2014年12月24日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





【3】 『古寺巡礼』の比較文化論的視点


『古寺巡礼』の魅力の一つは、【2】で見たように、仏像をはじめとした古美術との出会いという実体験をきわめて印象深く叙述している点に求められます。そして、その叙述の際立った特徴は、叙述が印象記の域をはるかに超えて日本の古代文化に関する、当時としては最先端の学識に裏打ちされている点にあります。

和辻の学識が、事象の本質に迫る卓越した洞察力として現われているということについては、【2】で触れておきました。それに引き続き、もう一つ彼のすぐれた学識に関して強調しておかねばならないことは、日本の古代文化の成り立ちを朝鮮や中国、インドなどとの連関で捉え、さらには古代の仏像とヨーロッパの芸術の比較までするといった視野の広さをその学識が備えていたということです。

次の叙述は中宮寺の弥勒菩薩像(『古寺巡礼』に時代にはこれを観音像と見る人もいたようです。)を拝観した時の印象を記したものですが、ここには裾野の広い学識を背景として自由に想像力を飛翔させるという、『古寺巡礼』のもう一つの魅力が感じられます。



この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるとともに処女であるマリアの像の美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結晶によって「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻におけるように特に母の姿となっている場合もあれば、また文芸復興期の絵画におけるごとく女としての美しさを強調した場合もある。・・(中略)・・しかしこの聖女(中宮寺弥勒菩薩)は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくまでも「処女」のものである。がまたその複雑な表情は人間を知らない「処女」のものとも思えない。と言って「女」ではなおさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。――慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人体の形に結晶せしめたものである。
(和辻全集第二巻)




 和辻は、ここでヨーロッパのマリア像との対比において弥勒像の美を捉えようとして思考を自由にはばたかせ、上述のような自問自答を経てこの像の本質を「慈悲の権化」と言い当てているわけです。弥勒像を前にしての、このように自在で豊かな思考の飛翔が和辻において可能であったのは、その確かな学識の蓄積によるということを、今回は書いた次第です。




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中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像



(4)につづく




文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




posted by 園遊会 at 14:39| Comment(0) | シリーズ「東と西の物語」
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