2015年09月28日

日本の美術にみる色彩と文化(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界ー



U.古伊万里・有田の染付の魅力



佐賀県有田市は日本の磁器誕生の地で、伝わるところによれば江戸時代初期に朝鮮半島から来た李三平という人が、鍋島藩内の有田泉山(図−1)で白磁土を発見し、器の成型と焼成に成功したと云われています。


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図1 泉山採石の様子
 


鎖国の時代、長崎の出島にてオランダや中国との貿易が始まると、様々な物資とともに中国景徳鎮の優れた磁器が舶来し、その影響を受けて有田の磁器はいよいよ発達してゆきます。やがてオランダ東インド会社との交易が盛んになり、有田焼はヨーロッパでは通称“Imari”と呼ばれて、王侯・貴族たちに好まれました。

有田窯の当初は李氏朝鮮風でしたが、やがて中国の呉須(コバルト)による青い絵付「青花(せいか)」を模倣して、花・風景・祥瑞・吉祥文などの染付を生産してゆきます。
やがて17世紀後期になると白磁に青一色の染付のみならず、白磁に赤などの鮮やかな色絵付けを施した柿右衛門様式が登場、色絵付けと染付を組み合わせた技法「染錦手(そめにしきで)」による完成度の高い磁器をも生産し始めます。(図−2)(図―3)


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図2景徳鎮の青花大皿
(県立九州陶磁文化館)

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図3 染付白鷺図三脚皿
(県立九州陶磁文化館)




17世紀のヨーロッパ貴族はバロック趣味であり、豪華絢爛なものを好むことを注文主のオランダから知ると、有田では早速中国の青花芙容手皿、器にみる大柄な意匠等を手本として、より華やかな金襴の染錦手を工夫して注文に応じてゆきました。このことはいかにも日本人の融通無碍を心得た機敏さを表していて、大変興味深いところです。

先年、佐賀城と鍋島家の徴古館、及び佐賀県立博物館、県立九州陶磁文化館、有田赤絵町の今泉今右衛門窯、肥前鹿島市の鍋島木版更紗の鈴田滋人工房を訪ねました。このことにより鍋島藩には伝統的な武家の美意識の高さと、優れた産業振興育成策を常に発揮し、現在においても佐賀県の文化には、独自性とその感性の豊かさを見ることが出来ます。

平成24年8月、筆者知人の鈴田滋人氏(鍋島木版更紗・人間国宝)より紹介を頂き、御用釜で色鍋島の伝統を継承する有田赤絵町の今泉今右衛門窯と今右衛門古陶磁美術館2ヶ所を訪ねて、14代今右衛門氏より直々に鍋島の磁器についての解説をして戴きました。また九州陶磁文化館においては、館長の鈴田由紀夫氏が各展示室の案内と解説をして下さり、館長が作成の“九州陶磁の歴史”の映像を頂き、より深く学習する機会を得ました。(図―4)(図―5)(図―6)


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図4 染付風車文皿 鍋島様式
(今右衛門古陶磁美術館)

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図5 柿右衛門様式・色絵梅鶯文皿
(今右衛門古陶磁美術館 )

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図6 古伊万里・源右衛門窯
   (県立九州陶磁文化館)




九州陶磁文化館内に特別展示されている柴田夫妻コレクション展示は、古伊万里の染付を中心に数千点の寄贈作品で構成されていました。呉須(コバルト)を用いた初期伊万里の名品もよく揃い、その量と質の高さに驚くばかりです。それらの染付の絵柄には唐草・青海波・亀甲・吉祥文字そして何と言っても蛸唐草文様の皿や壺が多いのには驚きました。そば猪口の数量の多さにも目を見張るものが有り、その猪口の楽しさも感じました。正に染付は庶民の器そのものと云えます。

ちなみに西洋で磁器の生産が始まるのは、Imari(輸出伊万里)がヨーロッパの貴族たちに競って購入された頃より30年が経ってからです。やがて“カオリン”と呼ぶ白磁土が見つかり、磁器の生産が始まりますと、最初はドイツのマイセンがその焼成に成功します。時代はシノワズリー(中国趣味)でしたが、特に日本の染付が好まれて手本となり、伊万里の色絵柄も数多く模倣されました。やがて各国では西洋磁器の新しい技法も工夫されて、イギリスをはじめとしてヨーロッパの諸国で様々な展開を見せてゆく事になります。(図―7)


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図7 色絵桜樹群馬文八角壺、広口瓶 (有田焼成)
  (県立九州陶磁文化館)




やがて、鍋島藩は御用窯を大川内に築くと、朝廷と幕府への献上品と鍋島家の調度品としての用途以外には一切外に販売することのない高級磁器、即ち“鍋島”を製作し始めました。初期鍋島には染付の小皿などに優品を見ることができますが、その特徴はどこか素朴な温かみを感じる良さがあります。淡青ともいえる染付が美しい。絵柄には白鷺、桃,兎などをはじめ、小動物や果実、草花、風車などがあり、呉須(コバルト)の青と白でシンプルに色分けして表現しています。染付の中には墨を吹き付けたような「吹き墨」と呼ばれる技法が見られ、初期鍋島の特徴の1つになります。(図―8)(図―9)


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図8 色鍋島 岩牡丹文 
  (戸栗美術館)

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図9 鍋島・吹き墨技法
  (県立九州陶磁文化館)
 



元禄期の“色鍋島”は日本の色絵磁器の最高峰と言えるでしょう。そもそも外様大名であった鍋島家は武家の格調と高い美意識による高品質な磁器の生産に力を注ぎ、毎年新しい色鍋島を朝廷と将軍、徳川家へ献上してゆきます。この誰も真似することの出来ない最高級の磁器を、鍋島家の誇りと藩の存亡をも考えた最重要な品物として考えていたと思います。

今回、公開講座で用いた図像資料は、九州陶磁文化館長の鈴田由紀夫氏より戴きましたもので、それを存分に用いる事ができたことは誠に幸いでした。改めて感謝申し上げたい。


(3)につづく

教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




 
            

2015年09月14日

日本の美術にみる色彩と文化

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―青の世界―

 
    
「日本の美術にみる色彩と文化」―青の世界―
T徳島・阿波藍の歴史文化  U古伊万里・有田の染付の魅力 
V北斎・広重のプルシャンブルーの3つのテーマを選びました。

T、Uは実際に現地に赴き、資料館、専門の作家および研究者を訪ねて学んだこと、
Vでは浮世絵の展覧会にて鑑賞して、多くの美術書籍、参考文献等から参照しました。

ここでは、川村学園女子大学公開講座での内容に加え、
本年、再び徳島を訪ねて撮影した写真と新たに研究した事柄も加えて、≪青の世界≫をテーマの話をいたします。


T.徳島・阿波藍の歴史と文化


日本の藍染めの歴史について、「日本の藍―染織の美と伝統」(田村善昭著、日本放送出版)の序文「庶民の藍・永遠の藍」(北村哲郎氏筆)には「魏志倭人伝に正始4年(西暦243年)、倭国から絳箐(こうせい)の縑縑(かとり)、すなわち赤や青に染めた絹織物が献上された」とあり、その歴史の古さを知らされます。

日本の藍染めでとりわけ有名な「阿波藍」の起源をさかのぼると、現在の徳島県山間部にいた忌部氏の藍に染める衣料にはじまると云われており、古文献では平安時代の村上天皇の御世に著された『阿州藍草貢々記』に“阿波の藍を最勝とする”と記されています。

鎌倉時代中期ごろから戦国時代には吉野川流域に藍栽培が広がりはじめますが、やがて天正13年、蜂須賀家政が阿波に入国すると、領地となった吉野川流域が砂地であり、温暖多雨な土地の為、毎年、河川の氾濫により肥沃な腐葉土が大量に畑へ流れ込み、藍栽培に適した地であることを知ります。

しかし藍の収穫において農民は毎年吉野川の氾濫に苦しみ、堤防を築いて欲しいと要望しますが、全く叶えられず長年にわたり苦労して土地に生きてきました。
ただ、城のある武家町側には早くから堤防が造られています。

明治時代になると藍栽培はますます盛んとなり、明治36年には作付面積が全国の過半数にまで広がり栄えますが、明治末期になると安価なインド藍と合成染料の輸入により、徳島のみならず日本の藍産業は衰退の一途をたどる事になりました。

昨年と今年の夏に徳島市藍住町にある「藍の館」資料館を訪ねました。
ここは江戸時代の大藍商旧奥村家の屋敷内に建つ資料館で、徳島の阿波藍の歴史と藍製造の技を詳しく知ることができます。藍住町および近隣の上板町周辺地域は、吉野川流域のなかでも蓼藍(たであい)の葉を栽培している農家が集中していて、この地区は“すくも”(藍玉ともよばれる)を造る、藍師又は水師と呼ばれる匠の人たちが暮らしています。

「藍の館」では藍染の着物、夜着、布団、暖簾、風呂敷、武具、調度等が数多く展示され、さらに写真及び見事な和紙人形による、蓼藍栽培の風景と“すくも”造り、大藍商人の様子などを良く理解することが出来ます。
特にここでは蓼藍の葉を深い甕に入れて発酵させて、藍染料となる「すくも」に関する生産過程を詳しく藍師佐藤昭人氏が記していて、阿波藍の歴史・文化についてより関心を深めることができます。


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(図1)藍の館(旧奥村家)

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(図2)藍の館(藍染めのきもの)

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(図3)蓼藍の葉(夏に2回収穫)

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(図4)藍染め(和紙人形で再現)




             
今日、天然藍染めの商品を製造する全国の工房の多くは、藍住町、上板町で生産された「すくも」を使用しており、そのシェアーはおよそ90%にもなるといわれています。

江戸時代の農業全書全十巻(宮崎安貞著)には、人々に必要な植物として“三草四木”という考え方があり、三草は麻・藍・紅花叉は麻・藍・木綿、四木は桑・茶・楮・漆とされ、藍が選ばれています。日本では古代より高い身分の人しか身に着けることを許されない「禁色(きんじき)」が各時代にありますが、“藍の色”は誰もが自由に使用できました。

そして武家においては“勝”につながるとして、藍染めでは最も濃い染めの“褐(かち)色”を好まれて、現在でも剣道の稽古着は、藍染めが防菌・防臭にもなる事もあり多く使用されています。そして薄い藍染めの色は“甕のぞき”といい、以降は色の濃くなっていく順に浅葱色、縹(はなだ)色、藍色、紺色、そして褐色と呼ばれます。




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図−5 藍染の色名 




江戸時代になると木綿の生産が各地で広まり、きもの、ゆかた、半纏、足袋、暖簾、布団、風呂敷など、特に庶民は藍染め物を生活の中で様々に用いてゆきます。

明治時代に来日した小泉八雲の日記には、出会う人々の衣服や店に懸けられた暖簾など、あらゆるものが紺色であることに驚く記述があり、この一文により当時の様子がすぐさまにイメージされて、不思議と何処か遠い明治の面影が思い浮かんできます。

ところで、徳島市藍住町から吉野川沿いを上流に向かって、高速バスで30分ほど行くと美馬市脇町が有ります。ここは伝統的重要建造物群地区とされ、江戸時代中期から明治時代中期頃にかけて、藍商人達が商をして暮らした、“うだつのある町”として知られる古き町並が約400m続き、白壁の蔵・うだつ・虫篭格子の日本建築が美しく、阿波藍が長くこの地を繁栄させてきたかを知らされます。


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図―6 、図―7、図―8   藍商人により栄えた脇町・うだつのある伝統的重要建造物群



(2)につづく


教育学部 児童教育学科 教授 荻原延元




2015年07月30日

音コミュニケーション(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(2)音楽療法の実践的研究も行いました。



目的: 即興を用いた能動的音楽療法の効果を検討。

方法: 実験協力者 適応指導教室に通う不登校児童とスタッフ

手順: コップを用いた即興演奏の音楽療法を実施する前後に質問紙調査を行う。
  実験協力者は、音楽療法の意図を十分に説明され、同意した上でインフォームドコンセント用紙に署名して参加した。


図3



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 図3のように、音コミュニケーション実施後は、より笑顔になって、調子も良くなっています。
それでは、音コミュニケーション(即興的作曲療法)を体験した適応指導教室に通学中の児童の感想を紹介しましょう。


、コップで演奏をしてすごくたいへんでした。キレイな音のだし方やたたき方コップでもこんなにキレイですごい音がだせるなんてびっくりしました。自分の番ではきちんとやってなど、コップでもピアノなどの楽しいようなえんそうができて楽しかったです。アイコンタクトでえんそうするときは他の人の目をみたりしてえんそうしておもしろかったです、かえるのえんそうはりんしょうをして後からついてくるようにえんそうしたりおもしろかったです、ピアノとあわせてえんそうしたのもすごく楽しかったです。ピアノのえんそうもとてもキレイな音で心が晴れたような元気になりました。はじめる前は元気がなかったけどやってみたらすごく元気がでました。

、一つ一つのコップの音が違うので初めは驚いたけれどとてもきれいにひびき楽しく笑顔で演奏することができました。これからもっと良くなっていくのが楽しみです。またやりたいと思いました。やっているときに自然と笑ってしまったり、気持ちが良くなってきてやって良かったです。これからも頑張ってください。

、楽器じゃなくてコップを使って曲を演そうしたのが楽しかった。自分の番を忘れてしまいそうなときに友達が教えてくれたりして助かったし、うれしかった。自然と笑える場っていいなと思った。

、みんなと合そうができて楽しかったです。でもコップの音がどうしてなるのかとふしぎに思いました。

、今日は音楽療法を勉強できてよかったです。自分は音楽でドラムを習っているのですごい楽しかったです。


以上のように、登校拒否状態にある児童もアイコンタクトを遊びの中でやることで、普段「人と眼をあわせるのが怖い!」から「人と眼があうと安心するし、愉しいかも?!」に変化していくことがあるという体験ができました。そこで、以下のようにまとめました。




音コミュニケーション
  音をつかった人と人とのコミュニケーション


@アイコンタクト
 対人恐怖ぎみの人も、必要のためにアイコンタクをしてみる
          ↓
       怖くない→いえ、むしろ楽しい?
          ↓
 アイコンタクトで生まれる心のつながり

A共同作業
 いっしょに何かやることで、生まれるワクワク♪
       ↓
 集団ってもしかしたら、そんなに嫌なことじゃないかも???
       ↓
 いつもより周りの人が優しくみえるなあ、、、。

B創造性
 ワクワクすることで生まれる独創性♪
       ↓
 あれ?自分にもできる???
       ↓
 自分らしさの取り戻し。→自己実現(byロジャース)

Cチャレンジ精神
 怖いこともやってみると楽しい♪
       ↓
 あれ、最初は怖くても何とかできるかも???
       ↓
 克服→「人生は冒険」 (byロジャース)



                        
来談者中心療法のロジャース

全ての人は自己実現する力をもっている。不適応な状態にいても、自分で克服する事ができる。カウンセリングは受容的に聴いて行くことで本人の立ち直る力を回復させる。

自己実現:自分らしくのびのびと生きる力

人生は冒険:日々人は危険をおかして前に進んでいく。   



これからもいろいろな方たちに音コミュニケーションを体験していただこうと考えています。


    
文学部 心理学科 教授 簑下成子





2015年06月25日

音コミュニケーション

地域とともに活躍する川村学園女子大学





音コミュニケーション


高齢者施設をはじめとしたグループ療法のひとつに音楽療法があります。音楽療法にも色々あり、音楽を聴く方法や演奏を取り入れた方法で、受動的音楽療法と能動的音楽療法があります。

受動的音楽療法では、静かな環境をととのえ、名曲を聴いて浸らせます。能動的音楽療法では、以下の手法があります。

@高齢者施設などで行われる唱歌の合唱など
A様々な楽器の演奏、手足を使った、簡単なリズム遊び、など
B作曲療法などです。

対象となる人たちは、健康なにとから、不登校児童、高齢者、入院患者、精神障害者等です。

高次脳機能障害者へのピアノを用いた音楽療法では、記憶障害が改善されたという報告もあります(熊本,2003)。

左半側空間無視という、頭を打つ事故の後の障害で、右側しか歯磨きできなくなった人も音楽にあわせてリズムにのって行うことで、歯みがきできるようになった例もあります(甲谷,2004)。

海外の研究では、不安、うつ病、認知症だけでなく、認知機能(作業能力、判断能力、情報処理能力)が改善し、生活の質(QOL)もよくなった報告があります(ブラックバーン,2014)。

ブラッドは、がん患者30名に集団的に作曲療法を試みて、患者の感情表現が豊かになって、リラックスできるようになり、自分らしさを取り戻せたといいます。(ブラッド,2014)。

 精神的な症状では、家庭や職場に復帰するときには、ひとつひとつの症状よりも普段の人付き合いが重要になってきます。そのためには、能動的な音楽療法の作曲療法が特に効果を発揮します。

即興を用いた能動的音楽療法の一例(簑下ら,2012による)

ウォーミングアップ
1.ウォーミングアップ後、キラキラ星、かえるの歌。
2.コップと水を用いた即興的な能動的音楽療法
1オクターブ分の8名で、それぞれの音階になるように水を入れたコップを持ち、バチで叩くことによって演奏し、コミュニケーションをとりながら即興演奏する手法です。

参加者は、スタートの人からアイコンタクトをとった人へと次のコップを叩く人を廻していき、8つ全ての音階が奏でられるように工夫します。3回繰り返すと、一定のメロディが聴こえてくるので、ピアノで伴奏をつけて楽曲を完成させます。コップを叩くリズムや回数、音階の順番を変えることである程度無限のメロディが生まれます。




         
 図1.即興的作曲療法の方法



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   図2.音コミュニケーションを取り入れた音楽療法を実施している
健常大学生たちとピアニスト渡辺かづきさん。
トーンチャイムでアイコンタクトしながらメロディを作っていきます。



(2)につづく




文学部 心理学科 教授 簑下成子




2015年06月10日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(4)



 皆さんよくご存じの「十二支」。子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥、ですが、これをこの順序で、アナログ時計の文字盤に当てはめていって下さい。

 子を真上(12時)にすると、丑が1時、寅が2時…午が6時…亥が11時、ということになりますね。

 そしてその、子丑寅卯…が書き込まれた文字盤を、方位を示す羅針盤に見立てるとどうなるでしょう。子(12時)が真北、卯(3時)が東、午(6時)が南、酉(9時)が西というように見立てることが出来ます。

 詳しい説明は省きますが、戦国中期においては「子から未が生まれ、未から寅が生まれ、寅から酉が生まれ、酉から辰が生まれる」とされました(ちなみにこの段階では、ネズミとかヒツジとかトラといった動物とは全く関連がありません)。これは楽器の音階を調律する時の音楽理論に関わるもので、従って当時の人々にとって十分科学的なものでした。

 この子(12時)・未(7時)・寅(2時)・酉(9時)・辰(4時)の各方位に、水・火・木・金・土という五行がそれぞれ当てはめられました。それはやがて単純化され、「北=水、南=火、東=木、西=金、中央=土」と当てはめられます。


 方位の次は色彩です。

 北は太陽が隠れる方位、南は太陽が最も高まる方位。というわけで、北=水には黒色、南=火には赤色を当てはめます。そして東=木に植物の色である青、西=金に金属の色である白、中央=土は土壌の色である黄色が、それぞれ結びつけられました。


 季節だってすぐ想定できますね。
 北=水は冬であり、南=火は夏です。当然、東=木が春で、西=金が秋で…あれ、中央=土はどうしましょう。

 土が象徴する季節は、春夏秋冬のそれぞれの終わりにやってくる、とされました。四分割されて春夏秋冬の後ろにくっつけられたわけですね。

 五行説はこのような自然界の事象について説明を可能としました。そして、それを凌駕するような体系だった説明は当時存在しませんでした。

 しかも古代にあっては、自然界の現象と人間界の政治はひとつながりのものと認識されていました。だから前回述べたとおり、董仲舒は歴史上の出来事を五行説で説明し、王朝交代も五行にのっとって展開するとされたわけです。

 ここまで来れば、なぜ漢王朝のシンボルカラーが赤、魏王朝のシンボルカラーが黄色だったのか、もうおわかりでしょう。漢王朝は火徳、魏王朝は土徳とされていたからです。

 世界史をしっかり勉強した方なら、後漢王朝が成立する前の「赤眉の乱」をご存じでしょう。眉を赤く染めて反乱軍のメンバーの目印としたからその名がありますが、なぜ赤く染めたのかといえば、いったん滅亡した漢王朝の復活を願って起こされた反乱だからです。

 それと逆なのが、三国志ファンならおなじみ、後漢末期の農民反乱「黄巾の乱」。黄色い頭巾が反乱軍の目印でしたが、それは彼らが「打倒漢王朝=新しい世の中の到来」を目標にしたからで、「赤の次の色」である黄色をシンボルにしたのです。

 こうして、五行説は世の中のあらゆる事象を説明する理論として、社会の隅々まで浸透していきました。

 そして隋唐の時代には、遣隋使・遣唐使を通じて日本に伝えられます。日本では当時、隋唐をモデルとした国家を建設していましたから、奈良・平安時代の社会と国家について調べれば、多くの場面で五行説の影響を見て取ることが出来ます。

 なぜ、平安京の南の入口は「朱雀門」である(「朱」の字がつく)のか。もうおわかりですね。

 日本でも五行説は社会に深く浸透して中世近世へと至ります。中には当然、日本独自の文化の中に組み込まれたものもあります。

 わかりやすい例は、例えば「大相撲の土俵の上で、天井からたれ下がっている房の色は青赤白黒である」。土俵(土=黄色)を中心として考えれば、おわかりですよね。




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 山手線には「目白」と「目黒」駅があり、東京に慣れてない人から紛らわしいと言われたりするのですが、あれは「目白不動」「目黒不動」というお寺の名前から来ています。

 実は江戸東京の街には、他にも「目赤不動」「目青不動」「目黄不動」も存在するのです。もし全部駅の名前になっていたら、大変でした(笑)。

 「土用」という言葉をご存じですか。今では「土用の丑」という、うなぎがバカ売れする日についてのニュースぐらいでしか聞かなくなりました(「土用波」なら聞いたことある人もいるかもしれません。夏の終わりに日本を襲う高波のことです)。

 この「土用」とは本来は、春夏秋冬の後ろにやってくる、土が象徴する季節を指します。だから年に四回あるわけで、うなぎで有名なのは正確には「夏の土用の期間内の丑の日」ということになります。

 現代日本で「漢方」として継承されている東洋医学のルーツはもちろん中国医学ですが、その基本は体調のバランスを整えて健康な身体を作ることにあります。病気の治療も当然行いますが、それは対症療法というよりは、バランスが崩れたものを回復させるという発想でした。

 そこでは、人体とは小宇宙であり、自然界の延長にあると考えられました。

 となれば、当然五行説の出番です。身体の部位、臓器、分泌液、味覚や感情など、あらゆる要素が五行に配当され、それらは相互に関連づけられていきました。

 現在、陰陽五行について調べようと思ったとして、例えばグーグルで検索をかけると、そこに挙げられる情報の大半は東洋医学関係のものです。つまり、現代日本でも東洋医学の世界では、五行説が現役の理論として生きているのです。

(了)



文学部 史学科 教授 高津純也




2015年05月25日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






(3)

 「木・火・土・金・水」がこの世界の基本元素だというのは何となく理解できますが、決まった順序で交代し循環する、というのはどういうことでしょうか。

 戦国時代中期の『尚書』洪範篇の記述では、基本元素は「一に水、二に火、三に木、四に金、五に土」という順序で挙げられていますが、その順序になっている理由は明確でありません。まあ、何となくこの中では水と火が他以上に重要そうですけどね。

 鄒衍は、「木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に勝ち、水は火に勝ち、土は水に勝つ」という説を唱えます。つまり「木→金→火→水→土→木→金…」と循環することになる、というわけです。

 
 イメージできますでしょうか。

  木は、土を破って生えてきます。
  金属は、木を簡単に切断します。
  火は、金属を溶かします。
  水は、火を消し止めます。
  土は、水をせき止めます。
 という、「どちらが勝つか」比べをするとこうなる、という説明を加えたわけです。

 この「木→金→火→水→土→木→金…」という順序で循環する、という理論のことを、「五行相勝説」(もしくは「五行相剋説」)と呼びます。

 そして鄒衍は、彼の時代までに成立した中国の王朝をこの説に当てはめます。 

 「夏王朝は木徳、殷王朝は金徳、周王朝は火徳をそれぞれ天から授かって地上を支配した。従って、周の次の王朝は水徳である」と。

 このような発想は、周王朝の命運が風前の灯火となっていた戦国後期に生きた鄒衍ならではかもしれません。いったい天下の行方はどうなるのか、全ての知識人の関心事だったのですから。

 こうして、水・火・木・金・土という五元素は、単にこの世の物質を全て作っているという自然科学的な説明にとどまらず、中国を支配する王朝のあり方をも理論づけるものとなりました。この考え方に従い、周の次に中国を支配した秦王朝−ご存じ始皇帝によって天下統一が果たされました−は水徳であり、さらにその滅亡後に建国された漢王朝は土徳である、とされました。


 そして前漢中期(紀元前1世紀)になると話はさらにエスカレートします。

 董仲舒(とうちゅうじょ)という学者がいました。彼は陰陽五行説を導入し、歴史書に記されている、日食や干ばつといった天変地異の原因を、同時期の政治的事件で説明していったのです。

 天変地異と政治的事件とを関連づけることは、古くから行われてきました。例えば「○王が暴君だから、ひどい洪水が起きたのだ」「×国の当時の殿様が寛大だったので、この時期は豊作が続いたのだ」といった具合です。

 董仲舒はそこに陰陽五行説を持ち込んだわけです。五行は決まった順序で交代し循環しますから、そこにうまく歴史上の事件を当てはめることが出来れば、「ほら、こういう結果になったのは必然だったのだよ」と説得できます。

 これが21世紀の現代であれば、いくら見事に説明したって、うさんくさい「トンデモ本」として笑われるのがオチです。

 しかしそれは、五行説以上に説得力のある近代以降の自然科学の世界を、我々が学んでいるからです。そんなものが存在しなかった古代において、五行説以上に全てをうまく説明する理論はありませんでした。


 ところで、「木・火・土・金・水」がどういう順序で交代するか、という点については、鄒衍と別の考え方をする人もいたようです。

 木から火が生まれる(←木は容易に燃える)。
 火から土が生まれる(←火が消えた後には灰が出現する)。
 土から金が生まれる(←金属は土の中から掘り出される)。
 金から水が生まれる(←金属製品の表面には結露する)。
 水から木が生まれる(←木は水を吸収して生えてくる)。
 という、「どれからどれが生まれるか」を見極めるとこうなる、という説です。

 つまり、「木→火→土→金→水→木→火…」という順序で循環する、という理論になります。こちらの理論のことを「五行相生説」と呼びます。

 董仲舒の時代からしばらく経った前漢後期には、こと王朝交代については五行相勝説より五行相生説で説明する方が主流となりました。そこで、漢王朝は土徳ではなく火徳である、そして漢の次の王朝が土徳である、という説明になりました。




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 こうして、後漢の時代(紀元1〜3世紀)には、陰陽五行説は、自然界・人間界を問わず、あらゆる事象を説明する理論として隆盛を極めました。

 しかし、そんなに何でもかんでも五行で説明できるものでしょうか。
 次回、いくつかの事例をご紹介しましょう。


(4)につづく




文学部 史学科 教授 高津純也




2015年05月11日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(2)



 『尚書』洪範篇と相前後して、万物の根本となるいくつかの元素とその特徴を説明することで、この世界の基本法則を解き明かそうとする記述が、いくつかの文献に見え始めます。やがて、挙げられる元素が水・火・木・金・土に固定していきます。最も説得力があったということでしょうね。

 「この世界は水・火・木・金・土という五つの元素から成り立っている」「それぞれ特徴的な性質があるのだから、それに従って上手に利用することこそ、事をうまく運ぶための基本である」という五行説の基本が確立すると、それより先に成立していた、「万物には陰と陽という二つの側面がある」という陰陽説と容易に結びつきます。こうして成立したのが「陰陽五行説」というわけです。


 紀元前に栄えた古代文明で、「この世をつかさどっている根本は何か、万物の全てを形作っている元素は何か」という原理を探求した…ということですぐ思い起こされるのは、古代ギリシアの哲学者たちでしょう。

 万物の根源は「水だ」「数だ」「火だ」「原子だ」と、多くの学者が多彩な学説を遺しました。タレス、ピタゴラス、ヘラクレイトス、デモクリトス…。中には、現在から見ても「鋭いなあ」と唸らされるような記述も少なくありません。




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 それにわずかに遅れる形で、ギリシアの存在すら知らない遠方の古代中国にも、似たような思索をする人々が出現した、ということです。

 ただし五行説の特徴は、単に自然界の法則、万物の根源を解明するという点に留まらず、人間の精神的営みである感情や「徳」も五つの要素からなる、と守備範囲が非常に広かったことです。この王朝のシンボルカラーはこれだ、という話もそこから出てきます。

 『尚書』洪範篇の後段には、
 「雨・日照り・暖かさ・寒さ・風、という五つの徴候を重視せよ。これらがバランスよく、順序を違えずやってくれば、豊作になるのである。逆に一つだけが多すぎたり少なすぎたりすると、よくない結果となる。王が慎ましやかなら適度に雨が降り、王が物事をよく治めれば適度に日照りがあり、王が聡明なら適度に暖か、王が明敏なら適度に寒く、王が万事に通ずれば適度に風が吹くのである」とあります。

 
つまり、農耕民族であった古代中国の人々にとって最も重要だった気候・天候の善し悪しは、為政者である王の行いの善し悪しに懸かっているのである、と説くわけです。
 
このように五行説は、そのスタートの段階から、自然科学と政治思想とを結びつけるものでした。


 戦国時代後期(紀元前3世紀)、斉(せい)の国(今の中国東部、山東省あたり)に、鄒衍(すうえん)という人物が現れます。この人の著作は残っていませんが、現在に伝わるいくつかの古典文献に、鄒衍はこんなことを説いた、という記述が残っています。

 
それによれば…
 「この世には『木徳』『火徳』『土徳』『金徳』『水徳』という五つの徳がある」
 「そして各王朝は、それらの徳の一つと結びついている」
 「これらの徳は循環する。王朝が交代するごとに、徳も次へ次へと移ってゆく(五回王朝が交代すれば元に戻る、ということになる)」


 …なんだかよくわかりませんね。

 
そもそも、「徳」って何なんでしょうか。「徳」に種類があるってどういうことでしょうか。

 
我々が「徳」という単語でイメージする用法といえば、「あの人は人徳がある」とか「徳の高い殿様」とか、そんなカンジですよね。つまり、人柄のすばらしさ、周囲から尊敬されるような立ち居振る舞い、といったイメージ。


 『広辞苑』(第五版)で「徳」を引くと、「@道をさとった立派な行為。善い行いをする性格。身についた品性。」とあります。これは、我々が普通に考える「徳」の説明ですね。


 しかし実は、中国で2000年も3000年も前にこの単語=漢字が誕生した当時、この語には「立派だ」とか「善い」とかいう評価や、「行為」とか「性格」とかいう意味は、全然含まれていなかったんです。


 もともと、この「徳」という単語は、「人を動かす『目力(めぢから)』」を指すものだったのです。
 現在なお「目力」という言葉があるように、人が強いまなざしを何かに向けるとき、その視線にはパワーがある、と何となく思ったりしますよね。まるで、目からビームが出て相手を射貫くように。

 
呪術とかオカルトとかの世界がもっと身近だった古代では、なおのことそう信じられていました。人の視線には、その先にあるものを攻撃したり癒やしたりする力が宿っている、と。「徳」という漢字のうち、左側の「ぎょうにんべん」と右下の「心」を取り去った右上部分は、もともと「目からビーム(?)が出ている」姿をかたどったものです。


 だから「善い」とか「立派だ」とか、そういう道徳的な評価とは関係なかったんです。何かこう、もっと超自然的なパワーを指すものでした。


 「徳」とはそういう意味であったという前提で、もう一度上述した鄒衍の説を見直してみましょう。何となく、今度はイメージできる気がしませんか。


 五種類の、超自然的な力。
 それはそれぞれ、木・火・土・金・水というこの世界の基本元素と結びついている。

 この人間社会を支配する存在=王朝は、その超自然的な力を味方に付けているからこそ、社会を支配できるのである。そのパワーを失えば、王朝は滅びる。そして、次の種類のパワーを味方に付けた王朝が、新たに誕生する。…



 鄒衍の説のもう一つの特徴は、その五種類の徳は決まった順序で交代し循環する、という点です。次回はその点から見ていきましょう。


(3)につづく


文学部 史学科 教授 高津 純也




2015年04月29日

「赤い王朝、黄色い王朝」−五行説の世界−

地域とともに活躍する川村学園女子大学







(1)

 「シンボルカラー」「シンボルマーク」
 …みなさんよくご存じですよね。何か一つ、色や紋章を決めておいて、それによって自らを象徴するということは、どんな時代でも地域でも、個人やチームや企業、そして国家や王朝が行ってきたことです。

 源平の合戦なら、源氏は白旗、平家は赤旗。

 サッカーのナショナルチームなら、フランスは青、オランダはオレンジ。

 徳川家のシンボルは三つ葉葵の紋章、皇室のシンボルは菊の紋章。キリスト教のシンボルは十字、イスラームのシンボルは三日月。…いくらでもありますよね。




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 古代中国でも、王朝ごとにシンボルカラーが決まっていました。例えば漢王朝は赤。そして漢(後漢)の滅亡後に成立した魏(三国時代)は黄色でした。

 しかし特異なのは、そのシンボルカラーはその王朝が独自に決めたものではなく、その王朝が成立する前から決定されていたものだと言うことです。将来、今の王朝が滅亡したら、次の王朝のシンボルカラーはこれだ、と。

 新しい王朝を立てる人と言えば、かなりの英雄か、そうでなくても相当の権力者に決まっています。そんな権力者をもってしても変更できない、運命づけられた王朝の色。…どうやって決められていたのでしょうか?
 それを決めていたのが、古代中国で「万物を貫く基本法則」として広く浸透していた、「五行説(ごぎょうせつ)」という理論なのです。

 「五行説」…名前ぐらいは聞いたことあるでしょうか。

 日本では、「陰陽五行(いんようごぎょう)」という熟語となって知られているかもしれませんね。何となく、平安時代あたりの、占いとかオカルトとか妖怪変化とか、ファンタジーの世界を連想する方も多いかもしれません。

 この「陰陽五行」とは、「陰陽説」と「五行説」という二つの理論が合わさって出来た言葉なのです。どちらも、世の中の全てを説明する基本法則として信じられてきました。

 「陰陽説」の方がわかりやすいですかね。「万物は、全て二つの相反する要素(陰と陽)から成り立っている」ということです。天と地。右と左。プラスとマイナス。光と影。雄と雌。暑さと寒さ。…なるほど。どれをとっても、その片方だけが存在するということはあり得ません。

 では今回のテーマ、「五行説」はどうでしょう。

 それは、「万物は、全て五つの要素からなり、その五つは循環するように交代していく」という理論なのです。

 五つとは、例えば色なら、青・赤・黄・白・黒。

 例えば方角なら、東・南・西・北・中央。味覚なら、酸っぱい、苦い、甘い、辛い、しょっぱい。など、無数にあります。

 それらの根本となっているのが、この世界を形成しているとされた五つの元素である、水・火・木・金・土なのです。

 この五つが「循環する」とはどういうことか、その点は後回しにするとして、とりあえず「万物は水・火・木・金・土という五つの元素から成り立っている」という五行説の根本となる考え方は、いつごろ成立したのでしょうか。

 正確にはわかっていませんが、このことについて記している文献で最古のものが、いわゆる四書五経の一つである『尚書』の洪範(こうはん)篇であることは定説です。そしてその成立は、戦国時代中期(紀元前4世紀半ば)ではないかと言われています。

 そこには、古代中国の伝説の聖王である禹(う)が、世の中をうまく治めるために必要な基本原理について天から啓示を受けたことが語られています。その基本原理とは人間の行いや性格、国家の官職など9つの分野にわたります。

 その中で筆頭にあげられているのが、水・火・木・金・土という五つの元素のことです。「まずは『五行』である。一に水、二に火、三に木、四に金、五に土である」と紹介した上で、「水は流れ下り、火は燃え上がり、木は曲がったり伸びたりし、金は形を自在に変え、土は種をまき収穫するのを助ける」と、それぞれの性質が説明されます。この性質をよく理解して活かすことが重要だ、というわけです。

 この「水・火・木・金・土こそ、万物の根源だ」は、五行説の初歩中の初歩。次回は、そこからどう展開していったかを見てゆきます。


(2)につづく



文学部 史学科 教授 高津 純也




2015年04月06日

金色の夢―オリエントの失われた黄金(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



古代オリエントのイメージと黄金(2)


 金に関する有名な史実のひとつは、リュディアの金貨のはなしである。リュディアは世界で最初に純金金貨を発行したとされるところである。金貨はただの金とは異なりかなりの技術力を必要とするし、純金ということは明らかに精錬技術が進歩したことを示している。

というのも、金は銀との合金(エレクトロン)の形ででることが多く、金製品といわれるものも、エレクトロンであることが多いからである。また貨幣は流通するにあったって、その保証を担保する権威が必要である。





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エレクトロン貨(Electrum )





リュディアが紀元前6世紀にはその保証ができるほどの繁栄した大国になっていたこと、また経済規模が金貨の支払いを可能にするほど拡大していたことがあきらかである。

 紀元前6世紀のリュディア王クロイソスは、そのような条件をクリアできるほどの力を持ち世界で最も裕福な人といわれたほどの王であった。彼は信仰するアポロンの聖地デルフォイに多くの金製品や金貨を貢納したといわれ、その痕跡は今も残っている。

彼の裕福さはその後、彼がペルシア帝国を立てたキュロス王に敗れて、王国を失ってからも、彼の孫にあたるピュティオスは、世界最大の富豪と言われ、クセルクセス王にペルシア戦争の戦費を賄うと申し出たほどの富を所持していたという。つまりクロイソスの富は孫の代まで引き継がれるほどの伝説的なものであったといえる。





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クロード・ヴィニョン画『リディアの農民から貢ぎ物を受けるクロイソス』(1629年)




 金貨は実は高価すぎて普通の買い物に使われることはない。どこに使うかというとまず神殿への貢納、賄賂、または戦費の支払いである。ペルシア帝国もリュディアにならって金貨を作ったがその利用は上記に限られていたから、これが正しい金貨の使い方であったといえるのだろう。その点ではペルシア戦争の戦費の支払いをかってでたピュティオスは所有する金貨の正しい遣いかたを示しているといえよう。

 トゥタンカーメン王の金の遺物に代表されるエジプトの金ほどに有名ではないにしろ、金が重要視されない世界はない。オリエントはその代表的な世界であった。しかし喧伝されたオリエントの金を産出した金鉱も取り尽くされてしまっては、如何ともしがたい。最近の考古学の調査が地道ではありながら、金を手掛かりにオリエントでいかに採掘や精錬の技術が発達したか、またその流通経路や経済規模を明らかにすることで、事実に基づいた歴史研究を展開してきた。

金のもたらす本当の夢はそこにあるのではなかろうか。



川村学園女子大学名誉教授  山本 由美子




2015年03月18日

金色の夢―オリエントの失われた黄金

地域とともに活躍する川村学園女子大学






 古代オリエントのイメージと黄金

 古代オリエントとはギリシアからみて東のすべてつまりアジアといわれる地域であるが、彼らの地理感覚からいえば、せいぜい現在の中近東とエジプトなどの地中海南岸をさしたものであった。アジアにはギリシア人の植民都市もあり、交易や使節の往来、また戦争捕虜などでの人的交流には事欠かなかったが、一般の人にはやはり遠いところで、未知の神秘的かつ憧れの地であった。




古代オリエント1.jpg




ギリシア人はすでにアジアの地中海沿岸の各地に植民都市を築いていたが、直接アジアの大国と接したのは紀元前5世紀のペルシア戦争を挟んでのことだった。ペルシア戦争は一応ギリシア人の勝利に終わったことになるが、その後も、アジアの富裕さと巨大さはギリシア人を圧倒した。ギリシアの神話や伝説に痕跡を残しているオリエント世界は、理解の範疇を超え、想像を絶するほど豪奢な世界とされている。



 近代に入って盛んになった考古学的発掘の成果も、すぐれた金細工品や高度に発達した都市文明の遺跡など、これまでのオリエント観を確認するものであった。しかし過去に金を産出するといわれたオリエント各地のエジプトやアナトリアにおいて現在金は産出していない。掘り尽くしてしまったものと思われる。世界の金の現存量はほぼ17万5千トンといわれている。それほど希少とも思えぬ金はなぜ富と同一視されることになったのであろうか。

 金の特質はやはりその輝きであろう。それを美しいと見るかは個人の自由だが、光に目を奪われることからいえば目立つことは確かだし、太陽という生命の源とも同一視されうる。錆びにくいがために変質しにくいことから永遠とか永続性を象徴しやすい。さらに柔らかいため加工がしやすいので、あまり技術力がなくとも大小さまざまの装飾品や備品として作られる。金を手に入れることは富、権力などを取り入れることと同一視された。


 このような金に取りつかれた人の例は古来枚挙に暇がない。オリエントに関して最も有名なエピソードの一つはフリュギアのミダス王の話だろう。フリュギアはアナトリア半島の中央部にあった国でその首都はゴルディオンといわれた。その町の南部にトモロス山があり、そこからパクトロス河がゴルディオンにむけて流れていた。この山に金があり地震のあったのち金が河に流れ落ち砂金となって、パクトロス河でとれるようになったとみられる。このフリュギアの紀元前8世紀ころの王がミダス王であったという。ミダス王はバッカス神への特別なサーヴィスの結果望みをひとつかなえてもらえることになった。彼は金が大好きだったので、自分が触れるものがすべて金に変わるようにと願った。その力を楽しんでいた彼はおなかがすいても食物が金に変わってしまって食べられないことに遅まきながら気がついて(または、自分の娘を抱き上げようとしたとき、娘が金に代わってしまったので)、その力を取り除いてもらったというはなしである。




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The Phlygian Tomb of Midas, Midas Sehri, 8th century B.C.





 ゴルディオンの砂金はまもなく金鉱からの採掘にうつったようで、近年のハーヴァード大学らの調査により、その採掘跡とみられる遺跡も発見されている。しかし精錬などの技術的な発展はいまだ解明されたとはいえない。



(2)につづく


教育学部 幼児教育学科 教授 山本由美子





2015年03月09日

平安の調べを聴く―雅楽の響き―(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




平安の調べを聴く ー雅楽の響きー


◆4



 15〜16世紀の断絶によって、雅楽はどのように変わったのでしょうか。

 まず挙げられるのは、謡い物の断絶です。本来雅楽には催馬楽・朗詠・東遊など豊富な歌謡が付いていました。しかし江戸時代初期にはそのほとんどが伝わっておらず、17世紀、徳川家光の頃に僅かに復曲がなされたことがわかっています。

さらに雅楽の変容を具体的にうかがわせるのが、18世紀、松平定信によって書かれた『俗楽問答』という書物です。江戸幕府は儒学を重んじる立場から、儀礼音楽としての雅楽を重視しました。しかし断絶後の雅楽は、古い書物と異なる点が多かったため、定信は幕府首脳の立場から当時の雅楽を批判しています。現代語訳で掲げます。


  演奏を荘厳にしようと思って、節奏なくただむやみに引きのばして吹き、鞨鼓・太鼓・舞までも、拍子に合う演奏を野暮とみなし、筝なども(メロディをかなでる)左手を用いてこそ全体の演奏に合うはずなのに、今はそれも省き、いかにも面白くない演奏を高尚な演奏であると心得ている。(このために雅楽を聴くと)普通の人間はただ眠気を催してしまうのである。

ここからは、江戸時代、雅楽が既に間延びした退屈な音楽になりつつあったこと、その背景に、テンポを遅くすることが高尚なことと考えていた楽人の姿勢があったことがうかがえます。また、筝の左手が用いられなくなっているという指摘もなされています。筝(いわゆる「お琴」)や琵琶は本来メロディを奏でる楽器でしたが、現行の雅楽ではときどき「ポロロン」「ベベン」とかき鳴らされる程度で、メロディは奏でられていません。こうした変容が15〜16世紀の断絶によって起こったことが推測されます。

さらに他の箇所で定信は、かつては行われていなかった新たな舞の所作が加えられていることも批判しています。秘伝化によって、細かな所作が付け加えられているのだと思われます。このように『俗楽問答』の記述からは、雅楽の著しい変容が見て取れます。それにしても、松平定信ですら「眠気を催すのみ」というのですから、雅楽のコンサートでついつい寝てしまう私などにしてみれば、なんだか心強い気もしてきます。




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 By 松平定信(自画像) (鎮国守国神社(三重県桑名市)) [Public domain], via Wikimedia Commons



 さて、それではもともとの雅楽は、どれくらいのテンポで演奏されていたのでしょうか。これについては、音楽学の研究者が平安時代の楽譜をもとにいくつかの復元案を示しています。復元の仕方によって幅がありますが、おおよそ現行の4倍から10倍速で演奏されていたとされています。何度か復元演奏を聴かせてもらったことがありますが、琴や琵琶のメロディを入れて10倍速にすると、とてもポップで華やかな感じになります。これなら確かに眠くはならないし、このテンポにあわせて舞うのですから、舞楽のイメージも今とはだいぶ違ったと思います。


 
 雅楽のテンポについて見てきましたが、実は近代になっても変容は続いています。そのことは、日本最古の雅楽録音からうかがえます。明治36(1903)年、ガイズバーグという技師が日本の様々な音楽が録音したものが残っています。お聴きになりたい方は『全集日本吹込み事始』というCDで市販されていますが、この中に越天楽の演奏が含まれています。この録音演奏を分析した寺内直子さんによると、現行の3倍速で演奏されており、一息で演奏されるフレーズも今よりかなり長かったということです。定信以後、近代になっても、雅楽は遅くなり続けているのです。

 雅楽のテンポが遅くなっていく現象には、いくつかの要因が考えられます。たとえば雅楽の楽譜にはテンポ記載がないため、伝承が途絶えるとテンポがわからなくなること。また、秘伝化に伴って細部へのこだわりが増した結果、長大化した可能性などです。しかし最も重要なのは、定信が「演奏を荘厳にしようと思って」と看破していたように、儀礼音楽としての重々しさを志向する楽人たちの役割意識だと思います。江戸時代に雅楽が重視されたことは既に述べましたが、近代にも宮中の「伝統」音楽としての意識が働いた結果、無意識のうちにテンポが遅くなっているのではないでしょうか。


 以上、かなり駆け足で古代から近代まで雅楽の歴史を追ってきました。「伝統文化」としての雅楽が、歴史的にみると実はかなり変容してきていることがおわかりいただけたかと思います。「伝統」は決して超歴史的なものではなく、社会の変動に対応しながら文化を伝えようとする人々の努力、あるいは国家や「家」やコネのために文化を利用する人々の思惑によって、形や機能を変えていくものと言えるのではないでしょうか。


〔参考文献〕
・別冊太陽『雅楽』平凡社、2004
・荻美津夫『古代音楽の世界』高志書院、2005
・福島和夫『日本音楽史叢』和泉書院、2007
・福島和夫「日本音楽史研究の現在と王朝文学」(『平安文学と隣接諸学8 王朝文学と音楽』竹林舎、2009)
・寺内直子『雅楽の〈近代〉と〈現代〉』岩波書店、2010


文学部 史学科 講師 辻 浩和




2015年02月25日

平安の調べを聞く −雅楽の響きー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





平安の調べを聞く −雅楽の響きー 

◆3

 11世紀から12世紀にかけて、様々な階層で「家」が成立します。「家を継ぐ」「家が絶える」という時の、あの「家」です。「家」とは、簡単に言うと「家業」を世襲する単位であり、多くの場合、父から嫡男子への直系単独相続によって「家」が継承されました。歌舞伎などの「家」を思い浮かべていただくとイメージしやすいかもしれません。

 雅楽の「家」が成立し始めるのもこのころです。身分の低い楽人たちの中から、右方舞の多家や左方舞の狛家、笙の豊原家などが生まれました。公卿・貴族など身分の高い楽人たちの場合は少し遅れますが、やはり琵琶の西園寺家や和琴・謡い物の綾小路家などが成立しています。


 
 さて、「家」は「家業」を世襲する単位です。「家」の存在意義は、「家業」を行うことにあるわけです。とすれば、「家」が安定的に存続していくためには、独自性を保ち、他家との差異化をはかる必要があります。「その仕事はうちじゃないとできません。他の家では無理ですよ」ということが出来れば、その「家」の存在価値は高まるわけです。

 雅楽の「家」では、差異化のために技術や楽曲の秘伝化が行われました。秘伝というとなにやらアヤシク聞こえますが、大きく分けると3つあります。

1つ目は秘曲です。珍しい曲、あるいは同じ曲でもめったに演奏されないバージョンなどです。

2つ目は演奏技術です。例えば13世紀に狛家で書かれた『教訓抄』という書物には、「万秋楽」という曲を演奏する時は、第2帖(楽章)の終りを延ばし、第3帖の始めを縮め気味に演奏しなさいという秘伝が載せられています。かなり実際的な演奏指導といえるでしょう。

以上の2つは何となく理解しやすいのですが、ちょっとわかりにくいのは3つ目の作法・所作です。直接雅楽の演奏とは関わらない儀式作法が雅楽の秘伝として伝えられています。例えば13世紀の『雑秘別録』という書物には「さらゐつき」という秘伝が出てきます。

長々と書かれていますが、要するに貴人の前を通る時、膝をついて挨拶をする所作の事です。私たちの目からはどうでもいいことのように思えますが、こうした所作が「秘蔵の事」として重々しく扱われたのです。このように、他家との差異化をはかるために、非常に細かな秘伝がどんどんと量産されていきました。



 秘伝は秘密にすることに意味があります。ですから、秘伝は嫡子など限られたものにしか伝えられません。そのことは一方で、嫡子がいない場合や夭折してしまった場合、雅楽の才能が無い場合などに相伝が絶えてしまう危険性を高めます。

 こうした秘伝の脆弱性が強く表れたのが、内乱期でした。まず14世紀後半の南北朝内乱では、貴族や武家が二つに分かれて争ったため、様々な分野で「家」の断絶が大きな問題になりました。永享4(1432)年に足利義教が「楽道再興」を宣言したのは、雅楽=楽道の伝承が途絶えつつあったためと考えられます。

 この時はどうにか雅楽の伝承が保たれたようですが、さらに深刻な危機をもたらしたのが、15世紀後半から16世紀のいわゆる戦国時代でした。京都が度々戦場となったため大事な楽器や装束、秘伝の書物が多く焼失し、楽人たち自身も戦乱の京都を離れて地方に疎開を余儀なくされます。雅楽を奏すべき朝廷の儀式が行えないことも、雅楽の伝承にはマイナスとなったでしょう。


 16世紀末に豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、雅楽の復興に乗り出しますが、この時以降雅楽は三方楽所という体制で担われるようになります。失われた伝承が余りにも多いため、京都の内裏楽所、奈良の南都楽所、大阪の天王寺楽所の3つが協力して補い合うことで、ようやく雅楽を行うことが可能になったのです。とはいえ、この時の復興は完全なものではありませんでした。そのことは、17世紀にかけて膨大な雅楽研究が行われたことからもうかがえます。文献や古老からの聞き取りによって、かつての姿を復元しようとする努力が続けられたのです。



 このように、中世には雅楽の「家」が成立し秘伝化が進んだことで伝承が脆弱さを増し、度重なる戦乱によって多くの伝承が失われました。特に15〜16世紀の断絶は深刻で、この時を境に雅楽は大きく変容します。その具体像については後に述べますが、ここではひとまず15〜16世紀を第2の画期としておきたいと思います。


(4)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和




2015年01月29日

シリーズ「音の世界を語る 色の世界を語る」(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



平安の調べを聴く −雅楽の響き−


◆2

 8世紀に始まった雅楽は、9世紀後半から10世紀にかけて、早くも第一の画期を迎えます。この時期、律令国家を支えていた税の仕組みがうまくいかなくなり、律令制の仕組みの多くが崩壊します。雅楽寮もこの波に巻き込まれ、人員削減と事業の整理縮小を余儀なくされました。今でいうリストラと事業のスリム化が行われたわけです。

この過程でまず不要な音階・楽器、不完全な楽曲が整理されました。前に述べたように、雅楽は300年以上かけて散発的に輸入されたものですから、体系化されておらず、未消化な部分を多分に残していました。延喜20(920)年、醍醐天皇は貞保親王に命じて『新撰横笛譜』を編纂させ、完全な形で演奏可能な曲目の楽譜集を作らせました。醍醐天皇と言えば勅撰和歌集である『古今和歌集』が有名ですが、同じ時期に勅撰楽譜集も作らせていたわけです。『古楽図(信西古楽図)』には現在使われていない楽器があると述べましたが、そのほとんどはこの段階で整理された結果使われなくなったと考えられます。

整理に伴って、部門の統廃合も行われました。全体を左右の2部制にし、左方に唐楽・林邑楽を、右方に高麗楽・百済楽・新羅楽・渤海楽をまとめました。


律令制の崩壊は、雅楽の性格にも変化をもたらしました。

律令制下の雅楽は儀礼のための音楽であり、官人(国家公務員)としての楽人たちによって演奏されていました。楽人たちの身分は官位でいうと6位程度で、あまり高くありません。10世紀以降、儀礼が縮小されるとはいえ、楽人たちは同じように儀礼音楽を奉仕し続けていきます。

一方、10世紀以降は天皇や公卿(3位以上)・貴族(5位以上)など、身分の高い人たちも雅楽を演奏するようになりました。これは新しい動きです。彼らが行ったのは、公的な儀礼のための演奏ではなく、私的な場で親睦を深めるための演奏でした。『源氏物語』などに「あそび」という言葉が頻繁に用いられ、「管絃の遊び」と訳されますが、この「あそび」が親睦のための演奏会にあたります。現代でいうと懇親会でカラオケをするのに似ているでしょうか。

背景には、律令制が崩壊したことによって政治の仕組みが変化し、天皇との私的な関係が重要視され、天皇の身内と側近が政治的な役割を果たすことになったという事情があります。平たく言うと、天皇とコネをもっている人間に有利な時代がやってきたのです。天皇の側近貴族たちは、天皇と一緒に雅楽を合奏することで、天皇との関係を深めるようになりました。「君臣和楽」のために雅楽が利用されるようになったわけです。




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"Rencontre du Genji Monogatari" by Anonym - Tokyo, Goto Museum. Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons –
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rencontre_du_Genji_Monogatari.PNG#mediaviewer/File:Rencontre_du_Genji_Monogatari.PNG



このように、10世紀頃には雅楽の曲目・楽器・演奏組織が再編成され、雅楽の性格も大きく変わっていきました。雅楽の姿が変化した第一の画期と言えるでしょう。


(3)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和






2015年01月19日

シリーズ「音の世界を語る 色の世界を語る」

地域とともに活躍する川村学園女子大学





平安の調べを聴く −雅楽の響き− 

◆1

 日本の「伝統文化」として紹介されることの多い雅楽ですが、日本に渡来したころと比べると様々な点で大きく変わってきています。ここでは古代から現代までの雅楽の歩みをたどりながら、どこがどれくらい変わっているのか、変化の画期はいつなのか、変化した背景に何があるのかを考えていきます。




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"Gagaku 0372" by Antanana - Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons - http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gagaku_0372.JPG#mediaviewer/File:Gagaku_0372.JPG



 今日「雅楽」と呼ばれている音楽は、5世紀から8世紀にかけて様々な地域から伝わった渡来の音楽と、日本列島でそれまで演奏されていた在来の音楽とが混ぜ合わさって出来たものです。中国が内乱状態にあった時代、ヤマト朝廷は朝鮮半島から様々な先進文化を輸入しており、その一つに音楽がありました。5世紀半ばには新羅楽、6世紀初めには百済楽、7世紀前半には高麗楽が日本列島に入ってきます。唐が中国統一を成し遂げ、国際的な大帝国となると、7世紀末に唐楽が、8世紀初めにはロシア沿海部や東南アジアから林邑楽・度羅楽・渤海楽などが流入しました。



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 このように300年以上かけて段階的に流入していた音楽を、「雅楽」として一つにまとめたのは、8世紀にできた律令国家です。律令国家は、中国に倣って儀礼を重視していたため、儀礼のための音楽を国家的事業と位置付けました。雅楽寮というお役所では、400名以上の楽人が国家公務員として音楽の習得と演奏に励んでいたのです。
 その頃の雅楽の様子は『古楽図(信西古楽図)』からうかがうことができます。儀礼のための音楽ですから、野外演奏が主となります。そのため、楽人たちは立って演奏しています。また図の中には、今では使わなくなった楽器や、今とは異なる使い方の楽器が描かれています。


(2)につづく


文学部 史学科 講師 辻 浩和




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2015年01月08日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学






【4】 『イタリア古寺巡礼』とラファエロの聖母像


和辻は1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)にかけて数か月イタリアに滞在しています。その間、和辻は日本にいる妻に宛てて再三手紙を送っていますが、その手紙を再編集し、また一部加筆して上梓したのが『イタリア古寺巡礼』です。発行は1950年(昭和25年)のことです。

その旅行の主な訪問先はジェノヴァ、ローマ、ナポリ、アマルフィ、シラクサ、パレルモ、アッシジ、フィレンツェ、ピサ、ボローニャ、ラヴェンナ、パドヴァ、ヴェネチアなどで、旅行の目的は各地の教会や美術館を訪ねて美術作品を見ることにありました。ただ、『イタリア古寺巡礼』では日本とは異なるイタリアの風土への観察もこまやかになされていて、これが後に、和辻の代表的な比較文化論である『風土』(1935年)の構想に生かされてゆくことになります。

 さて、イタリアでの美術作品についてですが、和辻はこの旅行でイタリア美術の代表的作品を初めて自分の眼で見て歩いたわけです。この旅行記は現地で書いた手紙をもとにした叙述ですから、高揚した和辻の気分も伝わってくる臨場感のあるものです。が、同時にヨーロッパ精神史の推移を踏まえて美術作品の意義を捉えようとしている点において、この旅行記は、日本の古代文化の成り立ちに関する深い造詣を背景として、古美術を求めて旅をした『古寺巡礼』の場合と同じような魅力を持っていると言ってよいでしょう。

 次の叙述はラファエロの聖母子像に関するものですが、ジォットーやミケランジェロなどと対比しながら、中世からルネサンスへかけてマリア像がその宗教性を希薄にしてゆく過程の中にラファエロの聖母子像を位置付けたものです。



  ここに選び出したのはそのうちで(ラファエルのいくつかのマドンナ像のうちで)<グランドゥカのマドンナ>と呼ばれているものであるが、これはもう明白に慈悲の女神などを描き出そうとしているのではなく、「母と子」というものの永遠の姿――人生に意味がある限り、常にその意味の核心の中に存しているであろうと思われる深い事実――を描き出そうとしているのである。・・(中略)・・こうなればもう、この赤ん坊が大きくなってヨハネの洗礼を受け、キリストの自覚に達し、十字架に付けられるとか、この母親はあらゆる他の母親とは異なり聖霊によって妊んだのであるとか、という伝説的な内容は、この絵の本質的な価値をなすものではない。ただ母性の偉大さ、清浄さ、母の愛の中にある嬰児の天真な美しさ、生い育ち行く豊かな命の芽生えとしての嬰児の肉体の清らかな美しさ、――それらは実際に人間の存在の中で最も美しいものである、――そういう美しさを具象的に、鋭く、あるいは豊かに、あるいは優雅に現わしている点にこそ、絵の価値はかかっているのである。ラファエルはその中で清浄さや優雅さを特にねらった画家であるといってよい。
(和辻全集第八巻)





 さて、以上和辻の二つの旅行記のさわりのようなものについて書いてきました。ここまでの内容に興味をお持ちの方があれば、和辻の二つの旅行記を実際に手に取られることをお勧めいたします。二作品とも、岩波書店から発行されている和辻全集のほか、和辻のいくつかの他の著作とともに岩波文庫にも収められています。




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ラファエロ「大公の聖母」(ピッティ美術館)



文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘

(哲学・比較思想)




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2014年12月24日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』ー和辻哲郎の二つの旅行記ー(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





【3】 『古寺巡礼』の比較文化論的視点


『古寺巡礼』の魅力の一つは、【2】で見たように、仏像をはじめとした古美術との出会いという実体験をきわめて印象深く叙述している点に求められます。そして、その叙述の際立った特徴は、叙述が印象記の域をはるかに超えて日本の古代文化に関する、当時としては最先端の学識に裏打ちされている点にあります。

和辻の学識が、事象の本質に迫る卓越した洞察力として現われているということについては、【2】で触れておきました。それに引き続き、もう一つ彼のすぐれた学識に関して強調しておかねばならないことは、日本の古代文化の成り立ちを朝鮮や中国、インドなどとの連関で捉え、さらには古代の仏像とヨーロッパの芸術の比較までするといった視野の広さをその学識が備えていたということです。

次の叙述は中宮寺の弥勒菩薩像(『古寺巡礼』に時代にはこれを観音像と見る人もいたようです。)を拝観した時の印象を記したものですが、ここには裾野の広い学識を背景として自由に想像力を飛翔させるという、『古寺巡礼』のもう一つの魅力が感じられます。



この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるとともに処女であるマリアの像の美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結晶によって「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻におけるように特に母の姿となっている場合もあれば、また文芸復興期の絵画におけるごとく女としての美しさを強調した場合もある。・・(中略)・・しかしこの聖女(中宮寺弥勒菩薩)は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくまでも「処女」のものである。がまたその複雑な表情は人間を知らない「処女」のものとも思えない。と言って「女」ではなおさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。――慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人体の形に結晶せしめたものである。
(和辻全集第二巻)




 和辻は、ここでヨーロッパのマリア像との対比において弥勒像の美を捉えようとして思考を自由にはばたかせ、上述のような自問自答を経てこの像の本質を「慈悲の権化」と言い当てているわけです。弥勒像を前にしての、このように自在で豊かな思考の飛翔が和辻において可能であったのは、その確かな学識の蓄積によるということを、今回は書いた次第です。




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中宮寺弥勒菩薩半跏思惟像



(4)につづく




文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




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2014年12月11日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』― 和辻哲郎の二つの旅行記 ―(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




【2】 美の巡礼としての『古寺巡礼』



前回触れたように、『古寺巡礼』は青年時代の和辻の奈良旅行をもとにして書かれたエッセイです。その旅行の主な訪問先は、奈良の博物館の他、新薬師寺、浄瑠璃寺、東大寺、法隆寺、唐招提寺、法華寺、薬師寺、当麻寺、中宮寺などの仏教寺院で、和辻の関心は行く先々の古美術、それも特に仏像に向けられています。青年和辻の『古寺巡礼』は、宗教的意味での巡礼ではなく、仏像を中心とした古代美術をめぐる美の巡礼であったのです。

 古代の仏教美術に和辻が関心を向けるようになったきっかけの一つは、学生時代に和辻が岡倉天心の古美術に関する講義を聞いたことにあったと言われています。また若い頃からの和辻の美術趣味は、妻の友人の縁で、横浜の大貿易商で茶人でもあった原三渓に手ほどきを受けたものだという話も伝えられています。こうしたエピソードからは、日本の古代美術に対する熱い思いをつのらせていった青年和辻の姿が鮮やかに浮かび上がるかのようです。

 美術作品に限らず、飛鳥・白鳳・奈良の古代文化にこの時代の和辻は強い関心を抱くようになり、その研究を進めていました。『古寺巡礼』出版の翌年に上梓された『日本古代文化』は、そうした研究の産物ですが、以上をまとめれば、古代文化への熱い情熱と深い造詣に裏打ちされた美の巡礼の記録、それが『古寺巡礼』だったと言えましょう。

 では、その美の巡礼の記録は、具体的にはどのようなものだったでしょうか?ここからは『古寺巡礼』の叙述を紹介して、そのさわりを見てみることにしましょう。

 まず、次の叙述は薬師寺の聖観音像を前にしたときの和辻の印象の叙述ですが、ここには聖観音像に出会うという実体験の様子と目の前の仏像の美に関するこまやかな観察、さらにはその体験に触発され、その体験を基点として動き始める和辻の思考の姿が描写されています。この一文を読むだけでも、『古寺巡礼』の雰囲気と谷川徹三が「イデーを視る眼」(和辻全集第二巻解説)と名付けた、事象の本質を直観する和辻の卓越した資質の一端が垣間見えることと思います。やや長いですが、引用します。



  わたくしたちは無言のあいだあいだに詠嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、わたくしは寺僧が看経するらしい台の上に座して、またつくづくと仰ぎ見た。美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。仏教美術の偉大性がここにあらわにされている。底知れぬ深味を感じさせるような何とも言えない古銅の色。その銅のつややかな肌がふっくりと盛りあがっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を表現したものである。しかもそれは、人体の写実としても、一点の非の打ちどころがない。・・(中略)・・もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生と同じではない。一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。
(和辻全集第二巻)





 さて、今回は以上の引用を味わっていただくことで終わりといたしたいと思います。



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薬師寺東院堂聖観音像




(3)につづく

文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)




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2014年12月01日

『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』― 和辻哲郎の二つの旅行記 ―(1)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





                         
【1】 和辻哲郎の生涯と二つの旅行記



 公開講座では、近代日本の代表的哲学者和辻哲郎の二つの旅行記を取り上げ、それらの魅力についてお話しました。ここでは、そのエッセンスを簡単にまとめてお示ししたいと思います。【1】では、和辻哲郎の生涯と事績を紹介し、その中に二つの旅行記を位置付けます。

 まずその生涯ですが、和辻哲郎は1889年(明治22年)に兵庫県で生まれ、1960年(昭和35年)に`東京で亡くなっています。旧制第一高等学校入学のために東京に出てきて以降、途中10年弱京都で暮らした時期(ただし、その間に1年半ほどドイツ留学のためのヨーロッパ滞在)を除けば、大方は東京の近辺に暮らしたことになります。

東京に出てきてからしばらくの間は、哲学の勉学のかたわら文芸評論の執筆などにも熱中し、谷崎潤一郎ら文人との交友を持ちます。20代の和辻は漱石山房にも出入りし、晩年の夏目漱石の知遇を得ますが、その頃の和辻は文芸で身を立てるか学者の道を選ぶか、つまり美と倫理のどちらを選ぶか、その岐路に立っていました。若き和辻はいっぱしの文人でもあったわけですが、『古寺巡礼』は、そうした迷いの中にあった青年時代の最後の時期に和辻が友人とともに奈良へ旅をした際の印象をもとにして書かれたものです。

 『古寺巡礼』は1919年(大正8年)に出版されますが、その翌年に和辻は東洋大学教授に就任し、学者としての本格的な活動に入ることになります。その後、彼は京都帝国大学、東京帝国大学で教鞭をとり、東京大学退官後には日本学士院会員、日本倫理学会会長などを歴任、1955年(昭和30年)には文化勲章も受章しました。

 こうした経歴を見れば、学問の道に精進し学者として大成した碩学という和辻像がおのずから浮かび上がってきます。学者としての和辻には、日本文化史や比較文化論を扱う文化史家としての顔と、「人間」の「間柄」の理法としての倫理という着想を基盤として体系的倫理学の構築をした倫理学者としての顔という二つの顔があります。和辻哲郎は、このどちらの分野においても現在なお読むに値する高い業績をのこした哲学者として広く認知されています。彼の学問的な姿勢、つまり日本の文化的伝統に関する深い造詣を根底にして西洋の人文系の学問と格闘し、そのうえで独自の道を模索するというそのスタンスは、分野は違いますが漢文学の素養を背景として英文学と格闘した夏目漱石、また禅の伝統を背景に独自の哲学的思索を模索した、近代日本のもう一人の代表的哲学者西田幾多郎などと共通しています。

 さて、『古寺巡礼』と『イタリア古寺巡礼』は、このようなスタンスで学者としての生涯をおくった和辻が書いた旅行記です。『古寺巡礼』の成立の経緯についてはすでに触れましたが、『イタリア古寺巡礼』は上述したヨーロッパ滞在中のイタリア旅行の際の妻への手紙をもとにして編まれたものです。これら二つの旅行記の魅力はどのようなものか。次回以降はそうした話題に移ってゆきます。




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(写真・60才頃の和辻哲郎)



(2)につづく



文学部 日本文化学科 教授 湯浅 弘
 
(哲学・比較思想)





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2014年11月20日

森林資源の活用法(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





多様な森林資源のさまざまな活用法(4)

4.木質バイオマスのエネルギー利用

これまでに、成長した木をタイミング良く伐って木材として様々な形で利用し、新たに植林することで地球温暖化軽減に貢献することを述べました。今回は、木質バイオマスのエネルギー利用について述べます。

2012年の国産材供給量が1,969万m3であることは既に述べましたが、森林から木材を生産して利用する際には、低質で材料としては利用できない様々な廃棄物が発生します。木質バイオマスは、これらの廃棄物全体を意味する言葉として使われています。

これらの木質バイオマスを燃やしてエネルギーとして利用すれば、その分だけ化石燃料の消費を回避できます。木質バイオマスを燃やすと二酸化炭素が発生しますが、これは元々大気中に存在していたものを樹木が吸収したものであり、全体として二酸化炭素は増大しないことになります。このことをカーボンニュートラル(Carbon neutral)と言います。

木質バイオマスは、その発生形態から「工場残材」、「建設発生木材」、「林地残材」に大別されます。工場残材は、製材時に発生する材料としては利用できない背板、鋸屑、樹皮などのことです。建設発生木材は建造物の解体時に発生する木材で、既に建設リサイクル法(2000年)で再資源化が義務付けられていることから、バイオマス発電用の燃料として使われています。林地残材は、間伐等の森林施業に伴って発生する枝葉、伐根、端材などで、資源としての潜在的な利用可能性を有するものの、収集・運搬に経費がかかることから、ほとんどが林内に放置されているのが現状です。

木質バイオマスからは色々な種類の燃料が作られています。現時点で実用化されている技術としては、直接燃焼、エステル化、炭化及び固形燃料化があります。直接燃焼や固形燃料化では、チップ、木質ペレット、薪として既に熱や発電に利用されています。炭化製品である木炭の国内生産量は3.0万トン(2012年)で、5年前に比べて約2割減少していますが、木炭は電源無しで調理・暖房に利用でき、長期保存も可能であることから、災害時の燃料として貴重と言えます。

木質ペレットは粉砕した木くずを円柱状(直径6〜10mm、長さ10〜30mm程度)に圧縮成型した固形燃料で、ストーブやボイラーの燃料として利用されています。ペレットの長所として、「@形状が一定で取り扱い易い、Aかさ密度が木材チップの約5倍でエネルギー密度が高い、B運搬が容易で貯蔵スペースが少なくて済む」などが挙げられます。同重量の木材チップと木質ペレットの容積を比較すると、ペレットはチップの約1/5になります。

21世紀に入って以降、日本のペレットの生産量は急激に増加しており、2012年には約98,000トンに達しています。それでもバイオマス利用の先進国であるドイツ、スウェーデン等の欧州諸国と比べると1/10以下の生産量です。2012年9月に政府7府省によるバイオマス事業化戦略が決定され、事業化を重点的に推進する実用化技術として木質バイオマスからの固形燃料化が選択されたことから、今後も木質ペレットの生産量の増加が期待されます。

木質バイオマスから輸送用燃料(バイオエタノール)を製造する技術については、2005年頃から産学官が連携して精力的に実証試験が実施されました。森林総合研究所(つくば市)は秋田県北秋田市に実証プラントを建設し、スギ材からバイオエタノールを製造する実証運転を行いました。森林総合研究所の採用した方法はアルカリ蒸解・酵素糖化法という方法で、1トンのスギチップから216リットルのバイオエタノールが製造できることを実証しました。固定費を含む全製造コストが約260円/リットルと試算されており、実用化のためには、林地残材等の原料費の低減や副産物利用が課題となっています。

最後に、木質バイオマス発電について記します。日本は、国内で使用される石油、石炭、天然ガス等の化石燃料の大半を外国からの輸入に依存しており、2012年におけるエネルギー自給率は5%にすぎません。このような中、太陽光、風力、水力、地熱、バイオマス等の「再生可能エネルギー」に対する関心が高まっています。

政府は、2002年に「電気事業者による新エネルギー等の利用に関する特別措置法(RPS法)」を定め、電気事業者に対して太陽光、風力、バイオマス、中小水力、地熱等の新エネルギーから発電される電気を一定以上利用することを義務付けました。これを受けて、木質バイオマスを活用した発電が2012年3月末時点で全国の56ヶ所の施設で行われています(平成26年版森林・林業白書)。

2012年7月には、再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT制度)が導入され、再生可能エネルギーを用いて発電された電気について、電気事業者が一定期間、一定の価格で買取る義務を負うこととされました。木質バイオマスを原料とした場合の買取価格は、林地残材33.6円/kWh、工場残材25.2円/kWh、建設発生木材13.65円/kWh、買取期間は20年間とされました。同制度導入を受け、2014年1月現在、全国で37の施設が同制度によって売電を行っています(平成26年版森林・林業白書)。

この制度に要する費用の一部は電気料金に反映され、全国の家庭や企業等の消費者が支払うことになっています。

ドイツでは2000年にFIT制度が導入されました。同国の全発電量に占める再生可能エネルギーの比率は、2000年には6.4%でしたが、2012年には23%に増大しています。日本でもFIT制度の開始により、太陽光発電の本格的な導入が始まっています。

今回は、木質バイマスのエネルギー利用の現状を概説しました。木質バイオマスは他の再生可能エネルギーと異なり、原料の供給が必要です。エネルギー利用を推進するための課題は沢山ありますが、最も重要な点はやはり原料の安定供給にあります。そのためには、我が国の豊富な森林資源を活かした林業の活性化に産学官連携して取組むことが今後も益々、重要になると思われます。




木質バイオマス.jpg



木質バイオマスのエネルギー変換・利用
バイオマス付属.jpg は実用化技術、他は研究・実証段階の技術





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木炭製品





木質ペレット.jpg



木質ペレット(木くずを円柱状に圧縮成型した固形燃料)





チップ.jpg



同重量の木材チップ(左)と木質ペレット(右)、ペレットは
チップの約1/5の容積になる。





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木質バイオエタノール実証プラント(森林総合研究所)





生活創造学部 生活文化学科 非常勤講師 大原 誠資




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2014年11月11日

森林資源の活用法(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





多様な森林資源のさまざまな活用法(3)


3.森の香りと植物の葉の効能

1980年代前半に「森林浴(Forest bathing)」という語が使われ始めました。森林浴は、林野庁が「森林浴構想」を立ち上げた際に、日光浴、海水浴になぞらえて作った造語です。「新鮮な森の空気を浴びて自然にとけ込み、健康づくりをしよう」というのが森林浴です。

2004年に林野庁は森林浴構想を発展させ、「森林セラピー構想(Forest therapy)」を打ち出しました。「森林セラピー」は森林浴の効果を科学的に解明し、心と身体の健康に活かそうというものです。

2004年以降、全国の市町村を中心に、「森林セラピー基地」・「セラピーロード」として認定を受ける事業が開始され、現在、北海道から沖縄県まで全国で50ヶ所を超える森が森林セラピー基地・セラピーロードとして認定されています。「森林セラピー基地」とは、リラックス効果が森林医学の面から専門家に実証され、さらに関連施設等の自然・社会条件が一定の水準で整備されている地域のこと、「セラピーロード」は、同様の科学的検証がなされた20分以上の散策ができる散策路のことです。森林セラピー基地としては、和歌山県高野山や長野県信濃町の「癒しの森」などが認定されています。

森林のリフレッシュ効果は、樹木が放散する香り成分「テルペン」の働きによります。森林内のテルペン濃度の測定は、空気中の揮発性成分を選択的に捕集する吸着剤を詰めた吸着管を設置し、動的にポンプを用いて空気を吸引することでテルペンを濃縮・採取することで行います。森林で採取したテルペン類を熱脱着装置で吸着剤から脱着させた後、GC/MS(ガスクロマトグラフ/質量分析装置)という機器で同定・定量します。

森林内の香り物質の濃度は、季節、一日のうちの時間、気象条件(気温・天候)、森林内の位置によって異なります。季節では冬よりも夏の方が高く、一日の中では午前の方が午後より高くなります。また、晴れた日は曇りや雨の日よりも高くなります。傾斜地の森林では、中腹>頂上>麓・林縁となり、林縁から50〜100m入るとほぼ一定の濃度になります。

夏は光合成が盛んなことから、テルペン放出量も高くなります。また、午前より午後の方が気温が高く、テルペン放出量も高くなると考えられますが、午後は拡散も盛んになるため、日中のテルペン濃度は低くなります。泊りがけで出かける場合は、早起きして早朝に森林浴するのが効果的と言えます。

森林浴の効果は樹木が放散するテルペンだけに拠るものではありません。ストレスを和らげる森の静かな雰囲気、目に優しい緑の景観や風景、虫や鳥の声、騒音防止作用など、いくつかの作用の複合的な効果に拠るものです。自然が奏でる小鳥のさえずりや小川のせせらぎなどの音環境は、人間の快適性をもたらすと言われています。

森林セラピーの科学的な解明の一例を紹介しましょう。森林総合研究所の香川らの報告(平成21年度森林総合研究所研究成果選集)には、都内の大学病院の女性看護師13名を被験者にした森林セラピー基地での散策がもたらす健康・快適性増進効果が報告されています。即ち、2日間の森林浴により、被験者の尿中のストレスホルモン(アドレナリン)が減少するとともに、NK細胞活性が増大することが示されました。NK細胞とは白血球内にあるナチュラル・キラー細胞のことで、がん細胞やウィルスを攻撃して殺傷する役割を持ちます。従って、森林浴は女性の免疫機能を高める効果があることが分かりました。

森の香り成分(テルペン)は水蒸気とともに蒸発し易い性質があり、これを利用して植物から取り出すことができます。スギやヒノキの枝葉に水を加えて熱すると、水蒸気に交じってテルペンを採取することができます。この方法を水蒸気蒸留と言い、水蒸気蒸留で得られるテルペンを含む油分を精油(Essential oil)と言います。

精油は多くの針葉樹葉やユーカリ、クスノキ等の広葉樹葉から採取できます。日本の樹木で最も精油含有量の多い木はトドマツ(北海道モミ)であり、“石油のなる木”と称され精油含有量が多いことで知られるユーカリ類にもひけをとりません。トドマツの乾燥葉100g当たりの精油含有量は8.0mlであることが確かめられています。

排気ガスなどから出る環境汚染物質である二酸化窒素は、我々が日常吸っている空気に微量ながら含まれています。二酸化窒素は活性酸素であり、様々な疾病の原因になります。トドマツ葉の精油は二酸化窒素の除去能力に優れており、空気浄化剤として商品化されています。

トドマツの葉に含まれる香り成分(精油)が環境向上資材として利用されていることを上述しましたが、植物の葉は人間にとって有用な効能を示すものが多く、日常生活でも様々な形で活用されています。

クマザサは高さが1〜2mになる大型のササで、葉は長さが20cm以上、幅が4〜5cmになるイネ科の植物です。葉に含まれるフェノール類や酸類が殺菌・防腐効果を有することから、食品の包装に使われています(水大福、笹だんご、ちまきなど)。富山県のます寿司の下に敷き、鮮度保持のためにも使われています。

柏餅や桜餅など、食べ物を葉で包んだものは日常でも多く見かけます。包むという実用的な要素以外に、見た目の美しさや香りの効果を活かした利用法と言えるでしょう。さらにもう一つ、葉中のポリフェノール成分の抗菌性により、カビや細菌の成長が阻害されるという食品保存効果もあります。柏葉の抗菌成分はオイゲノール、桜葉の抗菌成分はクマリンというポリフェノールです。

岐阜県の飛騨高山地方では、ホウノキの葉に味噌を塗って焼く朴葉焼きという料理が親しまれています。ホオノキはモクレン科の落葉高木で、葉は非常に大きく、落ち葉を拾い集めてなべとして用いられています。

仏事用線香として杉葉線香が作られるようになったのは、150年程前からと言われています。杉葉を乾燥して裁断した後、水車小屋で2日程粉砕して粉にします。粉砕に水車が使われるのは、水車のきねが杉葉に適度な粘りを出すのに適しているからです。この杉葉粉に染料と粘着付与剤(タブノキの皮粉末)を混ぜて練り上げ、押出し成型したものを一定の長さの線状に切り揃えたものが杉線香です。仏前で静かに杉葉由来の香りを吸い込むことで精神が落ち着き、良い功徳になるという教えがあります。

グアバはフトモモ科バンジロウ属の熱帯性低木で、日本では沖縄に自生しています。葉に含まれるポリフェノール(タンニン)は、α-グルコシダーゼという消化酵素によるデンプンの分解を抑制し、血糖上昇を抑制する作用があります。高齢化社会の到来によって医療費の高騰と言う社会問題が発生し、その対応策として、日本では1991年に特定保健食品制度が導入されています。グアバ葉熱水抽出物は2000年3月に、健康茶として特定保健用食品として認可されました。

以上、森林の葉から放散されるテルペンに起因する森林セラピー機能や、植物葉の様々な効能について述べました。

次回は、木質バイオマスのエネルギー利用について紹介します。




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森林から放散される香り成分「テルペン」の採取法





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水蒸気蒸留で採取したトドマツ葉精油(写真提供:森林総研)





空気浄化剤.jpg



            
トドマツ精油から開発された空気浄化剤の例





笹だんご.jpg




ササの葉で包んだ笹だんご





柏もち&桜もち.jpg


 

柏葉及び桜葉で包んだ柏餅(左)と桜餅(右)





ホウノキの葉.jpg



              
ホウノキの葉(朴葉焼きに用いる)





杉葉線香.jpg




伝統の香り -杉葉線香-



(4)につづく


生活創造学部 生活文化学科 非常勤講師 大原 誠資




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