2014年09月03日

東のカールと西のシャルル(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



第4回


 ロタリンギアの出身者でアガノという男がおりました。妃の血縁者というふれこみで、口が達者、いつの頃からか
宮廷でよく見かけるようになり、弁舌巧みに王に取り入り、やがてお気に入りとなって、918年頃には王シャルルの諮問会
で強い影響力を行使するようになりました。

 諸侯はこの男を嫌い、王との関係が次第に冷却化していきます。諸侯たちからすれば、王との間に壁ができ、
王は自分たちの意見を聴かず、アガノの巧言に踊らされている、というわけです。封臣が封主に勧告するのは大切な
義務ですが、封主がそれに耳を傾けることも大切な義務です。919年、ロタリンギアにマジャール(東方の民族)が
侵入した時、これを撃退すべく、シャルルは諸侯に軍事動員を求めましたが、諸侯は拒否しました。これは深刻な事態
です。主君に対する軍役奉仕が家臣の一義的な義務であるのは周知のこと。王と貴族との封建的信頼関係に大きな
ひびが入ったことを意味しています。

921年、貴族たちの信頼が篤かったリシャールが死去したため、代わってロベールが貴族たちを指導する立場に立ち、
王の承諾なしにノルマンとの不戦条約を締結してしまいました。王は東向き、貴族は西向き、と関心の方向が大きく
ずれてしまったのです。


 922年、事件が起こりました。初代西フランク王シャルル禿頭の娘でロベール家に嫁していたロチルドなる女性が
おりました。彼女は結婚に際して、父たる初代西フランク王から個人財産として豊かな修道院所領を授けられて
いました。王シャルル単純は、突然、格別の理由もなしに、彼女からそれを没収してアガノに与える、ということを
やってのけたのです。もとより彼女が何か不始末をしでかしたわけでもありません。諸侯はこの王の偏った庇護は
正義に悖ると激怒し、猛然と反対しました。対立は紛争に発展します。


王と貴族の激突

 同年、ロベールとその娘婿ラウール(ブルゴーニュのリシャールの息)が協力して西フランク諸侯を指導。
貴族たちは王シャルルに対する家臣としての誠実を棄て、ロベールを王に選出し、ランスで戴冠させてしまいます。
年末には東フランク王ハインリッヒ1世もロベールを西王として承認しました。つまり諸侯、ランス教会、東フランク王、
と、すべてがシャルルに与しないとあれば、シャルルは逃げるしかありません。どこへ行ったでしょう。

 あろうことか、彼はノルマンの土地へ逃げ込みました。翌923年、彼はノルマンの援助を取り付け、ノルマンを率いて
西フランク諸侯軍と戦います。しかし6月15日、スワッソンで諸侯軍に大敗を喫し、ヴェルマンドワ伯エリベールの捕虜と
なり、投獄され、結局、929年に獄死するという末路を辿ることになりました。他方、貴族を率いたロベールもこの戦いで
戦死したため、戦争終了後、貴族たちはラウールを王に選出しました。

前年922年のロベール選出といい、このラウール選出といい、いずれも諸侯は自らの意思で、自らが欲する人物を、
血縁を重視せずに選出したことを証明しています。


衝突の意味 = 二つの人間関係の対立と緊張

 西王シャルル単純と貴族たちの対立の背後には二つの人間関係が拮抗していることを見ることができます。
ひとつは封主としての王と封臣としての貴族が結ぶ封建関係です。この関係は互いに誠実を誓う人為的な関係であり、
絶えざる合意形成を要するものです。貴族はこれを楯にとって王の不実を詰りました。

他方、血縁関係も自然な人間関係として社会の基礎を作っていることは言うまでもありません。こうした複数の
人間関係を上手に折り合わせることができず、対立させてしまったことが、王シャルルの不手際であったということは
できましょう。


おわりに

 東王カールは長く不当に評価されてきた王でした。それが基本史料たる『年代記』編纂者の魂胆によるものであった
ことは説明した通りです。しかし、だからと言って、その史料が役に立たないわけではありません。『マインツ続編』は
暗黙の裡に王のあるべき姿を述べ、その理想と現実との乖離を明確にするという手法で現実を批判しました。

 他方、西王シャルルは「英雄に成り損ねた愚物」でしょうか。所与の状況を熟考せず、取り巻きの中で自己陶酔し、
強引に自己主張を押し通そうとしたがために、現実に拒絶されたと言えましょう。

血縁者の壁で隔離された王と誠実宣誓を立てた封建諸侯の対立というヨーロッパ中世社会で何度か繰り返される軋轢を
見ることもできます。王といえども、古き慣習を守らぬ上に、臨機応変の才もない、とすれば、諸侯にとっては
無用の存在でしかありません。

 
記述の中に見出される王のあるべき姿と、諸侯の行動に映し出される王のイメージと、両者はぴたりと一致しています。
つまりこの時代においては、権力は人性を払拭することがなく、非人称の装置となっていません。権力は支配者(=王)と
一体化していることが自明であるからこそ、自明の理想に向かって邁進することで被支配者の信頼を得ることが必要
だったのでしょう。この時代 ――「ポスト・カロリング期」と言います ―― の王の姿から、何か特別な教訓を引き出す
心算はありません。しかし求められるものを実現できない支配者は支配者たりえない、という厳然たる事実から目を
そむけるべきではないでしょう。


参考文献
東王国のカール肥満王に関しては MACLEAN, Simon; Kingship and politics in the late ninth century. Charles the Fat and the end of the Carolingian Empire. Cambridge, 2003.
西王国のシャルル単純王に関しては DUNBABIN, Jean; West Francia: the Kingdom, in The New Cambridge Medieval History III, ed. by REUTER, Timothy, Cambridge, 1999. pp.372-397.




文学部 史学科 教授 金尾健美




posted by 園遊会 at 10:43| Comment(0) | シリーズ「東と西の物語」
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。