2019年06月24日

中世史家の見たフランス革命(1)−2

地域とともに活躍する川村学園女子大学






1-2)家族を包む空間秩序

 さて、それでは一般社会はどのような実情を抱えていたでしょう。

中世以来ずっと守られてきた絆、人生観(死生観)、価値観つまり生き方の伝統があります。人は家族の中で生まれ、洗礼を受け、司祭の説教を聴いて育ち、父母や兄弟姉妹と同じように働き、同世代の中からパートナーを見つけ、結婚し、子供を授かり、老い、そして死んでいきます。旧制度の社会では孤独は余程の変人か余所者で、普通は何らかの集団ないし共同体に属し、そのメンバーとして生き、死んでいきます。したがって旧制度社会の最小単位は家族であって、個人ではありません。まさにボダンが述べたように「家族こそ国家の基本要素」でした。そして家族を包み込む村や街があり、それが多くの人々にとって日常生活を営む空間、せいぜい夜明けに家を出て、夕暮れまでに帰ることができる範囲です。もちろんこうした生活空間を越える世界があるわけですが、それは二重で、下層世界は地域、上層のより広い世界は地方と呼んで区別することにします。

地域は200を越える局地慣習法に対応する空間ですが、その上に広がる地方はそれぞれ自然環境と方言や習俗が違い、さらに一般慣習法がそれぞれ歴然と異なる文化的一体性を持つ広がりで、ノルマンディ、ブルターニュ、ブルゴーニュなど、フランスでは58を数えると言われています。あのマトリョーシカ人形のように、人々の生きる世界は何層にも包まれていますが、さて、それでは一番外側の世界は何でしょう。現代なら、地球とか宇宙とかになるかもしれませんが、17〜18世紀の旧制度社会では、それが「くに」つまり国家であり、その頂点に王が君臨すると考えます。

 もっとも王国というのも、王の統治権が及ぶ空間の寄せ集めという程度の代物で、王は決して連続した地理空間全域を隅々まで支配していたわけではありません。イメージとしては、虫食いだらけ、隙間だらけ、飛び地だらけの広がりです。

 旧制度社会はこのように人々を何層にも包んで、いわば自然発生的な多層伝統社会を作り上げていました。この自然なまとまりと広がりを巧みに行政制度に対応させて、少し硬い言い回しになりますが、上意下達の秩序として再編したものが同時代のフランス国家であると考えることができます。王の個人的魅力や権威ではなく、王の法的権限に基づいて、王国を司法面では17高等法院管区に、軍事面では39地方総督区に、租税面では34徴税区に分割しました。これらが王国を構成するのですが、この3通りの分割方法は互いに何の関係もありません。ある高等法院管区を2分割して地方総督区を作るとか、どれかが基本で他は派生したとか、そのようにそれぞれが何らかの関係を持つわけではないのです。その結果、たとえばA司法管区にはP地域とQ地域が属しているが、地方総督区の区分けではP地域とQ地域は所属先が別々になる。あるいは、X徴税区はR地域の大半を担当するが、南端のごく一部分は飛び地のようにY徴税区の担当になる、といった事態が頻繁に起こります。過去の様々な経緯の結果なのですが、だからこそ、面倒だから、不合理だからという理由では簡単には変えられないのです。しかも徴税区が違えば、納税期限が違うのはむしろ当然でしたから、予算編成は困難を極めました。

 高等法院とは上級裁判所のことで、パリをはじめとして全国の主要14都市にありました。パリ高等法院はもっとも古く、設立は14世紀に遡ります。以来、この司法組織は重要な権限を持ち続けてきました。王令はこの司法機関に登録されなければ、発効しません。紙屑です。しかも各管轄区域は重複しませんから、王令はすべての高等法院に登録されなければ、王国全土で施行される法令にはならないのです。高等法院はこの権限を死守します。王権に対抗して、その暴走を阻止することができるからです。逆に王権はこれを嫌って、何としても無効にしようとします。この権限を盾にとって、高等法院が王権を制限する限り、絶対王政はありえません。

ルイ14世の治世初期、1648年に始まるフロンドの乱は高等法院の「反乱」と表現されることがありますが、要するにこの権限を巡る二つの権力の激突です。高等法院は、古い血筋を誇る保守的な貴族や地方の伝統を守り、その利害を代弁する立場から、パリの王権に対立することもありました。これは一例ですが、行政機構の中でも特に重要な司法機関でさえ、このように必ずしも王権の意のままに行動したわけではなく、それぞれがそれぞれの立場と伝統を大切にしていたということを理解して頂きたいと思います。つまり歴史上存在した絶対主義とは権力者が思うがままに支配する、何でもできる、という意味ではありませんでした。そのような絶対的な強権は少なくともフランスには存在しませんでした。

 行政機構の末端に位置して、人々の日常生活空間に対応する行政区画は教区です。つまり教会組織を利用して、教区司祭を末端行政官としていることになります。教区は17世紀末には約36,000を数え、1教区には大体100戸前後の世帯が含まれていました。教区民の誕生(洗礼)や死亡(終油)を教区簿冊に記録することは司祭の重要な仕事ですが、それだけでなく、新たな王令が発布されれば、日曜のミサの後に読み上げる。これもまた司祭の大切な仕事でした。

 さてフランス旧制度社会が秩序付けられた多重化空間であることを説明してきましたが、もう一つの側面にも言及しなければなりません。

(3)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美




posted by 園遊会 at 14:37| Comment(0) | 明治維新150年
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