2015年01月08日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






【4】 『イタリア古寺巡礼』とラファエロの聖母像


和辻は1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)にかけて数か月イタリアに滞在しています。その間、和辻は日本にいる妻に宛てて再三手紙を送っていますが、その手紙を再編集し、また一部加筆して上梓したのが『イタリア古寺巡礼』です。発行は1950年(昭和25年)のことです。

その旅行の主な訪問先はジェノヴァ、ローマ、ナポリ、アマルフィ、シラクサ、パレルモ、アッシジ、フィレンツェ、ピサ、ボローニャ、ラヴェンナ、パドヴァ、ヴェネチアなどで、旅行の目的は各地の教会や美術館を訪ねて美術作品を見ることにありました。ただ、『イタリア古寺巡礼』では日本とは異なるイタリアの風土への観察もこまやかになされていて、これが後に、和辻の代表的な比較文化論である『風土』(1935年)の構想に生かされてゆくことになります。

 さて、イタリアでの美術作品についてですが、和辻はこの旅行でイタリア美術の代表的作品を初めて自分の眼で見て歩いたわけです。この旅行記は現地で書いた手紙をもとにした叙述ですから、高揚した和辻の気分も伝わってくる臨場感のあるものです。が、同時にヨーロッパ精神史の推移を踏まえて美術作品の意義を捉えようとしている点において、この旅行記は、日本の古代文化の成り立ちに関する深い造詣を背景として、古美術を求めて旅をした『古寺巡礼』の場合と同じような魅力を持っていると言ってよいでしょう。

 次の叙述はラファエロの聖母子像に関するものですが、ジォットーやミケランジェロなどと対比しながら、中世からルネサンスへかけてマリア像がその宗教性を希薄にしてゆく過程の中にラファエロの聖母子像を位置付けたものです。



  ここに選び出したのはそのうちで(ラファエルのいくつかのマドンナ像のうちで)<グランドゥカのマドンナ>と呼ばれているものであるが、これはもう明白に慈悲の女神などを描き出そうとしているのではなく、「母と子」というものの永遠の姿――人生に意味がある限り、常にその意味の核心の中に存しているであろうと思われる深い事実――を描き出そうとしているのである。・・(中略)・・こうなればもう、この赤ん坊が大きくなってヨハネの洗礼を受け、キリストの自覚に達し、十字架に付けられるとか、この母親はあらゆる他の母親とは異なり聖霊によって妊んだのであるとか、という伝説的な内容は、この絵の本質的な価値をなすものではない。ただ母性の偉大さ、清浄さ、母の愛の中にある嬰児の天真な美しさ、生い育ち行く豊かな命の芽生えとしての嬰児の肉体の清らかな美しさ、――それらは実際に人間の存在の中で最も美しいものである、――そういう美しさを具象的に、鋭く、あるいは豊かに、あるいは優雅に現わしている点にこそ、絵の価値はかかっているのである。ラファエルはその中で清浄さや優雅さを特にねらった画家であるといってよい。
(和辻全集第八巻)





 さて、以上和辻の二つの旅行記のさわりのようなものについて書いてきました。ここまでの内容に興味をお持ちの方があれば、和辻の二つの旅行記を実際に手に取られることをお勧めいたします。二作品とも、岩波書店から発行されている和辻全集のほか、和辻のいくつかの他の著作とともに岩波文庫にも収められています。




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ラファエロ「大公の聖母」(ピッティ美術館)



文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘

(哲学・比較思想)




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2014年12月24日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





【3】 『古寺巡礼』の比較文化論的視点


『古寺巡礼』の魅力の一つは、【2】で見たように、仏像をはじめとした古美術との出会いという実体験をきわめて印象深く叙述している点に求められます。そして、その叙述の際立った特徴は、叙述が印象記の域をはるかに超えて日本の古代文化に関する、当時としては最先端の学識に裏打ちされている点にあります。

和辻の学識が、事象の本質に迫る卓越した洞察力として現われているということについては、【2】で触れておきました。それに引き続き、もう一つ彼のすぐれた学識に関して強調しておかねばならないことは、日本の古代文化の成り立ちを朝鮮や中国、インドなどとの連関で捉え、さらには古代の仏像とヨーロッパの芸術の比較までするといった視野の広さをその学識が備えていたということです。

次の叙述は中宮寺の弥勒菩薩像(『古寺巡礼』に時代にはこれを観音像と見る人もいたようです。)を拝観した時の印象を記したものですが、ここには裾野の広い学識を背景として自由に想像力を飛翔させるという、『古寺巡礼』のもう一つの魅力が感じられます。



この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるとともに処女であるマリアの像の美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結晶によって「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻におけるように特に母の姿となっている場合もあれば、また文芸復興期の絵画におけるごとく女としての美しさを強調した場合もある。・・(中略)・・しかしこの聖女(中宮寺弥勒菩薩)は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくまでも「処女」のものである。がまたその複雑な表情は人間を知らない「処女」のものとも思えない。と言って「女」ではなおさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。――慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人体の形に結晶せしめたものである。
(和辻全集第二巻)




 和辻は、ここでヨーロッパのマリア像との対比において弥勒像の美を捉えようとして思考を自由にはばたかせ、上述のような自問自答を経てこの像の本質を「慈悲の権化」と言い当てているわけです。弥勒像を前にしての、このように自在で豊かな思考の飛翔が和辻において可能であったのは、その確かな学識の蓄積によるということを、今回は書いた次第です。




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中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像



(4)につづく




文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




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2014年12月11日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』― 和辻哲郎の二つの旅行記 ―(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




【2】 美の巡礼としての『古寺巡礼』



前回触れたように、『古寺巡礼』は青年時代の和辻の奈良旅行をもとにして書かれたエッセイです。その旅行の主な訪問先は、奈良の博物館の他、新薬師寺、浄瑠璃寺、東大寺、法隆寺、唐招提寺、法華寺、薬師寺、当麻寺、中宮寺などの仏教寺院で、和辻の関心は行く先々の古美術、それも特に仏像に向けられています。青年和辻の『古寺巡礼』は、宗教的意味での巡礼ではなく、仏像を中心とした古代美術をめぐる美の巡礼であったのです。

 古代の仏教美術に和辻が関心を向けるようになったきっかけの一つは、学生時代に和辻が岡倉天心の古美術に関する講義を聞いたことにあったと言われています。また若い頃からの和辻の美術趣味は、妻の友人の縁で、横浜の大貿易商で茶人でもあった原三渓に手ほどきを受けたものだという話も伝えられています。こうしたエピソードからは、日本の古代美術に対する熱い思いをつのらせていった青年和辻の姿が鮮やかに浮かび上がるかのようです。

 美術作品に限らず、飛鳥・白鳳・奈良の古代文化にこの時代の和辻は強い関心を抱くようになり、その研究を進めていました。『古寺巡礼』出版の翌年に上梓された『日本古代文化』は、そうした研究の産物ですが、以上をまとめれば、古代文化への熱い情熱と深い造詣に裏打ちされた美の巡礼の記録、それが『古寺巡礼』だったと言えましょう。

 では、その美の巡礼の記録は、具体的にはどのようなものだったでしょうか?ここからは『古寺巡礼』の叙述を紹介して、そのさわりを見てみることにしましょう。

 まず、次の叙述は薬師寺の聖観音像を前にしたときの和辻の印象の叙述ですが、ここには聖観音像に出会うという実体験の様子と目の前の仏像の美に関するこまやかな観察、さらにはその体験に触発され、その体験を基点として動き始める和辻の思考の姿が描写されています。この一文を読むだけでも、『古寺巡礼』の雰囲気と谷川徹三が「イデーを視る眼」(和辻全集第二巻解説)と名付けた、事象の本質を直観する和辻の卓越した資質の一端が垣間見えることと思います。やや長いですが、引用します。



  わたくしたちは無言のあいだあいだに詠嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、わたくしは寺僧が看経するらしい台の上に座して、またつくづくと仰ぎ見た。美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。仏教美術の偉大性がここにあらわにされている。底知れぬ深味を感じさせるような何とも言えない古銅の色。その銅のつややかな肌がふっくりと盛りあがっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を表現したものである。しかもそれは、人体の写実としても、一点の非の打ちどころがない。・・(中略)・・もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生と同じではない。一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。
(和辻全集第二巻)





 さて、今回は以上の引用を味わっていただくことで終わりといたしたいと思います。



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薬師寺東院堂聖観音像




(3)につづく

文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




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2014年12月01日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』― 和辻哲郎の二つの旅行記 ―(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





                         
【1】 和辻哲郎の生涯と二つの旅行記



 公開講座では、近代日本の代表的哲学者和辻哲郎の二つの旅行記を取り上げ、それらの魅力についてお話しました。ここでは、そのエッセンスを簡単にまとめてお示ししたいと思います。【1】では、和辻哲郎の生涯と事績を紹介し、その中に二つの旅行記を位置付けます。

 まずその生涯ですが、和辻哲郎は1889年(明治22年)に兵庫県で生まれ、1960年(昭和35年)に`東京で亡くなっています。旧制第一高等学校入学のために東京に出てきて以降、途中10年弱京都で暮らした時期(ただし、その間に1年半ほどドイツ留学のためのヨーロッパ滞在)を除けば、大方は東京の近辺に暮らしたことになります。

東京に出てきてからしばらくの間は、哲学の勉学のかたわら文芸評論の執筆などにも熱中し、谷崎潤一郎ら文人との交友を持ちます。20代の和辻は漱石山房にも出入りし、晩年の夏目漱石の知遇を得ますが、その頃の和辻は文芸で身を立てるか学者の道を選ぶか、つまり美と倫理のどちらを選ぶか、その岐路に立っていました。若き和辻はいっぱしの文人でもあったわけですが、『古寺巡礼』は、そうした迷いの中にあった青年時代の最後の時期に和辻が友人とともに奈良へ旅をした際の印象をもとにして書かれたものです。

 『古寺巡礼』は1919年(大正8年)に出版されますが、その翌年に和辻は東洋大学教授に就任し、学者としての本格的な活動に入ることになります。その後、彼は京都帝国大学、東京帝国大学で教鞭をとり、東京大学退官後には日本学士院会員、日本倫理学会会長などを歴任、1955年(昭和30年)には文化勲章も受章しました。

 こうした経歴を見れば、学問の道に精進し学者として大成した碩学という和辻像がおのずから浮かび上がってきます。学者としての和辻には、日本文化史や比較文化論を扱う文化史家としての顔と、「人間」の「間柄」の理法としての倫理という着想を基盤として体系的倫理学の構築をした倫理学者としての顔という二つの顔があります。和辻哲郎は、このどちらの分野においても現在なお読むに値する高い業績をのこした哲学者として広く認知されています。彼の学問的な姿勢、つまり日本の文化的伝統に関する深い造詣を根底にして西洋の人文系の学問と格闘し、そのうえで独自の道を模索するというそのスタンスは、分野は違いますが漢文学の素養を背景として英文学と格闘した夏目漱石、また禅の伝統を背景に独自の哲学的思索を模索した、近代日本のもう一人の代表的哲学者西田幾多郎などと共通しています。

 さて、『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』は、このようなスタンスで学者としての生涯をおくった和辻が書いた旅行記です。『古寺巡礼』の成立の経緯についてはすでに触れましたが、『イタリア古寺巡礼』は上述したヨーロッパ滞在中のイタリア旅行の際の妻への手紙をもとにして編まれたものです。これら二つの旅行記の魅力はどのようなものか。次回以降はそうした話題に移ってゆきます。




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(写真・60才頃の和辻哲郎)



(2)につづく



文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)





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2014年10月08日

アレクサンドロス大王が目指した帝国(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第4回 支配の現実

 アレクサンドロスの将兵たちが、彼に不満を抱いたのは飽くなき前進の命令だけではありませんでした。
ペルシア帝国を滅ぼした後、アレクサンドロスはペルシア王の装束を身にまとい、豪勢な宮廷生活をし、
マケドニア人を含めた臣下に平伏して自らを崇めさせようとしたと伝えられています。

これに対して将兵たちは不満の色を隠さず、「王は勝利者というより敗者に似てきており、マケドニアの帝王から
ダレイオスの総督になってしまった」と述べるまでに到りました。

 その一方で、自分たちがペルシアの風習を受け入れるだけでなく、現地人にもギリシアのやり方を真似させることで、
アレクサンドロスは円滑な統治が可能になるとも考えました。彼は現地の若者たちにギリシア語を習わせ、
ギリシア風の戦術を学ばせました。

さて古参の兵士たちにいよいよ故郷への帰還が許可されたとき、彼らは自分たちがお払い箱にされ、若い兵士たちに
取って代われると感じ不満を表明します。インドで従軍を拒否した際に兵士たちは生きて故郷に帰ることを強く
望んだのですから、彼らの不満は一見おかしくも思えますが、ここではアレクサンドロスが彼らとともに帰国しようと
しないことに注目すべきでしょう。

 兵士たちの非難にアレクサンドロスは激怒しますが、数日後に両者は和解します。アレクサンドロスを批判した
兵士たちは、「自分たちはペルシア人とは別の人間であり、一時的に兵士あるいは略奪者としてアジアに来たのだ」と
いう意識を常にもっていたようです。こうした視点からはアレクサンドロスの行動は理解しがたいものだったのでしょう。

しかし、アレクサンドロスは支配者として自らの地位を確立し、力の源泉である兵力をいかに維持するかを現実的に
考えなければなりませんでした。その結果が必要とされたペルシアの伝統を受け入れ、若い兵士を育成することだった
のでしょう。こうした点を鑑みると、ここでは兵士の視野は狭く、アレクサンドロスの方が先を見据えた、大局的な
判断をしていたと言えるでしょう。

 とはいえ、アレクサンドロスはアジアの統治に自覚的になっていたにせよ、アジアの文化を理解し、文明・民族の
融合までを目指していたとするのは行き過ぎのようです。ここではアレクサンドロスの限界を示す1例を挙げるに
とどめます。

部下たちとの和解後に開かれた祝宴では、マケドニア人とペルシア人が力を合わせて支配にあたることが
祈られましたが、大王の周りをまずマケドニア人が、次いでペルシア人が座ったとされており、2つの民族のあいだには
序列があったのです。

 今回は限られたトピックしか触れられなかったため、アレクサンドロスを全体として評価することは断念せざるを
えません。ですが幸いにして古代に書かれた彼の伝記は日本語で読むことができ、日本人研究者による優れた研究も
あります。皆さんも、これらを手に取って自分なりの大王の姿を描き出してはいかがでしょうか。

                                            了


史料・参考文献
クルティウス・ルフス(谷栄一郎・上村健二訳)『アレクサンドロス大王伝』京都大学学術出版会、2003年
アッリアノス(大牟田章訳)『アレクサンドロス大王東征記』(上・下)岩波書店、2001年
プルタルコス(村川堅太郎編)『プルタルコス英雄伝』(上・中・下)筑摩書房、1996年
スエトニウス(国原吉之助訳)『ローマ皇帝伝』(上・下)岩波書店、1986年
澤田典子『アレクサンドロス大王:今に生き続ける「偉大な王」』(世界史リブレット人5)山川出版社、2013年
森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』(興亡の世界史1)、講談社、2007年




文学部 史学科 講師 高橋亮介





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2014年09月29日

アレクサンドロス大王の目指した帝国(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回 遠征の動機:アレクサンドロスを突き動かしたもの



 東方遠征が、ペルシア戦争の報復として父王の計画を引き継いで行われたことはすでに説明しました。
ですが、アレクサンドロスには単に父親の遺志に従うというよりも父に対抗する気持ちもあったようです。

彼は若い頃、父の軍功を喜ばず、むしろ自らがなそうとしていることを取ってしまっていると嘆いたそうです。
そして豊かな国ではなく、戦争と名誉心を満たす余地を残して欲しいと考えていたと伝えられています。

 この名誉の追求こそがアレクサンドロスを遠征に駆り立てたと現代の研究者の多くが考えています。
その論拠の1つとして挙げられるのが、ギリシアの伝説上の英雄アキレウスへのアレクサンドロスの傾倒です。

 アキレウスは、ギリシア連合軍によるトロイア攻城を題材としたホメロスの叙事詩『イリアス』の主人公です。
自分が戦場で命を落としても長らく語り継がれる名声を得ようとしたアキレウスは、競争と名誉を重んじるギリシア人の
心性をよく表すヒーローと言えるでしょう。

 アレクサンドロスも『イリアス』を戦術の資料として読み携えており、ダレイオスから得た戦利品の美しい小箱には
『イリアス』を納めるのが相応しいと述べたと伝えられています。繰り返し『イリアス』を読みながら、父親はおろか、
この英雄にも負けない名声を得ることをアレクサンドロスは夢想したのではないでしょうか。

 実際、従軍を拒む部下に対して、「武勇に生き不滅の誉れを残して死ぬことこそ尊ぶべきである」と述べて説得を
試みたというエピソードは、まさにアレクサンドロスが名誉を追い求めていたことを物語ります。

 しかし、アレクサンドロスの説得は功を奏しませんでした。名誉の追求は将兵に理解できない価値観ではなかった
にしても、あまりにも独善的なものと映ったのではないでしょうか。アレクサンドロスの理想と部下たちが見つめていた
現実との間には隔たりがあったようです。そして、私たち(少なくとも私)は部下たちに同情してしまいます。

こうしたギャップは遠征のあり方だけでなく、いまやペルシア帝国の領土を治めることになったアレクサンドロスがとった
施策に対する態度にも見られたのです。

(4)につづく




文学部 史学科 講師 高橋亮介






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2014年09月22日

アレクサンドロス大王が目指した帝国(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第2回 後世のアレクサンドロス評価

 アレクサンドロスは、大帝国を築き上げた古代ローマの政治家・軍人によって高く評価され、理想的な支配者と
見なされていました。

かのユリウス・カエサルも若いときに「アレクサンドロスが多くの民族の王となった年齢に達しても自分は
なにも華々しい功績をあげていない」と嘆いたそうです。




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 彼の後継者オクタウィアヌス(のちのアグストゥス)も、エジプトのアレクサンドリアで大王の柩と遺体を見て
敬意を表しました。しかし続いてエジプトを支配したプトレマイオス朝の諸王の遺体も見たいかと尋ねられると、
「私が見たかったのは、王であって死んだ者ではない」と答えています。

つまり、アレクサンドロスのみが王に相応しい功績をあげ、敬意が払うに値すると考えていたわけです。
軍事的な成功こそが個人の名を上げ、国を富ませると考えていたローマ人にとって、評価されるべき功績とは
軍事的な成功だったのです。




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 時代がはるかに下って、近現代ヨーロッパの歴史家たちもアレクサンドロスを高く評価しましたが、
彼らは「ヨーロッパ人がアジアに大帝国を打ち立てたこと」に積極的な意味を見いだしました。

19世紀プロイセンの歴史家ドロイゼンは、世界帝国を打ち立て、ギリシア文明を広め、東西民族を融合させた人物
としてアレクサンドロスを評価しました。

20世紀前半にイギリス人研究者のターンは、アレクサンドロスを「人類は同胞である」という理念の実現に努めた
人物と見なしました。

 このような評価は日本にも伝わりましたが、私たちの目から見ると、西洋の歴史家たちも彼らが生きた時代の
影響を受けていたと言わざるをえません。

19世紀のドイツは国家の統一を課題としていましたし、西洋列強はアジアへの進出と植民地支配を肯定的に捉える
(あるいは正統化する)ための先例を求めてかもしれません。20世紀になり国際協調が求められた時代には民族融和を
実現した人物としてアレクサンドロスが理想的に描かれたのでしょう。

 私たちも時代の子ですので、過去の人々よりも客観的だとは必ずしも言えませんが、軍事的な才能を発揮し、
高邁な理想を実現した支配者像から距離をおいたとき、アレクサンドロスをどのように描くことができるのでしょうか。

次回と次々回では、それぞれ遠征の動機と支配のやり方という2つのトピックについて史料を紐解きながら考えて
みましょう。




(3)につづく




文学部 史学科 講師 高橋亮介






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2014年09月11日

アレクサンドロス大王の目指した帝国

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アレクサンドロス大王の目指した帝国

第1回 
はじめに:アレクサンドロスの東方遠征とは




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 紀元前334年、マケドニア王国の若き王アレクサンドロスは将兵を率い、アジアに渡りました。
いわゆる東方遠征の始まりです。目指す敵は、西アジア全域を支配下においた超大国のアケメネス朝ペルシア。
遠征は、前5世紀前半にギリシア本土に侵攻したペルシアに対し報復戦という名目のもと、2年前に暗殺された父
フィリッポスがすでに計画していたものでした。


 会戦での勝利を重ねたアレクサンドロスは、330年にペルシアの都の1つであったペルセポリスを占領します。
さらに敗走するペルシア皇帝ダレイオス3世を追い東進します。ダレイオスが途中で部下の手にかかり命を落した後も、
アレクサンドロスはとどまるところを知らず、やがてインドを目指しました。


 ところが旧来のペルシア帝国の版図を超えて進撃しようとするアレクサンドロスに対して、倦み疲れた将兵は
遠征の中断を懇願します。これを聞き入れたアレクサンドロスは帰路につき、前324年にペルシアの旧都スーサに
戻りました。翌年、再度の遠征の準備に取りかかるもののバビロンで熱病に罹り、32歳で没しました。


 治世のほとんどを異国の戦場で過ごしたアレクサンドロス大王は、ペルシアを倒し、その広大な帝国を引き継ぐという、
驚くべき功績をあげました。古代以来、アレクサンドロスには高い評価が与えられてきましたが、現代に生きる私たちは
彼と彼の行いをどのように捉えることが出来るのでしょうか。これが今回の公開講座のテーマです。

本論に入る前に、次回はアレクサンドロスがこれまでどのように評価されてきたかを見てみましょう。




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(2)につづく


文学部 史学科 講師 高橋亮介




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2014年09月03日

東のカールと西のシャルル(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



第4回


 ロタリンギアの出身者でアガノという男がおりました。妃の血縁者というふれこみで、口が達者、いつの頃からか
宮廷でよく見かけるようになり、弁舌巧みに王に取り入り、やがてお気に入りとなって、918年頃には王シャルルの諮問会
で強い影響力を行使するようになりました。

 諸侯はこの男を嫌い、王との関係が次第に冷却化していきます。諸侯たちからすれば、王との間に壁ができ、
王は自分たちの意見を聴かず、アガノの巧言に踊らされている、というわけです。封臣が封主に勧告するのは大切な
義務ですが、封主がそれに耳を傾けることも大切な義務です。919年、ロタリンギアにマジャール(東方の民族)が
侵入した時、これを撃退すべく、シャルルは諸侯に軍事動員を求めましたが、諸侯は拒否しました。これは深刻な事態
です。主君に対する軍役奉仕が家臣の一義的な義務であるのは周知のこと。王と貴族との封建的信頼関係に大きな
ひびが入ったことを意味しています。

921年、貴族たちの信頼が篤かったリシャールが死去したため、代わってロベールが貴族たちを指導する立場に立ち、
王の承諾なしにノルマンとの不戦条約を締結してしまいました。王は東向き、貴族は西向き、と関心の方向が大きく
ずれてしまったのです。


 922年、事件が起こりました。初代西フランク王シャルル禿頭の娘でロベール家に嫁していたロチルドなる女性が
おりました。彼女は結婚に際して、父たる初代西フランク王から個人財産として豊かな修道院所領を授けられて
いました。王シャルル単純は、突然、格別の理由もなしに、彼女からそれを没収してアガノに与える、ということを
やってのけたのです。もとより彼女が何か不始末をしでかしたわけでもありません。諸侯はこの王の偏った庇護は
正義に悖ると激怒し、猛然と反対しました。対立は紛争に発展します。


王と貴族の激突

 同年、ロベールとその娘婿ラウール(ブルゴーニュのリシャールの息)が協力して西フランク諸侯を指導。
貴族たちは王シャルルに対する家臣としての誠実を棄て、ロベールを王に選出し、ランスで戴冠させてしまいます。
年末には東フランク王ハインリッヒ1世もロベールを西王として承認しました。つまり諸侯、ランス教会、東フランク王、
と、すべてがシャルルに与しないとあれば、シャルルは逃げるしかありません。どこへ行ったでしょう。

 あろうことか、彼はノルマンの土地へ逃げ込みました。翌923年、彼はノルマンの援助を取り付け、ノルマンを率いて
西フランク諸侯軍と戦います。しかし6月15日、スワッソンで諸侯軍に大敗を喫し、ヴェルマンドワ伯エリベールの捕虜と
なり、投獄され、結局、929年に獄死するという末路を辿ることになりました。他方、貴族を率いたロベールもこの戦いで
戦死したため、戦争終了後、貴族たちはラウールを王に選出しました。

前年922年のロベール選出といい、このラウール選出といい、いずれも諸侯は自らの意思で、自らが欲する人物を、
血縁を重視せずに選出したことを証明しています。


衝突の意味 = 二つの人間関係の対立と緊張

 西王シャルル単純と貴族たちの対立の背後には二つの人間関係が拮抗していることを見ることができます。
ひとつは封主としての王と封臣としての貴族が結ぶ封建関係です。この関係は互いに誠実を誓う人為的な関係であり、
絶えざる合意形成を要するものです。貴族はこれを楯にとって王の不実を詰りました。

他方、血縁関係も自然な人間関係として社会の基礎を作っていることは言うまでもありません。こうした複数の
人間関係を上手に折り合わせることができず、対立させてしまったことが、王シャルルの不手際であったということは
できましょう。


おわりに

 東王カールは長く不当に評価されてきた王でした。それが基本史料たる『年代記』編纂者の魂胆によるものであった
ことは説明した通りです。しかし、だからと言って、その史料が役に立たないわけではありません。『マインツ続編』は
暗黙の裡に王のあるべき姿を述べ、その理想と現実との乖離を明確にするという手法で現実を批判しました。

 他方、西王シャルルは「英雄に成り損ねた愚物」でしょうか。所与の状況を熟考せず、取り巻きの中で自己陶酔し、
強引に自己主張を押し通そうとしたがために、現実に拒絶されたと言えましょう。

血縁者の壁で隔離された王と誠実宣誓を立てた封建諸侯の対立というヨーロッパ中世社会で何度か繰り返される軋轢を
見ることもできます。王といえども、古き慣習を守らぬ上に、臨機応変の才もない、とすれば、諸侯にとっては
無用の存在でしかありません。

 
記述の中に見出される王のあるべき姿と、諸侯の行動に映し出される王のイメージと、両者はぴたりと一致しています。
つまりこの時代においては、権力は人性を払拭することがなく、非人称の装置となっていません。権力は支配者(=王)と
一体化していることが自明であるからこそ、自明の理想に向かって邁進することで被支配者の信頼を得ることが必要
だったのでしょう。この時代 ――「ポスト・カロリング期」と言います ―― の王の姿から、何か特別な教訓を引き出す
心算はありません。しかし求められるものを実現できない支配者は支配者たりえない、という厳然たる事実から目を
そむけるべきではないでしょう。


参考文献
東王国のカール肥満王に関しては MACLEAN, Simon; Kingship and politics in the late ninth century. Charles the Fat and the end of the Carolingian Empire. Cambridge, 2003.
西王国のシャルル単純王に関しては DUNBABIN, Jean; West Francia: the Kingdom, in The New Cambridge Medieval History III, ed. by REUTER, Timothy, Cambridge, 1999. pp.372-397.




文学部 史学科 教授 金尾健美




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2014年08月22日

東のカールと西のシャルル(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回

 病弱で活力に乏しく、何もしない王であった、という記述も、そのまま受け容れるわけにはいきません。
まず上記882年の遠征隊にカール自身が参加し、指揮をとったことは確実です。「何もしなかった」という評判は
彼が病弱であった、という評価と一体のものです。873年にフランクフルトで「激しい頭痛を伴う発作」を起した、
という事件はよく知られています。脳梗塞でしょうか。後遺症の如何については知られていませんが、ともかく
王の「発作」はニュースとして価値があり、年代記の中では絶対に省略しえない記事でしょう。

その事実を彼の無精・惰弱に結びつけるのは無理があります。彼はイタリアへ6回、西フランクへ2回も遠征しました。

 さて、これまで述べてきたことは、いわゆる史料批判であって、歴史研究者が研究の過程で行うべきことであり、
研究成果を公表する場において言及する必要はない、と苛立っている方もあるかもしれません。
つまり『フルダ・マインツ』が事実を客観的に記録した「史書」とは言い難い作品であることは分かった。それで ?と。
マインツ大司教リュートベルトは一体何を書きたかったのでしょうか。


『フルダ年代記・マインツ続編』の書き手(マインツ大司教リュートベルト)は自身の失脚の恨みを歴史書に託し、
王カールを唾棄すべき最低の人物として描きましたが、これは実像とは言い難いことを確認することができました。
そこで、ちょっと一工夫してみましょう。彼が描くカールの像を全て逆転させてみます。そうするといったい
どのようなことになるでしょう。

 まず、「家臣の言いなりであった」という評価の逆は刻々に変化する事態を前にして、即断即決、英断を下す
ことができる人物となりましょうか。頼もしいですね。「外敵の侵略に対して無能・弱腰」という人物像の逆は
外敵を敢然と撃退するあっぱれな豪傑でしょうか。「病弱・惰弱・怠惰」という性格の逆は精力的で疲れを知らぬ
強靭な精神と身体の持ち主となりましょう。リュートベルトが、あるいはひょっとすると同時代の多くの人々が
理想とする王(勇者)のイメージとはこのようなものだったのではないでしょうか。

司教の批判そのものが妥当かどうかを論じることに大きな意味を見出すことはできません。そうではなく、
彼が無意識のうちに理想像の裏返しを行っていることに注目したいと思います。「語るに落ちる」とはこのことです。
カールを貶めるつもりだったのでしょうが、その文章の背後に、私たちはフランク王者の理想と行動規範を読み取る
ことができると思います。おそらくカールの実像はこの極端な称賛と罵倒の間のどこかに位置しているのでしょう。

『フルダ年代記・マインツ続編』は普通の意味での史書ではなく、むしろ道徳哲学ないし政治哲学の性格を備えていると
理解することができると思います。


ところで、この描かれたカールではなく、実在の王カールは西フランクに対しても影響を及ぼしています。
 
アセルト攻囲戦のあった882年、西フランク王ルイ3世が逝去し、884年にはその弟カルロマンも逝去しました。
いずれも継嗣が誕生していません。異母弟シャルル(後に即位して3世、単純王)は879年生れですから、
この時5歳です。

そこで東王国のカール肥満に西王位を委譲することにしました。その結果、884年からカールは東西フランク王国を
ひとりで支配することになります。この東王への権力移譲を推進したのは西王国の貴族で、有力派閥(北方派)の長
であったサン・ドニ修道院長ゴーズランであったとされますが、カール肥満は西王国を支配する人脈も拠点も持って
いません。つまりゴーズランは自身が西王国の実権を掌握したいがゆえに、このような操作を行ったと考えられます。


 その翌年885-886年の冬、西フランク王国の中心都市パリがヴァイキングに攻囲されると、地元の有力者であった
ロベール家のウードがパリ住民を指揮して抵抗しました。この時にウードと王カールとの間に何らかの接触があったと
考えられます。ちなみに、ウードの父ロベールは初代西フランク王の家臣で、剛の者として聞こえた傑物でした。
やはりヴァイキング戦で名をなしましたが、866年に戦死しています。


 ところが、このパリ攻囲戦直後、886年4月にゴーズランが、さらに同年5月にはトゥールを拠点としロワール地方に
勢力を張る主流派の領袖ユーグが、相次いで死去しました。しかし彼らに代わる実力者がなかなか現れず、西王国は
権力の空白地帯となってしまいました。その間隙を縫って、ウードは少しずつロワール流域へ自身の支持者ネット・
ワークを広げ、勢力範囲を拡大していきました。様々な紛争や司教選挙に介入して、信頼関係を築いていったと
されます。

こうして単にセーヌ流域にとどまらず、次第に西王国の実力者として知られるようになったウード、傑物ロベールの
息ウードを、カールは自身の代理、つまり国王代理、として指名することになります。




西フランク王シャルル単純王(位898‐923年)

 888年カール肥満が嫡子なく逝去すると、東王国ではカールの長兄カルロマンの庶子アルヌルフが反乱を起し、
王となります。西ではウードが圧倒的な支持を受けて王に選出され、10年にわたって西王国を支配しました。

シャルル単純王の治世

 そのウードが898年に嫡子なく死亡した時、ウードの弟ロベールも、聖界の実力者ランス大司教フルクも、そろって
カロリング家のシャルル(879生19歳)を支持したために、シャルルが西王に即位することになりました。この当時、
王は強制力を持つ支配者とは言い難く、むしろ有力諸侯(貴族)を政策決定に参加させ、合意を取り付け、その実施に
当たっては重要な役割を担わせることが必要でした。つまり彼らに封臣としての義務を強く自覚させ、王の、いわば、
同輩として王国を共同統治するという理念を持たせる。その見返りに、王は彼らの王国内での優越的・指導的地位を
追認する。こうして王と貴族は互酬関係を持つ支配者集団を形成していたと理解されています。


 シャルル単純の治世前半(898−c.910)は依然としてノルマン(ヴァイキング)の侵略が続いていました。
王シャルルは自ら軍勢を率いるだけの能力も財力もなかったので、それを家臣に委ねます。そのために、いわば
王国防衛隊長の任に当たったがブルゴーニュ(西王国の東南部)出身の貴族リシャール(c.858生-921死)であり、
彼を補佐したのはヌーストリア(パリ周辺)のロベール(ウードの弟c.865生-923死)でした。とりわけリシャールは
判官公とも呼ばれ、貴族たちから篤い信頼を得ていた人物でした。二人は貴族連合軍を組織し、911年7月20日
シャルトル(パリの南西約70 km)でヴァイキングに壊滅的打撃を与えました。この戦いの結果も、もちろん重要ですが、
それよりも、むしろ諸侯が王抜きで団結し、しかも立派な成果を上げることができた、ということの方がはるかに
重要と思われます。つまり王は必ずしも必要ではない、ということを証明してしまったのです。王シャルルは何を
思ったでしょうか。

 この戦後処理である同年のサン=シェール=シュル=エプト条約によって、ヴァイキングの領袖ロロには海岸沿いの
土地が与えられました(これが後のノルマンディーの起源です)が、同時に対ノルマン戦の先頭に立つことも約束
させられました。


王シャルルの結婚とロタリンギア支配

 王シャルルは908年(29歳)にロタリンギア地方(東王国に帰属)出身のフリデルーナなる女性と結婚しました。
これを機に、彼はロタリンギアに関心を抱くようになります。
 911年、東フランク王ルドヴィッヒ(アルヌルフの子)が死去すると、ロタリンギアでは西王シャルルの支配を
求めました。もちろんシャルルは喜んでこの申し出を受け容れます。以後、ロタリンギアは彼の直轄地として、
重要な財源となり、しかもロタリンギア出身者が何人も王シャルルの側近に混じるようになりました。つまり、
これまで望んでも得られなかったもの、自由に処分できる収入と人材を彼は手にし、その結果として、西フランク諸侯
に対する彼の態度は微妙に変化していきます。

(4)につづく




文学部 史学科 教授 金尾 健美




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2014年07月23日

東のカールと西のシャルル(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第2回


 さて、そのマインツ大司教リュートベルトが描くカールやその諮問官筆頭リュートヴァルトの評価やイメージは
3つ指摘することができます。

 1)王カールは諮問官、特に筆頭ヴェルチェッリ司教リュートヴァルトの言いなりであった。
 2)王カールはヴァイキングの侵略に対して無能であった。
 3)カールは病弱で活力に乏しく、何もしない王であった。

と、散々な言いようですが、こうした指摘は正しいのでしょうか ? おそらく宮廷から追放された意趣返しであろうとの
予想は容易に成り立ちます。

 1)そもそも諮問官はひとりではありませんから、ひとりの諮問官が王に影響を及ぼし続けることは困難でしょう。
リュートヴァルトは尚書官筆頭ですから、王の文書に彼の名が頻出するのは当然で、それだけで王に影響力を行使して
いたとは主張できません。彼を「偽司教」とか、「異端者」呼ばわりするのは聖職者を貶める、あるいは罵る場合の
常套句で、その信憑性を問うこと自体が無意味です。むしろ奸臣のイメージを作り上げることに苦心惨憺している
ように思えます。

 あるいはまた、リュートヴァルトが辺境伯ベレンガルの姪を王立サン・サルヴァトーレ女子修道院から誘拐し、
自身の親族と結婚させたという事件を紹介し、彼が王の権威を蔑ろにした、と非難していますが、これは王カールに
対するベレンガルの反抗的態度に王が対抗措置をとった。つまり彼女を人質とすべく、王の許可と修道院の暗黙の
了解の下で実行された、という疑いが強いと思われます。


 2)ヴァイキング(ノルマン)の対応については『フルダ年代記・マインツ続編』から882年アセルト攻囲戦の
記述を抜き出して、箇条書きにしてみましょう。

(1)王カールは多国籍軍を率いて遠征し、敵攻囲戦を始め、陥落直前に追い込んだ。
(2)リュートヴァルトと伯ヴィクベルトが裏切り、敵の指揮官ゴーダフリートと内通した。
(3)ヴァイキングは降伏したと見せかけて、開城し、フランク軍を迎え、騙し打ちにした。
(4)王カールはゴーダフリートを洗礼させ、家臣とし、土地を与えた。
(5)王カールは財宝と人質をヴァイキングに与えた。
(6)ヴァイキングを切り捨てる兵士がいれば、処罰する。
(7)動員を解除し、兵は帰途に就いた。

 と、なるでしょうが、この記述は客観的なのでしょうか。非常に奇妙な印象を与えます。

(1)カールが率いる連合軍が戦場に到着した後、どのように戦ったか、攻囲戦の詳細が一切書かれていません。
つまり、すぐに(2)内通者の画策した和平の話になってしまいます。つまり書き手は戦闘の実際を知らないのでは
ないでしょうか。戦闘終了後の両者の取り決め(和平条約)だけを仄聞したに過ぎないと思われます。
(3)フランクを騙し撃ちにするために、ヴァイキングは兵力を温存したのでしょうか?
 
『フルダ年代記』の『バイエルン続篇』は、すでに述べたように、バイエルンに関係する出来事だけを記述した
地方年代記ですが、このアセルト攻囲戦に関しては奇妙に詳しいのです。そこで『マインツ』は脇に置いて、
しばらく『バイエルン』の記述を辿ってみましょう。

まず、一度集結した軍団が二手に分かれ、ライン両岸を行軍していったと記述されます。要するに敵を挟み打ちする
戦術で、カロリング期にはよく見られる戦法ですから、それが実施された可能性は高いでしょう。さらに当初は
奇襲攻撃を予定していたが、先遣隊の中から裏切り者が出たために失敗し、時間のかかる攻囲戦を余儀なくされた、
と記述されています。
その攻囲戦についても日付、敵との距離、自然条件などが正確に述べられていますし、エピソードも豊富に盛り
込まれています。
その後に停戦・和約の条項の記述が続きます。この著者はバイエルンに関係しない事件は大きく扱わず、885年の
パリ攻囲戦にもほとんど言及していません。それなのに、この詳細さは異常という印象を与えます。一人称複数
「私たちの」の使用法を考慮すると、書き手自身が参加したか、あるいは参加した知己から直接に訊いたか、
いずれかではないかと想像されます。

 このように考えると、マインツ版が記録したリュートヴァルトの裏切りは疑わしいものに思えます。
『バイエルン』では、先遣隊のフランク人が裏切ったとしています。リュートヴァルトはこの時、主席宮廷司祭で、
尚書筆頭でもありますから、本隊の王の傍らにいたと考えるのが自然で、先遣隊の中にいたとは考えられません。

 『バイエルン』は地方史ですから、王カールを擁護しようとする格別の理由・動機はないでしょう。敵と妥協して、
長引く攻囲戦をひとまず終わらせる、というカールの決断は、酷暑の中、多くの死体が放置され、腐敗が進み、
双方の陣営に疫病が蔓延しつつあったためであるとされます(『マインツ』にこの詳細は記載されていません。
私たちもこの攻囲戦が真夏に行われたことを初めて知ることができます)。つまり『バイエルン』は地方史として、
やや軽視されて来ましたが、こちらの方がずっと客観的で、従来第1級史料とされてきた『マインツ』よりも信頼できる
のではないか、と思えてきます。

(4)(5)王カールが敵の指揮官を洗礼させ、共同統治者とし、封土を与えたとは前代未聞の愚行であるとしていますが、
フランクの王たちは度々、このように敵を買収し、家臣とし、その上で、彼らに同志討ちをさせるという政策を
とってきました。
後述する西フランク王シャルルの治世、911年に、やはりヴァイキングを買収し、土地を与えたことが知られています。
王はともかくも戦闘を終わらせることを優先させて、教会財産を利用して彼らを買収したのでしょう。なるほど
聖職者の立場からすれば、それは許し難い「掠奪」であったかもしれません。

(6)(7)ともかく王がヴァイキングを退去させ、動員解除と帰還を命じたことは幸いであったと、『バイエルン』の
著者は語っています。そうすると、自軍の兵士に対する処罰の件は、ようやく停戦までこぎ着けたのに、戦闘再開も
やむなし、という事態に陥ることになるような勝手な行動は厳罰に処すと命じたものとは読めないでしょうか。

 つまり王カールの行動は『バイエルン続篇』を利用して、補いながら検討すると、合理性・一貫性があり、
決して無能な王ではなかったと理解されるのです。


(3)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美





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2014年07月07日

東のカールと西のシャルル

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1.
はじめに



 「東と西」というテーマを与えられて、西洋史を専攻する者がまず思い浮かべるのは冷戦時代の
「東西」でしょうか。時代、社会、政治、等々、物事を考える上で、重要な軸であったと思いますが、
1989年にベルリンの壁が崩壊し、ソ連が消滅してからは、「東西」という方向軸の象徴的意義は
随分と薄れてしまったように思います。


 とはいえ、私が専門とするヨーロッパ史の中で、何かしら与えられたテーマに沿うような、
適当な話題がないか、と考えておりますうちに、ひとつ思いつくことがありました。

ある時期にはヨーロッパ全域にわたる強大な帝国を築きながらも、それを維持できず、分裂し、
滅亡していった国家があります。ローマがその代表的な事例であることは申し上げるまでもないでしょう。
しかしローマだけではなく、まさに西ローマが消滅した後に誕生し、成長し、分裂し、そして消滅していった
王国があります。「フランク王国」といい、5世紀に登場し、拡大を続け、9世紀に分裂し、やがて
消滅していきました。本日はこの「フランク王国」が東西に分裂した後に現れた二人の王を取り上げて、
彼らについてお話してみたいと思います。

はじめにお断りしておきますが、彼らはどう見ても英雄ではありません。華々しい活躍のお陰で
歴史に名を残した訳ではなく、どちらかと言えば、揶揄され、冷笑される王たちです。

東王国のカールは「肥満、太っちょ」と綽名され、西のシャルルは「単純」と綽名されました。
もちろん、どちらもいい意味ではありません。カールはドイツ語の表現、シャルルはフランス語の表現で、
奇しくも同じ名前ですが、さて、彼らは実際の所、どのような人物であったのでしょうか。


 この二人が登場するまでの歴史を簡単に振り返っておきましょう。

フランク王国には二つの王朝がありました。

第1王朝はメロヴィング朝と言います。
メロヴィックスなる人物を開祖としますが、この人物については名前以外、ほとんど分かっていません。
彼の時代(5世紀前半)には、有力な家がいくつかあって、一人の王が治める国とは言い難い状況であったと
考えられています。彼の孫にあたるクローヴィスが490年代にフランクを統一しつつ、外に向かっても
拡張を続け、隣接する諸国を征服し、アルプスの北側で最大の王国を建設し、511年に死去しました。
その後、彼の子たちが王国を分割し、緩やかな連邦を構成しながら支配を続けます。

610年代に王を補佐する、場合によっては代理する役職が設置され、7世紀を通じて、この役職者が
実力を蓄えていきました。

さらに100年後、この役に就いていたピピンなる人物がクーデタを敢行し(751年)、自ら王位に就き
第2王朝を開きました。カロリング朝と言います。ピピンはイタリア半島のランゴバルト王国を征服し、
ラヴェンナを教皇に寄進し(756年)、教皇庁と緊密な関係を結びました。この教会との提携政策は
彼の息子、カール大帝(シャルルマーニュ)に受け継がれ、彼がローマ皇帝位を継承(800年)することに
繋がっていきます。教会としては強力な俗人守護者が是非とも必要だったのでしょう。


 シャルルマーニュの子ルイ(ルードヴィヒ)敬虔帝は信仰篤き人物でしたが、早世するという強迫観念に
とらわれ、即位3年後、817年には早々に遺言を作成し、死後は子の間で帝国を分割すると定めました。
そのために彼の子たちは父ルイ存命中から相続争いを始め、840年にルイが死去すると、激烈な戦いを演じ、
多くの青年戦士を巻き添えにしました。

結局、843年から870年までに間に、帝国は3分され、東フランク(ドイツ)、西フランク(フランス)、
そしてイタリアの原型が形成されていくことになります。しかしこの後100年ほどの間にカロリング家は断絶し、
その姻族が各地の王位を継承していくことになりました。



東フランク王カール肥満王(位882-888年)

 さて、問題のカールです。初代東フランク王ルドヴィッヒの末子ですが、彼の事績を辿るには事実上
『フルダ年代記』に頼るしかありません。この唯一の史料が後世のカールの評価を決定しました。
そこで、この『年代記』の成立と編纂の事情を簡単に説明しておくことにしましょう。


『フルダ年代記』の記述は714年、メロヴィング朝の宮宰ピピン2世(カロリング朝を開いたピピンの祖父)が
死去した頃に始まり、カロリング朝3代の歴史を描き、分裂後は主に東フランク王国に焦点を合わせ、
901年ころ、王カール肥満死後の混乱期までを扱っています。


 全体のおよそ3分の2はフルダ修道院で編纂されたために、この名がありますが、830年以前の記述は
既存の『フランク王年代記』の筆写で、独自の記述はそれ以降の70年ほどの期間に限定されます。
しかも863年ころからは2ヶ所で別々に編纂されました。ひとつはマインツ大司教リュートベルトが指導し、
通例『マインツ続編』と呼ばれるもの。

今一つは896年までレーゲンスブルクで、その後はニーダーアルテイクで編纂されたために『バイエルン続篇』と
呼ばれるものです。

 『マインツ続編』は王が滞在する東王国の主要都市で編纂されたため、東王国の王たちを間近に見た
宮廷人の記録として、「王の歴史」を描いた正史であると評価されて来ました。

他方、『バイエルン続編』は「地方史」であり、王の事績もバイエルンに関係しなければ、言及されません。
そのために王の事績を跡づけるという目的からすれば、補助的な史料と位置付けられ、『マインツ続編』に
比べれば、あまり重視されて来ませんでした。つまり同時に編纂が進められた二つの続篇はそれぞれの性格が
非常に異なっている訳です。



さて、その『マインツ続編』を編纂したリュートベルトなる人物(生年不詳―889死)は863年から継続して
マインツ大司教を務める傍ら、870年から882年まで首席宮廷司祭として、ルドヴィッヒ・ドイツ王と
ルドヴィッヒ幼王の二世代にわたって仕えました。

ところが882年に幼王が死去し、カール肥満が即位すると宮廷を追われ、代わってヴェルチェッリの
リュートヴァルトが後任となりました。


 このリュートベルトの周辺で、すでに860年代から年代記の編纂が進められていましたが、882-887年の間は、
つまり宮廷から追放された後になりますが、リュートベルトが院長を務めるヴァイセンブルク修道院で、
彼自身が直接に編纂を指揮したとされ、『エステル記』のモルデカイや『列王記』のハマンのエピソードを引用し、
皇帝カールを辛辣に批判する文章を織り込むようになりました。


 もっともリュートベルトは修道院に隠棲するような性格ではなかったようで、883年にノルマン(ヴァイキング)が
ライン川を遡り、沿岸の掠奪を重ねた際には、自ら部隊を率いて彼らを撃退し、ケルン再建を行っています。
翌884年、ノルマンが今度は西フランクを攻撃し、ヘスバイなる土地で越冬しました。すると、明けて885年、
カール肥満はリュートベルトとフランク貴族ハインリッヒを伴って彼らを奇襲し、蹴散らした、
という記録がありますから、リュートベルトはかなり血の気の多い「聖職者」であったようです。


 887年カール肥満は宮廷司祭と尚書を預かるリュートヴァルトを解任し、その後任として、リュートベルトを
再登用します。リュートベルトはこの復活劇によって、皇帝に対する態度を大幅に変え、以後『マインツ続編』に
王カールの非難は見当たらなくなりますから、このマインツ司教は随分とはっきりした性格の持ち主であったと
言えそうです。


系譜.jpg


(2)につづく




文学部 史学科 教授 金尾健美





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2014年06月25日

アーネスト・サトウの見た幕末・明治(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学


第4回 『会話篇』に見る日本語



『会話篇』では、当時の日本の様子と共に、当時の日本語を観察することができます。

次の文には、今とは少し異なる日本語の使い方が見られます。3回目で紹介した練習問題12の火事の場面には、
次のような文があります。



12-23 Ano dozo^-dzukuri no iye' wa doko no uchi da ka, maru de' hinoko ga kaburu.
      あの土蔵造りの家は、どこの家だか、まるで火の粉がかぶる。

     Whose is that mud godown-built house ? It is quite covered with sparks.



 この「まるで」は、「まるでだめだ」や「まるでできなかった」のような否定的な内容の場合には全くの意味で
使用されますが、肯定文の場合は「まるで雪が舞うように」といった比況を表す場合に使用されることがほとんどです。
この文章は「土蔵全体が火の粉をかぶる」という意味となり、現代の感覚からすると少し違和感がある使用です。

ただ当時はこのような使用も普通に行われていたようで、
別の場面には「手水鉢の水がまるで凍りついてしまって」(練習問題22)や「着物を夜露でまるで濡らしました」
(練習問題24)という使い方が見られます。これらも練習問題12と同じ用法で「まるで」が使用されています。



練習問題14には、現代の使用には用例が見られない副詞「なかなか」の用法があります。

練習問題14は、サトウが使用人を雇うお話です。テキストの中には気の利いた使用人の話も出てきますが、
どうも最初のころサトウは、ずる賢い使用人に大分苦労をしたようです。


14-19 Kore', Torakichi! temei yu^be' doko e' itta.
      これ、トラキチ!てめい夕べどこへ行った。

      Here, Torakichi ! Where did you go last night ?||

14-20 Dokko e' mo mairi wa itashimasen'.
     どっこへも参りはいたしませぬ。
 
    
      Didn't go anywhere, sir.


14-21 Ikanai koto ga aru mono ka. Yo^ ga atte‘ yonda-keredo he’ya ni inai ja nai ka.
     行かないことがあるものか。用があって呼んだけれど部屋にいないじゃないか。

     Do you mean to say you didn't ? You know you weren't in your room
when I called you.

14-22 Hei, naruhodo, ano toki wa yu ni maitte' rusu de' gozaimashita.
      へい、なるほどあの時は湯に参って留守でございました。

      Now you say so, I recollect. I was out at the bath, sir, at the moment.

14-23 Baka ie'! yatsu kokonotsu ni do^ shite' yu ga aru mono ka. Sendatte'kara
iken mo tabitabi shita ga, ore' no iu koto wo sukoshi mo kikazu, amassae"
shiujin wo azamuku to wa futoi yatsu da.

      馬鹿言え!八つ九つにどうして湯があるものか。先だってから意見もたびたびしたが、
おれのいうことを少しも聞かず、あまっさえ主人を欺くとは太い奴だ。

      Stuff and nonsense ! There's no bath at one or two in the morning.
I've had frequent occasion to find fault with you of late, but you take no heed of what I say,
and, in addition, you try to deceive your master. You're an insolent fellow.



実際の場面を見ているような会話がテンポよく続いていくのが感じられるでしょうか。

さて、この次の文に「なかなか」という副詞が出てきます。

14-24 Tonda koto osshaimasu. Do^ shite', nakanaka uso wa mo^shi-agemasen'.
     とんだことおっしゃいます。どうして、なかなかうそは申しません。

     It's a dreadful accusation, sir. How could I ever tell you a lie ?

この「なかなか」は、やはり現代とは異なる用法で、否定を伴うと「決して〜ない」という強い否定を表す意味で
あったようです。今でしたら「なかなか会議が終わらない」のように、何かに時間がかかる様子を表す副詞として
使われますね。

 このように、『会話篇』では当時の日本語の機能や意味が異なる用例をいくつも観察することができます。

サトウの残した『会話篇』は、幕末の日本語の姿を伝える重要な資料でもあるのです。



<参考文献>
アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 『一外交官の見た明治維新』上・下巻 岩波書店(1960)
萩原延壽著『岩倉使節団 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄9』朝日新聞社(2000)
横浜開港資料館編『図説 アーネスト・サトウ 幕末維新のイギリス外交官』有隣堂(2001)




文学部 日本文化学科 教授 長崎靖子





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2014年06月12日

アーネスト・サトウがみた幕末・明治(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回 『会話篇』に見る日本


今回は、『会話篇』の内容を見ていきましょう。

『会話篇』には、サトウの日本での生活の様子が生き生きと記されています。


サトウは、横浜に滞在中、火事に遭遇します。これは1866年11月26日に起こった火事で、
外国人、日本人町のほとんどを焼き尽くす大火でした。

当時、サトウは領事館付通訳官に任命され、日本人町に居留していましたが、この火事により、衣類、家具、
そして多くの書籍を焼失しています。その生々しい様子が『一外交官の明治維新』の中に記述されています。



  「11月26日に横浜に未曾有の大火があった。外国人居留地の四分の一と、日本人町の三分の一が
灰燼に帰したのである。」




サトウは火事を見物にいきますが、そのうち自分の家が風下で危ないということに気が付きます。




私は踵をかえして我が家の方へ駈け出した。(略)
  最初に私の頭に浮かんだのは辞書の原稿の事だった。


           
『一外交官の見た明治維新』(上)より



文中の辞書というのは、後に日本側の通詞だった石橋政方とともに編纂した辞書の事です。
何とかこの辞書の原稿は無事で、この辞書は明治9年に出版されています(写真)。



アーネストサトウ2.jpg



   
アーネスト・サトウ 石橋政方編   『英和語辞典』第三版



 
『会話篇』では、火事の場面は次のように描かれています。       

12-1 O^, hansho^ no oto ga suru. Kaji wa dotchi no ho^ ka shira.
     おお、半鐘の音がする。火事はどっちの方かしら。

I hear the sound of the alarm bell, where can the fire be ?

12-8 Kore', abunai! ki wo tsukero. Awaa kutte' hinomi kara okkochiru to  ikenai zo.
     コレ、危ない!気を付けろ。アワア食って火の見から落っこちるといけないぞ。

      Here, look out ; take care ! You must n‘t fall down from the look-out
in your excitement.

12-12 Mada hike'shi ga de'-kiranai so^ de', matoi wo futte' to^ru.
      まだ火消ができらないそうで、まといを振って通る。

     The fire brigades have n‘t all turned out yet ; they still pass,waving their standards.

 
12-15 Kore', kozo^, kaji-baori wo dasanai ka. Cho^chin wa do^ shita.
      コレ、小僧。火事羽織をださないか。提灯はどうした。

     Boy, why don't you get out my fire-coat ? Where's the lantern ?

12-16 Ei, imaimashii, zo^ri no hana-o ga kire'ta.
     エイ、いまいましい。草履の鼻緒が切れた。

      Confound it, the latchet of my sandal has broken.



このように火事の現場における火消の様子、火事羽織のこと、また「アワア(泡を)食って」や「鼻緒が切れた」という
慣用表現がテキストの中に盛り込まれ、火事の現場に遭遇した様子が生き生きと描かれています。



 サトウは横浜の大火で多くの家財を失いますが、後にイギリス外務省に損害賠償を要求し、その一部(270ポンド)の
補償金を得ることができました。

サトウが提出した被害一覧には、「長靴(1足)」「靴(3足)」「正装用靴(1足)」また「帽子(6)」などの
身の回り品も載っています。『一外交官の見た明治維新』には



  「私はあわてて長靴(運悪く私の一番古いやつ)をはき、帽子をかぶって、急いで火災の場所を見
にかけつけた。
   (中略)
  日の暮れるころには、背負っていた数着の衣服が残っただけで、私は帽子までなくしてしまった。」



とあります。「一番古い長靴」や「「帽子までなくしてしまった」などの記述からは、身だしなみにこだわる、
いかにもイギリス紳士らしい様子を窺うことができます。



最終の回ではサトウの『会話篇』に見る当時の日本語についてお話します。



(4)につづく




文学部 日本文化学科 教授 長崎靖子




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2014年06月04日

アーネスト・サトウが見た幕末・明治(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



第2回 アーネスト・サトウの日本語研究



幕末の尊王攘夷が吹き荒れる中、サトウの日本での生活はさぞかし大変なことであったろうと思います。

しかし、サトウはそのような状況の中で貪欲に日本語を学び、通訳官として活躍していきます。
やがてサトウは、新たに訪日する通訳生のために会話のテキストを作ろうと考えるようになります。
そして出来上がったテキストが、『会話篇』(写真)と呼ばれる会話書です。

サトウが後に日本を回想して書いた『一外交官の見た明治維新』の中には、『会話篇』に関する次のような文章が
見られます。文中のミットフォードは、サトウの後から日本に来た通訳生です。




  「ミットフォードは、彼が以前に北京でシナ語を勉強した時のように、絶えず日本語の勉強に
没頭して、著しい進歩を見た。私は、彼の役に立てようと思って、一連の文章と対話を編纂
しはじめたが、これは数年後に『会話篇』という標題で出版された。」

                   


『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳 上巻 249頁 岩波文庫




また、サトウの日記をもとに、サトウの幕末期から明治初期までの活動を描いた萩原延壽著『遠い崖――
アーネスト・サトウ日記抄』には、次のような記述があります。これは1872年の秋、アストン(アストンはサトウと同様、
イギリス人で日本研究家)が、受け取ったサトウの手紙の訳です。




「わたしは例の練習問題集に多少の補足を加えて、これを印刷させる仕事に取り掛かっています。」
  (中略)




このサトウの本は、『ジャパン・メイル』紙が印刷し、前述の横浜のレーン・クロフォード書店から
1873年(明治6年)に刊行された『会話篇』(Kuaiwa Hen.Twenty-Five Exercises in Yedo
Colloquial. For the Use of Students, with Notes.2vols.)のことである。

『岩倉使節団 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄9』  300〜301頁
(朝日新聞1985年7月23日掲載 bP218) 萩原延壽(2000)





通常の会話テキストは型通りの文章からなっていることが多いのですが、サトウの会話テキストは、サトウが実際に
日本で体験した様々な出来事を題材にしており、大変生き生きした日本語を観察することができます。

サトウは通訳官の仕事をしていましたので、テキストの中には通訳者として必要な公的場面における改まった日本語も
入っていますが、その一方で日本での生活に必要な日本語、いわゆる日常的な会話に見るくだけた日本語をテキストの
中に入れています。

『会話篇』は、当時としては画期的な会話書であったといえましょう。

次回は『会話篇』の内容に迫っていきます。




アーネストサトウのノート.jpg



東洋文庫で複製された『会話篇』





(3)につづく

文学部 日本文化学科 教授 長崎 靖子




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2014年05月21日

アーネスト・サトウの見た幕末・明治

地域とともに活躍する川村学園女子大学






第1回 アーネスト・サトウと日本



幕末、日本の開国と共に諸外国から多くの人々が日本を目指してやってきました。

アーネスト・サトウもその一人です。


アーネスト・サトウ肖像.jpg



アーネスト・サトウ肖像

(Wikimedia Commons, the free media repository)





サトウという名前からすると日本人とのハーフではと思われがちですが、この苗字はイギリスにもあったようで、
上の肖像からも分かるように、サトウは生粋のイギリス紳士です。


サトウは18歳の時、日本の事が書いてある本(ローレンス・オリファントの書いた『エルギン卿のシナ、日本への
使節記』)を見て、日本への興味を駆り立てられます。

そして、当時たまたまイギリス政府が日本へ行く通訳生を募集していることを知り、これに応募し、
日本へ行く機会を得たのでした。



サトウは1862年(文久2年)から1882年(明治15年)までの約20年間、英国駐日公使館の通訳として、
日本に滞在することになります。その後、2回目に日本を訪れのは1895年(明治28年)年、英国駐日公使、
すなわち外交官として、1900年(明治33年)まで滞在しています。

      

さて、サトウがイギリスを旅立ったのは1861年11月のことでしたがが、その途中、中国に数か月間滞在しています。
これは当時の彼の上司が日本語を学ぶ前に中国語を学ぶ必要があるという考えであったためです。
サトウとしては一刻も早く日本へ行きたかったようですが、そんな訳でしばらく中国に滞在しなければなりませんでした。
横浜へ到着したのは翌年の1862年9月8日、生麦事件が起こったのは、サトウが到着してからわずか一週間足らずの
ことでした。



次回はアーネスト・サトウの『会話篇』についてお話します。



(2)につづく

※ミニ知識
妻は武田兼、息子は植物学者の武田久吉である。



satou fujinn.jpg



Takeda Kane,1870

(Wikimedia Commons, the free media repository)





文学部 日本文化学科 教授 長崎 靖子





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2014年05月15日

日本画っておもしろい(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(3)私の制作方法と作品



 さて日本画についてごく簡単に解説してきましたが、ここで私の作品制作についてご紹介したいと思います。

私の作品は制作方法が変わっていてこれを何と呼ぶかは別として、日本画から非常にたくさんの事を学び、
それを生かそうとしてきました。



竹内作品1.jpg




 
新潟県沖ノ原遺跡での制作     林の付近には縄文時代から使われている水源がある。





 私は作品を完成するまですべて屋外で制作しています。まず和紙や絹を地面に敷きます。

その土地の光、空の色、吹いている風、山、木、雲の流れなどを確かめるようにあるいは自分を溶かし込むように、
溶いた絵の具を即興的に乗せていきます。

じっと見つめること、絵の具を溶くこと、刷毛や筆を動かすことすべてが音楽を演奏するような一連の流れになって
いきます。

そして、もうできることはやったと思えた時、静かの画面に手を加えるのをやめ、その現場で一晩から丸一日、
自然に絵の具が乾くのを待ちます。

水分が蒸発して空に帰っていく間に、絵の具の粒子は画面の(その土地の)起伏に沿って微小な川を作って流れ、
これまた小さな湖に流れ込んだような痕跡を残して固定されます。



作品2.jpg







 可能な場合はその土地で土や岩石を採取します。簡略化した方法ではありますが絵の具を自作して制作に
使うこともあります。

現場の土でできた絵の具を使って制作すればより作品と土地との結びつきが強くなります。

 時には雨にあたって絵の具が洗い流されてしまう事もあります。文字通り自然の作用に委ねて出来上がるので、
私の作品はある意味で自然との共同作業の結果と言えると思っています。

一番よく制作する場所は埼玉県で友人と耕作している田んぼの脇ですが、最近は縁あっていくつかの縄文遺跡でも
制作させて頂いています。

いにしえの人と同じ場所から同じ山や空を眺めて制作していると、大地に立っている自分だけではなく、
そこにかつてその土地に関わった多くの人の歴史が横たわっていることを感じます。

彼らはこの景色をみて何をおもっていたのでしょうか。縄文時代は1万年を越えると言われています。

東日本大震災をはさんで岩手県の遺跡で制作させて頂きましたが、明らかに制作する側の気持ちが変わりました。

他の文明と違い、環境を破壊せず同じ土地に500年、1000年と生活し文化を継承し続けることのできた縄文時代の
自然との関わり方には学ぶべき点が多いと思います。そしてそれは完全に失われてしまったのではなく、
縄文以降の日本画を含めた日本文化の基底に姿を変えて息づいているのではないでしょうか。




作品3.jpg




乾燥中の作品





作品4.jpg





「沖ノ原 PM5:35 22/AUG 2008」 楮紙、岩絵の具、水干、アクリル、土、水 (200×342cm)







作品5.jpg




「湯舟沢PM6:30 20/MAY 2010」 綿布、水干、アクリル、金箔、土、水  (187×292cm)







作品6.jpg




「大満 PM5:22 8/FEB 2010」 綿布、水干、墨、アクリル、金箔、土、水 (188×320cm)







作品7.jpg




岩手県御所野遺跡での制作    後方に土屋根の復元住居が見える。






作品8.jpg




「御所野 PM6:15 10/SEP 2010」 絹本、水干、アクリル、金箔、土、水 (187×340cm)







作品9.jpg




「御所野 AM7:02 23/0CT 2011」絹本、岩絵の具、金箔、アクリル、墨、土、水 (200×540cm)







作品10.jpg




「大満 PM6:12 20/AUG 2012」 絹本、水干、金箔、アクリル、土、水  (135×188cm)






教育学部 幼児教育学科 准教授 竹内 啓




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2014年05月08日

日本画っておもしろい(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)日本画の材料




原料.jpg




 ところで日本画の制作には油絵とか水彩とは違った絵の具を用います。
天然の岩石を砕いて精製した岩絵の具のほかに土などを精製した水干絵の具、
朱や丹のような金属系の絵の具、墨、藍やコチニールといった染料があります。
また、金、銀などの金属箔、金属泥、その他、現代では多くの色数のある新岩絵の具、
合成絵の具もよく使われます。

これらを動物性タンパク質の膠(にかわ)で溶いて水で適当な濃度に調整して使います。

油絵、テンペラ、水彩などのほかの絵の具との大きな相違点はこの膠で溶く点です。

どの絵の具でも顔料を画面に定着しなければなりません。油絵の具は亜麻仁油、テンペラは卵、
水彩はアラビアゴム、アクリル絵の具はアクリル樹脂が使われています。

日本画の場合は膠なので日本画という言い方をしないで膠絵とか膠彩画と呼ぶ人もいます。


 この材料や技術は奈良時代以前に大陸から伝えられました。
当然中国や朝鮮半島など東アジアにはこうした画材で描かれた作品が長い歴史の中で数多く存在します。
しかしチューブ入りの画材とは違い、扱いが面倒なこの画材を現在でも盛んに使用しているのは日本のようです。

日本画の画材の魅力は天然の石、土などの美しさに加えて絵の具粒子の物理的特性を最大限、引き出せる点に
あります。



岩絵の具の粒子.jpg



 
 岩絵の具の一番の特徴は粒子の大きさによって明るさが違う点です。

簡単に言うと岩を砕いて粒子の大きさ別に揃えたものです。まず細かく砕いた岩を容器に入れ水を加えて撹拌します。

しばらくすると粒子の大きく重いものから順に容器の底に沈殿しはじめます。
一定の時間がたったら沈殿した岩を残して水をほかの容器に静かに移します。
沈殿して残ったものを乾かすとある範囲の大きさの揃った粒子を得ることができるのです。
移したほうの容器の水を再び撹拌して一定時間待つとさらに細かい粒子が沈殿します。
容器の水をまた次の容器に移し、沈殿して残ったものは同じように乾かします。

この作業を順次繰り返していきます。こうして採れたものを最初から順に並べると粒子が粗く
色の濃いものから細かく明るい(淡い)色になっています。

これは細かい粒子のほうが光の乱反射の量が多く、明るく見えるためです。

このように一つの岩石から15段階の粒子の大きさ、明るさの違う岩絵の具ができるのです。

粒子の大きな絵の具は筆で塗る際に塗りづらく、初心者にはなかなか均一に塗れません。
日本画で対象を描くときに陰影でなく形を平面的に表現することが多かった理由の一つには
この絵の具の性質があるかもしれません。

しかしこの粒子の物理的特性をうまく使うことによりほかの絵の具ではできない質感の表現も可能になります。




岩絵の具をつくる道具.jpg




一方、金、銀などの箔や泥も重要な画材です。

例えば12世紀中頃につくられた平家納経には砂子や截金といった高度な技法がふんだんに使われています。
また、安土桃山時代頃から全面に金箔を貼った上に描かれた豪華な障壁画、屏風などもつくられました。
光を反射するので室内を明るくする役割もあったようです。


 現代では化学的に作られた絵の具を含めるとあらゆる色を簡単に使うことができます。
しかし昔の絵師たちは数少ない種類の絵の具に染料を併用したり使い方を工夫したりして、
それでも素晴らしい作品を数多く作ってきました。


不便で手がかかる素材であるが故に独特の技術や表現が発達したのです。




箔はさみ.jpg



平家納経.jpg





(3)につづく

幼児教育学科 准教授 竹内 啓






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2014年04月24日

日本画っておもしろい

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(1)日本画とは



 みなさんは日本画と聞いてどんな絵を連想されますか。
ふすまや掛け軸に富士山、桜、牡丹、鳥などが描かれた絵を思い浮かべる方も多いと思います。
しかし日本画とは何かと聞かれたときに正確に答えるのはなかなか難しいのです。

岩絵の具という独特の絵の具を膠(にかわ)で溶いて和紙に描かれているとか、日本の伝統的なものが描かれているとか、
陰影よりも輪郭線と色面で表現されていることが多い、というような特徴らしきものはあります。

しかし岩絵の具やその技法は古代、大陸から伝わってきたものです。また表現の仕方はいろいろですし、
何を日本的とするかについては様々な考えがあるでしょう。日本画とは実にあいまいな呼び方なのです。

逆に日本画とは何かを考えることで日本の文化を考える手がかりにすることができます。

ここでは日本画を厳密に定義せずに日本の絵画というような大雑把なところから見てみたいと思います。




絵因果経(部分)8世紀前半



日本画1.jpg



普賢菩薩像(部分)12世紀中頃



日本画2.jpg





北野天神絵巻(部分)13世紀前半




日本画3.jpg







狩野永徳「唐獅子図屏風」(部分)16世紀後半




日本画4.jpg






尾形光琳 「紅梅白梅図屏風」18世紀はじめ




日本画5.jpg






 意外なことに「日本画」という言葉は明治政府がアメリカから招いたアーネスト・フェノロサが
1882年、それまで大和絵とか和画と呼ばれていた当時の日本の絵画を指してJapanese paintingと呼んだ言葉を
「日本画」と翻訳したのが最初でした。

フェノロサは急速な西洋文化の輸入により価値を失いつつあった日本美術の良さを説きました。

彼の教えに共鳴した岡倉天心はアジアを一つの文化圏と捉え、東洋の良いところを受け継ぎ伸ばしつつ
西洋の良いところも採り入れて、新しい絵画を創造しようと1889年に東京美術学校を開きました。

このグローバルな精神は現代にも通用する点があると思いませんか。

教官の橋本雅邦をはじめ、ここから横山大観、下村観山、菱田春草など多くの作家が出ました。

岡倉は騒動で美術学校を辞職し上記の画家達と日本美術院を設立します。
こうして浅井忠や黒田清輝らの洋画に対抗するかたちで日本画は発展していきました。




横山大観「夜桜」部分1929年(大倉集古館蔵)




日本画6.jpg







船田玉樹「花の夕」1939年
 



日本画7.jpg







福田平八郎「雨」1958年        



日本画8.jpg





高山辰雄「いだく」1977年




日本画9.jpg






       
奥村土牛「醍醐」 1972年          




日本画10.jpg





町田久美 2007年作品




日本画11.jpg






 大和絵や和画が日本画と呼ばれるようになってからは100年あまりですが、日本の絵画の流れは脈々と受け継がれ、
戦後70年近く経つ今日まで実に様々な変化を続けています。

高松塚古墳の壁画から狩野派まで明治以前の日本の絵画も広い意味で日本画の延長で考えてみてはいかがでしょう。 




(2)につづく


教育学部 幼児教育学科 准教授 竹内 啓









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2014年04月17日

港が語る東と西の物語(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第4回   おわりに


 今回の公開講座のテーマは、「東と西の世界」でした。

西の舞台(ルアーブル・ハンブルクレインジに属するコンテナ港)で活躍する東の役者(アジアのグローバルターミナル
オペレーター)について概観し、この現象が筆者の研究にどのような意味をもたらすかについてまとめてみました。

 ここでもハンブルクの独自路線を確認することができ、これまでの筆者の研究成果にまたひとつの事例が加わりました。

実は、朝倉世界地理講座にハンブルクと題する論文を執筆(初稿が終わった段階)していますが、
今回、公開講座のためにデータを整理したことで、また、少し研究が進展したと思います。

 そもそも港湾物流、特にコンテナの流動に興味をもって始めた研究でしたが、無意識のうちにハンブルクと
ブレーメンという2つのハンザ都市の生き方に限りなく引かれるようになってしまいました。

 筆者の研究は、西洋史・都市史などの研究成果を援用していますが、昨年、政治学を専門とする方々とも接点ができました。

共通するテーマであったようです。こうした繋がりはいつもインターネットを通して生まれており、ささいな研究成果にも
目をとめて下さる方々がいることに驚き、そして感謝しています。

 最後に、ハンブルクの美しい高級住宅地の写真をお目にかけたいと思います。これは、ハンブルクが自由港を確定した時に、
そこには人は住んではならぬという法律を制定したことをお話ししましたが、その時に、立ち退きを要請された
豊かな交易商人達が、新たに作った住宅地です。 




ハンブルクのアルスター湖畔にある高級住宅地



          


7みなと.jpg





※自由港から移転してきた豊かな交易商人がつくった住宅地である



文学部 史学科 教授 生井澤 幸子






       
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