2017年12月21日

海の祭典ーホーエンツォレルン家と海ー(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





5.皇帝退位後のキーラーヴォッヘの変容


 皇帝の、そしてヨーロッパの上流階級にとってのキーラーヴォッヘは、しだいに戦時色が濃くなっていく過程で、軍港キールとドイツ帝国海軍の軍備を誇示する目的での開催へと変容していく。しかし、これは長くは続かなかった。第1次世界大戦の終結と皇帝の退位によって状況は大きく変化する。大戦によって失われたものは、皇帝というヨット競技の支援者・キール軍港・軍需産業・造船業・艦隊・帆船そしてヨット連合のメンバーの命であった。また、ヴェルサイユ条約による軍縮ゆえに、戦艦の建造と取得は禁止されていた。

 1919年のキーラーヴォッヘの終了後に今後の開催内容について、ヨットマン・ヨット競技以外のスポーツ連合・キール市の間で話し合いが行われた。しかし、斬新かつ普遍的な催し物を創設することは不可能であった。そこでキール市は1920年から新たな道を模索する努力を開始した。

 とはいっても、一般市民は皇帝の時代からただのエキストラであり、本来、社会的な娯楽など存在しない階級であった。特に労働者階級に至っては、ヨットスポーツを思想的に拒否していた。そもそもドイツのヨットの伝統は、皇帝に帰する政治的なものとの認識が一般的であった。そこで結論としては、芸術・文化・スポーツのヘルプストヴォッヘに転換することを決定した。秋の○○週間という、どこにでも見られる催し物である。

 この盛り上がりを欠く状況を大きく転換させたのは、1924年にキール港に入港した、祭典用に装飾されたバルト海艦隊であった。これを見た市民にかつてのキーラーヴォッヘの景観がよみがえったのではないかともいわれている。つまり市民の間で、軍港とヨット競技の結合を歓迎するムードが高まっていった。そしてこれが正式にキール市議会で決定されたのが、1927年のことであった。戦前に回帰して、競技と社交的な催し物のコラボでいくという方針を軍港都市キールは選択したのである。

 ところで、現在でもこの思想は変わっていない。300万人の観客を楽しませる世界的な海の祭典として、100隻の帆船によるパレードとヨットレース、そして老若男女を楽しませるための催し物を満載して、毎年6月に開催される。




3−1海の祭典.jpg



レンツブルクの鉄道橋から北海・バルト海運河を望む
(ヨットもここを航行してキーラーヴォッヘに向かった)




海の祭典写真3-2.jpg



キーラーヴォッヘの会場となるキール峡湾
(左手奥に軍港があり、手前は大型フェリーの埠頭)



おわりに

 海には疎いと言われていたホーエンツォレルン家であるが、2つの軍港の発展のみならず、軍港が立地する都市の発展にも寄与したことが明らかにされたと思う。
海・船そして船旅を愛したアーダルベルト・フォン・プロイセンの軍港適地を選択する観察眼の鋭さや自分の名前を港ならびに都市の名称として与えたヴィルヘルム1世が綴りの間違いに対し極めて寛大な処置を行ったことは、今でもヴィルヘルムスハーフェン市民の誇りである。港湾適地は軍港に限らず、21世紀においても、ドイツで唯一の大水深港湾の建設地として選定されることになった。

キーラーヴォッヘは軍港でのヨットレースに端を発するが、ヴィルヘルム2世の家族を伴っての参加が、ヨーロッパの上流階級の老若男女をキールに集結させることになった。海のスポーツの祭典は、競技と社交的な催し物を結合させた世界的な海の祭典へと発展し、現在でもキールを最も特徴づけるものとなっている。


参考文献

1.Brune-Mettcker Druck-und Verlaggesellschaft mbH, Wilhelmshaven,
2003, pp.152
2.Feldhahn,U. Die preußischen Könige und deutschen Kaiser, Kunstverlag, 2014, pp.40
3.Hofbauer,K. Das Preußische Königshaus, Börde-Verlag, 2016, pp.47
4.Kaack,U. und Kliem,E. Wilhelmshaven Gestern und Heute, Sutton Verlag, 2015, pp.119




文学部 史学科 教授 生井澤 幸子




posted by 園遊会 at 13:01| Comment(0) | 祭・祀・政