2018年05月28日

光源氏の行方をたどって(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学


光源氏の行方をたどって(1)

はじめに

「光源氏」とは、平安時代中期に成立した長編物語『源氏物語』の主人公です。フィクションの世界、それも、『源氏物語』というひとつの物語の世界のなかで生きている存在……の、はずなのですが。
実は、平安時代後期の成立である『狭衣物語』のなかにも、彼は存在しているのです。
一体どういうことなのか、光源氏の行方をたどってみましょう!

1.平安時代後期の物語

『源氏物語』を書いたとされる紫式部は、一条天皇の中宮である彰子に仕えていました。彰子は藤原道長の娘。この道長がパトロンとなって文化活動を支えていたわけです。また、紫式部と並んで有名な清少納言は、一条天皇の皇后である定子に仕え、『枕草子』を書きました(ちなみに定子の父親は、道長の兄である道隆です)。

今回話題にする『狭衣物語』が書かれたのは、これより少し後の時代です。

彰子が生んだ一条天皇の皇子は、後一条天皇・後朱雀天皇として次々と即位しました。後朱雀天皇には彰子の妹である嬉子が入内し、後冷泉天皇が生まれます。

この後冷泉天皇の時代、永承(1046〜1053)・天喜(1053〜1058)年間は、歌合の黄金期とも呼ばれ、文化活動が非常に盛んな時期でした。特に多く歌合を開催したのは、後朱雀天皇の皇女である祐子内親王・禖子内親王の姉妹と、後冷泉天皇の皇后である寛子です。寛子は、藤原頼通(道長の息子)の娘です。
祐子内親王・禖子内親王の姉妹ですが……系図をご覧ください。

【図1】


図1chino.jpg




 母親は嫄子女王。彼女は敦康親王の娘です。敦康親王というのは、清少納言が仕えたあの定子の生んだ皇子です。こうして系図がつながるのは面白いですよね。

それで、嫄子女王なのですが、彼女は母親が頼通の妻の妹という縁があり、頼通の養女となっていました。そのため、祐子内親王・禖子内親王も、頼通のもとで育ちました。

つまり、この歌合の黄金期を築いた女性たちを支えていたのは藤原頼通なのです。

紫式部が彰子に仕えていたように、彼女たちにも優秀な女房たちが使えていました。祐子内親王に仕えていた女房には、菅原孝標の娘がいます。彼女は『更級日記』の筆者であり、平安後期物語の代表作である『夜の寝覚』『浜松中納言物語』の作者ではないかと言われています。

そして、禖子内親王に仕えていたのが、今回話題にする『狭衣物語』の作者とされる宣旨(源頼国の娘)です。

『源氏物語』が書かれたころを「藤原道長の時代」というならば、平安後期物語が書かれたころというのは、その息子である「藤原頼通の時代」ということになりますね。


(2)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子





posted by 園遊会 at 12:19| Comment(0) | 知の旅人
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