2015年09月14日

日本の美術にみる色彩と文化

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界―

 
    
「日本の美術にみる色彩と文化」―青の世界―
T徳島・阿波藍の歴史文化  U古伊万里・有田の染付の魅力 
V北斎・広重のプルシャンブルーの3つのテーマを選びました。

T、Uは実際に現地に赴き、資料館、専門の作家および研究者を訪ねて学んだこと、
Vでは浮世絵の展覧会にて鑑賞して、多くの美術書籍、参考文献等から参照しました。

ここでは、川村学園女子大学公開講座での内容に加え、
本年、再び徳島を訪ねて撮影した写真と新たに研究した事柄も加えて、≪青の世界≫をテーマの話をいたします。


T.徳島・阿波藍の歴史と文化


日本の藍染めの歴史について、「日本の藍―染織の美と伝統」(田村善昭著、日本放送出版)の序文「庶民の藍・永遠の藍」(北村哲郎氏筆)には「魏志倭人伝に正始4年(西暦243年)、倭国から絳箐(こうせい)の縑縑(かとり)、すなわち赤や青に染めた絹織物が献上された」とあり、その歴史の古さを知らされます。

日本の藍染めでとりわけ有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、現在の徳島県山間部にいた忌部氏の藍に染める衣料にはじまると云われており、古文献では平安時代の村上天皇の御世に著された『阿州藍草貢々記』に“阿波の藍を最勝とする”と記されています。

鎌倉時代中期ごろから戦国時代には吉野川流域に藍栽培が広がりはじめますが、やがて天正13年、蜂須賀家政が阿波に入国すると、領地となった吉野川流域が砂地であり、温暖多雨な土地の為、毎年、河川の氾濫により肥沃な腐葉土が大量に畑へ流れ込み、藍栽培に適した地であることを知ります。

しかし藍の収穫において農民は毎年吉野川の氾濫に苦しみ、堤防を築いて欲しいと要望しますが、全く叶えられず長年にわたり苦労して土地に生きてきました。
ただ、城のある武家町側には早くから堤防が造られています。

明治時代になると藍栽培はますます盛んとなり、明治36年には作付面積が全国の過半数にまで広がり栄えますが、明治末期になると安価なインド藍と合成染料の輸入により、徳島のみならず日本の藍産業は衰退の一途をたどる事になりました。

昨年と今年の夏に徳島市藍住町にある「藍の館」資料館を訪ねました。
ここは江戸時代の大藍商旧奥村家の屋敷内に建つ資料館で、徳島の阿波藍の歴史と藍製造の技を詳しく知ることができます。藍住町および近隣の上板町周辺地域は、吉野川流域のなかでも蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中していて、この地区は“すくも”(藍玉ともよばれる)を造る、藍師又は水師と呼ばれる匠の人たちが暮らしています。

「藍の館」では藍染の着物、夜着、布団、暖簾、風呂敷、武具、調度等が数多く展示され、さらに写真及び見事な和紙人形による、蓼藍栽培の風景と“すくも”造り、大藍商人の様子などを良く理解することが出来ます。
特にここでは蓼藍の葉を深い甕に入れて発酵させて、藍染料となる「すくも」に関する生産過程を詳しく藍師佐藤昭人氏が記していて、阿波藍の歴史・文化についてより関心を深めることができます。


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(図1)藍の館(旧奥村家)

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(図2)藍の館(藍染めのきもの)

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(図3)蓼藍の葉(夏に2回収穫)

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(図4)藍染め(和紙人形で再現)




             
今日、天然藍染めの商品を製造する全国の工房の多くは、藍住町、上板町で生産された「すくも」を使用しており、そのシェアーはおよそ90%にもなるといわれています。

江戸時代の農業全書全十巻(宮崎安貞著)には、人々に必要な植物として“三草四木”という考え方があり、三草は麻・藍・紅花叉は麻・藍・木綿、四木は桑・茶・楮・漆とされ、藍が選ばれています。日本では古代より高い身分の人しか身に着けることを許されない「禁色(きんじき)」が各時代にありますが、“藍の色”は誰もが自由に使用できました。

そして武家においては“勝”につながるとして、藍染めでは最も濃い染めの“褐(かち)色”を好まれて、現在でも剣道の稽古着は、藍染めが防菌・防臭にもなる事もあり多く使用されています。そして薄い藍染めの色は“甕のぞき”といい、以降は色の濃くなっていく順に浅葱色、縹(はなだ)色、藍色、紺色、そして褐色と呼ばれます。




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図−5 藍染の色名 




江戸時代になると木綿の生産が各地で広まり、きもの、ゆかた、半纏、足袋、暖簾、布団、風呂敷など、特に庶民は藍染め物を生活の中で様々に用いてゆきます。

明治時代に来日した小泉八雲の日記には、出会う人々の衣服や店に懸けられた暖簾など、あらゆるものが紺色であることに驚く記述があり、この一文により当時の様子がすぐさまにイメージされて、不思議と何処か遠い明治の面影が思い浮かんできます。

ところで、徳島市藍住町から吉野川沿いを上流に向かって、高速バスで30分ほど行くと美馬市脇町が有ります。ここは伝統的重要建造物群地区とされ、江戸時代中期から明治時代中期頃にかけて、藍商人達が商をして暮らした、“うだつのある町”として知られる古き町並が約400m続き、白壁の蔵・うだつ・虫篭格子の日本建築が美しく、阿波藍が長くこの地を繁栄させてきたかを知らされます。


荻原図6.jpg 荻原図7.jpg 荻原図8.jpg
  
        
図―6 、図―7、図―8   藍商人により栄えた脇町・うだつのある伝統的重要建造物群



(2)につづく


教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




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