2015年06月10日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(4)



 皆さんよくご存じの「十二支」。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、ですが、これをこの順序で、アナログ時計の文字盤に当てはめていって下さい。

 子を真上(12時)にすると、丑が1時、寅が2時…午が6時…亥が11時、ということになりますね。

 そしてその、子丑寅卯…が書き込まれた文字盤を、方位を示す羅針盤に見立てるとどうなるでしょう。子(12時)が真北、卯(3時)が東、午(6時)が南、酉(9時)が西というように見立てることが出来ます。

 詳しい説明は省きますが、戦国中期においては「子から未が生まれ、未から寅が生まれ、寅から酉が生まれ、酉から辰が生まれる」とされました(ちなみにこの段階では、ネズミとかヒツジとかトラといった動物とは全く関連がありません)。これは楽器の音階を調律する時の音楽理論に関わるもので、従って当時の人々にとって十分科学的なものでした。

 この子(12時)・未(7時)・寅(2時)・酉(9時)・辰(4時)の各方位に、水・火・木・金・土という五行がそれぞれ当てはめられました。それはやがて単純化され、「北=水、南=火、東=木、西=金、中央=土」と当てはめられます。


 方位の次は色彩です。

 北は太陽が隠れる方位、南は太陽が最も高まる方位。というわけで、北=水には黒色、南=火には赤色を当てはめます。そして東=木に植物の色である青、西=金に金属の色である白、中央=土は土壌の色である黄色が、それぞれ結びつけられました。


 季節だってすぐ想定できますね。
 北=水は冬であり、南=火は夏です。当然、東=木が春で、西=金が秋で…あれ、中央=土はどうしましょう。

 土が象徴する季節は、春夏秋冬のそれぞれの終わりにやってくる、とされました。四分割されて春夏秋冬の後ろにくっつけられたわけですね。

 五行説はこのような自然界の事象について説明を可能としました。そして、それを凌駕するような体系だった説明は当時存在しませんでした。

 しかも古代にあっては、自然界の現象と人間界の政治はひとつながりのものと認識されていました。だから前回述べたとおり、董仲舒は歴史上の出来事を五行説で説明し、王朝交代も五行にのっとって展開するとされたわけです。

 ここまで来れば、なぜ漢王朝のシンボルカラーが赤、魏王朝のシンボルカラーが黄色だったのか、もうおわかりでしょう。漢王朝は火徳、魏王朝は土徳とされていたからです。

 世界史をしっかり勉強した方なら、後漢王朝が成立する前の「赤眉の乱」をご存じでしょう。眉を赤く染めて反乱軍のメンバーの目印としたからその名がありますが、なぜ赤く染めたのかといえば、いったん滅亡した漢王朝の復活を願って起こされた反乱だからです。

 それと逆なのが、三国志ファンならおなじみ、後漢末期の農民反乱「黄巾の乱」。黄色い頭巾が反乱軍の目印でしたが、それは彼らが「打倒漢王朝=新しい世の中の到来」を目標にしたからで、「赤の次の色」である黄色をシンボルにしたのです。

 こうして、五行説は世の中のあらゆる事象を説明する理論として、社会の隅々まで浸透していきました。

 そして隋唐の時代には、遣隋使・遣唐使を通じて日本に伝えられます。日本では当時、隋唐をモデルとした国家を建設していましたから、奈良・平安時代の社会と国家について調べれば、多くの場面で五行説の影響を見て取ることが出来ます。

 なぜ、平安京の南の入口は「朱雀門」である(「朱」の字がつく)のか。もうおわかりですね。

 日本でも五行説は社会に深く浸透して中世近世へと至ります。中には当然、日本独自の文化の中に組み込まれたものもあります。

 わかりやすい例は、例えば「大相撲の土俵の上で、天井からたれ下がっている房の色は青赤白黒である」。土俵(土=黄色)を中心として考えれば、おわかりですよね。




高津 last.jpg







 山手線には「目白」と「目黒」駅があり、東京に慣れてない人から紛らわしいと言われたりするのですが、あれは「目白不動」「目黒不動」というお寺の名前から来ています。

 実は江戸東京の街には、他にも「目赤不動」「目青不動」「目黄不動」も存在するのです。もし全部駅の名前になっていたら、大変でした(笑)。

 「土用」という言葉をご存じですか。今では「土用の丑」という、うなぎがバカ売れする日についてのニュースぐらいでしか聞かなくなりました(「土用波」なら聞いたことある人もいるかもしれません。夏の終わりに日本を襲う高波のことです)。

 この「土用」とは本来は、春夏秋冬の後ろにやってくる、土が象徴する季節を指します。だから年に四回あるわけで、うなぎで有名なのは正確には「夏の土用の期間内の丑の日」ということになります。

 現代日本で「漢方」として継承されている東洋医学のルーツはもちろん中国医学ですが、その基本は体調のバランスを整えて健康な身体を作ることにあります。病気の治療も当然行いますが、それは対症療法というよりは、バランスが崩れたものを回復させるという発想でした。

 そこでは、人体とは小宇宙であり、自然界の延長にあると考えられました。

 となれば、当然五行説の出番です。身体の部位、臓器、分泌液、味覚や感情など、あらゆる要素が五行に配当され、それらは相互に関連づけられていきました。

 現在、陰陽五行について調べようと思ったとして、例えばグーグルで検索をかけると、そこに挙げられる情報の大半は東洋医学関係のものです。つまり、現代日本でも東洋医学の世界では、五行説が現役の理論として生きているのです。

(了)



文学部 史学科 教授 高津純也




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