2012年12月25日

明治天皇百年祭(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)明治天皇の立憲的行動 


 第2回で述べましたように、立憲君主となった明治天皇は、どのように行動したでしょうか。

 明治憲法は天皇主権ですから、憲法には、立法大権・官制大権・外交大権・編成大権・統帥大権など
天皇の権限が列挙されています。


それは、第五十五条で輔弼(ほひつ、補佐)の大臣が責任を負うことになっており、輔弼者と共同して
権限を行使する構造となっていました。

そして明治天皇は、基本的には行政など輔弼者に任せた上で、裁可の際に慎重に検討するという態度を取りました。


当事者でない元勲達に下問し判断材料を得て、たとえば黒田清隆が首相の時は、枢密院議長である伊藤博文に
下問するなどして、裁可します。

この点では憲法の条文以上に権力行使には立憲的でした。

のちに西園寺公望は次のように回想しています。


西園寺.JPG


西園寺公望



  明治天皇は人事・行政諸般の政務に就いて、事前に於ては、いろいろ御注意もあらせられ、
御思召もあらせらるゝが、一度閣議で決定して正式に奏上された以上、一度たりとも変更せしめ、
或は裁可したまわぬようなことはあらせられなかった(渡辺幾治郎『明治天皇』)。


 ところで、明治天皇は記憶力にすぐれ、頑固であり、一度決めたことは簡単には変えなかったと
側近の多くは回想しています。


政治においても同様でした。


明治31(1898)年に政党内閣といってよい第一次大隈重信内閣が成立しました。
元勲達が政党内閣の力を弱める方策を大あわてで考えましたときに、
明治天皇は場当たり的な対応をお許しになりませんでした。そして、政党員の入閣を認めるのか、
政党との交渉を活発に行うのか、政党を無視し続けるのかという大方針の策定を提案されます。

 
このような簡単に変更を認めない態度は、人々に安心感を与えたのではないでしょうか。

 
明治33年7月、徳大寺実則侍従長が骸骨を乞うた(辞職を願い出た)ときに、
明治天皇は、最近の政治家はすぐに辞職するが、華族は朝廷に身を犠牲にせよ、
「朕をして独り苦境に陥らしむ、不忠是れより大なるはなし」と激怒しました。


天皇・公家が長期にわたって日本を支えてきたという自負と支えなければならないという使命感でしょう。
簡単な変更を認めず長期の展望を持つというのは、資質だけでなく、このような使命感に裏付けられたものでした。


明治天皇は日本の近代化を支えた君主であり、創業の君主といわれます。確かにその通りで、
明治天皇の治世下には多くの近代的な改革がなされました。


その一方で、明治天皇が、裁可の際に他の意見を聞くことが立憲君主としての役割であると自覚していたこと、
頑固な資質であったこと、侍補の教育から伝統を重んじる志向があったことは、
明治日本の安定性に寄与したのではないかと推察しています。




 以上のようなことを、拙著や『歴史人』11月号・『歴史と人物』12月号に書いております。
御関心を持たれましたら、御参照ください。


 ところで、天皇の死後は、式年祭といって、追悼の祭祀が行われます。
仏教でいう、一周忌とか、三十三回忌とかにあたります。
明治天皇百年祭は、宮中の賢所で今上天皇の御親拝が行われています。
その百年ごとの祭祀の際、その天皇の事績を現在の天皇に御講義するという御進講という行事があります。
私事ですが、明治天皇百年祭に際して、私が御進講の栄に預かっております。




明治天皇百年祭展 ちらし.jpg



明治天皇百年祭展



※御進講:天皇や身分の高い人に学問を講義すること。





文学部 史学科 教授 西川 誠




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2012年12月19日

明治天皇百年祭(3)

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(3)明治天皇と西欧化


 明治天皇にとって、明治10(1877)年に西郷隆盛が起こした西南戦争は大きな衝撃でした。
西郷が明治天皇の側近くにいたのは、第1回で述べましたように、士族侍従たちとチャンバラをした頃のわずか2年ほど
でしたが、天皇は西郷の無骨さ・質朴さを好んだと思われます。


Takamori_Saigo[1]   『幕末・明治・大正 回顧八十年史』(1933年出版).jpg


※西郷隆盛



西南戦争勃発とともに愛好していた乗馬を行わないほど憂愁を深めました。
明治天皇は、政治の過酷さを身にしみて感じたでしょう。


 一方政府首脳たちは、三条実美・岩倉具視・大久保利通たちですが、
明治天皇の憂色に天皇が政府の方針をしっかりと理解していないのではないかとの危惧の念を抱きました。

そこで、侍補(じほ)という天皇の教育担当官が設置されました。

元田永孚や佐々木高行といった儒教道徳や神道に重きを置く、西欧化・近代化にやや抑制的な頑固な人々が
就任しました。




元田縮小.jpg          200px-Takayuki_Sasaki_cropped.jpg


                    ※元田永孚                       ※佐々木高行


天皇に直言することも厭わない人々ということで、頑固な人々が選ばれたと考えられます。


 明治天皇は、無骨な侍補と共鳴し、近代化に抑制的で、儒教道徳を重視する意見を持つようになります。
そして自ら政治を主導する意欲を持つようになりました。

儒教道徳を重視する考えは、元田が起草に関与した、明治23年の教育勅語に表れています。
しかし近代化を躊躇う方針は、政府中枢との対立を幾度か生じさせることになりました。

 
ヨーロッパでの憲法調査から帰国した伊藤博文は、明治17年に宮内卿に就任し、
明治天皇に、政府の近代化の方針を熱心に説きます。
その伊藤の熱意を受けて、明治天皇は伊藤への信頼を深くしていきます。
そして総理大臣となっていた伊藤が明治19年9月に奏上した「機務六条」を受容します。

その内容は、内閣との密接化、内閣の行幸・陪食・拝謁要請の受諾などです。
天皇と内閣の政治的方針を一致させようという方針です。

こうして明治天皇は日本の伝統を大切にする心を持ちながら、日本の発展に必要な西欧化と近代化を
推進していきます。


 それをよく表しているのが、明治宮殿であろうと思います。
外交のために石造洋風で計画された宮殿を、明治天皇は財政難から和風建築とすることを決断します。
しかし外交儀礼の点から、しつらえを洋風にするという伊藤の提案を受容します。個人としての心持ちと、
政府の方針への支持がうまく折り合った事例ではないでしょうか。




明治宮殿 幻の内装.jpg


(※)明治宮殿・幻の室内装飾






 それに反して、日露戦後に出来た東宮御所、現在の迎賓館は、ネオバロック式の本格的洋館でした。
費用も当初予算を大きく超過しました。明治天皇は落成式を認めず、訪れることもありませんでした。




迎賓館2.JPG


※迎賓館



迎賓館.JPG





 前回述べた憲法も、そうした西欧的な体制が必要と考えて、好悪は別にして導入に熱心であったと思われます。
次の明治42年に明治天皇が詠んだ歌に、天皇の考え方が表れています。

  
よきをとり あしきをすてて 外国に おとらぬくにと なすよしもがな





※ フリーウィキペディア
(※)宮内庁ホームページより



(4)につづく


文学部 史学科 教授 西川 誠





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2012年12月12日

明治天皇百年祭(2)

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(2)明治天皇と憲法

 明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されました。

 
憲法は、欧米に追いつくためにも必要でした。法制度が整備されていなければ、
不平等条約の改正は達成できなかったでしょう。また国民のエネルギーを高めるためにも、
発言権の拡大は必要でした。こうした考えは、幕末以来公議の尊重という考え方として表れ、
やがて国会開設の声となりました。西欧諸国に追いつくために国民のエネルギーを必要とする政府は、
早くから憲法制定を将来目標においていました。


 ところで、近代憲法の重要な要素は、権力者(国王)の権力行使の抑制と人権の保障であり、
国家権力の一部を国会が担うことにあります。憲法起草に尽力した伊藤博文は、国王権限の制限こそ
憲法の眼目とのべました。明治天皇は、日本の近代化に必要と判断して、君主の権力行使を制限し、
国会が存在する近代憲法を受け入れたと考えられます。


itou調整.jpg


伊藤博文





 明治天皇が憲法を自ら積極的に制定したと考えていたと思われる話があります。

 明治24年一一月、明治天皇の意向が伊東巳代治に伝えられます。巳代治は伊藤博文の側近で、
憲法制定にも関与していました。

内容は、板垣退助が、憲法は伊藤がドイツで作ったなどと演説しているが「怪(け)しからざる次第なり」、
「憲法は何処(どこ)迄も朕(ちん)の欽定(きんてい)」である、巳代治はその事情を知っているだろうから、
巳代治に質問に来るものがあれば、欽定憲法(王が創った憲法の意)である趣旨を説明し、
国民が知るようにせよという趣旨です。

このように明治天皇には、憲法を自ら苦労して制定したという自負がありました。


miyoji.jpg縮小調整.jpg      itagaki 縮小調整.jpg


                    伊東巳代冶                      板垣退助




 では明治天皇は、伊藤の考えをどうやって理解したのでしょうか。もちろん伊藤の説明もあったでしょう。
それに加えて幼少時から仕えていた公家の藤波言忠が、伊藤がウィーンで憲法学を学んだシュタインの講義を受けて、
その内容を天皇に四カ月余り講義を行ったことも大きかったと思われます。


 藤波の講義の記録によれば、
国王は、顧問府の判断を参考に、内閣や軍当局の上奏を、拒否権を持って裁可する存在でした。
つまり天皇は、政府の施政方針を把握して、一般的事務は専門知である国家諸機関に委任し、
裁可の際に現在でいうセカンドオピニオンを得て判断する存在である、という視点でした。

こうして明治天皇は、政治への意欲と総理大臣への信任とを両立させるあり方を学んだと思われます。


 明治天皇は、憲法制定の為の枢密院会議にほぼ出席します。幼い第四皇子の死の報にも動じず出席を続けました。
これは天皇を賞賛するための逸話にしか過ぎないものではなく、明治天皇自身が憲法を作りそれを理解するということに
熱意を持っていたことの表れでしょう。会議では発言はしませんでしたが、枢密院での討論を熱心に聞き、
終了後奥(私的空間)で論評を加えたといいます。明治憲法は、天皇にとっても自ら作り出した憲法となりました。
 王国が、国王の恣意的権力行使や側近集団によって衰亡に至ることは多々あることでしょう。

明治国家が独裁的な国家とならなかったことは、明治天皇が憲法の趣旨と伊藤の方針をよく理解していたためと
思われます。





(3)につづく


文学部 史学科 教授 西川 誠
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2012年12月05日

明治天皇百年祭

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明治天皇百年祭


明治神宮 鳥居2.jpg


明治神宮鳥居



(1)江戸と明治の天皇像


 明治神宮は御存知ですよね。鬱蒼(うっそう)とした大木の森の中。最近はパワースポットとしても有名です。
ところで祭神は知っていますか。明治天皇です。
今年は明治天皇が亡くなって100年です。明治神宮でも7月30日に明治天皇100年祭が開かれました。
ということは、明治神宮は創建されて、まだ100年も経っていない、新しい神社なのです。


 さて明治天皇は、どんな天皇だったのでしょう。江戸時代の天皇とはどう異なっていたでしょう。
数回に分けて、紹介したいと思います。


 江戸時代の天皇は、禁中並公家中諸法度(きんちゅうならびに、くげちゅうしょはっと)という法によって規制されており、
役(やく、果たすべき勤め)を学問と定められてました。学ぶ内容は、中国の政治書と有職故実(ゆうそくこじつ)で、
和歌も大切にするよう求められていました。有職故実とは、儀礼や法令に関する古来からのきまりです。
つまり、現実の政治とは切り離されていました。


 とはいえ、天皇や公家にとって、有職故実の知識は大切なものでした。
平安以来儀礼のつつがなき進行が国家の平安を保証すると考えられていましたから。
そこで江戸時代の歴代天皇は、中絶した儀礼や祭儀の復興に情熱を傾け、
またその知識を供給する古書の収集に熱心でした。
即位の際の儀礼である大嘗祭(だいじょうさい)も中世に途絶していましたが、江戸時代に復興されています。


 こうした状況でしたから、江戸時代の天皇は、伝統の保持者であり、あるいはそうであろうと努める天皇であり、
文と雅の天皇でした


 そして政治に関与しないためにも行動に制限が掛けられ、平安以来のケガレの思想もあって、
天皇は御所から出歩かない存在となっていました。


 しかし幕末になり、幕府の外交政策が非難されるようになると、天皇・朝廷に政治的役割が期待されるようになります。
安政5(1858)年には、幕府の通商条約を非難する戊午(ぼご)の密勅(秘密の天皇の命令)が出されました。
天皇の政治的発言の開始です。幕府の外交政策を批判し、外国に強い姿勢であたるべきであるという期待が、
天皇・朝廷に集まります。尊王攘夷です。 
こうした期待ですから、天皇も武を帯びている必要があります。
文久3(1863)年7月、御所で諸藩兵の訓練が行われ、孝明天皇と睦仁親王(後の明治天皇)は観覧します。
さかのぼって3月には、攘夷祈願の賀茂社への行幸(天皇の外出)が行われていました。
天皇の公式の外出はおおよそ230年ぶりでした。


 慶応3(1867)年12月の王政復古によって明治新政府が出来てからの天皇は、政治と軍事に関与し、
外出を厭わない天皇となる必要がありました。近世の天皇像と大きく異なる天皇です。


 明治元(1868)年3月、戊辰戦争の最中に、明治天皇は大阪に行幸し、陸軍と海軍を視察します。
天皇は京都御所の中に守られる文・雅の天皇から大きく変わります。


 廃藩置県後は、明治天皇の周りに士族の侍従が登用され、尚武の気風が教育されます。
天皇は士族侍従たちとチャンバラをし、身体を鍛えました。馬術も学び、愛好するようになります。
軍隊の指揮練習も行いました。
明治5年から18年の間には、数ヶ月に亘る行幸を六回行い、全府県ではありませんが、
鹿児島から北海道まで旅しました。


 明治天皇の御真影(肖像絵画の写真)が配布されるようになりましたが、軍服姿の立派な体格です。
近世の天皇像とは異なる、新しい天皇像でした。明治天皇もそうした天皇像に合致するように、成長していきました。




meijitennou調整.jpg


御真影





(2)につづく


文学部 史学科 教授 西川 誠




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2012年06月17日

女性宮家(4)

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「女性宮家」をめぐる歴史的背景


(4)第二次世界大戦後の天皇

@皇籍離脱
 

 
 第二次世界大戦の敗戦後、日本はアメリカの占領下に置かれ、改革が行われました。
天皇の地位も、主権者から国民の象徴に変わりました。民主化が進む中で、
皇族も縮小するべきであるとして、大正天皇の男子達、すなわち昭和天皇の弟以外の
11の宮家は皇族の地位を離れることとなりました。なおこの時までに11宮家は
全て伏見宮系であり、室町後期に分かれて以来天皇の直系とは男系の点では
隔たった宮家でした。こうして伊藤博文の時代の永世皇族主義は一部放棄されます。


A側室の実質的否定
 

 大正天皇も、昭和天皇も、側室を置かず、戦前において実質的に側室制度は
放棄されていました。戦前においても一夫一婦制を家族の単位としており、
側室制度は好ましいものとは捉えられていなかっと思われます。
まして戦後の男女平等の社会です。側室制度は好ましいものではありません。


B条件の変貌
 

 養子と女帝を否定しても皇位継承権者が存在するように考えられた
永世皇族主義は一部改められ、側室制度は放棄されました。
皇籍離脱の段階では、昭和天皇の弟秩父宮、高松宮、三笠宮が存在し、
皇族の数は十分でした。しかし秩父宮・高松宮には子供が生まれず、
三笠宮には3人の男子が産まれましたが、第1皇子と第3皇子には男子が産まれず、
第2皇子は結婚しませんでした。今上天皇の弟常陸宮には子どもがいません。
皇位継承者が激減してしまったのです。

 

 悠仁親王が成人されたときに、親族は沢山いるけれど、
公務をともに担う親族が少なくていいのかということが、ヒアリングの主眼ですが、
皇族の減少の歴史的背景は、以上のようなものでした。
天皇の地位が国民の総意に基づくというのが憲法ですから、
私たちも考えてみる必要があるでしょう。
この記事がそのきっかけになれば幸いです。


 最後に、この問題を調べる入門書として、所功『皇位継承のあり方』(PHP新書)を
紹介して、この記事を終えたいとおもいます。



文学部 史学科 西川 誠



posted by 園遊会 at 14:34| Comment(0) | 日本の皇室と世界の王家

2012年06月11日

女性宮家(3)

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「女性宮家」をめぐる歴史的背景


(3)明治の天皇

@伊藤博文の皇室典範作成
 明治維新で将軍が廃止され、天皇を中心とする国家が誕生しました。
 1889年皇室典範が制定され、近代の皇室制度が整いました。
作成の中心は伊藤博文でした。伊藤は、皇統の維持をどのように考えたのでしょう。

伊藤は、(ア)継承権者が多数存在すること、
(イ)できるだけ規定によって自動的に継承者が決まること、
を目標としたと考えられます。
(イ)によって、平安以来続いていた猶子や譲位の制度が否定されます。
猶子(養子)の存在は継承順位を乱す可能性があります。
また譲位して院となって実権を握り続ければ、院の意思が天皇の地位を
左右する場合もあるでしょう。
大河ドラマ「平清盛」では、後鳥羽上皇が崇徳天皇を退位させていますよね。

A継承権者の確保
(1)永世皇族主義
 伊藤が(ア)のために考えた原則の一つは、
皇族は子々孫々皇族とするという方針でした。
これによって皇族の数が減ることを防ごうとしたのです。

(2)庶子の容認
 つぎに、江戸時代までの上流階級では当然であった側室制度を認めることとしました。
欧州の王室では、正妻以外の子は位を継ぐのが困難であるのが一般的でしたが、
明治天皇も、また皇室典範制定時に明治天皇の生存している唯一の男子であった
嘉仁(よしひと)親王(大正天皇)も、側室の子でした。
そこで典範では、庶子にも皇位継承権を認めることとしたのです。

B継承順位の単純化
(1)養子の否認
 養子・猶子が廃止されたため、四親王家の当主は、以後親王の位を与えられず、
継承順位は後の方になります。

(2)女帝の否定
 欧州では女王が数多く存在していましたが、
伊藤たちは女性天皇を否定する結論を選択しました。
推測ですが、一つの理由は、継承順を複雑にしないためだったと
考えられます。女性天皇を認めるということは、
女性の皇位継承権を認めることになります。
そして日本の公家や武士では男子の継承が優先されていましたから、
男子優先が原則となったと思われます。では質問です。
次の例を考えてみましょう。(図3)

 天皇1が崩御し、位を継いだ天皇2が崩御したとき、
皇女A(死去)の子の男子Bと、天皇1の弟(死去)の子の男子Dでは、
どちらが天皇位に近いでしょうか。
皆さんは甥っ子と従弟(いとこ)とどちらが身近に感じられますか。
人それぞれの考えがあり、みんなが納得するのは難しいでしょう。
加えて、配偶者の問題も女性天皇を排除した理由と考えられます。
配偶者が権力を振るうことを望むとどんなことになるでしょうか。
 そこで、皇族女性が皇位継承権を持たないこととし、
皇族以外と結婚した皇族女性は、皇族を離れることした方がよいと
判断したと思われます。

こうして女系の皇族は存在しなくなりました。


図3 継承順位例.jpg


(4)につづく

文学部 史学科 教授 西川 誠
posted by 園遊会 at 17:21| Comment(0) | 日本の皇室と世界の王家

2012年06月05日

女性宮家(2)

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「女性宮家」をめぐる歴史的背景


(2)近世の女性天皇と皇統

@明正天皇

 日本の古代は男系(父系)・女系(母系)ともに重んじられる社会だったようで、
古代には女性天皇が存在していました。しかし時代が下るにしたがって、
日本社会全体が男系を重んずるようになり、イエを代表するのが男性となってきました。

貴族社会では、朝廷の役職は後宮を除いて男性が独占するようになります。
武士の家長が女性という例は、戦国期を最後に途絶えます。
天皇の地位も、男子が存在するのであれば男子が就くというのが
当然視されるようになります。


 しかし近世でも女性天皇がいました。1629年に女性天皇が誕生しました。
明正天皇です(何と859年振りです!)。
後水尾天皇が江戸幕府への不満を高めて、突然譲位したため誕生したのです。
明正天皇は、後水尾天皇の皇后である徳川秀忠の娘和子が生んだ皇女でした。

幕府に不満があるから天皇を辞める、天皇の子には今のところ
女子の興子(おきこ)内親王(明正天皇)しかいない、
秀忠の孫が皇位に就くのだから幕府には文句はないだろう、ということでしょう。


そして平安末以来、天皇の父である上皇は、院として実権を握る慣例でしたから
(なんと院政は続いていたのです!)、後水尾上皇が実権を握り続けました。
明正天皇はやがて、後に生まれた弟紹仁(つぐひと)親王(後光明天皇)に皇位を譲り、
未婚のまま生涯を終えます。



A後桜町天皇

 1762年桃園天皇が崩御し、継承予定の英仁(ひでひと)親王があまりに幼いことから
(数え5歳)、桃園天皇の姉の智子(としこ)内親王(後桜町天皇)が即位しました。
後桜町天皇は、英仁親王の成長を待って譲位し、未婚のまま生涯を終えました。
中継ぎとしての役割でした。
 

 このように近世でも女性天皇は存在しましたが、
皇位を継ぐべき存在と考えられて順当に即位したわけではありませんでした。


B襲親王家と光格天皇の誕生  図2参照
 
 1779年後桃園天皇(英仁親王)が崩御すると、残されたのは皇女だけで、
直系に男子が存在しなくなりました。そこで簡単に言えば親戚である、
閑院宮家の兼仁(ともひと)親王を次の天皇とすることとなりました。
光格天皇です。桃園天皇のはとこ(いとこの子)にあたります。
 

 ところで、親戚と述べましたが、皇族はどのような状況であったでしょう。

 そのまえに、「親王」という称号について触れましょう。
元来「親王」(女子の場合は「内親王」)は天皇の子またはそれに準ずる人に
与えられる称号でした。親王は天皇に血統的にとても近い存在で、
親王以外は王(女子の場合は女王)と呼ばれました。
 
 平安後期になると、天皇の子でも、宣下という手続きを経ないと、
親王という称号を与えられなくなります。
源頼朝が呼応した、平家打倒の挙兵を呼びかけた以仁王は、
後白河天皇の皇子でしたが、親王宣下を受けていないので「王」のままでした。
現在では、天皇の孫までに親王・内親王という称号が与えられます。


 さて、室町後期から有力な皇族の当主が、代々、天皇の猶子(養子のようなもの)と
なって親王の称号を授けられるようになります。こうして成立した家系を世襲親王家と
呼びます。江戸中期までに、伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮が成立していました。

天皇の直系が絶えた場合、四親王家から次代の天皇が選ばれるようになりました。
江戸幕府に対する、紀州・尾張・水戸の御三家にあたると考えればいいでしょうか。



図2 桃園天皇の頃の系図(saizu 2).jpg

(3)につづく

                   
文学部 史学科  西川 誠
posted by 園遊会 at 14:00| Comment(0) | 日本の皇室と世界の王家

2012年05月30日

女性宮家

地域とともに活躍する川村学園女子大学
                             
女性宮家について

(1)政府のヒアリング

 最近、にわかに女性宮家の問題が話題になっています。

  野田総理大臣が女性宮家の創設について、
皇室典範(皇室の在り方を定めた法律)の改正を含めて
検討する方針を示したからです。皇室典範の改正については、
平成17(2005)年、小泉内閣の時代に一度持ち上がりましたが、
秋篠宮(あきしののみや)文仁(ふみひと)親王と紀子(きこ)妃殿下のもとに
悠仁(ひさひと)親王がお生まれになったために、
その議論は下火になっていました。

 それがここにきて再燃するようになったのは、
秋篠宮の長女(第一皇女)である眞子(まこ)内親王が
20歳を迎えられたからです。まもなく大学を卒業されれば、
当然のこと御結婚の話も出てくるでしょう。

 そのことがどうして「女性宮家」の問題に関係し、
政府が有識者にヒアリングを行うこととなるのでしょう。
今回はその点を説明したいと思います。
 

 説明の前に、二つのことを確認しておきましょう。

@宮家とは
 近代では、宮とは、皇族に与えられる称号で、その家族を宮家と呼ぶようになりました。
結婚したり自立したりすると称号が与えられ、
宮家単位で家政が行われるようになります。
 

*文仁親王は、結婚に伴い秋篠宮家を創設されました。なお文仁親王は成人まで礼宮(あやのみや)と
呼ばれましたが、これは未成年の天皇直系の皇族への呼称であり、宮家の 「宮」とは異なります。

A皇族の女性と結婚
 近代の制度では、女性皇族の場合は、天皇か皇族以外の人と結婚すると
皇族の地位を離れることになります(皇室典範一二条)。


 *今上天皇の第一皇女清子(さやこ)内親王は、黒田慶樹氏と結婚して、皇族から離れ、 
黒田清子となられました。

 さてAについて考えますと、現状のままでは問題が生じることは明かです。
それは皇族の少なさです。図1を参照しながら見ていきましょう。


 現在45歳以下の皇族では、秋篠宮悠仁親王以外は、全員女性です。
悠仁親王が成人される14年後、女性の皇族が全員結婚していると仮定すると、
59歳以下の皇族は悠仁親王だけになります。

 皇族は、政府や地方公共団体などが要請する多くの公務を担っています。
その負担が、高齢の皇族と悠仁親王に掛かってくることになります。

 
 同時に、悠仁親王を支える同世代の皇族も、存在しないことになります。
 
 そこで、公務を担当する皇族の維持のために、また悠仁親王を支えるために、
少なくとも今皇族でいらっしゃる女性たちが結婚しても皇族の地位を保てるように
しようという考え方が生まれます。
 
 
 さらに、女性が皇族に留まった場合、その家族も皇族となると考えますと、
女系の皇族が誕生することとなります。これが女性宮家です。
 

 こうした点について慎重に議論を進める必要があり、
政府のヒアリングが行われているのです。


  女性宮家創設の案に対して、皇室は男系で維持されてきたのが伝統であるとして
反対する人もいます。さらに女系の宮家で生まれた男子に皇位継承権があるかどうか
という点で議論が分かれます。そしてそもそも女性天皇を認めるか否か
という点を問題にし、女性宮家は女性天皇の誕生を目的にするもので
けしからんという議論もあります。
 

 現在のヒアリングでも、論者によって「場合分け」がなされて議論されています。
たとえば、女性宮家創設は認めるが皇位継承権は認めない、などです。


 これからも政府のヒアリングは続くと思われます。
現在の天皇の地位は、国民の総意に基づくという憲法の条文を踏まえれば、
私たちも議論に参画するくらいの気持ちがあってもいいのかも知れません。


 考えをまとめるためには、どうして皇族の数が減ったのか、
どうして女性天皇(女帝)が存在しなくなったかなど、
歴史を知っておく必要もあるでしょう。


図1 皇室の構成3.jpg

 
寛仁親王殿下には平成24年6月6日に薨去されました。謹んで哀悼の意を捧げます


  
(2)につづく

                          
文学部 史学科 教授 西川 誠
     


            
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