2016年09月29日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





4. 日記にみる兼家と作者の結婚生活



 では、日記から読み取れる作者の家庭生活はどのようなものだったのでしょうか。

作者との結婚以前に、兼家は時姫と結婚し少なくとも息子と娘がありました(最終的に時姫は3人の男子と2人の女子の母となります)。時姫の出身身分は作者と変わりありません。結婚生活は作者の実家(一条大路右近馬場(ばんば)に隣接)に兼家が通う形態です。 

 ふたりの結婚は、平安時代の結婚の典型的な形、妻問い婚とか通い婚の代表例といわれます。確かに作者と兼家は生涯同居はしていません。それは、兼家が時姫と同居していたからだと考えれば、当然のことだと言えるでしょう。同じ屋敷に住んでいればともかく、ひとりの男が別の屋敷に住むふたりの女と同時に同居はできません。どちらかと同居すれば、もうひとりとは別居、通うしかないのです。『源氏物語』の後半、光源氏は六条院を4つに区切って春の御殿に紫の上、夏の御殿に花散里、秋の御殿は秋好む中宮の里院、冬の御殿は明石の上の御殿として多数の妻たちと同居していたように描かれます。細かく述べる字数がありませんので結論だけ述べますと、この御殿は完全に仕切られており、天皇の内裏や江戸の大奥のように女たちが交わるわけではありません。今のところ、実在の平安貴族の屋敷で、妻たちがひとつ屋敷に住み合う例はみつかっていません。同じような身分の妻たちならば、別々の離れた屋敷に住んでいます。

このような妻たちの中で、夫と同居している女性を、まわりの人々は正妻とみなしました。これをわたしは社会的認知を受けた正妻と呼んでいます。正妻以外の妻たちは、出身階級は正妻にひけはとらなくても、No2の存在にあまんじなければなりません。公的な場に夫と同席するのは正妻に限られますし、なによりも生まれた子どもたちが微妙な差別を受けるのです。男子は元服(男子の成人式)したあと朝廷の役人として出仕しますが、その時の位階(身分の上下)や官職(役所のポスト)は、正妻の子の方が恵まれています。貴族というのは、朝廷での位置をできるだけ高めるのが生涯の目標のような人々です。同じ父親をもちながら、そのスタート時点で差が付けられるというのは、本当に不公平だといえるでしょう。

女子の場合は結婚相手を選ぶときに、その差があらわれます。上流貴族は天皇との外戚関係を築くために娘を天皇のキサキ(女御・更衣)に入れるのにやっきとなります。その際、キサキ候補になれるのは正妻から生まれた娘だけです。父親と母親の住む屋敷から入内していき、その付き添いは正妻になります。『源氏物語』で明石の姫君が入内するときには、紫の上が養母として付き添い、明石の上はただの女房(使用人)の形でついて行っています。

日記でもこの原則は守られています。作者が時姫に対抗するためか、兼家の愛人だった女性の娘(近江で育って母を亡くした)を養女しますが、着裳の儀式(女性の成人式、西洋のデビュタントのようにお披露目もおこないます)には、時姫のいる兼家の本邸に引き取られてしまいます。この娘は、『源氏物語』で頭中将の娘で不作法で後宮でひんしゅくをかう近江の君のモデルになったようです。


(5)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




posted by 園遊会 at 12:13| Comment(0) | 教育
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