2017年11月30日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(2)〜(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.軍港ヴィルヘルムスハーフェンと大水深港湾ヤーデヴェーザーポート

 前述したように、アーダルベルト王子の軍港建設地の選定は、彼の体験によって培われた観察眼に負うところが大きい。彼はヤーデ湾の一画を高く評価し、そこには現在でも軍港が立地している。そして2001年ドイツ連邦共和国は、ドイツ初の大水深港湾建設予定地を選定することになった。今回はコンピュータを用いて、自然条件ならびに人文・社会条件に関するデータを総合的に分析した結果、ヤーデ湾の一画、アーダルベルト王子の選定と同じ場所が選ばれた。

ドイツの港は基本的に河川港であり、ドイツ最大の貿易港ハンブルクもエルベ川の河川港で、北海まで110kmのところに位置している。1990年代に入ると、船の大型化が予想をはるかに超える速度で進み、河川港では水深18mを確保することは困難になった。そのためには、沿海岸港を開発する必要があった。
2016年にドイツ初の大水深港湾ヤーデヴェーザーポートが全面的に供用を開始した。その結果、ヴィルヘルムスハーフェン市には、軍港と最新鋭のコンテナ港が並存することになった。



3.軍港都市キールと海の祭典キーラーヴォッヘ

 1865年プロイセン王国ヴィルヘルム1世の時代に、現在ではポーランド領になっているが、ダンツィヒから海軍の駐屯地がキールに移転してきた。1871年には、キールはドイツ帝国の軍港となった。第2次世界大戦が終了すると、1955年からはNATO軍の軍港として機能するようになったが、1990~2010年にかけて軍縮により平和のための出動へと役割が変化していく。2015年には、海軍関係者は3,800人で、そのうち海軍の兵士は1,650人であった。これが、軍港都市キールの成立と変容についての概要である。

 ところで、軍港キールにどうして海の祭典キーラーヴォッヘKieler Wocheが誕生したのだろうか。この祭りは北ヨーロッパ最大の規模を誇り、海の祭典としては世界的なものである。2016年には、6月18日から26日まで開催され、訪問者は約300万人、ヨットマンは4,000人を超えた。
きっかけは、キール峡湾で海軍のヨットマンが仲間内で楽しんでいたレースであった。1881年9月1日に、このレースを目撃した2人の人物がいた。北ドイツレガッタ協会に所属する2人は、もっと大々的にヨットレースを開催したいと考えるようになった。

ようやく1881年の冬に、ハンブルクとキールのヨットマンをハンブルクの商人マインホルト家に集結させ、以下のような協定を締結することに成功した。それは、1882年の夏に、北ドイツレガッタ協会がキール峡湾で最大規模のヨットレースを開催するというものであった。その後、海軍の協賛を取り付けることにも成功している。こうして、1882年7月23日に第1回ヨットレースが開催された。2~3年後には、キールのヨットレースはレガッタスポーツの最高峰と称されるようになり、キーラーヴォッヘへと昇格していくことになる。
ところで、この海の祭典がひと際注目されるようになったのは、1889年から、毎年のように皇帝ヴィルヘルム2世が家族を伴って参加するようになったからである。

バルト海に面するキール峡湾でのレースに北海側からやってくるヨットマンのために、テニングからアイダー運河を利用してキールを訪れることが推奨された。その当時はまだ、北海・バルト海運河が建設されていなかったからである。その後、1887~1895年にかけて北海・バルト海運河が建設された。キール軍港を拠点とする戦艦とキール峡湾で開催されるヨットレースに参加する船のサイズを考慮して、運河の幅・水深・鉄道橋の高さが設定された。また、船のサイズの大型化に対処するために、1907~1914年にかけて拡張工事が行われた。

4.ヴィルヘルム2世とキーラーヴォッヘ


 1889年に初めてレガッタに参列したヴィルヘルム2世は、ヨット競技の初心者ではあったが、熱心なファンであった。彼はこの時に、持ち回り優勝杯を提供している。皇帝は家族同伴でやってきたので、しだいにヨーロッパの貴族・外交官・軍人・政治家も皇帝に倣い家族を伴って参加するようになった。そのため女性や子供にも配慮することが求められた。

しだいにキーラーヴォッヘは、単にヨット競技だけに力点を置いたスポーツの祭典にとどまらず、ヨーロッパの社交界をも巻き込んで華やかな祭典へと変容していった。軍艦やヨットにも花飾りが付けられてお祭り気分を盛り上げ、軍艦上ではダンスパーティーや食事会なども開催された。また海上だけではなく、市内の森ではピクニックも行われた。キーラーヴォッヘは、ヨーロッパの上流階級の老若男女にとって、誰もが何らかの娯楽を見いだせる祭典として人気があった。

 これは皇帝ヴィルヘルム2世にとっても、1年で最高の楽しみとなった。皇帝は彼のヨットである流星号やホーエンツォレルン号に、海のスポーツマンであるという条件つきで、上流階級に属さない市民をも招待している。キーラーヴォッヘには1892年、ロシアのアレクサンドル3世が北極星号で訪れ、1897年には、ベルギーのレオポルド2世、1904年にはイギリスのエドワード7世が参列している。


(5)につづく


文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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2017年11月02日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





海の祭典 −ホーエンツォレルン家と海−

はじめに

南ドイツのシュヴァーベンを発祥の地とするホーエンツォレルン家は、北ドイツ平原に進出して以降も海には疎い一族と評されてきた。しかし、この一族から海を愛し船を愛する2人の人物が現れた。1人は、アーダルベルト・フォン・プロイセン(1811~1873年)であり、もう1人はドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世(1859~1941年)である。

前者はプロイセン王国の軍港建設にあたり、場所の選定をはじめプロジェクトを一任された海軍大将である。軍港の所在地ヴィルヘルムスハーフェン市には、彼の銅像とヴィルヘルムという名前を港の名称として与えたヴィルヘルム1世(1797~1888年)の銅像が立っている。一方後者は、軍港キールで開催される、世界最大級の海の祭典、キーラーヴォッヘの創設と発展に寄与したドイツ帝国最後の皇帝である。

実は、軍港も海の祭典も、元をただせば2人の趣味がその地を求めたことが発端であり、加えて軍港にはむしろ似つかわしくないと思われるような、ほのぼのとしたエピソードに彩られていることについては、日本ではあまり知られていない。

そこで本講座では、ホーエンツォレルン家にとっての軍港が、本来の機能以外に所在都市にもたらした経済的・文化的意義について考察する。




海の祭典1−写真1.jpg



ホーエンツォレルン城よりシュヴァーベンの山々を望む






1.軍港ヴィルヘルムスハーフェンの成立

 プロイセン王国は、1843年から1852年にかけて断続的に続いたデンマーク王国との第1次シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争に敗北を帰することになった。当時、軍港を有していなかったプロイセン王国にとって、デンマーク王国による海上封鎖は決定的で、そのため早急に北海沿岸に軍港を建設する必要に迫られていた。
 ところで、海・船・港には疎いホーエンツォレルン家にあって、唯一人これらに精通する王子が現れた。それがアーダルベルト・フォン・プロイセンである。彼の父はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の弟で、彼自身もその次男であることから、王位継承の可能性は極めて低く、それだけに自由度が高いという立場にあった。

 海・船を好み、船旅をこよなく愛した王子は、この立場を生かしてオランダ・イギリス・ロシア・トルコ・ギリシャ・ブラジル等に出かけている。ここでは、これが単に趣味に終わらなかったということが特記すべき点である。まずは海軍力について、それが戦時だけに限らず、通商・工業発展にとっても重要であることを主張している。さらに彼は、自身の体験から軍港の場所はヤーデ湾の一画にあるヘペンスHeppens以外にはありえないと提言した。現在のように豊富なデータを駆使してコンピュータで導いた結論ではなく、各地を旅した際に磨かれた観察眼によるものであった。この観察眼が並外れたものであることは、21世紀になってコンピュータが証明してくれることになる。これについては後述する。

 そこでプロイセン王国は、1853年にオルデンブルク大公国との間にヤーデ条約を締結し、軍港建設のために313haの土地を獲得した。軍港の建設は、海軍大将でもあった王子に一任され、彼はエンジニアで水利工学の専門家でもあったハーゲンを指名して計画立案にあたらせた。1856年、アーダルベルト王子の従兄にあたるプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がこの計画を承認している。
 ところで、プロイセン王は軍港の完成を待たずに死去したので、彼の弟であるヴィルヘルム1世の治世となった。後の初代ドイツ皇帝である。ヴィルヘルム1世は、完成したばかりの海のツォレルン港Hafen Zollern am Meer(通称ヘペンス港Hafen Heppens)に自分の名前を付けるように言った。つまり、ヴィルヘルムの港Wilhelmshafenとせよとのことであった。ここまでは、大変めでたい話であった。

 ところが、1869年6月17日、港湾建設総監督のゲーカーが事もあろうに、駐屯地教会の礎石にWilhelmshavenと低地ドイツ語で綴って刻印してしまった。一方、ベルリンでは正式な書類に正書法でWilhelmshafenと記していた。自分の間違いに気付いたゲーカーは、厳罰を覚悟で問い合わせをすると、なんとヴィルヘルム1世からは、低地ドイツ語のままでよいとのお達しがあり、しかも何のお咎めもなかったのである。おまけにベルリンの書類の方を書き変えておくというあまりにも寛大な処置であった。ヴィルヘルム1世の当地における人気は、もちろん急上昇したのである。




海の祭典1の写真2.jpg



アーダルベルト・フォン・プロイセンの銅像

(ヴィルヘルムスハーフェン市の中央駅に近い公園にある)







海の祭典1の写真3.jpg



ヴィルヘルム1世の銅像

(ヴィルヘルムスハーフェン市の中央駅に近い公園にある)



(2)につづく


文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




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