2019年09月16日

中世史家の見たフランス革命(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






4.革命の第2ステージ:王国の終焉、共和国の誕生とその防衛

 このようにフランス革命は錯綜した旧制度社会のしがらみを御破算にして、一度まっさらにして、改めて新しい原理に基づく社会を建設する一連の社会改革である、と近年では理解するようになりました。そのために革命は1789年7月のバスチーユ襲撃よりも、6月の国民議会発足に始まると考えた方が、その根本的性格を理解しやすいと思います。つまり革命は国王を倒すことが目的ではなかったのです。繰り返しになりますが、王は絶対権力を振るっていたわけではありません。旧制度社会の人々はそのことを十分に理解していたはずです。むしろ王様は大変だ、でも頑張れ、と応援する人が多かったのではないでしょうか。だからこそ、王の名で発布された封建的特権の廃止は誰もが受け入れましたし、王の変わり身の早さを揶揄する人もいなかったのだろうと思います。

 ところが、市民あるいは国民と王との間に修復不可能な亀裂が生じてしまいました。1791年6月21日、国王一家がパリを脱出し、フランス逃亡を企てたことが発覚しました。一家は東部国境近くのヴァレンヌで発見され、捕縛されたのでヴァレンヌ事件と言います。1789年以来、貴族は革命に加担するか、反対するか、はっきりと二つのグループに分かれました。これまで言及しませんでしたが、もちろん特権と土地を奪われたことに猛烈に反発した保守的貴族もたくさんいました。当然ですね。彼らはパリを脱出し、ライン川流域に滞在して、反革命の準備を着々と進めているという噂が何度となく流布しました。

ルイ16世妃マリー・アントワネットはオーストリア・ハプスブルク家の出身ですから、貴族たちがハプスブルクに援助を求め、ドイツ・オーストリア軍とともに革命を押し潰すために攻めてくる、という噂はいかにもありそうな話です。王一家は国民を見捨てて亡命貴族の下へ逃げて行った。噂は本当だった。王は反動貴族と外国軍を引き連れて侵攻してくるに違いない。裏切り者め! 王の行動は噂が真実であることを証明したと、多くの国民はそう考えたわけです。7月17日、国王廃位のための大衆請願大会が開催されましたが、その時パリ民衆とその整理に当たった国民衛兵が衝突して大混乱に陥り、死傷者が出ました。回り始めた歯車を止めるブレーキはありません。王は暴君で裏切り者だ。つまり否定すべき過去の旧制度社会と一体のもので、新しい社会に王の居場所はない、と。


 
 オーストリアはフランス国王一家の身を案じて、公然とフランス国内政治に干渉します。1792年4月20日、フランス・オーストリア間で戦争が始まりますが、緒戦でフランス軍は敗退を重ねます。フランス亡命貴族は数千名に達したとも言われていますから、歴戦の将軍たちのいない寄せ集めの急造軍隊など知れています。ところが国内の社会改革に、その法整備に忙殺されていた議会は次第に冷静さを失っていきます。フランス軍がこれほどまでに負け続けるのはおかしい。裏切り者がいるからに違いない、軍の機密情報が漏れているに違いない、と。

この92年初夏から、王妃を中心とする反動貴族たちによる「オーストリア委員会」なるものが存在し、それが外国勢力と共謀している。彼らを通じて情報が筒抜けになっている、という噂が、また噂ですが、声高に語られるようになりました。92年5月から6月にかけてパリの外国人を監視下に置く一方、2万名の地方国民衛兵軍を創設し、戦局の打開を図ります。ところが6月13日、王はこの国民衛兵創設の議決に拒否権を発動し、議会主導派の人事に介入。フイヤン(穏健派)登用を主張します。するとパリ民衆は6月20日、王の滞在するテュイルリー宮へ乱入しますが、王は譲歩しません。7月になると地方議会の代表とパリの48行政区のうち47代表が国王の廃位を公然と主張するようになります。8月10日、議会はついに王権停止を宣言し、9月22日、共和国樹立を宣言します。

旧制度の社会は王政であった。それに代わる新制度の社会は王政となじまない。相応しいのは王のいない社会であり、それは共和国である、と。こうしてフランスは歴史上はじめて王のいない社会、王なき政治体制を模索することになります。91年憲法が成立してから1年半、政局は大きく変わりました。



 この92年秋、国民公会と改称した議会は国王裁判を巡って紛糾します。91年憲法は「国王の身体は神聖で不可侵」と規定していますが、王の行動を国家に対する背信行為と見て、裁判に掛けることは適法なのか。前例のない事態を前にして、議会は法律論議に明け暮れることになります。延々と議論の続く中、突然、全く異なる観点から発言する議員が現れました。11月13日サン・ジュストは事実として王は市民・仲間ではなく、敵・叛徒として裁くべきであると言い始めます。12月3日、この発言を受けて、ロベスピエールは「王国と共和国は相容れない。王はフランス人民を叛徒つまり敵と見なした。王と人民の戦いで勝ったのは人民であり、人民の作る共和国だった。この戦いに敗北したことで、王ルイはすでに断罪されている。生き延びるべきは共和国であり、その阻害要因たる彼は死すべきである」と、筋が通っているような、そうでないような、明らかに結論が先にあって、後から理屈をこじつけた政治的発言をしました。

二人とも王ルイを市民として審理するのでなく、王という特別の存在ないし王政という制度そのものが犯罪的であると主張し、王国と共和国、王と市民は両立しえない、二者択一のものであると主張しました。もちろん王の弁護士たちは即座に反駁し、王は特別な存在といえども、91年憲法によって人権を保障されているのだから、憲法に従って適法的に審理すべし、さもなければ法治国家の原則を蔑ろにすることになると主張します。

結局1793年1月17日、国民公会721名のうち387名が無条件で、334名が条件付きで、王の処刑に賛成しました。この採決で反対を表明した議員はゼロでした。この結果を受けて、翌93年1月21日に王は処刑されました。王の死。王政の死。そして王政を支えてきた象徴システムの死。8世紀以来1000年以上にわたって王は単なる支配者ではなく、聖性をそなえたカリスマとして存在し続けたのですが、こうして王のいる社会は葬り去られました。もはや革命は後戻りできないところまでやって来たのです。



 共和国という新しい王のいない国家に、人々は帰属意識を持つことができるでしょうか。できるでしょうか、ではなく、できなければならない、それ以外にはない。個人を団結させ、国民の一体性を実現すること。過去を徹底的に否定して、共和国という制度を作り出した後、その新しい国家と社会に心から調和するような新しい人間を創出すること。つまり教育。これが革命の次なる課題でした。94年の春、新しい共和国のシンボルとして最高存在(理性)の祭典が開催され、共和国の国旗がはためく中、義勇軍の軍歌ラ・マルセイエーズが斉唱されることになりました(95年に国歌として制定)。

 古代地中海世界はともかく、中世ヨーロッパでは教育は教会や修道院で始まりました。教育は誕生した時から宗教色に染まっていましたから、大学でも最高の学問は神学でした。自然学も法学も、神学を学ぶための準備に過ぎません。この数百年にわたる学問体系を革命は根本から変えようとします。コンドルセの自由主義教育に触発されて、1792年8月、教会施設での教育を禁止し、ソルボンヌやアカデミーも廃止し、多様な公教育を構想します。93年7月にはルペルティエ案が議会を通過し、5歳から12歳の全男子に国家が管理する教育を施し、共和国に相応しい人間を育成しようとします。義務教育の先駆です。93年10月5日、16世紀以来のグレゴリウス暦を廃止して共和暦を制定します。同時に度量衡を一新し、地球の子午線の長さを利用するメートル法を採用し、広場・街路の名称をことごとく変更して聖人名を消去し、宗教色を一掃しました。

替わって、到る所に革命のシンボルを散りばめることを始めます。三色帽、自由の木、自由の女神、などなどを印章や貨幣に刻み込んでいくのですが、これらは自由、平等、人権など革命の抽象的理想や価値を可視化するもので、一般市民の教育(洗脳)手段になりました。現在でもフランスの役所には自由・平等・博愛の標語が玄関の目に付くところに掲げられています。ユーロが導入される前は、コインにもこの三語と女神が刻印されていました。日常生活の隅々に革命のシンボルを配し、日常を革命で染め上げ、日常生活を心の習性を変えていく学校にしようとしました。こうした精神文化の革命の中で、教会は揶揄と嘲笑の対象となっていきました。

93年11月10日、パリ・オペラ座の女優が自由と理性の女神に扮し、理性の祭典をノートル・ダム聖堂で挙行しています。反キリスト教運動が頂点に達したと言えましょう。教会は次々に閉鎖され、礼拝は禁止、聖具や銀器は没収・破壊され、司教冠を被せたロバを行列させ、国王や聖職者の人形を教会前広場で燃やすことまで行われました。どことなくカーニヴァルを思わせますね。しかもこうした騒ぎを行ったのは一般民衆だけでなく、聖職者も加わっていたことに注目したいと思います。2,000名を超える司祭が非キリスト教化の宣言・運動に加担したと言われています。聖職者も厳しい階級社会に生きていましたから、下級の聖職者は職禄も低く、困窮を強いられる人も少なくなかったことを付け加えておきましょう。

(7)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美





posted by 園遊会 at 13:27| Comment(0) | 明治維新150年