2012年12月25日

明治天皇百年祭(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)明治天皇の立憲的行動 


 第2回で述べましたように、立憲君主となった明治天皇は、どのように行動したでしょうか。

 明治憲法は天皇主権ですから、憲法には、立法大権・官制大権・外交大権・編成大権・統帥大権など
天皇の権限が列挙されています。


それは、第五十五条で輔弼(ほひつ、補佐)の大臣が責任を負うことになっており、輔弼者と共同して
権限を行使する構造となっていました。

そして明治天皇は、基本的には行政など輔弼者に任せた上で、裁可の際に慎重に検討するという態度を取りました。


当事者でない元勲達に下問し判断材料を得て、たとえば黒田清隆が首相の時は、枢密院議長である伊藤博文に
下問するなどして、裁可します。

この点では憲法の条文以上に権力行使には立憲的でした。

のちに西園寺公望は次のように回想しています。


西園寺.JPG


西園寺公望



  明治天皇は人事・行政諸般の政務に就いて、事前に於ては、いろいろ御注意もあらせられ、
御思召もあらせらるゝが、一度閣議で決定して正式に奏上された以上、一度たりとも変更せしめ、
或は裁可したまわぬようなことはあらせられなかった(渡辺幾治郎『明治天皇』)。


 ところで、明治天皇は記憶力にすぐれ、頑固であり、一度決めたことは簡単には変えなかったと
側近の多くは回想しています。


政治においても同様でした。


明治31(1898)年に政党内閣といってよい第一次大隈重信内閣が成立しました。
元勲達が政党内閣の力を弱める方策を大あわてで考えましたときに、
明治天皇は場当たり的な対応をお許しになりませんでした。そして、政党員の入閣を認めるのか、
政党との交渉を活発に行うのか、政党を無視し続けるのかという大方針の策定を提案されます。

 
このような簡単に変更を認めない態度は、人々に安心感を与えたのではないでしょうか。

 
明治33年7月、徳大寺実則侍従長が骸骨を乞うた(辞職を願い出た)ときに、
明治天皇は、最近の政治家はすぐに辞職するが、華族は朝廷に身を犠牲にせよ、
「朕をして独り苦境に陥らしむ、不忠是れより大なるはなし」と激怒しました。


天皇・公家が長期にわたって日本を支えてきたという自負と支えなければならないという使命感でしょう。
簡単な変更を認めず長期の展望を持つというのは、資質だけでなく、このような使命感に裏付けられたものでした。


明治天皇は日本の近代化を支えた君主であり、創業の君主といわれます。確かにその通りで、
明治天皇の治世下には多くの近代的な改革がなされました。


その一方で、明治天皇が、裁可の際に他の意見を聞くことが立憲君主としての役割であると自覚していたこと、
頑固な資質であったこと、侍補の教育から伝統を重んじる志向があったことは、
明治日本の安定性に寄与したのではないかと推察しています。




 以上のようなことを、拙著や『歴史人』11月号・『歴史と人物』12月号に書いております。
御関心を持たれましたら、御参照ください。


 ところで、天皇の死後は、式年祭といって、追悼の祭祀が行われます。
仏教でいう、一周忌とか、三十三回忌とかにあたります。
明治天皇百年祭は、宮中の賢所で今上天皇の御親拝が行われています。
その百年ごとの祭祀の際、その天皇の事績を現在の天皇に御講義するという御進講という行事があります。
私事ですが、明治天皇百年祭に際して、私が御進講の栄に預かっております。




明治天皇百年祭展 ちらし.jpg



明治天皇百年祭展



※御進講:天皇や身分の高い人に学問を講義すること。





文学部 史学科 教授 西川 誠




posted by 園遊会 at 23:52| Comment(3) | 日本の皇室と世界の王家
この記事へのコメント
朝日新聞の岩井克己です。まだ「嘱託」として書かされています。
ご活躍ぶり、陰ながら拝見しております。誠にぶしつけですが、ひとつお尋ねです。徳川義寛氏の日記に稲田周一が昭和天皇から聞いた話として、明治天皇が伊藤博文が骸骨を乞うた時、自分は辞められないと言われたと記していますが、明治天皇紀などあたっても該当箇所がみつかりません。
 西川先生におかれては、ご記憶あれば、該当史料などご教示いただけませんでしょうか。
日頃ご無沙汰しておりながら、厚かましいお願いですが、現在の事情ご推察のうえ、どうかお許しください。
 またお目にかかる機会をいただければ幸甚です。取り急ぎ用件のみにて失礼します。
Posted by 岩井克己 at 2016年09月03日 20:03
岩井様 ご無沙汰しております。ブログへのコメントいつもチェックして居らず遅くなりすみません。
私が知っていますのは、『明治天皇紀』第九巻、明治三十三年七月五日条(854頁)にあります、
徳大寺の辞意に対する、天皇の言葉です。華族は身を犠牲にして奉公の決心があるべきである、
士族出身官吏は放縦で、辞職して「安を貪らんとす」、「朕をして独り苦境に陥らしむ、不忠是れより大なるはなし」
と述べたとあります。
同様の記述は徳大寺日記にあります。この一般的な、士族出身官吏の容易な出処進退への批判が、
伊藤と伝わったのではないでしょうか。
他に思い当たることがありませんので、そのように考えます。
当時伊藤も短期で首相を投げ出した頃ではあります。
Posted by 西川 誠 at 2016年09月15日 16:47
 西川さん、ご回答ありがとうございました。他の研究者の方からも徳大寺のことは聞きました。
 ただ、別の研究者からだいぶ以前に伊藤に対して天皇が言ったと聞き、それにあたる記述が大正元年刊の『先帝と居家処世』という本にあることを知りました。昭和天皇が三上参次から聞いたと稲田周一侍従長に語った記録が徳川義寛日記にあり、その2件を紹介する原稿を書きました。事実かどうか、当該資料の信憑性は、西川先生のお返事からはちょっと留保したほうがよかったのかもしれません。ご回答いただいたのに気づかず、大変失礼しました。本当にありがとうございました。
Posted by 岩井克己 at 2016年09月22日 23:55
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。