2016年10月26日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





5. イクメン・兼家


 あちこちに愛人を作って作者を嘆かせた兼家ですが、作者のたった一人の息子道綱の教育には細かく気を配りました。母ひとりの家庭で育つ道綱には「片飼いの駒」で淋しい思いをしているのではないかと心配する長歌も残しています。

 兼家はさびしい環境に育った道綱を、元服前の正月から、自分の屋敷東三条殿に通って貴族たちの顔を覚えさせ、誰と誰は仲が良いとか、あの人は有能だとか、貴族たちの品定めができるようにました。また、あいさつの仕方から立ち居振る舞いまでも、見よう見まねで学ぶことができました。これは、父親や親せきしか寄り付かない母の家では、決して得ることのできないことであり、貴族社会の複雑な有職(ゆうそく)故実(こじつ)と人間関係は、父兼家の屋敷で実地教育がされました。

 道綱が慣れたころを見計らって、兼家は道綱を吉野の御嶽(みたけ)(金峰山(きんぷせん))詣でや初瀬(はつせ)(長谷寺)に連れ出します。この小旅行は疎遠だった父と息子の垣根をとりはらったのかもしれません。兼家は道綱に、天皇の住む内裏の清涼(せいりょう)殿(でん)に見習いにあがる童(わらわ)殿上(てんじょう)をさせ、上流貴族の子息として貴族社会にデビューさせます。さらには、内裏での華やかな行事である賭(のり)弓(ゆみ)の射手として出場、おまけに勝ち組代表として納蘇利の舞うことも約束されます。この練習には、作者の家は手狭だということで、大勢の仲間と兼家の屋敷に移動したりしています。ちなみに、舞の師匠多好(おおのよし)茂(もち)は、『古事記』編者太安万侶の子孫で、現在、雅楽奏者として活躍する東儀秀樹はその子孫にあたるそうです。この師匠への謝礼は、兼家が支払っているようで、他にも兼家が経済的な負担を担っていると推測される場面は何カ所かあります。子どもの養育費はすべて母方がもつ、という通説はやはり誤りでしょう。

こうして、兼家邸や内裏での見習い実習を終え、元服をすませ、叙爵(従五位下の位階を受けること)されて貴族官僚としてスタートしました。正妻時姫から生まれ、父の屋敷で育った道隆・道兼・道長らに比べると、叙爵の年齢もその後の昇進も若干の遅れています。兼家は父との縁が薄く育ち、ハンディキャップを負った道綱をいとおしく感じていたのでしょう、道綱には甘い父親として、彼の頼みをいれて牛車に乗せて相撲(すまいの)節会(せちえ)に参加したりします。

兼家と道綱の関係が深まるのに反して、兼家と作者との仲は冷え切っていきました。「三十日(みそか)三十夜(みそよ)はわがもとへ」と兼家を独り占めにしたい作者と、肉親との政争に必死の兼家とはまったく別の方向を向いていたのです。実家から兼家の提供する屋敷を2,3移り住んでいた作者は、とうとう実家を売却して都の郊外中川のほとりに転居します。これは、作者と兼家との実質的な離婚です。面白いのは、この後も兼家は道綱の送り迎えに中川の屋敷を訪れますが、作者とは没交渉でした。

幼年期・少年期を人交わりもなく育ち、仲違いする両親の間にたって、双方から愚痴や罵声をあびて育った道綱は、作者にとってはいつまでも「幼き人」です。社会学者のT.パーソンズがいう‘子どもの社会化’がうまく機能しなかった子育てであったと言わざるをえません。「望月の欠けたること」のなきと権勢を誇った異母弟道長に「一日だけでも大臣にしてほしい」とねだって、周辺の貴族から冷笑されるなど、道綱を腐す逸話がたくさん残されています。


6. おわりに

 今までお話ししてきたように、男の日記は子孫の朝廷での地位を保守する実用の日記であるのに対して、女の日記は自己の一生を振り返る回想録と言って良いでしょう。(『紫式部日記』の一部は男日記の色合いが濃いものです。)男日記は歴史学者が史料として扱い、女日記は国文学者が文学作品として論ずる傾向があります。しかし、『蜻蛉日記』は年月日や人物が特定できますから、一定の注意を払えば史料として扱うことができます。こうして日記を虚心に読むと、平安時代中期の貴族の家庭の中で、正妻として夫と同居するのではなく、男の使用人として女房勤めと性的奉仕をする妾でもない妻たちがおり、日記の作者もこのような立場であった女性だと言えます。作者は夫とは別の屋敷に住み夫がそこに通ってくる、その屋敷は作者の持ち物であったり、夫の提供したものであったりするが、屋敷の維持や使用人など家計は基本的には夫が支えている、子どもの社会化は夫の人間関係、社会的地位の中でおこなわれる、夫婦の絆はきわめてゆるいものである、などが日記からうかがえます。作者の立場を副妻とか次妻とか呼ぶことがあります。副妻の社会的出自は正妻と変わらなくても、妻としての立場は一段と弱く、それは子どもに大きく影響しました。日記を読んで伝わってくる作者の嘆きやいらだちは、このような社会の仕組みがもたらすものでもあったのではないでしょうか。
 今回は、時間の都合で史料や日記の原文は提示していません。また、参考文献や先行研究も紹介できなかったことをお断りして、終わりにいたします。



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




posted by 園遊会 at 15:50| Comment(0) | 教育
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