2018年01月18日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1.文化と野蛮


(1)文化とは何か

 日本にもファンが多い画家モジリアーニ。彼の書いた人物像は首が長く、顔がラグビーボールのようで、鼻が長く、瞼は一重。実はこれはアフリカでしばしばみられる木彫りの人物像の様式である。モジリアーニの芸術がアフリカ芸術の影響を強く受けていることは今日よく知られるところとなっており、フランスではモジリアーニとアフリカ芸術というテーマで展覧会が開催されたりする 。


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(左図)Amedeo Modigliani: Jeanne Hébuterne, 1919
http://www.artcyclopedia.com/artists/modigliani_amedeo.html
(右図)Art africain le masque africain Baoule
http://www.masque-africain.com/masque-africain/masque-baoule/masque-africain.jpg



 
 おそらく日本の西洋芸術のファンにとってより驚きが大きいと思われるのは、ピカソの作品である。ピカソはアフリカ芸術をテーマに集うグループに入っていたが、例えば「アヴィニョンの乙女たち」に描かれている少女たちの中にはアフリカの女性も描かれており、その描き方はアフリカのお面を模したとみられている。



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(左図:中央図の一部)Demoiselles d’Avignon http://geotourweb.com/nouvel229.jpg
(右図)Le masque MBANGU chez les Pende  http://detoursdesmondes.typepad.com/dtours_des_mondes/page/41/  
  (ただし、右のマスクから直接左の絵になったわけではない。)




 ピカソやモジリアーニといった一流の芸術家がアフリカ芸術に魅せられた事実は何を意味しているのだろうか。
 モジリアーニは貧困の中に亡くなり、ピカソは存命中に名声を博したが、二人の天才は美を探究していく中で、美を描きだす方法としてアフリカの美の表現法に出遭った、少なくとも、アフリカの美の表現法に「も」出遭ったと考えても良いのではないだろうか。そう考えるためには、美は大陸や文化を越えて人間の感性に訴える共通性を有していると認識することも大切なのではないだろうか。そして、そのような認識を持ちうるためには先入観というものを排除する必要がある。なぜなら先入観こそはその人が生まれ育った文化や環境の中で生まれるものだからであり、それ以外のものを排斥する排他性を備えているからである。

 アフリカの芸術には、それを生まれて初めて見る部外者にもストレートに美の感動を与えるものと、なかなかその美を理解しにくいものの双方がある。例えば伝統的宗教行事に使われたであろういくつかのお面は率直に言って部外者にはなじみにくい。
 そこで何枚かの写真をお見せしたい。初めはアフリカの伝統的な宗教行事から発したお面と、お面をかぶった人々の行進である。いかにもおどろおどろしいと感じるかもしれない。



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 では、次の写真はどうだろうか。これは日本の秋田県男鹿半島に伝わる国の重要民俗無形文化財、なまはげの写真である。


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 http://www.namahage.co.jp/namahagekan/exhibit.php (なまはげ館、男鹿真山伝承館ホームページより)




 このような写真を見て、こういったものはアフリカや日本のある特定の地方の郷土伝統に過ぎない、と考えるべきだろうか。
 ところが、実はヨーロッパにも似たようなお面がある。ドイツ南部のバイエルン地方やオーストリア、ハンガリーなどに伝わる風習で、おどろおどろしいお面をかぶってモノがクリスマスの聖人セント・ニコラスとともにクリスマスの街を歩いている。ドイツ観光局のホームページは「屋台の並ぶ小路では、クランプス (西洋版なまはげ) を従えた、教父の聖ニコラウスに出くわすかもしれません。これらは、500年来のアルプス地方の風習を、今に伝える存在です。」と広報している。http://www.germany.travel/jp/specials/christmas/christmas-market-in-munich.html



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(2)野蛮とは何か

 若い読者の皆さんは女優のオードリー・ヘップバーンをご存じだろうか。若い方はご両親やお祖父様、お祖母様に伺えばおそらくファンだとおっしゃる方が多いのではないだろうか。「ローマの休日」や「マイフェアレディ」、「戦争と平和」などが有名だが、晩年ユニセフその他の活動を応援して、アフリカなどの恵まれない子供たちのためにも大きな貢献をした方である。

 日本ユニセフ協会のホームページから引用させていただく:
(日本ユニセフ協会ホームページ:「オードリー・ヘップバーンは、1989年にユニセフ親善大使に就任しました。亡くなるまでの4年間、当時最悪の食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、子どもたちの声なき声を代弁し続けました。」http://www.unicef.or.jp/special/ 

 筆者もオードリー・ヘップバーンのファンとして彼女が主演した映画は随分見たが、その中で1本だけどうしても好きになれなかったものがあった。それは「尼僧物語」、戦前ベルギーの良家のお嬢さんが出家して修道院に入りベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)の病院などで働きながら現地の人の医療にかかわる、そうした中第2次大戦が始まりドイツのベルギー攻撃によって父親が殺される、映画の主題は信仰と愛と憎しみとは何かなど非常に深いものがあると思う。ただ、そこでコンゴ人はいかにも「未開で野蛮な人」という扱いで描かれていた。

 実はコンゴは1904年までベルギー王レオポルド2世の私領であって、ベルギー国の植民地ではなかった。英国ではSirに叙せられて英雄視されている一発屋のスタンレーが宣教師兼探検家のリヴィングストンを探し当てたと自己宣伝して英国に凱旋した後、再度中部アフリカに戻り、今日のルワンダ、ブルンディ、ウガンダを経て大河コンゴ河を下りきり、自分を王であると宣言した。誰に断って王となったかは誰も問わなかった摩訶不思議な話だが、スタンレーはヨーロッパに戻ってコンゴを英国王室に「売り渡そう」としたが英国王室はこれを断ったため、ベルギー王に話を持っていったところレオポルド2世が飛びついて購入した。すなわち、コンゴ人の知らないところで勝手に王となった男が、コンゴを新興国ベルギーのレオポルド2世国王に売り払い、国王は広大なアフリカの土地を私領としたのである。これに怒ったポルトガルがコンゴは自分のものだと文句を言い、それを見たビスマルクが調停をすれば新興国ドイツ帝国の存在感を示す絶好の機会となると考えて開いたのが1884−85年のベルリン会議であった。そのアフリカ分割会議でまんまとコンゴを自分のものとしたレオポルド2世。念のため再度述べるが、コンゴは国王の私領(「コンゴ自由国」と言う名前の下で)とされたのであってベルギー王国の植民地になったのではない。何から何まで当事者を完全に無視した身勝手な話であるが、ヨーロッパ人はこれを不思議とは思わない。

 さて、スタンレーはコンゴの天然ゴムに目をつけて生産を強制したため、コンゴは世界有数の天然ゴムの産地となった。ところが、現地のベルギー人達は村々にゴム生産のノルマを課し、やがてそれが異様な忠誠心競争へと展開していった。ノルマを果たせなかった村の男たちの手首を切り落とし、それを袋詰めにしてベルギーに送り始めたのである。やがてこのことに気づいた英国の副領事が本国に報告し、国際的な批判・非難が起きた結果1904年にベルギー国政府がコンゴを引き取ったのである。

 野蛮とは何であろうか。

 そのコンゴに鉄道が建設された記念碑を訪れたことがあるが、その記念碑には、「この鉄道がコンゴを文明に開いた」との記載があった。しかしコンゴには昔から文明がなかったのだろうか。あるいは何らかの原因で繁栄が衰退し、歴史が中断したのだろうか。今から500年前のコンゴ王国は貴族の子弟たちをローマやリスボンに対等な立場で留学させていたし、大使館も置いていたことを多くの人は知らないか、あるいは忘れてしまっている。

 1992年、ヨーロッパでEU統合の集大成としてマーストリヒト条約が結ばれた。ヨーロッパが統合を目指していた1988年、ベルギーのブリュージュでマーガレット・サッチャー英国首相はヨーロッパを自画自賛して、’We civilized the world’(我々ヨーロッパは世界を文明化した)と演説した。本当にそうだろうか。歴史をたどればヨーロッパのルネサンスはイスラムから来た文化のおかげであり、ヨーロッパが誇るゴチック建築も、化学も数学も、エジプトやイスラムから学んだものである。スペインがイスラムだったころ、ヨーロッパの学生はグラナダに留学して学んだし、科学で言えば例えばナトリウムの語源はエジプトのエル・ナトゥルーン湖から来ている。その湖の塩で古代エジプト人はミイラを作っていた。砂糖のsugarもアラビア語のスックルから来ている。フランスのパティスリー(お菓子)を多くの方は好きだと思うが、フランスでは本来甘いお菓子のことをla vienoiserieといった。オーストリアの首都ウィーン(Vienne)のもの、という意味である。日本で言えば「京もの」とか「おさがり」と言ったところであろうか。それはオスマン・トルコがウィーン包囲の後攻略をあきらめて引き揚げた時に(1529年第1次包囲、1532年第2次包囲、1533年ハンガリーについてオスマン・トルコの優位をオーストリアに認めさせて和睦)甘いお菓子や砂糖、そしてコーヒーを大量に放置し、そこからウィーンで菓子製造(およびコーヒー嗜好)が始まったことに由来する。

 文化や文明は相身互い、一方が歴史のすべての期間を通じて他方よりすぐれているということはない。サブサハラ・アフリカ由来のものでは例えばイソップ物語のたぐいの民話はガボンなど多くのアフリカ各地に存在する。アフリカの生きる知恵であるが、例えばフランスではそれをJean de la Fontaine(1621-95)による寓話(Fables)として扱っている。フランス語で紹介し世界に知らしめた功績は大きいと思うが、もともとはフランス人の生きる知恵ではなくてアフリカ人の生きる知恵であった。



(その2)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)



文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




posted by 園遊会 at 13:09| Comment(0) | 知の旅人
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