2017年06月08日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回 東大寺誕生仏立像と大仏



奈良・東大寺には国内を代表する誕生仏立像が現存しています(前回の画像参照)。この像は奈良時代半ば、8世紀後半に造立されたと推定されており、金銅製で像の高さは47.5pもあり、国内の誕生仏立像のなかでは出色の大きさです。現在、香水を受ける灌仏盤とあわせて国宝に指定されています。この誕生仏立像は同じ東大寺の主尊としておなじみの大仏さまの完成前後につくられたと推測されています。

大仏は正式には盧舎那仏坐像といい、天平15年(743)に聖武天皇によって発願(大仏造立の詔)され、天平勝宝4年(752)4月9日に開眼供養会が行われています。この法会には聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇をはじめ僧侶や俗人などあわせて1万人以上が参加したと伝えられ、かつてない盛大な仏教行事となりました。

この大仏開眼供養もじつは花まつり、お釈迦さまの誕生日と関わりがあります。なぜなら、この法会の日付はじつは当初の予定から順延されたことが記録から知られており、本来は4月8日であったことが知られているからです。

さらにこの開眼供養の時点では、大仏はまだ完全に完成しておらず、台座や光背も揃っていない状態であったことが当時の文献から判明しています。では開眼供養を急いだのはなぜでしょうか。これには752年という年が深く関係しています。日本に初めて仏教が伝えられた年代は諸説ありますが、『日本書紀』は欽明天皇13年(552)としています。この年を踏まえると、大仏の開眼供養が行われた752年は仏教伝来から200年目に当たるのです。大仏の開眼供養はこの大きな節目の年の、お釈迦さま生誕の日にあわせたのだと考えられています。




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東大寺大仏





【参考文献】
吉村怜「東大寺大仏開眼会と仏教伝来二百年」『美術史研究』9号、1972年


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光




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2017年05月25日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(2)

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第2回 誕生仏立像のカタチ




誕生仏立像は生まれたばかりのお釈迦さまを現していることは前回触れたとおりです。一般に誕生仏立像は10数p程度の小さいものがほとんどですが、良く見ると他の仏像とも共通する見た目の特徴、例えば髪型や頭や耳の形など、を持っています。このような見た目の特徴は何にもとづくものでしょうか。


お釈迦さまは通常の人とは異なる身体的特徴を数多く具えていたといわれています。この身体的特徴のことを「三十二相八十種好」といい、古くからインドでは悟りを開くことができる人はこれを具えて生まれてくると考えられてきました。


そして、お釈迦様の姿をあらわすためにつくられるようになった仏像にも、この「三十二相八十種好」反映されているわけです。なお、釈迦と同様に悟りを開いた存在である他の如来像も同様の特徴を具えた姿にあらわされています。


さて、この「三十二相八十種好」ですが、「三十二相」は32種類の顕著な特徴で、「八十種好」は80種類の微細な特徴と分別されています(両者には重複もあります)。

このうち、仏像にあらわされる主な「三十二相」には次のようなものがあります。



・足下二輪相・・・足の裏に千の輻の輪宝の文様がある
 

・丈光相・・・・・からだから四方に一丈の光を放つ(光背)

・毛上向相・・・・毛が上になびいて右に巻く(螺髪らほつ)

・金色相・・・・・からだがすべて黄金色に輝く

・頂髻相・・・・・頭の肉が隆起し髻のようである(肉髻にくけい)

・白毫相・・・・・眉間に白毛があり、光を放つ(白毫びゃくごう)


誕生仏立像もこの「三十二相八十種好」に則り、生後間もない時期であっても、すでに螺髪・肉髻・白毫・金色相などを具えた姿としてあらわされているのです。



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誕生仏立像(東大寺)




(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光




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2017年04月20日

花祭り―誕生仏立像の諸相―(1)

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花まつり ―誕生仏立像の諸相―


第1回 花まつりと誕生仏立像


花まつりとは、お釈迦さまのご誕生を祝う祭のことです。日本では古来よりお釈迦さまの誕生日は4月8日(旧暦)に当たると伝えられてきました。この花まつりは日本に仏教が伝来した古代から現在まで広く行われてきており、国内の仏教関連の祭りのなかで最も親しまれ、また浸透した祭りといってもよいかもしれません。

花まつりの名称はほかにも色々あり、仏生会、浴仏会、灌仏会などとも呼ばれていますが、この「浴仏」や「灌仏」という語句はこの祭のメインイベントにちなんでいます。花まつりでは、誕生仏立像というちょっと変わった仏像を主役としてお祀りします。種々の季節の花々をあしらった小さなお堂(花御堂)を設置し、そのお堂のなかに甘茶や香水で満たしたタライ(灌仏盤)を据え、そのタライの中央に誕生仏立像を安置します。お釈迦さまの誕生を祝う参加者は、柄杓などでタライのなかの像に甘茶や香水をかけるのです。

この儀式はお釈迦さまの誕生にまつわる伝説に由来しています。
経典によれば、お釈迦さまは六牙の象と化して母・摩耶夫人の胎内に入ったとされ、出産の際には夫人の右脇から産まれました。産まれたばかりのお釈迦さまは、すぐに七歩あるいてから、右手は天、左手は地を指して、大きな声で「天上天下唯我独尊」と発し、誕生を祝福する天の龍王から水を灌がれたと伝えられています。

日本の誕生仏立像は、この誕生の伝説にもとづき、右手を挙げて五指または人差し指で天を指し、左手を垂下して同じく地を指して直立する姿勢をとり、上半身は裸形で下半身に裙(くん)を着した姿にあらわされることが一般的となっています。


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(2)につづく


文学部 日本文化学科 講師 真田 尊光








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2017年04月06日

祭りが生まれる、祭りが変わる(4)

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(4)



8.生れる祭り@―玉川大学農学部収穫祭


 いくつかの新たに生れた祭りを検討してみます。まず、学祭です。学祭は祭りを名乗っているとはいえ、あくまで「祭り的なるもの」ですが、そのなかに、宗教的な装いをもつものがあります。今日は玉川大学農学部の収穫祭における神輿を事例として取り上げます。収穫祭は昭和40年代初頭、新嘗祭と称して、農学部で収穫した作物で豚汁をつくり、近隣にふるまったことにはじまります。農村行事をまねた催しに過ぎなかったのですが、祭りらしさを求めて、有志で簡素な樽神輿を担ぎはじめます。地方出身の学生たちが、地元での経験をふまえ、お囃子の演奏もはじめました。多様な地方出身者の持ち寄りで、「祭り的なるもの」が出来あがっていきます。


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写真5 玉川大学の収穫祭。2014年及川撮影。




 学祭は地域の祭りとは異質です。大学生という集団は、メンバーの新陳代謝が非常に早い。一年で進級し、卒業していきます。ある意味で、コンスタントに担い手が供給されることをも意味しており、つねに若い活気に満ちています。一方で、技術や知識の継承への工夫も求められます。これを単なる「まねごと」として捉える向きもあるでしょうが、こうした事例は「どのようにあればそれは祭りなのか」を私達に考えさせます。つまり、「祭りとはなにか」を考える手掛かりにもなるでしょう。


9.生れる祭りA―大岡越前祭と信玄公祭り甲州軍団出陣


 「生れる祭り」の中には、自治体や観光協会が企画する観光祭りの類も含まれてきます。次に取り上げるのは信玄公祭りは山梨県甲府市の春の一大イベントです。昭和40年代に武田神社祭礼二十四将騎馬行列と桜祭りを組み合わせて誕生しました。現在は神社祭礼とは離れ、「甲州軍団出陣」という行列行事を実施しています。信玄の軍勢が川中島合戦に出陣する様を演じる催しです。


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写真6 信玄公祭りの陣屋。2009年及川撮影。




 信玄役には例年芸能人が起用されます。信玄配下の武将たちの部隊には、山梨県内の自治体や企業の方々が扮して参加します。写真6は、市内各所の陣屋とよばれるスペースで観客とふれあう部隊の様子です。この後、各隊は駅前ロータリー(近年は舞鶴城公園)から一隊ずつ出陣していきます。
 こうした催しは地元を置き去りにして、観光客のほうばかりを向いているかと言えば、そうでもありません。山梨県下には武田家家臣の末裔を称す方が多数居住されています。中にはこのイベントに参加することを念願にしている方もおられます。最近は、信玄公祭りのパレードに末裔で結成する行列が組み込まれ、喜ばれています。
 観光祭りはどこか空疎なもののようではありますが、一面において、市民の日ごろの練習の成果を示したり、家族の楽しい思い出になったり、アイデンティティに関わる欲求を満たす場でもあるわけです。「本物の祭り」にこだわり過ぎると、イベントや観光祭が生活の中で担っている意味を見過ごすことにもなりかねません。


10.生れる祭りB―YOSAKOIソーラン祭り


 最後に、YOSAKOIソーラン祭りを取り上げてみます。高知で戦後に創出された民謡を活かしたイベント祭りであるよさこい祭りを実見した北海道大学の学生が、札幌でソーラン節を組み込んで企画したのがYOSAKOIソーラン祭りです。この祭りは、鳴子をもち、かつ、ソーラン節の一部が入っていればダンス・楽曲のアレンジは自由で、ロック風・ジャズ風など、現代人の好みを自由に投影できるようになっています。特に、このよさこい系イベントで面白く思われるのは、神社ないし宗教との関わりを求める動きが発生している点です。高知・札幌で、これに関わる神社が生み出されています。ダンスイベントという「祭り的なるもの」であっても、「祭り的」であろうとするかぎりにおいて、祭りであるかのように自己を変化させていくようです。世相の流れとしては、祭礼からイベントへという動きがある一方、イベントを祭り/祭礼的に変化させていこうという動きがあることは祭り文化史上の興味深いトピックといえるでしょう。



むすびにかえて


現代社会における祭礼の変化やイベント祭の誕生を、けしからぬもの/とるにたらないものと見る人がいます。しかし、それらの催しの行なわれる現場に立ち、担い手や観衆のなかに分け入っていけば、変化に応じる柔軟性や担い手のモチベーションこそが、文化の持続の一大要因であるということに気付かされます。そのように、祭り/祭礼/イベントを変えたり創りだしたりする人間の姿、それを担い手や観客として「楽しむ」人びとの情動の中にこそ、祭りの根底的意味を理解する手掛かりがあるのではないでしょうか。少なくとも、そのような人びとの思いの所在と取り組みを記述していくことが、現代の民俗学の大きな課題であると認識しています。


※Web掲載にあたって紙幅を考慮し、公開講座当日のいくつかのトピックを割愛した。


【参考文献】
・及川祥平2015「祭礼的なる場における歴史表象と偉人表象―山梨県下の祭礼・イベントにおける状況を中心に―」『信濃』67巻1号、信濃史学会
・矢島妙子2000「祝祭の受容と展開―『YOSAKOIソーラン祭』―」『祝祭の100年』ドメス出版


文学部 日本文化学科 講師 及川祥平




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2017年03月15日

祭りが生まれる、祭りが変わる(3)

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(3)


6.祭りの消極的変化B―社会的側面

祭りは社会的な理由によっても変化します。例えば、祭りには喧嘩がつきものです。命に関わる危険な行事が行なわれることもあります。祭りは暴力や死と隣あわせの時空間でもあります。
 
しかし、祭りからはそのような暴力が排除される傾向にあります。特に、観光客を集めようという祭りならばなおさらです。安全性の確保が優先されるのです。青森市のねぶた祭りでは、ルールを逸脱するようなかたちで祭りに加わる「カラスハネト」という若者たちが問題になっており、様々な対処を講じています。また、諏訪の御柱祭はよく知られているように、勇壮な木落としの伴う危険な祭りです。怪我人や死者が出ることもありますが、実際に死傷者が出た場合にはこれを恥じてあまり語りたがらない一方、死傷者のない年には地元では「公にされていないだけで実は死者が発生している」という噂が流れているという研究報告があります。

死者が出て規制されると困るわけですが、こうした噂には、無事に終わった祭りに対し、危険で勇壮な祭りであるというイメージを補完する意味があるといいます。安全で規制された祭りには、本来その祭りが備えていたエネルギーが欠けているかのように思われているのかもしれません。人びとは自身が危険な祭りに参加していると思いたいのでしょうか。



 やや次元の違う社会的な理由としては、文化財化をあげることができます。なんらかの文化を「文化財」として認定するのは学問です。学問の介在が、それまでは存在しなかった新しい価値を与え続けており、結果、それが祭りに変化を及ぼしているのです。

また佐原の祭りを事例にしてみます。佐原の山車の大人形は、江戸の人形師の手になったものです。それらの人形師の系統はすでに絶えていますので、今日では極めて貴重な作品といえます。あるきっかけで佐原では大人形の価値に気付いたのですが、そこでなにが起こったのかというと、管理・保存が徹底されるようになり、レプリカが作成されました。そして、祭礼に本物の大人形を出さない、という選択が行なわれるようになりました。本物は、年番をつとめた際など、特別な機会に曳き出すようにしている町内もあります。自町内の山車に文化財としての価値のあることが自覚化された結果、祭りの行ない方にも影響が及んだのです。

また、佐原の山車は大人形ばかりでなく、山車の側面を飾る彫り物の素晴らしさも各町内で矜持とされています。これらも当然、文化財的価値を有するものです。そして、そのことが自覚された結果、ある種の美意識の変化が発生します。あるインフォーマントは、子どものころ、若衆たちが彫り物に足をかけて軽やかに山車にのぼる様がかっこよく、憧れていたといいます。しかし、今日ではそれはもうかないません。彫り物はただでさえ破損しやすいのです。

以上は、瑣末なようで重要な問題です。学問が研究対象を変えてしまうわけです。学問が現実社会に及ぼす影響は、民俗学はもちろん学際的な重要テーマになっています。



7.祭りの積極的変化

一方、祭りは担い手たちの意識的な改革や創意工夫のなかで年々変化しています。例えば、祭りの成功に伴い、大規模化していくなかで、色々な団体とコラボレーションした結果として、多様な演目を取り込みつつ、全体が肥大化し、いったい何の祭りなのかわからなくなってしまう、ということが往々にしてあります。そういうとき、祭りの実行主体はそれらを整理し、または再編成し、名目と実態の整合性をつけようとするわけです。元気のよい祭りは膨張化傾向をもつわけですが、根幹の部分がどこなのか見失われてしまった祭りは、やがてしぼんでしまうかもしれません。祭りは、時空間を出現させる行為です。日常からは切断された時間、日常からは切断された空間であるわけです。その、非日常的な時空間はそれをたばねる主題が必要である、ということかもしれません。

 その一方で、祭りの積極的変化としては、観光化や集客のための努力と捉えられる様々な取りくみをあげることができます。商業的なものに目が向かうことはよくないことのようではありますが、佐原の事例を紹介しつつ述べたように、各地の華やかな祭礼はその土地の経済力を背景にして発達してきました。集客に努力するイベント祭りを「まがいもの」であるかのように考えてしまうのは、むしろ「伝統」への適切な思惟を欠いています。

 祭りは楽しまれねばなりません。楽しまれるためには、現在の人間の興味関心を捉える努力が為されねばなりません。歴史的な祭礼なども、実は例年趣向を変えて、観客を驚かし、他町内に競ろうとしてきました。そのようにあることが、祭りの活力だったのです。観光イベントの類も、そういう「祭り」文化の延長線上で考えてみるべきでしょう。



(4)につづく


【参考文献】
・石川俊介2011「聞きづらい『話』と調査者―諏訪大社御柱祭における死傷者の『話』を事例として―」『日本民俗学』268号



文学部 日本文化学科 講師 及川祥平





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2017年02月16日

祭が生まれる、祭りが変わる(2)

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祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(2)


4.祭りの消極的変化@―人的側面

以上を前提に、祭りの変化の様態を、消極的変化と積極的変化に分けて考えてみます。望まずに、もしくはそれと気づかぬうちに変わらざるを得なかったという変化と、変わろうとして変わったものとを分けて考えようということです。

最初に検討するのは人的側面です。祭りの担い手集団も世代交代していきますが、それが祭りの変化につながるケースも見受けられます。先ほども取り上げた佐原の祭礼を事例にしてみます。

佐原では、平成初頭に祭礼に関する意識変化がはかられました。関係者に話をうかがうかぎりでは、従来は地元の人びとが山車の曳き回しに熱中する、自分たちが「楽しむ祭り」になっていた。これを「見せる祭り」に変えてゆこうという意識変化があったのだといいます。これは単なる観光化ではありません。そもそも、佐原の祭礼の背景には商人の町としての経済発展があります。各町内の富裕な旦那衆が顧客や他町内に権勢を示す機会だった。つまり、本来的に「見てもらうこと」と結びついた祭りだったのだと、意識転換を推し進めた人びとは考えたのです。そのような往時のあり方は第二次世界大戦後のある時期に失われてしまった、だから往時に回帰しようと彼らは主張しました。往時とは、佐原が商都としての繁栄を誇っていた時代でもあります。こういう議論を、彼らは古文書を読み込み、勉強を重ねながら、組み立てていったのです。これなどは積極的変化の範疇に属するものともいえますが、世代の推移によって祭りのあり方が変わっていくことをよくあらわしています。

 また、人的な問題として各地で問題化しているのが人手不足です。過疎地域ばかりでなく、都市部でも氏子圏の空洞化や地域に関心のない新住民の増加が問題になっています。神田明神のお祭りなどは東京の真ん中で、氏子圏にはオフィス街が形成されている関係で、担い手として企業の参加を受け入れています。青森市の青森ねぶた祭りの場合は、豪勢なねぶたを作成することが経済的負担になることもあり、参加団体は企業が増加しています。「住民の手から祭礼が離れていく」という感傷を捨てて現実を捉えるなら、企業が祭礼を通して地域と関わろうとするあり方は、祭りの今日における意味を物語っています。祭りは新たな集団を巻き込みながら地域統合・融和を果たそうとする機会になっているのです。



5.祭りの消極的変化A―環境的側面

環境的な要因で祭りが変わるケースを取り上げます。とりわけ、環境変化が著しいのは都市です。都市空間は内部の激しい新陳代謝を特徴にしています。非常に短い期間で景観がかわっていく。では、そういう環境変化が祭りにどのように関わってくるのでしょうか。

 例えば、電線や歩道橋が道路に渡されると、大型の山車を曳きまわす祭礼は変化を余儀なくされます。東京の山王祭りの場合、電線の敷設は山車が廃れる一因となり、むしろ神輿の盛大化を導きます。山王祭の山車は、江戸城の城門をくぐるために高さを調節する「せり出し」という仕掛けを備えていました。この仕掛けが佐原の山車に引き継がれているのですが、佐原では電線敷設に対応するために受容されました。とはいえ、佐原の山車がスムーズに電線に対応できたわけではありません。佐原の山車は、大人形という非常に大きな飾り物を頂上部に設置しています。昔の写真をみていると、かつての大人形は全身像なのです。せり出しを取り入れたとしても全身像では電線をくぐることができません。そこで人形の下半身をとりはずすという対処が行なわれました。取り外された下半身が処分されてしまった例もあります。また、青森市のねぶた祭りですが、どういうかたちをしているかご存知でしょうか。あれは、横幅と奥行が突出し、高さはさほどないのです。これも、戦後、都市の形態にあわせて「ねぶた」を大規模化していった結果です。今日の祭りのあり方は、都市環境の変化の柔軟に対応してきた結果であるといえるでしょう。

祭りに影響を及ぼすものは電線だけではありません。例えば、道路のアスファルト化からの影響もあります。佐原の山車はただ曳き回すだけでなく、曲曳きというものを行ないます。その中に「のの字まわし」というものがあり、「の」の字を描くように山車を回転させる、見どころの一つです。これにアスファルトが影響してきます。「のの字まわし」は車輪と地面との間に摩擦をおこすのです。かつては、地面は砂利や土でした。えぐれるのは地面のほうだったわけですが、アスファルト化した場合、削れるのは車輪ということになります。実際、佐原の山車の車輪の耐久年数はぐっと短くなったと言われていますし、「のの字まわし」を行なうテクニックにも変化が生じました。力の込め方が変化したわけです。



(3)につづく


【参考文献】
・及川祥平2010 「佐原祭礼の変容−山車の維持・修理の分析を通して−」松崎憲三編『小京都と小江戸』、岩田書院


文学部 日本文化学科 講師 及川祥平




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2017年01月26日

祭りが生まれる、祭りが変わる

地域とともに活躍する川村学園女子大学





祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(1)



はじめに

「祭り」といえば「伝統」や「ふるさと」というイメージと親和的です。しかし、それはあくまでもイメージです。それらは大小さまざまな変化を経ながら今日のかたちをとっていますし、新たな「祭り(らしきもの)」が生み出されてもいます。本講座では、民俗学の立場から、変化と創造に満ちた祭りの姿を検討してみます。


1.「祭り」とは

もっとも狭義における「祭り」とは、周期的な神の来臨に際して、これに奉仕しつつ神託を乞い、祈願を届け、また感謝の意を告げて、再び送り返す、集団成員による集団のための宗教儀礼もしくはその複合と捉えるべきものです。祭りは、「まつらう」こと、つまり奉仕することを意味します。一年に一度、決まった日に来臨した神に奉仕することが祭りの一つの根幹とみることができるでしょう。



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写真1 埼玉県秩父郡小鹿野町の大徳院稲荷神社の祭り。2016年及川撮影。





写真1は大徳院という寺にある稲荷神社の祭りです。祭典には地区の人びとのみが臨み、観光客はきません。地区の人びとが、地区のために行なう「祭り」です。
ただし、祭りの宗教的側面に注目するのみでは、現実を理解する上で不十分です。現代と比較して娯楽の選択肢の乏しい生活環境では、「祭り」はきわめて「楽しみ」な機会の一つでもありました。



2.「祭り」「祭礼」「イベント」

私達は、祭りは喧騒と興奮の機会であるというイメージをもっています。民俗学では、集団が集団のためだけに行なうもの「祭り」とは別に、「祭礼」という概念を使っています。相違点は「観客」の存在です。「祭礼」は、「祭り」に観客を意識した趣向を組み入れ、それが盛大化したものを指します。写真2は佐原の祭礼です。立派な山車を各町内で曳きまわす、とても賑やかな「祭礼」です。



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写真2 千葉県香取市佐原の祭礼。2008年及川撮影。




 祭り(祭礼)は二つの顔をもつといえます。厳粛な神迎えの祭儀と大騒ぎの機会という二側面です。人びとは祭りに刺激をもとめ、新しさ・面白さを競っていきます。こういうエネルギッシュな側面もまた、祭りの根幹と考えたほうがよいでしょう。

 このことを前提に目を向けてみたいのは、現在、各地で行なわれているイベントです。宗教性の希薄な、もしくはまったく伴わない「祭り的なるもの」が各地にあふれている。これらは、ときとして「○○祭り」などと銘打つわけですが、果たして祭りといって良いのか否か。これはたしかに「神なき祭り」ではあります。しかし、体験される様態としては、宗教的な祭りと連続性があるということができます。祭りは、神が来臨し、人間に活力を与える機会です。もしくは、淡々とした日常にリズムを与え、人びとを賦活するものでもあります。イベント祭りもまた、非日常の体験によってリフレッシュする機会ということができます。



3.真正性

こうした祭りや祭礼の「いま」を考えようとする場合、難しい問題が存在します。それが真正性です。



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写真3 秋田のなまはげ。2009年及川撮影。



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写真4 埼玉県の人形サミット。2016年及川撮影。




写真3は秋田の「なまはげ」です。男鹿半島等で小正月の日に、村の若者たちがこれに扮し、各家をまわるという行事ですが、この写真は村の行事を撮影したものではありません。実は、秋田市の駅前にある居酒屋のショーなのです。問題は、この居酒屋でのなまはげ体験は、「本当の」なまはげ体験といえるのか否かということです。一年の特定の時期、特定の村で、村人たちのために行われていた行事と、この居酒屋のなまはげを同列に見てよいのか否か。

この種の問題は枚挙に暇がありません。写真4は市民ホールで秩父市白久の串人形が演じられている場です。伝統文化の普及啓蒙のために行われている催しですが、ここにはナマハゲと同じ問題が横たわっています。祭りの雑踏のなかで観客の息遣いを間近に感じながら、彼らを楽しませるために、つまり観客との相互性のなかで演じられていた人形芝居と、市民ホールのステージで披露される人形芝居とは、同じものといって良いのか否か。

本来の文脈から切り離されたところに存在する行事や芸能は、文化の真正性にこだわる立場からは問題視されかねません。しかし、これらがあるからこそ、文化の継承の可能性は拓かれ、担い手のモチベーションにもなります。そもそも、前近代的な生活文脈から切り離されていない伝統文化など現代社会にあり得るのでしょうか。ひるがえって、文化に偽物と本物という区分を持ちこむことが有効かどうか、という問題も発生します。文化は人間に営まれるもののすべてと言ってもよろしい。とすれば、そもそも「偽物の文化」など、あり得えないのかもしれません。厄介な問題ですが、現代社会で文化を考えようとする時、この点は必ず検討してみるべき課題の一つといえるでしょう。




(2)につづく

文学部 日本文化学科 講師 及川 祥平




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2017年01月15日

アメリカ大統領選挙2016 (4)

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4.なぜクリントンが負けたのか


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ヒラリー・クリントンは政治経験もあり、多くの研究者、メディアが勝利すると予想していました。今回はクリントンが負けた原因について考えたいと思います。



クリントンは11月9日の敗北宣言の中で、「最高で最も困難な『ガラスの天井』は打ち破れませんでした。しかし、いつか誰かが、私たちが考えているよりも早く達成することでしょう」と述べました。

この「ガラスの天井」という言葉は、クリントンがよく使っていた表現です。これは女性がいくら頑張っても、能力があっても、組織のトップになることを阻む見えない障害があることを意味します。この言葉は、アメリカで女性の社会進出が本格的に始まった1980年代から使われ始めました。


アメリカでは女性の社会進出が進んでいるというイメージがありますが、必ずしもそうとは言えない現状があります。スイスの世界経済フォーラムが毎年出している世界各国の男女間の不均衡を示す指標であるGlobal Gender Gap Reportでは、今年のアメリカの順位は144か国中45位でした。アメリカでは政治の世界への女性進出が意外と進んでいない現状があります。

このような状況にあって、政治の世界の最高の職である大統領に女性が初めて就任するということを多くのアメリカ人女性が望んでいるのでは、と私たちは想像しますが、実際にはそうではありませんでした。



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CNNの出口調査(CNN: Presidential Election Results 2016)で女性票はクリントンに入ったという結果が出ましたが、上記の表にみられるように、白人女性はトランプに投票している人が多いのです。



女性がクリントンを支持しなかった理由は2つあります。1つ目はサンダース旋風です。当初、クリントンは余裕で民主党の大統領候補となると予想されていました。しかし、それを阻んだのが自らを「民主社会主義者」と呼ぶバーニー・サンダースです。彼は政府の役割の大幅拡大を主張し、所得格差の拡大に対する怒りを持つ1980年から2000年ごろに生まれた「ミレニアル世代」と呼ばれる若い人々の支持を拡大しました。彼は予備選の際、クリントンを「富裕層の代表」と呼ぶキャンペーンを展開し、この見方が若年層の間に広がりました。クリントンが民主党の大統領候補になった後は、サンダースはクリントンに投票するよう呼びかけましたが、一度ついたイメージを払拭するのはなかなか難しかったようです。



また、アメリカ人の間には思いのほかクリントンに対する嫌悪感、不信感が広がっているようです。クリントンは、夫のビルと共にかつてから不正のうわさが尽きませんでした。アーカンソー州知事夫人時代には土地開発不正融資問題であるホワイトウォーター疑惑、ファーストレディ時代にはホワイトハウスの旅行事務所職員全員を解雇し、後任に大統領の知り合いを据えたというトラベルゲート、また、FBIが保存する個人情報を不正に取り寄せたというファイルゲートといったスキャンダルがありました。さらに、国務長官時代には、家族で運営するクリントン財団に献金した外国政府や企業に有利な扱いをしたという疑惑を持たれています。

また、ファーストレディ時代に医療保険制度改革プロジェクトの責任者に就任したという事実が、ファーストレディは前面に出るべきではないと考える保守派の反感をかったともいわれています。



クリントンが最も苦しめられたのはメール問題です。これは彼女が国務長官だった時に、私用アドレスで公務上のメールをやり取りしていたという問題です。大統領選直前の10月29日にFBIの長官が捜査再開を報告するという事態を記憶している方もいると思います。この報告は、少し前に明らかになったトランプの女性問題を打ち消すインパクトがありました。このような10月になってからの大統領候補にまつわる新事実を「オクトーバー・サプライズ」といいます。

クリントンのメール問題は日本でも大きく報道されましたが、なかなか日本人には理解しにくい部分があります。私的なメールサーバーを利用していたというセキュリティ上の問題に加え、クリントンに対する不信感がこの問題の裏にあるのです。

アメリカ政府の公式文書は、将来公的記録として公開されることが義務付けられています。ある一定の期間を経れば、大統領の直筆のメモでも直接見ることができるようになるのがアメリカの制度です。このルールに従えば、国務長官時代のクリントンのメールも将来的には公開されるものとなります。しかし、クリントンのように自分でメールを管理していれば、当局から開示請求があったとしても、私的なメールとして提出を拒むことができます。すでにクリントンは個人的なメールとして大量のメールを消去しているといわれています。そのメールの多くは、クリントン財団をめぐるやり取りだったという見方が強いのです。このような経緯を見たアメリカ人は、公開情報が操作されているのではないかという疑念をクリントンに持っているのです。

したがって、アメリカ人の多くは女性大統領の誕生に対して拒否感を持っているわけではありませんが、クリントンでなくてもよいと考えていたと思われます。また、サンダースを支持したような若い女性は、女性であるというだけではクリントンを支持できないという状況にあるのです。



このように大統領選は現代アメリカ社会を大いに反映しているといえます。日本に大きな影響を与えるアメリカの動きはこれからもメディアで頻繁に報道されると思いますので、ぜひ関心を持ってもらいたいと思います。

(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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2016年12月15日

アメリカ大統領選2016(3)

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3.なぜトランプが勝ったのか




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今回の選挙では当初泡沫候補だとされていたトランプが勝利しました。彼が勝った要因とは何でしょうか。

選挙結果を見てみると、トランプは激戦州(swing states)といわれる10州のうち、6州で勝利しています。特に、1964年以来50年間、その勝者が13回連続で大統領になっているオハイオ、また、2000年の選挙で勝敗を分け、ヒスパニック系有権者が多いためにクリントンに有利だとみられていたフロリダでトランプが勝利したことは大きかったといえます。また、ペンシルバニア、ウィスコンシン、ミシガンという30年近く民主党が勝利し続けてきた州でもトランプは勝利を収めています。




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CNNの出口調査からどのような層がトランプを支持したのかを見てみましょう。人種別では、非白人は圧倒的にクリントンを支持していますが、白人はトランプ支持が多数派です。また、女性がクリントンを支持する一方で、男性はトランプを支持しています。年齢別では、44歳以上の半数以上がトランプ支持に回りました。




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一方、こちらの表では、4年前と比べて個人の経済状況が悪いと思っている人、また、国の進んでいる方向が間違っていると思っている人の大多数がトランプに投票していることがわかります。これらの結果をまとめると、トランプは、4年前と比べて経済状況が悪化していると考える白人の中高年男性を中心に支持を集めていたことがわかります。



アメリカは貧富の差が大きい国だというイメージがありますが、最近はますますその格差が増しています。これは、経済のグローバル化が進んだ結果、大量生産の機能が国外に移り、一部のエリートが得ることができる企画、研究、開発などの知的な職種しかアメリカには残っていないからです。つまり、アメリカ国内が空洞化しているのです。中でもその影響を受けているのは、過去にミドルクラスとしてアメリカの繁栄を享受した一方で、現在はその地位からこぼれそうになっている白人中高年の賃金労働者です。政治もメディアもこれらの層を取り上げることはありませんでした。



今回の選挙で激戦となった州、あるいは民主党地盤の州のいくつかは、ラストベルトと呼ばれる、斜陽産業が集中する中西部から東部にかけての工業地帯にまたがっています。これらの地域の多くの産業は、第二次大戦後製造業で栄えていましたが、経済のグローバル化によって空洞化が起こっており、人口減少率も高いです。前述の白人中高年の賃金労働者の怒りがこれらの地域のトランプ支持率を押し上げたのでしょう。

また、トランプが声高に訴えている反移民の姿勢も、白人労働者に魅力的に映っているようです。アメリカでは年々白人の比率が低下しています(2016年は全体の68%)。一方、ヒスパニック系は増加しており、白人労働者は移民(特に不法移民)に職を奪われる脅威を強く感じています。トランプが述べた「メキシコ国境に壁を作る」という主張は、不法移民に苦しめられる白人にとって受け入れやすい主張であるようです。

さらに、トランプを支持した人たちに共通してみられる態度は反エスタブリッシュメントです。エスタブリッシュメントというのは既得権益層、いわゆるワシントンのエリートを指します。この半世紀の間で、アメリカの経済は成長し続けてきましたが、労働者階級に実質的な恩恵はなく、貧富の差がますます広がるという結果となりました。これはワシントンで政治に携わる人々が労働者の利益を代表する者ではないからだという思いを白人労働者は強く持っていたようです。トランプの集会で繰り返されていた“Drain the swamp of Washington!”というスローガンは「ワシントンのヘドロを掻き出せ!」という意味です。

一方、トランプは政治経験も軍人の経験も全くない初の大統領になります。これまでの政治とは異なる方向にかじを取ってくれるとの期待がトランプを支持する要因のひとつだったといえるでしょう。



次回はなぜクリントンが負けたのかについて考えてみたいと思います。


(4)につづく
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文学部 国際英語学科 講師 倉林直子




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2016年12月08日

アメリカ大統領選2016(2)

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2.大統領選挙の制度

今回は大統領選挙の制度について説明します。 

今年の大統領選挙では、トランプが勝利しましたが、全体の得票数はトランプ46.6%、クリントン48.1%で、クリントンの方が多く票を獲得しています(Real Clear Politics)。なぜこのようなことが起こるのか、そこにはアメリカの大統領選挙独特の選挙人制度というものがあります。

総理大臣を国会議員が決めるという制度を持つ日本人からすると、アメリカの大統領は直接選ばれているような印象がありますが、実際、アメリカの大統領選挙は間接選挙です。厳密にいえば、11月の一般選挙で、国民は大統領を直接選んでいるのではなく、自分たちの代わりに投票する選挙人を選んでいるのです。ここで選ばれた選挙人が12月に大統領に直接投票することによって、その勝者が正式な次期大統領となります。

選挙人の数は州ごとに、その人口に基づいて決定されます。例えば、人口が多いカリフォルニア州では55人の選挙人が割り当てられています。それに対し、ワイオミング州のような人口が少ない州で割り当てられている選挙人の数はわずか3人です。50州全体の選挙人の数は538人で、これは各州の連邦議会上院・下院議員の合計と同じです。

選挙人は、大統領候補を擁立している党すべてがそれぞれの州ごとに選挙人を登録します。例えば、カリフォルニア州であれば、共和党も民主党も、そして第三政党もみな55人の選挙人を用意します。ここで登録された選挙人はそれぞれの政党の擁立する候補者に投票することを誓約しています。まれにその約束を破り、別の候補に投票する選挙人もいますが、数が非常に少なく、11月の選挙結果が覆ったことはありません。

11月の一般投票では、大統領候補の名前を選びますが、ここで多数派となった大統領候補が属する政党の選挙人が12月の投票に臨む権利を得ることとなります。

ここでもう1つ理解しておかなくてはならないのは、「総取り方式(Winner-take-all)」です。これは各州の最高得票の候補者がその州に割り当てられた大統領選挙人をすべて獲得できるという制度です。僅差であっても勝ったほうがすべてを取り、負けたほうは選挙人0になります(メイン州とネブラスカ州では比例割り当て方式)。

例えば、今年の大統領選挙で、接戦となったペンシルバニア州でのそれぞれの得票率はトランプ48.8%、クリントン47.6%でした。パーセンテージでは1.2%の僅差でしたが、この州に割り当てられている選挙人20人はすべてトランプのものになります。すなわちペンシルバニア州では、共和党が登録した選挙人20人が12月の本選挙に臨むことになるのです。

今回の大統領選挙では、接戦州と言われていた州のほとんどで、トランプが僅差で勝利しました。結局、トランプは306人、クリントンは232人の選挙人を獲得し、トランプが勝ちました。これが、冒頭に述べた、得票率が勝敗に反映しなかった理由となります。

得票率が低い候補者が大統領になった例として有名なのは、2000年のジョージ・ブッシュとアル・ゴアの選挙です。得票率ではブッシュ47.9%、ゴア48.4%で、ゴアの勝利でしたが、選挙人はブッシュが271人の選挙人を獲得し、266人の獲得にとどまったゴアに勝利しました。



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ジョージ・W・ブッシュ(2001‐2009)



今回の選挙でトランプが勝利したことで、選挙人制度が見直されることになるかもしれません。


次回はトランプが勝利した理由を考えてみたいと思います。


(3)につづく
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文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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2016年11月30日

アメリカ大統領選2016

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11月に大方の予想を覆し、ドナルド・トランプがアメリカの次期大統領に選ばれました。日本でも大きく報道されたので、関心を持たれた方もいると思います。これから4回に渡り、アメリカの大統領制や選挙制、また、今回の大統領選挙を振り返ってみたいと思います。

1.大統領に関する豆知識


さてクイズです。トランプは何代目の大統領となるのでしょうか。

正解は45代目です。初代ジョージ・ワシントンが大統領になった1789年から今年で227年になりますが、この間に44人の大統領が政権についています。一方、日本では、伊藤博文が初代総理大臣となった1885年からの131年間で62人が総理大臣になりました。この数の違いは、制度の違いから生まれます。


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初代大統領 ジョージ・ワシントン(1789−1797)



皆さんご存知の通り、日本では議院内閣制がとられ、総理大臣は国会の多数政党の議員によって選ばれます。したがって、解散や不信任決議などにより、任期途中でやめることも少なくありません。一方、アメリカの大統領制では基本的に大統領が辞任をしない限り、任期いっぱい務めることができます。

アメリカの大統領44人の中で唯一辞任した大統領は、リチャード・ニクソンです。彼はウォーターゲートという事件に関わったとして弾劾されそうになる前に、自ら辞任したのです。  


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リチャード・ニクソン(1969‐1974)



辞任以外で、大統領が任期途中で変わる理由としては、暗殺があります。これまでアメリカでは4人の大統領が暗殺されました。ジョン・F・ケネディやリンカーンなど暗殺された大統領をご存知の方もいるのではないでしょうか。

辞任であれ、暗殺であれ、大統領が任期途中でその職から離れる場合は、副大統領が大統領になります。トランプと共に大統領選を勝ち抜いた次期副大統領マイク・ペンスは、連邦下院議員や州知事を歴任した政治家であり、政治経験のないトランプをサポートし、また、共和党の主流派とのパイプ役となることを期待されています。

また、大統領の任期は4年で、2期まで務めることができます。これは、初代大統領のワシントンが長期に渡り権力の座に就くものは腐敗していくとし、3選を固辞したということから、長い間慣習として守られてきました。しかし、1933年に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトは、第二次大戦という有事を理由に1940年と44年の選挙に立候補し、当選します。彼はアメリカ史上唯一4選された大統領です。現在は憲法修正22条により、3選は正式に禁止されています。どんなに素晴らしい大統領でも最大8年間しかその職にとどまることはできません。


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フランクリン・ルーズベルト(1933‐1945)




また、大統領に立候補するには、35歳以上の合衆国内で生まれた合衆国市民であることと、14年以上合衆国内に住んでいる必要があるため、移民は大統領になることはできません。もちろん、移民でも、合衆国内で生まれた子孫であればその資格があります。今回の大統領選挙で共和党の候補者だったマルコ・ルビオはキューバ系の移民の子孫であり、ヒスパニック(中南米)系の票が期待されましたが、トランプ氏の勢いに撤退を余儀なくされました。

次回は大統領選挙の制度についてご説明します。
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(2)につづく


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子







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2016年10月26日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(5)

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5. イクメン・兼家


 あちこちに愛人を作って作者を嘆かせた兼家ですが、作者のたった一人の息子道綱の教育には細かく気を配りました。母ひとりの家庭で育つ道綱には「片飼いの駒」で淋しい思いをしているのではないかと心配する長歌も残しています。

 兼家はさびしい環境に育った道綱を、元服前の正月から、自分の屋敷東三条殿に通って貴族たちの顔を覚えさせ、誰と誰は仲が良いとか、あの人は有能だとか、貴族たちの品定めができるようにました。また、あいさつの仕方から立ち居振る舞いまでも、見よう見まねで学ぶことができました。これは、父親や親せきしか寄り付かない母の家では、決して得ることのできないことであり、貴族社会の複雑な有職(ゆうそく)故実(こじつ)と人間関係は、父兼家の屋敷で実地教育がされました。

 道綱が慣れたころを見計らって、兼家は道綱を吉野の御嶽(みたけ)(金峰山(きんぷせん))詣でや初瀬(はつせ)(長谷寺)に連れ出します。この小旅行は疎遠だった父と息子の垣根をとりはらったのかもしれません。兼家は道綱に、天皇の住む内裏の清涼(せいりょう)殿(でん)に見習いにあがる童(わらわ)殿上(てんじょう)をさせ、上流貴族の子息として貴族社会にデビューさせます。さらには、内裏での華やかな行事である賭(のり)弓(ゆみ)の射手として出場、おまけに勝ち組代表として納蘇利の舞うことも約束されます。この練習には、作者の家は手狭だということで、大勢の仲間と兼家の屋敷に移動したりしています。ちなみに、舞の師匠多好(おおのよし)茂(もち)は、『古事記』編者太安万侶の子孫で、現在、雅楽奏者として活躍する東儀秀樹はその子孫にあたるそうです。この師匠への謝礼は、兼家が支払っているようで、他にも兼家が経済的な負担を担っていると推測される場面は何カ所かあります。子どもの養育費はすべて母方がもつ、という通説はやはり誤りでしょう。

こうして、兼家邸や内裏での見習い実習を終え、元服をすませ、叙爵(従五位下の位階を受けること)されて貴族官僚としてスタートしました。正妻時姫から生まれ、父の屋敷で育った道隆・道兼・道長らに比べると、叙爵の年齢もその後の昇進も若干の遅れています。兼家は父との縁が薄く育ち、ハンディキャップを負った道綱をいとおしく感じていたのでしょう、道綱には甘い父親として、彼の頼みをいれて牛車に乗せて相撲(すまいの)節会(せちえ)に参加したりします。

兼家と道綱の関係が深まるのに反して、兼家と作者との仲は冷え切っていきました。「三十日(みそか)三十夜(みそよ)はわがもとへ」と兼家を独り占めにしたい作者と、肉親との政争に必死の兼家とはまったく別の方向を向いていたのです。実家から兼家の提供する屋敷を2,3移り住んでいた作者は、とうとう実家を売却して都の郊外中川のほとりに転居します。これは、作者と兼家との実質的な離婚です。面白いのは、この後も兼家は道綱の送り迎えに中川の屋敷を訪れますが、作者とは没交渉でした。

幼年期・少年期を人交わりもなく育ち、仲違いする両親の間にたって、双方から愚痴や罵声をあびて育った道綱は、作者にとってはいつまでも「幼き人」です。社会学者のT.パーソンズがいう‘子どもの社会化’がうまく機能しなかった子育てであったと言わざるをえません。「望月の欠けたること」のなきと権勢を誇った異母弟道長に「一日だけでも大臣にしてほしい」とねだって、周辺の貴族から冷笑されるなど、道綱を腐す逸話がたくさん残されています。


6. おわりに

 今までお話ししてきたように、男の日記は子孫の朝廷での地位を保守する実用の日記であるのに対して、女の日記は自己の一生を振り返る回想録と言って良いでしょう。(『紫式部日記』の一部は男日記の色合いが濃いものです。)男日記は歴史学者が史料として扱い、女日記は国文学者が文学作品として論ずる傾向があります。しかし、『蜻蛉日記』は年月日や人物が特定できますから、一定の注意を払えば史料として扱うことができます。こうして日記を虚心に読むと、平安時代中期の貴族の家庭の中で、正妻として夫と同居するのではなく、男の使用人として女房勤めと性的奉仕をする妾でもない妻たちがおり、日記の作者もこのような立場であった女性だと言えます。作者は夫とは別の屋敷に住み夫がそこに通ってくる、その屋敷は作者の持ち物であったり、夫の提供したものであったりするが、屋敷の維持や使用人など家計は基本的には夫が支えている、子どもの社会化は夫の人間関係、社会的地位の中でおこなわれる、夫婦の絆はきわめてゆるいものである、などが日記からうかがえます。作者の立場を副妻とか次妻とか呼ぶことがあります。副妻の社会的出自は正妻と変わらなくても、妻としての立場は一段と弱く、それは子どもに大きく影響しました。日記を読んで伝わってくる作者の嘆きやいらだちは、このような社会の仕組みがもたらすものでもあったのではないでしょうか。
 今回は、時間の都合で史料や日記の原文は提示していません。また、参考文献や先行研究も紹介できなかったことをお断りして、終わりにいたします。



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年09月29日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(4)

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4. 日記にみる兼家と作者の結婚生活



 では、日記から読み取れる作者の家庭生活はどのようなものだったのでしょうか。

作者との結婚以前に、兼家は時姫と結婚し少なくとも息子と娘がありました(最終的に時姫は3人の男子と2人の女子の母となります)。時姫の出身身分は作者と変わりありません。結婚生活は作者の実家(一条大路右近馬場(ばんば)に隣接)に兼家が通う形態です。 

 ふたりの結婚は、平安時代の結婚の典型的な形、妻問い婚とか通い婚の代表例といわれます。確かに作者と兼家は生涯同居はしていません。それは、兼家が時姫と同居していたからだと考えれば、当然のことだと言えるでしょう。同じ屋敷に住んでいればともかく、ひとりの男が別の屋敷に住むふたりの女と同時に同居はできません。どちらかと同居すれば、もうひとりとは別居、通うしかないのです。『源氏物語』の後半、光源氏は六条院を4つに区切って春の御殿に紫の上、夏の御殿に花散里、秋の御殿は秋好む中宮の里院、冬の御殿は明石の上の御殿として多数の妻たちと同居していたように描かれます。細かく述べる字数がありませんので結論だけ述べますと、この御殿は完全に仕切られており、天皇の内裏や江戸の大奥のように女たちが交わるわけではありません。今のところ、実在の平安貴族の屋敷で、妻たちがひとつ屋敷に住み合う例はみつかっていません。同じような身分の妻たちならば、別々の離れた屋敷に住んでいます。

このような妻たちの中で、夫と同居している女性を、まわりの人々は正妻とみなしました。これをわたしは社会的認知を受けた正妻と呼んでいます。正妻以外の妻たちは、出身階級は正妻にひけはとらなくても、No2の存在にあまんじなければなりません。公的な場に夫と同席するのは正妻に限られますし、なによりも生まれた子どもたちが微妙な差別を受けるのです。男子は元服(男子の成人式)したあと朝廷の役人として出仕しますが、その時の位階(身分の上下)や官職(役所のポスト)は、正妻の子の方が恵まれています。貴族というのは、朝廷での位置をできるだけ高めるのが生涯の目標のような人々です。同じ父親をもちながら、そのスタート時点で差が付けられるというのは、本当に不公平だといえるでしょう。

女子の場合は結婚相手を選ぶときに、その差があらわれます。上流貴族は天皇との外戚関係を築くために娘を天皇のキサキ(女御・更衣)に入れるのにやっきとなります。その際、キサキ候補になれるのは正妻から生まれた娘だけです。父親と母親の住む屋敷から入内していき、その付き添いは正妻になります。『源氏物語』で明石の姫君が入内するときには、紫の上が養母として付き添い、明石の上はただの女房(使用人)の形でついて行っています。

日記でもこの原則は守られています。作者が時姫に対抗するためか、兼家の愛人だった女性の娘(近江で育って母を亡くした)を養女しますが、着裳の儀式(女性の成人式、西洋のデビュタントのようにお披露目もおこないます)には、時姫のいる兼家の本邸に引き取られてしまいます。この娘は、『源氏物語』で頭中将の娘で不作法で後宮でひんしゅくをかう近江の君のモデルになったようです。


(5)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年09月12日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(3)

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3. 平安時代の結婚は‘妻問い婚’でしょうか?



女性史の創始者ともいえる高群逸(たかむれいつ)枝(え)は、平安時代の貴族の結婚生活は、夫が妻のところに通う‘妻問い婚’が基本であると主張しました。また、平安時代はまだ母系制の影響が色濃く残っているので、子育てはすべて妻の家が担うこと、夫の生活にかかわる費用も妻の家が負担すること、女の子の婿選びは母親に発言権があることなど、家庭における女性の優位を強く述べました。さらに貴族社会では一夫多妻がふつうだが、大勢の妻たちの立場は対等であって、特に‘正妻’とよべる妻はいなかった、としています。女の立場が後の時代に比べるとまだまだ強かったと、高群は述べています。

私が女性史の研究を始めたばかりのころは、まだまだ女性には不利な社会状況でしたから、高群の本を読んでいると、そうだその通りだ、と感激する文章に出会います。しかし、何か腑に落ちないところもありました。

その第一は、『竹取物語』の翁(おきな)と媼(おうな)はいっしょに住んでいたのでは?『源氏物語』の葵上の両親、左大臣と大宮も一緒に住んでいるような、『落窪物語』の父親と継母も同居している、と物語の脇役たちのことを思い浮かべたからです。まだ年若い光源氏や在五中将といった主人公は、あちらこちらの女性のもとへ気ままに訪れて愛を語らいますが、彼らの背後にいる熟年の夫婦は、同じ屋敷に暮らしている、少女のころ読んだ物語を改めて読み直してみました。

また、研究を進めていくうちに、『大鏡』という歴史物語の家族や平安貴族の日記での妻たちの書き方、また、貴族の子どもたちのその後の活動などから、どうも高群のいう妻問い婚とか、平等な妻たち、は誤っているのではないか、と確信をもつようになりました。
その、解答を与えてくれた最初の資料が、『蜻蛉日記』です。

(4)につづく




川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年07月21日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(2)

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2.メモワール 『蜻蛉日記』



 男の日記が、自身の、そして子孫のための実用書として記され、一族の象徴として扱われてきたのに対して、女の日記はメモワールとよぶのがふさわしいでしょう。今の私も同じような状況にいますが、老いの坂道を下り、そろそろ生の終焉を迎えようという時、ひたすら峠の頂上をめざして一途に歩んでいた頃を想い起こすようです。『蜻蛉日記』も一人息子道綱が独立し、夫であった兼家が手の届かない身分となってしまったと実感したとき、若き日の兼家との愛憎を日記の形を借りて書き綴りました。

 ご存じの方も多いでしょう。平安時代の女性で実名が知られているのは、公的な身分つまり中宮・女御などの天皇のキサキや尚侍・典侍などのキャリア女官、そして位階を授けられた大臣クラスの正妻などに限られます。紫式部も清少納言も女房としての通称にすぎません。そのようなわけで、『蜻蛉日記』の作者は職業を持ちませんでしたから、実名はわかりません。藤原倫(ふじわらのとも)寧(やす)の女(むすめ)とか、右大将道綱の母、そして藤原兼家の妻などと呼ばれますが、今回は、‘作者’と呼んでいきます。また、私の専門は歴史学なので、文学的なアプローチはできるだけ避けようと思います。

 再び系図をみて下さい。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg





作者の父藤原倫(とも)寧(やす)は地方巡りの有能な受領として活躍する人物で、祖母は清和源氏の嫡流源満仲(みなもとのみつなか)の妹です。典型的な平安中流貴族の家庭の娘として育ちました。「本朝三美人」のひとりとされ、優れた歌人であった彼女のもとにはさぞや多くの求婚者があらわれたことでしょう。その中で父のめがねにかなったのは藤原師輔(前述した九条流の祖)の三男兼家でした。系図をみると「かつらぎの高きわたり」(身分違いの高い家柄)と作者が謙遜するのも納得の家柄です。権力者の一族とはいえ、父師輔が政権を担うのは、まだ先の時ですし、まして兼家は三男坊で身分も低く、おまけに既に妻(正妻)がいることを考えれば、決してベストの選択とはいえません。それでも、倫寧は陸奥守として任地に向かう日が迫っており、4年間の任期を田舎で過ごせば結婚適齢期を大きく過ぎてしまいます。限りない可能性をもつはずの愛娘を兼家に託して、父は陸奥へ旅立ちました。

日記の中での兼家は、次々と愛人を作りますし、正妻時姫とは、従者も巻き込んでの抗争もありました。これは、『源氏物語』の葵祭での葵上と六条御息所との車争いのモデルともなったくらいです。日記の中に作者はいろいろ兼家の悪行を書き綴るのに、それでもなおあふれ出る兼家への想いは、文学研究者ではない私にも伝わってきます。決して理想の夫とは言えない人物ですが、なぜかとても魅力的に映ります。アメリカの南北戦争を舞台にしたベストセラーで映画でも大ヒットした『風と共に去りぬ』の登場人物、レット・バトラーを彷彿とさせる、といったら『蜻蛉日記』ファンに怒られるでしょうか。

(3)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




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2016年06月09日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー

地域とともに活躍する川村学園女子大学





   男もすなる日記というもの、女もしてみんとてすなり

 誰もが諳誦したことのある紀貫之『土佐日記』の一節です。今回は、この「男もすなる」という平安時代の貴族男性の日記『清(せい)慎(しん)公記(こうき)』と、「女もしてみん」として書かれた『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』を材料として、平安時代の政治手法や貴族の家族生活についてお話しします。




1. 日記が示す一族の明暗


『清慎公記』という名前はあまり知られていません。この日記は、藤原実頼(さねより)の日記です。系図をみて下さい。実頼は藤原北家忠(ただ)平(ひら)の長男で摂政・関白までつとめた平安中期の最高位の貴族で、この一族は彼の屋敷の名前をとって「小野宮流(おののみやりゅう)」と呼ばれます。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg



 もう一度系図をよくみて下さい。小野宮一族の娘から何人か天皇のキサキが出ますが、男(おとこ)皇子(みこ)は誕生していません。「(「)素(す)腹(ばら)の后(きさき)」と陰口をたたかれた女性もいます。ご存じのように、この時代は天皇家の外戚(がいせき)になった者が権力の中枢に立つ時代です。それでも藤原北家嫡流という家柄によって実頼は摂関の地位は確保しましたが、実権は弟の師(もろ)輔(すけ)にありました。この師輔の一族は「九条流」と呼ばれます。小野宮一族が、外戚になれなかったのに対して、九条流では、代々外戚の地位に恵まれました。『蜻蛉日記』の作者の夫である兼家(かねいえ)、その三男道長(みちなが)によって、小野宮の一族は完全に九条の一族の下位に立たされることになってしまいます。

 そんな小野宮一族にとって、自らの拠り所は家柄でした。一族の祖ともいえる忠平から受け継いだ儀式運営のノウハウや宮中でのマナーの正しい知識、これこそが彼らが誇る一族の財産です。儀式のマナーなど政治活動になんの力があるか、と考えるのは現代だからです。平安貴族にとっては。儀式の円滑な運営こそが「政治」であったといえるのです。マナーに欠ける人物は貴族社会の笑われ者になりました。ちなみに『蜻蛉日記』作者の一人息子道(みち)綱(つな)は、これでよく悪口を言われています。

 実頼も弟の師輔も、朝起きて身支度を調えると、何をおいても前日の朝廷での儀式を細々と記しました。出席者、担当、備品、開始時刻から終了まで、だれがどこで何をどう行ったか、と記録します。本人にとっての次回の備忘のためだけでなく、子孫が同じ儀式に参加するとき滞りなく振る舞えるためにです。それなら、同じ内容を伝えるようですが、そこに書き手の個性がでるようです。豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な師輔(この性行は兼家・道長にもありますが)に対して、謹厳(きんげん)実直(じっちょく)といわれた実頼の日記の方がより詳細で正確であったと思われます。

 「思われます」と表現したのは、実頼の日記『清慎公記』はほとんど残っていないからです。孫の実資(さねすけ)の日記(『小右記(しょうゆうき)』(」))や同じく孫の公(きん)任(とう)の儀式書(『北山抄(ほくざんしょう)』)などに、日記の一部が引用されていますから、それらの逸文から少しだけ知ることができるだけなのです。なぜ、一族のお宝ともいえる日記がなくなってしまったのでしょうか。それは、日記は孫たちの共有財産として融通しあっていたようですが、その一部は、実資の娘婿で道長の娘婿教通(のりみち)から頼まれて貸しているとき、火事がおきて屋敷とともに焼けてしまい、また他の一部は、公任がスクラップにして儀式書の下書きに使われて原本はなくなり、また残りは一族の誰かが、借金の形にして今で言う質屋に預けられ流される寸前までいった、とあとかたもなくなってしまったからです。

 孫世代のリーダーであった実資にとって、この日記の消失はどんなに嘆いても、怒っても足りないものでした。彼にとっての『清慎公記』は、本当なら道長親子ではなく、自分こそが摂政・関白であったはずだという思いの拠り所でした。祖父の日記が失われたことこそ、小野宮一族が斜陽になった原因だと考えることで、自らの不遇を慰めたのかもしれません。その後、道長親子から儀式・作法の参考にしたい、と『清慎公記』の借用を頼まれても、自筆のメモや口答で返事をすることで、小野宮流を有職故実の家として認めさせていきます。実資の長大な日記を丹念に読んで行くと、彼の謹直な仕事ぶりとともに、一族の衰退を止められないやるせなさも伝わってきます。



(2)につづく


川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子

(元大学院人文科学研究科長)



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2016年05月19日

「紫の物語」としての『源氏物語』(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)



 光源氏が、若紫の君に詠みかけた和歌は、作品の中にあまた詠みだされる和歌の中でも、特に著名なものです。「藤の花の色である紫色が、その根にかよっている野辺の若草」とは、平安時代の人々が、紫色を染める時に染料としていた、紫草を指しています。つまり、「若紫の君」とは、「瑞々しい紫草を思わせる女の子」という意味なのです。

紫草は、花や葉ではなく、その根が染料として使用されます。下の写真は、掘ったばかりの紫根(しこん/紫草の根)です。



ムラサキ1.jpg






 この光源氏の和歌をもって、藤壺宮から若紫へと引き継がれる「紫のゆかり」が、読者にはっきりと示されます。




また、ここであらためて振り返り、藤壺宮や若紫を物語に呼び込む原動力となった、桐壺更衣に考えを遡らせてみましょう。光源氏の母親は、なぜ「桐」という植物を、その呼び名としたのでしょうか。

 実は桐もまた、下の写真のように、紫色の花なのです。


ムラサキ2.jpg





『源氏物語』のほぼ同時代に記された、清少納言による『枕草子』には、以下のような描写があります。

【『枕草子』第一二五段「木の花は」】
桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、

【現代語訳】
桐の木の花が、紫色に咲いているのは、やはり情趣があるものであって、



 「紫」という色彩を介した、藤壺宮と若紫の「ゆかり」を認めたとき、おそらく平安時代の『源氏物語』読者たちは、桐の花も同じく紫色であることに思い至ったでしょう。桐壺更衣が、なぜ「桐」壺更衣だったのかを、この時点で初めて認識するのです。つまり「紫のゆかり」は、『源氏物語』の作者である紫式部が読者たちに投げかけた、大掛かりな「知的謎かけ・知的遊戯」とみることができるのです。



【資料出典】
・ 小学館 新編日本古典文学全集『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』。ただし現代語訳は、解説の便宜上、私訳を織り交ぜた。

【主要参考文献】
・ 荒木良雄「源氏物語象徴論―特に女性の呼び名について―」(『国文学 解釈と鑑賞』第13-3号、1948年3月)
・ 伊原昭氏『平安朝文学の色相―特に散文作品について―』(笠間書院 1967年)
・ 拙著『平安朝文学における色彩表現の研究』(風間書房 2011年)
・ 鈴木宏子氏『王朝和歌の想像力―古今集と源氏物語』(笠間書院 2012年)
・ 原岡文子氏『源氏物語とその展開―交感・子ども・源氏絵』(竹林舎 2014年)


文学部 日本文化学科 講師 森田直美






2016年04月21日

「紫の物語」としての『源氏物語』(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(3)

 10代後半の光源氏は、報われることのない藤壺宮への恋に煩悶する日々を送っていました。そんなある日、流行り病の療養のために訪れた北山で、光源氏は一人の少女に出会います。それが若紫の君、のちの紫の上です。

【本文】
十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来る女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

【現代語訳】
十歳くらいかと見えて、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)などの着なれた表着(うわぎ)を着て走って来た女の子は、大勢姿を見せていた他の子供たちとは比べものにならず、成人後の美貌もさぞかしと思いやられて、見るからにかわいらしい顔だちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔は手でこすってひどく赤くして立っている。



 周りの子どもたちと見比べると、紛れようもなく血筋の良さが感じられる少女に、光源氏の目は引きつけられます。その少女の顔かたちは、焦がれてやまない藤壺宮にそっくりなのです。後々分かることですが、この少女は、藤壺宮の姪なのです。つまり、「他人の空似」であった桐壺更衣・藤壺宮とは違い、藤壺宮と少女には血縁(ゆかり)があるのでした。

 さて、一目で若紫を見初めた光源氏は、紆余曲折の末に彼女を自邸へ引き取り、養育するようになります。若紫は、お顔立ちがかわいらしいだけではなく、とても頭の良い少女でした。書も和歌も、砂が水を吸収するように、瞬く間に上手になっていきます。そんな若紫の様子に心から満足した光源氏は、ある日彼女にひとつの歌を詠み贈ります。

【本文】
手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草

【現代語訳】
早くこの手で摘み、そばで眺めたいものだ。(藤の花の色である)紫色が、その根にかよっている、野辺の若草のような少女の美しさを。





(4)につづく

文学部 日本文化学科 講師 森田直美





2016年04月04日

「紫の物語」としての『源氏物語』(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)

 桐壺更衣は、桐壺帝に寵愛を受けたことで周囲に疎まれ、幼い光源氏を残して他界します。更衣は、桐壺帝に最後の別れを告げる際、以下のような和歌を詠んでいます。

「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」

【現代語訳】
「これを今生の限りと、お別れしなければならない死出の道が悲しく思われるにつけて、私の行きたいのは生きる道のほうでございます」

 実は、この場面に至るまで、作中に桐壺更衣の言葉や和歌は、一度も記されていません。
 夫である帝との今生の別れに、初めて記された更衣の和歌は、温和でか弱い彼女のイメージから考えると、とても強い、きっぱりとした詠みぶりです。まさに末期の絶唱と言えるでしょう。
 この和歌を皮切りに、「紫のゆかり」は動き出します。


さて、桐壺更衣を亡くし、桐壺帝はなかなか悲しみから立ち直ることができません。その姿を見かねた周囲は、更衣に顔かたちがそっくりな、先帝四の宮(藤壺)を入内させます。

【本文】
藤壺ときこゆ。げに御容貌(かたち)ありさまあやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、ひともえおとしめきこえたまはねば、うけばりてあかぬことなし。

【現代語訳】
藤壺と申しあげる。いかにもお顔だち、お姿が、不思議なまで亡き更衣に似ておいでになる。このお方は、ご身分も高いだけに、申し分なくご立派で、どなたも貶め申しあげることがおできにならないので、何の気がねもなく堂々とふるまっておられる。

 桐壺更衣に「あやしきまでぞおぼえたまへる(不思議なまでにそっくりな)」藤壺宮の入内によって、桐壺帝の心は次第に慰められていきます。そして光源氏は、時々ものの隙間から、ちらと目にした藤壺宮の美しさに心惹かれ、やがて彼女を思慕するようになります。しかし、父親の后である藤壺は、どんなに恋い焦がれても、決して手の届かない女性です。

(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 森田 直美




2016年03月16日

「紫の物語」としての『源氏物語』

地域とともに活躍する川村学園女子大学






「紫の物語」としての『源氏物語』(1)

 日本文学史上屈指の名作であり、世界初の本格的な長編小説である『源氏物語』。

 この物語を、平安時代の人々は、「紫の物語」、「紫のゆかり」などと別称していました。
たとえば、『源氏物語』から50年ほど後に著された、菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ)の『更級日記』に、
以下のような記述があります。

菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ) 作『更級(さらしな)日記(にっき)』の一節

【本文@】
紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。
【現代語訳】
『源氏物語』の紫の上にまつわる巻を読んで、その続きが見たくてならなかったが、人に頼むことなどもできなかった。

【本文A】
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。
【現代語訳】
ここは、『源氏物語』に宇治の姫宮たちのことが書かれているのを、いったいどういう場所柄ゆえに、ここを選んで住まわせたのだろうと、以前から一度は見たいと思って


 なぜ、『源氏物語』は、「紫の物語」と呼ばれるのでしょうか。
 それは、この作品の根幹を形づくっている、以下の3人のヒロインに由来しているのです。


桐壺更衣…源氏の母親。桐壺帝の寵愛を受けるが、光源氏が3歳の夏に他界する。
藤壺宮…先帝の四の宮。桐壺更衣に瓜二つ。桐壺帝の后となる。
紫の上(若紫)…藤壺宮の姪。幼少期、光源氏に見初められ、引き取られる。



(2)につづく


文学部  日本文化学科  講師  森田 直美