2015年03月18日

金色の夢―オリエントの失われた黄金

地域とともに活躍する川村学園女子大学






 古代オリエントのイメージと黄金

 古代オリエントとはギリシアからみて東のすべてつまりアジアといわれる地域であるが、彼らの地理感覚からいえば、せいぜい現在の中近東とエジプトなどの地中海南岸をさしたものであった。アジアにはギリシア人の植民都市もあり、交易や使節の往来、また戦争捕虜などでの人的交流には事欠かなかったが、一般の人にはやはり遠いところで、未知の神秘的かつ憧れの地であった。




古代オリエント1.jpg




ギリシア人はすでにアジアの地中海沿岸の各地に植民都市を築いていたが、直接アジアの大国と接したのは紀元前5世紀のペルシア戦争を挟んでのことだった。ペルシア戦争は一応ギリシア人の勝利に終わったことになるが、その後も、アジアの富裕さと巨大さはギリシア人を圧倒した。ギリシアの神話や伝説に痕跡を残しているオリエント世界は、理解の範疇を超え、想像を絶するほど豪奢な世界とされている。



 近代に入って盛んになった考古学的発掘の成果も、すぐれた金細工品や高度に発達した都市文明の遺跡など、これまでのオリエント観を確認するものであった。しかし過去に金を産出するといわれたオリエント各地のエジプトやアナトリアにおいて現在金は産出していない。掘り尽くしてしまったものと思われる。世界の金の現存量はほぼ17万5千トンといわれている。それほど希少とも思えぬ金はなぜ富と同一視されることになったのであろうか。

 金の特質はやはりその輝きであろう。それを美しいと見るかは個人の自由だが、光に目を奪われることからいえば目立つことは確かだし、太陽という生命の源とも同一視されうる。錆びにくいがために変質しにくいことから永遠とか永続性を象徴しやすい。さらに柔らかいため加工がしやすいので、あまり技術力がなくとも大小さまざまの装飾品や備品として作られる。金を手に入れることは富、権力などを取り入れることと同一視された。


 このような金に取りつかれた人の例は古来枚挙に暇がない。オリエントに関して最も有名なエピソードの一つはフリュギアのミダス王の話だろう。フリュギアはアナトリア半島の中央部にあった国でその首都はゴルディオンといわれた。その町の南部にトモロス山があり、そこからパクトロス河がゴルディオンにむけて流れていた。この山に金があり地震のあったのち金が河に流れ落ち砂金となって、パクトロス河でとれるようになったとみられる。このフリュギアの紀元前8世紀ころの王がミダス王であったという。ミダス王はバッカス神への特別なサーヴィスの結果望みをひとつかなえてもらえることになった。彼は金が大好きだったので、自分が触れるものがすべて金に変わるようにと願った。その力を楽しんでいた彼はおなかがすいても食物が金に変わってしまって食べられないことに遅まきながら気がついて(または、自分の娘を抱き上げようとしたとき、娘が金に代わってしまったので)、その力を取り除いてもらったというはなしである。




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The Phlygian Tomb of Midas, Midas Sehri, 8th century B.C.





 ゴルディオンの砂金はまもなく金鉱からの採掘にうつったようで、近年のハーヴァード大学らの調査により、その採掘跡とみられる遺跡も発見されている。しかし精錬などの技術的な発展はいまだ解明されたとはいえない。



(2)につづく


教育学部 幼児教育学科 教授 山本由美子





2015年03月09日

平安の調べを聴く―雅楽の響き―(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




平安の調べを聴く ー雅楽の響きー


◆4



 15〜16世紀の断絶によって、雅楽はどのように変わったのでしょうか。

 まず挙げられるのは、謡い物の断絶です。本来雅楽には催馬楽・朗詠・東遊など豊富な歌謡が付いていました。しかし江戸時代初期にはそのほとんどが伝わっておらず、17世紀、徳川家光の頃に僅かに復曲がなされたことがわかっています。

さらに雅楽の変容を具体的にうかがわせるのが、18世紀、松平定信によって書かれた『俗楽問答』という書物です。江戸幕府は儒学を重んじる立場から、儀礼音楽としての雅楽を重視しました。しかし断絶後の雅楽は、古い書物と異なる点が多かったため、定信は幕府首脳の立場から当時の雅楽を批判しています。現代語訳で掲げます。


  演奏を荘厳にしようと思って、節奏なくただむやみに引きのばして吹き、鞨鼓・太鼓・舞までも、拍子に合う演奏を野暮とみなし、筝なども(メロディをかなでる)左手を用いてこそ全体の演奏に合うはずなのに、今はそれも省き、いかにも面白くない演奏を高尚な演奏であると心得ている。(このために雅楽を聴くと)普通の人間はただ眠気を催してしまうのである。

ここからは、江戸時代、雅楽が既に間延びした退屈な音楽になりつつあったこと、その背景に、テンポを遅くすることが高尚なことと考えていた楽人の姿勢があったことがうかがえます。また、筝の左手が用いられなくなっているという指摘もなされています。筝(いわゆる「お琴」)や琵琶は本来メロディを奏でる楽器でしたが、現行の雅楽ではときどき「ポロロン」「ベベン」とかき鳴らされる程度で、メロディは奏でられていません。こうした変容が15〜16世紀の断絶によって起こったことが推測されます。

さらに他の箇所で定信は、かつては行われていなかった新たな舞の所作が加えられていることも批判しています。秘伝化によって、細かな所作が付け加えられているのだと思われます。このように『俗楽問答』の記述からは、雅楽の著しい変容が見て取れます。それにしても、松平定信ですら「眠気を催すのみ」というのですから、雅楽のコンサートでついつい寝てしまう私などにしてみれば、なんだか心強い気もしてきます。




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 By 松平定信(自画像) (鎮国守国神社(三重県桑名市)) [Public domain], via Wikimedia Commons



 さて、それではもともとの雅楽は、どれくらいのテンポで演奏されていたのでしょうか。これについては、音楽学の研究者が平安時代の楽譜をもとにいくつかの復元案を示しています。復元の仕方によって幅がありますが、おおよそ現行の4倍から10倍速で演奏されていたとされています。何度か復元演奏を聴かせてもらったことがありますが、琴や琵琶のメロディを入れて10倍速にすると、とてもポップで華やかな感じになります。これなら確かに眠くはならないし、このテンポにあわせて舞うのですから、舞楽のイメージも今とはだいぶ違ったと思います。


 
 雅楽のテンポについて見てきましたが、実は近代になっても変容は続いています。そのことは、日本最古の雅楽録音からうかがえます。明治36(1903)年、ガイズバーグという技師が日本の様々な音楽が録音したものが残っています。お聴きになりたい方は『全集日本吹込み事始』というCDで市販されていますが、この中に越天楽の演奏が含まれています。この録音演奏を分析した寺内直子さんによると、現行の3倍速で演奏されており、一息で演奏されるフレーズも今よりかなり長かったということです。定信以後、近代になっても、雅楽は遅くなり続けているのです。

 雅楽のテンポが遅くなっていく現象には、いくつかの要因が考えられます。たとえば雅楽の楽譜にはテンポ記載がないため、伝承が途絶えるとテンポがわからなくなること。また、秘伝化に伴って細部へのこだわりが増した結果、長大化した可能性などです。しかし最も重要なのは、定信が「演奏を荘厳にしようと思って」と看破していたように、儀礼音楽としての重々しさを志向する楽人たちの役割意識だと思います。江戸時代に雅楽が重視されたことは既に述べましたが、近代にも宮中の「伝統」音楽としての意識が働いた結果、無意識のうちにテンポが遅くなっているのではないでしょうか。


 以上、かなり駆け足で古代から近代まで雅楽の歴史を追ってきました。「伝統文化」としての雅楽が、歴史的にみると実はかなり変容してきていることがおわかりいただけたかと思います。「伝統」は決して超歴史的なものではなく、社会の変動に対応しながら文化を伝えようとする人々の努力、あるいは国家や「家」やコネのために文化を利用する人々の思惑によって、形や機能を変えていくものと言えるのではないでしょうか。


〔参考文献〕
・別冊太陽『雅楽』平凡社、2004
・荻美津夫『古代音楽の世界』高志書院、2005
・福島和夫『日本音楽史叢』和泉書院、2007
・福島和夫「日本音楽史研究の現在と王朝文学」(『平安文学と隣接諸学8 王朝文学と音楽』竹林舎、2009)
・寺内直子『雅楽の〈近代〉と〈現代〉』岩波書店、2010


文学部 史学科 講師 辻 浩和




2015年02月25日

平安の調べを聞く −雅楽の響きー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





平安の調べを聞く −雅楽の響きー 

◆3

 11世紀から12世紀にかけて、様々な階層で「家」が成立します。「家を継ぐ」「家が絶える」という時の、あの「家」です。「家」とは、簡単に言うと「家業」を世襲する単位であり、多くの場合、父から嫡男子への直系単独相続によって「家」が継承されました。歌舞伎などの「家」を思い浮かべていただくとイメージしやすいかもしれません。

 雅楽の「家」が成立し始めるのもこのころです。身分の低い楽人たちの中から、右方舞の多家や左方舞の狛家、笙の豊原家などが生まれました。公卿・貴族など身分の高い楽人たちの場合は少し遅れますが、やはり琵琶の西園寺家や和琴・謡い物の綾小路家などが成立しています。


 
 さて、「家」は「家業」を世襲する単位です。「家」の存在意義は、「家業」を行うことにあるわけです。とすれば、「家」が安定的に存続していくためには、独自性を保ち、他家との差異化をはかる必要があります。「その仕事はうちじゃないとできません。他の家では無理ですよ」ということが出来れば、その「家」の存在価値は高まるわけです。

 雅楽の「家」では、差異化のために技術や楽曲の秘伝化が行われました。秘伝というとなにやらアヤシク聞こえますが、大きく分けると3つあります。

1つ目は秘曲です。珍しい曲、あるいは同じ曲でもめったに演奏されないバージョンなどです。

2つ目は演奏技術です。例えば13世紀に狛家で書かれた『教訓抄』という書物には、「万秋楽」という曲を演奏する時は、第2帖(楽章)の終りを延ばし、第3帖の始めを縮め気味に演奏しなさいという秘伝が載せられています。かなり実際的な演奏指導といえるでしょう。

以上の2つは何となく理解しやすいのですが、ちょっとわかりにくいのは3つ目の作法・所作です。直接雅楽の演奏とは関わらない儀式作法が雅楽の秘伝として伝えられています。例えば13世紀の『雑秘別録』という書物には「さらゐつき」という秘伝が出てきます。

長々と書かれていますが、要するに貴人の前を通る時、膝をついて挨拶をする所作の事です。私たちの目からはどうでもいいことのように思えますが、こうした所作が「秘蔵の事」として重々しく扱われたのです。このように、他家との差異化をはかるために、非常に細かな秘伝がどんどんと量産されていきました。



 秘伝は秘密にすることに意味があります。ですから、秘伝は嫡子など限られたものにしか伝えられません。そのことは一方で、嫡子がいない場合や夭折してしまった場合、雅楽の才能が無い場合などに相伝が絶えてしまう危険性を高めます。

 こうした秘伝の脆弱性が強く表れたのが、内乱期でした。まず14世紀後半の南北朝内乱では、貴族や武家が二つに分かれて争ったため、様々な分野で「家」の断絶が大きな問題になりました。永享4(1432)年に足利義教が「楽道再興」を宣言したのは、雅楽=楽道の伝承が途絶えつつあったためと考えられます。

 この時はどうにか雅楽の伝承が保たれたようですが、さらに深刻な危機をもたらしたのが、15世紀後半から16世紀のいわゆる戦国時代でした。京都が度々戦場となったため大事な楽器や装束、秘伝の書物が多く焼失し、楽人たち自身も戦乱の京都を離れて地方に疎開を余儀なくされます。雅楽を奏すべき朝廷の儀式が行えないことも、雅楽の伝承にはマイナスとなったでしょう。


 16世紀末に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、雅楽の復興に乗り出しますが、この時以降雅楽は三方楽所という体制で担われるようになります。失われた伝承が余りにも多いため、京都の内裏楽所、奈良の南都楽所、大阪の天王寺楽所の3つが協力して補い合うことで、ようやく雅楽を行うことが可能になったのです。とはいえ、この時の復興は完全なものではありませんでした。そのことは、17世紀にかけて膨大な雅楽研究が行われたことからもうかがえます。文献や古老からの聞き取りによって、かつての姿を復元しようとする努力が続けられたのです。



 このように、中世には雅楽の「家」が成立し秘伝化が進んだことで伝承が脆弱さを増し、度重なる戦乱によって多くの伝承が失われました。特に15〜16世紀の断絶は深刻で、この時を境に雅楽は大きく変容します。その具体像については後に述べますが、ここではひとまず15〜16世紀を第2の画期としておきたいと思います。


(4)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和




2015年01月29日

シリーズ「音の世界を語る 色の世界を語る」(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



平安の調べを聴く −雅楽の響き−


◆2

 8世紀に始まった雅楽は、9世紀後半から10世紀にかけて、早くも第一の画期を迎えます。この時期、律令国家を支えていた税の仕組みがうまくいかなくなり、律令制の仕組みの多くが崩壊します。雅楽寮もこの波に巻き込まれ、人員削減と事業の整理縮小を余儀なくされました。今でいうリストラと事業のスリム化が行われたわけです。

この過程でまず不要な音階・楽器、不完全な楽曲が整理されました。前に述べたように、雅楽は300年以上かけて散発的に輸入されたものですから、体系化されておらず、未消化な部分を多分に残していました。延喜20(920)年、醍醐天皇は貞保親王に命じて『新撰横笛譜』を編纂させ、完全な形で演奏可能な曲目の楽譜集を作らせました。醍醐天皇と言えば勅撰和歌集である『古今和歌集』が有名ですが、同じ時期に勅撰楽譜集も作らせていたわけです。『古楽図(信西古楽図)』には現在使われていない楽器があると述べましたが、そのほとんどはこの段階で整理された結果使われなくなったと考えられます。

整理に伴って、部門の統廃合も行われました。全体を左右の2部制にし、左方に唐楽・林邑楽を、右方に高麗楽・百済楽・新羅楽・渤海楽をまとめました。


律令制の崩壊は、雅楽の性格にも変化をもたらしました。

律令制下の雅楽は儀礼のための音楽であり、官人(国家公務員)としての楽人たちによって演奏されていました。楽人たちの身分は官位でいうと6位程度で、あまり高くありません。10世紀以降、儀礼が縮小されるとはいえ、楽人たちは同じように儀礼音楽を奉仕し続けていきます。

一方、10世紀以降は天皇や公卿(3位以上)・貴族(5位以上)など、身分の高い人たちも雅楽を演奏するようになりました。これは新しい動きです。彼らが行ったのは、公的な儀礼のための演奏ではなく、私的な場で親睦を深めるための演奏でした。『源氏物語』などに「あそび」という言葉が頻繁に用いられ、「管絃の遊び」と訳されますが、この「あそび」が親睦のための演奏会にあたります。現代でいうと懇親会でカラオケをするのに似ているでしょうか。

背景には、律令制が崩壊したことによって政治の仕組みが変化し、天皇との私的な関係が重要視され、天皇の身内と側近が政治的な役割を果たすことになったという事情があります。平たく言うと、天皇とコネをもっている人間に有利な時代がやってきたのです。天皇の側近貴族たちは、天皇と一緒に雅楽を合奏することで、天皇との関係を深めるようになりました。「君臣和楽」のために雅楽が利用されるようになったわけです。




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"Rencontre du Genji Monogatari" by Anonym - Tokyo, Goto Museum. Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons –
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rencontre_du_Genji_Monogatari.PNG#mediaviewer/File:Rencontre_du_Genji_Monogatari.PNG



このように、10世紀頃には雅楽の曲目・楽器・演奏組織が再編成され、雅楽の性格も大きく変わっていきました。雅楽の姿が変化した第一の画期と言えるでしょう。


(3)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和






2015年01月19日

シリーズ「音の世界を語る 色の世界を語る」

地域とともに活躍する川村学園女子大学





平安の調べを聴く −雅楽の響き− 

◆1

 日本の「伝統文化」として紹介されることの多い雅楽ですが、日本に渡来したころと比べると様々な点で大きく変わってきています。ここでは古代から現代までの雅楽の歩みをたどりながら、どこがどれくらい変わっているのか、変化の画期はいつなのか、変化した背景に何があるのかを考えていきます。




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"Gagaku 0372" by Antanana - Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons - http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gagaku_0372.JPG#mediaviewer/File:Gagaku_0372.JPG



 今日「雅楽」と呼ばれている音楽は、5世紀から8世紀にかけて様々な地域から伝わった渡来の音楽と、日本列島でそれまで演奏されていた在来の音楽とが混ぜ合わさって出来たものです。中国が内乱状態にあった時代、ヤマト朝廷は朝鮮半島から様々な先進文化を輸入しており、その一つに音楽がありました。5世紀半ばには新羅楽、6世紀初めには百済楽、7世紀前半には高麗楽が日本列島に入ってきます。唐が中国統一を成し遂げ、国際的な大帝国となると、7世紀末に唐楽が、8世紀初めにはロシア沿海部や東南アジアから林邑楽・度羅楽・渤海楽などが流入しました。



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 このように300年以上かけて段階的に流入していた音楽を、「雅楽」として一つにまとめたのは、8世紀にできた律令国家です。律令国家は、中国に倣って儀礼を重視していたため、儀礼のための音楽を国家的事業と位置付けました。雅楽寮というお役所では、400名以上の楽人が国家公務員として音楽の習得と演奏に励んでいたのです。
 その頃の雅楽の様子は『古楽図(信西古楽図)』からうかがうことができます。儀礼のための音楽ですから、野外演奏が主となります。そのため、楽人たちは立って演奏しています。また図の中には、今では使わなくなった楽器や、今とは異なる使い方の楽器が描かれています。


(2)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和




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2015年01月08日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






【4】 『イタリア古寺巡礼』とラファエロの聖母像


和辻は1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)にかけて数か月イタリアに滞在しています。その間、和辻は日本にいる妻に宛てて再三手紙を送っていますが、その手紙を再編集し、また一部加筆して上梓したのが『イタリア古寺巡礼』です。発行は1950年(昭和25年)のことです。

その旅行の主な訪問先はジェノヴァ、ローマ、ナポリ、アマルフィ、シラクサ、パレルモ、アッシジ、フィレンツェ、ピサ、ボローニャ、ラヴェンナ、パドヴァ、ヴェネチアなどで、旅行の目的は各地の教会や美術館を訪ねて美術作品を見ることにありました。ただ、『イタリア古寺巡礼』では日本とは異なるイタリアの風土への観察もこまやかになされていて、これが後に、和辻の代表的な比較文化論である『風土』(1935年)の構想に生かされてゆくことになります。

 さて、イタリアでの美術作品についてですが、和辻はこの旅行でイタリア美術の代表的作品を初めて自分の眼で見て歩いたわけです。この旅行記は現地で書いた手紙をもとにした叙述ですから、高揚した和辻の気分も伝わってくる臨場感のあるものです。が、同時にヨーロッパ精神史の推移を踏まえて美術作品の意義を捉えようとしている点において、この旅行記は、日本の古代文化の成り立ちに関する深い造詣を背景として、古美術を求めて旅をした『古寺巡礼』の場合と同じような魅力を持っていると言ってよいでしょう。

 次の叙述はラファエロの聖母子像に関するものですが、ジォットーやミケランジェロなどと対比しながら、中世からルネサンスへかけてマリア像がその宗教性を希薄にしてゆく過程の中にラファエロの聖母子像を位置付けたものです。



  ここに選び出したのはそのうちで(ラファエルのいくつかのマドンナ像のうちで)<グランドゥカのマドンナ>と呼ばれているものであるが、これはもう明白に慈悲の女神などを描き出そうとしているのではなく、「母と子」というものの永遠の姿――人生に意味がある限り、常にその意味の核心の中に存しているであろうと思われる深い事実――を描き出そうとしているのである。・・(中略)・・こうなればもう、この赤ん坊が大きくなってヨハネの洗礼を受け、キリストの自覚に達し、十字架に付けられるとか、この母親はあらゆる他の母親とは異なり聖霊によって妊んだのであるとか、という伝説的な内容は、この絵の本質的な価値をなすものではない。ただ母性の偉大さ、清浄さ、母の愛の中にある嬰児の天真な美しさ、生い育ち行く豊かな命の芽生えとしての嬰児の肉体の清らかな美しさ、――それらは実際に人間の存在の中で最も美しいものである、――そういう美しさを具象的に、鋭く、あるいは豊かに、あるいは優雅に現わしている点にこそ、絵の価値はかかっているのである。ラファエルはその中で清浄さや優雅さを特にねらった画家であるといってよい。
(和辻全集第八巻)





 さて、以上和辻の二つの旅行記のさわりのようなものについて書いてきました。ここまでの内容に興味をお持ちの方があれば、和辻の二つの旅行記を実際に手に取られることをお勧めいたします。二作品とも、岩波書店から発行されている和辻全集のほか、和辻のいくつかの他の著作とともに岩波文庫にも収められています。




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ラファエロ「大公の聖母」(ピッティ美術館)



文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘

(哲学・比較思想)




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2014年12月24日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





【3】 『古寺巡礼』の比較文化論的視点


『古寺巡礼』の魅力の一つは、【2】で見たように、仏像をはじめとした古美術との出会いという実体験をきわめて印象深く叙述している点に求められます。そして、その叙述の際立った特徴は、叙述が印象記の域をはるかに超えて日本の古代文化に関する、当時としては最先端の学識に裏打ちされている点にあります。

和辻の学識が、事象の本質に迫る卓越した洞察力として現われているということについては、【2】で触れておきました。それに引き続き、もう一つ彼のすぐれた学識に関して強調しておかねばならないことは、日本の古代文化の成り立ちを朝鮮や中国、インドなどとの連関で捉え、さらには古代の仏像とヨーロッパの芸術の比較までするといった視野の広さをその学識が備えていたということです。

次の叙述は中宮寺の弥勒菩薩像(『古寺巡礼』に時代にはこれを観音像と見る人もいたようです。)を拝観した時の印象を記したものですが、ここには裾野の広い学識を背景として自由に想像力を飛翔させるという、『古寺巡礼』のもう一つの魅力が感じられます。



この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるとともに処女であるマリアの像の美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結晶によって「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻におけるように特に母の姿となっている場合もあれば、また文芸復興期の絵画におけるごとく女としての美しさを強調した場合もある。・・(中略)・・しかしこの聖女(中宮寺弥勒菩薩)は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくまでも「処女」のものである。がまたその複雑な表情は人間を知らない「処女」のものとも思えない。と言って「女」ではなおさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。――慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人体の形に結晶せしめたものである。
(和辻全集第二巻)




 和辻は、ここでヨーロッパのマリア像との対比において弥勒像の美を捉えようとして思考を自由にはばたかせ、上述のような自問自答を経てこの像の本質を「慈悲の権化」と言い当てているわけです。弥勒像を前にしての、このように自在で豊かな思考の飛翔が和辻において可能であったのは、その確かな学識の蓄積によるということを、今回は書いた次第です。




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中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像



(4)につづく




文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




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2014年12月11日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』― 和辻哲郎の二つの旅行記 ―(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




【2】 美の巡礼としての『古寺巡礼』



前回触れたように、『古寺巡礼』は青年時代の和辻の奈良旅行をもとにして書かれたエッセイです。その旅行の主な訪問先は、奈良の博物館の他、新薬師寺、浄瑠璃寺、東大寺、法隆寺、唐招提寺、法華寺、薬師寺、当麻寺、中宮寺などの仏教寺院で、和辻の関心は行く先々の古美術、それも特に仏像に向けられています。青年和辻の『古寺巡礼』は、宗教的意味での巡礼ではなく、仏像を中心とした古代美術をめぐる美の巡礼であったのです。

 古代の仏教美術に和辻が関心を向けるようになったきっかけの一つは、学生時代に和辻が岡倉天心の古美術に関する講義を聞いたことにあったと言われています。また若い頃からの和辻の美術趣味は、妻の友人の縁で、横浜の大貿易商で茶人でもあった原三渓に手ほどきを受けたものだという話も伝えられています。こうしたエピソードからは、日本の古代美術に対する熱い思いをつのらせていった青年和辻の姿が鮮やかに浮かび上がるかのようです。

 美術作品に限らず、飛鳥・白鳳・奈良の古代文化にこの時代の和辻は強い関心を抱くようになり、その研究を進めていました。『古寺巡礼』出版の翌年に上梓された『日本古代文化』は、そうした研究の産物ですが、以上をまとめれば、古代文化への熱い情熱と深い造詣に裏打ちされた美の巡礼の記録、それが『古寺巡礼』だったと言えましょう。

 では、その美の巡礼の記録は、具体的にはどのようなものだったでしょうか?ここからは『古寺巡礼』の叙述を紹介して、そのさわりを見てみることにしましょう。

 まず、次の叙述は薬師寺の聖観音像を前にしたときの和辻の印象の叙述ですが、ここには聖観音像に出会うという実体験の様子と目の前の仏像の美に関するこまやかな観察、さらにはその体験に触発され、その体験を基点として動き始める和辻の思考の姿が描写されています。この一文を読むだけでも、『古寺巡礼』の雰囲気と谷川徹三が「イデーを視る眼」(和辻全集第二巻解説)と名付けた、事象の本質を直観する和辻の卓越した資質の一端が垣間見えることと思います。やや長いですが、引用します。



  わたくしたちは無言のあいだあいだに詠嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、わたくしは寺僧が看経するらしい台の上に座して、またつくづくと仰ぎ見た。美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。仏教美術の偉大性がここにあらわにされている。底知れぬ深味を感じさせるような何とも言えない古銅の色。その銅のつややかな肌がふっくりと盛りあがっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を表現したものである。しかもそれは、人体の写実としても、一点の非の打ちどころがない。・・(中略)・・もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生と同じではない。一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。
(和辻全集第二巻)





 さて、今回は以上の引用を味わっていただくことで終わりといたしたいと思います。



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薬師寺東院堂聖観音像




(3)につづく

文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




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2014年12月01日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』― 和辻哲郎の二つの旅行記 ―(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





                         
【1】 和辻哲郎の生涯と二つの旅行記



 公開講座では、近代日本の代表的哲学者和辻哲郎の二つの旅行記を取り上げ、それらの魅力についてお話しました。ここでは、そのエッセンスを簡単にまとめてお示ししたいと思います。【1】では、和辻哲郎の生涯と事績を紹介し、その中に二つの旅行記を位置付けます。

 まずその生涯ですが、和辻哲郎は1889年(明治22年)に兵庫県で生まれ、1960年(昭和35年)に`東京で亡くなっています。旧制第一高等学校入学のために東京に出てきて以降、途中10年弱京都で暮らした時期(ただし、その間に1年半ほどドイツ留学のためのヨーロッパ滞在)を除けば、大方は東京の近辺に暮らしたことになります。

東京に出てきてからしばらくの間は、哲学の勉学のかたわら文芸評論の執筆などにも熱中し、谷崎潤一郎ら文人との交友を持ちます。20代の和辻は漱石山房にも出入りし、晩年の夏目漱石の知遇を得ますが、その頃の和辻は文芸で身を立てるか学者の道を選ぶか、つまり美と倫理のどちらを選ぶか、その岐路に立っていました。若き和辻はいっぱしの文人でもあったわけですが、『古寺巡礼』は、そうした迷いの中にあった青年時代の最後の時期に和辻が友人とともに奈良へ旅をした際の印象をもとにして書かれたものです。

 『古寺巡礼』は1919年(大正8年)に出版されますが、その翌年に和辻は東洋大学教授に就任し、学者としての本格的な活動に入ることになります。その後、彼は京都帝国大学、東京帝国大学で教鞭をとり、東京大学退官後には日本学士院会員、日本倫理学会会長などを歴任、1955年(昭和30年)には文化勲章も受章しました。

 こうした経歴を見れば、学問の道に精進し学者として大成した碩学という和辻像がおのずから浮かび上がってきます。学者としての和辻には、日本文化史や比較文化論を扱う文化史家としての顔と、「人間」の「間柄」の理法としての倫理という着想を基盤として体系的倫理学の構築をした倫理学者としての顔という二つの顔があります。和辻哲郎は、このどちらの分野においても現在なお読むに値する高い業績をのこした哲学者として広く認知されています。彼の学問的な姿勢、つまり日本の文化的伝統に関する深い造詣を根底にして西洋の人文系の学問と格闘し、そのうえで独自の道を模索するというそのスタンスは、分野は違いますが漢文学の素養を背景として英文学と格闘した夏目漱石、また禅の伝統を背景に独自の哲学的思索を模索した、近代日本のもう一人の代表的哲学者西田幾多郎などと共通しています。

 さて、『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』は、このようなスタンスで学者としての生涯をおくった和辻が書いた旅行記です。『古寺巡礼』の成立の経緯についてはすでに触れましたが、『イタリア古寺巡礼』は上述したヨーロッパ滞在中のイタリア旅行の際の妻への手紙をもとにして編まれたものです。これら二つの旅行記の魅力はどのようなものか。次回以降はそうした話題に移ってゆきます。




1_和辻哲郎の写真 縮小.jpg



(写真・60才頃の和辻哲郎)



(2)につづく



文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)





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2014年11月20日

森林資源の活用法(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





多様な森林資源のさまざまな活用法(4)

4.木質バイオマスのエネルギー利用

これまでに、成長した木をタイミング良く伐って木材として様々な形で利用し、新たに植林することで地球温暖化軽減に貢献することを述べました。今回は、木質バイオマスのエネルギー利用について述べます。

2012年の国産材供給量が1,969万m3であることは既に述べましたが、森林から木材を生産して利用する際には、低質で材料としては利用できない様々な廃棄物が発生します。木質バイオマスは、これらの廃棄物全体を意味する言葉として使われています。

これらの木質バイオマスを燃やしてエネルギーとして利用すれば、その分だけ化石燃料の消費を回避できます。木質バイオマスを燃やすと二酸化炭素が発生しますが、これは元々大気中に存在していたものを樹木が吸収したものであり、全体として二酸化炭素は増大しないことになります。このことをカーボンニュートラル(Carbon neutral)と言います。

木質バイオマスは、その発生形態から「工場残材」、「建設発生木材」、「林地残材」に大別されます。工場残材は、製材時に発生する材料としては利用できない背板、鋸屑、樹皮などのことです。建設発生木材は建造物の解体時に発生する木材で、既に建設リサイクル法(2000年)で再資源化が義務付けられていることから、バイオマス発電用の燃料として使われています。林地残材は、間伐等の森林施業に伴って発生する枝葉、伐根、端材などで、資源としての潜在的な利用可能性を有するものの、収集・運搬に経費がかかることから、ほとんどが林内に放置されているのが現状です。

木質バイオマスからは色々な種類の燃料が作られています。現時点で実用化されている技術としては、直接燃焼、エステル化、炭化及び固形燃料化があります。直接燃焼や固形燃料化では、チップ、木質ペレット、薪として既に熱や発電に利用されています。炭化製品である木炭の国内生産量は3.0万トン(2012年)で、5年前に比べて約2割減少していますが、木炭は電源無しで調理・暖房に利用でき、長期保存も可能であることから、災害時の燃料として貴重と言えます。

木質ペレットは粉砕した木くずを円柱状(直径6〜10mm、長さ10〜30mm程度)に圧縮成型した固形燃料で、ストーブやボイラーの燃料として利用されています。ペレットの長所として、「@形状が一定で取り扱い易い、Aかさ密度が木材チップの約5倍でエネルギー密度が高い、B運搬が容易で貯蔵スペースが少なくて済む」などが挙げられます。同重量の木材チップと木質ペレットの容積を比較すると、ペレットはチップの約1/5になります。

21世紀に入って以降、日本のペレットの生産量は急激に増加しており、2012年には約98,000トンに達しています。それでもバイオマス利用の先進国であるドイツ、スウェーデン等の欧州諸国と比べると1/10以下の生産量です。2012年9月に政府7府省によるバイオマス事業化戦略が決定され、事業化を重点的に推進する実用化技術として木質バイオマスからの固形燃料化が選択されたことから、今後も木質ペレットの生産量の増加が期待されます。

木質バイオマスから輸送用燃料(バイオエタノール)を製造する技術については、2005年頃から産学官が連携して精力的に実証試験が実施されました。森林総合研究所(つくば市)は秋田県北秋田市に実証プラントを建設し、スギ材からバイオエタノールを製造する実証運転を行いました。森林総合研究所の採用した方法はアルカリ蒸解・酵素糖化法という方法で、1トンのスギチップから216リットルのバイオエタノールが製造できることを実証しました。固定費を含む全製造コストが約260円/リットルと試算されており、実用化のためには、林地残材等の原料費の低減や副産物利用が課題となっています。

最後に、木質バイオマス発電について記します。日本は、国内で使用される石油、石炭、天然ガス等の化石燃料の大半を外国からの輸入に依存しており、2012年におけるエネルギー自給率は5%にすぎません。このような中、太陽光、風力、水力、地熱、バイオマス等の「再生可能エネルギー」に対する関心が高まっています。

政府は、2002年に「電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法(RPS法)」を定め、電気事業者に対して太陽光、風力、バイオマス、中小水力、地熱等の新エネルギーから発電される電気を一定以上利用することを義務付けました。これを受けて、木質バイオマスを活用した発電が2012年3月末時点で全国の56ヶ所の施設で行われています(平成26年版森林・林業白書)。

2012年7月には、再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT制度)が導入され、再生可能エネルギーを用いて発電された電気について、電気事業者が一定期間、一定の価格で買取る義務を負うこととされました。木質バイオマスを原料とした場合の買取価格は、林地残材33.6円/kWh、工場残材25.2円/kWh、建設発生木材13.65円/kWh、買取期間は20年間とされました。同制度導入を受け、2014年1月現在、全国で37の施設が同制度によって売電を行っています(平成26年版森林・林業白書)。

この制度に要する費用の一部は電気料金に反映され、全国の家庭や企業等の消費者が支払うことになっています。

ドイツでは2000年にFIT制度が導入されました。同国の全発電量に占める再生可能エネルギーの比率は、2000年には6.4%でしたが、2012年には23%に増大しています。日本でもFIT制度の開始により、太陽光発電の本格的な導入が始まっています。

今回は、木質バイマスのエネルギー利用の現状を概説しました。木質バイオマスは他の再生可能エネルギーと異なり、原料の供給が必要です。エネルギー利用を推進するための課題は沢山ありますが、最も重要な点はやはり原料の安定供給にあります。そのためには、我が国の豊富な森林資源を活かした林業の活性化に産学官連携して取組むことが今後も益々、重要になると思われます。




木質バイオマス.jpg



木質バイオマスのエネルギー変換・利用
バイオマス付属.jpg は実用化技術、他は研究・実証段階の技術





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木炭製品





木質ペレット.jpg



木質ペレット(木くずを円柱状に圧縮成型した固形燃料)





チップ.jpg



同重量の木材チップ(左)と木質ペレット(右)、ペレットは
チップの約1/5の容積になる。





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木質バイオエタノール実証プラント(森林総合研究所)





生活創造学部 生活文化学科 非常勤講師 大原 誠資




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2014年11月11日

森林資源の活用法(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





多様な森林資源のさまざまな活用法(3)


3.森の香りと植物の葉の効能

1980年代前半に「森林浴(Forest bathing)」という語が使われ始めました。森林浴は、林野庁が「森林浴構想」を立ち上げた際に、日光浴、海水浴になぞらえて作った造語です。「新鮮な森の空気を浴びて自然にとけ込み、健康づくりをしよう」というのが森林浴です。

2004年に林野庁は森林浴構想を発展させ、「森林セラピー構想(Forest therapy)」を打ち出しました。「森林セラピー」は森林浴の効果を科学的に解明し、心と身体の健康に活かそうというものです。

2004年以降、全国の市町村を中心に、「森林セラピー基地」・「セラピーロード」として認定を受ける事業が開始され、現在、北海道から沖縄県まで全国で50ヶ所を超える森が森林セラピー基地・セラピーロードとして認定されています。「森林セラピー基地」とは、リラックス効果が森林医学の面から専門家に実証され、さらに関連施設等の自然・社会条件が一定の水準で整備されている地域のこと、「セラピーロード」は、同様の科学的検証がなされた20分以上の散策ができる散策路のことです。森林セラピー基地としては、和歌山県高野山や長野県信濃町の「癒しの森」などが認定されています。

森林のリフレッシュ効果は、樹木が放散する香り成分「テルペン」の働きによります。森林内のテルペン濃度の測定は、空気中の揮発性成分を選択的に捕集する吸着剤を詰めた吸着管を設置し、動的にポンプを用いて空気を吸引することでテルペンを濃縮・採取することで行います。森林で採取したテルペン類を熱脱着装置で吸着剤から脱着させた後、GC/MS(ガスクロマトグラフ/質量分析装置)という機器で同定・定量します。

森林内の香り物質の濃度は、季節、一日のうちの時間、気象条件(気温・天候)、森林内の位置によって異なります。季節では冬よりも夏の方が高く、一日の中では午前の方が午後より高くなります。また、晴れた日は曇りや雨の日よりも高くなります。傾斜地の森林では、中腹>頂上>麓・林縁となり、林縁から50〜100m入るとほぼ一定の濃度になります。

夏は光合成が盛んなことから、テルペン放出量も高くなります。また、午前より午後の方が気温が高く、テルペン放出量も高くなると考えられますが、午後は拡散も盛んになるため、日中のテルペン濃度は低くなります。泊りがけで出かける場合は、早起きして早朝に森林浴するのが効果的と言えます。

森林浴の効果は樹木が放散するテルペンだけに拠るものではありません。ストレスを和らげる森の静かな雰囲気、目に優しい緑の景観や風景、虫や鳥の声、騒音防止作用など、いくつかの作用の複合的な効果に拠るものです。自然が奏でる小鳥のさえずりや小川のせせらぎなどの音環境は、人間の快適性をもたらすと言われています。

森林セラピーの科学的な解明の一例を紹介しましょう。森林総合研究所の香川らの報告(平成21年度森林総合研究所研究成果選集)には、都内の大学病院の女性看護師13名を被験者にした森林セラピー基地での散策がもたらす健康・快適性増進効果が報告されています。即ち、2日間の森林浴により、被験者の尿中のストレスホルモン(アドレナリン)が減少するとともに、NK細胞活性が増大することが示されました。NK細胞とは白血球内にあるナチュラル・キラー細胞のことで、がん細胞やウィルスを攻撃して殺傷する役割を持ちます。従って、森林浴は女性の免疫機能を高める効果があることが分かりました。

森の香り成分(テルペン)は水蒸気とともに蒸発し易い性質があり、これを利用して植物から取り出すことができます。スギやヒノキの枝葉に水を加えて熱すると、水蒸気に交じってテルペンを採取することができます。この方法を水蒸気蒸留と言い、水蒸気蒸留で得られるテルペンを含む油分を精油(Essential oil)と言います。

精油は多くの針葉樹葉やユーカリ、クスノキ等の広葉樹葉から採取できます。日本の樹木で最も精油含有量の多い木はトドマツ(北海道モミ)であり、“石油のなる木”と称され精油含有量が多いことで知られるユーカリ類にもひけをとりません。トドマツの乾燥葉100g当たりの精油含有量は8.0mlであることが確かめられています。

排気ガスなどから出る環境汚染物質である二酸化窒素は、我々が日常吸っている空気に微量ながら含まれています。二酸化窒素は活性酸素であり、様々な疾病の原因になります。トドマツ葉の精油は二酸化窒素の除去能力に優れており、空気浄化剤として商品化されています。

トドマツの葉に含まれる香り成分(精油)が環境向上資材として利用されていることを上述しましたが、植物の葉は人間にとって有用な効能を示すものが多く、日常生活でも様々な形で活用されています。

クマザサは高さが1〜2mになる大型のササで、葉は長さが20cm以上、幅が4〜5cmになるイネ科の植物です。葉に含まれるフェノール類や酸類が殺菌・防腐効果を有することから、食品の包装に使われています(水大福、笹だんご、ちまきなど)。富山県のます寿司の下に敷き、鮮度保持のためにも使われています。

柏餅や桜餅など、食べ物を葉で包んだものは日常でも多く見かけます。包むという実用的な要素以外に、見た目の美しさや香りの効果を活かした利用法と言えるでしょう。さらにもう一つ、葉中のポリフェノール成分の抗菌性により、カビや細菌の成長が阻害されるという食品保存効果もあります。柏葉の抗菌成分はオイゲノール、桜葉の抗菌成分はクマリンというポリフェノールです。

岐阜県の飛騨高山地方では、ホウノキの葉に味噌を塗って焼く朴葉焼きという料理が親しまれています。ホオノキはモクレン科の落葉高木で、葉は非常に大きく、落ち葉を拾い集めてなべとして用いられています。

仏事用線香として杉葉線香が作られるようになったのは、150年程前からと言われています。杉葉を乾燥して裁断した後、水車小屋で2日程粉砕して粉にします。粉砕に水車が使われるのは、水車のきねが杉葉に適度な粘りを出すのに適しているからです。この杉葉粉に染料と粘着付与剤(タブノキの皮粉末)を混ぜて練り上げ、押出し成型したものを一定の長さの線状に切り揃えたものが杉線香です。仏前で静かに杉葉由来の香りを吸い込むことで精神が落ち着き、良い功徳になるという教えがあります。

グアバはフトモモ科バンジロウ属の熱帯性低木で、日本では沖縄に自生しています。葉に含まれるポリフェノール(タンニン)は、α-グルコシダーゼという消化酵素によるデンプンの分解を抑制し、血糖上昇を抑制する作用があります。高齢化社会の到来によって医療費の高騰と言う社会問題が発生し、その対応策として、日本では1991年に特定保健食品制度が導入されています。グアバ葉熱水抽出物は2000年3月に、健康茶として特定保健用食品として認可されました。

以上、森林の葉から放散されるテルペンに起因する森林セラピー機能や、植物葉の様々な効能について述べました。

次回は、木質バイオマスのエネルギー利用について紹介します。




テルペン.jpg



          
森林から放散される香り成分「テルペン」の採取法





トドマツ.jpg



  
水蒸気蒸留で採取したトドマツ葉精油(写真提供:森林総研)





空気浄化剤.jpg



            
トドマツ精油から開発された空気浄化剤の例





笹だんご.jpg




ササの葉で包んだ笹だんご





柏もち&桜もち.jpg


 

柏葉及び桜葉で包んだ柏餅(左)と桜餅(右)





ホウノキの葉.jpg



              
ホウノキの葉(朴葉焼きに用いる)





杉葉線香.jpg




伝統の香り -杉葉線香-



(4)につづく


生活創造学部 生活文化学科 非常勤講師 大原 誠資




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2014年10月22日

森林資源の活用法(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



多様な森林資源のさまざまな活用法(2)



2.樹体内の微量成分(抽出成分)の役割


樹木の幹は、セルロース、ヘミセルロース、リグニン等の細胞壁構成成分の他に、生育環境に適応した樹種固有の微量成分(抽出成分)から構成されていることを前回、述べました。抽出成分とは、有機溶媒または水に可溶な低分子化合物群の総称で、非常に多種多様な抽出成分が存在することが知られています。

抽出成分は樹木中の含有量は一般に少量ですが、木材の色、香り、耐朽性、シロアリに対する抗蟻性等の木材の性質を決定している重要な成分です。

樹木の幹の部分の断面を見ると、幹は外側から樹皮(bark)、辺材(sap wood)、心材(heart wood)に識別できます。このうち生きている組織は辺材だけであり、樹皮(正確には外樹皮)と心材は死んだ組織で、細胞は抜け殻(細胞壁)のみになっています。抽出成分は、死んだ組織である心材や外樹皮に多く含まれ、カビや細菌の生育を阻害する作用を有しています。

葉の光合成で作られたブドウ糖は砂糖(ショ糖)の形で幹の部分に運ばれてきます。樹木は運ばれてきたショ糖を原料に抽出成分(抗菌物質)を合成し、細胞の内腔に放出します。これを心材化現象と言います。心材に含まれる抽出成分の抗菌性により、樹木の心材部は死んでいる組織であるにもかかわらず、長時間、腐朽せずに存在できるのです。

一般に熱帯産材は日本産材よりも抽出成分含有量が高く、多いもので15〜20%の抽出成分を含むものがあります(日本産材は2〜3%)。熱帯地方は高温多湿で木材腐朽菌が生育し易い環境であり、熱帯産樹木は環境に適応するため、腐朽菌に対して抗菌活性を示す抽出成分を大量に生合成して蓄えているのです。

ガーナ、タンザニア等のアフリカ産木材は高温、強紫外線という樹木にとって厳しい生育環境であることから、紫外線を吸収し、かつ抗菌活性を有するポリフェノール性抽出成分(フラボノイド類)を多く含有しています。アフリカ産材に濃褐色系の材色のものが多いのは、これらの抽出成分を含むことに因ります。

次に、樹皮について述べたいと思います。樹皮は樹体の最外部にあり、紫外線から樹体内を保護するとともに、哺乳類や昆虫による摂食を防ぐ役目を果たしています。これらの機能を果たすため、樹皮には材部に比べて多くの抽出成分を含んでいます。

中でもタンニンは多くの高等植物の樹皮に多量に含まれている天然ポリフェノール成分で、草食動物の摂食に対する植物の防御物質と考えられています。タンニンはタンパク質と結合する性質を有し、動物の消化酵素の活性を阻害する作用を有します。また、40〜320nmの紫外線を吸収する作用を有し、紫外線ストレスから樹体を護っています。

タンニンは多くの高等植物の樹皮に広く分布していますが、中でもアカシア樹皮は30%以上のタンニンを含んでいます。また、ヤナギやカラマツの樹皮もタンニン含有量が20%近くに上ります。タンニンは樹木の樹皮を熱水抽出することで、茶褐色の粉末として取り出すことができます。化学的には緑茶の主成分であるカテキンと類似した化学構造の化合物です。

侵入種であるタイワンリスが、日本各地で樹木の樹皮をかじる問題が生じています。タイワンリスは内樹皮中の砂糖(ショ糖)をかじるのが目的ですが、被害が大きい樹種は樹皮中のタンニン含有量が少ない傾向があります。

また、ブナアオシャチホコという毛虫の食害を受けたブナ葉は、葉中にタンニンを生合成することによって摂食に対する抵抗性が誘導されます。ブナアオシャチホコの摂食が収まると、ブナはタンニンの生合成を止め、タンパク質を合成することで成長していきます。自ら移動することができない植物は、体内にタンニンを蓄積することによって昆虫や草食動物による攻撃(環境ストレス)から自身を防御しているのです。

植物の外敵は紫外線や草食動物だけではありません。アルミニウムも植物の生育に極めて有害な金属です。世界の陸地の約3割を占める酸性土壌では、有害なアルミニウムが溶け出して植物の生育を阻害しています。ところが、オーストラリア産樹木のユーカリ(Eucalyptus camaldulensis)は、アルミニウムを高濃度に含む強い酸性土壌でも生育することができます。これは、ユーカリの根に含まれるタンニンが根に侵入したアルミニウムを吸着して無害化しているからです。

上述したようにタンニンは、樹木自身にとって環境からの様々なストレスに対する生体防御という重要な機能を果たしていますが、人間にとっても利用価値の高い有望な物質となっています。

タンニンは皮を革にする性質があり、ワニやオーストリッチの皮を原料とした高級ハンドバックの製造に使われています。また、フランス海岸松の樹皮から抽出したタンニンは、血液サラサラ飲料水のフラバン茶として商品化されています。タンニンは樹皮だけでなく、リンゴやカカオの実にも含まれています。最近の調査研究により、プロシアニジン(タンニン)を主成分とするリンゴポリフェノールが人間の体脂肪の低減に効果的であることが示されています。

今回は、樹木に含まれるタンニン等の抽出成分が樹体内で果たしている重要な役割について記しました。

次回は、森の香りと植物の葉の効能について述べたいと思います。




森林2−1.jpg


          
樹木幹の断面(外側から樹皮、辺材、心材)





森林2−2.jpg



アフリカガーナ産樹木16種(ポリフェノール性抽出成分を含むため、濃褐色系の材色)





2−3森林.jpg



樹皮から抽出・精製したタンニン粉末





(3)につづく


生活創造学部 生活文化学科 非常勤講師 大原 誠資




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2014年10月13日

森林資源の活用法

地域とともに活躍する川村学園女子大学


多様な森林資源のさまざまな活用法(1)


1. 森林の機能と木材利用

IPCC (Intergovernmental Panel on Climate Change, 気候変動に関する政府間パネル)第5次評価報告書(2013年)によれば、世界の平均地上気温は1880〜2012年の間で0.65〜1.06℃上昇しており、地球温暖化は間違いなく進行しているとされています。また、20世紀半ば以降の世界平均気温の上昇のほとんどは、人為起源の温室効果ガス(二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素等)濃度の増加によってもたらされたと結論付けられています。

日本の平均気温について見ても、長期的には100年当たり約1.14℃/100年の割合で上昇しており、特に1990年代以降、気温の高い年が頻出していることが報告されています(平成26年版森林・林業白書)。

1997年に京都市で、「気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)」が開催され、先進国の温室効果ガスの排出削減目標を定める「京都議定書」が採択されました。「京都議定書」では、2008〜2012年までの5年間(第1約束期間)の温室効果ガスの排出量を、基準年(1990年)と比較して先進国全体で5%、日本では6%削減することが約束として定められました。

「京都議定書」については、2012年にカタールで開催された「気候変動枠組条約第18回締約国会議(COP18)」で改正案が採択され、2013〜2020年までが「京都議定書」の「第2約束期間」に決定されました。翌年の「同条約第19回締約国会議(COP19、ワルシャワ)」において、日本は2020年度の削減目標を2005年度比3.8%減とする目標を示しました。

温室効果ガスを削減する主要な方法の一つとして、森林による二酸化炭素の吸収が挙げられます。「京都議定書」においても、森林等による二酸化炭素の吸収量を削減目標の達成手段として算入可能であることが明記されています。

植物は、葉の気孔から吸収した二酸化炭素と、根から吸い上げた水を原料としてブドウ糖を合成することができます。これを光合成と言い、植物は太陽の光エネルギーを利用することで自らの栄養源となるブドウ糖を体内で作ることができます。一方、動物は光合成を行うことができないので、直接または間接的に植物を栄養源、活力源として摂食することが必要です。従って、植物が存在しなければ、人間をはじめとする動物は生きていくことができないのです。

植物は動物の栄養源として重要であるばかりでなく、光合成で温室効果ガスである二酸化炭素を吸収することにより、地球温暖化を軽減するという重要な役割も果たしています。ブドウ糖が作られるのは、葉の細胞の中にある葉緑体という組織です。光合成では、根から吸い上げた水が分解されて酸素が生成します。即ち、植物は光合成を行うことで、動物の呼吸とは反対に二酸化炭素を吸収し、酸素を放出しているのです。

光合成で作られたブドウ糖は、葉でビタミンCやアミノ酸等の原料となる他、砂糖(ショ糖)の形で茎や根に運ばれてエネルギーとして使われる他、酵素やタンパク質となって植物体の形成に関与します。木本植物である樹木の場合は、幹の部位に運ばれてセルロース、ヘミセルロース、リグニン等の細胞壁構成成分や、生育環境に適応した樹種固有の微量成分(抽出成分)に変換されます。

樹木には針葉樹(スギ、ヒノキ、カラマツ等)と広葉樹(シラカバ、ブナ、アカシア等)がありますが、いずれも幹の主成分はセルロース、ヘミセルロース及びリグニンです。各々の含有量は、セルロース50%程度、ヘミセルロース20-30%、リグニン20-30%です。針葉樹と広葉樹でヘミセルロースとリグニンの含有量が少々異なりますが、全体的には類似しており、樹種ごとの違いはほとんどありません。

セルロースは分子が束になって集合した状態(ミクロフィブリル)で存在しています。木材は、セルロースミクロフィブリルをリグニンやヘミセルロースが取り囲んで強固な構造をもたらしています。セルロースが鉄筋、リグニンがコンクリート、ヘミセルロースが両者の馴染みを良くする接着剤の役割を果たしていると例えられます。

上述のように樹木は光合成によって二酸化炭素を吸収し、炭素(具体的にはセルロース、ヘミセルロース、リグニン)として樹体内に蓄える働きがあります。樹木が木材として住宅や建造物に利用される間も、その炭素は蓄えられています。従って、木造住宅等の建造物を建設することは、都会に森をつくるのと同じ効果があり、木材利用も地球温暖化軽減に貢献することになります。

2011年に開催されたCOP17において、住宅等に使用される木材(HWP、Harvested Wood Products)に貯蔵されている炭素量を温室効果ガスの吸収量として計上できることになりました。これにより国際ルールの中でも、木材製品による炭素貯蔵効果が評価されるようになりました。

日本の森林資源は、2012年3月末現在で約49億m3の蓄積量となっています。一方、2012年の国産材供給量は1,969万m3であり、木材自給率は27.9%となっています(平成26年版森林・林業白書)。樹種別にはスギが最も多く、次いでカラマツ、ヒノキの順になっています。2012年の日本の木材の総需要量は輸入材を含めて7,063万m3でしたから、2012年の森林の総蓄積量49億m3は、単純に計算して年間の木材消費量の約70倍に相当することになります。

このような状況下、林野庁は2011年7月に「森林・林業基本法」を見直し、「森林の有する多面的機能の発揮」と「林産物の供給及び利用」の目標を新たに設定しました。「林産物の供給及び利用」の目標としては、2020年の国産材の供給・利用量を3,900万m3(総需要に占める国産材の割合:50%)とすることが示されました。

国産材利用率50%を目指すため、適切な森林施業や木材の伐出・運搬を低コスト化するための路網(林道)整備を加速化することに加え、国産材の需要拡大のための技術開発に向けた取組が行われています。

その一つが2010年10月の「公共建築物等における木材の利用の促進に関する法律」の施行です。2010年度に新築・増築・改築を行った建築物のうち、木造の割合は、建築物全体では43.2%であるのに対し、公共建築物では8.3%に留まっていました。そこで、学校、病院、図書館等の公共建築物を積極的に木造化する政策が採択されました。

木造校舎と鉄筋校舎で授業中の小学生の疲労症状を比較すると、どの学年でも木造校舎の方が疲労症状が少ないことが分かってきました。小学校や中学校の教師についても、蓄積疲労の増加を抑制する効果があることが示されています。校舎の木造化は、教育活動の支援にもなるようです。

公共建築物の木造化は、各都道府県でも積極的に取組まれており、都内の優良老人ホームや地域での村立の診療所などが建設されています。

今後の建築用資材として注目されるのが、現在開発中のCLT(Cross Laminated Timber、直交集成材)です。CLTとは、木材のひき板を繊維方向が層ごとに直交するように重ねて接着したパネルのことです。欧州では既に公営住宅やショッピングモールなどの中高層木造建築物の構造材として利用されており、近い将来、国産材の需要拡大に大きく貢献する材料として有望です。

土木分野における木材利用量の増加も図られており、宮崎県内の林道に国内最長(140m)の車道橋が建設されています。長野県ではスギ製材やカラマツ製材を用いた木製のガードレールが建設されています。これらのガードレールでは、支柱と支柱をつなぐ横梁に木材が使用されています。

また、用材にならない低質な木材の有効利用として、割り箸が作られています。日本では毎年約250億膳の割り箸が消費されているそうです。国産箸の原料は、スギ、ヒノキ、トドマツなどの針葉樹が主で、構造材を採った後の端材が用いられます。形状によって呼び方が異なり、中太両細の「利休箸」、全長に渡って溝をつける「元禄箸」などがあります。

以上述べたように、森林は光合成によって二酸化炭素を吸収し、炭素として樹体内に蓄える働きがあります。また、木製品や住宅として利用される間も、その炭素は蓄えられます。そして伐採後、適切に植林して成長の良い森林を育てることが、森林の二酸化炭素吸収機能を最大限に発揮させることになるのです。

次回は、樹木の樹種に固有な微量成分(抽出成分)の役割と、これらを人間が日常生活でどのように利用しているかについて述べたいと思います。


抽出成分1.jpg





木材の構成成分針葉樹(スギ、ヒノキ、カラマツ等)





抽出成分2.jpg



木材の構成成分広葉樹(シラカバ、ブナ、アカシア等)





割りばし3.jpg



用材にならない木材の有効利用 –割り箸- (利休箸と元禄箸)





(2)につづく


生活創造学部 生活文化学科 非常勤講師 大原誠資




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2014年10月08日

アレクサンドロス大王が目指した帝国(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第4回 支配の現実

 アレクサンドロスの将兵たちが、彼に不満を抱いたのは飽くなき前進の命令だけではありませんでした。
ペルシア帝国を滅ぼした後、アレクサンドロスはペルシア王の装束を身にまとい、豪勢な宮廷生活をし、
マケドニア人を含めた臣下に平伏して自らを崇めさせようとしたと伝えられています。

これに対して将兵たちは不満の色を隠さず、「王は勝利者というより敗者に似てきており、マケドニアの帝王から
ダレイオスの総督になってしまった」と述べるまでに到りました。

 その一方で、自分たちがペルシアの風習を受け入れるだけでなく、現地人にもギリシアのやり方を真似させることで、
アレクサンドロスは円滑な統治が可能になるとも考えました。彼は現地の若者たちにギリシア語を習わせ、
ギリシア風の戦術を学ばせました。

さて古参の兵士たちにいよいよ故郷への帰還が許可されたとき、彼らは自分たちがお払い箱にされ、若い兵士たちに
取って代われると感じ不満を表明します。インドで従軍を拒否した際に兵士たちは生きて故郷に帰ることを強く
望んだのですから、彼らの不満は一見おかしくも思えますが、ここではアレクサンドロスが彼らとともに帰国しようと
しないことに注目すべきでしょう。

 兵士たちの非難にアレクサンドロスは激怒しますが、数日後に両者は和解します。アレクサンドロスを批判した
兵士たちは、「自分たちはペルシア人とは別の人間であり、一時的に兵士あるいは略奪者としてアジアに来たのだ」と
いう意識を常にもっていたようです。こうした視点からはアレクサンドロスの行動は理解しがたいものだったのでしょう。

しかし、アレクサンドロスは支配者として自らの地位を確立し、力の源泉である兵力をいかに維持するかを現実的に
考えなければなりませんでした。その結果が必要とされたペルシアの伝統を受け入れ、若い兵士を育成することだった
のでしょう。こうした点を鑑みると、ここでは兵士の視野は狭く、アレクサンドロスの方が先を見据えた、大局的な
判断をしていたと言えるでしょう。

 とはいえ、アレクサンドロスはアジアの統治に自覚的になっていたにせよ、アジアの文化を理解し、文明・民族の
融合までを目指していたとするのは行き過ぎのようです。ここではアレクサンドロスの限界を示す1例を挙げるに
とどめます。

部下たちとの和解後に開かれた祝宴では、マケドニア人とペルシア人が力を合わせて支配にあたることが
祈られましたが、大王の周りをまずマケドニア人が、次いでペルシア人が座ったとされており、2つの民族のあいだには
序列があったのです。

 今回は限られたトピックしか触れられなかったため、アレクサンドロスを全体として評価することは断念せざるを
えません。ですが幸いにして古代に書かれた彼の伝記は日本語で読むことができ、日本人研究者による優れた研究も
あります。皆さんも、これらを手に取って自分なりの大王の姿を描き出してはいかがでしょうか。

                                            了


史料・参考文献
クルティウス・ルフス(谷栄一郎・上村健二訳)『アレクサンドロス大王伝』京都大学学術出版会、2003年
アッリアノス(大牟田章訳)『アレクサンドロス大王東征記』(上・下)岩波書店、2001年
プルタルコス(村川堅太郎編)『プルタルコス英雄伝』(上・中・下)筑摩書房、1996年
スエトニウス(国原吉之助訳)『ローマ皇帝伝』(上・下)岩波書店、1986年
澤田典子『アレクサンドロス大王:今に生き続ける「偉大な王」』(世界史リブレット人5)山川出版社、2013年
森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』(興亡の世界史1)、講談社、2007年




文学部 史学科 講師 高橋亮介





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2014年09月29日

アレクサンドロス大王の目指した帝国(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回 遠征の動機:アレクサンドロスを突き動かしたもの



 東方遠征が、ペルシア戦争の報復として父王の計画を引き継いで行われたことはすでに説明しました。
ですが、アレクサンドロスには単に父親の遺志に従うというよりも父に対抗する気持ちもあったようです。

彼は若い頃、父の軍功を喜ばず、むしろ自らがなそうとしていることを取ってしまっていると嘆いたそうです。
そして豊かな国ではなく、戦争と名誉心を満たす余地を残して欲しいと考えていたと伝えられています。

 この名誉の追求こそがアレクサンドロスを遠征に駆り立てたと現代の研究者の多くが考えています。
その論拠の1つとして挙げられるのが、ギリシアの伝説上の英雄アキレウスへのアレクサンドロスの傾倒です。

 アキレウスは、ギリシア連合軍によるトロイア攻城を題材としたホメロスの叙事詩『イリアス』の主人公です。
自分が戦場で命を落としても長らく語り継がれる名声を得ようとしたアキレウスは、競争と名誉を重んじるギリシア人の
心性をよく表すヒーローと言えるでしょう。

 アレクサンドロスも『イリアス』を戦術の資料として読み携えており、ダレイオスから得た戦利品の美しい小箱には
『イリアス』を納めるのが相応しいと述べたと伝えられています。繰り返し『イリアス』を読みながら、父親はおろか、
この英雄にも負けない名声を得ることをアレクサンドロスは夢想したのではないでしょうか。

 実際、従軍を拒む部下に対して、「武勇に生き不滅の誉れを残して死ぬことこそ尊ぶべきである」と述べて説得を
試みたというエピソードは、まさにアレクサンドロスが名誉を追い求めていたことを物語ります。

 しかし、アレクサンドロスの説得は功を奏しませんでした。名誉の追求は将兵に理解できない価値観ではなかった
にしても、あまりにも独善的なものと映ったのではないでしょうか。アレクサンドロスの理想と部下たちが見つめていた
現実との間には隔たりがあったようです。そして、私たち(少なくとも私)は部下たちに同情してしまいます。

こうしたギャップは遠征のあり方だけでなく、いまやペルシア帝国の領土を治めることになったアレクサンドロスがとった
施策に対する態度にも見られたのです。

(4)につづく




文学部 史学科 講師 高橋亮介






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2014年09月22日

アレクサンドロス大王が目指した帝国(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第2回 後世のアレクサンドロス評価

 アレクサンドロスは、大帝国を築き上げた古代ローマの政治家・軍人によって高く評価され、理想的な支配者と
見なされていました。

かのユリウス・カエサルも若いときに「アレクサンドロスが多くの民族の王となった年齢に達しても自分は
なにも華々しい功績をあげていない」と嘆いたそうです。




takahashi_photo2-1.jpg




 彼の後継者オクタウィアヌス(のちのアグストゥス)も、エジプトのアレクサンドリアで大王の柩と遺体を見て
敬意を表しました。しかし続いてエジプトを支配したプトレマイオス朝の諸王の遺体も見たいかと尋ねられると、
「私が見たかったのは、王であって死んだ者ではない」と答えています。

つまり、アレクサンドロスのみが王に相応しい功績をあげ、敬意が払うに値すると考えていたわけです。
軍事的な成功こそが個人の名を上げ、国を富ませると考えていたローマ人にとって、評価されるべき功績とは
軍事的な成功だったのです。




takahashi_photo2-2.jpg





 時代がはるかに下って、近現代ヨーロッパの歴史家たちもアレクサンドロスを高く評価しましたが、
彼らは「ヨーロッパ人がアジアに大帝国を打ち立てたこと」に積極的な意味を見いだしました。

19世紀プロイセンの歴史家ドロイゼンは、世界帝国を打ち立て、ギリシア文明を広め、東西民族を融合させた人物
としてアレクサンドロスを評価しました。

20世紀前半にイギリス人研究者のターンは、アレクサンドロスを「人類は同胞である」という理念の実現に努めた
人物と見なしました。

 このような評価は日本にも伝わりましたが、私たちの目から見ると、西洋の歴史家たちも彼らが生きた時代の
影響を受けていたと言わざるをえません。

19世紀のドイツは国家の統一を課題としていましたし、西洋列強はアジアへの進出と植民地支配を肯定的に捉える
(あるいは正統化する)ための先例を求めてかもしれません。20世紀になり国際協調が求められた時代には民族融和を
実現した人物としてアレクサンドロスが理想的に描かれたのでしょう。

 私たちも時代の子ですので、過去の人々よりも客観的だとは必ずしも言えませんが、軍事的な才能を発揮し、
高邁な理想を実現した支配者像から距離をおいたとき、アレクサンドロスをどのように描くことができるのでしょうか。

次回と次々回では、それぞれ遠征の動機と支配のやり方という2つのトピックについて史料を紐解きながら考えて
みましょう。




(3)につづく




文学部 史学科 講師 高橋亮介






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2014年09月11日

アレクサンドロス大王の目指した帝国

地域とともに活躍する川村学園女子大学






アレクサンドロス大王の目指した帝国

第1回 
はじめに:アレクサンドロスの東方遠征とは




takahashi_photo1.jpg




 紀元前334年、マケドニア王国の若き王アレクサンドロスは将兵を率い、アジアに渡りました。
いわゆる東方遠征の始まりです。目指す敵は、西アジア全域を支配下においた超大国のアケメネス朝ペルシア。
遠征は、前5世紀前半にギリシア本土に侵攻したペルシアに対し報復戦という名目のもと、2年前に暗殺された父
フィリッポスがすでに計画していたものでした。


 会戦での勝利を重ねたアレクサンドロスは、330年にペルシアの都の1つであったペルセポリスを占領します。
さらに敗走するペルシア皇帝ダレイオス3世を追い東進します。ダレイオスが途中で部下の手にかかり命を落した後も、
アレクサンドロスはとどまるところを知らず、やがてインドを目指しました。


 ところが旧来のペルシア帝国の版図を超えて進撃しようとするアレクサンドロスに対して、倦み疲れた将兵は
遠征の中断を懇願します。これを聞き入れたアレクサンドロスは帰路につき、前324年にペルシアの旧都スーサに
戻りました。翌年、再度の遠征の準備に取りかかるもののバビロンで熱病に罹り、32歳で没しました。


 治世のほとんどを異国の戦場で過ごしたアレクサンドロス大王は、ペルシアを倒し、その広大な帝国を引き継ぐという、
驚くべき功績をあげました。古代以来、アレクサンドロスには高い評価が与えられてきましたが、現代に生きる私たちは
彼と彼の行いをどのように捉えることが出来るのでしょうか。これが今回の公開講座のテーマです。

本論に入る前に、次回はアレクサンドロスがこれまでどのように評価されてきたかを見てみましょう。




takahashi_photo4.jpg



(2)につづく


文学部 史学科 講師 高橋亮介




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2014年09月03日

東のカールと西のシャルル(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



第4回


 ロタリンギアの出身者でアガノという男がおりました。妃の血縁者というふれこみで、口が達者、いつの頃からか
宮廷でよく見かけるようになり、弁舌巧みに王に取り入り、やがてお気に入りとなって、918年頃には王シャルルの諮問会
で強い影響力を行使するようになりました。

 諸侯はこの男を嫌い、王との関係が次第に冷却化していきます。諸侯たちからすれば、王との間に壁ができ、
王は自分たちの意見を聴かず、アガノの巧言に踊らされている、というわけです。封臣が封主に勧告するのは大切な
義務ですが、封主がそれに耳を傾けることも大切な義務です。919年、ロタリンギアにマジャール(東方の民族)が
侵入した時、これを撃退すべく、シャルルは諸侯に軍事動員を求めましたが、諸侯は拒否しました。これは深刻な事態
です。主君に対する軍役奉仕が家臣の一義的な義務であるのは周知のこと。王と貴族との封建的信頼関係に大きな
ひびが入ったことを意味しています。

921年、貴族たちの信頼が篤かったリシャールが死去したため、代わってロベールが貴族たちを指導する立場に立ち、
王の承諾なしにノルマンとの不戦条約を締結してしまいました。王は東向き、貴族は西向き、と関心の方向が大きく
ずれてしまったのです。


 922年、事件が起こりました。初代西フランク王シャルル禿頭の娘でロベール家に嫁していたロチルドなる女性が
おりました。彼女は結婚に際して、父たる初代西フランク王から個人財産として豊かな修道院所領を授けられて
いました。王シャルル単純は、突然、格別の理由もなしに、彼女からそれを没収してアガノに与える、ということを
やってのけたのです。もとより彼女が何か不始末をしでかしたわけでもありません。諸侯はこの王の偏った庇護は
正義に悖ると激怒し、猛然と反対しました。対立は紛争に発展します。


王と貴族の激突

 同年、ロベールとその娘婿ラウール(ブルゴーニュのリシャールの息)が協力して西フランク諸侯を指導。
貴族たちは王シャルルに対する家臣としての誠実を棄て、ロベールを王に選出し、ランスで戴冠させてしまいます。
年末には東フランク王ハインリッヒ1世もロベールを西王として承認しました。つまり諸侯、ランス教会、東フランク王、
と、すべてがシャルルに与しないとあれば、シャルルは逃げるしかありません。どこへ行ったでしょう。

 あろうことか、彼はノルマンの土地へ逃げ込みました。翌923年、彼はノルマンの援助を取り付け、ノルマンを率いて
西フランク諸侯軍と戦います。しかし6月15日、スワッソンで諸侯軍に大敗を喫し、ヴェルマンドワ伯エリベールの捕虜と
なり、投獄され、結局、929年に獄死するという末路を辿ることになりました。他方、貴族を率いたロベールもこの戦いで
戦死したため、戦争終了後、貴族たちはラウールを王に選出しました。

前年922年のロベール選出といい、このラウール選出といい、いずれも諸侯は自らの意思で、自らが欲する人物を、
血縁を重視せずに選出したことを証明しています。


衝突の意味 = 二つの人間関係の対立と緊張

 西王シャルル単純と貴族たちの対立の背後には二つの人間関係が拮抗していることを見ることができます。
ひとつは封主としての王と封臣としての貴族が結ぶ封建関係です。この関係は互いに誠実を誓う人為的な関係であり、
絶えざる合意形成を要するものです。貴族はこれを楯にとって王の不実を詰りました。

他方、血縁関係も自然な人間関係として社会の基礎を作っていることは言うまでもありません。こうした複数の
人間関係を上手に折り合わせることができず、対立させてしまったことが、王シャルルの不手際であったということは
できましょう。


おわりに

 東王カールは長く不当に評価されてきた王でした。それが基本史料たる『年代記』編纂者の魂胆によるものであった
ことは説明した通りです。しかし、だからと言って、その史料が役に立たないわけではありません。『マインツ続編』は
暗黙の裡に王のあるべき姿を述べ、その理想と現実との乖離を明確にするという手法で現実を批判しました。

 他方、西王シャルルは「英雄に成り損ねた愚物」でしょうか。所与の状況を熟考せず、取り巻きの中で自己陶酔し、
強引に自己主張を押し通そうとしたがために、現実に拒絶されたと言えましょう。

血縁者の壁で隔離された王と誠実宣誓を立てた封建諸侯の対立というヨーロッパ中世社会で何度か繰り返される軋轢を
見ることもできます。王といえども、古き慣習を守らぬ上に、臨機応変の才もない、とすれば、諸侯にとっては
無用の存在でしかありません。

 
記述の中に見出される王のあるべき姿と、諸侯の行動に映し出される王のイメージと、両者はぴたりと一致しています。
つまりこの時代においては、権力は人性を払拭することがなく、非人称の装置となっていません。権力は支配者(=王)と
一体化していることが自明であるからこそ、自明の理想に向かって邁進することで被支配者の信頼を得ることが必要
だったのでしょう。この時代 ――「ポスト・カロリング期」と言います ―― の王の姿から、何か特別な教訓を引き出す
心算はありません。しかし求められるものを実現できない支配者は支配者たりえない、という厳然たる事実から目を
そむけるべきではないでしょう。


参考文献
東王国のカール肥満王に関しては MACLEAN, Simon; Kingship and politics in the late ninth century. Charles the Fat and the end of the Carolingian Empire. Cambridge, 2003.
西王国のシャルル単純王に関しては DUNBABIN, Jean; West Francia: the Kingdom, in The New Cambridge Medieval History III, ed. by REUTER, Timothy, Cambridge, 1999. pp.372-397.




文学部 史学科 教授 金尾健美




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2014年08月22日

東のカールと西のシャルル(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第3回

 病弱で活力に乏しく、何もしない王であった、という記述も、そのまま受け容れるわけにはいきません。
まず上記882年の遠征隊にカール自身が参加し、指揮をとったことは確実です。「何もしなかった」という評判は
彼が病弱であった、という評価と一体のものです。873年にフランクフルトで「激しい頭痛を伴う発作」を起した、
という事件はよく知られています。脳梗塞でしょうか。後遺症の如何については知られていませんが、ともかく
王の「発作」はニュースとして価値があり、年代記の中では絶対に省略しえない記事でしょう。

その事実を彼の無精・惰弱に結びつけるのは無理があります。彼はイタリアへ6回、西フランクへ2回も遠征しました。

 さて、これまで述べてきたことは、いわゆる史料批判であって、歴史研究者が研究の過程で行うべきことであり、
研究成果を公表する場において言及する必要はない、と苛立っている方もあるかもしれません。
つまり『フルダ・マインツ』が事実を客観的に記録した「史書」とは言い難い作品であることは分かった。それで ?と。
マインツ大司教リュートベルトは一体何を書きたかったのでしょうか。


『フルダ年代記・マインツ続編』の書き手(マインツ大司教リュートベルト)は自身の失脚の恨みを歴史書に託し、
王カールを唾棄すべき最低の人物として描きましたが、これは実像とは言い難いことを確認することができました。
そこで、ちょっと一工夫してみましょう。彼が描くカールの像を全て逆転させてみます。そうするといったい
どのようなことになるでしょう。

 まず、「家臣の言いなりであった」という評価の逆は刻々に変化する事態を前にして、即断即決、英断を下す
ことができる人物となりましょうか。頼もしいですね。「外敵の侵略に対して無能・弱腰」という人物像の逆は
外敵を敢然と撃退するあっぱれな豪傑でしょうか。「病弱・惰弱・怠惰」という性格の逆は精力的で疲れを知らぬ
強靭な精神と身体の持ち主となりましょう。リュートベルトが、あるいはひょっとすると同時代の多くの人々が
理想とする王(勇者)のイメージとはこのようなものだったのではないでしょうか。

司教の批判そのものが妥当かどうかを論じることに大きな意味を見出すことはできません。そうではなく、
彼が無意識のうちに理想像の裏返しを行っていることに注目したいと思います。「語るに落ちる」とはこのことです。
カールを貶めるつもりだったのでしょうが、その文章の背後に、私たちはフランク王者の理想と行動規範を読み取る
ことができると思います。おそらくカールの実像はこの極端な称賛と罵倒の間のどこかに位置しているのでしょう。

『フルダ年代記・マインツ続編』は普通の意味での史書ではなく、むしろ道徳哲学ないし政治哲学の性格を備えていると
理解することができると思います。


ところで、この描かれたカールではなく、実在の王カールは西フランクに対しても影響を及ぼしています。
 
アセルト攻囲戦のあった882年、西フランク王ルイ3世が逝去し、884年にはその弟カルロマンも逝去しました。
いずれも継嗣が誕生していません。異母弟シャルル(後に即位して3世、単純王)は879年生れですから、
この時5歳です。

そこで東王国のカール肥満に西王位を委譲することにしました。その結果、884年からカールは東西フランク王国を
ひとりで支配することになります。この東王への権力移譲を推進したのは西王国の貴族で、有力派閥(北方派)の長
であったサン・ドニ修道院長ゴーズランであったとされますが、カール肥満は西王国を支配する人脈も拠点も持って
いません。つまりゴーズランは自身が西王国の実権を掌握したいがゆえに、このような操作を行ったと考えられます。


 その翌年885-886年の冬、西フランク王国の中心都市パリがヴァイキングに攻囲されると、地元の有力者であった
ロベール家のウードがパリ住民を指揮して抵抗しました。この時にウードと王カールとの間に何らかの接触があったと
考えられます。ちなみに、ウードの父ロベールは初代西フランク王の家臣で、剛の者として聞こえた傑物でした。
やはりヴァイキング戦で名をなしましたが、866年に戦死しています。


 ところが、このパリ攻囲戦直後、886年4月にゴーズランが、さらに同年5月にはトゥールを拠点としロワール地方に
勢力を張る主流派の領袖ユーグが、相次いで死去しました。しかし彼らに代わる実力者がなかなか現れず、西王国は
権力の空白地帯となってしまいました。その間隙を縫って、ウードは少しずつロワール流域へ自身の支持者ネット・
ワークを広げ、勢力範囲を拡大していきました。様々な紛争や司教選挙に介入して、信頼関係を築いていったと
されます。

こうして単にセーヌ流域にとどまらず、次第に西王国の実力者として知られるようになったウード、傑物ロベールの
息ウードを、カールは自身の代理、つまり国王代理、として指名することになります。




西フランク王シャルル単純王(位898‐923年)

 888年カール肥満が嫡子なく逝去すると、東王国ではカールの長兄カルロマンの庶子アルヌルフが反乱を起し、
王となります。西ではウードが圧倒的な支持を受けて王に選出され、10年にわたって西王国を支配しました。

シャルル単純王の治世

 そのウードが898年に嫡子なく死亡した時、ウードの弟ロベールも、聖界の実力者ランス大司教フルクも、そろって
カロリング家のシャルル(879生19歳)を支持したために、シャルルが西王に即位することになりました。この当時、
王は強制力を持つ支配者とは言い難く、むしろ有力諸侯(貴族)を政策決定に参加させ、合意を取り付け、その実施に
当たっては重要な役割を担わせることが必要でした。つまり彼らに封臣としての義務を強く自覚させ、王の、いわば、
同輩として王国を共同統治するという理念を持たせる。その見返りに、王は彼らの王国内での優越的・指導的地位を
追認する。こうして王と貴族は互酬関係を持つ支配者集団を形成していたと理解されています。


 シャルル単純の治世前半(898−c.910)は依然としてノルマン(ヴァイキング)の侵略が続いていました。
王シャルルは自ら軍勢を率いるだけの能力も財力もなかったので、それを家臣に委ねます。そのために、いわば
王国防衛隊長の任に当たったがブルゴーニュ(西王国の東南部)出身の貴族リシャール(c.858生-921死)であり、
彼を補佐したのはヌーストリア(パリ周辺)のロベール(ウードの弟c.865生-923死)でした。とりわけリシャールは
判官公とも呼ばれ、貴族たちから篤い信頼を得ていた人物でした。二人は貴族連合軍を組織し、911年7月20日
シャルトル(パリの南西約70 km)でヴァイキングに壊滅的打撃を与えました。この戦いの結果も、もちろん重要ですが、
それよりも、むしろ諸侯が王抜きで団結し、しかも立派な成果を上げることができた、ということの方がはるかに
重要と思われます。つまり王は必ずしも必要ではない、ということを証明してしまったのです。王シャルルは何を
思ったでしょうか。

 この戦後処理である同年のサン=シェール=シュル=エプト条約によって、ヴァイキングの領袖ロロには海岸沿いの
土地が与えられました(これが後のノルマンディーの起源です)が、同時に対ノルマン戦の先頭に立つことも約束
させられました。


王シャルルの結婚とロタリンギア支配

 王シャルルは908年(29歳)にロタリンギア地方(東王国に帰属)出身のフリデルーナなる女性と結婚しました。
これを機に、彼はロタリンギアに関心を抱くようになります。
 911年、東フランク王ルドヴィッヒ(アルヌルフの子)が死去すると、ロタリンギアでは西王シャルルの支配を
求めました。もちろんシャルルは喜んでこの申し出を受け容れます。以後、ロタリンギアは彼の直轄地として、
重要な財源となり、しかもロタリンギア出身者が何人も王シャルルの側近に混じるようになりました。つまり、
これまで望んでも得られなかったもの、自由に処分できる収入と人材を彼は手にし、その結果として、西フランク諸侯
に対する彼の態度は微妙に変化していきます。

(4)につづく




文学部 史学科 教授 金尾 健美




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2014年07月23日

東のカールと西のシャルル(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





第2回


 さて、そのマインツ大司教リュートベルトが描くカールやその諮問官筆頭リュートヴァルトの評価やイメージは
3つ指摘することができます。

 1)王カールは諮問官、特に筆頭ヴェルチェッリ司教リュートヴァルトの言いなりであった。
 2)王カールはヴァイキングの侵略に対して無能であった。
 3)カールは病弱で活力に乏しく、何もしない王であった。

と、散々な言いようですが、こうした指摘は正しいのでしょうか ? おそらく宮廷から追放された意趣返しであろうとの
予想は容易に成り立ちます。

 1)そもそも諮問官はひとりではありませんから、ひとりの諮問官が王に影響を及ぼし続けることは困難でしょう。
リュートヴァルトは尚書官筆頭ですから、王の文書に彼の名が頻出するのは当然で、それだけで王に影響力を行使して
いたとは主張できません。彼を「偽司教」とか、「異端者」呼ばわりするのは聖職者を貶める、あるいは罵る場合の
常套句で、その信憑性を問うこと自体が無意味です。むしろ奸臣のイメージを作り上げることに苦心惨憺している
ように思えます。

 あるいはまた、リュートヴァルトが辺境伯ベレンガルの姪を王立サン・サルヴァトーレ女子修道院から誘拐し、
自身の親族と結婚させたという事件を紹介し、彼が王の権威を蔑ろにした、と非難していますが、これは王カールに
対するベレンガルの反抗的態度に王が対抗措置をとった。つまり彼女を人質とすべく、王の許可と修道院の暗黙の
了解の下で実行された、という疑いが強いと思われます。


 2)ヴァイキング(ノルマン)の対応については『フルダ年代記・マインツ続編』から882年アセルト攻囲戦の
記述を抜き出して、箇条書きにしてみましょう。

(1)王カールは多国籍軍を率いて遠征し、敵攻囲戦を始め、陥落直前に追い込んだ。
(2)リュートヴァルトと伯ヴィクベルトが裏切り、敵の指揮官ゴーダフリートと内通した。
(3)ヴァイキングは降伏したと見せかけて、開城し、フランク軍を迎え、騙し打ちにした。
(4)王カールはゴーダフリートを洗礼させ、家臣とし、土地を与えた。
(5)王カールは財宝と人質をヴァイキングに与えた。
(6)ヴァイキングを切り捨てる兵士がいれば、処罰する。
(7)動員を解除し、兵は帰途に就いた。

 と、なるでしょうが、この記述は客観的なのでしょうか。非常に奇妙な印象を与えます。

(1)カールが率いる連合軍が戦場に到着した後、どのように戦ったか、攻囲戦の詳細が一切書かれていません。
つまり、すぐに(2)内通者の画策した和平の話になってしまいます。つまり書き手は戦闘の実際を知らないのでは
ないでしょうか。戦闘終了後の両者の取り決め(和平条約)だけを仄聞したに過ぎないと思われます。
(3)フランクを騙し撃ちにするために、ヴァイキングは兵力を温存したのでしょうか?
 
『フルダ年代記』の『バイエルン続篇』は、すでに述べたように、バイエルンに関係する出来事だけを記述した
地方年代記ですが、このアセルト攻囲戦に関しては奇妙に詳しいのです。そこで『マインツ』は脇に置いて、
しばらく『バイエルン』の記述を辿ってみましょう。

まず、一度集結した軍団が二手に分かれ、ライン両岸を行軍していったと記述されます。要するに敵を挟み打ちする
戦術で、カロリング期にはよく見られる戦法ですから、それが実施された可能性は高いでしょう。さらに当初は
奇襲攻撃を予定していたが、先遣隊の中から裏切り者が出たために失敗し、時間のかかる攻囲戦を余儀なくされた、
と記述されています。
その攻囲戦についても日付、敵との距離、自然条件などが正確に述べられていますし、エピソードも豊富に盛り
込まれています。
その後に停戦・和約の条項の記述が続きます。この著者はバイエルンに関係しない事件は大きく扱わず、885年の
パリ攻囲戦にもほとんど言及していません。それなのに、この詳細さは異常という印象を与えます。一人称複数
「私たちの」の使用法を考慮すると、書き手自身が参加したか、あるいは参加した知己から直接に訊いたか、
いずれかではないかと想像されます。

 このように考えると、マインツ版が記録したリュートヴァルトの裏切りは疑わしいものに思えます。
『バイエルン』では、先遣隊のフランク人が裏切ったとしています。リュートヴァルトはこの時、主席宮廷司祭で、
尚書筆頭でもありますから、本隊の王の傍らにいたと考えるのが自然で、先遣隊の中にいたとは考えられません。

 『バイエルン』は地方史ですから、王カールを擁護しようとする格別の理由・動機はないでしょう。敵と妥協して、
長引く攻囲戦をひとまず終わらせる、というカールの決断は、酷暑の中、多くの死体が放置され、腐敗が進み、
双方の陣営に疫病が蔓延しつつあったためであるとされます(『マインツ』にこの詳細は記載されていません。
私たちもこの攻囲戦が真夏に行われたことを初めて知ることができます)。つまり『バイエルン』は地方史として、
やや軽視されて来ましたが、こちらの方がずっと客観的で、従来第1級史料とされてきた『マインツ』よりも信頼できる
のではないか、と思えてきます。

(4)(5)王カールが敵の指揮官を洗礼させ、共同統治者とし、封土を与えたとは前代未聞の愚行であるとしていますが、
フランクの王たちは度々、このように敵を買収し、家臣とし、その上で、彼らに同志討ちをさせるという政策を
とってきました。
後述する西フランク王シャルルの治世、911年に、やはりヴァイキングを買収し、土地を与えたことが知られています。
王はともかくも戦闘を終わらせることを優先させて、教会財産を利用して彼らを買収したのでしょう。なるほど
聖職者の立場からすれば、それは許し難い「掠奪」であったかもしれません。

(6)(7)ともかく王がヴァイキングを退去させ、動員解除と帰還を命じたことは幸いであったと、『バイエルン』の
著者は語っています。そうすると、自軍の兵士に対する処罰の件は、ようやく停戦までこぎ着けたのに、戦闘再開も
やむなし、という事態に陥ることになるような勝手な行動は厳罰に処すと命じたものとは読めないでしょうか。

 つまり王カールの行動は『バイエルン続篇』を利用して、補いながら検討すると、合理性・一貫性があり、
決して無能な王ではなかったと理解されるのです。


(3)につづく


文学部 史学科 教授 金尾健美





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