2019年06月24日

中世史家の見たフランス革命(1)−2

地域とともに活躍する川村学園女子大学






1-2)家族を包む空間秩序

 さて、それでは一般社会はどのような実情を抱えていたでしょう。

中世以来ずっと守られてきた絆、人生観(死生観)、価値観つまり生き方の伝統があります。人は家族の中で生まれ、洗礼を受け、司祭の説教を聴いて育ち、父母や兄弟姉妹と同じように働き、同世代の中からパートナーを見つけ、結婚し、子供を授かり、老い、そして死んでいきます。旧制度の社会では孤独は余程の変人か余所者で、普通は何らかの集団ないし共同体に属し、そのメンバーとして生き、死んでいきます。したがって旧制度社会の最小単位は家族であって、個人ではありません。まさにボダンが述べたように「家族こそ国家の基本要素」でした。そして家族を包み込む村や街があり、それが多くの人々にとって日常生活を営む空間、せいぜい夜明けに家を出て、夕暮れまでに帰ることができる範囲です。もちろんこうした生活空間を越える世界があるわけですが、それは二重で、下層世界は地域、上層のより広い世界は地方と呼んで区別することにします。

地域は200を越える局地慣習法に対応する空間ですが、その上に広がる地方はそれぞれ自然環境と方言や習俗が違い、さらに一般慣習法がそれぞれ歴然と異なる文化的一体性を持つ広がりで、ノルマンディ、ブルターニュ、ブルゴーニュなど、フランスでは58を数えると言われています。あのマトリョーシカ人形のように、人々の生きる世界は何層にも包まれていますが、さて、それでは一番外側の世界は何でしょう。現代なら、地球とか宇宙とかになるかもしれませんが、17〜18世紀の旧制度社会では、それが「くに」つまり国家であり、その頂点に王が君臨すると考えます。

 もっとも王国というのも、王の統治権が及ぶ空間の寄せ集めという程度の代物で、王は決して連続した地理空間全域を隅々まで支配していたわけではありません。イメージとしては、虫食いだらけ、隙間だらけ、飛び地だらけの広がりです。

 旧制度社会はこのように人々を何層にも包んで、いわば自然発生的な多層伝統社会を作り上げていました。この自然なまとまりと広がりを巧みに行政制度に対応させて、少し硬い言い回しになりますが、上意下達の秩序として再編したものが同時代のフランス国家であると考えることができます。王の個人的魅力や権威ではなく、王の法的権限に基づいて、王国を司法面では17高等法院管区に、軍事面では39地方総督区に、租税面では34徴税区に分割しました。これらが王国を構成するのですが、この3通りの分割方法は互いに何の関係もありません。ある高等法院管区を2分割して地方総督区を作るとか、どれかが基本で他は派生したとか、そのようにそれぞれが何らかの関係を持つわけではないのです。その結果、たとえばA司法管区にはP地域とQ地域が属しているが、地方総督区の区分けではP地域とQ地域は所属先が別々になる。あるいは、X徴税区はR地域の大半を担当するが、南端のごく一部分は飛び地のようにY徴税区の担当になる、といった事態が頻繁に起こります。過去の様々な経緯の結果なのですが、だからこそ、面倒だから、不合理だからという理由では簡単には変えられないのです。しかも徴税区が違えば、納税期限が違うのはむしろ当然でしたから、予算編成は困難を極めました。

 高等法院とは上級裁判所のことで、パリをはじめとして全国の主要14都市にありました。パリ高等法院はもっとも古く、設立は14世紀に遡ります。以来、この司法組織は重要な権限を持ち続けてきました。王令はこの司法機関に登録されなければ、発効しません。紙屑です。しかも各管轄区域は重複しませんから、王令はすべての高等法院に登録されなければ、王国全土で施行される法令にはならないのです。高等法院はこの権限を死守します。王権に対抗して、その暴走を阻止することができるからです。逆に王権はこれを嫌って、何としても無効にしようとします。この権限を盾にとって、高等法院が王権を制限する限り、絶対王政はありえません。

ルイ14世の治世初期、1648年に始まるフロンドの乱は高等法院の「反乱」と表現されることがありますが、要するにこの権限を巡る二つの権力の激突です。高等法院は、古い血筋を誇る保守的な貴族や地方の伝統を守り、その利害を代弁する立場から、パリの王権に対立することもありました。これは一例ですが、行政機構の中でも特に重要な司法機関でさえ、このように必ずしも王権の意のままに行動したわけではなく、それぞれがそれぞれの立場と伝統を大切にしていたということを理解して頂きたいと思います。つまり歴史上存在した絶対主義とは権力者が思うがままに支配する、何でもできる、という意味ではありませんでした。そのような絶対的な強権は少なくともフランスには存在しませんでした。

 行政機構の末端に位置して、人々の日常生活空間に対応する行政区画は教区です。つまり教会組織を利用して、教区司祭を末端行政官としていることになります。教区は17世紀末には約36,000を数え、1教区には大体100戸前後の世帯が含まれていました。教区民の誕生(洗礼)や死亡(終油)を教区簿冊に記録することは司祭の重要な仕事ですが、それだけでなく、新たな王令が発布されれば、日曜のミサの後に読み上げる。これもまた司祭の大切な仕事でした。

 さてフランス旧制度社会が秩序付けられた多重化空間であることを説明してきましたが、もう一つの側面にも言及しなければなりません。

(3)につづく

文学部 史学科 教授 金尾 健美




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2019年06月06日

中世史家の見たフランス革命(1)−1

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はじめに
 フランス革命はふつう1789年から99年までの10年間の激動を言いますが、皆さんはこの革命をどのように理解しているでしょうか。

「絶対的権力を持つ国王が優秀な軍隊と官僚制を駆使して民衆を弾圧していた。耐え切れなくなった貧しき民衆が立ち上がり、暴君をギロチンに掛け、自由と平等を謳歌する新しい社会を建設した。フランス革命は近代の幕開けを宣言した人類史上に燦然と輝く大事件である」と、おそらく皆さんの理解はこのようなものかと思います。

しかしフランス革命200年記念祭が行われた1989年前後、今から30年ほど前のことですが、この頃からフランス革命の理解は大きく変わりました。いったい革命は何を破壊し、何を建設したのか。この問いに答えるために、革命以前の社会、いわゆる旧制度(アンシャン・レジーム)の社会はどのような社会であったのか、それを見直すことから始めたいと思います。


1.アンシャン・レジームの社会

1-1)官僚と軍隊
 まず旧制度社会の官僚と軍隊について注目してみましょう。いずれも絶対君主の手足となって民衆を抑圧したと言われてきたのですが、本当でしょうか。

ブルボン朝が始まった16世紀末には約46,000人の官僚がいました。当時のフランス人口は1,700万から1,800万と言われていますから、国民400人足らずに役人が1人いたという割合になります。これだけの役人が隅々まで目を光らせ、水も漏らさぬ監視体制・警察国家を生み出したのでしょうか。

現実はそのようなイメージとは大分違うようです。役人には二つのタイプがありました。ひとつは保有官僚と言って、売官を公認されていました。国家試験を受けて公務員になるのではなく、ちょうど株や国債を買うように、相場の値段で役職を買うのです。配当の替わりに様々な役得がありました。お金さえあれば、誰でも買えます。したがって、このタイプの職は売買、譲渡、相続の対象となり、家産の一部と見なされました。役人が多かったのは人々が欲しがったから、つまり旺盛な需要に刺激されたからではないでしょうか。ともかく国家公認ですから、後には売買は課税対象となり、徴収された税は財源不足を補うようになりました。

もう一方のタイプは直轄官僚と言って、これは期限付きで、きちんと給料が支給されます。私たちが普通に役人と言った時に思い浮かべるイメージは当然こちらになりますが、実は数の上ではこのタイプは非常に少なく、大多数は第1のタイプ、財産と見なされる役職を保持するタイプの役人でした。

地方長官は各地の国王役人を管理監督することが仕事で、直轄官僚です。全国で30余名いましたが、このポストは多くの場合、宮内審理官(一般からの様々な陳情を仕分けして適切な担当者に通知する職務)の経験者から選出されました。しかし宮内審理官は代表的な売官ポストですから、直轄官僚になる近道はこのポストを購入することでした。

 国務卿とは大臣に相当し、国務、外務、陸軍、海軍の4名で構成された王国最高のポストです。これは売官ポストではないのですが、就任するためには多額の権利金を前任者に支払うことが慣例となっていました。1669年コルベールは財務総監(大蔵大臣)と国務卿に同時に就任しますが、この時、前任者ゲネゴーに70万リーヴルを支払ったと言われます。この金額は現代の日本であれば、おそらく億単位の金額になると思われます。これが旧制度社会の現実でした。

 軍隊はどうだったのでしょう。将校は売官ポストですから、多くは見栄っ張りの若い貴族で、地道に軍事訓練を重ねるよりは女性にもてることだけを考えているような連中です。一般兵士の多くは外国人の傭兵でしたから、給金は頂戴するが、なるべく怪我をしないように、という連中でした。これが軍隊の内実ですから、閲兵式が終われば、即座に兵員数が半減してしまうような代物でした。だからこそ革命が勃発すると、あっという間に国軍は壊滅状態に陥ってしまったのです。イメージが違いますか。


(2)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美






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2019年05月16日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(5)

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2.3 社会批判の機能を隠し持つ翻案---ワイルド『悲劇革命婦人』(1911年)


オスカー・ワイルドのVera, or the Nihilists’は1881年に発表された戯曲である。
主人公ヴェラがロシア皇帝暗殺を企てるものの、身分を隠して民衆の中に潜んでいた当の皇帝と恋仲になり、自身の皇帝暗殺という任務と皇帝への愛との間で苦悩する、という筋書きだ。

ワイルドが劇場での戯曲デビューをもくろんだこの戯曲は、実は研究の対象になることが少ない。
ワイルド戯曲集というタイトルで出版される単行本に収録されることも少なく、ワイルド全集の一部として、ようやく掲載されるほどの低い位置づけだ。

相当にマイナーなこの作品を、明治44年(1911年)に内田魯庵が東京朝日新聞紙上で翻訳翻案、連載した。そして、大評判となったのである。講談調にすることで翻案の体裁をとりつつの翻訳で、テンポよく展開するメロドラマ、という印象を与える魯庵の文章からは、原文の無味乾燥な未熟な文体は、まったくと言っていいほどうかがえない。


Plead to Czar! Foolish boy, it is only those who are sentenced to death that ever see our Czar. Besides, what should he care for a voice that pleads for mercy? The cry of a strong nation in its agony has not moved that heart of stone.
(“Vera, or the Nihilists”, p.691)


何ですと、皇帝陛下に哀訴する?貴下も余程なお馬鹿さんだ。皇帝に哀訴したものは皆死刑に處せられて殺されるばかり。第一彼が貴下の哀訴に何で耳を傾けよう。全露西亜国民の呻吟嗚咽にすら平気になってる石のような心持が如何して動かせよう。
(「悲劇革命婦人、p.206」)


英文と異なり、魯庵の文章は読者の情に訴えかけ、畳みかけてくる勢いが感じられる。

魯庵がこの“Vera, or the Nihilists”を選んだのには、実は理由があった。少し長くなるが、ワイルド側の事情から説明する。

1881年にワイルド自身が演出家として上演が決まっていたこの戯曲だが、上演直前に中止の憂き目にあっている。以後、イギリスにおいてこの戯曲が上演された記録はない。上演中止の理由は、当時のイギリス王室からの圧力とする説が有力だ。

1881年前後の社会情勢を確認しよう。
1881年3月にロシアのアレクサンドル2世がアナーキストに暗殺されているが、彼の後を継いで皇位についたアレクサンドル3世の妻と、イギリスのアレクサンドラ皇太子妃は姉妹関係にあった。そのため、妃の心情に配慮して中止の圧力をかけた、という説が有力だ。そして、暗殺といえば、同年7月にアメリカ大統領ガーフィールドの暗殺未遂事件が起きている。大統領は2か月間の闘病をへて9月に亡くなるが、ワイルドが“Vera”の上演を試みた12月という時期は、いまだガーフィールド大統領死去の打撃が大きく残っていた時期と言えよう。    ”Vera”と暗殺は、切っても切れない関係にあるということだ。

魯庵が狙ったのも、この点だ。「悲劇革命婦人」の筋書きは"Vera"とほぼ同じである。だが、この作品を発表した時期に、意義がある。1910年、幸徳秋水首謀といわれる、社会主義者による大逆事件ののち、ジャーナリズムおよび文学作品への検閲が極めて厳しくなった。大逆事件による幸徳秋水らの処刑は一方的で、文化人らの間では同情する論調が強かったことが、日記や随筆からうかがえる。

この状況下で、「皇帝暗殺」をテーマにした「悲劇革命婦人」を堂々と連載した魯庵の意義は明白であり、丸善の木村毅もどきどきしながら新聞連載を読んだ、と回想している。

文体を講談調に変換することで、近松的なメロドラマの様相であることを強調し、検閲を逃れる、という手法だったとも推測できる。つまり、明治政府に対する異議申し立てを、講談調の翻案、というベールをかけた翻訳物で実行に移した、という解釈が可能になってくるのだ。覚悟を決めた翻案、翻訳の傑作と言ってもよいだろう。


3. まとめ

翻訳、翻案というメディアは、近代化し始めたばかりの明治期の日本にとっては、欧米列強の社会制度や文化を知るためのツールであったことは容易に理解できる。だが、この翻訳、翻案を巧みに用いて、自らの主義主張・社会批判の機能を併せ持つ、複雑な装置にまで仕上げていったのは、明治時代の文筆家たちの新時代へかける情熱のなせる業だったのではないだろうか。


参考文献
Burnett, Frances Hodgson. Little Lord Fauntleroy. 1886, Oxford University Press, 1993
Holland, Merlin. ed. Collins Complete Works of Oscar Wilde. HarperCollins, 2003
Smiles, Samuel. Self-Help. 1866 [1859], Oxford University Press, 2002
川戸道昭、榊原貴教編 『明治翻訳文学全集≪新聞雑誌編≫10 ワイルド集』大空社、
1996年
スマイルズ、サミュエル 『西国立志編』 中村正直訳、講談社、2013年(1981)
バアネット 『小公子』 若松賤子訳、岩波書店、2017年(1927、1939)
**************************
鴻巣友季子 『明治大正 翻訳ワンダーランド』新潮社、2005年
高橋修 『明治の翻訳ディスクール---坪内逍遥・森田思軒・若松賤子』ひつじ書房、
2015年
松沢裕作 『生きずらい明治社会 不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018


文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子





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2019年04月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(4)

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2.2 欧米文化を理解するための翻訳---バーネット『小公子』(1897年)

イギリス生まれだがアメリカに渡って活躍した女性作家、F. H.バーネットのLittle Lord Fauntleroy (1886)は、雑誌で発表されるや否や、アメリカ、イギリスで人気を博した子ども文学の名作である。主人公セドリックがその言動を通じて、「アメリカ」と「イギリス」の架け橋となり、英米の融和を象徴的に描いたとされるこの作品では、清く、正しく、美しい主人公、セドリックが理想の子どもとして際立った存在感を示している。セドリックの端正な服装も物語の重要なカギとなっており、大きな意味を持つ。

バーネット版の特徴は、「天使のような子ども」を意図的に提示していることにある。これはロマン主義の子ども観(=無垢なこども、こどもの神性を強調)の影響を受けた一般読者をターゲット層として想定しているための戦略と考えられるが、この「天使のような子ども」が英米の読者の圧倒的な支持を得た。セドリックの服装も流行し、かわいらしい挿絵で描かれた、濃い色のビロードの服に大きなレースの襟のついた“Fauntleroy suit”は、この時期の子ども服の一つの特徴をなしている。

このLittle Lord Fauntleroyを明治20年に『小公子』と題して雑誌『女学雑誌』上で翻訳し始めたのが、若松賤子である。その滑らかな口語調の翻訳は自然で読みやすく、「翻訳王」森田思軒も「言文一致の極致」として絶賛しているほどだ。若松は、「天使のような美しい子ども」を翻訳においても再現する。以下に原文と邦訳文を併記する。

[Mr Havisham] recognized in an instant that here was one of the finest and handsomest little fellows he had ever seen. His beauty was something unusual. He had a strong, lithe, graceful little body and a manly little face; he held his childish head up, and carried himself with quite a brave little air; he was so like his father that it was really startling; he had his father’s golden hair and his mother’s brown eyes, but there was nothing sorrowful or timid in them. They were innocently fearless eyes; he looked as if he had never feared or doubted anything in his life. ‘He is the best-bred-looking and handsomest little fellow I ever saw,’ was what Mr Havisham thought. what he said aloud was simply, ‘And so this is little Lord Fauntleroy.’ (Little Lord Fauntleroy, pp.24-25)

さて、かくまで非常にハ氏の心を動かしたものは、一種反動的の感情でした、一見して其童児が嘗て見たことのないほど秀逸ものと分かった時、起ったので、殊に容色の美いことは非常の者でした。。其体つきの屈強で撓やかな處、幼顔の雄々しき處、頭をしゃんと擡げて、進退する動作の勇ましき處等の一々亡父に似て居ることは、実に不思議な程でした。髪は黄金色で父にに、眼は母の茶勝な處にそっくりでしたが、其眼付には、悲しそうな處も、臆せ気味な處もなく、只あどけない中に、毅然とした處のあるは、一生涯、なににも怖ぢたことなく、疑ったこともないという気配でした。ハ氏は、心の中に、是は又大した上品で、立派な童児だと思いましたが、口に出しては、極くたんぱくに、『左様ならば、これがフォントルロイ殿で御座るか。』といいました。
(『小公子』p.36)

若松は、英文で絶賛されているセドリックの様子を、当時としては自然な話し言葉で訳出しており、「言文一致の極み」とされる名調子である。

だが、翻訳が難しい箇所については、いさぎよく削って訳す、という大胆さも併せ持っていた。

‘Dearest,’ said Cedric (his papa had called her that always, and so the little boy had learned to say it) ‘dearest, is my papa better?’
He felt her arms tremble, and so he turned his curly head, and looked in her face. There was something in it that made him feel that he was going to cry.
(Little Lord Fauntleroy, p.6)

「かあさま、とうさまは、もう、よくなって?」
と、セドリックが云ひましたら、つかまったおっかさんの腕が、顛へましたから、ちゞれ髪の頭を挙げて、おっかさんのお顔を見ると、何だか、泣きたい様な心持がして来ました。 (『小公子』p.6)

原文の‘Dearest’とは、セドリックが母に対して使う呼称で、「最愛の人」という意味だ。父親が母親をそう呼んでいたことから自分のそのように呼び始めた、と上記の引用文で説明されているのだが、翻訳ではばっさりとカットされている。「細君」「愚妻」などという呼び方が一般的だった明治期において、この‘Dearest’は訳しても読者に意味が通じないと考えてのことだったと推測される。

英米文化にあこがれを抱かせ、それを理解するツールとして機能していたであろう『小公子』だが、読者の理解を超えてしまう箇所は削除するという、実は偏りのある翻訳になっている点は注目に値する。翻訳『小公子』は、制限つきの文化理解を提示した一例と言えよう。

(5)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子





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2019年03月18日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に(3)

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2.1 明治時代の自己啓発本---スマイルズの『西国立志編』(1871年)

サミュエル・スマイルズによるSelf-Helpは1859年、イギリスで初版が出版されるとたちまち売り切れる人気を博す。著者スマイルズはスコットランドの医者から一転、カリスマ的指導者となった。自己啓発本の元祖である。

スマイルズのSelf-Helpの特徴は二点あり、まず、自己学習の重要性を強調した点、そして、努力すれば「紳士」にもなれるかもしれない、と思わせた点である。がんばれば報われる、というスマイルズの言説は現代版紙媒体の表紙にも受け継がれ、オックスフォード大学出版、ケンブリッジ大学出版のSelf-Helpの表紙には、いずれも自ら努力することの重要性をあらわす図版が使用されている。


自己学習の重要性について、British Libraryは以下のように説明している。


[Smiles] proposes knowledge as one of the highest human enjoyments and education as somewhat erratic road along which knowledge is acquired.

(www.bl.uk/collection-items/self-help-by-samuel-smiles)


つまり、スマイルズによると、知識とは人間にとって最高の楽しみのひとつであるものの、教育は知識を修得する際に迷走を伴うものでもある、ということになろう。そして、もう一点の、努力すれば「紳士」になれるかもしれない、というくだりについては次のように解説する。


One of Smiles’ most striking claims at the time was that even the poor could be gentlemen: ‘Riches and rank have no necessary connexion with genuine gentlemanly qualities’, which he describes as being ‘diligent self-culture, self-discipline and self-control --- and above all […] that honest and upright performance of individual duty which is the glory of manly character’.

(同上、下線部小泉)


下線部を中心に訳出すると、「貧乏な人間でも「紳士」になることができるが、「紳士」に必要な性質とは勤勉さと自己鍛錬、自己修養、自制心である」と述べていることがわかる。明白な階級制度が存在するイギリスにおいては、たとえ、労働者階級の人間が事業に成功して成り上がり、中産階級以上の資産を所有することができたとしても、内面が伴っていなければ所詮は労働者階級どまりで中産階級の仲間入りは果たせない、というのが通例だ。しかし、スマイルズのSelf-Helpの登場によって、そうした人物でも、努力すれば紳士階級の仲間入りができるかもしれない、と希望が持てるようになった、その意義ははかりしれない。この、努力すれば、夢はかなう、という言説は明治初期の日本においてもひろく受け入れられることとなった。

明治4年(1871年)、中村正直による訳出でSelf-Help (1866[1859])は『西国立志編』として出版され、人気を博した。この『西国立志編』は、1866年に出版された増補版を原典としているが、初版と同様、「自学」「勤勉」「向上心」の必要性を説き、「自助の精神」を提唱する内容で、「天はみずから助くる者を助く」という有名なフレーズもこの『西国立志編』第一編の第一文に由来する。たとえるならば、自己啓発本の元祖と言えよう。

自立し、人に頼り切らないことが重要、とのメッセージを持つ『西国立志編』だが、財源不足でインフラ整備もままならない明治政府にとっては、大変都合のよい内容だったことだろう。

松沢裕作が『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』において、「明治政府は、クーデターによって成立した、人びとから信頼されていない政権だったので、高い税金をとることができず、政府の財政を通じて、豊かな人から貧しい人へ富を再分配するような力をもちようがなかった」(pp.69-70)と述べているように、国民ひとりひとりが努力する必要性を感じざるを得なかったのだ。


明治時代のバイブルとも言われた、翻訳版の『西国立志編』では、原文とはレイアウトを変えて十八、十九世紀の偉人たちについてそれぞれ項目を分けて説明しているが、そのなかでも自助の精神が特に顕著な項目は以下の通りとなる。「忍耐力こそ成功の源泉」「勤勉な努力と忍耐が成功を導く」「いかにしてチャンスをつかむか」「意志の力の重要性」「勤勉な仕事ぶり=人格形成に貢献」「自学による立身出世」「「真の君子」たるべし」である。この項目の中から二つ、「忍耐力こそ成功の源泉」と「「真の君子」たるべし」の翻訳を分析したい。


まず、「忍耐力こそ成功の源泉」である。原文と翻訳を併記する。


All nations have been made what they are by the thinking and the working of many generations of men. Patient and persevering labourers in all ranks and conditions of life, cultivators of the soil and explorers of the mine, inventors and discoverers, manufacturers, mechanics and artisans, poets, philosophers, and politicians, all have contributed towards the grand result, one generation building upon another’s labours, and carrying them forward to still higher stages.

(Self-Help, pp.19-20)


およそ諸邦国、今日の景象に至るものは、みな幾世幾代を経て、諸人あるいは心思を労し、あるいは肢体を苦しめて、成就せしものなり。忍耐恒久の心をもって、職事(仕事)を勉強する人、尊卑貴賤の別なく、(土地を耕墾する人、鉱山を検尋する人、新器新術を発明する人、工匠の人、品物を製造する人、詩人、理学者、政学家)これらの人、古より今に至るまで、しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり。 (『西国立志編』p.63)


原文では “contributed towards the grand result”, “to still higher stages”とある箇所が、「しだいに工夫を積めるもの、合奏して盛大の文化を開けるなり」と変わってはいるものの、「一人一人の努力が大きな結果につなげがる」というニュアンスは少しだが読み取れよう。

だが、「「真の君子」たるべし」になると、‘gentleman’の翻訳が難しくなってくる。‘Even the common soldiers proved themselves gentlemen under their trials.’ (Self-Help, p.331)という英文が、中村の訳では、「尋常の兵卒といえども、患難の際に臨んでは、化して温柔の君子となるなり。」(『西国立志編』p.537)と変わってしまう。中産階級以上に所属し、マナーおよび礼節を兼ね備えた男性(ただし貴族ではない)、という意味を持つ‘gentleman’を「紳士」という単語で置き換えることが一般化したのは、少し時代が下ってからのことである。

『広辞苑』によれば、「紳士」という言葉は明治20年〜22年に発表された二葉亭四迷の『浮雲』の一節からとあり、「「搢紳の士」の意」と説明される。中村が訳出した際には、まだこの用例はなかったため、「紳士」ではなく「君子」を使ったと考えるのが妥当だろう。階級制度を内包する‘gentleman’を、「君子」という階級を超えた言葉で言い換えた翻訳者中村正直のセンスには、驚かされる。


最後に、『西国立志編』が翻訳された意義についてまとめると、新時代「明治」における日本人の「向上心」に合致した、ということがまず、言える。欧米列強に追いつけ追い越せ、の精神に合致したわけだ。そして、すべての人民の自助と努力が国の繁栄に貢献するというメッセージからは、明治政府にとって都合の良い国民の創生が促され、同時に、努力は裏切らないことを知るべしというメッセージからは、当時の国民にとってまさに必要不可欠なパラダイムが提供されたことになる。翻訳『西国立志編』は、国民の自己肯定感の向上を図るための、うってつけの装置だったと言えよう

(4)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉 朝子




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2019年02月24日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に (2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




1.2 明治時代の名(迷)翻訳

英語圏以外の翻訳作品を含めると、明治時代にはそうそうたる面々が並ぶ。明治21年(1888年)には二葉亭四迷によるツルゲーネフの『あひびき』『めぐりあひ』が、明治25年(1892年)には内田魯庵によるドストエフスキーの『罪と罰』(未完)、同時期には森鴎外によるアンデルセンの『即興詩人』も翻訳が始まっている。

また、前後するが、明治23年(1890年)には若松賤子によるバーネットの『小公子』の連載が始まり、これが大人気を博して25年1月まで続く。明治29年には坪内逍遥によるシェイクスピアの『ハムレット』が世に出る。(補足だが、シェイクスピアの翻訳で名高い逍遥が全訳を表舞台に出すのは明治40年代以降となる。)
さらに、「翻訳王」森田思軒、「翻案王」黒岩涙香らジャーナリズム出身の翻訳者が大活躍したのも、明治20年代である。

「翻訳王」森田思軒の主な仕事は、ヴィクトル・ユゴーの『探偵ユーベル』(明治22年)を筆頭として、ジュール・ヴェルヌの『鉄世界』『十五少年』(十五少年漂流記)、エドガー・アラン・ポオの『間一髪』(陥穽と振り子)など、有名どころ満載だ。「郵便報知新聞」に所属しその編集に携わったジャーナリストであると同時に、翻訳の仕事もこなしていたこの思軒について、前述の鴻巣友季子は次のように述べている。

思軒の場合は英文書以外はすべて英語からの重訳だったが、漢文の素養をいかした「漢七欧三」と呼ばれる原文に忠実な訳で、日本の翻訳にひとつの大きな流れをつくった。当時はまだ翻訳といっても、大胆な翻案や乱暴な抄訳が多く、「乱訳・豪傑訳の時代」と称されていたのだけれど、思軒の周密な、現代の翻訳に近い「直訳」は、文字どおり当時の翻訳の文体に大変革をもたらしたのだ。
(鴻巣友季子,『明治大正 翻訳ワンダーランド』p.19)

森田思軒の名は現代人にはあまり知られていないが、我々が翻訳作品を楽しみ理解する、という翻訳文化の基礎をつくったのは、ほかならぬ森田思軒だったということになる。知らないうちに、我々もその恩恵に与っている「翻訳王」なのだ。

一方、「翻案王」と称された黒岩涙香も、『萬朝報』を発行したジャーナリストという素地を持つ。明治25年に名高い『鉄仮面』を翻案して世に出したのち、明治34年には、デュマによる『巌窟王』(『モンテ・クリスト伯』)、明治35年にはユゴーの『噫無情』(『レ・ミゼラブル』)を翻案している。

デュ・フォルチェネ・ボアゴベによる『鉄仮面』(原題は『サン・マール氏の二羽のツグミ』)は、涙香の翻案によって日本で絶大なる人気を博したといっても過言ではない。ボアゴベの原作は「ルイ14世治下のフランスにいた、鉄仮面をかぶせられた謎の囚人」というモチーフを使った歴史小説で、デュマやユゴーにも同じ題材をあつかった作品がある。だが、涙香の『鉄仮面』では原作からかけ離れたストーリーが展開し、そもそも原作には存在しない場面も多くある。そして、原作に存在しなかった場面、展開こそ、明治の読者を捉えて離さない魅力があった。鴻巣友季子は涙香の『鉄仮面』についてこう述べる。

「翻訳者」にとって、筋立てのこうした改竄は必然のものであり、あのハッピーエンドこそが正史だったのだろうか……。

現代の翻訳界ではとうてい考えられない(著作権法からいっても許可されない)荒業だが、この手直しのおかげで、『鉄仮面』がこの国で多くの読者をつかみ、その結果、末永く読みつがれるようになった(百年あまりを経て新訳が出るほどに)のもたしかだろう。 (鴻巣,『翻訳ワンダーランド』,p.57)

読者を楽しませる、エンターテインメントとしての翻案だったことは確かである。また、「当時の新聞は掲載する小説・読み物の人気・不人気で売り上げ部数が激変した」(鴻巣, p.58)ことは現代と大きく事情が異なっている。涙香は『鉄仮面』を自身の発行した『萬朝報』で連載していたが、この連載後、『萬朝報』の売り上げは激増した。

明治時代に登場した、新聞という新しいメディアを得て、涙香は自由自在に活躍した。当時の新聞は、リアルタイムで自身の信条を(形式は変わるが)訴えることのできる媒体だったと言えよう。「荒業」と称される黒岩涙香の仕事だが、大勢の読者に自分の仕事を読んでもらうことで自分の信じるところを知ってもらう、という目的があった。だからこそ、おもしろくなければ読んでもらえない、という立場をとったのだ。

いずれにせよ、「翻訳王」の森田思軒と「翻案王」の黒岩涙香の二人が、それぞれジャーナリストであったことは注目に値する。明治における翻訳、翻案とはすなわち、読者という一般大衆と密接に関わる新しいメディア=新聞を活動の舞台として世に出たと言えるからだ。次章では、まず、明治初期に広く読まれた自己啓発本の翻訳と、この新しいメディア=新聞で、そしてもう一つの新しいメディアである雑誌でそれぞれ翻訳、翻案された作品について分析する。

(3)につづく


文学部 国際英語学科 準教授 小泉 朝子





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2019年01月21日

明治日本における翻訳・翻案 ― イギリス文学を中心に

地域とともに活躍する川村学園女子大学




1.概説:明治時代の翻訳・翻案

1.1 明治時代の翻訳とその土壌

鴻巣友季子の『明治大正 翻訳ワンダーランド』によると、明治時代の翻訳作品には、かなりの「力技」が見られるという。明治の読者を興奮させ感動させたエピソードが、実は原作には存在しない、翻訳者による完全創作エピソードだった、ということも多かった。

 こうした事態が生じたのはいくつか要因がある。ひとつには、明治期の日本が西洋諸国の文化を吸収し始めた、いわば西洋化の初期にあったということ、そして、もうひとつは、英語という言語が明治期の翻訳者にどれほど理解されていたかというと、必ずしも肯定的な答えを返せない、微妙な問題だったという点だ。

現代人は明治期の英語理解度を常に考慮せねばならない。1853年のペリー来航、そして1854年の日米和親条約締結により、維新前から英語への理解は進んではいたものの、本格的な英和辞典が編纂、出版されたのは、1862年の『英和対訳袖珍辞書』を待たねばならない。

これ以降、『改正増補英和対訳袖珍辞書』が1866年に出版、さらに版を重ねて1867年、1869年と増刷されていく。この英和辞書は、オランダ語系の辞典を介した、英欄辞典に依拠して編纂されたものだ。オランダ語の影響を受けずに、英英辞典を参考に編纂された英和辞書は、1873年(明治6年)の『附音挿図英和字彙』となる。

 森田思軒、黒岩涙香、若松賤子、内田魯庵ら、翻訳・翻案の第一人者が登場したのは、おおむね明治20年代英和辞書が誕生してたった数十年後という、英和創成期であったことは驚異と言えよう。そして、上記の翻訳者らの手によって、数多くの大ヒット小説が生まれ、大衆読者の人気を得た。つまり、当時の読者層において、翻訳小説という装置を用いて欧米列強の社会や文化を学び、それを自らの身体に取り込んでいく、という一連の流れが確立されていったのは明治時代だったということになる。




(2)につづく

文学部 国際英語学科 准教授 小泉朝子




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