がアフリカと同じ赤土、テラ・ロッサ(赤土)だということで、それならば鉄があるに違いないと考えた。こうして奴隷たちが鉄鉱石を探し出して鉄を打ち、自分たちで農機具を作っていったのである。他方、奴隷の「所有者」であったポルトガル人には、そのような鉱業に関する知識や能力はなかった。

 この奴隷たちの熱帯農業及び鉱業の知識が白人の主人たちよりすぐれているとの実態は、ナイジェリアからガーナにかけての海岸線(「奴隷海岸」)からオランダ人やイギリス人などによって連れ去られたアフリカ人たちについても記録されている。カリブ海や新大陸における過酷な労働で熱帯農業と特に鉱業に秀でた奴隷たちが次々と死んでいく中、新たな奴隷を補給する需要がますます高まり、奴隷の価格は高騰していき、1771年には「黄金海岸」で働いていた英国の奴隷買い付け代理人からロンドンの役員宛に支払いを金(きん)で行わなければ奴隷を入手できないとの報告が記録されている。



2.ヨーロッパの繁栄をもたらした奴隷たち

 いったい何人の人が連れ去られたかについては、正確な記録が一部にしかないため推計によるが、1000万人から1200万人、研究者によっては3000万人との指摘もある。

記録に基づく人数をいくつか例示すれば、
@ルアンダで奴隷の積み込みに携わっていたイエズス会のキリスト教宣教師たちがつけていた正確な記録を見ると、ルアンダからだけでも1468年から1641年の間に138万9千人が新大陸に「船積み」された。

A国王フェリペ1世(スペイン王フェリペ2世がフェリペ1世としてポルトガル王を兼ねていた)への報告によれば、アンゴラからブラジルに1575年から1591年の間に52,023人の奴隷が送られた。

Bポルトガルが抑えていたアンゴラとモザンビークを併せると、1580年から1680年の100年の間に約百万人、すなわち年平均1万人が連れ去られた。

奴隷は、北はセネガル川河口から南は今日のアンゴラの南端におよぶ5000キロにも及ぶ地域、さらに東海岸のモザンビークなどアフリカ各地から集められたので、これらの数字は氷山の一角でしかない 。

 スペインは 、1492年にイベリア半島最後のイスラム王国グラナダを陥落させ、また同年コロンブスがアメリカを「発見」した。こうして、新大陸で鉱山とプランテーションに手を付け始めたが、「インディアン」達は鉱山技術を持たず、スペイン人による過酷な使役によって絶滅寸前に追い込まれた。スペインが「発見」した当時、イスパニョラ島には113万人のインディアンがいたが、1518年には1万1千人以下となったと当時のスペイン人が記述している。その代替労働力として1505年にセビリアの船が新大陸に向けて17人のアフリカ人を鉱山設備と共に船積みした。1510年には王室がアフリカ人のアメリカ行きを公認、その6年後にはスペイン領のカリブ海諸島で奴隷が栽培した砂糖の最初の出荷がスペインに届いた。さらに2年後の1518年には、アフリカのギニア湾からスペイン領アメリカに向けて、アフリカ人奴隷を積んだスペイン船が直航するようになった。
 
 ポルトガルに始まり、スペイン、オランダ、デンマークなどに続いて海洋進出して帝国を築いたイギリスは、奴隷貿易で大いに繁栄することとなった。特に奴隷貿易の拠点港となったリヴァプールとブリストルは一気に富を蓄積していった。例えば、リヴァプール港では1783年から1793年の11年間で約900回の奴隷船の航海がおこなわれて30万人以上の奴隷を運搬、その価格は1500万ポンドに上り、そのうち純益は1200万ポンド以上、すなわち毎年100万ポンド以上の儲けをもたらした。

 ブリストルについて1881年に歴史家J.F.Nichollsは次のように記述した。
「ブリストルには奴隷の血で固められていない煉瓦は一つもない。豪華な館や贅沢な生活は、ブリストルの商人が売買した奴隷の苦しみとうめき声で出来ている。」  歴史上の偉人もその元をたどれば奴隷で富を蓄積した例もある。例えば英国史上有名な首相となったグラッドストンの父親ジョン・グラッドストンは奴隷船と奴隷のプランテーションで富を築いた。また、英領北米植民地の反乱の首謀者(イギリスの見方)ないしアメリカ建国の英雄(アメリカの見方)であるジョージ・ワシントンは500人の奴隷の所有者であった。



3.奴隷貿易の泥沼化とヨーロッパ人による正当化

 では、なぜアフリカからかくも大勢の人たちが奴隷として拉致され続けたのか。それは奴隷を鉄砲の代金としてヨーロッパ人が要求したことによる。当初、ポルトガル商人たちは、コンゴ王国内の部族長などに下剋上をささやきつつ鉄砲を欲しければ奴隷で支払えと強要した。ある村ないし部族がこのような方法で鉄砲を入手するということは、近隣の村ないし部族にとっては自分たちが襲われて奴隷に売られるという大きなリスクを意味する。そのため後者も鉄砲と火薬を入手しようとしてポルトガル人商人に接触する。ポルトガル商人は金や象牙では鉄砲を売らずに、ブラジルの開拓やプランテーションに必要な奴隷を持って来させる。この悪循環はその後アフリカに進出していったオランダ、イギリス、デンマーク、ブランデンブルグ(プロイセン)ほかのヨーロッパ諸国にも引き継がれていき、売り手と買い手双方の事情から、アフリカ人による近隣の王国からの奴隷の拉致とヨーロッパ人による奴隷を対価とする銃の売り込みは一つのシステムとして確立し、その悪循環の上に400年にわたって奴隷貿易が続いていった。

 こうして4世紀にわたる奴隷狩りと奴隷貿易で大西洋の対岸にたどり着いたアフリカ人は1000万人ないし1200万人に上ると推計されているが、住んでいた村から拉致されてから海岸線のヨーロッパの侵略拠点で船に積み込まれるまで、さらに大西洋の航海中に死亡したアフリカ人は何百万人にも上った 。

 航海の途中に死亡したアフリカ人たちはそのまま海に捨てられたが、「積み荷」が劣化する、すなわちカリブやアメリカにつく時点で奴隷が病気になっていると売りさばけないために、病気になると生きたまま海に捨てられた例もある。「奴隷」の法的位置づけについて、例えば1781年のゾング号(ZONG)事件として知られる裁判において次の実例がある。「人間」を海に捨てたのかどうかについて、裁判長のマンスフィールド卿は、「奴隷たちの案件は、馬が船外に放り込まれた案件と同じである。」と宣言した。また、同裁判の荷主側弁護人は、「人間が船から放り投げられたとの話はいったい何だ?これはモノ(goods)の案件である。これはモノの投棄の案件である。彼らはモノであり財産である。」

 ヨーロッパ人は、奴隷は人間ではなく動産であるとの法的位置づけを行い、そのため売買も自由、なればこそ奴隷商人たちは自分の持ち物であることを示すために家畜にするのと同様、赤く熱した鉄ごてを奴隷に押し付けて烙印をつけた。また、多くの奴隷市では最も残酷なことに意を用いた。すなわち、同じ部族、同じ家族を一緒に買わないようにしたのであった。それは奴隷たちが相互にコミュニケーションをして反乱などを目論まないようにするためであり、結果としてきちんと学ぶ機会もないまま所有者の言語を見よう見まねで話さざるを得なくなった。ヨーロッパ人たちは拉致したアフリカ人から人間が人間たるゆえんである言語を奪ったばかりか、所有者の言語をきちんと話せないことをもってさらに見下したのである。



4.奴隷貿易とはアフリカからの労働力の喪失だった

 アフリカ側から見ると、本来彼らの祖国における労働力として農業、金、銅などの採掘、あるいは交易などの経済活動を担うべき健康かつ屈強な若者たちが、少なくとも1000万人、推計によっては3000万人 、すっぽり抜け落ちたことを意味する。すなわち、セネガルからアンゴラに至る沿岸地方の奴隷を狩られた地域においては、労働力がなくなってしまったがゆえに経済活動が停滞してしまった。体に例えれば、いつまでも出血が止まらない状態が四百年続いたからである。これこそがアフリカにおける奴隷狩りの最大の経済的インパクトである。

 イギリスに巨大な富をもたらした三角貿易を担った貿易船の例を見ると、その三辺のいずれにおいても積み荷は満杯であった。ロンドン、ブリストルないしリヴァプールを出港する時には銃、火薬、繊維製品、ビーズ、ろうそく、砂糖、タバコ、酒などの商品を満載してアフリカに向かい、アフリカで奴隷と交換する。アフリカからカリブ海向けの航海は奴隷で満杯となり、ジャマイカなどで砂糖、香料、ラム酒、タバコ、コーヒーなどと交換される。カリブからイギリスへの帰路はこれらの商品を満載し、イギリスで売りさばく。

 こうして確立していったイギリスーアフリカーカリブ・アメリカの三角貿易システムは、アフリカの産業にも負のインパクトを与えていくこととなった。すなわち、イギリスで産業革命が起きると、イギリスからアフリカ向けの積み荷は機械生産による綿布や金属製品となり、これが現地製の綿製品や古来の日用の鉄製品を駆逐していった。かつて16世紀には、ポルトガルが西アフリカ産の綿布をヨーロッパに輸出していたが、三角貿易の中で流れが逆転した。こうして奴隷貿易ネットワークに組み込まれたアフリカ沿岸諸王国における家内繊維産業が近代産業に転化する芽を摘んでいった 。

元来、アフリカの繊維産業は決して侮るべきものではない。例えば、内陸に位置していたことが幸いして三角貿易の埒外にあったカノ(現北部ナイジェリアの町)は中世以来綿製品と藍染めで有名であり、19世紀半ばにカノに滞在したドイツ人ハインリッヒ・バルト は、カノにはセネガルからチャド湖に至る西スーダン地方の綿製品需要を賄うに十分な綿産業と呼べる水準に達している家内産業の隆盛があったと記録している 。しかしこれも砲撃による植民地化で衰退の道をたどった。



5.なぜ奴隷制の禁止ではなく奴隷貿易の禁止だったのか

 15世紀にアフリカからの奴隷狩りが始まってから4世紀後の後、1807年にイギリスで奴隷貿易が廃止され、1833年にイギリス本国と大英帝国領内での奴隷制が議会によって廃止された。なぜ奴隷貿易が廃止されてから奴隷制の廃止までさらに26年、言わば一世代を要したのか。逆に言えば、なぜ奴隷制ではなく、奴隷貿易を廃止したのか。

 それは、奴隷貿易が成立しなくなったからである。その一つの理由は、ジャマイカの砂糖産業がキューバやアメリカの大プランテーションの前に競争力を失い、キングストンの奴隷市で奴隷を買う人がいなくなっていった。すなわちアフリカから奴隷をキングストンに運ぶ経済的メリットが消滅したのである。二つ目の理由は、産業革命によってイギリスの経済構造が大きく変わり、富の源泉が植民地の大プランテーションから国内の製造業依存に移行していったからである。労働集約性が極めて高い大規模プランテーションに富を依存している限り、その労働力を大量かつ不断に供給する必要があった。すなわち、過酷な労働条件のもと奴隷が次々と死ぬのでアフリカから大勢の人を拉致し続ける必要があったが、国内の製造業に富の源泉が移ったことによって、労働力確保の関心はアフリカからの奴隷ではなく、エンクロージャーで農村を追われて都会に流れ込んだイギリス人労働者達に向いたのである。

(出典:石川薫、小浜裕久著、「『未解』のアフリカ」、勁草書房、より抜粋)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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2018年03月03日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






3.「普通の」大陸だったアフリカ

(1)「普通の」大陸だったアフリカ

 アフリカの王国がヨーロッパに大使館を開設し、国王は自由にポルトガル語を話して書簡を書き、上流階級の子弟はヨーロッパに留学し、カトリックの司祭にも叙せられた。これはおとぎ話ではなく、16世紀のコンゴ王国のことである。

 英国が支援した明治維新以降ヨーロッパ史観で教育された私達が忘れがちな非欧米世界の歴史。アフリカで人類が生まれたことは知っていても、ヨーロッパ人が自分の発明だと言っている多くの概念、例えば正義を量る天秤(今日あまねく裁判所のロゴとなっている)、死後の審判と復活などが6000年以上前から文明を誇ったエジプト人が考えだしたとは知らない人が多い。エジプトの学問では、厳格な租税制度と検地のために発達した幾何学(6000年前の数学の教科書がパピルスに記されて現存する。当時の円の面積計算を当てはめると円周率はおおむね3.15となり、「ゆとり教育」で日本が教えたとされる3よりはるかに正確)、解剖や外科手術など枚挙に暇がない。

 キリスト教はヨーロッパの宗教だと思い込んでいる向きも多いが、それは使徒ペトロの建てたヴァチカン史観によるもの。世界で最初にキリスト教を国教にしたのは3世紀のアルメニアであり、次はエチオピアに系譜をつなげるアクスム王国。イスラムは非寛容というヨーロッパ人の主張に反して、イスラム世界では魔女狩りも異端裁判も火あぶりもなかったし、イスラム支配下のイベリア半島ではキリスト教徒もユダヤ教徒も2級市民ではなかった。「異教徒」を追い払ったキリスト教のイザベラ女王とは大違いである。イスラムが支配した北アフリカでは、紀元60年に使徒マルコが建てたアレキサンドリア大聖堂が現在までエジプト正教会の法王を抱いて続き、今でもエジプト人のキリスト教徒は800万人いる。古来エチオピア教会はアレキサンドリア大聖堂の末寺の位置づけであり、主教はアレキサンドリアから派遣されてきた。エジプトを支配していた歴代イスラム王朝がそれを許していたからである。

 東部アフリカでは、英国人をして「アフリカのバーミンガム」を言わしめた製鉄が盛んだったクシュ王国、あるいはインド洋貿易で栄えていたキルワ通商王国。西アフリカではヨーロッパ人の誇るフランク王国より古いガーナ王国が知られ、またマンサ・ムーサ王の黄金の巡礼で14世紀にはヨーロッパにまでその名をとどろかせたマリ帝国、首都のガオには蜜が流れるとまで言われたソンガイ帝国、そしてマリやソンガイの治世下で知の殿堂となったトゥンブクトゥーなどの大学。学者・学生の数は後のフランスのソルボンヌ大学よりも多かった。

 アフリカはヨーロッパの暴虐に屈するまで、ほかの大陸と同じように時間が流れ、文化を謳歌し、経済活動も行っていた。アフリカに栄えた王国のすべてを書くことは紙面の関係でかなわないが、主な王国の地図をお示しする。



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(地図はMichigan State University ホームページより)



 ユダヤ人の地図師によるカタロニア図 (1375年)に描かれたサハラ砂漠の向こうに広がる黄金の帝国(地図の下部に金の王冠を被り、金の笏を持ち、金塊を手に掲げる王が描かれている。)マリ最盛期の王、マンサ・カンカン・ムーサ1世(在位推定1307-1332)である。1324年のメッカ巡礼の往路滞在したカイロで、王の一行はマムルーク帝国側の受け入れ関係者にあまねく金(きん)を贈り、また金で大量の買い物をしたため、当時の世界で最も繁栄していた都市の一つであったカイロの金の相場が急落してしまい、そののち十数年たっても相場は回復しなかった。



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(2)権力基盤、富、知

 字数の都合でアフリカの王国全てを記述できないが、権力、富、そして知の観点から、ガーナ王国とマリ帝国に触れてみたい。
 
 (イ)ガーナ王国(8世紀―13世紀)
 ガーナは、ニジェール川上流と西のセネガル川にはさまれた地域一帯に栄え、アラブ人は紀元8世紀に「金の土地」として知ったが、伝承によればさらに古い起源を示唆しており、紀元前300年ころに鉄器の使用が開始されたとの推測もある。都であったとされるクンビサレーの遺跡からは鉄製品が出土している。王たちが住んでいた城砦街区と、そこから10キロばかり離れたところにつくられた北から来たイスラムの商人たちが住む街区の二つからなり、王宮では貴族はもとより、金の装飾が施された剣や楯を持つ侍従、金の優雅な飾りをつけた馬や番犬が王を囲んでいた。イスラム商人地区には12のモスクがあり、イスラムの聖職者やイスラム法学者たちも住んでいた。(エル・ベクリ著‘Kitab al-Masalik wa al-Mamalik’,1068年)
 ガーナ王国は、サハラ北部の塩の集散地タガザを抑え、南方の森の民が掘り出す金を独占的に購入した。これが「北から南への塩」と「南から北への金」というサハラの交易の基本パターンとなった。ガーナ王国は金の相場の維持にも配意して、金塊はすべて王のものとして供給量をコントロールしたが、金屑は国民の自由にさせた。ここにアフリカにおける富の集中と再分配のひとつの形がみられる。すなわち、王は富を蓄積するが、王は富を配分する役割も担っており、この配分をうまく行うことが王の権力の一つの基盤になっていた。 
 ガーナ王国の繁栄は政治権力の確立、通商とそれを支える行政機能と軍事力、例えば金の北への通商を独占できる力、通商路の安全を確保できる力、関税制度を作りそして関税を徴収できる組織と力、正確な度量衡、相場の維持への工夫などによると考えられる。

 (ロ)マリ帝国(13世紀―16世紀)
 ガーナ衰退後混乱していた西スーダン地方を統一して栄えたのがマリ帝国である。建国の王、マンディンゴ族のスンディアタは、ニジェール川上流サンカラニ川沿いのニアニを首都と定めた。ニアニは脅威となりうるサハラ砂漠の遊牧民がいる地域から遠く、山に囲まれて守りやすく、サンカラニ川は季節にかかわらず航行可能、さらに金・コーラの実・パーム油が豊かな南の森林地帯に接し、また交易に携わる商人が綿布や銅を売りに来る場所でもあった 。ニアニで足場を固めたマリはその後ニジェール川中流域にかけて急速に支配を広げていった。

 なぜニジェール川の中流域を中心としてマリやソンガイなどの帝国が成立したのだろうか。

 マリ帝国は当初から金による帝国だったと考えられがちだが、そもそもの国の起りは全長4200キロのニジェール川の恵みにあった。中流で大きく湾曲して豊かな土壌を堆積して農業と漁業を育み、水路として交通を盛んにさせ、軍事力としての水軍も生んだ。その上で、金や銅などの通商によってますます栄えたが、富は行政基盤を固め、そして文化を生む。

 イブン・バトゥータの紀行記によれば、マリでは不正は数少なく、国内は全般的に完璧に安全である。旅人も住民も、強盗、泥棒、横領をまったく恐れる必要がない。北アフリカの貿易商などが客死した場合には莫大な財産を保有している場合ですらマリ人はその財産を没収せず、当該財産が正統に属すべき人が現れるまでの間、北アフリカ人たちの中で信頼されている者にその財産を預ける、黒人たちは(イスラムの)祈りを正しく唱え、金曜日のモスクは早く行かないと祈る場所がないほど大勢の人が祈りに行く、金曜日には清潔な白い衣服を身にまとい、一張羅しか持っていない人は仮にそれが擦り切れたものでも必ず洗濯をして祈りの場に行く。

 他の大陸においてそうであったように、サブサハラ・アフリカでも豊かさは文化を生み、そして学問を生んだ。砂漠を超える隊商ルートはマリに来訪するイスラム学者やマリからメッカへの巡礼者も多く通る道であり、これがマリの「知」を支える重要な要素であった。サハラ砂漠の隊商が行う交易の中で最も量が多く利鞘が大きかったのはカイロやグラナダから輸入されるイスラム関連の書籍であった。地元出身の学者を輩出し、彼らはアラビア語のみならずアラビア文字起源の表音文字アジャニ文字で自分たちの言葉を記述していたのである。


(4)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)


文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫







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2018年02月08日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.アフリカという大陸



(1)アフリカは大きい

 【地図が生む錯覚と偏見】

 飛行機でロンドンから南アフリカ最南端のケープタウンに飛ぶと11時間40分かかる。これは英国航空が営業で使っている時間であるが、実はその英国航空はロンドンと東京も11時間40分で結んでいる。
 私たちが見慣れている世界地図はおおかたメルカトール図法に端を発するミラー図法であるから、アフリカ大陸は随分と小さく描かれている。これは地球が球であることを忘れさせてしまう2次元の図法であって、世界中の人々の世界観はここから歪みが始まるといっても過言ではない。しかし、2次元に「つぶした」球で世界情勢を見るのは不適切である。




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 多くの教室や事務所でこのような地図を見慣れていると思うが、ひとつの点にすぎない北極や南極がこの地図の右から左までの長さに引き伸ばされていることの意味、また球状にカーブしている南北の線を直線で表している結果何が起きているかを考えていただきたい。

 この地図から、ロンドン・ケープタウン間とロンドン・東京間が同じ距離に見えるだろうか。地球は丸い球であって2次元ではないことを、アフリカを考える時にはまず念頭に置いていただきたい。
 この地図からは信じられないかもしれないが、アフリカ大陸の面積は3037万㎢、南北は8000キロ、東西は7400キロである。そのアフリカ大陸に今日54の国がある。
 NASAによる宇宙から見た地球の写真を見るとこのことをより実感できるのではないだろうかる。




アフリカ2−2.jpg






(2)多民族・多言語国家とアフリカの多様性

 【広い国土とたくさんの民族、たくさんの言語】

 この大陸の中央部、赤道直下に広がるコンゴ民主共和国。2次元の地図で見るとせいぜいフランスとスペインを足した程度にしか見えないが、実は国を横断する距離はおおむねスペインのマドリッドから東欧のポーランドのワルシャワまでの距離に匹敵する。そのような広い地域に国土が広がっているので、そこに住む民族もさまざまである。言い換えれば、一つの国だと言うのに言葉は200以上あり、絞り込んだグループ別でも、キコンゴ語、リンガラ語、チルバ語、スワヒリ語があり、公式言語はフランス語である。公式言語ないし「公用語」。日本で、私たちの母語以外の言葉、例えばロシア語が「公用語」だと言われたら、何のことかさっぱりわからないと思うが、アフリカではそれが殆どの国で起きていることである。

 しばしばヨーロッパの開発論者や政治家、マスコミはアフリカの国家の一体性をめぐり、なぜアフリカ人は自分の国の「国家の一体性」を保てないのだ、とか、内戦をやめて民主主義を早く導入すればよい、とかコメントする。あえてこのようなヨーロッパ人の指摘に対して皮肉を述べれば、コンゴと大差ない面積に広がるヨーロッパは「1000年の間30年ごとに殺しあってきた」ではないか、マーストリヒト条約(1992年)でヨーロッパの一体性にたどり着いたのはその後だったではないか、と言いたくもなる。なお、この「ヨーロッパは1000年の間30年ごとに殺しあってきた」とは、1992年5月2日ヘルムート・コール・ドイツ首相がボンの首相府において訪独中の宮澤喜一総理(当時)に述べた言葉であり、筆者はその訪独に同行していた。

 そもそも、アフリカにおける国家の一体性を根底からひっくり返したのはヨーロッパの侵略とアフリカの分割である。ヨーロッパ人たちはアフリカの王国の国境、言語分布、歴史に一顧だにすることなくヨーロッパ人だけで談合して自分たちの勢力圏を決めたのであった(1884‐85年のベルリン会議)。


 【アフリカの多様性】

 他方、これだけ広い大陸であるから、アフリカは多様である。「アジア」とヨーロッパ人が名付けた地域には日本もインドもイランも含まれている。サッカーの「ドーハの悲劇」がなぜ起きたかといえば、ドーハがあるカタールも日本もアジアに分類されているからであるが、カタールやサウジアラビアやイランがアジアだと聞いて正直なところきわめて不思議な気がしないだろうか。

 「アフリカは一つ」という考えは政治的には「汎アフリカ主義」が背景にあるが、しかし、実際は同じ「アジア」に属する日本とイランがとても異なっているように、アフリカにはとても異なる国が存在している

 そもそも、「アジア」とか「アフリカ」という呼び名は西洋の歴史の中で生まれてきたものであった。近世以降における展開を考えると、世界を制覇した大英帝国で地理学が発展したこととも関係がある。ロンドン近郊にグリニッジという場所があってその町に古い天文台がある。天文台の横には帆船カティー・サーク号が停泊していて大英帝国全盛の時代を想起させるが、そのような時代に世界の時間の基準をグリニッジ標準時と定め、また世界の地点を規定する方法として東西に走る線を緯度、南北に走る線を経度と定め、そして世界の中心としてグリニッジ天文台を通過する北極から南極までの直線を0度とした。その上で、球状の地球を360度で規定し、グリニッジ天文台から東を東経、西を西経と定めた。その結果、日本の標準時の明石市は東経135度に存在し、グリニッジから東回りでも西回りでもちょうど180度になる太平洋の真ん中が東経180度かつ西経180度となり、そこで日付が変わるのである。日本が「極東―Far East」にあると言われるのも同じ理由による。読者の皆さんが周知の事実をくどく書いた理由はここにある。すなわち、歴史のみならず、地理もある時点の勝者が書き、そのような観点からの判断が後世も続くということの典型例だからである。


(3)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫





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2018年01月18日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1.文化と野蛮


(1)文化とは何か

 日本にもファンが多い画家モジリアーニ。彼の書いた人物像は首が長く、顔がラグビーボールのようで、鼻が長く、瞼は一重。実はこれはアフリカでしばしばみられる木彫りの人物像の様式である。モジリアーニの芸術がアフリカ芸術の影響を強く受けていることは今日よく知られるところとなっており、フランスではモジリアーニとアフリカ芸術というテーマで展覧会が開催されたりする 。


石川1−1.jpg 石川1−2.jpg

         
(左図)Amedeo Modigliani: Jeanne Hébuterne, 1919
http://www.artcyclopedia.com/artists/modigliani_amedeo.html
(右図)Art africain le masque africain Baoule
http://www.masque-africain.com/masque-africain/masque-baoule/masque-africain.jpg



 
 おそらく日本の西洋芸術のファンにとってより驚きが大きいと思われるのは、ピカソの作品である。ピカソはアフリカ芸術をテーマに集うグループに入っていたが、例えば「アヴィニョンの乙女たち」に描かれている少女たちの中にはアフリカの女性も描かれており、その描き方はアフリカのお面を模したとみられている。



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(左図:中央図の一部)Demoiselles d’Avignon http://geotourweb.com/nouvel229.jpg
(右図)Le masque MBANGU chez les Pende  http://detoursdesmondes.typepad.com/dtours_des_mondes/page/41/  
  (ただし、右のマスクから直接左の絵になったわけではない。)




 ピカソやモジリアーニといった一流の芸術家がアフリカ芸術に魅せられた事実は何を意味しているのだろうか。
 モジリアーニは貧困の中に亡くなり、ピカソは存命中に名声を博したが、二人の天才は美を探究していく中で、美を描きだす方法としてアフリカの美の表現法に出遭った、少なくとも、アフリカの美の表現法に「も」出遭ったと考えても良いのではないだろうか。そう考えるためには、美は大陸や文化を越えて人間の感性に訴える共通性を有していると認識することも大切なのではないだろうか。そして、そのような認識を持ちうるためには先入観というものを排除する必要がある。なぜなら先入観こそはその人が生まれ育った文化や環境の中で生まれるものだからであり、それ以外のものを排斥する排他性を備えているからである。

 アフリカの芸術には、それを生まれて初めて見る部外者にもストレートに美の感動を与えるものと、なかなかその美を理解しにくいものの双方がある。例えば伝統的宗教行事に使われたであろういくつかのお面は率直に言って部外者にはなじみにくい。
 そこで何枚かの写真をお見せしたい。初めはアフリカの伝統的な宗教行事から発したお面と、お面をかぶった人々の行進である。いかにもおどろおどろしいと感じるかもしれない。



石川1−6.jpg 石川1−7.jpg


      




 では、次の写真はどうだろうか。これは日本の秋田県男鹿半島に伝わる国の重要民俗無形文化財、なまはげの写真である。


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 http://www.namahage.co.jp/namahagekan/exhibit.php (なまはげ館、男鹿真山伝承館ホームページより)




 このような写真を見て、こういったものはアフリカや日本のある特定の地方の郷土伝統に過ぎない、と考えるべきだろうか。
 ところが、実はヨーロッパにも似たようなお面がある。ドイツ南部のバイエルン地方やオーストリア、ハンガリーなどに伝わる風習で、おどろおどろしいお面をかぶってモノがクリスマスの聖人セント・ニコラスとともにクリスマスの街を歩いている。ドイツ観光局のホームページは「屋台の並ぶ小路では、クランプス (西洋版なまはげ) を従えた、教父の聖ニコラウスに出くわすかもしれません。これらは、500年来のアルプス地方の風習を、今に伝える存在です。」と広報している。http://www.germany.travel/jp/specials/christmas/christmas-market-in-munich.html



石川1−10.jpg






石川1−11.jpg






(2)野蛮とは何か

 若い読者の皆さんは女優のオードリー・ヘップバーンをご存じだろうか。若い方はご両親やお祖父様、お祖母様に伺えばおそらくファンだとおっしゃる方が多いのではないだろうか。「ローマの休日」や「マイフェアレディ」、「戦争と平和」などが有名だが、晩年ユニセフその他の活動を応援して、アフリカなどの恵まれない子供たちのためにも大きな貢献をした方である。

 日本ユニセフ協会のホームページから引用させていただく:
(日本ユニセフ協会ホームページ:「オードリー・ヘップバーンは、1989年にユニセフ親善大使に就任しました。亡くなるまでの4年間、当時最悪の食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、子どもたちの声なき声を代弁し続けました。」http://www.unicef.or.jp/special/ 

 筆者もオードリー・ヘップバーンのファンとして彼女が主演した映画は随分見たが、その中で1本だけどうしても好きになれなかったものがあった。それは「尼僧物語」、戦前ベルギーの良家のお嬢さんが出家して修道院に入りベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)の病院などで働きながら現地の人の医療にかかわる、そうした中第2次大戦が始まりドイツのベルギー攻撃によって父親が殺される、映画の主題は信仰と愛と憎しみとは何かなど非常に深いものがあると思う。ただ、そこでコンゴ人はいかにも「未開で野蛮な人」という扱いで描かれていた。

 実はコンゴは1904年までベルギー王レオポルド2世の私領であって、ベルギー国の植民地ではなかった。英国ではSirに叙せられて英雄視されている一発屋のスタンレーが宣教師兼探検家のリヴィングストンを探し当てたと自己宣伝して英国に凱旋した後、再度中部アフリカに戻り、今日のルワンダ、ブルンディ、ウガンダを経て大河コンゴ河を下りきり、自分を王であると宣言した。誰に断って王となったかは誰も問わなかった摩訶不思議な話だが、スタンレーはヨーロッパに戻ってコンゴを英国王室に「売り渡そう」としたが英国王室はこれを断ったため、ベルギー王に話を持っていったところレオポルド2世が飛びついて購入した。すなわち、コンゴ人の知らないところで勝手に王となった男が、コンゴを新興国ベルギーのレオポルド2世国王に売り払い、国王は広大なアフリカの土地を私領としたのである。これに怒ったポルトガルがコンゴは自分のものだと文句を言い、それを見たビスマルクが調停をすれば新興国ドイツ帝国の存在感を示す絶好の機会となると考えて開いたのが1884−85年のベルリン会議であった。そのアフリカ分割会議でまんまとコンゴを自分のものとしたレオポルド2世。念のため再度述べるが、コンゴは国王の私領(「コンゴ自由国」と言う名前の下で)とされたのであってベルギー王国の植民地になったのではない。何から何まで当事者を完全に無視した身勝手な話であるが、ヨーロッパ人はこれを不思議とは思わない。

 さて、スタンレーはコンゴの天然ゴムに目をつけて生産を強制したため、コンゴは世界有数の天然ゴムの産地となった。ところが、現地のベルギー人達は村々にゴム生産のノルマを課し、やがてそれが異様な忠誠心競争へと展開していった。ノルマを果たせなかった村の男たちの手首を切り落とし、それを袋詰めにしてベルギーに送り始めたのである。やがてこのことに気づいた英国の副領事が本国に報告し、国際的な批判・非難が起きた結果1904年にベルギー国政府がコンゴを引き取ったのである。

 野蛮とは何であろうか。

 そのコンゴに鉄道が建設された記念碑を訪れたことがあるが、その記念碑には、「この鉄道がコンゴを文明に開いた」との記載があった。しかしコンゴには昔から文明がなかったのだろうか。あるいは何らかの原因で繁栄が衰退し、歴史が中断したのだろうか。今から500年前のコンゴ王国は貴族の子弟たちをローマやリスボンに対等な立場で留学させていたし、大使館も置いていたことを多くの人は知らないか、あるいは忘れてしまっている。

 1992年、ヨーロッパでEU統合の集大成としてマーストリヒト条約が結ばれた。ヨーロッパが統合を目指していた1988年、ベルギーのブリュージュでマーガレット・サッチャー英国首相はヨーロッパを自画自賛して、’We civilized the world’(我々ヨーロッパは世界を文明化した)と演説した。本当にそうだろうか。歴史をたどればヨーロッパのルネサンスはイスラムから来た文化のおかげであり、ヨーロッパが誇るゴチック建築も、化学も数学も、エジプトやイスラムから学んだものである。スペインがイスラムだったころ、ヨーロッパの学生はグラナダに留学して学んだし、科学で言えば例えばナトリウムの語源はエジプトのエル・ナトゥルーン湖から来ている。その湖の塩で古代エジプト人はミイラを作っていた。砂糖のsugarもアラビア語のスックルから来ている。フランスのパティスリー(お菓子)を多くの方は好きだと思うが、フランスでは本来甘いお菓子のことをla vienoiserieといった。オーストリアの首都ウィーン(Vienne)のもの、という意味である。日本で言えば「京もの」とか「おさがり」と言ったところであろうか。それはオスマン・トルコがウィーン包囲の後攻略をあきらめて引き揚げた時に(1529年第1次包囲、1532年第2次包囲、1533年ハンガリーについてオスマン・トルコの優位をオーストリアに認めさせて和睦)甘いお菓子や砂糖、そしてコーヒーを大量に放置し、そこからウィーンで菓子製造(およびコーヒー嗜好)が始まったことに由来する。

 文化や文明は相身互い、一方が歴史のすべての期間を通じて他方よりすぐれているということはない。サブサハラ・アフリカ由来のものでは例えばイソップ物語のたぐいの民話はガボンなど多くのアフリカ各地に存在する。アフリカの生きる知恵であるが、例えばフランスではそれをJean de la Fontaine(1621-95)による寓話(Fables)として扱っている。フランス語で紹介し世界に知らしめた功績は大きいと思うが、もともとはフランス人の生きる知恵ではなくてアフリカ人の生きる知恵であった。



(その2)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)



文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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2017年12月21日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(5)

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5.皇帝退位後のキーラーヴォッヘの変容


 皇帝の、そしてヨーロッパの上流階級にとってのキーラーヴォッヘは、しだいに戦時色が濃くなっていく過程で、軍港キールとドイツ帝国海軍の軍備を誇示する目的での開催へと変容していく。しかし、これは長くは続かなかった。第1次世界大戦の終結と皇帝の退位によって状況は大きく変化する。大戦によって失われたものは、皇帝というヨット競技の支援者・キール軍港・軍需産業・造船業・艦隊・帆船そしてヨット連合のメンバーの命であった。また、ヴェルサイユ条約による軍縮ゆえに、戦艦の建造と取得は禁止されていた。

 1919年のキーラーヴォッヘの終了後に今後の開催内容について、ヨットマン・ヨット競技以外のスポーツ連合・キール市の間で話し合いが行われた。しかし、斬新かつ普遍的な催し物を創設することは不可能であった。そこでキール市は1920年から新たな道を模索する努力を開始した。

 とはいっても、一般市民は皇帝の時代からただのエキストラであり、本来、社会的な娯楽など存在しない階級であった。特に労働者階級に至っては、ヨットスポーツを思想的に拒否していた。そもそもドイツのヨットの伝統は、皇帝に帰する政治的なものとの認識が一般的であった。そこで結論としては、芸術・文化・スポーツのヘルプストヴォッヘに転換することを決定した。秋の○○週間という、どこにでも見られる催し物である。

 この盛り上がりを欠く状況を大きく転換させたのは、1924年にキール港に入港した、祭典用に装飾されたバルト海艦隊であった。これを見た市民にかつてのキーラーヴォッヘの景観がよみがえったのではないかともいわれている。つまり市民の間で、軍港とヨット競技の結合を歓迎するムードが高まっていった。そしてこれが正式にキール市議会で決定されたのが、1927年のことであった。戦前に回帰して、競技と社交的な催し物のコラボでいくという方針を軍港都市キールは選択したのである。

 ところで、現在でもこの思想は変わっていない。300万人の観客を楽しませる世界的な海の祭典として、100隻の帆船によるパレードとヨットレース、そして老若男女を楽しませるための催し物を満載して、毎年6月に開催される。




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レンツブルクの鉄道橋から北海・バルト海運河を望む
(ヨットもここを航行してキーラーヴォッヘに向かった)




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キーラーヴォッヘの会場となるキール峡湾
(左手奥に軍港があり、手前は大型フェリーの埠頭)



おわりに

 海には疎いと言われていたホーエンツォレルン家であるが、2つの軍港の発展のみならず、軍港が立地する都市の発展にも寄与したことが明らかにされたと思う。
海・船そして船旅を愛したアーダルベルト・フォン・プロイセンの軍港適地を選択する観察眼の鋭さや自分の名前を港ならびに都市の名称として与えたヴィルヘルム1世が綴りの間違いに対し極めて寛大な処置を行ったことは、今でもヴィルヘルムスハーフェン市民の誇りである。港湾適地は軍港に限らず、21世紀においても、ドイツで唯一の大水深港湾の建設地として選定されることになった。

キーラーヴォッヘは軍港でのヨットレースに端を発するが、ヴィルヘルム2世の家族を伴っての参加が、ヨーロッパの上流階級の老若男女をキールに集結させることになった。海のスポーツの祭典は、競技と社交的な催し物を結合させた世界的な海の祭典へと発展し、現在でもキールを最も特徴づけるものとなっている。


参考文献

1.Brune-Mettcker Druck-und Verlaggesellschaft mbH, Wilhelmshaven,
2003, pp.152
2.Feldhahn,U. Die preußischen Könige und deutschen Kaiser, Kunstverlag, 2014, pp.40
3.Hofbauer,K. Das Preußische Königshaus, Börde-Verlag, 2016, pp.47
4.Kaack,U. und Kliem,E. Wilhelmshaven Gestern und Heute, Sutton Verlag, 2015, pp.119




文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年11月30日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(2)〜(4)

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2.軍港ヴィルヘルムスハーフェンと大水深港湾ヤーデヴェーザーポート

 前述したように、アーダルベルト王子の軍港建設地の選定は、彼の体験によって培われた観察眼に負うところが大きい。彼はヤーデ湾の一画を高く評価し、そこには現在でも軍港が立地している。そして2001年ドイツ連邦共和国は、ドイツ初の大水深港湾建設予定地を選定することになった。今回はコンピュータを用いて、自然条件ならびに人文・社会条件に関するデータを総合的に分析した結果、ヤーデ湾の一画、アーダルベルト王子の選定と同じ場所が選ばれた。

ドイツの港は基本的に河川港であり、ドイツ最大の貿易港ハンブルクもエルベ川の河川港で、北海まで110kmのところに位置している。1990年代に入ると、船の大型化が予想をはるかに超える速度で進み、河川港では水深18mを確保することは困難になった。そのためには、沿海岸港を開発する必要があった。
2016年にドイツ初の大水深港湾ヤーデヴェーザーポートが全面的に供用を開始した。その結果、ヴィルヘルムスハーフェン市には、軍港と最新鋭のコンテナ港が並存することになった。



3.軍港都市キールと海の祭典キーラーヴォッヘ

 1865年プロイセン王国ヴィルヘルム1世の時代に、現在ではポーランド領になっているが、ダンツィヒから海軍の駐屯地がキールに移転してきた。1871年には、キールはドイツ帝国の軍港となった。第2次世界大戦が終了すると、1955年からはNATO軍の軍港として機能するようになったが、1990~2010年にかけて軍縮により平和のための出動へと役割が変化していく。2015年には、海軍関係者は3,800人で、そのうち海軍の兵士は1,650人であった。これが、軍港都市キールの成立と変容についての概要である。

 ところで、軍港キールにどうして海の祭典キーラーヴォッヘKieler Wocheが誕生したのだろうか。この祭りは北ヨーロッパ最大の規模を誇り、海の祭典としては世界的なものである。2016年には、6月18日から26日まで開催され、訪問者は約300万人、ヨットマンは4,000人を超えた。
きっかけは、キール峡湾で海軍のヨットマンが仲間内で楽しんでいたレースであった。1881年9月1日に、このレースを目撃した2人の人物がいた。北ドイツレガッタ協会に所属する2人は、もっと大々的にヨットレースを開催したいと考えるようになった。

ようやく1881年の冬に、ハンブルクとキールのヨットマンをハンブルクの商人マインホルト家に集結させ、以下のような協定を締結することに成功した。それは、1882年の夏に、北ドイツレガッタ協会がキール峡湾で最大規模のヨットレースを開催するというものであった。その後、海軍の協賛を取り付けることにも成功している。こうして、1882年7月23日に第1回ヨットレースが開催された。2~3年後には、キールのヨットレースはレガッタスポーツの最高峰と称されるようになり、キーラーヴォッヘへと昇格していくことになる。
ところで、この海の祭典がひと際注目されるようになったのは、1889年から、毎年のように皇帝ヴィルヘルム2世が家族を伴って参加するようになったからである。

バルト海に面するキール峡湾でのレースに北海側からやってくるヨットマンのために、テニングからアイダー運河を利用してキールを訪れることが推奨された。その当時はまだ、北海・バルト海運河が建設されていなかったからである。その後、1887~1895年にかけて北海・バルト海運河が建設された。キール軍港を拠点とする戦艦とキール峡湾で開催されるヨットレースに参加する船のサイズを考慮して、運河の幅・水深・鉄道橋の高さが設定された。また、船のサイズの大型化に対処するために、1907~1914年にかけて拡張工事が行われた。

4.ヴィルヘルム2世とキーラーヴォッヘ


 1889年に初めてレガッタに参列したヴィルヘルム2世は、ヨット競技の初心者ではあったが、熱心なファンであった。彼はこの時に、持ち回り優勝杯を提供している。皇帝は家族同伴でやってきたので、しだいにヨーロッパの貴族・外交官・軍人・政治家も皇帝に倣い家族を伴って参加するようになった。そのため女性や子供にも配慮することが求められた。

しだいにキーラーヴォッヘは、単にヨット競技だけに力点を置いたスポーツの祭典にとどまらず、ヨーロッパの社交界をも巻き込んで華やかな祭典へと変容していった。軍艦やヨットにも花飾りが付けられてお祭り気分を盛り上げ、軍艦上ではダンスパーティーや食事会なども開催された。また海上だけではなく、市内の森ではピクニックも行われた。キーラーヴォッヘは、ヨーロッパの上流階級の老若男女にとって、誰もが何らかの娯楽を見いだせる祭典として人気があった。

 これは皇帝ヴィルヘルム2世にとっても、1年で最高の楽しみとなった。皇帝は彼のヨットである流星号やホーエンツォレルン号に、海のスポーツマンであるという条件つきで、上流階級に属さない市民をも招待している。キーラーヴォッヘには1892年、ロシアのアレクサンドル3世が北極星号で訪れ、1897年には、ベルギーのレオポルド2世、1904年にはイギリスのエドワード7世が参列している。


(5)につづく


文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年11月02日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(1)

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海の祭典 −ホーエンツォレルン家と海−

はじめに

南ドイツのシュヴァーベンを発祥の地とするホーエンツォレルン家は、北ドイツ平原に進出して以降も海には疎い一族と評されてきた。しかし、この一族から海を愛し船を愛する2人の人物が現れた。1人は、アーダルベルト・フォン・プロイセン(1811~1873年)であり、もう1人はドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)である。

前者はプロイセン王国の軍港建設にあたり、場所の選定をはじめプロジェクトを一任された海軍大将である。軍港の所在地ヴィルヘルムスハーフェン市には、彼の銅像とヴィルヘルムという名前を港の名称として与えたヴィルヘルム1世(1797~1888年)の銅像が立っている。一方後者は、軍港キールで開催される、世界最大級の海の祭典、キーラーヴォッヘの創設と発展に寄与したドイツ帝国最後の皇帝である。

実は、軍港も海の祭典も、元をただせば2人の趣味がその地を求めたことが発端であり、加えて軍港にはむしろ似つかわしくないと思われるような、ほのぼのとしたエピソードに彩られていることについては、日本ではあまり知られていない。

そこで本講座では、ホーエンツォレルン家にとっての軍港が、本来の機能以外に所在都市にもたらした経済的・文化的意義について考察する。




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ホーエンツォレルン城よりシュヴァーベンの山々を望む






1.軍港ヴィルヘルムスハーフェンの成立

 プロイセン王国は、1843年から1852年にかけて断続的に続いたデンマーク王国との第1次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に敗北を帰することになった。当時、軍港を有していなかったプロイセン王国にとって、デンマーク王国による海上封鎖は決定的で、そのため早急に北海沿岸に軍港を建設する必要に迫られていた。
 ところで、海・船・港には疎いホーエンツォレルン家にあって、唯一人これらに精通する王子が現れた。それがアーダルベルト・フォン・プロイセンである。彼の父はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の弟で、彼自身もその次男であることから、王位継承の可能性は極めて低く、それだけに自由度が高いという立場にあった。

 海・船を好み、船旅をこよなく愛した王子は、この立場を生かしてオランダ・イギリス・ロシア・トルコ・ギリシャ・ブラジル等に出かけている。ここでは、これが単に趣味に終わらなかったということが特記すべき点である。まずは海軍力について、それが戦時だけに限らず、通商・工業発展にとっても重要であることを主張している。さらに彼は、自身の体験から軍港の場所はヤーデ湾の一画にあるヘペンスHeppens以外にはありえないと提言した。現在のように豊富なデータを駆使してコンピュータで導いた結論ではなく、各地を旅した際に磨かれた観察眼によるものであった。この観察眼が並外れたものであることは、21世紀になってコンピュータが証明してくれることになる。これについては後述する。

 そこでプロイセン王国は、1853年にオルデンブルク大公国との間にヤーデ条約を締結し、軍港建設のために313haの土地を獲得した。軍港の建設は、海軍大将でもあった王子に一任され、彼はエンジニアで水利工学の専門家でもあったハーゲンを指名して計画立案にあたらせた。1856年、アーダルベルト王子の従兄にあたるプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がこの計画を承認している。
 ところで、プロイセン王は軍港の完成を待たずに死去したので、彼の弟であるヴィルヘルム1世の治世となった。後の初代ドイツ皇帝である。ヴィルヘルム1世は、完成したばかりの海のツォレルン港Hafen Zollern am Meer(通称ヘペンス港Hafen Heppens)に自分の名前を付けるように言った。つまり、ヴィルヘルムの港Wilhelmshafenとせよとのことであった。ここまでは、大変めでたい話であった。

 ところが、1869年6月17日、港湾建設総監督のゲーカーが事もあろうに、駐屯地教会の礎石にWilhelmshavenと低地ドイツ語で綴って刻印してしまった。一方、ベルリンでは正式な書類に正書法でWilhelmshafenと記していた。自分の間違いに気付いたゲーカーは、厳罰を覚悟で問い合わせをすると、なんとヴィルヘルム1世からは、低地ドイツ語のままでよいとのお達しがあり、しかも何のお咎めもなかったのである。おまけにベルリンの書類の方を書き変えておくというあまりにも寛大な処置であった。ヴィルヘルム1世の当地における人気は、もちろん急上昇したのである。




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アーダルベルト・フォン・プロイセンの銅像

(ヴィルヘルムスハーフェン市の中央駅に近い公園にある)







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ヴィルヘルム1世の銅像

(ヴィルヘルムスハーフェン市の中央駅に近い公園にある)



(2)につづく


文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年09月14日

エジプトの祭(3)

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エジプトの祭り:古代エジプトとイスラームのはざまで(3


3. キリスト教の祭り・その他の祭り

 「そよ風の祭り」の説明の際、エジプトのキリスト教徒、コプト教会のイースターについて述べました。現在も、エジプトの人口のおよそ1割は土着のキリスト教教会である、コプト教会に属する人々です。コプト教会は451年のカルケドンの公会議の決議に反対したアレクサンドリア主教たちがその後ビザンツ教会から分離しつくりあげた教会です。教義についてここでは詳しく述べませんが、暦は東方教会のそれに従い、カトリック教会やプロテスタント系教会とはずれがあります。

 コプト教会の主な祭りはクリスマスとイースターです。この時期になりますと教会はもちろん、キリスト教徒が多い地区や外国人の多い地区では町全体がクリスマスやイースターの雰囲気になります。この他にもエジプト各地ではその土地にまつわるコプト教会の聖人や古くから伝わる聖ジョージの祭りなどが開催されており、祭りにはキリスト教徒のほか、地元のイスラーム教徒も参加しています。

 例えば聖母被昇天の祝日(アサンプション)には、中部エジプトのアスユート、ミニヤー、ソハーグなどでは盛大なお祭りが開かれます。これにはキリスト教徒とともにイスラーム教徒も祭りに参加するそうです。このようなお祭りは、各地方最大の縁日として、近郊の農村から人を集め商売が繁盛する、そういった役割も果たしているようです。

 キリスト教の祭りの流れを汲みながら、イスラーム教徒のために姿を変えたのではないかと思われるものが、イスラームにおける聖者の祭りです。最も有名なものとしてはエジプト北部のタンターという町で毎年行われるアフマド・バダウィー生誕祭(マウリド)が挙げられます。アフマド・バダウィーは13世紀に生きたスーフィーの聖者で、その崇敬は現在まで続いているのですが、祭りに関してはイスラームのものでありながら、古代エジプト時代やキリスト教時代の慣習が色濃く反映されているように思われます。

 以上述べてきましたように、エジプトの祭りには全世界のイスラーム教徒に共通する祭り、古代エジプト時代から続く祭り、そしてキリスト教の祭りなどがあります。ナイル川の増減にあわせた農事暦のなかで日々の暮らしを営んだ人々、生活のなかで大切にされてきた様々な慣習、そしてキリスト教やイスラームの信仰。このようなものに想いを馳せることができるのがお祭りの行事となります。


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<キリストの降誕(ナタヴィティ)>






文学部 史学科 講師 辻 明日香




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2017年07月29日

エジプトの祭(2)

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エジプトの祭り:古代エジプトとイスラームのはざまで(2)



2. 古代エジプト時代から続く祭り


 古代エジプト時代から続いていると思われるエジプトの祭りとしては、シャンム・アンナシーム、すなわち「そよ風の祭り」が挙げられます。これは春を祝う祭りで、4月に行われ、国民の祝日となっています。シャンムはもともと古代エジプト語の「シェム」、収穫月の名前であったようです。1世紀頃にギリシア人の著述家プルタルコスが書き残したことによると、古代のエジプト人はこの祭りの日に塩漬けの魚、レタス、そしてタマネギを食べていたそうです。

 現在、この祭りはコプト教会のイースターの翌日に祝われているのですが、おそらくこれはエジプトにキリスト教が広まった3世紀以降に、この祭りと復活祭、すなわちイースターが結びつけられたものと考えられます。そして7世紀以降、エジプトがアラブ・イスラーム政権の支配下に入り、人々の言葉が古代エジプト語の最終形態であるコプト語からアラビア語へと変わると、祭りの名前は「シェム」からアラビア語でそよ風を意味する「シャンム」に変化したようですが、太陰暦であるイスラーム暦ではなく、農事暦の役割も果すコプト暦で祝われる習慣は変わらなかったようです。

 このように随分と長い歴史を持つ祭りであるわけですが、変わらないことがいく点かあります。一つはこの日、人々はナイル川や公園にピクニックにいくこと、もう一つはこの日に塩漬けの魚、レタス、タマネギを食べることです。塩漬けの魚は食中毒を起こしやすく、これを食べた人が毎年死んでいる、と1世紀に生きたプルタルコスが記しているのですが、いまだにこの祭りの時期になるとメディアでこの魚を食べないよう呼びかけがあり、毎年死者がでています。危険と隣り合わせであるのに食べたい、というのはご老人にとってのお正月のお餅でしょうか。

 このほかにも、例えばルクソールで行われるアブー・アルハッジャージュの祭り(マウリド)は12-13世紀に生きたイスラームの聖者、アブー・アルハッジャージュの生誕祭のはずが、古代エジプト時代にカルナック神殿とルクソール神殿の間で行われていたオペト祭の伝統を引き継いでいる、と考える人もいます。祭りの最終日に、ルクソールの町を大きな船の山車がパレードする様子は、確かにアムン神を聖舟に乗せカルナック神殿からルクソール神殿へと運んだオペト祭を想起させます。




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<シャンム・アンナシームの日の公園>





(3)につづく


文学部 史学科 講師 辻 明日香




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2017年06月29日

エジプトの祭

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エジプトの祭り:古代エジプトとイスラームのはざまで(1)


はじめに

 エジプトの祭りといったら、皆さんはどのようなものを想像されるでしょうか。エジプトといったらピラミッドなど古代エジプトのイメージが強いと思われますが、同時に、現代のエジプトに住む人々の大半はイスラーム教徒であるということもご存じかと存じます。

 では、そもそも現代のエジプトにお祭りはあるのでしょうか。実は、エジプトには数多くのお祭りがあります。お見せできる写真がないのが残念なのですが、お祭りが行われている町へいってみると、屋台や見世物がたくさん並び、ハレの衣服を着た人々が家族づれで祭りを楽しんでいる姿をみることができます。以下においては、「祭り」をとおしてエジプトの人々の日常生活とその楽しみについて紹介していきます。


1. イスラームの祭り

 エジプトの人口の9割程度はイスラーム教徒ですので、エジプト人の生活リズムの一つにイスラームの戒律があります。イスラーム教徒が守るべき義務、すなわち六信五行のうちの五行にあたるものが信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼となります。これらのうち断食と巡礼に関連するものが、全世界のイスラーム教徒が祝う祭り、すなわち断食明けの祭りと犠牲祭です。

 断食明けの祭りとは、イスラーム暦の第9月にあたる断食月、すなわちラマダンが終わった際の祭りです。祭りの日の朝、世界中のイスラーム教徒はまずイード礼拝へ向かいます。町の地区や村の成員がそろって礼拝用の広場や大モスクに集まり、集団礼拝を行ったあとにイマーム(指導者、説教師)の話を聞きます。礼拝が終わったあと、人々は新しい服を身にまとい、親族や隣人、友人のもとへイード(祭り)の挨拶へ行きます。日本でいうならば、新年の挨拶のようなものでしょうか。この祭りの際には、周囲の貧しい人々に特別な喜捨を与える習慣もあります。

 犠牲祭とは、イスラーム暦の第2月の10日から三日間行われるメッカ巡礼にあわせて祝われる祭りです。この祭りでは、各家庭が羊やラクダ、牛といった動物(羊が一般的です)を屠り、家族で食するとともに、肉の一部、三分の一ほどを貧しい人々へ寄付します。この祭りは旧約聖書における、イサクの犠牲の物語をもとにしており、イスラームの聖典である『クルアーン』ではイブラーヒーム(アブラハム)が神の命に従い息子イスマーイール(イシュマエル、旧約聖書ではイサク)を犠牲にしようとした瞬間、身代わりの犠牲獣が与えられたという物語になっています。

 このほかに、エジプトでは祝われるものの、他国では人気がない、あるいは禁止されている祭りとして、預言者ムハンマドの生誕祭というお祭りがあります。これは名前のとおり、預言者ムハンマドの誕生日(イスラーム暦第3月12日)を祝って催される祭りで、起源は11−12世紀、ファーティマ朝後期にもとめられます。初めは参加者が政府高官や宗教者に限られていたようですが、その後の王朝で民衆のお祭りとなっていきました。

 特徴としてはスーフィー教団を中心に預言者ムハンマドを讃える様々な儀礼やコーランの朗誦、預言者物語などのパフォーマンスが行われることで、この祭りの一ヶ月間には町や村の広場に娯楽施設や屋台が並びます。また、ファーティマ朝期にはこの祭りの際にカリフから政府高官へ砂糖が振る舞われていたのですが、この習慣の名残りでしょうか、エジプトではこの祭りの期間に砂糖でできた花嫁人形を女の子に贈る習慣があります。

 イスラームの法学者たちはこの祭りの存在自体は認めながらも、そこで行われる儀礼や行事の一部が非イスラーム的であるとして、批判することが多いです。これがエジプトでは人気のある祭りであっても、他国では現在あまり祝われない原因のようです。


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<預言者生誕祭の際の砂糖菓子>




(2)につづく


文学部 史学科 講師 辻 明日香




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2017年06月08日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(3)

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第3回 東大寺誕生仏立像と大仏



奈良・東大寺には国内を代表する誕生仏立像が現存しています(前回の画像参照)。この像は奈良時代半ば、8世紀後半に造立されたと推定されており、金銅製で像の高さは47.5pもあり、国内の誕生仏立像のなかでは出色の大きさです。現在、香水を受ける灌仏盤とあわせて国宝に指定されています。この誕生仏立像は同じ東大寺の主尊としておなじみの大仏さまの完成前後につくられたと推測されています。

大仏は正式には盧舎那仏坐像といい、天平15年(743)に聖武天皇によって発願(大仏造立の詔)され、天平勝宝4年(752)4月9日に開眼供養会が行われています。この法会には聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ僧侶や俗人などあわせて1万人以上が参加したと伝えられ、かつてない盛大な仏教行事となりました。

この大仏開眼供養もじつは花まつり、お釈迦さまの誕生日と関わりがあります。なぜなら、この法会の日付はじつは当初の予定から順延されたことが記録から知られており、本来は4月8日であったことが知られているからです。

さらにこの開眼供養の時点では、大仏はまだ完全に完成しておらず、台座や光背も揃っていない状態であったことが当時の文献から判明しています。では開眼供養を急いだのはなぜでしょうか。これには752年という年が深く関係しています。日本に初めて仏教が伝えられた年代は諸説ありますが、『日本書紀』は欽明天皇13年(552)としています。この年を踏まえると、大仏の開眼供養が行われた752年は仏教伝来から200年目に当たるのです。大仏の開眼供養はこの大きな節目の年の、お釈迦さま生誕の日にあわせたのだと考えられています。




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東大寺大仏





【参考文献】
吉村怜「東大寺大仏開眼会と仏教伝来二百年」『美術史研究』9号、1972年


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光




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2017年05月25日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(2)

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第2回 誕生仏立像のカタチ




誕生仏立像は生まれたばかりのお釈迦さまを現していることは前回触れたとおりです。一般に誕生仏立像は10数p程度の小さいものがほとんどですが、良く見ると他の仏像とも共通する見た目の特徴、例えば髪型や頭や耳の形など、を持っています。このような見た目の特徴は何にもとづくものでしょうか。


お釈迦さまは通常の人とは異なる身体的特徴を数多く具えていたといわれています。この身体的特徴のことを「三十二相八十種好」といい、古くからインドでは悟りを開くことができる人はこれを具えて生まれてくると考えられてきました。


そして、お釈迦様の姿をあらわすためにつくられるようになった仏像にも、この「三十二相八十種好」反映されているわけです。なお、釈迦と同様に悟りを開いた存在である他の如来像も同様の特徴を具えた姿にあらわされています。


さて、この「三十二相八十種好」ですが、「三十二相」は32種類の顕著な特徴で、「八十種好」は80種類の微細な特徴と分別されています(両者には重複もあります)。

このうち、仏像にあらわされる主な「三十二相」には次のようなものがあります。



・足下二輪相・・・足の裏に千の輻の輪宝の文様がある
 

・丈光相・・・・・からだから四方に一丈の光を放つ(光背)

・毛上向相・・・・毛が上になびいて右に巻く(螺髪らほつ)

・金色相・・・・・からだがすべて黄金色に輝く

・頂髻相・・・・・頭の肉が隆起し髻のようである(肉髻にくけい)

・白毫相・・・・・眉間に白毛があり、光を放つ(白毫びゃくごう)


誕生仏立像もこの「三十二相八十種好」に則り、生後間もない時期であっても、すでに螺髪・肉髻・白毫・金色相などを具えた姿としてあらわされているのです。



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誕生仏立像(東大寺)




(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光




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2017年04月20日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(1)

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花まつり ―誕生仏立像の諸相―


第1回 花まつりと誕生仏立像


花まつりとは、お釈迦さまのご誕生を祝う祭のことです。日本では古来よりお釈迦さまの誕生日は4月8日(旧暦)に当たると伝えられてきました。この花まつりは日本に仏教が伝来した古代から現在まで広く行われてきており、国内の仏教関連の祭りのなかで最も親しまれ、また浸透した祭りといってもよいかもしれません。

花まつりの名称はほかにも色々あり、仏生会、浴仏会、灌仏会などとも呼ばれていますが、この「浴仏」や「灌仏」という語句はこの祭のメインイベントにちなんでいます。花まつりでは、誕生仏立像というちょっと変わった仏像を主役としてお祀りします。種々の季節の花々をあしらった小さなお堂(花御堂)を設置し、そのお堂のなかに甘茶や香水で満たしたタライ(灌仏盤)を据え、そのタライの中央に誕生仏立像を安置します。お釈迦さまの誕生を祝う参加者は、柄杓などでタライのなかの像に甘茶や香水をかけるのです。

この儀式はお釈迦さまの誕生にまつわる伝説に由来しています。
経典によれば、お釈迦さまは六牙の象と化して母・摩耶夫人の胎内に入ったとされ、出産の際には夫人の右脇から産まれました。産まれたばかりのお釈迦さまは、すぐに七歩あるいてから、右手は天、左手は地を指して、大きな声で「天上天下唯我独尊」と発し、誕生を祝福する天の龍王から水を灌がれたと伝えられています。

日本の誕生仏立像は、この誕生の伝説にもとづき、右手を挙げて五指または人差し指で天を指し、左手を垂下して同じく地を指して直立する姿勢をとり、上半身は裸形で下半身に裙(くん)を着した姿にあらわされることが一般的となっています。


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(2)につづく


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光








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2017年04月06日

祭りが生まれる、祭りが変わる(4)

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(4)



8.生れる祭り@―玉川大学農学部収穫祭


 いくつかの新たに生れた祭りを検討してみます。まず、学祭です。学祭は祭りを名乗っているとはいえ、あくまで「祭り的なるもの」ですが、そのなかに、宗教的な装いをもつものがあります。今日は玉川大学農学部の収穫祭における神輿を事例として取り上げます。収穫祭は昭和40年代初頭、新嘗祭と称して、農学部で収穫した作物で豚汁をつくり、近隣にふるまったことにはじまります。農村行事をまねた催しに過ぎなかったのですが、祭りらしさを求めて、有志で簡素な樽神輿を担ぎはじめます。地方出身の学生たちが、地元での経験をふまえ、お囃子の演奏もはじめました。多様な地方出身者の持ち寄りで、「祭り的なるもの」が出来あがっていきます。


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写真5 玉川大学の収穫祭。2014年及川撮影。




 学祭は地域の祭りとは異質です。大学生という集団は、メンバーの新陳代謝が非常に早い。一年で進級し、卒業していきます。ある意味で、コンスタントに担い手が供給されることをも意味しており、つねに若い活気に満ちています。一方で、技術や知識の継承への工夫も求められます。これを単なる「まねごと」として捉える向きもあるでしょうが、こうした事例は「どのようにあればそれは祭りなのか」を私達に考えさせます。つまり、「祭りとはなにか」を考える手掛かりにもなるでしょう。


9.生れる祭りA―大岡越前祭と信玄公祭り甲州軍団出陣


 「生れる祭り」の中には、自治体や観光協会が企画する観光祭りの類も含まれてきます。次に取り上げるのは信玄公祭りは山梨県甲府市の春の一大イベントです。昭和40年代に武田神社祭礼二十四将騎馬行列と桜祭りを組み合わせて誕生しました。現在は神社祭礼とは離れ、「甲州軍団出陣」という行列行事を実施しています。信玄の軍勢が川中島合戦に出陣する様を演じる催しです。


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写真6 信玄公祭りの陣屋。2009年及川撮影。




 信玄役には例年芸能人が起用されます。信玄配下の武将たちの部隊には、山梨県内の自治体や企業の方々が扮して参加します。写真6は、市内各所の陣屋とよばれるスペースで観客とふれあう部隊の様子です。この後、各隊は駅前ロータリー(近年は舞鶴城公園)から一隊ずつ出陣していきます。
 こうした催しは地元を置き去りにして、観光客のほうばかりを向いているかと言えば、そうでもありません。山梨県下には武田家家臣の末裔を称す方が多数居住されています。中にはこのイベントに参加することを念願にしている方もおられます。最近は、信玄公祭りのパレードに末裔で結成する行列が組み込まれ、喜ばれています。
 観光祭りはどこか空疎なもののようではありますが、一面において、市民の日ごろの練習の成果を示したり、家族の楽しい思い出になったり、アイデンティティに関わる欲求を満たす場でもあるわけです。「本物の祭り」にこだわり過ぎると、イベントや観光祭が生活の中で担っている意味を見過ごすことにもなりかねません。


10.生れる祭りB―YOSAKOIソーラン祭り


 最後に、YOSAKOIソーラン祭りを取り上げてみます。高知で戦後に創出された民謡を活かしたイベント祭りであるよさこい祭りを実見した北海道大学の学生が、札幌でソーラン節を組み込んで企画したのがYOSAKOIソーラン祭りです。この祭りは、鳴子をもち、かつ、ソーラン節の一部が入っていればダンス・楽曲のアレンジは自由で、ロック風・ジャズ風など、現代人の好みを自由に投影できるようになっています。特に、このよさこい系イベントで面白く思われるのは、神社ないし宗教との関わりを求める動きが発生している点です。高知・札幌で、これに関わる神社が生み出されています。ダンスイベントという「祭り的なるもの」であっても、「祭り的」であろうとするかぎりにおいて、祭りであるかのように自己を変化させていくようです。世相の流れとしては、祭礼からイベントへという動きがある一方、イベントを祭り/祭礼的に変化させていこうという動きがあることは祭り文化史上の興味深いトピックといえるでしょう。



むすびにかえて


現代社会における祭礼の変化やイベント祭の誕生を、けしからぬもの/とるにたらないものと見る人がいます。しかし、それらの催しの行なわれる現場に立ち、担い手や観衆のなかに分け入っていけば、変化に応じる柔軟性や担い手のモチベーションこそが、文化の持続の一大要因であるということに気付かされます。そのように、祭り/祭礼/イベントを変えたり創りだしたりする人間の姿、それを担い手や観客として「楽しむ」人びとの情動の中にこそ、祭りの根底的意味を理解する手掛かりがあるのではないでしょうか。少なくとも、そのような人びとの思いの所在と取り組みを記述していくことが、現代の民俗学の大きな課題であると認識しています。


※Web掲載にあたって紙幅を考慮し、公開講座当日のいくつかのトピックを割愛した。


【参考文献】
・及川祥平2015「祭礼的なる場における歴史表象と偉人表象―山梨県下の祭礼・イベントにおける状況を中心に―」『信濃』67巻1号、信濃史学会
・矢島妙子2000「祝祭の受容と展開―『YOSAKOIソーラン祭』―」『祝祭の100年』ドメス出版


文学部 日本文化学科 講師 及川祥平




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2017年03月15日

祭りが生まれる、祭りが変わる(3)

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(3)


6.祭りの消極的変化B―社会的側面

祭りは社会的な理由によっても変化します。例えば、祭りには喧嘩がつきものです。命に関わる危険な行事が行なわれることもあります。祭りは暴力や死と隣あわせの時空間でもあります。
 
しかし、祭りからはそのような暴力が排除される傾向にあります。特に、観光客を集めようという祭りならばなおさらです。安全性の確保が優先されるのです。青森市のねぶた祭りでは、ルールを逸脱するようなかたちで祭りに加わる「カラスハネト」という若者たちが問題になっており、様々な対処を講じています。また、諏訪の御柱祭はよく知られているように、勇壮な木落としの伴う危険な祭りです。怪我人や死者が出ることもありますが、実際に死傷者が出た場合にはこれを恥じてあまり語りたがらない一方、死傷者のない年には地元では「公にされていないだけで実は死者が発生している」という噂が流れているという研究報告があります。

死者が出て規制されると困るわけですが、こうした噂には、無事に終わった祭りに対し、危険で勇壮な祭りであるというイメージを補完する意味があるといいます。安全で規制された祭りには、本来その祭りが備えていたエネルギーが欠けているかのように思われているのかもしれません。人びとは自身が危険な祭りに参加していると思いたいのでしょうか。



 やや次元の違う社会的な理由としては、文化財化をあげることができます。なんらかの文化を「文化財」として認定するのは学問です。学問の介在が、それまでは存在しなかった新しい価値を与え続けており、結果、それが祭りに変化を及ぼしているのです。

また佐原の祭りを事例にしてみます。佐原の山車の大人形は、江戸の人形師の手になったものです。それらの人形師の系統はすでに絶えていますので、今日では極めて貴重な作品といえます。あるきっかけで佐原では大人形の価値に気付いたのですが、そこでなにが起こったのかというと、管理・保存が徹底されるようになり、レプリカが作成されました。そして、祭礼に本物の大人形を出さない、という選択が行なわれるようになりました。本物は、年番をつとめた際など、特別な機会に曳き出すようにしている町内もあります。自町内の山車に文化財としての価値のあることが自覚化された結果、祭りの行ない方にも影響が及んだのです。

また、佐原の山車は大人形ばかりでなく、山車の側面を飾る彫り物の素晴らしさも各町内で矜持とされています。これらも当然、文化財的価値を有するものです。そして、そのことが自覚された結果、ある種の美意識の変化が発生します。あるインフォーマントは、子どものころ、若衆たちが彫り物に足をかけて軽やかに山車にのぼる様がかっこよく、憧れていたといいます。しかし、今日ではそれはもうかないません。彫り物はただでさえ破損しやすいのです。

以上は、瑣末なようで重要な問題です。学問が研究対象を変えてしまうわけです。学問が現実社会に及ぼす影響は、民俗学はもちろん学際的な重要テーマになっています。



7.祭りの積極的変化

一方、祭りは担い手たちの意識的な改革や創意工夫のなかで年々変化しています。例えば、祭りの成功に伴い、大規模化していくなかで、色々な団体とコラボレーションした結果として、多様な演目を取り込みつつ、全体が肥大化し、いったい何の祭りなのかわからなくなってしまう、ということが往々にしてあります。そういうとき、祭りの実行主体はそれらを整理し、または再編成し、名目と実態の整合性をつけようとするわけです。元気のよい祭りは膨張化傾向をもつわけですが、根幹の部分がどこなのか見失われてしまった祭りは、やがてしぼんでしまうかもしれません。祭りは、時空間を出現させる行為です。日常からは切断された時間、日常からは切断された空間であるわけです。その、非日常的な時空間はそれをたばねる主題が必要である、ということかもしれません。

 その一方で、祭りの積極的変化としては、観光化や集客のための努力と捉えられる様々な取りくみをあげることができます。商業的なものに目が向かうことはよくないことのようではありますが、佐原の事例を紹介しつつ述べたように、各地の華やかな祭礼はその土地の経済力を背景にして発達してきました。集客に努力するイベント祭りを「まがいもの」であるかのように考えてしまうのは、むしろ「伝統」への適切な思惟を欠いています。

 祭りは楽しまれねばなりません。楽しまれるためには、現在の人間の興味関心を捉える努力が為されねばなりません。歴史的な祭礼なども、実は例年趣向を変えて、観客を驚かし、他町内に競ろうとしてきました。そのようにあることが、祭りの活力だったのです。観光イベントの類も、そういう「祭り」文化の延長線上で考えてみるべきでしょう。



(4)につづく


【参考文献】
・石川俊介2011「聞きづらい『話』と調査者―諏訪大社御柱祭における死傷者の『話』を事例として―」『日本民俗学』268号



文学部 日本文化学科 講師 及川祥平





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2017年02月16日

祭が生まれる、祭りが変わる(2)

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(2)


4.祭りの消極的変化@―人的側面

以上を前提に、祭りの変化の様態を、消極的変化と積極的変化に分けて考えてみます。望まずに、もしくはそれと気づかぬうちに変わらざるを得なかったという変化と、変わろうとして変わったものとを分けて考えようということです。

最初に検討するのは人的側面です。祭りの担い手集団も世代交代していきますが、それが祭りの変化につながるケースも見受けられます。先ほども取り上げた佐原の祭礼を事例にしてみます。

佐原では、平成初頭に祭礼に関する意識変化がはかられました。関係者に話をうかがうかぎりでは、従来は地元の人びとが山車の曳き回しに熱中する、自分たちが「楽しむ祭り」になっていた。これを「見せる祭り」に変えてゆこうという意識変化があったのだといいます。これは単なる観光化ではありません。そもそも、佐原の祭礼の背景には商人の町としての経済発展があります。各町内の富裕な旦那衆が顧客や他町内に権勢を示す機会だった。つまり、本来的に「見てもらうこと」と結びついた祭りだったのだと、意識転換を推し進めた人びとは考えたのです。そのような往時のあり方は第二次世界大戦後のある時期に失われてしまった、だから往時に回帰しようと彼らは主張しました。往時とは、佐原が商都としての繁栄を誇っていた時代でもあります。こういう議論を、彼らは古文書を読み込み、勉強を重ねながら、組み立てていったのです。これなどは積極的変化の範疇に属するものともいえますが、世代の推移によって祭りのあり方が変わっていくことをよくあらわしています。

 また、人的な問題として各地で問題化しているのが人手不足です。過疎地域ばかりでなく、都市部でも氏子圏の空洞化や地域に関心のない新住民の増加が問題になっています。神田明神のお祭りなどは東京の真ん中で、氏子圏にはオフィス街が形成されている関係で、担い手として企業の参加を受け入れています。青森市の青森ねぶた祭りの場合は、豪勢なねぶたを作成することが経済的負担になることもあり、参加団体は企業が増加しています。「住民の手から祭礼が離れていく」という感傷を捨てて現実を捉えるなら、企業が祭礼を通して地域と関わろうとするあり方は、祭りの今日における意味を物語っています。祭りは新たな集団を巻き込みながら地域統合・融和を果たそうとする機会になっているのです。



5.祭りの消極的変化A―環境的側面

環境的な要因で祭りが変わるケースを取り上げます。とりわけ、環境変化が著しいのは都市です。都市空間は内部の激しい新陳代謝を特徴にしています。非常に短い期間で景観がかわっていく。では、そういう環境変化が祭りにどのように関わってくるのでしょうか。

 例えば、電線や歩道橋が道路に渡されると、大型の山車を曳きまわす祭礼は変化を余儀なくされます。東京の山王祭りの場合、電線の敷設は山車が廃れる一因となり、むしろ神輿の盛大化を導きます。山王祭の山車は、江戸城の城門をくぐるために高さを調節する「せり出し」という仕掛けを備えていました。この仕掛けが佐原の山車に引き継がれているのですが、佐原では電線敷設に対応するために受容されました。とはいえ、佐原の山車がスムーズに電線に対応できたわけではありません。佐原の山車は、大人形という非常に大きな飾り物を頂上部に設置しています。昔の写真をみていると、かつての大人形は全身像なのです。せり出しを取り入れたとしても全身像では電線をくぐることができません。そこで人形の下半身をとりはずすという対処が行なわれました。取り外された下半身が処分されてしまった例もあります。また、青森市のねぶた祭りですが、どういうかたちをしているかご存知でしょうか。あれは、横幅と奥行が突出し、高さはさほどないのです。これも、戦後、都市の形態にあわせて「ねぶた」を大規模化していった結果です。今日の祭りのあり方は、都市環境の変化の柔軟に対応してきた結果であるといえるでしょう。

祭りに影響を及ぼすものは電線だけではありません。例えば、道路のアスファルト化からの影響もあります。佐原の山車はただ曳き回すだけでなく、曲曳きというものを行ないます。その中に「のの字まわし」というものがあり、「の」の字を描くように山車を回転させる、見どころの一つです。これにアスファルトが影響してきます。「のの字まわし」は車輪と地面との間に摩擦をおこすのです。かつては、地面は砂利や土でした。えぐれるのは地面のほうだったわけですが、アスファルト化した場合、削れるのは車輪ということになります。実際、佐原の山車の車輪の耐久年数はぐっと短くなったと言われていますし、「のの字まわし」を行なうテクニックにも変化が生じました。力の込め方が変化したわけです。



(3)につづく


【参考文献】
・及川祥平2010 「佐原祭礼の変容−山車の維持・修理の分析を通して−」松崎憲三編『小京都と小江戸』、岩田書院


文学部 日本文化学科 講師 及川祥平




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2017年01月26日

祭りが生まれる、祭りが変わる

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(1)



はじめに

「祭り」といえば「伝統」や「ふるさと」というイメージと親和的です。しかし、それはあくまでもイメージです。それらは大小さまざまな変化を経ながら今日のかたちをとっていますし、新たな「祭り(らしきもの)」が生み出されてもいます。本講座では、民俗学の立場から、変化と創造に満ちた祭りの姿を検討してみます。


1.「祭り」とは

もっとも狭義における「祭り」とは、周期的な神の来臨に際して、これに奉仕しつつ神託を乞い、祈願を届け、また感謝の意を告げて、再び送り返す、集団成員による集団のための宗教儀礼もしくはその複合と捉えるべきものです。祭りは、「まつらう」こと、つまり奉仕することを意味します。一年に一度、決まった日に来臨した神に奉仕することが祭りの一つの根幹とみることができるでしょう。



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写真1 埼玉県秩父郡小鹿野町の大徳院稲荷神社の祭り。2016年及川撮影。





写真1は大徳院という寺にある稲荷神社の祭りです。祭典には地区の人びとのみが臨み、観光客はきません。地区の人びとが、地区のために行なう「祭り」です。
ただし、祭りの宗教的側面に注目するのみでは、現実を理解する上で不十分です。現代と比較して娯楽の選択肢の乏しい生活環境では、「祭り」はきわめて「楽しみ」な機会の一つでもありました。



2.「祭り」「祭礼」「イベント」

私達は、祭りは喧騒と興奮の機会であるというイメージをもっています。民俗学では、集団が集団のためだけに行なうもの「祭り」とは別に、「祭礼」という概念を使っています。相違点は「観客」の存在です。「祭礼」は、「祭り」に観客を意識した趣向を組み入れ、それが盛大化したものを指します。写真2は佐原の祭礼です。立派な山車を各町内で曳きまわす、とても賑やかな「祭礼」です。



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写真2 千葉県香取市佐原の祭礼。2008年及川撮影。




 祭り(祭礼)は二つの顔をもつといえます。厳粛な神迎えの祭儀と大騒ぎの機会という二側面です。人びとは祭りに刺激をもとめ、新しさ・面白さを競っていきます。こういうエネルギッシュな側面もまた、祭りの根幹と考えたほうがよいでしょう。

 このことを前提に目を向けてみたいのは、現在、各地で行なわれているイベントです。宗教性の希薄な、もしくはまったく伴わない「祭り的なるもの」が各地にあふれている。これらは、ときとして「○○祭り」などと銘打つわけですが、果たして祭りといって良いのか否か。これはたしかに「神なき祭り」ではあります。しかし、体験される様態としては、宗教的な祭りと連続性があるということができます。祭りは、神が来臨し、人間に活力を与える機会です。もしくは、淡々とした日常にリズムを与え、人びとを賦活するものでもあります。イベント祭りもまた、非日常の体験によってリフレッシュする機会ということができます。



3.真正性

こうした祭りや祭礼の「いま」を考えようとする場合、難しい問題が存在します。それが真正性です。



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写真3 秋田のなまはげ。2009年及川撮影。



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写真4 埼玉県の人形サミット。2016年及川撮影。




写真3は秋田の「なまはげ」です。男鹿半島等で小正月の日に、村の若者たちがこれに扮し、各家をまわるという行事ですが、この写真は村の行事を撮影したものではありません。実は、秋田市の駅前にある居酒屋のショーなのです。問題は、この居酒屋でのなまはげ体験は、「本当の」なまはげ体験といえるのか否かということです。一年の特定の時期、特定の村で、村人たちのために行われていた行事と、この居酒屋のなまはげを同列に見てよいのか否か。

この種の問題は枚挙に暇がありません。写真4は市民ホールで秩父市白久の串人形が演じられている場です。伝統文化の普及啓蒙のために行われている催しですが、ここにはナマハゲと同じ問題が横たわっています。祭りの雑踏のなかで観客の息遣いを間近に感じながら、彼らを楽しませるために、つまり観客との相互性のなかで演じられていた人形芝居と、市民ホールのステージで披露される人形芝居とは、同じものといって良いのか否か。

本来の文脈から切り離されたところに存在する行事や芸能は、文化の真正性にこだわる立場からは問題視されかねません。しかし、これらがあるからこそ、文化の継承の可能性は拓かれ、担い手のモチベーションにもなります。そもそも、前近代的な生活文脈から切り離されていない伝統文化など現代社会にあり得るのでしょうか。ひるがえって、文化に偽物と本物という区分を持ちこむことが有効かどうか、という問題も発生します。文化は人間に営まれるもののすべてと言ってもよろしい。とすれば、そもそも「偽物の文化」など、あり得えないのかもしれません。厄介な問題ですが、現代社会で文化を考えようとする時、この点は必ず検討してみるべき課題の一つといえるでしょう。




(2)につづく

文学部 日本文化学科 講師 及川 祥平




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2017年01月15日

アメリカ大統領選挙2016 (4)

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4.なぜクリントンが負けたのか


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ヒラリー・クリントンは政治経験もあり、多くの研究者、メディアが勝利すると予想していました。今回はクリントンが負けた原因について考えたいと思います。



クリントンは11月9日の敗北宣言の中で、「最高で最も困難な『ガラスの天井』は打ち破れませんでした。しかし、いつか誰かが、私たちが考えているよりも早く達成することでしょう」と述べました。

この「ガラスの天井」という言葉は、クリントンがよく使っていた表現です。これは女性がいくら頑張っても、能力があっても、組織のトップになることを阻む見えない障害があることを意味します。この言葉は、アメリカで女性の社会進出が本格的に始まった1980年代から使われ始めました。


アメリカでは女性の社会進出が進んでいるというイメージがありますが、必ずしもそうとは言えない現状があります。スイスの世界経済フォーラムが毎年出している世界各国の男女間の不均衡を示す指標であるGlobal Gender Gap Reportでは、今年のアメリカの順位は144か国中45位でした。アメリカでは政治の世界への女性進出が意外と進んでいない現状があります。

このような状況にあって、政治の世界の最高の職である大統領に女性が初めて就任するということを多くのアメリカ人女性が望んでいるのでは、と私たちは想像しますが、実際にはそうではありませんでした。



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CNNの出口調査(CNN: Presidential Election Results 2016)で女性票はクリントンに入ったという結果が出ましたが、上記の表にみられるように、白人女性はトランプに投票している人が多いのです。



女性がクリントンを支持しなかった理由は2つあります。1つ目はサンダース旋風です。当初、クリントンは余裕で民主党の大統領候補となると予想されていました。しかし、それを阻んだのが自らを「民主社会主義者」と呼ぶバーニー・サンダースです。彼は政府の役割の大幅拡大を主張し、所得格差の拡大に対する怒りを持つ1980年から2000年ごろに生まれた「ミレニアル世代」と呼ばれる若い人々の支持を拡大しました。彼は予備選の際、クリントンを「富裕層の代表」と呼ぶキャンペーンを展開し、この見方が若年層の間に広がりました。クリントンが民主党の大統領候補になった後は、サンダースはクリントンに投票するよう呼びかけましたが、一度ついたイメージを払拭するのはなかなか難しかったようです。



また、アメリカ人の間には思いのほかクリントンに対する嫌悪感、不信感が広がっているようです。クリントンは、夫のビルと共にかつてから不正のうわさが尽きませんでした。アーカンソー州知事夫人時代には土地開発不正融資問題であるホワイトウォーター疑惑、ファーストレディ時代にはホワイトハウスの旅行事務所職員全員を解雇し、後任に大統領の知り合いを据えたというトラベルゲート、また、FBIが保存する個人情報を不正に取り寄せたというファイルゲートといったスキャンダルがありました。さらに、国務長官時代には、家族で運営するクリントン財団に献金した外国政府や企業に有利な扱いをしたという疑惑を持たれています。

また、ファーストレディ時代に医療保険制度改革プロジェクトの責任者に就任したという事実が、ファーストレディは前面に出るべきではないと考える保守派の反感をかったともいわれています。



クリントンが最も苦しめられたのはメール問題です。これは彼女が国務長官だった時に、私用アドレスで公務上のメールをやり取りしていたという問題です。大統領選直前の10月29日にFBIの長官が捜査再開を報告するという事態を記憶している方もいると思います。この報告は、少し前に明らかになったトランプの女性問題を打ち消すインパクトがありました。このような10月になってからの大統領候補にまつわる新事実を「オクトーバー・サプライズ」といいます。

クリントンのメール問題は日本でも大きく報道されましたが、なかなか日本人には理解しにくい部分があります。私的なメールサーバーを利用していたというセキュリティ上の問題に加え、クリントンに対する不信感がこの問題の裏にあるのです。

アメリカ政府の公式文書は、将来公的記録として公開されることが義務付けられています。ある一定の期間を経れば、大統領の直筆のメモでも直接見ることができるようになるのがアメリカの制度です。このルールに従えば、国務長官時代のクリントンのメールも将来的には公開されるものとなります。しかし、クリントンのように自分でメールを管理していれば、当局から開示請求があったとしても、私的なメールとして提出を拒むことができます。すでにクリントンは個人的なメールとして大量のメールを消去しているといわれています。そのメールの多くは、クリントン財団をめぐるやり取りだったという見方が強いのです。このような経緯を見たアメリカ人は、公開情報が操作されているのではないかという疑念をクリントンに持っているのです。

したがって、アメリカ人の多くは女性大統領の誕生に対して拒否感を持っているわけではありませんが、クリントンでなくてもよいと考えていたと思われます。また、サンダースを支持したような若い女性は、女性であるというだけではクリントンを支持できないという状況にあるのです。



このように大統領選は現代アメリカ社会を大いに反映しているといえます。日本に大きな影響を与えるアメリカの動きはこれからもメディアで頻繁に報道されると思いますので、ぜひ関心を持ってもらいたいと思います。

(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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2016年12月15日

アメリカ大統領選2016(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





3.なぜトランプが勝ったのか




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今回の選挙では当初泡沫候補だとされていたトランプが勝利しました。彼が勝った要因とは何でしょうか。

選挙結果を見てみると、トランプは激戦州(swing states)といわれる10州のうち、6州で勝利しています。特に、1964年以来50年間、その勝者が13回連続で大統領になっているオハイオ、また、2000年の選挙で勝敗を分け、ヒスパニック系有権者が多いためにクリントンに有利だとみられていたフロリダでトランプが勝利したことは大きかったといえます。また、ペンシルバニア、ウィスコンシン、ミシガンという30年近く民主党が勝利し続けてきた州でもトランプは勝利を収めています。




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CNNの出口調査からどのような層がトランプを支持したのかを見てみましょう。人種別では、非白人は圧倒的にクリントンを支持していますが、白人はトランプ支持が多数派です。また、女性がクリントンを支持する一方で、男性はトランプを支持しています。年齢別では、44歳以上の半数以上がトランプ支持に回りました。




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一方、こちらの表では、4年前と比べて個人の経済状況が悪いと思っている人、また、国の進んでいる方向が間違っていると思っている人の大多数がトランプに投票していることがわかります。これらの結果をまとめると、トランプは、4年前と比べて経済状況が悪化していると考える白人の中高年男性を中心に支持を集めていたことがわかります。



アメリカは貧富の差が大きい国だというイメージがありますが、最近はますますその格差が増しています。これは、経済のグローバル化が進んだ結果、大量生産の機能が国外に移り、一部のエリートが得ることができる企画、研究、開発などの知的な職種しかアメリカには残っていないからです。つまり、アメリカ国内が空洞化しているのです。中でもその影響を受けているのは、過去にミドルクラスとしてアメリカの繁栄を享受した一方で、現在はその地位からこぼれそうになっている白人中高年の賃金労働者です。政治もメディアもこれらの層を取り上げることはありませんでした。



今回の選挙で激戦となった州、あるいは民主党地盤の州のいくつかは、ラストベルトと呼ばれる、斜陽産業が集中する中西部から東部にかけての工業地帯にまたがっています。これらの地域の多くの産業は、第二次大戦後製造業で栄えていましたが、経済のグローバル化によって空洞化が起こっており、人口減少率も高いです。前述の白人中高年の賃金労働者の怒りがこれらの地域のトランプ支持率を押し上げたのでしょう。

また、トランプが声高に訴えている反移民の姿勢も、白人労働者に魅力的に映っているようです。アメリカでは年々白人の比率が低下しています(2016年は全体の68%)。一方、ヒスパニック系は増加しており、白人労働者は移民(特に不法移民)に職を奪われる脅威を強く感じています。トランプが述べた「メキシコ国境に壁を作る」という主張は、不法移民に苦しめられる白人にとって受け入れやすい主張であるようです。

さらに、トランプを支持した人たちに共通してみられる態度は反エスタブリッシュメントです。エスタブリッシュメントというのは既得権益層、いわゆるワシントンのエリートを指します。この半世紀の間で、アメリカの経済は成長し続けてきましたが、労働者階級に実質的な恩恵はなく、貧富の差がますます広がるという結果となりました。これはワシントンで政治に携わる人々が労働者の利益を代表する者ではないからだという思いを白人労働者は強く持っていたようです。トランプの集会で繰り返されていた“Drain the swamp of Washington!”というスローガンは「ワシントンのヘドロを掻き出せ!」という意味です。

一方、トランプは政治経験も軍人の経験も全くない初の大統領になります。これまでの政治とは異なる方向にかじを取ってくれるとの期待がトランプを支持する要因のひとつだったといえるでしょう。



次回はなぜクリントンが負けたのかについて考えてみたいと思います。


(4)につづく
(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子




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2016年12月08日

アメリカ大統領選2016(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.大統領選挙の制度

今回は大統領選挙の制度について説明します。 

今年の大統領選挙では、トランプが勝利しましたが、全体の得票数はトランプ46.6%、クリントン48.1%で、クリントンの方が多く票を獲得しています(Real Clear Politics)。なぜこのようなことが起こるのか、そこにはアメリカの大統領選挙独特の選挙人制度というものがあります。

総理大臣を国会議員が決めるという制度を持つ日本人からすると、アメリカの大統領は直接選ばれているような印象がありますが、実際、アメリカの大統領選挙は間接選挙です。厳密にいえば、11月の一般選挙で、国民は大統領を直接選んでいるのではなく、自分たちの代わりに投票する選挙人を選んでいるのです。ここで選ばれた選挙人が12月に大統領に直接投票することによって、その勝者が正式な次期大統領となります。

選挙人の数は州ごとに、その人口に基づいて決定されます。例えば、人口が多いカリフォルニア州では55人の選挙人が割り当てられています。それに対し、ワイオミング州のような人口が少ない州で割り当てられている選挙人の数はわずか3人です。50州全体の選挙人の数は538人で、これは各州の連邦議会上院・下院議員の合計と同じです。

選挙人は、大統領候補を擁立している党すべてがそれぞれの州ごとに選挙人を登録します。例えば、カリフォルニア州であれば、共和党も民主党も、そして第三政党もみな55人の選挙人を用意します。ここで登録された選挙人はそれぞれの政党の擁立する候補者に投票することを誓約しています。まれにその約束を破り、別の候補に投票する選挙人もいますが、数が非常に少なく、11月の選挙結果が覆ったことはありません。

11月の一般投票では、大統領候補の名前を選びますが、ここで多数派となった大統領候補が属する政党の選挙人が12月の投票に臨む権利を得ることとなります。

ここでもう1つ理解しておかなくてはならないのは、「総取り方式(Winner-take-all)」です。これは各州の最高得票の候補者がその州に割り当てられた大統領選挙人をすべて獲得できるという制度です。僅差であっても勝ったほうがすべてを取り、負けたほうは選挙人0になります(メイン州とネブラスカ州では比例割り当て方式)。

例えば、今年の大統領選挙で、接戦となったペンシルバニア州でのそれぞれの得票率はトランプ48.8%、クリントン47.6%でした。パーセンテージでは1.2%の僅差でしたが、この州に割り当てられている選挙人20人はすべてトランプのものになります。すなわちペンシルバニア州では、共和党が登録した選挙人20人が12月の本選挙に臨むことになるのです。

今回の大統領選挙では、接戦州と言われていた州のほとんどで、トランプが僅差で勝利しました。結局、トランプは306人、クリントンは232人の選挙人を獲得し、トランプが勝ちました。これが、冒頭に述べた、得票率が勝敗に反映しなかった理由となります。

得票率が低い候補者が大統領になった例として有名なのは、2000年のジョージ・ブッシュとアル・ゴアの選挙です。得票率ではブッシュ47.9%、ゴア48.4%で、ゴアの勝利でしたが、選挙人はブッシュが271人の選挙人を獲得し、266人の獲得にとどまったゴアに勝利しました。



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ジョージ・W・ブッシュ(2001‐2009)



今回の選挙でトランプが勝利したことで、選挙人制度が見直されることになるかもしれません。


次回はトランプが勝利した理由を考えてみたいと思います。


(3)につづく
(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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