2018年03月03日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






3.「普通の」大陸だったアフリカ

(1)「普通の」大陸だったアフリカ

 アフリカの王国がヨーロッパに大使館を開設し、国王は自由にポルトガル語を話して書簡を書き、上流階級の子弟はヨーロッパに留学し、カトリックの司祭にも叙せられた。これはおとぎ話ではなく、16世紀のコンゴ王国のことである。

 英国が支援した明治維新以降ヨーロッパ史観で教育された私達が忘れがちな非欧米世界の歴史。アフリカで人類が生まれたことは知っていても、ヨーロッパ人が自分の発明だと言っている多くの概念、例えば正義を量る天秤(今日あまねく裁判所のロゴとなっている)、死後の審判と復活などが6000年以上前から文明を誇ったエジプト人が考えだしたとは知らない人が多い。エジプトの学問では、厳格な租税制度と検地のために発達した幾何学(6000年前の数学の教科書がパピルスに記されて現存する。当時の円の面積計算を当てはめると円周率はおおむね3.15となり、「ゆとり教育」で日本が教えたとされる3よりはるかに正確)、解剖や外科手術など枚挙に暇がない。

 キリスト教はヨーロッパの宗教だと思い込んでいる向きも多いが、それは使徒ペトロの建てたヴァチカン史観によるもの。世界で最初にキリスト教を国教にしたのは3世紀のアルメニアであり、次はエチオピアに系譜をつなげるアクスム王国。イスラムは非寛容というヨーロッパ人の主張に反して、イスラム世界では魔女狩りも異端裁判も火あぶりもなかったし、イスラム支配下のイベリア半島ではキリスト教徒もユダヤ教徒も2級市民ではなかった。「異教徒」を追い払ったキリスト教のイザベラ女王とは大違いである。イスラムが支配した北アフリカでは、紀元60年に使徒マルコが建てたアレキサンドリア大聖堂が現在までエジプト正教会の法王を抱いて続き、今でもエジプト人のキリスト教徒は800万人いる。古来エチオピア教会はアレキサンドリア大聖堂の末寺の位置づけであり、主教はアレキサンドリアから派遣されてきた。エジプトを支配していた歴代イスラム王朝がそれを許していたからである。

 東部アフリカでは、英国人をして「アフリカのバーミンガム」を言わしめた製鉄が盛んだったクシュ王国、あるいはインド洋貿易で栄えていたキルワ通商王国。西アフリカではヨーロッパ人の誇るフランク王国より古いガーナ王国が知られ、またマンサ・ムーサ王の黄金の巡礼で14世紀にはヨーロッパにまでその名をとどろかせたマリ帝国、首都のガオには蜜が流れるとまで言われたソンガイ帝国、そしてマリやソンガイの治世下で知の殿堂となったトゥンブクトゥーなどの大学。学者・学生の数は後のフランスのソルボンヌ大学よりも多かった。

 アフリカはヨーロッパの暴虐に屈するまで、ほかの大陸と同じように時間が流れ、文化を謳歌し、経済活動も行っていた。アフリカに栄えた王国のすべてを書くことは紙面の関係でかなわないが、主な王国の地図をお示しする。



石川(3)−1.jpg



     
   
    
(地図はMichigan State University ホームページより)



 ユダヤ人の地図師によるカタロニア図 (1375年)に描かれたサハラ砂漠の向こうに広がる黄金の帝国(地図の下部に金の王冠を被り、金の笏を持ち、金塊を手に掲げる王が描かれている。)マリ最盛期の王、マンサ・カンカン・ムーサ1世(在位推定1307-1332)である。1324年のメッカ巡礼の往路滞在したカイロで、王の一行はマムルーク帝国側の受け入れ関係者にあまねく金(きん)を贈り、また金で大量の買い物をしたため、当時の世界で最も繁栄していた都市の一つであったカイロの金の相場が急落してしまい、そののち十数年たっても相場は回復しなかった。



石川(3)−2-1.jpg



   



(2)権力基盤、富、知

 字数の都合でアフリカの王国全てを記述できないが、権力、富、そして知の観点から、ガーナ王国とマリ帝国に触れてみたい。
 
 (イ)ガーナ王国(8世紀―13世紀)
 ガーナは、ニジェール川上流と西のセネガル川にはさまれた地域一帯に栄え、アラブ人は紀元8世紀に「金の土地」として知ったが、伝承によればさらに古い起源を示唆しており、紀元前300年ころに鉄器の使用が開始されたとの推測もある。都であったとされるクンビサレーの遺跡からは鉄製品が出土している。王たちが住んでいた城砦街区と、そこから10キロばかり離れたところにつくられた北から来たイスラムの商人たちが住む街区の二つからなり、王宮では貴族はもとより、金の装飾が施された剣や楯を持つ侍従、金の優雅な飾りをつけた馬や番犬が王を囲んでいた。イスラム商人地区には12のモスクがあり、イスラムの聖職者やイスラム法学者たちも住んでいた。(エル・ベクリ著‘Kitab al-Masalik wa al-Mamalik’,1068年)
 ガーナ王国は、サハラ北部の塩の集散地タガザを抑え、南方の森の民が掘り出す金を独占的に購入した。これが「北から南への塩」と「南から北への金」というサハラの交易の基本パターンとなった。ガーナ王国は金の相場の維持にも配意して、金塊はすべて王のものとして供給量をコントロールしたが、金屑は国民の自由にさせた。ここにアフリカにおける富の集中と再分配のひとつの形がみられる。すなわち、王は富を蓄積するが、王は富を配分する役割も担っており、この配分をうまく行うことが王の権力の一つの基盤になっていた。 
 ガーナ王国の繁栄は政治権力の確立、通商とそれを支える行政機能と軍事力、例えば金の北への通商を独占できる力、通商路の安全を確保できる力、関税制度を作りそして関税を徴収できる組織と力、正確な度量衡、相場の維持への工夫などによると考えられる。

 (ロ)マリ帝国(13世紀―16世紀)
 ガーナ衰退後混乱していた西スーダン地方を統一して栄えたのがマリ帝国である。建国の王、マンディンゴ族のスンディアタは、ニジェール川上流サンカラニ川沿いのニアニを首都と定めた。ニアニは脅威となりうるサハラ砂漠の遊牧民がいる地域から遠く、山に囲まれて守りやすく、サンカラニ川は季節にかかわらず航行可能、さらに金・コーラの実・パーム油が豊かな南の森林地帯に接し、また交易に携わる商人が綿布や銅を売りに来る場所でもあった 。ニアニで足場を固めたマリはその後ニジェール川中流域にかけて急速に支配を広げていった。

 なぜニジェール川の中流域を中心としてマリやソンガイなどの帝国が成立したのだろうか。

 マリ帝国は当初から金による帝国だったと考えられがちだが、そもそもの国の起りは全長4200キロのニジェール川の恵みにあった。中流で大きく湾曲して豊かな土壌を堆積して農業と漁業を育み、水路として交通を盛んにさせ、軍事力としての水軍も生んだ。その上で、金や銅などの通商によってますます栄えたが、富は行政基盤を固め、そして文化を生む。

 イブン・バトゥータの紀行記によれば、マリでは不正は数少なく、国内は全般的に完璧に安全である。旅人も住民も、強盗、泥棒、横領をまったく恐れる必要がない。北アフリカの貿易商などが客死した場合には莫大な財産を保有している場合ですらマリ人はその財産を没収せず、当該財産が正統に属すべき人が現れるまでの間、北アフリカ人たちの中で信頼されている者にその財産を預ける、黒人たちは(イスラムの)祈りを正しく唱え、金曜日のモスクは早く行かないと祈る場所がないほど大勢の人が祈りに行く、金曜日には清潔な白い衣服を身にまとい、一張羅しか持っていない人は仮にそれが擦り切れたものでも必ず洗濯をして祈りの場に行く。

 他の大陸においてそうであったように、サブサハラ・アフリカでも豊かさは文化を生み、そして学問を生んだ。砂漠を超える隊商ルートはマリに来訪するイスラム学者やマリからメッカへの巡礼者も多く通る道であり、これがマリの「知」を支える重要な要素であった。サハラ砂漠の隊商が行う交易の中で最も量が多く利鞘が大きかったのはカイロやグラナダから輸入されるイスラム関連の書籍であった。地元出身の学者を輩出し、彼らはアラビア語のみならずアラビア文字起源の表音文字アジャニ文字で自分たちの言葉を記述していたのである。


(4)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)


文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫







posted by 園遊会 at 13:47| Comment(0) | 知の旅人
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。