2019年08月10日

中世史家の見たフランス革命(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.社会の変容とその対応

 どのような社会でも、それが何百年にもわたって、どのような面から見ても変わらないということはあり得ません。先に述べた社会集団そのものも、諸集団の序列も、緩やかに変化を始めます。たとえば商人団体と言っても、各人の財産も違えば、活動の分野も規模も違い、したがって扱う金額も違うでしょう。進取の気性に富む若き貿易商と、小さな町の老いた小間物商とを比べようとしても、何をどうやって比較しましょうか。生活様式も、メンタリティも違うでしょう。違いばかり目について、仲間意識も持てないかもしれません。つまり内実が多様化していて、「商人」というカテゴリーで一括すること自体が無意味で非現実的に思えてきます。

 さらに従来の序列・身分秩序から逸脱する者が増加します。余所者(外国人)、貧民、放浪者、脱走兵などは集団に属すとも、外部の人間とも、どちらとも言い難く、境界線上に生きる人々と表現することになりましょう。このような帰属のはっきりしない人々の増加が、特に18世紀に入ると、目立つようになり、集団の境界線を曖昧にします。このこともまた社会の変化と流動化の指標となります。

 目線を上に向ければ、成り上がり者も目に付くようになります。モリエールの『町人貴族』という作品を御存知でしょうか。彼は17世紀の現実を巧みに風刺した沢山の喜劇を書き、自ら主役を演じました。1664年ヴェルサイユで初演された『タルチュフ』はルイ14世を笑わせたことで知られていますが、その後、教会に目を付けられて上演禁止となりました。ネッケルは1777年、ルイ16世の財務総監に抜擢され、国家財政の立て直しを託された大銀行家ですが、フランス人ではありません。ジュネーヴ生まれのスイス人で、しかもユグノーでした。それでもスザンヌ夫人は有名なサロンの主催者で、ヴォルテールを始め、多くの文人が出入りしましたし、彼らの一人娘スタール夫人はナポレオンには嫌われたようですが、ドイツ・ロマン主義をフランスに紹介した優れた作家として知られています。

 要するに旧制度の社会はセメントでカチカチに固めた水も漏らさぬ社会ではなかったということです。隙間もあれば、欠落もあり、逆にはみ出したり、いびつに歪んだり、という部分もあちこち目に付く代物だったということです。始まりはいつでも些細な事です。何時できたのか、小さなひび割れや疵が気が付かないうちに大きくなって深刻な事態を引き起こすようになっていきます。もはや放置できない、と、地方長官制を創設して、旧来の官僚制の不備を補ったり、公道警察(軍所属の憲兵隊)を整備して、公共空間の維持、つまり放浪、逸脱、無頼、そして騒乱の取り締まりを強化しますが、傾き始めた巨大な建築を修復するのは簡単ではありません。すると、いっそのこと、という議論を展開する人々が必ず現れます。

 1762年、ルソーは『社会契約論』を公刊して、国家は市民を基本単位とし、契約によって成立する政治的結合体であると論じました。旧制度社会の基本構成単位である諸集団をあっさり無視して、いきなり個々の「市民」と「国家」の関係を論じた驚愕すべき主張です。
 シェイエースは聖職者出身ですが、何と「人は特権によって自由なのではなく、すべての人間に属する権利によって自由である」と人権宣言を先取りするような言い方をしました。自由とは特権であるという旧制度社会の根本原理を否定したことになります。如何なる特権も持たぬ者がすなわち「市民」であり、そのような「市民」が「共通身分」を形成し、共通の法と共通の代表組織を持つ「国民」を構成する、と彼は主張しました。シェイエースはこのような主張を『第三身分とは何か』というパンフレットにまとめて、1789年に発表しました。ラディカル!「市民」も「国民」も言葉としては古くから存在しています。「市民」とは、先祖代々都市に居住する者という意味でしたし、「国民」とは同郷人というにすぎませんでした。シェイエースはこのような古くから使われていた言葉を全く新しい意味を持つ言葉に生まれ変わらせたのです。

 さらにここで注目すべきは、ルソーもシェイエースも、人が生得的に帰属する社会集団を問題にしているのではなく、自らの意志で、言わばゼロから作り上げていく集団を問題にしていますから、議論の出発点が個人だということです。二人とも旧制度社会の権力秩序、絶対王政の構造、その構成原理、こうしたものを根本的に否定していることになります。

 もちろん、こんな社会は壊してしまえ、という方向ではなく、根本は変えずになるべく細部の手直しで立て直す、という方向へ尽力した人々が多かったことは言うまでもありません。社会のひずみを修正するにはどうすればいいでしょう。先立つものはいつでもお金です。フランスに限らず、列強は国土拡大と植民地獲得の手段を戦争に頼り、莫大な資金を蕩尽しました。王妃の首飾りなど高が知れています。国家財政の危機を乗り越えるには財源の確保が最優先課題で、行き着く先は増税です。1749年には20分の1(5%)の付加価値税が導入されました。1776年には財務総監テュルゴの主導の下、改革6王令が発布され、宣誓ギルド、つまり仲間団体の廃止が盛り込まれました。競争原理の導入です。1787年には地方議会の創設が提案されました。王国を機械的に、画一的に分割して、効率的に徴税しようとする試みです。こうした一連の官僚主導で進められた改革は明らかに旧来の団体、職種別団体や地域共同体の特権(すなわち自由)を侵害するものでしたから、貴族だけでなく、あらゆる団体が猛反発しました。

1787年、88年には抜本的な税制改革を求めて、名士会が召集・開催されますが、議題はあまりに深刻・重要であるとして、すぐに解散し、89年5月に全国三部会が開催されました。1614年を最後に百年以上も開催されなかったこの身分制議会は、ご承知のように、開会早々投票方法を巡って紛糾し、6月には第三身分の議員が離脱、まさにシェイエースの主張にそって、「国民議会」なるものを立ち上げました。この「国民議会」という表現自体、身分を前提とする旧制度社会の構成原理を否定するものでしたから、旧制度社会の頂点に立つ王は、立場上、このような新たなコンセプトに基づく集会を認める訳には行かず、その設立を否定せざるを得ませんでした。



(5)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






posted by 園遊会 at 13:56| Comment(0) | 明治維新150年