2019年08月26日

中世史家の見たフランス革命(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





3.革命の第1ステージ

 3-1)アンシャン・レジームの破壊

 6月17日に成立した国民議会は7月9日には憲法制定国民議会と名称を変え、新しい国制の議論を始めます。14日にバスチーユ襲撃事件があり、フランス革命を象徴する大事件として重視されてきましたが、その襲撃目的が自衛のための武器獲得にあったことが詳細にされるにつれ、政治史の一コマにすぎないと考えられるようになりました。もっとも7月14日が革命の記念日で、祝日であることは今も変わりません。真夏の夜空を背景に、エッフェル塔が無数の花火に彩られている様はなかなかの見物です。議会に話を戻しますが、憲法つまり国制の基本を定めるにあたっては、まず旧制度社会のしがらみを一掃しなければなりません。その最初の成果が8月4日の封建制廃止宣言であり、これが11日には法令として発布されました。領主裁判権、賦役など人的隷属を強いる権利と教会十分の一税は無条件で廃止。租税負担の平等、つまり免除特権を認めない。官職売買の撤廃と公職開放、など社会集団の結合と序列化によって構成される旧制度社会の解体を宣言し、法制化したものですが、皮肉なことに、この法令のおかげで、ルイ16世は「フランスの自由の再興者」として称讃されたのです。

 古い社会秩序を一掃する。新しい時代が到来する。この昂揚の中で来るべき新社会の原理を端的に表現したものが、8月26日の人権宣言全17条でした。その第1条はあまりにも有名な、人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である、という画期的な宣言文でした。第2条は自由、所有、安全、圧制への抵抗は不可侵の自然権であるとして、近代市民社会の根本原理は自然権から発していることを明らかにしています。第3条で主権は国民にあることを確認し、そして第4条で、改めて、自由とは他人を害しない限り、何事もなしうることであると、従来とは異なる「自由」の意味を明言します。人権宣言は旧制度を全面的に否定しているがゆえに、その死亡証明書であると理解され、さらに実現すべき新しい理念、つまり過去の社会は打倒すべきものであり、自由で平等な個人が構成する一体的な「国民」の国家を創出すべきであることを提示しています。

 フランス法務省のホーム・ページには現行法がすべて掲載されていますが、その劈頭を飾るのは人権宣言です。すでに200年以上の歳月が流れたわけですが、宣言は今なおフランス法体系の根本にあることを新しいメディアを通じて宣言していると言えるでしょう。



3-2)市民と国民の創出

 個々人は自由と平等を生得的に持つ、という人権宣言は素晴らしいものですが、その実現を保障するのは国家の仕事です。国家権力は個人を抑圧するためにあるのではなく、個人の快適な生存を保障するためにあるのです。したがって国家が各地に残る様々な特権(旧制度の自由)を廃止して、今風の言い方をすれば、一切をリセットして、王国のどこに生きる人もみな同じ権利を享受できることを保障することが必要になります。これが12月14日に発せられた「自治体に関する法」です。さらに12月22日には地方長官区、徴税区、地方総督区、など地方特権と結びついた旧来の行政区画をすべて廃止し、新たに県、地方、区と全国一律に三段階に単純化した行政区画を設置しました。

 こうして旧制度の解体は地方や地域(空間的広がりを持つ団体)に授与されていた特権を廃止することから始まりましたが、翌90年6月16日には世襲貴族が廃止され、7月12日には聖職者市民法が制定されました。どちらも旧制度の社会では十分すぎるほどの免除特権を享受した人々でしたが、この先、そのような特別の身分はない。市民になれと、宣言されたわけです。特権を持たないとは負担(国家運営のコスト)を分かち合うという意味です。90年11月から翌91年3月にかけて課税負担平等の原則に基づき、租税体系の再編がすすめられました。

 聖職者や貴族と同様に、商工業者も職種別の組合によって他者の参入から守られてきました。これも大切な特権ですが、自由の名の下に、全く違う世界に生きていた人が全く新しい発想で、モノづくりに関わりたいと思うかもしれません。91年3月2日のアラルド法は商業と工業の自由を保証して、「自由」は新社会では旧社会のそれとは違い、むしろ逆の意味であるとさえ言えることを明示します。6月14日のル・シャプリエ法は職能団体を廃止してしまいました。


 こうした一連の社会改革の法令を集大成したものが、91年9月3日に公布された91年憲法です。前文に改めて人権宣言17条を置き、本文は全7編210条からなる大部のものです。旧制度社会の社団編成を理念的に解体し、国民主権の原則を謳い、市民的結合に基づく国家を構想した革命の最初の成果と言えるでしょう。しかし国民主権の原則を明言しますが、一定の権力を保持する国王の存在を認めています。また1院制議会は能動市民(給金3日分相当の直接税を支払う25歳以上の男子)による制限選挙でしたから、国民の代表で構成されると言えるかどうか、疑問が残ります。

(6)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






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2019年08月10日

中世史家の見たフランス革命(2)

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2.社会の変容とその対応

 どのような社会でも、それが何百年にもわたって、どのような面から見ても変わらないということはあり得ません。先に述べた社会集団そのものも、諸集団の序列も、緩やかに変化を始めます。たとえば商人団体と言っても、各人の財産も違えば、活動の分野も規模も違い、したがって扱う金額も違うでしょう。進取の気性に富む若き貿易商と、小さな町の老いた小間物商とを比べようとしても、何をどうやって比較しましょうか。生活様式も、メンタリティも違うでしょう。違いばかり目について、仲間意識も持てないかもしれません。つまり内実が多様化していて、「商人」というカテゴリーで一括すること自体が無意味で非現実的に思えてきます。

 さらに従来の序列・身分秩序から逸脱する者が増加します。余所者(外国人)、貧民、放浪者、脱走兵などは集団に属すとも、外部の人間とも、どちらとも言い難く、境界線上に生きる人々と表現することになりましょう。このような帰属のはっきりしない人々の増加が、特に18世紀に入ると、目立つようになり、集団の境界線を曖昧にします。このこともまた社会の変化と流動化の指標となります。

 目線を上に向ければ、成り上がり者も目に付くようになります。モリエールの『町人貴族』という作品を御存知でしょうか。彼は17世紀の現実を巧みに風刺した沢山の喜劇を書き、自ら主役を演じました。1664年ヴェルサイユで初演された『タルチュフ』はルイ14世を笑わせたことで知られていますが、その後、教会に目を付けられて上演禁止となりました。ネッケルは1777年、ルイ16世の財務総監に抜擢され、国家財政の立て直しを託された大銀行家ですが、フランス人ではありません。ジュネーヴ生まれのスイス人で、しかもユグノーでした。それでもスザンヌ夫人は有名なサロンの主催者で、ヴォルテールを始め、多くの文人が出入りしましたし、彼らの一人娘スタール夫人はナポレオンには嫌われたようですが、ドイツ・ロマン主義をフランスに紹介した優れた作家として知られています。

 要するに旧制度の社会はセメントでカチカチに固めた水も漏らさぬ社会ではなかったということです。隙間もあれば、欠落もあり、逆にはみ出したり、いびつに歪んだり、という部分もあちこち目に付く代物だったということです。始まりはいつでも些細な事です。何時できたのか、小さなひび割れや疵が気が付かないうちに大きくなって深刻な事態を引き起こすようになっていきます。もはや放置できない、と、地方長官制を創設して、旧来の官僚制の不備を補ったり、公道警察(軍所属の憲兵隊)を整備して、公共空間の維持、つまり放浪、逸脱、無頼、そして騒乱の取り締まりを強化しますが、傾き始めた巨大な建築を修復するのは簡単ではありません。すると、いっそのこと、という議論を展開する人々が必ず現れます。

 1762年、ルソーは『社会契約論』を公刊して、国家は市民を基本単位とし、契約によって成立する政治的結合体であると論じました。旧制度社会の基本構成単位である諸集団をあっさり無視して、いきなり個々の「市民」と「国家」の関係を論じた驚愕すべき主張です。
 シェイエースは聖職者出身ですが、何と「人は特権によって自由なのではなく、すべての人間に属する権利によって自由である」と人権宣言を先取りするような言い方をしました。自由とは特権であるという旧制度社会の根本原理を否定したことになります。如何なる特権も持たぬ者がすなわち「市民」であり、そのような「市民」が「共通身分」を形成し、共通の法と共通の代表組織を持つ「国民」を構成する、と彼は主張しました。シェイエースはこのような主張を『第三身分とは何か』というパンフレットにまとめて、1789年に発表しました。ラディカル!「市民」も「国民」も言葉としては古くから存在しています。「市民」とは、先祖代々都市に居住する者という意味でしたし、「国民」とは同郷人というにすぎませんでした。シェイエースはこのような古くから使われていた言葉を全く新しい意味を持つ言葉に生まれ変わらせたのです。

 さらにここで注目すべきは、ルソーもシェイエースも、人が生得的に帰属する社会集団を問題にしているのではなく、自らの意志で、言わばゼロから作り上げていく集団を問題にしていますから、議論の出発点が個人だということです。二人とも旧制度社会の権力秩序、絶対王政の構造、その構成原理、こうしたものを根本的に否定していることになります。

 もちろん、こんな社会は壊してしまえ、という方向ではなく、根本は変えずになるべく細部の手直しで立て直す、という方向へ尽力した人々が多かったことは言うまでもありません。社会のひずみを修正するにはどうすればいいでしょう。先立つものはいつでもお金です。フランスに限らず、列強は国土拡大と植民地獲得の手段を戦争に頼り、莫大な資金を蕩尽しました。王妃の首飾りなど高が知れています。国家財政の危機を乗り越えるには財源の確保が最優先課題で、行き着く先は増税です。1749年には20分の1(5%)の付加価値税が導入されました。1776年には財務総監テュルゴの主導の下、改革6王令が発布され、宣誓ギルド、つまり仲間団体の廃止が盛り込まれました。競争原理の導入です。1787年には地方議会の創設が提案されました。王国を機械的に、画一的に分割して、効率的に徴税しようとする試みです。こうした一連の官僚主導で進められた改革は明らかに旧来の団体、職種別団体や地域共同体の特権(すなわち自由)を侵害するものでしたから、貴族だけでなく、あらゆる団体が猛反発しました。

1787年、88年には抜本的な税制改革を求めて、名士会が召集・開催されますが、議題はあまりに深刻・重要であるとして、すぐに解散し、89年5月に全国三部会が開催されました。1614年を最後に百年以上も開催されなかったこの身分制議会は、ご承知のように、開会早々投票方法を巡って紛糾し、6月には第三身分の議員が離脱、まさにシェイエースの主張にそって、「国民議会」なるものを立ち上げました。この「国民議会」という表現自体、身分を前提とする旧制度社会の構成原理を否定するものでしたから、旧制度社会の頂点に立つ王は、立場上、このような新たなコンセプトに基づく集会を認める訳には行かず、その設立を否定せざるを得ませんでした。



(5)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 13:56| Comment(0) | 明治維新150年