2014年08月22日

東のカールと西のシャルル(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回

 病弱で活力に乏しく、何もしない王であった、という記述も、そのまま受け容れるわけにはいきません。
まず上記882年の遠征隊にカール自身が参加し、指揮をとったことは確実です。「何もしなかった」という評判は
彼が病弱であった、という評価と一体のものです。873年にフランクフルトで「激しい頭痛を伴う発作」を起した、
という事件はよく知られています。脳梗塞でしょうか。後遺症の如何については知られていませんが、ともかく
王の「発作」はニュースとして価値があり、年代記の中では絶対に省略しえない記事でしょう。

その事実を彼の無精・惰弱に結びつけるのは無理があります。彼はイタリアへ6回、西フランクへ2回も遠征しました。

 さて、これまで述べてきたことは、いわゆる史料批判であって、歴史研究者が研究の過程で行うべきことであり、
研究成果を公表する場において言及する必要はない、と苛立っている方もあるかもしれません。
つまり『フルダ・マインツ』が事実を客観的に記録した「史書」とは言い難い作品であることは分かった。それで ?と。
マインツ大司教リュートベルトは一体何を書きたかったのでしょうか。


『フルダ年代記・マインツ続編』の書き手(マインツ大司教リュートベルト)は自身の失脚の恨みを歴史書に託し、
王カールを唾棄すべき最低の人物として描きましたが、これは実像とは言い難いことを確認することができました。
そこで、ちょっと一工夫してみましょう。彼が描くカールの像を全て逆転させてみます。そうするといったい
どのようなことになるでしょう。

 まず、「家臣の言いなりであった」という評価の逆は刻々に変化する事態を前にして、即断即決、英断を下す
ことができる人物となりましょうか。頼もしいですね。「外敵の侵略に対して無能・弱腰」という人物像の逆は
外敵を敢然と撃退するあっぱれな豪傑でしょうか。「病弱・惰弱・怠惰」という性格の逆は精力的で疲れを知らぬ
強靭な精神と身体の持ち主となりましょう。リュートベルトが、あるいはひょっとすると同時代の多くの人々が
理想とする王(勇者)のイメージとはこのようなものだったのではないでしょうか。

司教の批判そのものが妥当かどうかを論じることに大きな意味を見出すことはできません。そうではなく、
彼が無意識のうちに理想像の裏返しを行っていることに注目したいと思います。「語るに落ちる」とはこのことです。
カールを貶めるつもりだったのでしょうが、その文章の背後に、私たちはフランク王者の理想と行動規範を読み取る
ことができると思います。おそらくカールの実像はこの極端な称賛と罵倒の間のどこかに位置しているのでしょう。

『フルダ年代記・マインツ続編』は普通の意味での史書ではなく、むしろ道徳哲学ないし政治哲学の性格を備えていると
理解することができると思います。


ところで、この描かれたカールではなく、実在の王カールは西フランクに対しても影響を及ぼしています。
 
アセルト攻囲戦のあった882年、西フランク王ルイ3世が逝去し、884年にはその弟カルロマンも逝去しました。
いずれも継嗣が誕生していません。異母弟シャルル(後に即位して3世、単純王)は879年生れですから、
この時5歳です。

そこで東王国のカール肥満に西王位を委譲することにしました。その結果、884年からカールは東西フランク王国を
ひとりで支配することになります。この東王への権力移譲を推進したのは西王国の貴族で、有力派閥(北方派)の長
であったサン・ドニ修道院長ゴーズランであったとされますが、カール肥満は西王国を支配する人脈も拠点も持って
いません。つまりゴーズランは自身が西王国の実権を掌握したいがゆえに、このような操作を行ったと考えられます。


 その翌年885-886年の冬、西フランク王国の中心都市パリがヴァイキングに攻囲されると、地元の有力者であった
ロベール家のウードがパリ住民を指揮して抵抗しました。この時にウードと王カールとの間に何らかの接触があったと
考えられます。ちなみに、ウードの父ロベールは初代西フランク王の家臣で、剛の者として聞こえた傑物でした。
やはりヴァイキング戦で名をなしましたが、866年に戦死しています。


 ところが、このパリ攻囲戦直後、886年4月にゴーズランが、さらに同年5月にはトゥールを拠点としロワール地方に
勢力を張る主流派の領袖ユーグが、相次いで死去しました。しかし彼らに代わる実力者がなかなか現れず、西王国は
権力の空白地帯となってしまいました。その間隙を縫って、ウードは少しずつロワール流域へ自身の支持者ネット・
ワークを広げ、勢力範囲を拡大していきました。様々な紛争や司教選挙に介入して、信頼関係を築いていったと
されます。

こうして単にセーヌ流域にとどまらず、次第に西王国の実力者として知られるようになったウード、傑物ロベールの
息ウードを、カールは自身の代理、つまり国王代理、として指名することになります。




西フランク王シャルル単純王(位898‐923年)

 888年カール肥満が嫡子なく逝去すると、東王国ではカールの長兄カルロマンの庶子アルヌルフが反乱を起し、
王となります。西ではウードが圧倒的な支持を受けて王に選出され、10年にわたって西王国を支配しました。

シャルル単純王の治世

 そのウードが898年に嫡子なく死亡した時、ウードの弟ロベールも、聖界の実力者ランス大司教フルクも、そろって
カロリング家のシャルル(879生19歳)を支持したために、シャルルが西王に即位することになりました。この当時、
王は強制力を持つ支配者とは言い難く、むしろ有力諸侯(貴族)を政策決定に参加させ、合意を取り付け、その実施に
当たっては重要な役割を担わせることが必要でした。つまり彼らに封臣としての義務を強く自覚させ、王の、いわば、
同輩として王国を共同統治するという理念を持たせる。その見返りに、王は彼らの王国内での優越的・指導的地位を
追認する。こうして王と貴族は互酬関係を持つ支配者集団を形成していたと理解されています。


 シャルル単純の治世前半(898−c.910)は依然としてノルマン(ヴァイキング)の侵略が続いていました。
王シャルルは自ら軍勢を率いるだけの能力も財力もなかったので、それを家臣に委ねます。そのために、いわば
王国防衛隊長の任に当たったがブルゴーニュ(西王国の東南部)出身の貴族リシャール(c.858生-921死)であり、
彼を補佐したのはヌーストリア(パリ周辺)のロベール(ウードの弟c.865生-923死)でした。とりわけリシャールは
判官公とも呼ばれ、貴族たちから篤い信頼を得ていた人物でした。二人は貴族連合軍を組織し、911年7月20日
シャルトル(パリの南西約70 km)でヴァイキングに壊滅的打撃を与えました。この戦いの結果も、もちろん重要ですが、
それよりも、むしろ諸侯が王抜きで団結し、しかも立派な成果を上げることができた、ということの方がはるかに
重要と思われます。つまり王は必ずしも必要ではない、ということを証明してしまったのです。王シャルルは何を
思ったでしょうか。

 この戦後処理である同年のサン=シェール=シュル=エプト条約によって、ヴァイキングの領袖ロロには海岸沿いの
土地が与えられました(これが後のノルマンディーの起源です)が、同時に対ノルマン戦の先頭に立つことも約束
させられました。


王シャルルの結婚とロタリンギア支配

 王シャルルは908年(29歳)にロタリンギア地方(東王国に帰属)出身のフリデルーナなる女性と結婚しました。
これを機に、彼はロタリンギアに関心を抱くようになります。
 911年、東フランク王ルドヴィッヒ(アルヌルフの子)が死去すると、ロタリンギアでは西王シャルルの支配を
求めました。もちろんシャルルは喜んでこの申し出を受け容れます。以後、ロタリンギアは彼の直轄地として、
重要な財源となり、しかもロタリンギア出身者が何人も王シャルルの側近に混じるようになりました。つまり、
これまで望んでも得られなかったもの、自由に処分できる収入と人材を彼は手にし、その結果として、西フランク諸侯
に対する彼の態度は微妙に変化していきます。

(4)につづく




文学部 史学科 教授 金尾 健美




posted by 園遊会 at 14:09| Comment(0) | シリーズ「東と西の物語」
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