2016年05月19日

「紫の物語」としての『源氏物語』(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)



 光源氏が、若紫の君に詠みかけた和歌は、作品の中にあまた詠みだされる和歌の中でも、特に著名なものです。「藤の花の色である紫色が、その根にかよっている野辺の若草」とは、平安時代の人々が、紫色を染める時に染料としていた、紫草を指しています。つまり、「若紫の君」とは、「瑞々しい紫草を思わせる女の子」という意味なのです。

紫草は、花や葉ではなく、その根が染料として使用されます。下の写真は、掘ったばかりの紫根(しこん/紫草の根)です。



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 この光源氏の和歌をもって、藤壺宮から若紫へと引き継がれる「紫のゆかり」が、読者にはっきりと示されます。




また、ここであらためて振り返り、藤壺宮や若紫を物語に呼び込む原動力となった、桐壺更衣に考えを遡らせてみましょう。光源氏の母親は、なぜ「桐」という植物を、その呼び名としたのでしょうか。

 実は桐もまた、下の写真のように、紫色の花なのです。


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『源氏物語』のほぼ同時代に記された、清少納言による『枕草子』には、以下のような描写があります。

【『枕草子』第一二五段「木の花は」】
桐の木の花、紫に咲きたるは、なほをかしきに、

【現代語訳】
桐の木の花が、紫色に咲いているのは、やはり情趣があるものであって、



 「紫」という色彩を介した、藤壺宮と若紫の「ゆかり」を認めたとき、おそらく平安時代の『源氏物語』読者たちは、桐の花も同じく紫色であることに思い至ったでしょう。桐壺更衣が、なぜ「桐」壺更衣だったのかを、この時点で初めて認識するのです。つまり「紫のゆかり」は、『源氏物語』の作者である紫式部が読者たちに投げかけた、大掛かりな「知的謎かけ・知的遊戯」とみることができるのです。



【資料出典】
・ 小学館 新編日本古典文学全集『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』。ただし現代語訳は、解説の便宜上、私訳を織り交ぜた。

【主要参考文献】
・ 荒木良雄「源氏物語象徴論―特に女性の呼び名について―」(『国文学 解釈と鑑賞』第13-3号、1948年3月)
・ 伊原昭氏『平安朝文学の色相―特に散文作品について―』(笠間書院 1967年)
・ 拙著『平安朝文学における色彩表現の研究』(風間書房 2011年)
・ 鈴木宏子氏『王朝和歌の想像力―古今集と源氏物語』(笠間書院 2012年)
・ 原岡文子氏『源氏物語とその展開―交感・子ども・源氏絵』(竹林舎 2014年)


文学部 日本文化学科 講師 森田直美






2016年04月21日

「紫の物語」としての『源氏物語』(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(3)

 10代後半の光源氏は、報われることのない藤壺宮への恋に煩悶する日々を送っていました。そんなある日、流行り病の療養のために訪れた北山で、光源氏は一人の少女に出会います。それが若紫の君、のちの紫の上です。

【本文】
十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て走り来る女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

【現代語訳】
十歳くらいかと見えて、白い下着に山吹襲(やまぶきがさね)などの着なれた表着(うわぎ)を着て走って来た女の子は、大勢姿を見せていた他の子供たちとは比べものにならず、成人後の美貌もさぞかしと思いやられて、見るからにかわいらしい顔だちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔は手でこすってひどく赤くして立っている。



 周りの子どもたちと見比べると、紛れようもなく血筋の良さが感じられる少女に、光源氏の目は引きつけられます。その少女の顔かたちは、焦がれてやまない藤壺宮にそっくりなのです。後々分かることですが、この少女は、藤壺宮の姪なのです。つまり、「他人の空似」であった桐壺更衣・藤壺宮とは違い、藤壺宮と少女には血縁(ゆかり)があるのでした。

 さて、一目で若紫を見初めた光源氏は、紆余曲折の末に彼女を自邸へ引き取り、養育するようになります。若紫は、お顔立ちがかわいらしいだけではなく、とても頭の良い少女でした。書も和歌も、砂が水を吸収するように、瞬く間に上手になっていきます。そんな若紫の様子に心から満足した光源氏は、ある日彼女にひとつの歌を詠み贈ります。

【本文】
手に摘みていつしかも見む紫の根にかよひける野辺の若草

【現代語訳】
早くこの手で摘み、そばで眺めたいものだ。(藤の花の色である)紫色が、その根にかよっている、野辺の若草のような少女の美しさを。





(4)につづく

文学部 日本文化学科 講師 森田直美





2016年04月04日

「紫の物語」としての『源氏物語』(2)

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(2)

 桐壺更衣は、桐壺帝に寵愛を受けたことで周囲に疎まれ、幼い光源氏を残して他界します。更衣は、桐壺帝に最後の別れを告げる際、以下のような和歌を詠んでいます。

「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり」

【現代語訳】
「これを今生の限りと、お別れしなければならない死出の道が悲しく思われるにつけて、私の行きたいのは生きる道のほうでございます」

 実は、この場面に至るまで、作中に桐壺更衣の言葉や和歌は、一度も記されていません。
 夫である帝との今生の別れに、初めて記された更衣の和歌は、温和でか弱い彼女のイメージから考えると、とても強い、きっぱりとした詠みぶりです。まさに末期の絶唱と言えるでしょう。
 この和歌を皮切りに、「紫のゆかり」は動き出します。


さて、桐壺更衣を亡くし、桐壺帝はなかなか悲しみから立ち直ることができません。その姿を見かねた周囲は、更衣に顔かたちがそっくりな、先帝四の宮(藤壺)を入内させます。

【本文】
藤壺ときこゆ。げに御容貌(かたち)ありさまあやしきまでぞおぼえたまへる。これは、人の御際(きは)まさりて、思ひなしめでたく、ひともえおとしめきこえたまはねば、うけばりてあかぬことなし。

【現代語訳】
藤壺と申しあげる。いかにもお顔だち、お姿が、不思議なまで亡き更衣に似ておいでになる。このお方は、ご身分も高いだけに、申し分なくご立派で、どなたも貶め申しあげることがおできにならないので、何の気がねもなく堂々とふるまっておられる。

 桐壺更衣に「あやしきまでぞおぼえたまへる(不思議なまでにそっくりな)」藤壺宮の入内によって、桐壺帝の心は次第に慰められていきます。そして光源氏は、時々ものの隙間から、ちらと目にした藤壺宮の美しさに心惹かれ、やがて彼女を思慕するようになります。しかし、父親の后である藤壺は、どんなに恋い焦がれても、決して手の届かない女性です。

(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 森田 直美




2016年03月16日

「紫の物語」としての『源氏物語』

地域とともに活躍する川村学園女子大学






「紫の物語」としての『源氏物語』(1)

 日本文学史上屈指の名作であり、世界初の本格的な長編小説である『源氏物語』。

 この物語を、平安時代の人々は、「紫の物語」、「紫のゆかり」などと別称していました。
たとえば、『源氏物語』から50年ほど後に著された、菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ)の『更級日記』に、
以下のような記述があります。

菅原(すがわら)孝標女(たかすえのむすめ) 作『更級(さらしな)日記(にっき)』の一節

【本文@】
紫のゆかりを見て、つづきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず。
【現代語訳】
『源氏物語』の紫の上にまつわる巻を読んで、その続きが見たくてならなかったが、人に頼むことなどもできなかった。

【本文A】
紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかなる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。
【現代語訳】
ここは、『源氏物語』に宇治の姫宮たちのことが書かれているのを、いったいどういう場所柄ゆえに、ここを選んで住まわせたのだろうと、以前から一度は見たいと思って


 なぜ、『源氏物語』は、「紫の物語」と呼ばれるのでしょうか。
 それは、この作品の根幹を形づくっている、以下の3人のヒロインに由来しているのです。


桐壺更衣…源氏の母親。桐壺帝の寵愛を受けるが、光源氏が3歳の夏に他界する。
藤壺宮…先帝の四の宮。桐壺更衣に瓜二つ。桐壺帝の后となる。
紫の上(若紫)…藤壺宮の姪。幼少期、光源氏に見初められ、引き取られる。



(2)につづく


文学部  日本文化学科  講師  森田 直美




2015年10月28日

日本の美術にみる色彩と文化(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





V.北斎・広重のプルシャンブルー



江戸時代中頃、ベロ藍と呼ばれる美しく鮮やかな青色の化学染料が初めて販売された。

その名は当時プロイセンの首都であったベルリンに由来したようで、ベロリンとの名も書見されます。そもそもベロ藍は別の合成化学染料色を抽出作成するための製造過程で、誤って偶然鮮やかな青色が生れたといわれており、近年は色の呼称を“プルシャンブルー”の名称で示されることが多くなっています。

田中優子氏は著書「江戸はネットワーク」(平凡社ライブラリー633、平凡社)の中で、宝暦13年(1763年)発行の『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)において、平賀源内が「ベイレンブラーウ」として紹介し、数回開かれた薬品会に実物が出品されたらしいと指摘しています。   

また秋田藩主の佐竹曙山が著わしたヨーロッパ絵画のマニュアルにも、プルシャンブルーに関する記述があり、日本に輸入され始めた頃は大変に高価な染料で、御用絵師でもない限り、浮世絵師の手に入ることはなかったようです。


江戸時代の後半になると、上方も江戸も庶民の暮らしが向上して、手の届く値段で買える浮世絵に人気が高まります。初期の浮世絵は墨一色の墨摺り絵でしたが、やがて黒と朱を用いた「丹絵(たんえ)」が登場します。さらに赤や緑の色を少し入れた「紅摺り絵(べにずりえ)」によって飛躍してゆき、さらに美しい色彩の絵が求められる中で、江戸では鈴木春信による多色刷りの錦絵が登場しました。浮世絵は一層の人気を得た。春信の作品には、藍色が効果的に用いられたものがあります。

プルシャンブルーは高価なため浮世絵に用いられませんでしたが、やがて中国が量産に成功したことでアジア諸国へ広まり、幕末近くになると日本でも出回るようになった。文政12年(1829年)、「藍摺り絵」の絵師として人気を集めた溪齊英泉が、浮世絵に初めてプルシャンブルーを使用したといわれ、数枚の板を用いて濃淡(グラデーション)を出すと、それまでにない鮮やかな青の色を団扇や浮世絵に表現し始めました。(図−1)。


江戸時代の後期は旅のブームが起こり、武家も庶民も日常の暮らしを休み、社寺参詣などを理由にして泊りがけの旅に出ることが大きな夢となりますが、必然的に日本の名所や各地の風景が美しく描かれた浮世絵の風景に人気が集まり、大いに期待されてゆきました。初めに手懸けた英泉の浮世絵には、江戸市中における風景の定番である富士山、お城、日本橋がしばしば描かれ、富士山は遥か遠くに雪を戴いた姿がプルシャンブルーを用いて、一際巧みに描かれています。(図−2)


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図−1                        図−2 
溪齊英泉 仮宅の遊女                 溪齊英泉 江戸日本橋より冨士を見る図
天保6年(1835年) 千葉市美術館            天保前期(1830〜44年)江戸東京博物館
プルシャンブルーに魅せられた英泉             定番の江戸風景、富士・城・日本橋



同時代の巨匠・葛飾北斎は風景に限らず、あらゆる森羅万象を描いていますが、特に70歳を越えてから仕上げた「富嶽三十六景」にはプルシャンブルーがふんだんに用いられ、その鮮やかな青色に、19世紀印象派の画家をはじめ、多くの芸術家が魅せられました。さらに「千絵の海」、「諸国名橋奇覧」、「諸国滝巡り」、「百物語」といった他の北斎作品群でも、鮮やかな青色が画面に満ち溢れています。初代歌川広重も、「東海道五十三次」、「名所江戸百景」等、数々のシリーズものにプルシャンブルーを巧みに活かし、江戸っ子の粋と爽やかさに満ちた独自の世界を作り出して、さらに人気を博します。(図−3〜8)


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図−3                        図−4 
葛飾北斎 千絵の海 五島鯨突             葛飾北斎 諸国名橋奇覧 摂州天満橋
天保4年(1833年頃)東京国立博物館          天保4〜5年(1833〜4年) 山口萩美術館
長崎五島列島の捕鯨大漁法を描く            プルシャンブルーも一文字の黒もお洒落




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図−5                       図―6 
葛飾北斎 神奈川沖浪裏              初代歌川広重 東海道五十三次 箱根湖水
天保2年(1832年頃)メトロポリタン美術館      天保4〜5年(1833〜4年)浦上コレクション
 世界の誰もが知っている日本の絵          色面分割の大胆さはゴーギャンの絵に影響




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図−7                        図―8 
初代歌川広重 名所江戸百景 猿若町の夜       初代歌川広重 近江八景之内 唐崎夜雨
安政3年(1856年)神戸市立美術館          天保4=年(1833〜4年)中山道広重美術館
  月明りの人影と西洋遠近法の奥行           真っ直ぐに降る雨、黒の格調ある美





                   参考文献・資料
T.徳島・阿波藍の歴史と文化
  田村善昭著『日本の藍―染織の美と伝統』 日本放送出版
  小笠原小枝著 『染めと織の鑑賞基礎知識』 至文堂 1990年     
大滝義春著『着物のふるさと・染色めぐり』 グラフィック社 2010年
U.古伊万里・有田の染付の魅力
  藤原義近編集『ガラスと染付』TheあんてぃーくVol.7号
  鈴田由紀夫監修『有田焼の歴史』DVD 佐賀県立九州陶磁文化館制作
V.北斎・広重のプルシャンブルー
  福田英雄編集 『太陽浮世絵シリーズ 広重』 平凡社 1975年
  田中優子著 『江戸はネットワーク』 平凡社 2008年 



教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元
  



2015年09月28日

日本の美術にみる色彩と文化(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界ー



U.古伊万里・有田の染付の魅力



佐賀県有田市は日本の磁器誕生の地で、伝わるところによれば江戸時代初期に朝鮮半島から来た李三平という人が、鍋島藩内の有田泉山(図−1)で白磁土を発見し、器の成型と焼成に成功したと云われています。


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図1 泉山採石の様子
 


鎖国の時代、長崎の出島にてオランダや中国との貿易が始まると、様々な物資とともに中国景徳鎮の優れた磁器が舶来し、その影響を受けて有田の磁器はいよいよ発達してゆきます。やがてオランダ東インド会社との交易が盛んになり、有田焼はヨーロッパでは通称“Imari”と呼ばれて、王侯・貴族たちに好まれました。

有田窯の当初は李氏朝鮮風でしたが、やがて中国の呉須(コバルト)による青い絵付「青花(せいか)」を模倣して、花・風景・祥瑞・吉祥文などの染付を生産してゆきます。
やがて17世紀後期になると白磁に青一色の染付のみならず、白磁に赤などの鮮やかな色絵付けを施した柿右衛門様式が登場、色絵付けと染付を組み合わせた技法「染錦手(そめにしきで)」による完成度の高い磁器をも生産し始めます。(図−2)(図―3)


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図2景徳鎮の青花大皿
(県立九州陶磁文化館)

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図3 染付白鷺図三脚皿
(県立九州陶磁文化館)




17世紀のヨーロッパ貴族はバロック趣味であり、豪華絢爛なものを好むことを注文主のオランダから知ると、有田では早速中国の青花芙容手皿、器にみる大柄な意匠等を手本として、より華やかな金襴の染錦手を工夫して注文に応じてゆきました。このことはいかにも日本人の融通無碍を心得た機敏さを表していて、大変興味深いところです。

先年、佐賀城と鍋島家の徴古館、及び佐賀県立博物館、県立九州陶磁文化館、有田赤絵町の今泉今右衛門窯、肥前鹿島市の鍋島木版更紗の鈴田滋人工房を訪ねました。このことにより鍋島藩には伝統的な武家の美意識の高さと、優れた産業振興育成策を常に発揮し、現在においても佐賀県の文化には、独自性とその感性の豊かさを見ることが出来ます。

平成24年8月、筆者知人の鈴田滋人氏(鍋島木版更紗・人間国宝)より紹介を頂き、御用釜で色鍋島の伝統を継承する有田赤絵町の今泉今右衛門窯と今右衛門古陶磁美術館2ヶ所を訪ねて、14代今右衛門氏より直々に鍋島の磁器についての解説をして戴きました。また九州陶磁文化館においては、館長の鈴田由紀夫氏が各展示室の案内と解説をして下さり、館長が作成の“九州陶磁の歴史”の映像を頂き、より深く学習する機会を得ました。(図―4)(図―5)(図―6)


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図4 染付風車文皿 鍋島様式
(今右衛門古陶磁美術館)

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図5 柿右衛門様式・色絵梅鶯文皿
(今右衛門古陶磁美術館 )

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図6 古伊万里・源右衛門窯
   (県立九州陶磁文化館)




九州陶磁文化館内に特別展示されている柴田夫妻コレクション展示は、古伊万里の染付を中心に数千点の寄贈作品で構成されていました。呉須(コバルト)を用いた初期伊万里の名品もよく揃い、その量と質の高さに驚くばかりです。それらの染付の絵柄には唐草・青海波・亀甲・吉祥文字そして何と言っても蛸唐草文様の皿や壺が多いのには驚きました。そば猪口の数量の多さにも目を見張るものが有り、その猪口の楽しさも感じました。正に染付は庶民の器そのものと云えます。

ちなみに西洋で磁器の生産が始まるのは、Imari(輸出伊万里)がヨーロッパの貴族たちに競って購入された頃より30年が経ってからです。やがて“カオリン”と呼ぶ白磁土が見つかり、磁器の生産が始まりますと、最初はドイツのマイセンがその焼成に成功します。時代はシノワズリー(中国趣味)でしたが、特に日本の染付が好まれて手本となり、伊万里の色絵柄も数多く模倣されました。やがて各国では西洋磁器の新しい技法も工夫されて、イギリスをはじめとしてヨーロッパの諸国で様々な展開を見せてゆく事になります。(図―7)


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図7 色絵桜樹群馬文八角壺、広口瓶 (有田焼成)
  (県立九州陶磁文化館)




やがて、鍋島藩は御用窯を大川内に築くと、朝廷と幕府への献上品と鍋島家の調度品としての用途以外には一切外に販売することのない高級磁器、即ち“鍋島”を製作し始めました。初期鍋島には染付の小皿などに優品を見ることができますが、その特徴はどこか素朴な温かみを感じる良さがあります。淡青ともいえる染付が美しい。絵柄には白鷺、桃,兎などをはじめ、小動物や果実、草花、風車などがあり、呉須(コバルト)の青と白でシンプルに色分けして表現しています。染付の中には墨を吹き付けたような「吹き墨」と呼ばれる技法が見られ、初期鍋島の特徴の1つになります。(図―8)(図―9)


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図8 色鍋島 岩牡丹文 
  (戸栗美術館)

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図9 鍋島・吹き墨技法
  (県立九州陶磁文化館)
 



元禄期の“色鍋島”は日本の色絵磁器の最高峰と言えるでしょう。そもそも外様大名であった鍋島家は武家の格調と高い美意識による高品質な磁器の生産に力を注ぎ、毎年新しい色鍋島を朝廷と将軍、徳川家へ献上してゆきます。この誰も真似することの出来ない最高級の磁器を、鍋島家の誇りと藩の存亡をも考えた最重要な品物として考えていたと思います。

今回、公開講座で用いた図像資料は、九州陶磁文化館長の鈴田由紀夫氏より戴きましたもので、それを存分に用いる事ができたことは誠に幸いでした。改めて感謝申し上げたい。


(3)につづく

教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




 
            

2015年09月14日

日本の美術にみる色彩と文化

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界―

 
    
「日本の美術にみる色彩と文化」―青の世界―
T徳島・阿波藍の歴史文化  U古伊万里・有田の染付の魅力 
V北斎・広重のプルシャンブルーの3つのテーマを選びました。

T、Uは実際に現地に赴き、資料館、専門の作家および研究者を訪ねて学んだこと、
Vでは浮世絵の展覧会にて鑑賞して、多くの美術書籍、参考文献等から参照しました。

ここでは、川村学園女子大学公開講座での内容に加え、
本年、再び徳島を訪ねて撮影した写真と新たに研究した事柄も加えて、≪青の世界≫をテーマの話をいたします。


T.徳島・阿波藍の歴史と文化


日本の藍染めの歴史について、「日本の藍―染織の美と伝統」(田村善昭著、日本放送出版)の序文「庶民の藍・永遠の藍」(北村哲郎氏筆)には「魏志倭人伝に正始4年(西暦243年)、倭国から絳箐(こうせい)の縑縑(かとり)、すなわち赤や青に染めた絹織物が献上された」とあり、その歴史の古さを知らされます。

日本の藍染めでとりわけ有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、現在の徳島県山間部にいた忌部氏の藍に染める衣料にはじまると云われており、古文献では平安時代の村上天皇の御世に著された『阿州藍草貢々記』に“阿波の藍を最勝とする”と記されています。

鎌倉時代中期ごろから戦国時代には吉野川流域に藍栽培が広がりはじめますが、やがて天正13年、蜂須賀家政が阿波に入国すると、領地となった吉野川流域が砂地であり、温暖多雨な土地の為、毎年、河川の氾濫により肥沃な腐葉土が大量に畑へ流れ込み、藍栽培に適した地であることを知ります。

しかし藍の収穫において農民は毎年吉野川の氾濫に苦しみ、堤防を築いて欲しいと要望しますが、全く叶えられず長年にわたり苦労して土地に生きてきました。
ただ、城のある武家町側には早くから堤防が造られています。

明治時代になると藍栽培はますます盛んとなり、明治36年には作付面積が全国の過半数にまで広がり栄えますが、明治末期になると安価なインド藍と合成染料の輸入により、徳島のみならず日本の藍産業は衰退の一途をたどる事になりました。

昨年と今年の夏に徳島市藍住町にある「藍の館」資料館を訪ねました。
ここは江戸時代の大藍商旧奥村家の屋敷内に建つ資料館で、徳島の阿波藍の歴史と藍製造の技を詳しく知ることができます。藍住町および近隣の上板町周辺地域は、吉野川流域のなかでも蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中していて、この地区は“すくも”(藍玉ともよばれる)を造る、藍師又は水師と呼ばれる匠の人たちが暮らしています。

「藍の館」では藍染の着物、夜着、布団、暖簾、風呂敷、武具、調度等が数多く展示され、さらに写真及び見事な和紙人形による、蓼藍栽培の風景と“すくも”造り、大藍商人の様子などを良く理解することが出来ます。
特にここでは蓼藍の葉を深い甕に入れて発酵させて、藍染料となる「すくも」に関する生産過程を詳しく藍師佐藤昭人氏が記していて、阿波藍の歴史・文化についてより関心を深めることができます。


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(図1)藍の館(旧奥村家)

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(図2)藍の館(藍染めのきもの)

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(図3)蓼藍の葉(夏に2回収穫)

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(図4)藍染め(和紙人形で再現)




             
今日、天然藍染めの商品を製造する全国の工房の多くは、藍住町、上板町で生産された「すくも」を使用しており、そのシェアーはおよそ90%にもなるといわれています。

江戸時代の農業全書全十巻(宮崎安貞著)には、人々に必要な植物として“三草四木”という考え方があり、三草は麻・藍・紅花叉は麻・藍・木綿、四木は桑・茶・楮・漆とされ、藍が選ばれています。日本では古代より高い身分の人しか身に着けることを許されない「禁色(きんじき)」が各時代にありますが、“藍の色”は誰もが自由に使用できました。

そして武家においては“勝”につながるとして、藍染めでは最も濃い染めの“褐(かち)色”を好まれて、現在でも剣道の稽古着は、藍染めが防菌・防臭にもなる事もあり多く使用されています。そして薄い藍染めの色は“甕のぞき”といい、以降は色の濃くなっていく順に浅葱色、縹(はなだ)色、藍色、紺色、そして褐色と呼ばれます。




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図−5 藍染の色名 




江戸時代になると木綿の生産が各地で広まり、きもの、ゆかた、半纏、足袋、暖簾、布団、風呂敷など、特に庶民は藍染め物を生活の中で様々に用いてゆきます。

明治時代に来日した小泉八雲の日記には、出会う人々の衣服や店に懸けられた暖簾など、あらゆるものが紺色であることに驚く記述があり、この一文により当時の様子がすぐさまにイメージされて、不思議と何処か遠い明治の面影が思い浮かんできます。

ところで、徳島市藍住町から吉野川沿いを上流に向かって、高速バスで30分ほど行くと美馬市脇町が有ります。ここは伝統的重要建造物群地区とされ、江戸時代中期から明治時代中期頃にかけて、藍商人達が商をして暮らした、“うだつのある町”として知られる古き町並が約400m続き、白壁の蔵・うだつ・虫篭格子の日本建築が美しく、阿波藍が長くこの地を繁栄させてきたかを知らされます。


荻原図6.jpg 荻原図7.jpg 荻原図8.jpg
  
        
図―6 、図―7、図―8   藍商人により栄えた脇町・うだつのある伝統的重要建造物群



(2)につづく


教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




2015年07月30日

音コミュニケーション(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(2)音楽療法の実践的研究も行いました。



目的: 即興を用いた能動的音楽療法の効果を検討。

方法: 実験協力者 適応指導教室に通う不登校児童とスタッフ

手順: コップを用いた即興演奏の音楽療法を実施する前後に質問紙調査を行う。
  実験協力者は、音楽療法の意図を十分に説明され、同意した上でインフォームドコンセント用紙に署名して参加した。


図3



蓑下図3.jpg




 図3のように、音コミュニケーション実施後は、より笑顔になって、調子も良くなっています。
それでは、音コミュニケーション(即興的作曲療法)を体験した適応指導教室に通学中の児童の感想を紹介しましょう。


、コップで演奏をしてすごくたいへんでした。キレイな音のだし方やたたき方コップでもこんなにキレイですごい音がだせるなんてびっくりしました。自分の番ではきちんとやってなど、コップでもピアノなどの楽しいようなえんそうができて楽しかったです。アイコンタクトでえんそうするときは他の人の目をみたりしてえんそうしておもしろかったです、かえるのえんそうはりんしょうをして後からついてくるようにえんそうしたりおもしろかったです、ピアノとあわせてえんそうしたのもすごく楽しかったです。ピアノのえんそうもとてもキレイな音で心が晴れたような元気になりました。はじめる前は元気がなかったけどやってみたらすごく元気がでました。

、一つ一つのコップの音が違うので初めは驚いたけれどとてもきれいにひびき楽しく笑顔で演奏することができました。これからもっと良くなっていくのが楽しみです。またやりたいと思いました。やっているときに自然と笑ってしまったり、気持ちが良くなってきてやって良かったです。これからも頑張ってください。

、楽器じゃなくてコップを使って曲を演そうしたのが楽しかった。自分の番を忘れてしまいそうなときに友達が教えてくれたりして助かったし、うれしかった。自然と笑える場っていいなと思った。

、みんなと合そうができて楽しかったです。でもコップの音がどうしてなるのかとふしぎに思いました。

、今日は音楽療法を勉強できてよかったです。自分は音楽でドラムを習っているのですごい楽しかったです。


以上のように、登校拒否状態にある児童もアイコンタクトを遊びの中でやることで、普段「人と眼をあわせるのが怖い!」から「人と眼があうと安心するし、愉しいかも?!」に変化していくことがあるという体験ができました。そこで、以下のようにまとめました。




音コミュニケーション
  音をつかった人と人とのコミュニケーション


@アイコンタクト
 対人恐怖ぎみの人も、必要のためにアイコンタクをしてみる
          ↓
       怖くない→いえ、むしろ楽しい?
          ↓
 アイコンタクトで生まれる心のつながり

A共同作業
 いっしょに何かやることで、生まれるワクワク♪
       ↓
 集団ってもしかしたら、そんなに嫌なことじゃないかも???
       ↓
 いつもより周りの人が優しくみえるなあ、、、。

B創造性
 ワクワクすることで生まれる独創性♪
       ↓
 あれ?自分にもできる???
       ↓
 自分らしさの取り戻し。→自己実現(byロジャース)

Cチャレンジ精神
 怖いこともやってみると楽しい♪
       ↓
 あれ、最初は怖くても何とかできるかも???
       ↓
 克服→「人生は冒険」 (byロジャース)



                        
来談者中心療法のロジャース

全ての人は自己実現する力をもっている。不適応な状態にいても、自分で克服する事ができる。カウンセリングは受容的に聴いて行くことで本人の立ち直る力を回復させる。

自己実現:自分らしくのびのびと生きる力

人生は冒険:日々人は危険をおかして前に進んでいく。   



これからもいろいろな方たちに音コミュニケーションを体験していただこうと考えています。


    
文学部 心理学科 教授 簑下成子





2015年06月25日

音コミュニケーション

地域とともに活躍する川村学園女子大学





音コミュニケーション


高齢者施設をはじめとしたグループ療法のひとつに音楽療法があります。音楽療法にも色々あり、音楽を聴く方法や演奏を取り入れた方法で、受動的音楽療法と能動的音楽療法があります。

受動的音楽療法では、静かな環境をととのえ、名曲を聴いて浸らせます。能動的音楽療法では、以下の手法があります。

@高齢者施設などで行われる唱歌の合唱など
A様々な楽器の演奏、手足を使った、簡単なリズム遊び、など
B作曲療法などです。

対象となる人たちは、健康なにとから、不登校児童、高齢者、入院患者、精神障害者等です。

高次脳機能障害者へのピアノを用いた音楽療法では、記憶障害が改善されたという報告もあります(熊本,2003)。

左半側空間無視という、頭を打つ事故の後の障害で、右側しか歯磨きできなくなった人も音楽にあわせてリズムにのって行うことで、歯みがきできるようになった例もあります(甲谷,2004)。

海外の研究では、不安、うつ病、認知症だけでなく、認知機能(作業能力、判断能力、情報処理能力)が改善し、生活の質(QOL)もよくなった報告があります(ブラックバーン,2014)。

ブラッドは、がん患者30名に集団的に作曲療法を試みて、患者の感情表現が豊かになって、リラックスできるようになり、自分らしさを取り戻せたといいます。(ブラッド,2014)。

 精神的な症状では、家庭や職場に復帰するときには、ひとつひとつの症状よりも普段の人付き合いが重要になってきます。そのためには、能動的な音楽療法の作曲療法が特に効果を発揮します。

即興を用いた能動的音楽療法の一例(簑下ら,2012による)

ウォーミングアップ
1.ウォーミングアップ後、キラキラ星、かえるの歌。
2.コップと水を用いた即興的な能動的音楽療法
1オクターブ分の8名で、それぞれの音階になるように水を入れたコップを持ち、バチで叩くことによって演奏し、コミュニケーションをとりながら即興演奏する手法です。

参加者は、スタートの人からアイコンタクトをとった人へと次のコップを叩く人を廻していき、8つ全ての音階が奏でられるように工夫します。3回繰り返すと、一定のメロディが聴こえてくるので、ピアノで伴奏をつけて楽曲を完成させます。コップを叩くリズムや回数、音階の順番を変えることである程度無限のメロディが生まれます。




         
 図1.即興的作曲療法の方法



蓑下図1.jpg










蓑下図2.jpg





   図2.音コミュニケーションを取り入れた音楽療法を実施している
健常大学生たちとピアニスト渡辺かづきさん。
トーンチャイムでアイコンタクトしながらメロディを作っていきます。



(2)につづく




文学部 心理学科 教授 簑下成子




2015年06月10日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(4)



 皆さんよくご存じの「十二支」。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、ですが、これをこの順序で、アナログ時計の文字盤に当てはめていって下さい。

 子を真上(12時)にすると、丑が1時、寅が2時…午が6時…亥が11時、ということになりますね。

 そしてその、子丑寅卯…が書き込まれた文字盤を、方位を示す羅針盤に見立てるとどうなるでしょう。子(12時)が真北、卯(3時)が東、午(6時)が南、酉(9時)が西というように見立てることが出来ます。

 詳しい説明は省きますが、戦国中期においては「子から未が生まれ、未から寅が生まれ、寅から酉が生まれ、酉から辰が生まれる」とされました(ちなみにこの段階では、ネズミとかヒツジとかトラといった動物とは全く関連がありません)。これは楽器の音階を調律する時の音楽理論に関わるもので、従って当時の人々にとって十分科学的なものでした。

 この子(12時)・未(7時)・寅(2時)・酉(9時)・辰(4時)の各方位に、水・火・木・金・土という五行がそれぞれ当てはめられました。それはやがて単純化され、「北=水、南=火、東=木、西=金、中央=土」と当てはめられます。


 方位の次は色彩です。

 北は太陽が隠れる方位、南は太陽が最も高まる方位。というわけで、北=水には黒色、南=火には赤色を当てはめます。そして東=木に植物の色である青、西=金に金属の色である白、中央=土は土壌の色である黄色が、それぞれ結びつけられました。


 季節だってすぐ想定できますね。
 北=水は冬であり、南=火は夏です。当然、東=木が春で、西=金が秋で…あれ、中央=土はどうしましょう。

 土が象徴する季節は、春夏秋冬のそれぞれの終わりにやってくる、とされました。四分割されて春夏秋冬の後ろにくっつけられたわけですね。

 五行説はこのような自然界の事象について説明を可能としました。そして、それを凌駕するような体系だった説明は当時存在しませんでした。

 しかも古代にあっては、自然界の現象と人間界の政治はひとつながりのものと認識されていました。だから前回述べたとおり、董仲舒は歴史上の出来事を五行説で説明し、王朝交代も五行にのっとって展開するとされたわけです。

 ここまで来れば、なぜ漢王朝のシンボルカラーが赤、魏王朝のシンボルカラーが黄色だったのか、もうおわかりでしょう。漢王朝は火徳、魏王朝は土徳とされていたからです。

 世界史をしっかり勉強した方なら、後漢王朝が成立する前の「赤眉の乱」をご存じでしょう。眉を赤く染めて反乱軍のメンバーの目印としたからその名がありますが、なぜ赤く染めたのかといえば、いったん滅亡した漢王朝の復活を願って起こされた反乱だからです。

 それと逆なのが、三国志ファンならおなじみ、後漢末期の農民反乱「黄巾の乱」。黄色い頭巾が反乱軍の目印でしたが、それは彼らが「打倒漢王朝=新しい世の中の到来」を目標にしたからで、「赤の次の色」である黄色をシンボルにしたのです。

 こうして、五行説は世の中のあらゆる事象を説明する理論として、社会の隅々まで浸透していきました。

 そして隋唐の時代には、遣隋使・遣唐使を通じて日本に伝えられます。日本では当時、隋唐をモデルとした国家を建設していましたから、奈良・平安時代の社会と国家について調べれば、多くの場面で五行説の影響を見て取ることが出来ます。

 なぜ、平安京の南の入口は「朱雀門」である(「朱」の字がつく)のか。もうおわかりですね。

 日本でも五行説は社会に深く浸透して中世近世へと至ります。中には当然、日本独自の文化の中に組み込まれたものもあります。

 わかりやすい例は、例えば「大相撲の土俵の上で、天井からたれ下がっている房の色は青赤白黒である」。土俵(土=黄色)を中心として考えれば、おわかりですよね。




高津 last.jpg







 山手線には「目白」と「目黒」駅があり、東京に慣れてない人から紛らわしいと言われたりするのですが、あれは「目白不動」「目黒不動」というお寺の名前から来ています。

 実は江戸東京の街には、他にも「目赤不動」「目青不動」「目黄不動」も存在するのです。もし全部駅の名前になっていたら、大変でした(笑)。

 「土用」という言葉をご存じですか。今では「土用の丑」という、うなぎがバカ売れする日についてのニュースぐらいでしか聞かなくなりました(「土用波」なら聞いたことある人もいるかもしれません。夏の終わりに日本を襲う高波のことです)。

 この「土用」とは本来は、春夏秋冬の後ろにやってくる、土が象徴する季節を指します。だから年に四回あるわけで、うなぎで有名なのは正確には「夏の土用の期間内の丑の日」ということになります。

 現代日本で「漢方」として継承されている東洋医学のルーツはもちろん中国医学ですが、その基本は体調のバランスを整えて健康な身体を作ることにあります。病気の治療も当然行いますが、それは対症療法というよりは、バランスが崩れたものを回復させるという発想でした。

 そこでは、人体とは小宇宙であり、自然界の延長にあると考えられました。

 となれば、当然五行説の出番です。身体の部位、臓器、分泌液、味覚や感情など、あらゆる要素が五行に配当され、それらは相互に関連づけられていきました。

 現在、陰陽五行について調べようと思ったとして、例えばグーグルで検索をかけると、そこに挙げられる情報の大半は東洋医学関係のものです。つまり、現代日本でも東洋医学の世界では、五行説が現役の理論として生きているのです。

(了)



文学部 史学科 教授 高津純也




2015年05月25日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(3)

 「木・火・土・金・水」がこの世界の基本元素だというのは何となく理解できますが、決まった順序で交代し循環する、というのはどういうことでしょうか。

 戦国時代中期の『尚書』洪範篇の記述では、基本元素は「一に水、二に火、三に木、四に金、五に土」という順序で挙げられていますが、その順序になっている理由は明確でありません。まあ、何となくこの中では水と火が他以上に重要そうですけどね。

 鄒衍は、「木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち、水は火に勝ち、土は水に勝つ」という説を唱えます。つまり「木→金→火→水→土→木→金…」と循環することになる、というわけです。

 
 イメージできますでしょうか。

  木は、土を破って生えてきます。
  金属は、木を簡単に切断します。
  火は、金属を溶かします。
  水は、火を消し止めます。
  土は、水をせき止めます。
 という、「どちらが勝つか」比べをするとこうなる、という説明を加えたわけです。

 この「木→金→火→水→土→木→金…」という順序で循環する、という理論のことを、「五行相勝説」(もしくは「五行相剋説」)と呼びます。

 そして鄒衍は、彼の時代までに成立した中国の王朝をこの説に当てはめます。 

 「夏王朝は木徳、殷王朝は金徳、周王朝は火徳をそれぞれ天から授かって地上を支配した。従って、周の次の王朝は水徳である」と。

 このような発想は、周王朝の命運が風前の灯火となっていた戦国後期に生きた鄒衍ならではかもしれません。いったい天下の行方はどうなるのか、全ての知識人の関心事だったのですから。

 こうして、水・火・木・金・土という五元素は、単にこの世の物質を全て作っているという自然科学的な説明にとどまらず、中国を支配する王朝のあり方をも理論づけるものとなりました。この考え方に従い、周の次に中国を支配した秦王朝−ご存じ始皇帝によって天下統一が果たされました−は水徳であり、さらにその滅亡後に建国された漢王朝は土徳である、とされました。


 そして前漢中期(紀元前1世紀)になると話はさらにエスカレートします。

 董仲舒(とうちゅうじょ)という学者がいました。彼は陰陽五行説を導入し、歴史書に記されている、日食や干ばつといった天変地異の原因を、同時期の政治的事件で説明していったのです。

 天変地異と政治的事件とを関連づけることは、古くから行われてきました。例えば「○王が暴君だから、ひどい洪水が起きたのだ」「×国の当時の殿様が寛大だったので、この時期は豊作が続いたのだ」といった具合です。

 董仲舒はそこに陰陽五行説を持ち込んだわけです。五行は決まった順序で交代し循環しますから、そこにうまく歴史上の事件を当てはめることが出来れば、「ほら、こういう結果になったのは必然だったのだよ」と説得できます。

 これが21世紀の現代であれば、いくら見事に説明したって、うさんくさい「トンデモ本」として笑われるのがオチです。

 しかしそれは、五行説以上に説得力のある近代以降の自然科学の世界を、我々が学んでいるからです。そんなものが存在しなかった古代において、五行説以上に全てをうまく説明する理論はありませんでした。


 ところで、「木・火・土・金・水」がどういう順序で交代するか、という点については、鄒衍と別の考え方をする人もいたようです。

 木から火が生まれる(←木は容易に燃える)。
 火から土が生まれる(←火が消えた後には灰が出現する)。
 土から金が生まれる(←金属は土の中から掘り出される)。
 金から水が生まれる(←金属製品の表面には結露する)。
 水から木が生まれる(←木は水を吸収して生えてくる)。
 という、「どれからどれが生まれるか」を見極めるとこうなる、という説です。

 つまり、「木→火→土→金→水→木→火…」という順序で循環する、という理論になります。こちらの理論のことを「五行相生説」と呼びます。

 董仲舒の時代からしばらく経った前漢後期には、こと王朝交代については五行相勝説より五行相生説で説明する方が主流となりました。そこで、漢王朝は土徳ではなく火徳である、そして漢の次の王朝が土徳である、という説明になりました。




高津5.jpg






 こうして、後漢の時代(紀元1〜3世紀)には、陰陽五行説は、自然界・人間界を問わず、あらゆる事象を説明する理論として隆盛を極めました。

 しかし、そんなに何でもかんでも五行で説明できるものでしょうか。
 次回、いくつかの事例をご紹介しましょう。


(4)につづく




文学部 史学科 教授 高津純也




2015年05月11日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)



 『尚書』洪範篇と相前後して、万物の根本となるいくつかの元素とその特徴を説明することで、この世界の基本法則を解き明かそうとする記述が、いくつかの文献に見え始めます。やがて、挙げられる元素が水・火・木・金・土に固定していきます。最も説得力があったということでしょうね。

 「この世界は水・火・木・金・土という五つの元素から成り立っている」「それぞれ特徴的な性質があるのだから、それに従って上手に利用することこそ、事をうまく運ぶための基本である」という五行説の基本が確立すると、それより先に成立していた、「万物には陰と陽という二つの側面がある」という陰陽説と容易に結びつきます。こうして成立したのが「陰陽五行説」というわけです。


 紀元前に栄えた古代文明で、「この世をつかさどっている根本は何か、万物の全てを形作っている元素は何か」という原理を探求した…ということですぐ思い起こされるのは、古代ギリシアの哲学者たちでしょう。

 万物の根源は「水だ」「数だ」「火だ」「原子だ」と、多くの学者が多彩な学説を遺しました。タレス、ピタゴラス、ヘラクレイトス、デモクリトス…。中には、現在から見ても「鋭いなあ」と唸らされるような記述も少なくありません。




タレス2.jpg       デモクレイトス.jpg





 それにわずかに遅れる形で、ギリシアの存在すら知らない遠方の古代中国にも、似たような思索をする人々が出現した、ということです。

 ただし五行説の特徴は、単に自然界の法則、万物の根源を解明するという点に留まらず、人間の精神的営みである感情や「徳」も五つの要素からなる、と守備範囲が非常に広かったことです。この王朝のシンボルカラーはこれだ、という話もそこから出てきます。

 『尚書』洪範篇の後段には、
 「雨・日照り・暖かさ・寒さ・風、という五つの徴候を重視せよ。これらがバランスよく、順序を違えずやってくれば、豊作になるのである。逆に一つだけが多すぎたり少なすぎたりすると、よくない結果となる。王が慎ましやかなら適度に雨が降り、王が物事をよく治めれば適度に日照りがあり、王が聡明なら適度に暖か、王が明敏なら適度に寒く、王が万事に通ずれば適度に風が吹くのである」とあります。

 
つまり、農耕民族であった古代中国の人々にとって最も重要だった気候・天候の善し悪しは、為政者である王の行いの善し悪しに懸かっているのである、と説くわけです。
 
このように五行説は、そのスタートの段階から、自然科学と政治思想とを結びつけるものでした。


 戦国時代後期(紀元前3世紀)、斉(せい)の国(今の中国東部、山東省あたり)に、鄒衍(すうえん)という人物が現れます。この人の著作は残っていませんが、現在に伝わるいくつかの古典文献に、鄒衍はこんなことを説いた、という記述が残っています。

 
それによれば…
 「この世には『木徳』『火徳』『土徳』『金徳』『水徳』という五つの徳がある」
 「そして各王朝は、それらの徳の一つと結びついている」
 「これらの徳は循環する。王朝が交代するごとに、徳も次へ次へと移ってゆく(五回王朝が交代すれば元に戻る、ということになる)」


 …なんだかよくわかりませんね。

 
そもそも、「徳」って何なんでしょうか。「徳」に種類があるってどういうことでしょうか。

 
我々が「徳」という単語でイメージする用法といえば、「あの人は人徳がある」とか「徳の高い殿様」とか、そんなカンジですよね。つまり、人柄のすばらしさ、周囲から尊敬されるような立ち居振る舞い、といったイメージ。


 『広辞苑』(第五版)で「徳」を引くと、「@道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。」とあります。これは、我々が普通に考える「徳」の説明ですね。


 しかし実は、中国で2000年も3000年も前にこの単語=漢字が誕生した当時、この語には「立派だ」とか「善い」とかいう評価や、「行為」とか「性格」とかいう意味は、全然含まれていなかったんです。


 もともと、この「徳」という単語は、「人を動かす『目力(めぢから)』」を指すものだったのです。
 現在なお「目力」という言葉があるように、人が強いまなざしを何かに向けるとき、その視線にはパワーがある、と何となく思ったりしますよね。まるで、目からビームが出て相手を射貫くように。

 
呪術とかオカルトとかの世界がもっと身近だった古代では、なおのことそう信じられていました。人の視線には、その先にあるものを攻撃したり癒やしたりする力が宿っている、と。「徳」という漢字のうち、左側の「ぎょうにんべん」と右下の「心」を取り去った右上部分は、もともと「目からビーム(?)が出ている」姿をかたどったものです。


 だから「善い」とか「立派だ」とか、そういう道徳的な評価とは関係なかったんです。何かこう、もっと超自然的なパワーを指すものでした。


 「徳」とはそういう意味であったという前提で、もう一度上述した鄒衍の説を見直してみましょう。何となく、今度はイメージできる気がしませんか。


 五種類の、超自然的な力。
 それはそれぞれ、木・火・土・金・水というこの世界の基本元素と結びついている。

 この人間社会を支配する存在=王朝は、その超自然的な力を味方に付けているからこそ、社会を支配できるのである。そのパワーを失えば、王朝は滅びる。そして、次の種類のパワーを味方に付けた王朝が、新たに誕生する。…



 鄒衍の説のもう一つの特徴は、その五種類の徳は決まった順序で交代し循環する、という点です。次回はその点から見ていきましょう。


(3)につづく


文学部 史学科 教授 高津 純也




2015年04月29日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−

地域とともに活躍する川村学園女子大学







(1)

 「シンボルカラー」「シンボルマーク」
 …みなさんよくご存じですよね。何か一つ、色や紋章を決めておいて、それによって自らを象徴するということは、どんな時代でも地域でも、個人やチームや企業、そして国家や王朝が行ってきたことです。

 源平の合戦なら、源氏は白旗、平家は赤旗。

 サッカーのナショナルチームなら、フランスは青、オランダはオレンジ。

 徳川家のシンボルは三つ葉葵の紋章、皇室のシンボルは菊の紋章。キリスト教のシンボルは十字、イスラームのシンボルは三日月。…いくらでもありますよね。




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 古代中国でも、王朝ごとにシンボルカラーが決まっていました。例えば漢王朝は赤。そして漢(後漢)の滅亡後に成立した魏(三国時代)は黄色でした。

 しかし特異なのは、そのシンボルカラーはその王朝が独自に決めたものではなく、その王朝が成立する前から決定されていたものだと言うことです。将来、今の王朝が滅亡したら、次の王朝のシンボルカラーはこれだ、と。

 新しい王朝を立てる人と言えば、かなりの英雄か、そうでなくても相当の権力者に決まっています。そんな権力者をもってしても変更できない、運命づけられた王朝の色。…どうやって決められていたのでしょうか?
 それを決めていたのが、古代中国で「万物を貫く基本法則」として広く浸透していた、「五行説(ごぎょうせつ)」という理論なのです。

 「五行説」…名前ぐらいは聞いたことあるでしょうか。

 日本では、「陰陽五行(いんようごぎょう)」という熟語となって知られているかもしれませんね。何となく、平安時代あたりの、占いとかオカルトとか妖怪変化とか、ファンタジーの世界を連想する方も多いかもしれません。

 この「陰陽五行」とは、「陰陽説」と「五行説」という二つの理論が合わさって出来た言葉なのです。どちらも、世の中の全てを説明する基本法則として信じられてきました。

 「陰陽説」の方がわかりやすいですかね。「万物は、全て二つの相反する要素(陰と陽)から成り立っている」ということです。天と地。右と左。プラスとマイナス。光と影。雄と雌。暑さと寒さ。…なるほど。どれをとっても、その片方だけが存在するということはあり得ません。

 では今回のテーマ、「五行説」はどうでしょう。

 それは、「万物は、全て五つの要素からなり、その五つは循環するように交代していく」という理論なのです。

 五つとは、例えば色なら、青・赤・黄・白・黒。

 例えば方角なら、東・南・西・北・中央。味覚なら、酸っぱい、苦い、甘い、辛い、しょっぱい。など、無数にあります。

 それらの根本となっているのが、この世界を形成しているとされた五つの元素である、水・火・木・金・土なのです。

 この五つが「循環する」とはどういうことか、その点は後回しにするとして、とりあえず「万物は水・火・木・金・土という五つの元素から成り立っている」という五行説の根本となる考え方は、いつごろ成立したのでしょうか。

 正確にはわかっていませんが、このことについて記している文献で最古のものが、いわゆる四書五経の一つである『尚書』の洪範(こうはん)篇であることは定説です。そしてその成立は、戦国時代中期(紀元前4世紀半ば)ではないかと言われています。

 そこには、古代中国の伝説の聖王である禹(う)が、世の中をうまく治めるために必要な基本原理について天から啓示を受けたことが語られています。その基本原理とは人間の行いや性格、国家の官職など9つの分野にわたります。

 その中で筆頭にあげられているのが、水・火・木・金・土という五つの元素のことです。「まずは『五行』である。一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である」と紹介した上で、「水は流れ下り、火は燃え上がり、木は曲がったり伸びたりし、金は形を自在に変え、土は種をまき収穫するのを助ける」と、それぞれの性質が説明されます。この性質をよく理解して活かすことが重要だ、というわけです。

 この「水・火・木・金・土こそ、万物の根源だ」は、五行説の初歩中の初歩。次回は、そこからどう展開していったかを見てゆきます。


(2)につづく



文学部 史学科 教授 高津 純也




2015年04月06日

金色の夢―オリエントの失われた黄金(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



古代オリエントのイメージと黄金(2)


 金に関する有名な史実のひとつは、リュディアの金貨のはなしである。リュディアは世界で最初に純金金貨を発行したとされるところである。金貨はただの金とは異なりかなりの技術力を必要とするし、純金ということは明らかに精錬技術が進歩したことを示している。

というのも、金は銀との合金(エレクトロン)の形ででることが多く、金製品といわれるものも、エレクトロンであることが多いからである。また貨幣は流通するにあったって、その保証を担保する権威が必要である。





金貨.jpg



エレクトロン貨(Electrum )





リュディアが紀元前6世紀にはその保証ができるほどの繁栄した大国になっていたこと、また経済規模が金貨の支払いを可能にするほど拡大していたことがあきらかである。

 紀元前6世紀のリュディア王クロイソスは、そのような条件をクリアできるほどの力を持ち世界で最も裕福な人といわれたほどの王であった。彼は信仰するアポロンの聖地デルフォイに多くの金製品や金貨を貢納したといわれ、その痕跡は今も残っている。

彼の裕福さはその後、彼がペルシア帝国を立てたキュロス王に敗れて、王国を失ってからも、彼の孫にあたるピュティオスは、世界最大の富豪と言われ、クセルクセス王にペルシア戦争の戦費を賄うと申し出たほどの富を所持していたという。つまりクロイソスの富は孫の代まで引き継がれるほどの伝説的なものであったといえる。





クロイソス.jpg


クロード・ヴィニョン画『リディアの農民から貢ぎ物を受けるクロイソス』(1629年)




 金貨は実は高価すぎて普通の買い物に使われることはない。どこに使うかというとまず神殿への貢納、賄賂、または戦費の支払いである。ペルシア帝国もリュディアにならって金貨を作ったがその利用は上記に限られていたから、これが正しい金貨の使い方であったといえるのだろう。その点ではペルシア戦争の戦費の支払いをかってでたピュティオスは所有する金貨の正しい遣いかたを示しているといえよう。

 トゥタンカーメン王の金の遺物に代表されるエジプトの金ほどに有名ではないにしろ、金が重要視されない世界はない。オリエントはその代表的な世界であった。しかし喧伝されたオリエントの金を産出した金鉱も取り尽くされてしまっては、如何ともしがたい。最近の考古学の調査が地道ではありながら、金を手掛かりにオリエントでいかに採掘や精錬の技術が発達したか、またその流通経路や経済規模を明らかにすることで、事実に基づいた歴史研究を展開してきた。

金のもたらす本当の夢はそこにあるのではなかろうか。



川村学園女子大学名誉教授  山本 由美子




2015年03月18日

金色の夢―オリエントの失われた黄金

地域とともに活躍する川村学園女子大学






 古代オリエントのイメージと黄金

 古代オリエントとはギリシアからみて東のすべてつまりアジアといわれる地域であるが、彼らの地理感覚からいえば、せいぜい現在の中近東とエジプトなどの地中海南岸をさしたものであった。アジアにはギリシア人の植民都市もあり、交易や使節の往来、また戦争捕虜などでの人的交流には事欠かなかったが、一般の人にはやはり遠いところで、未知の神秘的かつ憧れの地であった。




古代オリエント1.jpg




ギリシア人はすでにアジアの地中海沿岸の各地に植民都市を築いていたが、直接アジアの大国と接したのは紀元前5世紀のペルシア戦争を挟んでのことだった。ペルシア戦争は一応ギリシア人の勝利に終わったことになるが、その後も、アジアの富裕さと巨大さはギリシア人を圧倒した。ギリシアの神話や伝説に痕跡を残しているオリエント世界は、理解の範疇を超え、想像を絶するほど豪奢な世界とされている。



 近代に入って盛んになった考古学的発掘の成果も、すぐれた金細工品や高度に発達した都市文明の遺跡など、これまでのオリエント観を確認するものであった。しかし過去に金を産出するといわれたオリエント各地のエジプトやアナトリアにおいて現在金は産出していない。掘り尽くしてしまったものと思われる。世界の金の現存量はほぼ17万5千トンといわれている。それほど希少とも思えぬ金はなぜ富と同一視されることになったのであろうか。

 金の特質はやはりその輝きであろう。それを美しいと見るかは個人の自由だが、光に目を奪われることからいえば目立つことは確かだし、太陽という生命の源とも同一視されうる。錆びにくいがために変質しにくいことから永遠とか永続性を象徴しやすい。さらに柔らかいため加工がしやすいので、あまり技術力がなくとも大小さまざまの装飾品や備品として作られる。金を手に入れることは富、権力などを取り入れることと同一視された。


 このような金に取りつかれた人の例は古来枚挙に暇がない。オリエントに関して最も有名なエピソードの一つはフリュギアのミダス王の話だろう。フリュギアはアナトリア半島の中央部にあった国でその首都はゴルディオンといわれた。その町の南部にトモロス山があり、そこからパクトロス河がゴルディオンにむけて流れていた。この山に金があり地震のあったのち金が河に流れ落ち砂金となって、パクトロス河でとれるようになったとみられる。このフリュギアの紀元前8世紀ころの王がミダス王であったという。ミダス王はバッカス神への特別なサーヴィスの結果望みをひとつかなえてもらえることになった。彼は金が大好きだったので、自分が触れるものがすべて金に変わるようにと願った。その力を楽しんでいた彼はおなかがすいても食物が金に変わってしまって食べられないことに遅まきながら気がついて(または、自分の娘を抱き上げようとしたとき、娘が金に代わってしまったので)、その力を取り除いてもらったというはなしである。




ミダス王の墓2.jpg



The Phlygian Tomb of Midas, Midas Sehri, 8th century B.C.





 ゴルディオンの砂金はまもなく金鉱からの採掘にうつったようで、近年のハーヴァード大学らの調査により、その採掘跡とみられる遺跡も発見されている。しかし精錬などの技術的な発展はいまだ解明されたとはいえない。



(2)につづく


教育学部 幼児教育学科 教授 山本由美子





2015年03月09日

平安の調べを聴く―雅楽の響き―(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




平安の調べを聴く ー雅楽の響きー


◆4



 15〜16世紀の断絶によって、雅楽はどのように変わったのでしょうか。

 まず挙げられるのは、謡い物の断絶です。本来雅楽には催馬楽・朗詠・東遊など豊富な歌謡が付いていました。しかし江戸時代初期にはそのほとんどが伝わっておらず、17世紀、徳川家光の頃に僅かに復曲がなされたことがわかっています。

さらに雅楽の変容を具体的にうかがわせるのが、18世紀、松平定信によって書かれた『俗楽問答』という書物です。江戸幕府は儒学を重んじる立場から、儀礼音楽としての雅楽を重視しました。しかし断絶後の雅楽は、古い書物と異なる点が多かったため、定信は幕府首脳の立場から当時の雅楽を批判しています。現代語訳で掲げます。


  演奏を荘厳にしようと思って、節奏なくただむやみに引きのばして吹き、鞨鼓・太鼓・舞までも、拍子に合う演奏を野暮とみなし、筝なども(メロディをかなでる)左手を用いてこそ全体の演奏に合うはずなのに、今はそれも省き、いかにも面白くない演奏を高尚な演奏であると心得ている。(このために雅楽を聴くと)普通の人間はただ眠気を催してしまうのである。

ここからは、江戸時代、雅楽が既に間延びした退屈な音楽になりつつあったこと、その背景に、テンポを遅くすることが高尚なことと考えていた楽人の姿勢があったことがうかがえます。また、筝の左手が用いられなくなっているという指摘もなされています。筝(いわゆる「お琴」)や琵琶は本来メロディを奏でる楽器でしたが、現行の雅楽ではときどき「ポロロン」「ベベン」とかき鳴らされる程度で、メロディは奏でられていません。こうした変容が15〜16世紀の断絶によって起こったことが推測されます。

さらに他の箇所で定信は、かつては行われていなかった新たな舞の所作が加えられていることも批判しています。秘伝化によって、細かな所作が付け加えられているのだと思われます。このように『俗楽問答』の記述からは、雅楽の著しい変容が見て取れます。それにしても、松平定信ですら「眠気を催すのみ」というのですから、雅楽のコンサートでついつい寝てしまう私などにしてみれば、なんだか心強い気もしてきます。




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 By 松平定信(自画像) (鎮国守国神社(三重県桑名市)) [Public domain], via Wikimedia Commons



 さて、それではもともとの雅楽は、どれくらいのテンポで演奏されていたのでしょうか。これについては、音楽学の研究者が平安時代の楽譜をもとにいくつかの復元案を示しています。復元の仕方によって幅がありますが、おおよそ現行の4倍から10倍速で演奏されていたとされています。何度か復元演奏を聴かせてもらったことがありますが、琴や琵琶のメロディを入れて10倍速にすると、とてもポップで華やかな感じになります。これなら確かに眠くはならないし、このテンポにあわせて舞うのですから、舞楽のイメージも今とはだいぶ違ったと思います。


 
 雅楽のテンポについて見てきましたが、実は近代になっても変容は続いています。そのことは、日本最古の雅楽録音からうかがえます。明治36(1903)年、ガイズバーグという技師が日本の様々な音楽が録音したものが残っています。お聴きになりたい方は『全集日本吹込み事始』というCDで市販されていますが、この中に越天楽の演奏が含まれています。この録音演奏を分析した寺内直子さんによると、現行の3倍速で演奏されており、一息で演奏されるフレーズも今よりかなり長かったということです。定信以後、近代になっても、雅楽は遅くなり続けているのです。

 雅楽のテンポが遅くなっていく現象には、いくつかの要因が考えられます。たとえば雅楽の楽譜にはテンポ記載がないため、伝承が途絶えるとテンポがわからなくなること。また、秘伝化に伴って細部へのこだわりが増した結果、長大化した可能性などです。しかし最も重要なのは、定信が「演奏を荘厳にしようと思って」と看破していたように、儀礼音楽としての重々しさを志向する楽人たちの役割意識だと思います。江戸時代に雅楽が重視されたことは既に述べましたが、近代にも宮中の「伝統」音楽としての意識が働いた結果、無意識のうちにテンポが遅くなっているのではないでしょうか。


 以上、かなり駆け足で古代から近代まで雅楽の歴史を追ってきました。「伝統文化」としての雅楽が、歴史的にみると実はかなり変容してきていることがおわかりいただけたかと思います。「伝統」は決して超歴史的なものではなく、社会の変動に対応しながら文化を伝えようとする人々の努力、あるいは国家や「家」やコネのために文化を利用する人々の思惑によって、形や機能を変えていくものと言えるのではないでしょうか。


〔参考文献〕
・別冊太陽『雅楽』平凡社、2004
・荻美津夫『古代音楽の世界』高志書院、2005
・福島和夫『日本音楽史叢』和泉書院、2007
・福島和夫「日本音楽史研究の現在と王朝文学」(『平安文学と隣接諸学8 王朝文学と音楽』竹林舎、2009)
・寺内直子『雅楽の〈近代〉と〈現代〉』岩波書店、2010


文学部 史学科 講師 辻 浩和




2015年02月25日

平安の調べを聞く −雅楽の響きー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





平安の調べを聞く −雅楽の響きー 

◆3

 11世紀から12世紀にかけて、様々な階層で「家」が成立します。「家を継ぐ」「家が絶える」という時の、あの「家」です。「家」とは、簡単に言うと「家業」を世襲する単位であり、多くの場合、父から嫡男子への直系単独相続によって「家」が継承されました。歌舞伎などの「家」を思い浮かべていただくとイメージしやすいかもしれません。

 雅楽の「家」が成立し始めるのもこのころです。身分の低い楽人たちの中から、右方舞の多家や左方舞の狛家、笙の豊原家などが生まれました。公卿・貴族など身分の高い楽人たちの場合は少し遅れますが、やはり琵琶の西園寺家や和琴・謡い物の綾小路家などが成立しています。


 
 さて、「家」は「家業」を世襲する単位です。「家」の存在意義は、「家業」を行うことにあるわけです。とすれば、「家」が安定的に存続していくためには、独自性を保ち、他家との差異化をはかる必要があります。「その仕事はうちじゃないとできません。他の家では無理ですよ」ということが出来れば、その「家」の存在価値は高まるわけです。

 雅楽の「家」では、差異化のために技術や楽曲の秘伝化が行われました。秘伝というとなにやらアヤシク聞こえますが、大きく分けると3つあります。

1つ目は秘曲です。珍しい曲、あるいは同じ曲でもめったに演奏されないバージョンなどです。

2つ目は演奏技術です。例えば13世紀に狛家で書かれた『教訓抄』という書物には、「万秋楽」という曲を演奏する時は、第2帖(楽章)の終りを延ばし、第3帖の始めを縮め気味に演奏しなさいという秘伝が載せられています。かなり実際的な演奏指導といえるでしょう。

以上の2つは何となく理解しやすいのですが、ちょっとわかりにくいのは3つ目の作法・所作です。直接雅楽の演奏とは関わらない儀式作法が雅楽の秘伝として伝えられています。例えば13世紀の『雑秘別録』という書物には「さらゐつき」という秘伝が出てきます。

長々と書かれていますが、要するに貴人の前を通る時、膝をついて挨拶をする所作の事です。私たちの目からはどうでもいいことのように思えますが、こうした所作が「秘蔵の事」として重々しく扱われたのです。このように、他家との差異化をはかるために、非常に細かな秘伝がどんどんと量産されていきました。



 秘伝は秘密にすることに意味があります。ですから、秘伝は嫡子など限られたものにしか伝えられません。そのことは一方で、嫡子がいない場合や夭折してしまった場合、雅楽の才能が無い場合などに相伝が絶えてしまう危険性を高めます。

 こうした秘伝の脆弱性が強く表れたのが、内乱期でした。まず14世紀後半の南北朝内乱では、貴族や武家が二つに分かれて争ったため、様々な分野で「家」の断絶が大きな問題になりました。永享4(1432)年に足利義教が「楽道再興」を宣言したのは、雅楽=楽道の伝承が途絶えつつあったためと考えられます。

 この時はどうにか雅楽の伝承が保たれたようですが、さらに深刻な危機をもたらしたのが、15世紀後半から16世紀のいわゆる戦国時代でした。京都が度々戦場となったため大事な楽器や装束、秘伝の書物が多く焼失し、楽人たち自身も戦乱の京都を離れて地方に疎開を余儀なくされます。雅楽を奏すべき朝廷の儀式が行えないことも、雅楽の伝承にはマイナスとなったでしょう。


 16世紀末に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、雅楽の復興に乗り出しますが、この時以降雅楽は三方楽所という体制で担われるようになります。失われた伝承が余りにも多いため、京都の内裏楽所、奈良の南都楽所、大阪の天王寺楽所の3つが協力して補い合うことで、ようやく雅楽を行うことが可能になったのです。とはいえ、この時の復興は完全なものではありませんでした。そのことは、17世紀にかけて膨大な雅楽研究が行われたことからもうかがえます。文献や古老からの聞き取りによって、かつての姿を復元しようとする努力が続けられたのです。



 このように、中世には雅楽の「家」が成立し秘伝化が進んだことで伝承が脆弱さを増し、度重なる戦乱によって多くの伝承が失われました。特に15〜16世紀の断絶は深刻で、この時を境に雅楽は大きく変容します。その具体像については後に述べますが、ここではひとまず15〜16世紀を第2の画期としておきたいと思います。


(4)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和




2015年01月29日

シリーズ「音の世界を語る 色の世界を語る」(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



平安の調べを聴く −雅楽の響き−


◆2

 8世紀に始まった雅楽は、9世紀後半から10世紀にかけて、早くも第一の画期を迎えます。この時期、律令国家を支えていた税の仕組みがうまくいかなくなり、律令制の仕組みの多くが崩壊します。雅楽寮もこの波に巻き込まれ、人員削減と事業の整理縮小を余儀なくされました。今でいうリストラと事業のスリム化が行われたわけです。

この過程でまず不要な音階・楽器、不完全な楽曲が整理されました。前に述べたように、雅楽は300年以上かけて散発的に輸入されたものですから、体系化されておらず、未消化な部分を多分に残していました。延喜20(920)年、醍醐天皇は貞保親王に命じて『新撰横笛譜』を編纂させ、完全な形で演奏可能な曲目の楽譜集を作らせました。醍醐天皇と言えば勅撰和歌集である『古今和歌集』が有名ですが、同じ時期に勅撰楽譜集も作らせていたわけです。『古楽図(信西古楽図)』には現在使われていない楽器があると述べましたが、そのほとんどはこの段階で整理された結果使われなくなったと考えられます。

整理に伴って、部門の統廃合も行われました。全体を左右の2部制にし、左方に唐楽・林邑楽を、右方に高麗楽・百済楽・新羅楽・渤海楽をまとめました。


律令制の崩壊は、雅楽の性格にも変化をもたらしました。

律令制下の雅楽は儀礼のための音楽であり、官人(国家公務員)としての楽人たちによって演奏されていました。楽人たちの身分は官位でいうと6位程度で、あまり高くありません。10世紀以降、儀礼が縮小されるとはいえ、楽人たちは同じように儀礼音楽を奉仕し続けていきます。

一方、10世紀以降は天皇や公卿(3位以上)・貴族(5位以上)など、身分の高い人たちも雅楽を演奏するようになりました。これは新しい動きです。彼らが行ったのは、公的な儀礼のための演奏ではなく、私的な場で親睦を深めるための演奏でした。『源氏物語』などに「あそび」という言葉が頻繁に用いられ、「管絃の遊び」と訳されますが、この「あそび」が親睦のための演奏会にあたります。現代でいうと懇親会でカラオケをするのに似ているでしょうか。

背景には、律令制が崩壊したことによって政治の仕組みが変化し、天皇との私的な関係が重要視され、天皇の身内と側近が政治的な役割を果たすことになったという事情があります。平たく言うと、天皇とコネをもっている人間に有利な時代がやってきたのです。天皇の側近貴族たちは、天皇と一緒に雅楽を合奏することで、天皇との関係を深めるようになりました。「君臣和楽」のために雅楽が利用されるようになったわけです。




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"Rencontre du Genji Monogatari" by Anonym - Tokyo, Goto Museum. Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons –
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rencontre_du_Genji_Monogatari.PNG#mediaviewer/File:Rencontre_du_Genji_Monogatari.PNG



このように、10世紀頃には雅楽の曲目・楽器・演奏組織が再編成され、雅楽の性格も大きく変わっていきました。雅楽の姿が変化した第一の画期と言えるでしょう。


(3)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和