2019年06月06日

中世史家の見たフランス革命(1)−1

地域とともに活躍する川村学園女子大学






はじめに
 フランス革命はふつう1789年から99年までの10年間の激動を言いますが、皆さんはこの革命をどのように理解しているでしょうか。

「絶対的権力を持つ国王が優秀な軍隊と官僚制を駆使して民衆を弾圧していた。耐え切れなくなった貧しき民衆が立ち上がり、暴君をギロチンに掛け、自由と平等を謳歌する新しい社会を建設した。フランス革命は近代の幕開けを宣言した人類史上に燦然と輝く大事件である」と、おそらく皆さんの理解はこのようなものかと思います。

しかしフランス革命200年記念祭が行われた1989年前後、今から30年ほど前のことですが、この頃からフランス革命の理解は大きく変わりました。いったい革命は何を破壊し、何を建設したのか。この問いに答えるために、革命以前の社会、いわゆる旧制度(アンシャン・レジーム)の社会はどのような社会であったのか、それを見直すことから始めたいと思います。


1.アンシャン・レジームの社会

1-1)官僚と軍隊
 まず旧制度社会の官僚と軍隊について注目してみましょう。いずれも絶対君主の手足となって民衆を抑圧したと言われてきたのですが、本当でしょうか。

ブルボン朝が始まった16世紀末には約46,000人の官僚がいました。当時のフランス人口は1,700万から1,800万と言われていますから、国民400人足らずに役人が1人いたという割合になります。これだけの役人が隅々まで目を光らせ、水も漏らさぬ監視体制・警察国家を生み出したのでしょうか。

現実はそのようなイメージとは大分違うようです。役人には二つのタイプがありました。ひとつは保有官僚と言って、売官を公認されていました。国家試験を受けて公務員になるのではなく、ちょうど株や国債を買うように、相場の値段で役職を買うのです。配当の替わりに様々な役得がありました。お金さえあれば、誰でも買えます。したがって、このタイプの職は売買、譲渡、相続の対象となり、家産の一部と見なされました。役人が多かったのは人々が欲しがったから、つまり旺盛な需要に刺激されたからではないでしょうか。ともかく国家公認ですから、後には売買は課税対象となり、徴収された税は財源不足を補うようになりました。

もう一方のタイプは直轄官僚と言って、これは期限付きで、きちんと給料が支給されます。私たちが普通に役人と言った時に思い浮かべるイメージは当然こちらになりますが、実は数の上ではこのタイプは非常に少なく、大多数は第1のタイプ、財産と見なされる役職を保持するタイプの役人でした。

地方長官は各地の国王役人を管理監督することが仕事で、直轄官僚です。全国で30余名いましたが、このポストは多くの場合、宮内審理官(一般からの様々な陳情を仕分けして適切な担当者に通知する職務)の経験者から選出されました。しかし宮内審理官は代表的な売官ポストですから、直轄官僚になる近道はこのポストを購入することでした。

 国務卿とは大臣に相当し、国務、外務、陸軍、海軍の4名で構成された王国最高のポストです。これは売官ポストではないのですが、就任するためには多額の権利金を前任者に支払うことが慣例となっていました。1669年コルベールは財務総監(大蔵大臣)と国務卿に同時に就任しますが、この時、前任者ゲネゴーに70万リーヴルを支払ったと言われます。この金額は現代の日本であれば、おそらく億単位の金額になると思われます。これが旧制度社会の現実でした。

 軍隊はどうだったのでしょう。将校は売官ポストですから、多くは見栄っ張りの若い貴族で、地道に軍事訓練を重ねるよりは女性にもてることだけを考えているような連中です。一般兵士の多くは外国人の傭兵でしたから、給金は頂戴するが、なるべく怪我をしないように、という連中でした。これが軍隊の内実ですから、閲兵式が終われば、即座に兵員数が半減してしまうような代物でした。だからこそ革命が勃発すると、あっという間に国軍は壊滅状態に陥ってしまったのです。イメージが違いますか。


(2)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 14:43| Comment(0) | 明治維新150年