2019年11月07日

中世史家の見たフランス革命(6)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





6.暴力と恐怖

 92年8月19日、プロイセン軍により北フランスの城塞ロンウィ陥落。その原因を裏切りと反革命に求めて、容疑者を大量に拘束し、機密漏洩を防いだはずですが、それでも同年9月2日に要塞都市ヴェルダン陥落。刻々と迫りくる敵軍に動揺し、9月2日から6日にかけて連盟兵とパリ民衆は市内の監獄を襲撃。囚人の半数を人民法廷の即決裁判で公開処刑に付します。もちろん全員が濡れ衣を着せられたと言えるでしょう。

敵軍と通じて、軍事機密を流していたという証拠はなかったはずです。陰謀に違いないという思い込み、情報不足から生じる恐怖、そして暴力的な過剰反応。革命政府が周辺諸国の動静に十分な情報を得られないのは仕方ないのかも知れませんが、それにしても対応が稚拙。法の適用と主権の行使を暴力に頼るとはあまりに幼児的と評せざるを得ません。悪に対して公開の民衆制裁を加えて共同体の秩序と平和を維持する、中世的・農村的伝統がこんなところに生き残っているのでしょうか。

振り返ってみれば、革命初期には領主を襲撃して土地台帳を焼却することが各地で発生しました。本来は不法行為である暴力を革命が正当化・日常化したと言えましょう。冷静に考えれば、戦争に負けるのは軍事力と軍事指導力が弱体化しているからで、かりに裏切り者がいたとしても、その役割を過大に評価するのは奇異に思えます。まして国内の革命反対・非協力者を摘発することに血眼になって、軍事力の強化を後回しにするのは、どう考えても本末転倒と思えますが、革命政府は実際にこのような方針を採択したのです。



 1793年3月10日に全国各地に革命裁判所が創設され、これを補完する組織として21日には監視委員会(革命委員会)が設置されました。4月6日に発足した公安委員会は、本来、国防を担う組織でしたが、6月に国民公会からジロンド派が追放され、モンターニュ派(ジャコバン左派)の独裁が成立すると、この派閥の執行機関という性格が強まります。7月27日ロベスピエールをはじめ、サン・キュロットを代表する人々が公安委員会に参加し、12名のメンバーが確定しました。

9月4日から5日にかけて、国民公会は武装した国民衛兵に包囲され、反革命派の拘束と革命政府樹立へ向けて動き出します。まず9日に革命軍を創設し、17日に反革命容疑者の逮捕令を、29日には総最高価格法を決議・発令しました。10月10日、国民公会は「フランスの臨時政府は平和の到来まで革命的である」と宣言して、91年憲法には如何なる規定もなかったはずの革命政府を樹立します。この臨時政府は反革命の取り締まりに異常な情熱を傾け、議会内の二つの委員会、すなわち公安委員会と保安委員会(92年10月発足)、の指示に基づき、反革命容疑者の逮捕令を連発して、各地の革命裁判所をフルに活用するという体制を作り出しました。これが恐怖政治です。



 この93年の10月から11月にかけて、パリで処刑されたのは王妃マリー・アントワネット、ジロンド派、旧フィヤン派など200名足らずでしたが、地方は無政府状態に陥り、実際の処刑者数も判然とせず、凄惨であったと言われますが、フリメール14日(93年12月4日)の法によって地方組織を公安委員会に従属させることに成功し、この無政府状態はひとまず終息しました。他方、革命政府が国家総動員体制を整備したことが功を奏し(決して裏切り者を粛清したためではなく)、93年暮れには戦況も好転、ヴァンデ反乱もほぼ鎮圧することに成功しました。

 この事態を受けて、94年に入ると国民公会内部で恐怖政治を巡る議論が左派エベール派と右派(穏健派)ダントン派の間で活発化しますが、ロベスピエールを中心とする公安委員会は3月から4月にかけて両派を粛清し、さらなる独裁の道を突き進み、4月から5月にかけて地方の革命裁判所を廃止し、パリへの集中を図りました。6月10日プレリアル法を制定し、反革命容疑の解釈を拡大し、裁判手続きの簡素化・迅速化を行いました。判決は死刑か無罪か、二つしかありません。その結果、6月から7月にかけて1,500名以上が処刑されました。恐怖政治期には全国で約50万人が収監され、3万5千人から4万人が処刑されたと言われています。

(9)につづく


文学部 史学科      教授 金尾 健美





posted by 園遊会 at 10:26| Comment(0) | 明治維新150年