2018年06月28日

光源氏の行方をたどって(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





光源氏の行方をたどって(2)

2.禖子内親王の文化圏と『狭衣物語』



禖子内親王は25回にも及ぶ歌合を開催していますが、なかでも注目されるのが、天喜3年(1055)5月3日の物語歌合です。なんと、女房たち18人(『栄花物語』では20人とされていますが)がそれぞれ物語を新作してきて、それに関する和歌で歌合を行ったのです。物語を作れる女性が18人(もしかしたら20人)も周辺にいたということになります。この時期の文化の凄さが分かりますね……! 

もちろん、『狭衣物語』の作者とされる宣旨も、この物語歌合に参加しています(その時に出したとされる『玉藻に遊ぶ権大納言』という物語は、残念ながら現存していません)。


さて、前置きが長くなりました。今回話題にする『狭衣物語』はそういった文化のなかで書かれた作品です。

和歌が大好き、物語が大好き、といった人たちのなかで生まれてきたのです。『狭衣物語』は、作中に和歌や他の物語を引用した表現が非常に多いのですが、背景を知っていると納得できますね。

そんな『狭衣物語』に……光源氏がいるのです。

 光源氏の行方をたどる前に、『狭衣物語』について少し説明しておきましょう。
この物語は全4巻。兄妹同然に育った従妹である「源氏の宮」という女性への片思いに苦しむ主人公の物語です。この主人公は、物語のタイトルの由来でもある「いろいろに重ねては着じ人知れず思ひそめてし夜の狭衣」という和歌を詠んでいるので、「狭衣」とか「狭衣大将」などと呼ばれています。

 この物語は全4巻と言いましたが、4巻それぞれに新しいヒロインが登場するとともに、源氏の宮はメインヒロインのような形でずっと登場するという構成になっています。


【図2】


図1chino.jpg




巻1に登場する飛鳥井女君は、狭衣と交際することになりますが、狭衣の家来である道成に略奪され(道成は飛鳥井女君が狭衣の恋人だと知らなかったのです!)、自ら死を選びます。

巻2に登場する女二宮は、帝の皇女で、狭衣との結婚が打診されていました。しかし、狭衣はふとしたきっかけで彼女と密かに関係を結び、女二宮は妊娠してしまいます。女二宮の周囲は、腹の子の相手が誰か知らなかったために諸々の偽装工作をすることになり、女二宮の母親は心労がたたって死んでしまい、女二宮本人も出家してしまいます。

巻3に登場する一品宮は、飛鳥井女君の遺児である姫君を引き取っていました。狭衣は娘に会いたくて一品宮の邸に忍び込んでいたところを見つかってしまい、一品宮との関係が噂になって結婚することになってしまいます。もとより望まぬ結婚なので、夫婦生活が円満にいくわけがありません。

こうした悲劇続きの展開なのですが、巻4に登場する宰相中将の妹君は、源氏の宮に生き写しの女性で、狭衣は彼女を引き取って妻にすることで、一応の充足を得ることになります。その後、天照大御神のお告げがあって狭衣は天皇になるのですが、最後まで源氏の宮や女二宮への未練は消えない、という筋です。


(3)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子




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2018年05月28日

光源氏の行方をたどって(1)

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光源氏の行方をたどって(1)

はじめに

「光源氏」とは、平安時代中期に成立した長編物語『源氏物語』の主人公です。フィクションの世界、それも、『源氏物語』というひとつの物語の世界のなかで生きている存在……の、はずなのですが。
実は、平安時代後期の成立である『狭衣物語』のなかにも、彼は存在しているのです。
一体どういうことなのか、光源氏の行方をたどってみましょう!

1.平安時代後期の物語

『源氏物語』を書いたとされる紫式部は、一条天皇の中宮である彰子に仕えていました。彰子は藤原道長の娘。この道長がパトロンとなって文化活動を支えていたわけです。また、紫式部と並んで有名な清少納言は、一条天皇の皇后である定子に仕え、『枕草子』を書きました(ちなみに定子の父親は、道長の兄である道隆です)。

今回話題にする『狭衣物語』が書かれたのは、これより少し後の時代です。

彰子が生んだ一条天皇の皇子は、後一条天皇・後朱雀天皇として次々と即位しました。後朱雀天皇には彰子の妹である嬉子が入内し、後冷泉天皇が生まれます。

この後冷泉天皇の時代、永承(1046〜1053)・天喜(1053〜1058)年間は、歌合の黄金期とも呼ばれ、文化活動が非常に盛んな時期でした。特に多く歌合を開催したのは、後朱雀天皇の皇女である祐子内親王・禖子内親王の姉妹と、後冷泉天皇の皇后である寛子です。寛子は、藤原頼通(道長の息子)の娘です。
祐子内親王・禖子内親王の姉妹ですが……系図をご覧ください。

【図1】


図1chino.jpg




 母親は嫄子女王。彼女は敦康親王の娘です。敦康親王というのは、清少納言が仕えたあの定子の生んだ皇子です。こうして系図がつながるのは面白いですよね。

それで、嫄子女王なのですが、彼女は母親が頼通の妻の妹という縁があり、頼通の養女となっていました。そのため、祐子内親王・禖子内親王も、頼通のもとで育ちました。

つまり、この歌合の黄金期を築いた女性たちを支えていたのは藤原頼通なのです。

紫式部が彰子に仕えていたように、彼女たちにも優秀な女房たちが使えていました。祐子内親王に仕えていた女房には、菅原孝標の娘がいます。彼女は『更級日記』の筆者であり、平安後期物語の代表作である『夜の寝覚』『浜松中納言物語』の作者ではないかと言われています。

そして、禖子内親王に仕えていたのが、今回話題にする『狭衣物語』の作者とされる宣旨(源頼国の娘)です。

『源氏物語』が書かれたころを「藤原道長の時代」というならば、平安後期物語が書かれたころというのは、その息子である「藤原頼通の時代」ということになりますね。


(2)につづく


文学部 日本文化学科 講師 千野 裕子





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2018年04月09日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





 

(4)労働力の簒奪・400年続いた拉致

1.鉱山技師だった奴隷たち

 16世紀末まで繁栄を誇っていたサブサハラ・アフリカは2度滅びた。400年に及ぶ奴隷狩りで社会と経済が滅び、19世紀後半の植民地化で国が滅びた。古来アフリカにあった奴隷は敗戦国の民や罪人であったが、商家に買われた奴隷は「賢い奴隷は主人の財産を引き継ぐ」とのアフリカの諺にある通り、主人の娘さんの婿になり、また王宮に入った奴隷は近衛部隊を構成したり、王位継承権に発言権を有したりしていた。今日でもモロッコ国王の曾祖母は黒人奴隷であり、そのことはむしろアフリカとの結びつきとして誇りにされている。すなわち、人間を人間として扱わない奴隷はヨーロッパの産物である。

 このような奴隷狩りを始めたのはポルトガル人である。ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを攻略し、イスラム帝国が支配するアフリカ大陸を次第に南下して行き、1444年にはセネガル北部からリスボンに最初の奴隷が連れてこられた。ポルトガルは西アフリカ沿岸の南下を続け、それにつれて本国に送る奴隷は増え続けた。

 現在のアンゴラの首都ルアンダに要塞を築いたポルトガルはここを本格的な奴隷の積出拠点とし、次々とコンゴ王国(今日のアンゴラおよびコンゴ)の人々を拉致していった。ブラジルに向かう大西洋上では鎖に繋がれたまま船倉にびっしりと並べられ、その不潔で過酷な状況で命を落とす人が多かったが、船旅を生き延びた人たちがブラジルに着いてみるとそこには何もなく、食糧生産から始めなければならない状態であった。コンゴ王国からは平民、貴族ひいては王族に至るまで奴隷として連れ去られ、多くのインテリや技能者を含んでいた。彼らがブラジルに到着して気が付いたのは、大地がアフリカと同じ赤土、テラ・ロッサ(赤土)だということで、それならば鉄があるに違いないと考えた。こうして奴隷たちが鉄鉱石を探し出して鉄を打ち、自分たちで農機具を作っていったのである。他方、奴隷の「所有者」であったポルトガル人には、そのような鉱業に関する知識や能力はなかった。

 この奴隷たちの熱帯農業及び鉱業の知識が白人の主人たちよりすぐれているとの実態は、ナイジェリアからガーナにかけての海岸線(「奴隷海岸」)からオランダ人やイギリス人などによって連れ去られたアフリカ人たちについても記録されている。カリブ海や新大陸における過酷な労働で熱帯農業と特に鉱業に秀でた奴隷たちが次々と死んでいく中、新たな奴隷を補給する需要がますます高まり、奴隷の価格は高騰していき、1771年には「黄金海岸」で働いていた英国の奴隷買い付け代理人からロンドンの役員宛に支払いを金(きん)で行わなければ奴隷を入手できないとの報告が記録されている。



2.ヨーロッパの繁栄をもたらした奴隷たち

 いったい何人の人が連れ去られたかについては、正確な記録が一部にしかないため推計によるが、1000万人から1200万人、研究者によっては3000万人との指摘もある。

記録に基づく人数をいくつか例示すれば、
@ルアンダで奴隷の積み込みに携わっていたイエズス会のキリスト教宣教師たちがつけていた正確な記録を見ると、ルアンダからだけでも1468年から1641年の間に138万9千人が新大陸に「船積み」された。

A国王フェリペ1世(スペイン王フェリペ2世がフェリペ1世としてポルトガル王を兼ねていた)への報告によれば、アンゴラからブラジルに1575年から1591年の間に52,023人の奴隷が送られた。

Bポルトガルが抑えていたアンゴラとモザンビークを併せると、1580年から1680年の100年の間に約百万人、すなわち年平均1万人が連れ去られた。

奴隷は、北はセネガル川河口から南は今日のアンゴラの南端におよぶ5000キロにも及ぶ地域、さらに東海岸のモザンビークなどアフリカ各地から集められたので、これらの数字は氷山の一角でしかない 。

 スペインは 、1492年にイベリア半島最後のイスラム王国グラナダを陥落させ、また同年コロンブスがアメリカを「発見」した。こうして、新大陸で鉱山とプランテーションに手を付け始めたが、「インディアン」達は鉱山技術を持たず、スペイン人による過酷な使役によって絶滅寸前に追い込まれた。スペインが「発見」した当時、イスパニョラ島には113万人のインディアンがいたが、1518年には1万1千人以下となったと当時のスペイン人が記述している。その代替労働力として1505年にセビリアの船が新大陸に向けて17人のアフリカ人を鉱山設備と共に船積みした。1510年には王室がアフリカ人のアメリカ行きを公認、その6年後にはスペイン領のカリブ海諸島で奴隷が栽培した砂糖の最初の出荷がスペインに届いた。さらに2年後の1518年には、アフリカのギニア湾からスペイン領アメリカに向けて、アフリカ人奴隷を積んだスペイン船が直航するようになった。
 
 ポルトガルに始まり、スペイン、オランダ、デンマークなどに続いて海洋進出して帝国を築いたイギリスは、奴隷貿易で大いに繁栄することとなった。特に奴隷貿易の拠点港となったリヴァプールとブリストルは一気に富を蓄積していった。例えば、リヴァプール港では1783年から1793年の11年間で約900回の奴隷船の航海がおこなわれて30万人以上の奴隷を運搬、その価格は1500万ポンドに上り、そのうち純益は1200万ポンド以上、すなわち毎年100万ポンド以上の儲けをもたらした。

 ブリストルについて1881年に歴史家J.F.Nichollsは次のように記述した。
「ブリストルには奴隷の血で固められていない煉瓦は一つもない。豪華な館や贅沢な生活は、ブリストルの商人が売買した奴隷の苦しみとうめき声で出来ている。」  歴史上の偉人もその元をたどれば奴隷で富を蓄積した例もある。例えば英国史上有名な首相となったグラッドストンの父親ジョン・グラッドストンは奴隷船と奴隷のプランテーションで富を築いた。また、英領北米植民地の反乱の首謀者(イギリスの見方)ないしアメリカ建国の英雄(アメリカの見方)であるジョージ・ワシントンは500人の奴隷の所有者であった。



3.奴隷貿易の泥沼化とヨーロッパ人による正当化

 では、なぜアフリカからかくも大勢の人たちが奴隷として拉致され続けたのか。それは奴隷を鉄砲の代金としてヨーロッパ人が要求したことによる。当初、ポルトガル商人たちは、コンゴ王国内の部族長などに下剋上をささやきつつ鉄砲を欲しければ奴隷で支払えと強要した。ある村ないし部族がこのような方法で鉄砲を入手するということは、近隣の村ないし部族にとっては自分たちが襲われて奴隷に売られるという大きなリスクを意味する。そのため後者も鉄砲と火薬を入手しようとしてポルトガル人商人に接触する。ポルトガル商人は金や象牙では鉄砲を売らずに、ブラジルの開拓やプランテーションに必要な奴隷を持って来させる。この悪循環はその後アフリカに進出していったオランダ、イギリス、デンマーク、ブランデンブルグ(プロイセン)ほかのヨーロッパ諸国にも引き継がれていき、売り手と買い手双方の事情から、アフリカ人による近隣の王国からの奴隷の拉致とヨーロッパ人による奴隷を対価とする銃の売り込みは一つのシステムとして確立し、その悪循環の上に400年にわたって奴隷貿易が続いていった。

 こうして4世紀にわたる奴隷狩りと奴隷貿易で大西洋の対岸にたどり着いたアフリカ人は1000万人ないし1200万人に上ると推計されているが、住んでいた村から拉致されてから海岸線のヨーロッパの侵略拠点で船に積み込まれるまで、さらに大西洋の航海中に死亡したアフリカ人は何百万人にも上った 。

 航海の途中に死亡したアフリカ人たちはそのまま海に捨てられたが、「積み荷」が劣化する、すなわちカリブやアメリカにつく時点で奴隷が病気になっていると売りさばけないために、病気になると生きたまま海に捨てられた例もある。「奴隷」の法的位置づけについて、例えば1781年のゾング号(ZONG)事件として知られる裁判において次の実例がある。「人間」を海に捨てたのかどうかについて、裁判長のマンスフィールド卿は、「奴隷たちの案件は、馬が船外に放り込まれた案件と同じである。」と宣言した。また、同裁判の荷主側弁護人は、「人間が船から放り投げられたとの話はいったい何だ?これはモノ(goods)の案件である。これはモノの投棄の案件である。彼らはモノであり財産である。」

 ヨーロッパ人は、奴隷は人間ではなく動産であるとの法的位置づけを行い、そのため売買も自由、なればこそ奴隷商人たちは自分の持ち物であることを示すために家畜にするのと同様、赤く熱した鉄ごてを奴隷に押し付けて烙印をつけた。また、多くの奴隷市では最も残酷なことに意を用いた。すなわち、同じ部族、同じ家族を一緒に買わないようにしたのであった。それは奴隷たちが相互にコミュニケーションをして反乱などを目論まないようにするためであり、結果としてきちんと学ぶ機会もないまま所有者の言語を見よう見まねで話さざるを得なくなった。ヨーロッパ人たちは拉致したアフリカ人から人間が人間たるゆえんである言語を奪ったばかりか、所有者の言語をきちんと話せないことをもってさらに見下したのである。



4.奴隷貿易とはアフリカからの労働力の喪失だった

 アフリカ側から見ると、本来彼らの祖国における労働力として農業、金、銅などの採掘、あるいは交易などの経済活動を担うべき健康かつ屈強な若者たちが、少なくとも1000万人、推計によっては3000万人 、すっぽり抜け落ちたことを意味する。すなわち、セネガルからアンゴラに至る沿岸地方の奴隷を狩られた地域においては、労働力がなくなってしまったがゆえに経済活動が停滞してしまった。体に例えれば、いつまでも出血が止まらない状態が四百年続いたからである。これこそがアフリカにおける奴隷狩りの最大の経済的インパクトである。

 イギリスに巨大な富をもたらした三角貿易を担った貿易船の例を見ると、その三辺のいずれにおいても積み荷は満杯であった。ロンドン、ブリストルないしリヴァプールを出港する時には銃、火薬、繊維製品、ビーズ、ろうそく、砂糖、タバコ、酒などの商品を満載してアフリカに向かい、アフリカで奴隷と交換する。アフリカからカリブ海向けの航海は奴隷で満杯となり、ジャマイカなどで砂糖、香料、ラム酒、タバコ、コーヒーなどと交換される。カリブからイギリスへの帰路はこれらの商品を満載し、イギリスで売りさばく。

 こうして確立していったイギリスーアフリカーカリブ・アメリカの三角貿易システムは、アフリカの産業にも負のインパクトを与えていくこととなった。すなわち、イギリスで産業革命が起きると、イギリスからアフリカ向けの積み荷は機械生産による綿布や金属製品となり、これが現地製の綿製品や古来の日用の鉄製品を駆逐していった。かつて16世紀には、ポルトガルが西アフリカ産の綿布をヨーロッパに輸出していたが、三角貿易の中で流れが逆転した。こうして奴隷貿易ネットワークに組み込まれたアフリカ沿岸諸王国における家内繊維産業が近代産業に転化する芽を摘んでいった 。

元来、アフリカの繊維産業は決して侮るべきものではない。例えば、内陸に位置していたことが幸いして三角貿易の埒外にあったカノ(現北部ナイジェリアの町)は中世以来綿製品と藍染めで有名であり、19世紀半ばにカノに滞在したドイツ人ハインリッヒ・バルト は、カノにはセネガルからチャド湖に至る西スーダン地方の綿製品需要を賄うに十分な綿産業と呼べる水準に達している家内産業の隆盛があったと記録している 。しかしこれも砲撃による植民地化で衰退の道をたどった。



5.なぜ奴隷制の禁止ではなく奴隷貿易の禁止だったのか

 15世紀にアフリカからの奴隷狩りが始まってから4世紀後の後、1807年にイギリスで奴隷貿易が廃止され、1833年にイギリス本国と大英帝国領内での奴隷制が議会によって廃止された。なぜ奴隷貿易が廃止されてから奴隷制の廃止までさらに26年、言わば一世代を要したのか。逆に言えば、なぜ奴隷制ではなく、奴隷貿易を廃止したのか。

 それは、奴隷貿易が成立しなくなったからである。その一つの理由は、ジャマイカの砂糖産業がキューバやアメリカの大プランテーションの前に競争力を失い、キングストンの奴隷市で奴隷を買う人がいなくなっていった。すなわちアフリカから奴隷をキングストンに運ぶ経済的メリットが消滅したのである。二つ目の理由は、産業革命によってイギリスの経済構造が大きく変わり、富の源泉が植民地の大プランテーションから国内の製造業依存に移行していったからである。労働集約性が極めて高い大規模プランテーションに富を依存している限り、その労働力を大量かつ不断に供給する必要があった。すなわち、過酷な労働条件のもと奴隷が次々と死ぬのでアフリカから大勢の人を拉致し続ける必要があったが、国内の製造業に富の源泉が移ったことによって、労働力確保の関心はアフリカからの奴隷ではなく、エンクロージャーで農村を追われて都会に流れ込んだイギリス人労働者達に向いたのである。

(出典:石川薫、小浜裕久著、「『未解』のアフリカ」、勁草書房、より抜粋)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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2018年03月03日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






3.「普通の」大陸だったアフリカ

(1)「普通の」大陸だったアフリカ

 アフリカの王国がヨーロッパに大使館を開設し、国王は自由にポルトガル語を話して書簡を書き、上流階級の子弟はヨーロッパに留学し、カトリックの司祭にも叙せられた。これはおとぎ話ではなく、16世紀のコンゴ王国のことである。

 英国が支援した明治維新以降ヨーロッパ史観で教育された私達が忘れがちな非欧米世界の歴史。アフリカで人類が生まれたことは知っていても、ヨーロッパ人が自分の発明だと言っている多くの概念、例えば正義を量る天秤(今日あまねく裁判所のロゴとなっている)、死後の審判と復活などが6000年以上前から文明を誇ったエジプト人が考えだしたとは知らない人が多い。エジプトの学問では、厳格な租税制度と検地のために発達した幾何学(6000年前の数学の教科書がパピルスに記されて現存する。当時の円の面積計算を当てはめると円周率はおおむね3.15となり、「ゆとり教育」で日本が教えたとされる3よりはるかに正確)、解剖や外科手術など枚挙に暇がない。

 キリスト教はヨーロッパの宗教だと思い込んでいる向きも多いが、それは使徒ペトロの建てたヴァチカン史観によるもの。世界で最初にキリスト教を国教にしたのは3世紀のアルメニアであり、次はエチオピアに系譜をつなげるアクスム王国。イスラムは非寛容というヨーロッパ人の主張に反して、イスラム世界では魔女狩りも異端裁判も火あぶりもなかったし、イスラム支配下のイベリア半島ではキリスト教徒もユダヤ教徒も2級市民ではなかった。「異教徒」を追い払ったキリスト教のイザベラ女王とは大違いである。イスラムが支配した北アフリカでは、紀元60年に使徒マルコが建てたアレキサンドリア大聖堂が現在までエジプト正教会の法王を抱いて続き、今でもエジプト人のキリスト教徒は800万人いる。古来エチオピア教会はアレキサンドリア大聖堂の末寺の位置づけであり、主教はアレキサンドリアから派遣されてきた。エジプトを支配していた歴代イスラム王朝がそれを許していたからである。

 東部アフリカでは、英国人をして「アフリカのバーミンガム」を言わしめた製鉄が盛んだったクシュ王国、あるいはインド洋貿易で栄えていたキルワ通商王国。西アフリカではヨーロッパ人の誇るフランク王国より古いガーナ王国が知られ、またマンサ・ムーサ王の黄金の巡礼で14世紀にはヨーロッパにまでその名をとどろかせたマリ帝国、首都のガオには蜜が流れるとまで言われたソンガイ帝国、そしてマリやソンガイの治世下で知の殿堂となったトゥンブクトゥーなどの大学。学者・学生の数は後のフランスのソルボンヌ大学よりも多かった。

 アフリカはヨーロッパの暴虐に屈するまで、ほかの大陸と同じように時間が流れ、文化を謳歌し、経済活動も行っていた。アフリカに栄えた王国のすべてを書くことは紙面の関係でかなわないが、主な王国の地図をお示しする。



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(地図はMichigan State University ホームページより)



 ユダヤ人の地図師によるカタロニア図 (1375年)に描かれたサハラ砂漠の向こうに広がる黄金の帝国(地図の下部に金の王冠を被り、金の笏を持ち、金塊を手に掲げる王が描かれている。)マリ最盛期の王、マンサ・カンカン・ムーサ1世(在位推定1307-1332)である。1324年のメッカ巡礼の往路滞在したカイロで、王の一行はマムルーク帝国側の受け入れ関係者にあまねく金(きん)を贈り、また金で大量の買い物をしたため、当時の世界で最も繁栄していた都市の一つであったカイロの金の相場が急落してしまい、そののち十数年たっても相場は回復しなかった。



石川(3)−2-1.jpg



   



(2)権力基盤、富、知

 字数の都合でアフリカの王国全てを記述できないが、権力、富、そして知の観点から、ガーナ王国とマリ帝国に触れてみたい。
 
 (イ)ガーナ王国(8世紀―13世紀)
 ガーナは、ニジェール川上流と西のセネガル川にはさまれた地域一帯に栄え、アラブ人は紀元8世紀に「金の土地」として知ったが、伝承によればさらに古い起源を示唆しており、紀元前300年ころに鉄器の使用が開始されたとの推測もある。都であったとされるクンビサレーの遺跡からは鉄製品が出土している。王たちが住んでいた城砦街区と、そこから10キロばかり離れたところにつくられた北から来たイスラムの商人たちが住む街区の二つからなり、王宮では貴族はもとより、金の装飾が施された剣や楯を持つ侍従、金の優雅な飾りをつけた馬や番犬が王を囲んでいた。イスラム商人地区には12のモスクがあり、イスラムの聖職者やイスラム法学者たちも住んでいた。(エル・ベクリ著‘Kitab al-Masalik wa al-Mamalik’,1068年)
 ガーナ王国は、サハラ北部の塩の集散地タガザを抑え、南方の森の民が掘り出す金を独占的に購入した。これが「北から南への塩」と「南から北への金」というサハラの交易の基本パターンとなった。ガーナ王国は金の相場の維持にも配意して、金塊はすべて王のものとして供給量をコントロールしたが、金屑は国民の自由にさせた。ここにアフリカにおける富の集中と再分配のひとつの形がみられる。すなわち、王は富を蓄積するが、王は富を配分する役割も担っており、この配分をうまく行うことが王の権力の一つの基盤になっていた。 
 ガーナ王国の繁栄は政治権力の確立、通商とそれを支える行政機能と軍事力、例えば金の北への通商を独占できる力、通商路の安全を確保できる力、関税制度を作りそして関税を徴収できる組織と力、正確な度量衡、相場の維持への工夫などによると考えられる。

 (ロ)マリ帝国(13世紀―16世紀)
 ガーナ衰退後混乱していた西スーダン地方を統一して栄えたのがマリ帝国である。建国の王、マンディンゴ族のスンディアタは、ニジェール川上流サンカラニ川沿いのニアニを首都と定めた。ニアニは脅威となりうるサハラ砂漠の遊牧民がいる地域から遠く、山に囲まれて守りやすく、サンカラニ川は季節にかかわらず航行可能、さらに金・コーラの実・パーム油が豊かな南の森林地帯に接し、また交易に携わる商人が綿布や銅を売りに来る場所でもあった 。ニアニで足場を固めたマリはその後ニジェール川中流域にかけて急速に支配を広げていった。

 なぜニジェール川の中流域を中心としてマリやソンガイなどの帝国が成立したのだろうか。

 マリ帝国は当初から金による帝国だったと考えられがちだが、そもそもの国の起りは全長4200キロのニジェール川の恵みにあった。中流で大きく湾曲して豊かな土壌を堆積して農業と漁業を育み、水路として交通を盛んにさせ、軍事力としての水軍も生んだ。その上で、金や銅などの通商によってますます栄えたが、富は行政基盤を固め、そして文化を生む。

 イブン・バトゥータの紀行記によれば、マリでは不正は数少なく、国内は全般的に完璧に安全である。旅人も住民も、強盗、泥棒、横領をまったく恐れる必要がない。北アフリカの貿易商などが客死した場合には莫大な財産を保有している場合ですらマリ人はその財産を没収せず、当該財産が正統に属すべき人が現れるまでの間、北アフリカ人たちの中で信頼されている者にその財産を預ける、黒人たちは(イスラムの)祈りを正しく唱え、金曜日のモスクは早く行かないと祈る場所がないほど大勢の人が祈りに行く、金曜日には清潔な白い衣服を身にまとい、一張羅しか持っていない人は仮にそれが擦り切れたものでも必ず洗濯をして祈りの場に行く。

 他の大陸においてそうであったように、サブサハラ・アフリカでも豊かさは文化を生み、そして学問を生んだ。砂漠を超える隊商ルートはマリに来訪するイスラム学者やマリからメッカへの巡礼者も多く通る道であり、これがマリの「知」を支える重要な要素であった。サハラ砂漠の隊商が行う交易の中で最も量が多く利鞘が大きかったのはカイロやグラナダから輸入されるイスラム関連の書籍であった。地元出身の学者を輩出し、彼らはアラビア語のみならずアラビア文字起源の表音文字アジャニ文字で自分たちの言葉を記述していたのである。


(4)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)


文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫







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2018年02月08日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2.アフリカという大陸



(1)アフリカは大きい

 【地図が生む錯覚と偏見】

 飛行機でロンドンから南アフリカ最南端のケープタウンに飛ぶと11時間40分かかる。これは英国航空が営業で使っている時間であるが、実はその英国航空はロンドンと東京も11時間40分で結んでいる。
 私たちが見慣れている世界地図はおおかたメルカトール図法に端を発するミラー図法であるから、アフリカ大陸は随分と小さく描かれている。これは地球が球であることを忘れさせてしまう2次元の図法であって、世界中の人々の世界観はここから歪みが始まるといっても過言ではない。しかし、2次元に「つぶした」球で世界情勢を見るのは不適切である。




アフリカ2−1.jpg

   




 多くの教室や事務所でこのような地図を見慣れていると思うが、ひとつの点にすぎない北極や南極がこの地図の右から左までの長さに引き伸ばされていることの意味、また球状にカーブしている南北の線を直線で表している結果何が起きているかを考えていただきたい。

 この地図から、ロンドン・ケープタウン間とロンドン・東京間が同じ距離に見えるだろうか。地球は丸い球であって2次元ではないことを、アフリカを考える時にはまず念頭に置いていただきたい。
 この地図からは信じられないかもしれないが、アフリカ大陸の面積は3037万㎢、南北は8000キロ、東西は7400キロである。そのアフリカ大陸に今日54の国がある。
 NASAによる宇宙から見た地球の写真を見るとこのことをより実感できるのではないだろうかる。




アフリカ2−2.jpg






(2)多民族・多言語国家とアフリカの多様性

 【広い国土とたくさんの民族、たくさんの言語】

 この大陸の中央部、赤道直下に広がるコンゴ民主共和国。2次元の地図で見るとせいぜいフランスとスペインを足した程度にしか見えないが、実は国を横断する距離はおおむねスペインのマドリッドから東欧のポーランドのワルシャワまでの距離に匹敵する。そのような広い地域に国土が広がっているので、そこに住む民族もさまざまである。言い換えれば、一つの国だと言うのに言葉は200以上あり、絞り込んだグループ別でも、キコンゴ語、リンガラ語、チルバ語、スワヒリ語があり、公式言語はフランス語である。公式言語ないし「公用語」。日本で、私たちの母語以外の言葉、例えばロシア語が「公用語」だと言われたら、何のことかさっぱりわからないと思うが、アフリカではそれが殆どの国で起きていることである。

 しばしばヨーロッパの開発論者や政治家、マスコミはアフリカの国家の一体性をめぐり、なぜアフリカ人は自分の国の「国家の一体性」を保てないのだ、とか、内戦をやめて民主主義を早く導入すればよい、とかコメントする。あえてこのようなヨーロッパ人の指摘に対して皮肉を述べれば、コンゴと大差ない面積に広がるヨーロッパは「1000年の間30年ごとに殺しあってきた」ではないか、マーストリヒト条約(1992年)でヨーロッパの一体性にたどり着いたのはその後だったではないか、と言いたくもなる。なお、この「ヨーロッパは1000年の間30年ごとに殺しあってきた」とは、1992年5月2日ヘルムート・コール・ドイツ首相がボンの首相府において訪独中の宮澤喜一総理(当時)に述べた言葉であり、筆者はその訪独に同行していた。

 そもそも、アフリカにおける国家の一体性を根底からひっくり返したのはヨーロッパの侵略とアフリカの分割である。ヨーロッパ人たちはアフリカの王国の国境、言語分布、歴史に一顧だにすることなくヨーロッパ人だけで談合して自分たちの勢力圏を決めたのであった(1884‐85年のベルリン会議)。


 【アフリカの多様性】

 他方、これだけ広い大陸であるから、アフリカは多様である。「アジア」とヨーロッパ人が名付けた地域には日本もインドもイランも含まれている。サッカーの「ドーハの悲劇」がなぜ起きたかといえば、ドーハがあるカタールも日本もアジアに分類されているからであるが、カタールやサウジアラビアやイランがアジアだと聞いて正直なところきわめて不思議な気がしないだろうか。

 「アフリカは一つ」という考えは政治的には「汎アフリカ主義」が背景にあるが、しかし、実際は同じ「アジア」に属する日本とイランがとても異なっているように、アフリカにはとても異なる国が存在している

 そもそも、「アジア」とか「アフリカ」という呼び名は西洋の歴史の中で生まれてきたものであった。近世以降における展開を考えると、世界を制覇した大英帝国で地理学が発展したこととも関係がある。ロンドン近郊にグリニッジという場所があってその町に古い天文台がある。天文台の横には帆船カティー・サーク号が停泊していて大英帝国全盛の時代を想起させるが、そのような時代に世界の時間の基準をグリニッジ標準時と定め、また世界の地点を規定する方法として東西に走る線を緯度、南北に走る線を経度と定め、そして世界の中心としてグリニッジ天文台を通過する北極から南極までの直線を0度とした。その上で、球状の地球を360度で規定し、グリニッジ天文台から東を東経、西を西経と定めた。その結果、日本の標準時の明石市は東経135度に存在し、グリニッジから東回りでも西回りでもちょうど180度になる太平洋の真ん中が東経180度かつ西経180度となり、そこで日付が変わるのである。日本が「極東―Far East」にあると言われるのも同じ理由による。読者の皆さんが周知の事実をくどく書いた理由はここにある。すなわち、歴史のみならず、地理もある時点の勝者が書き、そのような観点からの判断が後世も続くということの典型例だからである。


(3)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)




文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫





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2018年01月18日

「知の大陸」アフリカ―滅んだ栄華と復活への道 (その1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





1.文化と野蛮


(1)文化とは何か

 日本にもファンが多い画家モジリアーニ。彼の書いた人物像は首が長く、顔がラグビーボールのようで、鼻が長く、瞼は一重。実はこれはアフリカでしばしばみられる木彫りの人物像の様式である。モジリアーニの芸術がアフリカ芸術の影響を強く受けていることは今日よく知られるところとなっており、フランスではモジリアーニとアフリカ芸術というテーマで展覧会が開催されたりする 。


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(左図)Amedeo Modigliani: Jeanne Hébuterne, 1919
http://www.artcyclopedia.com/artists/modigliani_amedeo.html
(右図)Art africain le masque africain Baoule
http://www.masque-africain.com/masque-africain/masque-baoule/masque-africain.jpg



 
 おそらく日本の西洋芸術のファンにとってより驚きが大きいと思われるのは、ピカソの作品である。ピカソはアフリカ芸術をテーマに集うグループに入っていたが、例えば「アヴィニョンの乙女たち」に描かれている少女たちの中にはアフリカの女性も描かれており、その描き方はアフリカのお面を模したとみられている。



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(左図:中央図の一部)Demoiselles d’Avignon http://geotourweb.com/nouvel229.jpg
(右図)Le masque MBANGU chez les Pende  http://detoursdesmondes.typepad.com/dtours_des_mondes/page/41/  
  (ただし、右のマスクから直接左の絵になったわけではない。)




 ピカソやモジリアーニといった一流の芸術家がアフリカ芸術に魅せられた事実は何を意味しているのだろうか。
 モジリアーニは貧困の中に亡くなり、ピカソは存命中に名声を博したが、二人の天才は美を探究していく中で、美を描きだす方法としてアフリカの美の表現法に出遭った、少なくとも、アフリカの美の表現法に「も」出遭ったと考えても良いのではないだろうか。そう考えるためには、美は大陸や文化を越えて人間の感性に訴える共通性を有していると認識することも大切なのではないだろうか。そして、そのような認識を持ちうるためには先入観というものを排除する必要がある。なぜなら先入観こそはその人が生まれ育った文化や環境の中で生まれるものだからであり、それ以外のものを排斥する排他性を備えているからである。

 アフリカの芸術には、それを生まれて初めて見る部外者にもストレートに美の感動を与えるものと、なかなかその美を理解しにくいものの双方がある。例えば伝統的宗教行事に使われたであろういくつかのお面は率直に言って部外者にはなじみにくい。
 そこで何枚かの写真をお見せしたい。初めはアフリカの伝統的な宗教行事から発したお面と、お面をかぶった人々の行進である。いかにもおどろおどろしいと感じるかもしれない。



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 では、次の写真はどうだろうか。これは日本の秋田県男鹿半島に伝わる国の重要民俗無形文化財、なまはげの写真である。


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 http://www.namahage.co.jp/namahagekan/exhibit.php (なまはげ館、男鹿真山伝承館ホームページより)




 このような写真を見て、こういったものはアフリカや日本のある特定の地方の郷土伝統に過ぎない、と考えるべきだろうか。
 ところが、実はヨーロッパにも似たようなお面がある。ドイツ南部のバイエルン地方やオーストリア、ハンガリーなどに伝わる風習で、おどろおどろしいお面をかぶってモノがクリスマスの聖人セント・ニコラスとともにクリスマスの街を歩いている。ドイツ観光局のホームページは「屋台の並ぶ小路では、クランプス (西洋版なまはげ) を従えた、教父の聖ニコラウスに出くわすかもしれません。これらは、500年来のアルプス地方の風習を、今に伝える存在です。」と広報している。http://www.germany.travel/jp/specials/christmas/christmas-market-in-munich.html



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(2)野蛮とは何か

 若い読者の皆さんは女優のオードリー・ヘップバーンをご存じだろうか。若い方はご両親やお祖父様、お祖母様に伺えばおそらくファンだとおっしゃる方が多いのではないだろうか。「ローマの休日」や「マイフェアレディ」、「戦争と平和」などが有名だが、晩年ユニセフその他の活動を応援して、アフリカなどの恵まれない子供たちのためにも大きな貢献をした方である。

 日本ユニセフ協会のホームページから引用させていただく:
(日本ユニセフ協会ホームページ:「オードリー・ヘップバーンは、1989年にユニセフ親善大使に就任しました。亡くなるまでの4年間、当時最悪の食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアをはじめ、世界十数カ国をめぐり、子どもたちの声なき声を代弁し続けました。」http://www.unicef.or.jp/special/ 

 筆者もオードリー・ヘップバーンのファンとして彼女が主演した映画は随分見たが、その中で1本だけどうしても好きになれなかったものがあった。それは「尼僧物語」、戦前ベルギーの良家のお嬢さんが出家して修道院に入りベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)の病院などで働きながら現地の人の医療にかかわる、そうした中第2次大戦が始まりドイツのベルギー攻撃によって父親が殺される、映画の主題は信仰と愛と憎しみとは何かなど非常に深いものがあると思う。ただ、そこでコンゴ人はいかにも「未開で野蛮な人」という扱いで描かれていた。

 実はコンゴは1904年までベルギー王レオポルド2世の私領であって、ベルギー国の植民地ではなかった。英国ではSirに叙せられて英雄視されている一発屋のスタンレーが宣教師兼探検家のリヴィングストンを探し当てたと自己宣伝して英国に凱旋した後、再度中部アフリカに戻り、今日のルワンダ、ブルンディ、ウガンダを経て大河コンゴ河を下りきり、自分を王であると宣言した。誰に断って王となったかは誰も問わなかった摩訶不思議な話だが、スタンレーはヨーロッパに戻ってコンゴを英国王室に「売り渡そう」としたが英国王室はこれを断ったため、ベルギー王に話を持っていったところレオポルド2世が飛びついて購入した。すなわち、コンゴ人の知らないところで勝手に王となった男が、コンゴを新興国ベルギーのレオポルド2世国王に売り払い、国王は広大なアフリカの土地を私領としたのである。これに怒ったポルトガルがコンゴは自分のものだと文句を言い、それを見たビスマルクが調停をすれば新興国ドイツ帝国の存在感を示す絶好の機会となると考えて開いたのが1884−85年のベルリン会議であった。そのアフリカ分割会議でまんまとコンゴを自分のものとしたレオポルド2世。念のため再度述べるが、コンゴは国王の私領(「コンゴ自由国」と言う名前の下で)とされたのであってベルギー王国の植民地になったのではない。何から何まで当事者を完全に無視した身勝手な話であるが、ヨーロッパ人はこれを不思議とは思わない。

 さて、スタンレーはコンゴの天然ゴムに目をつけて生産を強制したため、コンゴは世界有数の天然ゴムの産地となった。ところが、現地のベルギー人達は村々にゴム生産のノルマを課し、やがてそれが異様な忠誠心競争へと展開していった。ノルマを果たせなかった村の男たちの手首を切り落とし、それを袋詰めにしてベルギーに送り始めたのである。やがてこのことに気づいた英国の副領事が本国に報告し、国際的な批判・非難が起きた結果1904年にベルギー国政府がコンゴを引き取ったのである。

 野蛮とは何であろうか。

 そのコンゴに鉄道が建設された記念碑を訪れたことがあるが、その記念碑には、「この鉄道がコンゴを文明に開いた」との記載があった。しかしコンゴには昔から文明がなかったのだろうか。あるいは何らかの原因で繁栄が衰退し、歴史が中断したのだろうか。今から500年前のコンゴ王国は貴族の子弟たちをローマやリスボンに対等な立場で留学させていたし、大使館も置いていたことを多くの人は知らないか、あるいは忘れてしまっている。

 1992年、ヨーロッパでEU統合の集大成としてマーストリヒト条約が結ばれた。ヨーロッパが統合を目指していた1988年、ベルギーのブリュージュでマーガレット・サッチャー英国首相はヨーロッパを自画自賛して、’We civilized the world’(我々ヨーロッパは世界を文明化した)と演説した。本当にそうだろうか。歴史をたどればヨーロッパのルネサンスはイスラムから来た文化のおかげであり、ヨーロッパが誇るゴチック建築も、化学も数学も、エジプトやイスラムから学んだものである。スペインがイスラムだったころ、ヨーロッパの学生はグラナダに留学して学んだし、科学で言えば例えばナトリウムの語源はエジプトのエル・ナトゥルーン湖から来ている。その湖の塩で古代エジプト人はミイラを作っていた。砂糖のsugarもアラビア語のスックルから来ている。フランスのパティスリー(お菓子)を多くの方は好きだと思うが、フランスでは本来甘いお菓子のことをla vienoiserieといった。オーストリアの首都ウィーン(Vienne)のもの、という意味である。日本で言えば「京もの」とか「おさがり」と言ったところであろうか。それはオスマン・トルコがウィーン包囲の後攻略をあきらめて引き揚げた時に(1529年第1次包囲、1532年第2次包囲、1533年ハンガリーについてオスマン・トルコの優位をオーストリアに認めさせて和睦)甘いお菓子や砂糖、そしてコーヒーを大量に放置し、そこからウィーンで菓子製造(およびコーヒー嗜好)が始まったことに由来する。

 文化や文明は相身互い、一方が歴史のすべての期間を通じて他方よりすぐれているということはない。サブサハラ・アフリカ由来のものでは例えばイソップ物語のたぐいの民話はガボンなど多くのアフリカ各地に存在する。アフリカの生きる知恵であるが、例えばフランスではそれをJean de la Fontaine(1621-95)による寓話(Fables)として扱っている。フランス語で紹介し世界に知らしめた功績は大きいと思うが、もともとはフランス人の生きる知恵ではなくてアフリカ人の生きる知恵であった。



(その2)につづく
(出典、「『未解』のアフリカ」、石川薫、小浜裕久、勁草書房)



文学部 国際英語学科 特任教授 石川 薫




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