2014年07月07日

東のカールと西のシャルル

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1.
はじめに



 「東と西」というテーマを与えられて、西洋史を専攻する者がまず思い浮かべるのは冷戦時代の
「東西」でしょうか。時代、社会、政治、等々、物事を考える上で、重要な軸であったと思いますが、
1989年にベルリンの壁が崩壊し、ソ連が消滅してからは、「東西」という方向軸の象徴的意義は
随分と薄れてしまったように思います。


 とはいえ、私が専門とするヨーロッパ史の中で、何かしら与えられたテーマに沿うような、
適当な話題がないか、と考えておりますうちに、ひとつ思いつくことがありました。

ある時期にはヨーロッパ全域にわたる強大な帝国を築きながらも、それを維持できず、分裂し、
滅亡していった国家があります。ローマがその代表的な事例であることは申し上げるまでもないでしょう。
しかしローマだけではなく、まさに西ローマが消滅した後に誕生し、成長し、分裂し、そして消滅していった
王国があります。「フランク王国」といい、5世紀に登場し、拡大を続け、9世紀に分裂し、やがて
消滅していきました。本日はこの「フランク王国」が東西に分裂した後に現れた二人の王を取り上げて、
彼らについてお話してみたいと思います。

はじめにお断りしておきますが、彼らはどう見ても英雄ではありません。華々しい活躍のお陰で
歴史に名を残した訳ではなく、どちらかと言えば、揶揄され、冷笑される王たちです。

東王国のカールは「肥満、太っちょ」と綽名され、西のシャルルは「単純」と綽名されました。
もちろん、どちらもいい意味ではありません。カールはドイツ語の表現、シャルルはフランス語の表現で、
奇しくも同じ名前ですが、さて、彼らは実際の所、どのような人物であったのでしょうか。


 この二人が登場するまでの歴史を簡単に振り返っておきましょう。

フランク王国には二つの王朝がありました。

第1王朝はメロヴィング朝と言います。
メロヴィックスなる人物を開祖としますが、この人物については名前以外、ほとんど分かっていません。
彼の時代(5世紀前半)には、有力な家がいくつかあって、一人の王が治める国とは言い難い状況であったと
考えられています。彼の孫にあたるクローヴィスが490年代にフランクを統一しつつ、外に向かっても
拡張を続け、隣接する諸国を征服し、アルプスの北側で最大の王国を建設し、511年に死去しました。
その後、彼の子たちが王国を分割し、緩やかな連邦を構成しながら支配を続けます。

610年代に王を補佐する、場合によっては代理する役職が設置され、7世紀を通じて、この役職者が
実力を蓄えていきました。

さらに100年後、この役に就いていたピピンなる人物がクーデタを敢行し(751年)、自ら王位に就き
第2王朝を開きました。カロリング朝と言います。ピピンはイタリア半島のランゴバルト王国を征服し、
ラヴェンナを教皇に寄進し(756年)、教皇庁と緊密な関係を結びました。この教会との提携政策は
彼の息子、カール大帝(シャルルマーニュ)に受け継がれ、彼がローマ皇帝位を継承(800年)することに
繋がっていきます。教会としては強力な俗人守護者が是非とも必要だったのでしょう。


 シャルルマーニュの子ルイ(ルードヴィヒ)敬虔帝は信仰篤き人物でしたが、早世するという強迫観念に
とらわれ、即位3年後、817年には早々に遺言を作成し、死後は子の間で帝国を分割すると定めました。
そのために彼の子たちは父ルイ存命中から相続争いを始め、840年にルイが死去すると、激烈な戦いを演じ、
多くの青年戦士を巻き添えにしました。

結局、843年から870年までに間に、帝国は3分され、東フランク(ドイツ)、西フランク(フランス)、
そしてイタリアの原型が形成されていくことになります。しかしこの後100年ほどの間にカロリング家は断絶し、
その姻族が各地の王位を継承していくことになりました。



東フランク王カール肥満王(位882-888年)

 さて、問題のカールです。初代東フランク王ルドヴィッヒの末子ですが、彼の事績を辿るには事実上
『フルダ年代記』に頼るしかありません。この唯一の史料が後世のカールの評価を決定しました。
そこで、この『年代記』の成立と編纂の事情を簡単に説明しておくことにしましょう。


『フルダ年代記』の記述は714年、メロヴィング朝の宮宰ピピン2世(カロリング朝を開いたピピンの祖父)が
死去した頃に始まり、カロリング朝3代の歴史を描き、分裂後は主に東フランク王国に焦点を合わせ、
901年ころ、王カール肥満死後の混乱期までを扱っています。


 全体のおよそ3分の2はフルダ修道院で編纂されたために、この名がありますが、830年以前の記述は
既存の『フランク王年代記』の筆写で、独自の記述はそれ以降の70年ほどの期間に限定されます。
しかも863年ころからは2ヶ所で別々に編纂されました。ひとつはマインツ大司教リュートベルトが指導し、
通例『マインツ続編』と呼ばれるもの。

今一つは896年までレーゲンスブルクで、その後はニーダーアルテイクで編纂されたために『バイエルン続篇』と
呼ばれるものです。

 『マインツ続編』は王が滞在する東王国の主要都市で編纂されたため、東王国の王たちを間近に見た
宮廷人の記録として、「王の歴史」を描いた正史であると評価されて来ました。

他方、『バイエルン続編』は「地方史」であり、王の事績もバイエルンに関係しなければ、言及されません。
そのために王の事績を跡づけるという目的からすれば、補助的な史料と位置付けられ、『マインツ続編』に
比べれば、あまり重視されて来ませんでした。つまり同時に編纂が進められた二つの続篇はそれぞれの性格が
非常に異なっている訳です。



さて、その『マインツ続編』を編纂したリュートベルトなる人物(生年不詳―889死)は863年から継続して
マインツ大司教を務める傍ら、870年から882年まで首席宮廷司祭として、ルドヴィッヒ・ドイツ王と
ルドヴィッヒ幼王の二世代にわたって仕えました。

ところが882年に幼王が死去し、カール肥満が即位すると宮廷を追われ、代わってヴェルチェッリの
リュートヴァルトが後任となりました。


 このリュートベルトの周辺で、すでに860年代から年代記の編纂が進められていましたが、882-887年の間は、
つまり宮廷から追放された後になりますが、リュートベルトが院長を務めるヴァイセンブルク修道院で、
彼自身が直接に編纂を指揮したとされ、『エステル記』のモルデカイや『列王記』のハマンのエピソードを引用し、
皇帝カールを辛辣に批判する文章を織り込むようになりました。


 もっともリュートベルトは修道院に隠棲するような性格ではなかったようで、883年にノルマン(ヴァイキング)が
ライン川を遡り、沿岸の掠奪を重ねた際には、自ら部隊を率いて彼らを撃退し、ケルン再建を行っています。
翌884年、ノルマンが今度は西フランクを攻撃し、ヘスバイなる土地で越冬しました。すると、明けて885年、
カール肥満はリュートベルトとフランク貴族ハインリッヒを伴って彼らを奇襲し、蹴散らした、
という記録がありますから、リュートベルトはかなり血の気の多い「聖職者」であったようです。


 887年カール肥満は宮廷司祭と尚書を預かるリュートヴァルトを解任し、その後任として、リュートベルトを
再登用します。リュートベルトはこの復活劇によって、皇帝に対する態度を大幅に変え、以後『マインツ続編』に
王カールの非難は見当たらなくなりますから、このマインツ司教は随分とはっきりした性格の持ち主であったと
言えそうです。


系譜.jpg


(2)につづく




文学部 史学科 教授 金尾健美





posted by 園遊会 at 00:04| Comment(0) | シリーズ「東と西の物語」
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