2016年10月26日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





5. イクメン・兼家


 あちこちに愛人を作って作者を嘆かせた兼家ですが、作者のたった一人の息子道綱の教育には細かく気を配りました。母ひとりの家庭で育つ道綱には「片飼いの駒」で淋しい思いをしているのではないかと心配する長歌も残しています。

 兼家はさびしい環境に育った道綱を、元服前の正月から、自分の屋敷東三条殿に通って貴族たちの顔を覚えさせ、誰と誰は仲が良いとか、あの人は有能だとか、貴族たちの品定めができるようにました。また、あいさつの仕方から立ち居振る舞いまでも、見よう見まねで学ぶことができました。これは、父親や親せきしか寄り付かない母の家では、決して得ることのできないことであり、貴族社会の複雑な有職(ゆうそく)故実(こじつ)と人間関係は、父兼家の屋敷で実地教育がされました。

 道綱が慣れたころを見計らって、兼家は道綱を吉野の御嶽(みたけ)(金峰山(きんぷせん))詣でや初瀬(はつせ)(長谷寺)に連れ出します。この小旅行は疎遠だった父と息子の垣根をとりはらったのかもしれません。兼家は道綱に、天皇の住む内裏の清涼(せいりょう)殿(でん)に見習いにあがる童(わらわ)殿上(てんじょう)をさせ、上流貴族の子息として貴族社会にデビューさせます。さらには、内裏での華やかな行事である賭(のり)弓(ゆみ)の射手として出場、おまけに勝ち組代表として納蘇利の舞うことも約束されます。この練習には、作者の家は手狭だということで、大勢の仲間と兼家の屋敷に移動したりしています。ちなみに、舞の師匠多好(おおのよし)茂(もち)は、『古事記』編者太安万侶の子孫で、現在、雅楽奏者として活躍する東儀秀樹はその子孫にあたるそうです。この師匠への謝礼は、兼家が支払っているようで、他にも兼家が経済的な負担を担っていると推測される場面は何カ所かあります。子どもの養育費はすべて母方がもつ、という通説はやはり誤りでしょう。

こうして、兼家邸や内裏での見習い実習を終え、元服をすませ、叙爵(従五位下の位階を受けること)されて貴族官僚としてスタートしました。正妻時姫から生まれ、父の屋敷で育った道隆・道兼・道長らに比べると、叙爵の年齢もその後の昇進も若干の遅れています。兼家は父との縁が薄く育ち、ハンディキャップを負った道綱をいとおしく感じていたのでしょう、道綱には甘い父親として、彼の頼みをいれて牛車に乗せて相撲(すまいの)節会(せちえ)に参加したりします。

兼家と道綱の関係が深まるのに反して、兼家と作者との仲は冷え切っていきました。「三十日(みそか)三十夜(みそよ)はわがもとへ」と兼家を独り占めにしたい作者と、肉親との政争に必死の兼家とはまったく別の方向を向いていたのです。実家から兼家の提供する屋敷を2,3移り住んでいた作者は、とうとう実家を売却して都の郊外中川のほとりに転居します。これは、作者と兼家との実質的な離婚です。面白いのは、この後も兼家は道綱の送り迎えに中川の屋敷を訪れますが、作者とは没交渉でした。

幼年期・少年期を人交わりもなく育ち、仲違いする両親の間にたって、双方から愚痴や罵声をあびて育った道綱は、作者にとってはいつまでも「幼き人」です。社会学者のT.パーソンズがいう‘子どもの社会化’がうまく機能しなかった子育てであったと言わざるをえません。「望月の欠けたること」のなきと権勢を誇った異母弟道長に「一日だけでも大臣にしてほしい」とねだって、周辺の貴族から冷笑されるなど、道綱を腐す逸話がたくさん残されています。


6. おわりに

 今までお話ししてきたように、男の日記は子孫の朝廷での地位を保守する実用の日記であるのに対して、女の日記は自己の一生を振り返る回想録と言って良いでしょう。(『紫式部日記』の一部は男日記の色合いが濃いものです。)男日記は歴史学者が史料として扱い、女日記は国文学者が文学作品として論ずる傾向があります。しかし、『蜻蛉日記』は年月日や人物が特定できますから、一定の注意を払えば史料として扱うことができます。こうして日記を虚心に読むと、平安時代中期の貴族の家庭の中で、正妻として夫と同居するのではなく、男の使用人として女房勤めと性的奉仕をする妾でもない妻たちがおり、日記の作者もこのような立場であった女性だと言えます。作者は夫とは別の屋敷に住み夫がそこに通ってくる、その屋敷は作者の持ち物であったり、夫の提供したものであったりするが、屋敷の維持や使用人など家計は基本的には夫が支えている、子どもの社会化は夫の人間関係、社会的地位の中でおこなわれる、夫婦の絆はきわめてゆるいものである、などが日記からうかがえます。作者の立場を副妻とか次妻とか呼ぶことがあります。副妻の社会的出自は正妻と変わらなくても、妻としての立場は一段と弱く、それは子どもに大きく影響しました。日記を読んで伝わってくる作者の嘆きやいらだちは、このような社会の仕組みがもたらすものでもあったのではないでしょうか。
 今回は、時間の都合で史料や日記の原文は提示していません。また、参考文献や先行研究も紹介できなかったことをお断りして、終わりにいたします。



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




posted by 園遊会 at 15:50| Comment(0) | 教育

2016年09月29日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





4. 日記にみる兼家と作者の結婚生活



 では、日記から読み取れる作者の家庭生活はどのようなものだったのでしょうか。

作者との結婚以前に、兼家は時姫と結婚し少なくとも息子と娘がありました(最終的に時姫は3人の男子と2人の女子の母となります)。時姫の出身身分は作者と変わりありません。結婚生活は作者の実家(一条大路右近馬場(ばんば)に隣接)に兼家が通う形態です。 

 ふたりの結婚は、平安時代の結婚の典型的な形、妻問い婚とか通い婚の代表例といわれます。確かに作者と兼家は生涯同居はしていません。それは、兼家が時姫と同居していたからだと考えれば、当然のことだと言えるでしょう。同じ屋敷に住んでいればともかく、ひとりの男が別の屋敷に住むふたりの女と同時に同居はできません。どちらかと同居すれば、もうひとりとは別居、通うしかないのです。『源氏物語』の後半、光源氏は六条院を4つに区切って春の御殿に紫の上、夏の御殿に花散里、秋の御殿は秋好む中宮の里院、冬の御殿は明石の上の御殿として多数の妻たちと同居していたように描かれます。細かく述べる字数がありませんので結論だけ述べますと、この御殿は完全に仕切られており、天皇の内裏や江戸の大奥のように女たちが交わるわけではありません。今のところ、実在の平安貴族の屋敷で、妻たちがひとつ屋敷に住み合う例はみつかっていません。同じような身分の妻たちならば、別々の離れた屋敷に住んでいます。

このような妻たちの中で、夫と同居している女性を、まわりの人々は正妻とみなしました。これをわたしは社会的認知を受けた正妻と呼んでいます。正妻以外の妻たちは、出身階級は正妻にひけはとらなくても、No2の存在にあまんじなければなりません。公的な場に夫と同席するのは正妻に限られますし、なによりも生まれた子どもたちが微妙な差別を受けるのです。男子は元服(男子の成人式)したあと朝廷の役人として出仕しますが、その時の位階(身分の上下)や官職(役所のポスト)は、正妻の子の方が恵まれています。貴族というのは、朝廷での位置をできるだけ高めるのが生涯の目標のような人々です。同じ父親をもちながら、そのスタート時点で差が付けられるというのは、本当に不公平だといえるでしょう。

女子の場合は結婚相手を選ぶときに、その差があらわれます。上流貴族は天皇との外戚関係を築くために娘を天皇のキサキ(女御・更衣)に入れるのにやっきとなります。その際、キサキ候補になれるのは正妻から生まれた娘だけです。父親と母親の住む屋敷から入内していき、その付き添いは正妻になります。『源氏物語』で明石の姫君が入内するときには、紫の上が養母として付き添い、明石の上はただの女房(使用人)の形でついて行っています。

日記でもこの原則は守られています。作者が時姫に対抗するためか、兼家の愛人だった女性の娘(近江で育って母を亡くした)を養女しますが、着裳の儀式(女性の成人式、西洋のデビュタントのようにお披露目もおこないます)には、時姫のいる兼家の本邸に引き取られてしまいます。この娘は、『源氏物語』で頭中将の娘で不作法で後宮でひんしゅくをかう近江の君のモデルになったようです。


(5)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




posted by 園遊会 at 12:13| Comment(0) | 教育

2016年09月12日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






3. 平安時代の結婚は‘妻問い婚’でしょうか?



女性史の創始者ともいえる高群逸(たかむれいつ)枝(え)は、平安時代の貴族の結婚生活は、夫が妻のところに通う‘妻問い婚’が基本であると主張しました。また、平安時代はまだ母系制の影響が色濃く残っているので、子育てはすべて妻の家が担うこと、夫の生活にかかわる費用も妻の家が負担すること、女の子の婿選びは母親に発言権があることなど、家庭における女性の優位を強く述べました。さらに貴族社会では一夫多妻がふつうだが、大勢の妻たちの立場は対等であって、特に‘正妻’とよべる妻はいなかった、としています。女の立場が後の時代に比べるとまだまだ強かったと、高群は述べています。

私が女性史の研究を始めたばかりのころは、まだまだ女性には不利な社会状況でしたから、高群の本を読んでいると、そうだその通りだ、と感激する文章に出会います。しかし、何か腑に落ちないところもありました。

その第一は、『竹取物語』の翁(おきな)と媼(おうな)はいっしょに住んでいたのでは?『源氏物語』の葵上の両親、左大臣と大宮も一緒に住んでいるような、『落窪物語』の父親と継母も同居している、と物語の脇役たちのことを思い浮かべたからです。まだ年若い光源氏や在五中将といった主人公は、あちらこちらの女性のもとへ気ままに訪れて愛を語らいますが、彼らの背後にいる熟年の夫婦は、同じ屋敷に暮らしている、少女のころ読んだ物語を改めて読み直してみました。

また、研究を進めていくうちに、『大鏡』という歴史物語の家族や平安貴族の日記での妻たちの書き方、また、貴族の子どもたちのその後の活動などから、どうも高群のいう妻問い婚とか、平等な妻たち、は誤っているのではないか、と確信をもつようになりました。
その、解答を与えてくれた最初の資料が、『蜻蛉日記』です。

(4)につづく




川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




posted by 園遊会 at 14:50| Comment(0) | 教育

2016年07月21日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






2.メモワール 『蜻蛉日記』



 男の日記が、自身の、そして子孫のための実用書として記され、一族の象徴として扱われてきたのに対して、女の日記はメモワールとよぶのがふさわしいでしょう。今の私も同じような状況にいますが、老いの坂道を下り、そろそろ生の終焉を迎えようという時、ひたすら峠の頂上をめざして一途に歩んでいた頃を想い起こすようです。『蜻蛉日記』も一人息子道綱が独立し、夫であった兼家が手の届かない身分となってしまったと実感したとき、若き日の兼家との愛憎を日記の形を借りて書き綴りました。

 ご存じの方も多いでしょう。平安時代の女性で実名が知られているのは、公的な身分つまり中宮・女御などの天皇のキサキや尚侍・典侍などのキャリア女官、そして位階を授けられた大臣クラスの正妻などに限られます。紫式部も清少納言も女房としての通称にすぎません。そのようなわけで、『蜻蛉日記』の作者は職業を持ちませんでしたから、実名はわかりません。藤原倫(ふじわらのとも)寧(やす)の女(むすめ)とか、右大将道綱の母、そして藤原兼家の妻などと呼ばれますが、今回は、‘作者’と呼んでいきます。また、私の専門は歴史学なので、文学的なアプローチはできるだけ避けようと思います。

 再び系図をみて下さい。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg





作者の父藤原倫(とも)寧(やす)は地方巡りの有能な受領として活躍する人物で、祖母は清和源氏の嫡流源満仲(みなもとのみつなか)の妹です。典型的な平安中流貴族の家庭の娘として育ちました。「本朝三美人」のひとりとされ、優れた歌人であった彼女のもとにはさぞや多くの求婚者があらわれたことでしょう。その中で父のめがねにかなったのは藤原師輔(前述した九条流の祖)の三男兼家でした。系図をみると「かつらぎの高きわたり」(身分違いの高い家柄)と作者が謙遜するのも納得の家柄です。権力者の一族とはいえ、父師輔が政権を担うのは、まだ先の時ですし、まして兼家は三男坊で身分も低く、おまけに既に妻(正妻)がいることを考えれば、決してベストの選択とはいえません。それでも、倫寧は陸奥守として任地に向かう日が迫っており、4年間の任期を田舎で過ごせば結婚適齢期を大きく過ぎてしまいます。限りない可能性をもつはずの愛娘を兼家に託して、父は陸奥へ旅立ちました。

日記の中での兼家は、次々と愛人を作りますし、正妻時姫とは、従者も巻き込んでの抗争もありました。これは、『源氏物語』の葵祭での葵上と六条御息所との車争いのモデルともなったくらいです。日記の中に作者はいろいろ兼家の悪行を書き綴るのに、それでもなおあふれ出る兼家への想いは、文学研究者ではない私にも伝わってきます。決して理想の夫とは言えない人物ですが、なぜかとても魅力的に映ります。アメリカの南北戦争を舞台にしたベストセラーで映画でも大ヒットした『風と共に去りぬ』の登場人物、レット・バトラーを彷彿とさせる、といったら『蜻蛉日記』ファンに怒られるでしょうか。

(3)につづく



川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子
(元大学院人文科学研究科長)




posted by 園遊会 at 10:16| Comment(0) | 教育

2016年06月09日

「平安時代の政治手法や貴族の家族生活」(『清慎公記』・『蜻蛉日記』より) ー2016年 最終講義ー

地域とともに活躍する川村学園女子大学





   男もすなる日記というもの、女もしてみんとてすなり

 誰もが諳誦したことのある紀貫之『土佐日記』の一節です。今回は、この「男もすなる」という平安時代の貴族男性の日記『清(せい)慎(しん)公記(こうき)』と、「女もしてみん」として書かれた『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』を材料として、平安時代の政治手法や貴族の家族生活についてお話しします。




1. 日記が示す一族の明暗


『清慎公記』という名前はあまり知られていません。この日記は、藤原実頼(さねより)の日記です。系図をみて下さい。実頼は藤原北家忠(ただ)平(ひら)の長男で摂政・関白までつとめた平安中期の最高位の貴族で、この一族は彼の屋敷の名前をとって「小野宮流(おののみやりゅう)」と呼ばれます。



『蜻蛉日記』にみる家族像(系譜つき)Jpeg cutting.jpg



 もう一度系図をよくみて下さい。小野宮一族の娘から何人か天皇のキサキが出ますが、男(おとこ)皇子(みこ)は誕生していません。「(「)素(す)腹(ばら)の后(きさき)」と陰口をたたかれた女性もいます。ご存じのように、この時代は天皇家の外戚(がいせき)になった者が権力の中枢に立つ時代です。それでも藤原北家嫡流という家柄によって実頼は摂関の地位は確保しましたが、実権は弟の師(もろ)輔(すけ)にありました。この師輔の一族は「九条流」と呼ばれます。小野宮一族が、外戚になれなかったのに対して、九条流では、代々外戚の地位に恵まれました。『蜻蛉日記』の作者の夫である兼家(かねいえ)、その三男道長(みちなが)によって、小野宮の一族は完全に九条の一族の下位に立たされることになってしまいます。

 そんな小野宮一族にとって、自らの拠り所は家柄でした。一族の祖ともいえる忠平から受け継いだ儀式運営のノウハウや宮中でのマナーの正しい知識、これこそが彼らが誇る一族の財産です。儀式のマナーなど政治活動になんの力があるか、と考えるのは現代だからです。平安貴族にとっては。儀式の円滑な運営こそが「政治」であったといえるのです。マナーに欠ける人物は貴族社会の笑われ者になりました。ちなみに『蜻蛉日記』作者の一人息子道(みち)綱(つな)は、これでよく悪口を言われています。

 実頼も弟の師輔も、朝起きて身支度を調えると、何をおいても前日の朝廷での儀式を細々と記しました。出席者、担当、備品、開始時刻から終了まで、だれがどこで何をどう行ったか、と記録します。本人にとっての次回の備忘のためだけでなく、子孫が同じ儀式に参加するとき滞りなく振る舞えるためにです。それなら、同じ内容を伝えるようですが、そこに書き手の個性がでるようです。豪放(ごうほう)磊落(らいらく)な師輔(この性行は兼家・道長にもありますが)に対して、謹厳(きんげん)実直(じっちょく)といわれた実頼の日記の方がより詳細で正確であったと思われます。

 「思われます」と表現したのは、実頼の日記『清慎公記』はほとんど残っていないからです。孫の実資(さねすけ)の日記(『小右記(しょうゆうき)』(」))や同じく孫の公(きん)任(とう)の儀式書(『北山抄(ほくざんしょう)』)などに、日記の一部が引用されていますから、それらの逸文から少しだけ知ることができるだけなのです。なぜ、一族のお宝ともいえる日記がなくなってしまったのでしょうか。それは、日記は孫たちの共有財産として融通しあっていたようですが、その一部は、実資の娘婿で道長の娘婿教通(のりみち)から頼まれて貸しているとき、火事がおきて屋敷とともに焼けてしまい、また他の一部は、公任がスクラップにして儀式書の下書きに使われて原本はなくなり、また残りは一族の誰かが、借金の形にして今で言う質屋に預けられ流される寸前までいった、とあとかたもなくなってしまったからです。

 孫世代のリーダーであった実資にとって、この日記の消失はどんなに嘆いても、怒っても足りないものでした。彼にとっての『清慎公記』は、本当なら道長親子ではなく、自分こそが摂政・関白であったはずだという思いの拠り所でした。祖父の日記が失われたことこそ、小野宮一族が斜陽になった原因だと考えることで、自らの不遇を慰めたのかもしれません。その後、道長親子から儀式・作法の参考にしたい、と『清慎公記』の借用を頼まれても、自筆のメモや口答で返事をすることで、小野宮流を有職故実の家として認めさせていきます。実資の長大な日記を丹念に読んで行くと、彼の謹直な仕事ぶりとともに、一族の衰退を止められないやるせなさも伝わってきます。



(2)につづく


川村学園女子大学名誉教授 梅村恵子

(元大学院人文科学研究科長)



posted by 園遊会 at 15:10| Comment(0) | 教育

2014年02月10日

女性が学ぶということ(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





女性と大学(2)



 当時の先進国であったイギリスでも、サロンで知的な会話を楽しむ女性の集まりが開かれるようになったのは、
18世紀後半のことです。彼らはブルーストッキングズとよばれました。
(本当に青い靴下をはいていたわけではありません。)

大学といえば、オックスフォードとケンブリッジだけだったイギリスに、ロンドンやダーラムなど新しい大学が作られ、
女性も聴講できるようになったのは、19世紀になってからです。ケンブリッジは、比較的早く1865年には女性も
男子と同じ試験を受けることを認めましたが、学寮生活をして教育を受けるのが大学であった時代に、
女性のための学寮が開かれたのは、1869年でこれは、1873年に移転してガートン・カレッジとなりました。
その寮生は、ケンブリッジの教育を男性と同等に受けられはしましたが、卒業試験にどれほどすぐれた結果をだしても、
学士号は与えられませんでした。ロンドン大学は最も早く、1880年には女性にも学士号をだしましたが、
女性を受け入れるのが遅かったオックスフォードでさえ、1920年には女性にも学士号を出したのに、
ケンブリッジがようやく女性の学士号授与を認めたのは、戦後の1948年です。

1970年代にも、卒業はしたけれど学士号を受け取られなかった元卒業生たちに遅ればせながら、学士号を授与する
儀式が行われていたといいます。

 初期に女性の学問を受ける権利を求めた先駆者たちはひどい理不尽にくるしめられました。
女性が頭を使うと子宮が動いて子供を産めなくなるとか、学問をした女性は貰い手がなくなって、
一生独身でいなければならなくなるなど平気で非難されました。男性優位の社会で、女性の進出を認めることは、
多くの人にとって脅威とみなされたのです。

このように学問を志す女性を差別した時代は、日本においても終わったと思われていますが、
世界にはまだまだ女性であるために教育の機会が失われている人々がたくさんいます。

最近の例ではパキスタンのタリバーン勢力によって銃撃されたマララ・ユスフザイという女学生がいます。
彼女と友人たちは手厚い手当をうけ回復しましたが、その殺人未遂事件の理由はただ彼女が女子の教育を受ける
権利を主張したからなのです。

教育はそれほど恐怖されるものでもあるのです。

 一方では今日の日本のように、教育を受けることが男女とも当然のこととされる国にあっては、教育は権利よりは
むしろ義務のように扱われ、学ぶことの喜びは些少される傾向があります。自分で振り返ってみても、文字が読める
ようになってわからないことが理解できた時の喜びはあったはずなのですが、忘れてしまっています。

やはりタリバーン以後のアフガニスタンで、女の子がはじめて文字の書き方を学んだときの表情を描いた映画が
あります。学ぶことがどれほどの喜びと誇りを与えてくれるかを思い出させてくれる逸話です。

 このように私たちは、最高学府において、人間が長い歴史のなかで培ってきた叡智(これをリベラルアーツといって
よいでしょう)にふれ、たとえどんな世界や状況になっても、自分の人生を素晴らしいものにする能力を身に着けていく
のです。大学はその手伝いをするところです。

 特に女性にとっては、学ぶ権利は近い過去に身近な女性たちが大きな偏見や抵抗と戦いながら獲得してきたもので
あることをよく知り、先人への深い感謝をもって、享受すべきなのです。そしてこの権利を損なうことなく
次の世代に伝えていくことが、自分たちの責任だということを認識しなければならないと思います。

                                               完




川村学園女子大学の風景(2)





表所 遠藤2-1.jpg





画像 083大学2-2-1.jpg





11川村学園大024-10.jpg






画像 141大学5.jpg





平成25年10月26日保護者会における講演から


教育学部長 山本由美子




posted by 園遊会 at 15:09| Comment(0) | 教育

2014年01月29日

女性が学ぶということ

地域とともに活躍する川村学園女子大学


女性と大学



人間は社会的存在なので、生まれた時から社会で生き抜くためのスキルを身に着ける教育を受ける必要があります。

教育には3種類あります。

第1に親や身近な人によるものです。これはしつけと呼ばれるものでもあります。

あいさつや礼儀を学び、社会の伝統的ふるまいを身につけることで不要な軋轢から身を守ることが
できるようになります。

加えて初歩的な読み書きの技術を得て、社会における基本的なコミュニケーション力を養い、安全な人間関係を
作り出すことに役立たせることも現在ではしつけのうちにはいるかもしれません。この教育は愛情をもつ人間によって
なされるすぐれたものではありますが、限界があります。
なぜなら、子どもは成長し、親の知識や能力の範囲から出て行こうとするものだからです。


次に学校またはそれに類するものによる、期間を定めた制度のなかで受ける教育があります。このための期間は、
近代から現代にかけて、ひたすら伸びてきました。なぜなら人間として知るべき知識の量が膨大になり、
学ぶべきことが増え、社会が複雑化したからです。今日無知は無責任と同義語になっています。知識は開かれている
のでそれを求めないということは、本人の選択の問題となり、その責任がかかってくるからです。
この教育の制度は人類の叡智の結晶であるといっても過言ではありません。
人の平均的な発達段階に応じて教える内容や方法を変え、ある程度決まった期間を学ぶことに専従させる
というものです。


第3に自らによる教育です。なぜなら制度としての教育を離れてからも、人は社会の変化や環境の激変など、
個々の状況の変化に応じて必要なことを学び続けなければならないからです。そのスタイルは非公式で、学ぶ相手は
自ら選んで師事するひとであったり、メディアを通じて流れてくるものであったり、友人、知人、上司、部下、
時には子供であったりもします。この学びは意識するにしろしないにしろ生きている限り続くものです。

こうしてみると、人間は学ぶ動物であるともいえるのかもしれません。


大学は制度としての教育の最終過程にあるものです。学校の中でも最高学府といわれます。

人間が自らを成長させることに専念できる最後のチャンスといえるかもしれません。そこで学ぶことは長い間
男性の特権でした。

このチャンスが女性にも開かれるようになったのは、ごく最近のことです。

古来女性は結婚して子供を産み育てる役割をもつとされてきました。

もちろん歴史上にその知性や能力を認められた女性がいたことは、事実ですが、かなり例外的であったといえる
でしょう。

それが両立できるものであることが受け入れられるまでには、時間がかかりました。

女性が公然と自らの知性をひけらかすことは善くないとされました。初等教育を受けられるようになっても、
受動的であることが期待され、時間の過ごし方から読む本の選択まで親や教師の指導のもとにあるべきだと
されました。

ナイティンゲールも『自伝』で、まだ若くて家族のもとにいたころ、日々読みたくもない本を与えられ、
やりたくもない刺繍をやらされて時間をつぶさねばならなかったことがどれほど苦痛であったと述べています。

(2)につづく


川村学園女子大学の風景




画像 146だいがく4加工.jpg





画像 144大学加工.jpg





11川村学園大024-02ポラロイド.jpg





画像 157大学3ポラロイド.jpg





                  
平成25年10月26日保護者会における講演から

                        
教育学部長 山本由美子




posted by 園遊会 at 13:22| Comment(0) | 教育