2014年05月21日

アーネスト・サトウの見た幕末・明治

地域とともに活躍する川村学園女子大学






第1回 アーネスト・サトウと日本



幕末、日本の開国と共に諸外国から多くの人々が日本を目指してやってきました。

アーネスト・サトウもその一人です。


アーネスト・サトウ肖像.jpg



アーネスト・サトウ肖像

(Wikimedia Commons, the free media repository)





サトウという名前からすると日本人とのハーフではと思われがちですが、この苗字はイギリスにもあったようで、
上の肖像からも分かるように、サトウは生粋のイギリス紳士です。


サトウは18歳の時、日本の事が書いてある本(ローレンス・オリファントの書いた『エルギン卿のシナ、日本への
使節記』)を見て、日本への興味を駆り立てられます。

そして、当時たまたまイギリス政府が日本へ行く通訳生を募集していることを知り、これに応募し、
日本へ行く機会を得たのでした。



サトウは1862年(文久2年)から1882年(明治15年)までの約20年間、英国駐日公使館の通訳として、
日本に滞在することになります。その後、2回目に日本を訪れのは1895年(明治28年)年、英国駐日公使、
すなわち外交官として、1900年(明治33年)まで滞在しています。

      

さて、サトウがイギリスを旅立ったのは1861年11月のことでしたがが、その途中、中国に数か月間滞在しています。
これは当時の彼の上司が日本語を学ぶ前に中国語を学ぶ必要があるという考えであったためです。
サトウとしては一刻も早く日本へ行きたかったようですが、そんな訳でしばらく中国に滞在しなければなりませんでした。
横浜へ到着したのは翌年の1862年9月8日、生麦事件が起こったのは、サトウが到着してからわずか一週間足らずの
ことでした。



次回はアーネスト・サトウの『会話篇』についてお話します。



(2)につづく

※ミニ知識
妻は武田兼、息子は植物学者の武田久吉である。



satou fujinn.jpg



Takeda Kane,1870

(Wikimedia Commons, the free media repository)





文学部 日本文化学科 教授 長崎 靖子





posted by 園遊会 at 17:51| Comment(0) | シリーズ「東と西の物語」
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