2018年04月09日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





 

(4)労働力の簒奪・400年続いた拉致

1.鉱山技師だった奴隷たち

 16世紀末まで繁栄を誇っていたサブサハラ・アフリカは2度滅びた。400年に及ぶ奴隷狩りで社会と経済が滅び、19世紀後半の植民地化で国が滅びた。古来アフリカにあった奴隷は敗戦国の民や罪人であったが、商家に買われた奴隷は「賢い奴隷は主人の財産を引き継ぐ」とのアフリカの諺にある通り、主人の娘さんの婿になり、また王宮に入った奴隷は近衛部隊を構成したり、王位継承権に発言権を有したりしていた。今日でもモロッコ国王の曾祖母は黒人奴隷であり、そのことはむしろアフリカとの結びつきとして誇りにされている。すなわち、人間を人間として扱わない奴隷はヨーロッパの産物である。

 このような奴隷狩りを始めたのはポルトガル人である。ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを攻略し、イスラム帝国が支配するアフリカ大陸を次第に南下して行き、1444年にはセネガル北部からリスボンに最初の奴隷が連れてこられた。ポルトガルは西アフリカ沿岸の南下を続け、それにつれて本国に送る奴隷は増え続けた。

 現在のアンゴラの首都ルアンダに要塞を築いたポルトガルはここを本格的な奴隷の積出拠点とし、次々とコンゴ王国(今日のアンゴラおよびコンゴ)の人々を拉致していった。ブラジルに向かう大西洋上では鎖に繋がれたまま船倉にびっしりと並べられ、その不潔で過酷な状況で命を落とす人が多かったが、船旅を生き延びた人たちがブラジルに着いてみるとそこには何もなく、食糧生産から始めなければならない状態であった。コンゴ王国からは平民、貴族ひいては王族に至るまで奴隷として連れ去られ、多くのインテリや技能者を含んでいた。彼らがブラジルに到着して気が付いたのは、大地がアフリカと同じ赤土、テラ・ロッサ(赤土)だということで、それならば鉄があるに違いないと考えた。こうして奴隷たちが鉄鉱石を探し出して鉄を打ち、自分たちで農機具を作っていったのである。他方、奴隷の「所有者」であったポルトガル人には、そのような鉱業に関する知識や能力はなかった。

 この奴隷たちの熱帯農業及び鉱業の知識が白人の主人たちよりすぐれているとの実態は、ナイジェリアからガーナにかけての海岸線(「奴隷海岸」)からオランダ人やイギリス人などによって連れ去られたアフリカ人たちについても記録されている。カリブ海や新大陸における過酷な労働で熱帯農業と特に鉱業に秀でた奴隷たちが次々と死んでいく中、新たな奴隷を補給する需要がますます高まり、奴隷の価格は高騰していき、1771年には「黄金海岸」で働いていた英国の奴隷買い付け代理人からロンドンの役員宛に支払いを金(きん)で行わなければ奴隷を入手できないとの報告が記録されている。



2.ヨーロッパの繁栄をもたらした奴隷たち

 いったい何人の人が連れ去られたかについては、正確な記録が一部にしかないため推計によるが、1000万人から1200万人、研究者によっては3000万人との指摘もある。

記録に基づく人数をいくつか例示すれば、
@ルアンダで奴隷の積み込みに携わっていたイエズス会のキリスト教宣教師たちがつけていた正確な記録を見ると、ルアンダからだけでも1468年から1641年の間に138万9千人が新大陸に「船積み」された。

A国王フェリペ1世(スペイン王フェリペ2世がフェリペ1世としてポルトガル王を兼ねていた)への報告によれば、アンゴラからブラジルに1575年から1591年の間に52,023人の奴隷が送られた。

Bポルトガルが抑えていたアンゴラとモザンビークを併せると、1580年から1680年の100年の間に約百万人、すなわち年平均1万人が連れ去られた。

奴隷は、北はセネガル川河口から南は今日のアンゴラの南端におよぶ5000キロにも及ぶ地域、さらに東海岸のモザンビークなどアフリカ各地から集められたので、これらの数字は氷山の一角でしかない 。

 スペインは 、1492年にイベリア半島最後のイスラム王国グラナダを陥落させ、また同年コロンブスがアメリカを「発見」した。こうして、新大陸で鉱山とプランテーションに手を付け始めたが、「インディアン」達は鉱山技術を持たず、スペイン人による過酷な使役によって絶滅寸前に追い込まれた。スペインが「発見」した当時、イスパニョラ島には113万人のインディアンがいたが、1518年には1万1千人以下となったと当時のスペイン人が記述している。その代替労働力として1505年にセビリアの船が新大陸に向けて17人のアフリカ人を鉱山設備と共に船積みした。1510年には王室がアフリカ人のアメリカ行きを公認、その6年後にはスペイン領のカリブ海諸島で奴隷が栽培した砂糖の最初の出荷がスペインに届いた。さらに2年後の1518年には、アフリカのギニア湾からスペイン領アメリカに向けて、アフリカ人奴隷を積んだスペイン船が直航するようになった。
 
 ポルトガルに始まり、スペイン、オランダ、デンマークなどに続いて海洋進出して帝国を築いたイギリスは、奴隷貿易で大いに繁栄することとなった。特に奴隷貿易の拠点港となったリヴァプールとブリストルは一気に富を蓄積していった。例えば、リヴァプール港では1783年から1793年の11年間で約900回の奴隷船の航海がおこなわれて30万人以上の奴隷を運搬、その価格は1500万ポンドに上り、そのうち純益は1200万ポンド以上、すなわち毎年100万ポンド以上の儲けをもたらした。

 ブリストルについて1881年に歴史家J.F.Nichollsは次のように記述した。
「ブリストルには奴隷の血で固められていない煉瓦は一つもない。豪華な館や贅沢な生活は、ブリストルの商人が売買した奴隷の苦しみとうめき声で出来ている。」  歴史上の偉人もその元をたどれば奴隷で富を蓄積した例もある。例えば英国史上有名な首相となったグラッドストンの父親ジョン・グラッドストンは奴隷船と奴隷のプランテーションで富を築いた。また、英領北米植民地の反乱の首謀者(イギリスの見方)ないしアメリカ建国の英雄(アメリカの見方)であるジョージ・ワシントンは500人の奴隷の所有者であった。



3.奴隷貿易の泥沼化とヨーロッパ人による正当化

 では、なぜアフリカからかくも大勢の人たちが奴隷として拉致され続けたのか。それは奴隷を鉄砲の代金としてヨーロッパ人が要求したことによる。当初、ポルトガル商人たちは、コンゴ王国内の部族長などに下剋上をささやきつつ鉄砲を欲しければ奴隷で支払えと強要した。ある村ないし部族がこのような方法で鉄砲を入手するということは、近隣の村ないし部族にとっては自分たちが襲われて奴隷に売られるという大きなリスクを意味する。そのため後者も鉄砲と火薬を入手しようとしてポルトガル人商人に接触する。ポルトガル商人は金や象牙では鉄砲を売らずに、ブラジルの開拓やプランテーションに必要な奴隷を持って来させる。この悪循環はその後アフリカに進出していったオランダ、イギリス、デンマーク、ブランデンブルグ(プロイセン)ほかのヨーロッパ諸国にも引き継がれていき、売り手と買い手双方の事情から、アフリカ人による近隣の王国からの奴隷の拉致とヨーロッパ人による奴隷を対価とする銃の売り込みは一つのシステムとして確立し、その悪循環の上に400年にわたって奴隷貿易が続いていった。

 こうして4世紀にわたる奴隷狩りと奴隷貿易で大西洋の対岸にたどり着いたアフリカ人は1000万人ないし1200万人に上ると推計されているが、住んでいた村から拉致されてから海岸線のヨーロッパの侵略拠点で船に積み込まれるまで、さらに大西洋の航海中に死亡したアフリカ人は何百万人にも上った 。

 航海の途中に死亡したアフリカ人たちはそのまま海に捨てられたが、「積み荷」が劣化する、すなわちカリブやアメリカにつく時点で奴隷が病気になっていると売りさばけないために、病気になると生きたまま海に捨てられた例もある。「奴隷」の法的位置づけについて、例えば1781年のゾング号(ZONG)事件として知られる裁判において次の実例がある。「人間」を海に捨てたのかどうかについて、裁判長のマンスフィールド卿は、「奴隷たちの案件は、馬が船外に放り込まれた案件と同じである。」と宣言した。また、同裁判の荷主側弁護人は、「人間が船から放り投げられたとの話はいったい何だ?これはモノ(goods)の案件である。これはモノの投棄の案件である。彼らはモノであり財産である。」

 ヨーロッパ人は、奴隷は人間ではなく動産であるとの法的位置づけを行い、そのため売買も自由、なればこそ奴隷商人たちは自分の持ち物であることを示すために家畜にするのと同様、赤く熱した鉄ごてを奴隷に押し付けて烙印をつけた。また、多くの奴隷市では最も残酷なことに意を用いた。すなわち、同じ部族、同じ家族を一緒に買わないようにしたのであった。それは奴隷たちが相互にコミュニケーションをして反乱などを目論まないようにするためであり、結果としてきちんと学ぶ機会もないまま所有者の言語を見よう見まねで話さざるを得なくなった。ヨーロッパ人たちは拉致したアフリカ人から人間が人間たるゆえんである言語を奪ったばかりか、所有者の言語をきちんと話せないことをもってさらに見下したのである。



4.奴隷貿易とはアフリカからの労働力の喪失だった

 アフリカ側から見ると、本来彼らの祖国における労働力として農業、金、銅などの採掘、あるいは交易などの経済活動を担うべき健康かつ屈強な若者たちが、少なくとも1000万人、推計によっては3000万人 、すっぽり抜け落ちたことを意味する。すなわち、セネガルからアンゴラに至る沿岸地方の奴隷を狩られた地域においては、労働力がなくなってしまったがゆえに経済活動が停滞してしまった。体に例えれば、いつまでも出血が止まらない状態が四百年続いたからである。これこそがアフリカにおける奴隷狩りの最大の経済的インパクトである。

 イギリスに巨大な富をもたらした三角貿易を担った貿易船の例を見ると、その三辺のいずれにおいても積み荷は満杯であった。ロンドン、ブリストルないしリヴァプールを出港する時には銃、火薬、繊維製品、ビーズ、ろうそく、砂糖、タバコ、酒などの商品を満載してアフリカに向かい、アフリカで奴隷と交換する。アフリカからカリブ海向けの航海は奴隷で満杯となり、ジャマイカなどで砂糖、香料、ラム酒、タバコ、コーヒーなどと交換される。カリブからイギリスへの帰路はこれらの商品を満載し、イギリスで売りさばく。

 こうして確立していったイギリスーアフリカーカリブ・アメリカの三角貿易システムは、アフリカの産業にも負のインパクトを与えていくこととなった。すなわち、イギリスで産業革命が起きると、イギリスからアフリカ向けの積み荷は機械生産による綿布や金属製品となり、これが現地製の綿製品や古来の日用の鉄製品を駆逐していった。かつて16世紀には、ポルトガルが西アフリカ産の綿布をヨーロッパに輸出していたが、三角貿易の中で流れが逆転した。こうして奴隷貿易ネットワークに組み込まれたアフリカ沿岸諸王国における家内繊維産業が近代産業に転化する芽を摘んでいった 。

元来、アフリカの繊維産業は決して侮るべきものではない。例えば、内陸に位置していたことが幸いして三角貿易の埒外にあったカノ(現北部ナイジェリアの町)は中世以来綿製品と藍染めで有名であり、19世紀半ばにカノに滞在したドイツ人ハインリッヒ・バルト は、カノにはセネガルからチャド湖に至る西スーダン地方の綿製品需要を賄うに十分な綿産業と呼べる水準に達している家内産業の隆盛があったと記録している 。しかしこれも砲撃による植民地化で衰退の道をたどった。



5.なぜ奴隷制の禁止ではなく奴隷貿易の禁止だったのか

 15世紀にアフリカからの奴隷狩りが始まってから4世紀後の後、1807年にイギリスで奴隷貿易が廃止され、1833年にイギリス本国と大英帝国領内での奴隷制が議会によって廃止された。なぜ奴隷貿易が廃止されてから奴隷制の廃止までさらに26年、言わば一世代を要したのか。逆に言えば、なぜ奴隷制ではなく、奴隷貿易を廃止したのか。

 それは、奴隷貿易が成立しなくなったからである。その一つの理由は、ジャマイカの砂糖産業がキューバやアメリカの大プランテーションの前に競争力を失い、キングストンの奴隷市で奴隷を買う人がいなくなっていった。すなわちアフリカから奴隷をキングストンに運ぶ経済的メリットが消滅したのである。二つ目の理由は、産業革命によってイギリスの経済構造が大きく変わり、富の源泉が植民地の大プランテーションから国内の製造業依存に移行していったからである。労働集約性が極めて高い大規模プランテーションに富を依存している限り、その労働力を大量かつ不断に供給する必要があった。すなわち、過酷な労働条件のもと奴隷が次々と死ぬのでアフリカから大勢の人を拉致し続ける必要があったが、国内の製造業に富の源泉が移ったことによって、労働力確保の関心はアフリカからの奴隷ではなく、エンクロージャーで農村を追われて都会に流れ込んだイギリス人労働者達に向いたのである。

(出典:石川薫、小浜裕久著、「『未解』のアフリカ」、勁草書房、より抜粋)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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