2017年01月26日

祭りが生まれる、祭りが変わる

地域とともに活躍する川村学園女子大学





祭りが生まれる、祭りが変わる―民俗学の立場からみた祭りの現在―(1)



はじめに

「祭り」といえば「伝統」や「ふるさと」というイメージと親和的です。しかし、それはあくまでもイメージです。それらは大小さまざまな変化を経ながら今日のかたちをとっていますし、新たな「祭り(らしきもの)」が生み出されてもいます。本講座では、民俗学の立場から、変化と創造に満ちた祭りの姿を検討してみます。


1.「祭り」とは

もっとも狭義における「祭り」とは、周期的な神の来臨に際して、これに奉仕しつつ神託を乞い、祈願を届け、また感謝の意を告げて、再び送り返す、集団成員による集団のための宗教儀礼もしくはその複合と捉えるべきものです。祭りは、「まつらう」こと、つまり奉仕することを意味します。一年に一度、決まった日に来臨した神に奉仕することが祭りの一つの根幹とみることができるでしょう。



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写真1 埼玉県秩父郡小鹿野町の大徳院稲荷神社の祭り。2016年及川撮影。





写真1は大徳院という寺にある稲荷神社の祭りです。祭典には地区の人びとのみが臨み、観光客はきません。地区の人びとが、地区のために行なう「祭り」です。
ただし、祭りの宗教的側面に注目するのみでは、現実を理解する上で不十分です。現代と比較して娯楽の選択肢の乏しい生活環境では、「祭り」はきわめて「楽しみ」な機会の一つでもありました。



2.「祭り」「祭礼」「イベント」

私達は、祭りは喧騒と興奮の機会であるというイメージをもっています。民俗学では、集団が集団のためだけに行なうもの「祭り」とは別に、「祭礼」という概念を使っています。相違点は「観客」の存在です。「祭礼」は、「祭り」に観客を意識した趣向を組み入れ、それが盛大化したものを指します。写真2は佐原の祭礼です。立派な山車を各町内で曳きまわす、とても賑やかな「祭礼」です。



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写真2 千葉県香取市佐原の祭礼。2008年及川撮影。




 祭り(祭礼)は二つの顔をもつといえます。厳粛な神迎えの祭儀と大騒ぎの機会という二側面です。人びとは祭りに刺激をもとめ、新しさ・面白さを競っていきます。こういうエネルギッシュな側面もまた、祭りの根幹と考えたほうがよいでしょう。

 このことを前提に目を向けてみたいのは、現在、各地で行なわれているイベントです。宗教性の希薄な、もしくはまったく伴わない「祭り的なるもの」が各地にあふれている。これらは、ときとして「○○祭り」などと銘打つわけですが、果たして祭りといって良いのか否か。これはたしかに「神なき祭り」ではあります。しかし、体験される様態としては、宗教的な祭りと連続性があるということができます。祭りは、神が来臨し、人間に活力を与える機会です。もしくは、淡々とした日常にリズムを与え、人びとを賦活するものでもあります。イベント祭りもまた、非日常の体験によってリフレッシュする機会ということができます。



3.真正性

こうした祭りや祭礼の「いま」を考えようとする場合、難しい問題が存在します。それが真正性です。



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写真3 秋田のなまはげ。2009年及川撮影。



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写真4 埼玉県の人形サミット。2016年及川撮影。




写真3は秋田の「なまはげ」です。男鹿半島等で小正月の日に、村の若者たちがこれに扮し、各家をまわるという行事ですが、この写真は村の行事を撮影したものではありません。実は、秋田市の駅前にある居酒屋のショーなのです。問題は、この居酒屋でのなまはげ体験は、「本当の」なまはげ体験といえるのか否かということです。一年の特定の時期、特定の村で、村人たちのために行われていた行事と、この居酒屋のなまはげを同列に見てよいのか否か。

この種の問題は枚挙に暇がありません。写真4は市民ホールで秩父市白久の串人形が演じられている場です。伝統文化の普及啓蒙のために行われている催しですが、ここにはナマハゲと同じ問題が横たわっています。祭りの雑踏のなかで観客の息遣いを間近に感じながら、彼らを楽しませるために、つまり観客との相互性のなかで演じられていた人形芝居と、市民ホールのステージで披露される人形芝居とは、同じものといって良いのか否か。

本来の文脈から切り離されたところに存在する行事や芸能は、文化の真正性にこだわる立場からは問題視されかねません。しかし、これらがあるからこそ、文化の継承の可能性は拓かれ、担い手のモチベーションにもなります。そもそも、前近代的な生活文脈から切り離されていない伝統文化など現代社会にあり得るのでしょうか。ひるがえって、文化に偽物と本物という区分を持ちこむことが有効かどうか、という問題も発生します。文化は人間に営まれるもののすべてと言ってもよろしい。とすれば、そもそも「偽物の文化」など、あり得えないのかもしれません。厄介な問題ですが、現代社会で文化を考えようとする時、この点は必ず検討してみるべき課題の一つといえるでしょう。




(2)につづく

文学部 日本文化学科 講師 及川 祥平




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2017年01月15日

アメリカ大統領選挙2016 (4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





4.なぜクリントンが負けたのか


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ヒラリー・クリントンは政治経験もあり、多くの研究者、メディアが勝利すると予想していました。今回はクリントンが負けた原因について考えたいと思います。



クリントンは11月9日の敗北宣言の中で、「最高で最も困難な『ガラスの天井』は打ち破れませんでした。しかし、いつか誰かが、私たちが考えているよりも早く達成することでしょう」と述べました。

この「ガラスの天井」という言葉は、クリントンがよく使っていた表現です。これは女性がいくら頑張っても、能力があっても、組織のトップになることを阻む見えない障害があることを意味します。この言葉は、アメリカで女性の社会進出が本格的に始まった1980年代から使われ始めました。


アメリカでは女性の社会進出が進んでいるというイメージがありますが、必ずしもそうとは言えない現状があります。スイスの世界経済フォーラムが毎年出している世界各国の男女間の不均衡を示す指標であるGlobal Gender Gap Reportでは、今年のアメリカの順位は144か国中45位でした。アメリカでは政治の世界への女性進出が意外と進んでいない現状があります。

このような状況にあって、政治の世界の最高の職である大統領に女性が初めて就任するということを多くのアメリカ人女性が望んでいるのでは、と私たちは想像しますが、実際にはそうではありませんでした。



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CNNの出口調査(CNN: Presidential Election Results 2016)で女性票はクリントンに入ったという結果が出ましたが、上記の表にみられるように、白人女性はトランプに投票している人が多いのです。



女性がクリントンを支持しなかった理由は2つあります。1つ目はサンダース旋風です。当初、クリントンは余裕で民主党の大統領候補となると予想されていました。しかし、それを阻んだのが自らを「民主社会主義者」と呼ぶバーニー・サンダースです。彼は政府の役割の大幅拡大を主張し、所得格差の拡大に対する怒りを持つ1980年から2000年ごろに生まれた「ミレニアル世代」と呼ばれる若い人々の支持を拡大しました。彼は予備選の際、クリントンを「富裕層の代表」と呼ぶキャンペーンを展開し、この見方が若年層の間に広がりました。クリントンが民主党の大統領候補になった後は、サンダースはクリントンに投票するよう呼びかけましたが、一度ついたイメージを払拭するのはなかなか難しかったようです。



また、アメリカ人の間には思いのほかクリントンに対する嫌悪感、不信感が広がっているようです。クリントンは、夫のビルと共にかつてから不正のうわさが尽きませんでした。アーカンソー州知事夫人時代には土地開発不正融資問題であるホワイトウォーター疑惑、ファーストレディ時代にはホワイトハウスの旅行事務所職員全員を解雇し、後任に大統領の知り合いを据えたというトラベルゲート、また、FBIが保存する個人情報を不正に取り寄せたというファイルゲートといったスキャンダルがありました。さらに、国務長官時代には、家族で運営するクリントン財団に献金した外国政府や企業に有利な扱いをしたという疑惑を持たれています。

また、ファーストレディ時代に医療保険制度改革プロジェクトの責任者に就任したという事実が、ファーストレディは前面に出るべきではないと考える保守派の反感をかったともいわれています。



クリントンが最も苦しめられたのはメール問題です。これは彼女が国務長官だった時に、私用アドレスで公務上のメールをやり取りしていたという問題です。大統領選直前の10月29日にFBIの長官が捜査再開を報告するという事態を記憶している方もいると思います。この報告は、少し前に明らかになったトランプの女性問題を打ち消すインパクトがありました。このような10月になってからの大統領候補にまつわる新事実を「オクトーバー・サプライズ」といいます。

クリントンのメール問題は日本でも大きく報道されましたが、なかなか日本人には理解しにくい部分があります。私的なメールサーバーを利用していたというセキュリティ上の問題に加え、クリントンに対する不信感がこの問題の裏にあるのです。

アメリカ政府の公式文書は、将来公的記録として公開されることが義務付けられています。ある一定の期間を経れば、大統領の直筆のメモでも直接見ることができるようになるのがアメリカの制度です。このルールに従えば、国務長官時代のクリントンのメールも将来的には公開されるものとなります。しかし、クリントンのように自分でメールを管理していれば、当局から開示請求があったとしても、私的なメールとして提出を拒むことができます。すでにクリントンは個人的なメールとして大量のメールを消去しているといわれています。そのメールの多くは、クリントン財団をめぐるやり取りだったという見方が強いのです。このような経緯を見たアメリカ人は、公開情報が操作されているのではないかという疑念をクリントンに持っているのです。

したがって、アメリカ人の多くは女性大統領の誕生に対して拒否感を持っているわけではありませんが、クリントンでなくてもよいと考えていたと思われます。また、サンダースを支持したような若い女性は、女性であるというだけではクリントンを支持できないという状況にあるのです。



このように大統領選は現代アメリカ社会を大いに反映しているといえます。日本に大きな影響を与えるアメリカの動きはこれからもメディアで頻繁に報道されると思いますので、ぜひ関心を持ってもらいたいと思います。

(画像はすべてWikipediaのパブリック・ドメインのものを利用しています)


文学部 国際英語学科 講師 倉林直子





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