2015年02月25日

平安の調べを聞く −雅楽の響きー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





平安の調べを聞く −雅楽の響きー 

◆3

 11世紀から12世紀にかけて、様々な階層で「家」が成立します。「家を継ぐ」「家が絶える」という時の、あの「家」です。「家」とは、簡単に言うと「家業」を世襲する単位であり、多くの場合、父から嫡男子への直系単独相続によって「家」が継承されました。歌舞伎などの「家」を思い浮かべていただくとイメージしやすいかもしれません。

 雅楽の「家」が成立し始めるのもこのころです。身分の低い楽人たちの中から、右方舞の多家や左方舞の狛家、笙の豊原家などが生まれました。公卿・貴族など身分の高い楽人たちの場合は少し遅れますが、やはり琵琶の西園寺家や和琴・謡い物の綾小路家などが成立しています。


 
 さて、「家」は「家業」を世襲する単位です。「家」の存在意義は、「家業」を行うことにあるわけです。とすれば、「家」が安定的に存続していくためには、独自性を保ち、他家との差異化をはかる必要があります。「その仕事はうちじゃないとできません。他の家では無理ですよ」ということが出来れば、その「家」の存在価値は高まるわけです。

 雅楽の「家」では、差異化のために技術や楽曲の秘伝化が行われました。秘伝というとなにやらアヤシク聞こえますが、大きく分けると3つあります。

1つ目は秘曲です。珍しい曲、あるいは同じ曲でもめったに演奏されないバージョンなどです。

2つ目は演奏技術です。例えば13世紀に狛家で書かれた『教訓抄』という書物には、「万秋楽」という曲を演奏する時は、第2帖(楽章)の終りを延ばし、第3帖の始めを縮め気味に演奏しなさいという秘伝が載せられています。かなり実際的な演奏指導といえるでしょう。

以上の2つは何となく理解しやすいのですが、ちょっとわかりにくいのは3つ目の作法・所作です。直接雅楽の演奏とは関わらない儀式作法が雅楽の秘伝として伝えられています。例えば13世紀の『雑秘別録』という書物には「さらゐつき」という秘伝が出てきます。

長々と書かれていますが、要するに貴人の前を通る時、膝をついて挨拶をする所作の事です。私たちの目からはどうでもいいことのように思えますが、こうした所作が「秘蔵の事」として重々しく扱われたのです。このように、他家との差異化をはかるために、非常に細かな秘伝がどんどんと量産されていきました。



 秘伝は秘密にすることに意味があります。ですから、秘伝は嫡子など限られたものにしか伝えられません。そのことは一方で、嫡子がいない場合や夭折してしまった場合、雅楽の才能が無い場合などに相伝が絶えてしまう危険性を高めます。

 こうした秘伝の脆弱性が強く表れたのが、内乱期でした。まず14世紀後半の南北朝内乱では、貴族や武家が二つに分かれて争ったため、様々な分野で「家」の断絶が大きな問題になりました。永享4(1432)年に足利義教が「楽道再興」を宣言したのは、雅楽=楽道の伝承が途絶えつつあったためと考えられます。

 この時はどうにか雅楽の伝承が保たれたようですが、さらに深刻な危機をもたらしたのが、15世紀後半から16世紀のいわゆる戦国時代でした。京都が度々戦場となったため大事な楽器や装束、秘伝の書物が多く焼失し、楽人たち自身も戦乱の京都を離れて地方に疎開を余儀なくされます。雅楽を奏すべき朝廷の儀式が行えないことも、雅楽の伝承にはマイナスとなったでしょう。


 16世紀末に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、雅楽の復興に乗り出しますが、この時以降雅楽は三方楽所という体制で担われるようになります。失われた伝承が余りにも多いため、京都の内裏楽所、奈良の南都楽所、大阪の天王寺楽所の3つが協力して補い合うことで、ようやく雅楽を行うことが可能になったのです。とはいえ、この時の復興は完全なものではありませんでした。そのことは、17世紀にかけて膨大な雅楽研究が行われたことからもうかがえます。文献や古老からの聞き取りによって、かつての姿を復元しようとする努力が続けられたのです。



 このように、中世には雅楽の「家」が成立し秘伝化が進んだことで伝承が脆弱さを増し、度重なる戦乱によって多くの伝承が失われました。特に15〜16世紀の断絶は深刻で、この時を境に雅楽は大きく変容します。その具体像については後に述べますが、ここではひとまず15〜16世紀を第2の画期としておきたいと思います。


(4)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和




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