2014年07月23日

東のカールと西のシャルル(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第2回


 さて、そのマインツ大司教リュートベルトが描くカールやその諮問官筆頭リュートヴァルトの評価やイメージは
3つ指摘することができます。

 1)王カールは諮問官、特に筆頭ヴェルチェッリ司教リュートヴァルトの言いなりであった。
 2)王カールはヴァイキングの侵略に対して無能であった。
 3)カールは病弱で活力に乏しく、何もしない王であった。

と、散々な言いようですが、こうした指摘は正しいのでしょうか ? おそらく宮廷から追放された意趣返しであろうとの
予想は容易に成り立ちます。

 1)そもそも諮問官はひとりではありませんから、ひとりの諮問官が王に影響を及ぼし続けることは困難でしょう。
リュートヴァルトは尚書官筆頭ですから、王の文書に彼の名が頻出するのは当然で、それだけで王に影響力を行使して
いたとは主張できません。彼を「偽司教」とか、「異端者」呼ばわりするのは聖職者を貶める、あるいは罵る場合の
常套句で、その信憑性を問うこと自体が無意味です。むしろ奸臣のイメージを作り上げることに苦心惨憺している
ように思えます。

 あるいはまた、リュートヴァルトが辺境伯ベレンガルの姪を王立サン・サルヴァトーレ女子修道院から誘拐し、
自身の親族と結婚させたという事件を紹介し、彼が王の権威を蔑ろにした、と非難していますが、これは王カールに
対するベレンガルの反抗的態度に王が対抗措置をとった。つまり彼女を人質とすべく、王の許可と修道院の暗黙の
了解の下で実行された、という疑いが強いと思われます。


 2)ヴァイキング(ノルマン)の対応については『フルダ年代記・マインツ続編』から882年アセルト攻囲戦の
記述を抜き出して、箇条書きにしてみましょう。

(1)王カールは多国籍軍を率いて遠征し、敵攻囲戦を始め、陥落直前に追い込んだ。
(2)リュートヴァルトと伯ヴィクベルトが裏切り、敵の指揮官ゴーダフリートと内通した。
(3)ヴァイキングは降伏したと見せかけて、開城し、フランク軍を迎え、騙し打ちにした。
(4)王カールはゴーダフリートを洗礼させ、家臣とし、土地を与えた。
(5)王カールは財宝と人質をヴァイキングに与えた。
(6)ヴァイキングを切り捨てる兵士がいれば、処罰する。
(7)動員を解除し、兵は帰途に就いた。

 と、なるでしょうが、この記述は客観的なのでしょうか。非常に奇妙な印象を与えます。

(1)カールが率いる連合軍が戦場に到着した後、どのように戦ったか、攻囲戦の詳細が一切書かれていません。
つまり、すぐに(2)内通者の画策した和平の話になってしまいます。つまり書き手は戦闘の実際を知らないのでは
ないでしょうか。戦闘終了後の両者の取り決め(和平条約)だけを仄聞したに過ぎないと思われます。
(3)フランクを騙し撃ちにするために、ヴァイキングは兵力を温存したのでしょうか?
 
『フルダ年代記』の『バイエルン続篇』は、すでに述べたように、バイエルンに関係する出来事だけを記述した
地方年代記ですが、このアセルト攻囲戦に関しては奇妙に詳しいのです。そこで『マインツ』は脇に置いて、
しばらく『バイエルン』の記述を辿ってみましょう。

まず、一度集結した軍団が二手に分かれ、ライン両岸を行軍していったと記述されます。要するに敵を挟み打ちする
戦術で、カロリング期にはよく見られる戦法ですから、それが実施された可能性は高いでしょう。さらに当初は
奇襲攻撃を予定していたが、先遣隊の中から裏切り者が出たために失敗し、時間のかかる攻囲戦を余儀なくされた、
と記述されています。
その攻囲戦についても日付、敵との距離、自然条件などが正確に述べられていますし、エピソードも豊富に盛り
込まれています。
その後に停戦・和約の条項の記述が続きます。この著者はバイエルンに関係しない事件は大きく扱わず、885年の
パリ攻囲戦にもほとんど言及していません。それなのに、この詳細さは異常という印象を与えます。一人称複数
「私たちの」の使用法を考慮すると、書き手自身が参加したか、あるいは参加した知己から直接に訊いたか、
いずれかではないかと想像されます。

 このように考えると、マインツ版が記録したリュートヴァルトの裏切りは疑わしいものに思えます。
『バイエルン』では、先遣隊のフランク人が裏切ったとしています。リュートヴァルトはこの時、主席宮廷司祭で、
尚書筆頭でもありますから、本隊の王の傍らにいたと考えるのが自然で、先遣隊の中にいたとは考えられません。

 『バイエルン』は地方史ですから、王カールを擁護しようとする格別の理由・動機はないでしょう。敵と妥協して、
長引く攻囲戦をひとまず終わらせる、というカールの決断は、酷暑の中、多くの死体が放置され、腐敗が進み、
双方の陣営に疫病が蔓延しつつあったためであるとされます(『マインツ』にこの詳細は記載されていません。
私たちもこの攻囲戦が真夏に行われたことを初めて知ることができます)。つまり『バイエルン』は地方史として、
やや軽視されて来ましたが、こちらの方がずっと客観的で、従来第1級史料とされてきた『マインツ』よりも信頼できる
のではないか、と思えてきます。

(4)(5)王カールが敵の指揮官を洗礼させ、共同統治者とし、封土を与えたとは前代未聞の愚行であるとしていますが、
フランクの王たちは度々、このように敵を買収し、家臣とし、その上で、彼らに同志討ちをさせるという政策を
とってきました。
後述する西フランク王シャルルの治世、911年に、やはりヴァイキングを買収し、土地を与えたことが知られています。
王はともかくも戦闘を終わらせることを優先させて、教会財産を利用して彼らを買収したのでしょう。なるほど
聖職者の立場からすれば、それは許し難い「掠奪」であったかもしれません。

(6)(7)ともかく王がヴァイキングを退去させ、動員解除と帰還を命じたことは幸いであったと、『バイエルン』の
著者は語っています。そうすると、自軍の兵士に対する処罰の件は、ようやく停戦までこぎ着けたのに、戦闘再開も
やむなし、という事態に陥ることになるような勝手な行動は厳罰に処すと命じたものとは読めないでしょうか。

 つまり王カールの行動は『バイエルン続篇』を利用して、補いながら検討すると、合理性・一貫性があり、
決して無能な王ではなかったと理解されるのです。


(3)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美





posted by 園遊会 at 13:31| Comment(0) | シリーズ「東と西の物語」
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