2013年09月26日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(3)【中国版『女工哀史』?】



19世紀後半から20世紀初頭の中国では、産業の近代化に伴って、工場制手工業さらには機械工業が発達しました。
従って、中国大陸に数多くの工場が誕生し、そこで多くの労働力が必要となりました。

 
工場での単純労働は、前近代の農業や工業と異なり、それほど筋力を必要としませんし、職人の熟練の技も必要と
しません。それはとりわけ、どの国でも近代化の初期の段階で発達する軽工業(製糸業・紡績業など)において顕著です。

だからどの国でも、近代化を達成すると、低賃金で女性や子供を大量に雇用しました。
 
中国でも同様だったのです。

貧しい農村から都会に出てきて工場に勤め、劣悪な労働条件の下で酷使される若い女性たち…。




Tomioka .jpg



Inside Tomioka Silk Mill




と言うと、日本の明治時代の工場の女性のことを思い出す方もいるでしょう。

その過酷な労働と悲惨な境遇を描いた『女工哀史』という文学作品をご存じの方も多いでしょう。


それと全く同じことが、中国でも起きていたということです。

しかも悪いことに、その悲惨さを中国より先に経験していた日本で、女工の酷使が社会問題化した結果、
1916年に女性の深夜労働を法律で禁止すると、日本の資本家たちはコストの上昇を恐れ、生産拠点の多くを
中国に移転したのです。

その結果、中国の女性たちは新たに日本から移転してきた工場で、ますます酷使されることになりました。
中国での生糸の生産高は増加しつつありましたが、さらに加速し、1920年代にピークを迎えます。


その「成長」を支えたのは、言うまでもなく女工の酷使です。


すなわち、日本の女性が酷使から逃れることになったのと入れ替わって、中国の女性の労働がさらに過酷になったとも
言えるのです。



【女性たちの労働運動】

 
当然、その中で女性が待遇改善を求め、労働争議を起こすケースも出てきます。

第一次大戦後は、帝国主義や資本主義の行き過ぎに対する反発が強まった時期で、またロシア革命でソビエト連邦が
成立したという画期もあり、世界各地で社会主義思想に共鳴する人々が増え、民衆の権利向上が叫ばれた時期でもあります。


日本の「大正デモクラシー」もその一角を占めることはご存じでしょう。

 
中国でも、「五・四運動」(1919年に発生した、欧米や日本による帝国主義的進出がいっこうに改まらないことに
反発する大規模な民族主義運動)において、列強に抗議するだけでなく自らの文化の近代化も模索され、
多くの人々が社会運動や民族運動に関する理論と知識を身につけていきました。

 
ソ連の影響下に中国共産党が創設されたのもこの時期です(1921年)。

このような風潮の中で、中国でも各地で女工たちによるストライキが頻発するようになりました。



高津3−2.jpg



May Fourth




 …と、ここまで中国の19世紀後半〜20世紀初頭の女性たちの姿を見てきましたが、いかがでしたか。


「日本の明治大正の頃の女性の変化と、あまり変わらないね」と思った方も多いのではないでしょうか。 


その通り、時期がわずかに違ったぐらいで、そっくりな展開だったのです。
 
もっと言えば、産業革命と社会の近代化を経ていく中で、女性に求められる役割が変わり、それに対して
女性も新たに教育を身につけ、職業の幅を広げ、権利を主張し、男性に対抗し…という流れ自体は、欧米でも日本でも
中国でも共通だった、と僕は思います。それを「女性解放」と言うのであれば、時期の差こそあれ、欧米でも日本でも
中国でもちゃんと進んだのだ、と言っていいでしょう。


その後、20世紀の30年代40年代は、中国にとっては完全に「戦争の時代」でした。15年に及ぶ日中戦争、
その終結後の国共内戦…。

 
その果てに、中華人民共和国の成立がやってきます。

 
そこで現実のものとなった社会主義の世の中。完全雇用と男女平等が唱えられ、実際にかなりの程度実現したことは、
前に述べたとおりです。


 次回は、その中華人民共和国において、建国以来60年あまり経った現在に至るまでに起こった展開について、
まとめてみましょう。




(4)につづく

文学部 史学科 准教授 高津純也





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2013年09月18日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(2)【太平天国、「男女同権」を唱える】



時は19世紀後半。
 かつてはアジアの超大国だった清朝は、既に全盛期を過ぎ、政治経済に行き詰まりを見せていました。
社会には様々な矛盾が蓄積して各階層の人々が不満を抱え、特に各地の農村部で反乱が頻発する、
不穏な状態でした。
 そこに、イギリスとの間に起こったアヘン戦争(1840〜42年)で敗北したことで混乱に拍車がかかり、
中国史上最大の農民反乱とも言われる、太平天国の乱(1851〜64)が発生します。

 この「太平天国」は、キリスト教の教義を取り入れた一種の新興宗教集団で、既存の社会の打破とユートピアの建設を
目指して武装蜂起しました。反乱は15年近くも続き、一時は中国南部の大半を支配するほどの激烈さでした。




太平.jpg




Vanquishing of Wuchang city




 その反乱集団の中で、男女の完全な同権が唱えられたのです。
 これは中国史上例のないことで、伝統的な中国思想と異なる価値観を取り入れた太平天国ならではの主張とも
言えます。

 この太平天国の主張こそ、中国における女性解放のはしりだとする考え方もあります。
 確かに、現代の女性から見れば、太平天国の主張は素晴らしい、画期的だ、と言えるでしょう。
 しかし、当時の女性が、この考え方を歓迎したのでしょうか。答えは「否」に近かったのです。
 太平天国の主張は、当時の女性には、「女性にも男性同様の義務を押しつける」と受け取られたのです。
やったこともない従軍や生産労働を、筋力に勝る男性同様にこなすことは、当時の一般の女性には過酷以外の何者でも
ありませんでした。
さらに、その仕事を拒否する女性には、恐怖と暴力による強制が待っていました。


これでは、真の女性解放、男女平等の社会とは言えませんよね。


【近代化と女性教育・職業婦人】


 さて、時代が下って19世紀後半になると、アジアからも欧米同様の近代化を目指す国家が現れます。
 その先駆けは、日本。ペリー来航から明治維新を経て、国家機構も産業構造も、全く新しい近代的なものへと
生まれ変わったことは、皆さんよくご存じでしょう。
 実は中国も、近代化を模索していました。アヘン戦争や太平天国の乱で痛い目に遭った結果、19世紀半ばには
軍隊や工業の分野で西洋の技術を取り入れ、近代化が進みました。




アヘン.jpg




Foochow Arsenal




 しかし19世紀末、中国を上回る速度で近代化を達成した日本に戦争(日清戦争)で敗北すると、それをきっかけに
再び欧米諸国(プラス日本)の進出が加速し、中国はまるで植民地のような状態に陥ります。

 これに対し、中国の知識人たちの間では、欧米に対抗するための富国強兵策や社会構造の近代化について、
新聞や雑誌を舞台に議論されるようになります。

 その中で、社会の半分を占める女性の力量に期待する意見が活発化するのです。また、滅亡に瀕した清朝も、
近代的な教育制度と学制の導入を検討します。

 こうして、女性に対する教育が進むようになりました。そして女性の間でも「学ぶ意欲」が高まり、
さらには教育を身につけた女性たちによって「古くさい思想の打破」「女性差別の解消」が唱えられるようになります。



school.jpg




Chinese Chefoo school




 やがては史上初めて北京大学で学ぶ女子学生が誕生したり、女性たちによる街頭デモが行われたり…と、
社会の表舞台で自己主張する女性の姿が目立つようになっていきました。

 また、上海や香港といった、欧米の文化が流れ込む大都市では、例えばカフェで働く女性やオフィスで秘書として
働く女性など、新しい職業に身を投じる女性も現れ、次第に職業の幅を広げていくことになりました。

 「でも、そんな教育を受けた女性や都会のハイカラな女性って、ほんの一部だけでしょ。社会の大多数を占める
女性たちはどうだったの?」と訝る方もいらっしゃるでしょう。

 そこでここからは、中国における「女性労働者」の誕生と実態について、まとめてみたいと思います。




(3)につづく


文学部 史学科 准教授 高津純也





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2013年09月09日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働

地域とともに活躍する川村学園女子大学




「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働−


(1)

 皆さんが「中国の女性のイメージは?」と尋ねられたら、どうお答えになるでしょうか。

 あの七夕の伝説に出てくる「織り姫」のような女性でしょうか。それとも、現在の北京や上海の公園で、
ひなたぼっこしているおばあちゃんの映像でしょうか。
 もちろん芸能人の名前をお出しになる方もいるでしょうが、それはちょっと「中国の女性のイメージ」を代表する、
とは言えないですよね。

西太后とか、歴史上の人物についても同様です。


 僕は、男性と同じ職場で、男性と全く変わらない仕事をしているオバチャンの姿を思い浮かべます。



A guard looks at a worker.jpg



A guard looks at a worker



woman pushing her loaded bike.jpg



Woman pushing her loaded bike





 今でこそ、JRの運転士のような職業にも女性が進出していますが、それは日本ではつい最近のこと。

でも中国ではもっと前から、社会の様々な場所で男性と同じように女性が働いています。
警察官にしても、日本だと「婦警さん」と男性警察官の間には差が感じられますが、中国では全く差がありません。


 その一方で、「昔の中国の女性」と言ったら、イメージはどうでしょう。
 お屋敷の奥の部屋にたたずむチャイナドレスのお嬢様、とか。



Qipao woman.jpg



Qipao women


 
あるいはもっと昔なら、機織りをしたり琴を奏でたりするお姫様、とか。



Playing a zheng.jpg



Playing a zheng





 全然、社会で活発に働いているイメージはありませんね。

 いったい、「昔」と「今」とで、何がどう変わったのでしょう。
それとも、上に述べたようなイメージそのものが間違っているのでしょうか。



【男女平等の実現?】

 現在の中国が、共産党が全ての権力を握る社会主義国であることは、ご存じと思います。
そうなったのは1949年、中華人民共和国成立によってです。



無題PRCFounding.jpg



PRCFounding




 その結果、全ての企業が国有化され、共産党が全ての労働力分配を決定することになりました。
同時に、社会的労働と経済的自律性の男女均等が政策として掲げられました。
 
つまり、国民は一定の年齢になれば、必ずどこかで就業することになる。
失業率ゼロ、男女差別も全くない。そんな国になったのです。

 
そんなうまい話があるか?…勿論、いいことづくめではなく、大きなマイナスポイントを中国は抱えることになります。
しかしその話は後回しにしましょう。


 とりあえず、少なくとも建前上は、中華人民共和国の下で「男女平等」が実現しました。男女間の雇用状況の格差や、
職種・賃金の格差は、まあ完全に平等とまでは実際にはいきませんでしたが、諸外国に比べればずっと小さくなったのは
事実です。


 この成果を、中華人民共和国は大きな成果として宣伝しました。
その際によく使われたのが、タイトルに掲げた「女は天の半分を支える」というスローガンです。
女性も、男性と全く同じだけ社会を支えているのだ。差別は撤廃されなければならない、女性は解放されなければ
ならない。それを我が国はいち早く実現したのだ、と。


 それ以前はどうだったのか? やはり、男性に比べて女性が社会に参加する局面は限られ、賃金に格差があったり、
権利に制限があったりしたわけです。


但し、それが諸外国に比べて特にひどかった、中国では女性は奴隷のように扱われていた…とか言うことはありません。
そのことは後ほど具体的に説明しましょう。


 しかし、男女平等の実現が大きく宣伝される中で、必然的に、「昔はひどい世の中だった」という表現が強調される
ことになります。


「かつての中国は男尊女卑で、女性には良妻賢母であることだけが求められ、『家』制度に縛り付けられて家庭に
閉じ込められ、男性の所有物のように扱われ…」と位置づけられることになりました。


儒教的倫理に支配されたかつての中国には、確かに理不尽な差別や社会的地位の固定化もあったことは
否定できません。しかし、まるで「旧中国=儒教社会=差別社会」「新中国=共産主義社会=平等社会」のように
二分化してしまうとすれば、それは新中国の側の「宣伝」を鵜呑みにすることになりかねません。


 そこでここからは、作られたイメージを離れて、いささか冷静に、中国近代における女性の権利向上への道のりを
まとめてみることにしましょう。



(2)につづく


文学部 史学科 准教授 高津純也





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2013年08月26日

新種化石発見とその命名(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



新種化石発見!





新種発見報告 −同定と文献−

 採集した際に割れてしまったDouvilleiceras属のアンモナイト標本を大学の実習室で木工用ボンドを使い、
元のノジュールに復元しました。完全にボンドが固結した後に、エアースクライバー(圧縮空気で岩石を削る
ペンシル型の機器)を使い、慎重に化石の周りについている不要な岩石を取り除きます。こうした作業を
クリーニング(剖出作業)と呼んでいます。

これでやっと化石の名前(学名)を調べることができるようになります。この名前を形態の特徴などから決めることを
生物学や古生物学などの自然誌では、鑑定とは呼ばずに「同定」といいます。ここから狭義の分類学の調査・研究の
始まりとなる訳です。


化石last.jpg



 Douvilleiceras属は、白亜紀前期の前期アルビアン期の後期から中期アルビアン期の前期(約1億1千万年前)に
汎世界的に分布していたいわゆる示準化石(学問的に正確には示帯化石といいます)で、古くからヨーロッパで
よく研究された種類です。

そこで、この同定作業では、アンモナイトを記載した古い文献(19世紀前〜中期頃に新種として記載・報告された文献)に
当たる必要があります。特に、フランスのドォービニー(A. d’Orbigny)のモノグラフ(1840-1842年)や
イギリスのケーシー(R. Casey)のモノグラフ(1960-1980)は、Douvilleiceras属種がまとまって記載されており、
同定する上で有用でした(図10、11)。

しかし、今回、得られた標本は、ヨーロッパで良く産出するDouvilleiceras orbignyi Hyatt(図12)という種に
殻装飾が良く似ているのですが、イボの数が異なることに気付きました。つまり、調査で得られた標本は、
側面のイボ数が6ですが、ヨーロッパのものは7あるのです。

その後、あらゆる文献に当たりましたが、6コ有ることを記述した論文はありませんでした。

こうした文献をしらみつぶしにチェックすることは、新種として報告する上でICZNによる先取権の問題が出てくるからです
(当然ですが、すでに報告・記載されていれば、新種として報告できません)。



化石last5.jpg




2003年に私は学術雑誌にこの資料を基に、新種として記載報告をしました。その時の学名は、
Douvilleiceras kawashitai sp. nov.(図13)として、発見した人の名(川下 由太郎氏)を種名に
付けております(sp. nov.とは新種という意味)。

なお、この時の論文には、同時に運良くもう一つ別標本が新種であることが判明し、
Douvilleiceras compressum sp. nov.(compressumとは殻がやせているという意味)で、殻の形態の特徴から
名前を付けております。このような例のほかに、化石では産出した地名が良くつけられ、最も有名なのは、
Nipponites mirabilis Yabe, 1904(図14)という「日本」という地名が属名に付けられており、
世界的に良く知られた異常巻のアンモナイトがあります。変わった形をしていますね!



化石last4.jpg




このように、化石では、発見者や研究者の人名が付けられる他に、形態の特徴や産出地の地名が名前(学名)に
付けられるのが一般的です。(ただし、著者が学名:属種名に自分の名前を付けることはできません)。

なお、アンモナイトは、恐竜(例えば、学名:Diplodocidae? gen. et sp. indet.
(ディプロドクス科に含まれる可能性があるが、属と種は同定できないという意味);和名:モシリュウ )や首長竜
(例えば、学名:Futabasaurus suzukii Sato, Hasegawa and Manabe、2006;和名:フタバスズキリュウ)などと違って、
和名が付けられたことはありません。

このことは、見方を変えれば、日本人の生活の中で、アンモナイトがあまり興味の対象になっていないことの
表れなのでしょうか?

なお、参考までにアンモナイトの別称は、漢字で「菊(きく)石(いし)」と表しますが、今はあまり使われないようです。

なぜ、菊石と呼ぶのでしょうか?調べてみて下さい!

最後に一言:
化石発見の嬉しさは、筆舌に尽し難い感動があります。

みなさんも是非、野外で化石採集を楽しんで、新種発見にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。



教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2013年08月19日

新種化石発見とその命名(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





新種化石発見!



新種発見物語 −経験と運−


札幌から東へ約60km離れたところに、三笠市というかつて炭鉱で栄えた街があります。
この街を流れる幾(いく)春(しゅん)別(べつ)川(がわ)の上流には、桂沢(かつらざわ)湖(こ)(北海道で
最初に造られた多目的ダムによってできた湖)があり、その周辺は、古くから地質や化石の研究が行なわれ、
特にアンモナイトを研究する人であれば、誰でも知っており、一度は訪れるほど有名な地域です。

私は、新たなダム建設に伴い、1989年から10年以上にわたってここの湖周辺地域の白亜系の調査をしてきました
(図6、7)。





化石3.JPG






1994年9月の調査の際に新種の化石(アンモナイト)が発見され、その時の化石調査の一コマが『三笠市立博物館
年報 第13号』に掲載されています。以下にその一部を紹介します。




『9月4日(日)、快晴。午前9時、調査補助の嶋貫年男・川下由太郎(故人・ハンター兼)両氏と共に、
幾春別川支流の奔(ぽん)別(べつ)川(がわ)のかねてから気になっていた小さな枝沢に入る。私はルートマップ
(地質や化石の調査記録)を作成しながら上流へと足を進める。前方では姿は見えないが、嶋貫氏が初秋とはいえ、
沢を覆い隠すばかりに生い茂った草を刈ってくれており、時々、大型ハンマーで川床の転石(岩盤から風化などに
よってはずされて川の中に転がっているノジュールなどのことを指す)や露頭に挟在されるノジュールをたたく音が
「カーン、カーン」と沢に響く。私のすぐ前では川下氏がご自慢のライフル銃を肩に重くくい込ませながら、
小さなハンマーでノジュールをたたいている。いつもながら、調査はこうした場面の繰り返しである。
沢を登り、すでに3時間以上過ぎた頃であろうか。奔別川支流の枝沢では地層が立っているせいか、大小様々の
滝に出くわすが、ちょうど、小さななめている滝にさしかかった時であった。川下氏が径15cmほどのノジュールを
たたいていた。「おーい、おーい」と私を呼んだ。「化石が何か入っているようだが、暗くてよく見えん。
先生、ちょっと見てくれ。最近は、目が悪くなって、こまいものが見えにくくなった」と例のごとく冗談まじりに
言う。そこは、トンネルのように空を覆い隠すほどに草木が茂っており、確かに暗い。私が近寄って見ると、
ノジュールの割られた破断面に茶色の殻らしい化石の断面が曲線となって見える。さらに目を凝らしてみると、
ほんの僅か“イボ”のようなところがぽつぽつと見えた。「あっ、これは、もしかしたら」といった予感が脳裏を
よぎった。私は泥岩の露頭にくいいって、なめるようにノジュールの割られてあいた穴を見た。まだ、一部が露頭に
残されている。その穴の周辺にも破片が散在している。私はノジュールの破片を必死になって掻き集めたが、
残念ながら、少し足りない。しかし、どうにか元の丸いノジュールに組み合わせることができた。
再度、私の手の上に組まれて復元されたノジュールに目を凝らした。「いやー、川下さん、これは大発見だ」と
私は声をはずませた。』

 



化石3−2.JPG






以上が、化石発見の一コマですが、この調査の目的の一つに日本では珍しいDouvilleiceras属のアンモナイト
(示帯化石種の一つ:地層の地質年代を決定するのに重要な種類)を直接、露頭から採取することでしたので
(私の研究室にこれまでに採集されたDouvilleiceras属の標本は7つありましたが、全てが転石)、つい「大発見だ!」という
言葉がでてしまいました。

したがって、この採集時点では、そのアンモナイトが、新種というおまけが付くとは夢にも思っていませんでした。




4)につづく


教育学部 社会教育学科 教授 二上 政夫




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2013年08月10日

新種化石発見とその命名(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



新種の化石発見!



野外調査 −感動と恐怖−

 野外調査に際しては、私は次のようなものを準備して山に入ります。少し大きめのリュックサック(時には背負子)、
大型ハンマー(3〜5kg)、小型ハンマー(1kg)、タガネ、クリノメーター(地層を測る器具)、調査バック、野帳、カメラ、
新聞紙(化石を包むため)、大型の鈴(熊避けのため)など。


さて、調査地ですが、北海道のほぼ中央部には、南北に細長く(浦河から宗谷岬まで:日高山脈、夕張山地、天塩山地
などの山間部が中心)中生代白亜紀に主として浅い海に堆積した蝦夷層群(えぞそうぐん)(およそ1億2千万年〜
7千万年前)という地層が分布しています。私はここを研究のフィールドとしています。

この地層からは、アンモナイト(図2)を始めとして、二枚貝、巻貝、魚、エビ、ウニなど多種多様な海生生物の
保存状態の良い化石が見い出されます。

また、極めて希ですが、海に住んでいた首長竜や陸に住んでいた恐竜の化石も見つけられたことがあります。

なお、北海道はアンモナイトの産地として、世界的に知られています。


 私にとって、この北海道で化石の野外調査をすることは、最大の楽しみでありますが、その反面、苦しみでもあります。



化石 図2、図3.jpg






 ここでは、約5千万年間の生物の出現や絶滅の様子を垣間見ることができ、本題である新種の化石を発見することも
けして珍しい事ではありません。ハンマーでノジュール(化石の入っている白っぽい玉石のような塊)(図3)を割った
瞬間に、1億年前の生物が再び“呼吸”をするかと思うとその時のわくわく感は言葉で表すことができない程の感動が
あります。

時に大きさが50cmを越えるような(重さも50kgを超えます)アンモナイトを山奥で見つけると、「やった!」という思いが
湧き上がります。それと同時に、どうやって道路まで運ぼうかと悩みますが、結局、背負って運ぶしかありません。

斜面を這いつくばったりすることもあり、大きなアンモナイトを背中に背負ったその格好は「蝸牛(かたつむり)」状態に。

かっこ悪いですよね!


 一方、こうしたアンモナイト産地は、ヒグマの生息地と重なっています。調査中にヒグマの糞や足跡など(図4、5)を
みると、恐怖が体中を走り回ります。この恐怖心は、実話を基にしたドキュメンタリー小説『羆(くま)嵐(あらし)』
(吉村 昭 著)を以前に読んだことに起因しているのかもしれません。



図4,5again 2.jpg






 私の40年間の調査の中で、至近距離(5m位離れたところ)でヒグマと出くわしたことが一度だけあります。
その瞬間は、心臓が口から出そうになるとは言いますが、正にその状態。

その時の尋常ではない心臓の鼓動の高まりは、私の脳裏から今も離れません。

その時、熊と私は、お互いに驚いて反対方向?に走ったものと思います。実は熊はどうしたのか、
必死のあまり記憶にありません。この時ばかりは事故にならず、極めて運が良かったと今でも感じています。


なお、北海道のアンモナイト産地の多くは、国有林の中にあります。

入山する場合は、事前に森林管理署の入山許可を必ず得る必要がありますので、注意して下さい。




(3)につづく


教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫




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2013年07月31日

新種の化石発見とその命名

地域とともに活躍する川村学園女子大学





新種の化石発見!−名前はどうやって付けるの?−



生物の名前と分類学 −学名と和名−



 私たち「ヒト」は、地球にいる生物に限らず、宇宙のありとあらゆる「もの」に対して、名前を付けたがる生き物です。
事実、みなさんの身の周りにあるものについては、それぞれ固有名詞がつけられ、ものを区別しながら生活をしている
ことと思います。しかし、私のように、年をとってくると、「あれ」とか「それ」とか「これ」とか、その固有名詞が直には
でてこなく、代名詞で済ましてしまう場合がありますが!


 さて、星の世界では、世界中のアマチュア天文家が日夜望遠鏡を覗きながら、新しい星を探していることを耳にします。
私が子供の頃に、彗星発見の話しを学校で聞かされた記憶があります。これが「池谷関彗星:C/1965 S1 (Ikeya-Seki)」
でした。これは、池谷さんと関さんが違った場所で同時に彗星を発見したために、このように呼ばれていることを御存知
の方も多いかと思います。したがって、この場合は、発見者の名前が“星”に付けられた訳です。

このようなことでも分かるように、ものに名前を付けるときには、それぞれ何らかの意味が込められて付けられています。


ところで、生物の名前はどのように付けられるのでしょうか。


実は、名前の付け方には、厄介なルールがあります。このルールは、動物の場合、「国際動物命名規約」
(International Code of Zoological Nomenclature:略してICZNと表記)です。

この規約による名前の付け方は、18世紀にスウェーデンの生物学者リンネ(Carl von Linné;
ラテン語名でCarolus Linnaeus)(図1)により提唱された二名式命名法(二名法ともいう)が用いられ、
属名(generic name)と種名(specific name)、その後に最初に新種として発表した人の名とその発表された西暦年号で
記すことが国際的に決められていることです。



リンネの肖像画.jpg



その際の属種名はラテン語化した文字表記をイタリック(斜体)で表わすことになっています。
また、その適用は1758年1月1日からとされています。したがって、この年以前に付けられた名前は、
全て無効になるわけです。このルールに基づいて、例えば、犬は、Canis familiaris Linnaeus, 1758、
猫は、Felis catus Linnaeus, 1758といった具合に表しますが、命名者名や年号は時々省略されることがあります
(ただし、命名者と年号を付けるかどうかは、ICZNでは任意とされ、学名の一部ではありません)。
これが学名(scientific name)と呼ばれるものです。したがって、学名は世界共通の生物名であるということができます。



この学名の二名法は、私たちの名前、つまり、姓と名で作られていることとに似ていますね!



 しかし、私たち日本人は、欧米人と違って、ラテン語化した学名、すなわち、アルファベットで示された語句が、
習慣的に生活の中で馴染まないことから、上述の学名に対して対になる日本語の和名が付けられます
(ただし、和名をつけるかどうかはその分野での慣行で、付けないことも良くあります)。
和名は、当然日本国内だけで通用する生物分類の専門的に近い名前で、慣例として、カタカナ表記をすることで、
一般的な固有名詞と視覚的に区別しています(上述したように、学名はイタリック表記にすることで区別)。
したがって、分類学的に言えば、「犬」と「イヌ」は違うのです。また、「犬」は英語名で「dog」、フランス語で「chien」、
ドイツ語で「Hund」といった具合に,それぞれ異なった言語圏の名称で呼ばれています。

このようなICZNの規約にとらわれない和名を含めたこうした“地方名称”は、すべて俗名(vernacular name)と
いうことになります。


 なお、化石の学名はこの現生生物の命名規約に準じて、名前を付けることになっています。




現生種と化石種 −種とは何か−


 生物や化石に名前を付けるときに、基本的な考えとして「種とはなにか?」ということが重要な命題になります。
このことを抜きにして名前を付けることはできません。なぜならば、名前は生物の種類(種)に付ける訳ですから。

現在、生きている生物の種の考え方(生物学的種概念)は、1942年にドイツ人のマイヤー(E. Mayr)によって
「種は、相互に生殖的に隔離されており、実際にあるいは潜在的に相互の間で交配が可能な自然集団の全群」であると
指摘されています。すなわち、種とは、交配して子孫が残せるかどうかということが最も重要な要素であることを
表したものと解釈できます。


 ところが、化石の場合、発見される多くの生物の遺骸(硬組織や軟組織)が石、つまり、鉱物によって置換されて
います。運よく生殖器官が見つかっても、現実的に交配することは、不可能です。したがって、化石を基にして、
子孫を作り出すことはできないのです。こうしたことから、化石の種とは、個体群の変異を考慮しながら、
生物の形の不連続性を基にして、種を認定するほかありません。

このような種のことを「形態種」(morphospecies)または、リネー種(linnean species)と呼びますが、
化石は正にこうした種なのです。つまり、極論を言えば、形質の違いが種の違いとなるわけです。




(2)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2013年07月18日

旅する女性作家ーK.マンスフィールド(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




旅する女性作家 ― K. マンスフィールドの旅 ―



ここは海抜5000フィート。天国から涼しいそよ風が吹き、
森の木の葉は、いつも揺れている。
スイスほど、美しい土地は想像できません。
シエールは、完璧な街です。 
          
(K.マンスフィールド、1921年7月付の手紙)





1921年5月、マンスフィールドは南仏を出て、イタリア経由でスイス・アルプスに入り、7月、シエールに到着します。
シエールは、アルプスの山並みを背景に、葡萄畑が一面に広がる美しい町です。

ドイツの詩人リルケ(1875〜1926)も晩年をシエールで過ごしました。
マンスフィールドが滞在した、ホテル・シャトー・ベル・ヴューに、リルケも同じ時期に、度々訪れています。



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アルプスを背景とするシエールの中世の町並




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リルケも滞在した Hotel Chateau Bell Vue




マンスフィールドは、シエールから3kmほど離れたモンタナに、シャレー(スイス風の山小屋)を借り、
夫マリも合流します。冬でもアルプスの山頂の雪は白銀に輝き、緑の森の中に青く澄んだ湖が点在し、
シャレーは鮮やかな花で飾られ、そこは、まさに、地上のエデンでした。




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花で飾られたスイスのシャレー、現在、
モンタナへは、ケーブルカーで登山できる。





私は残りの人生のすべてをここで過ごしたいと思っています。
ここは、今まで知っているどの地よりも、ホームだと思えるのです。
ここには、鉄道も、自動車もカジノもジャズバンドもなく、穢れのない地です。
小さな花の一つ一つが、新しい光を放っています。

(マンスフィールド、1921年7月付の手紙)




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シエールの南側の斜面に葡萄畑を広がり、遠くのアルプスの頂きには、雪が残る。




地上の楽園において、マンスフィールドとマリは、堕落前のアダムとイヴとして、無垢な幸福な日々を過ごします。
彼女は、この地で、最高傑作と言われる、「入り江にて」を執筆します。そして初雪降がるスイスの秋は、
想像を絶する美しさでした。



低い山に初雪が降ると、すべては水晶のように透明な光で
輝きます。空は、驚くほど青く澄みわたるのです。
                (1921年11月の手紙)


しかしながらこの牧歌的生活も終わる時が来ました。マンスフィールドの病状は、ますます悪化の一途をたどり、
1923年1月、彼女はフォンテーヌ・ブローで永眠します。


マンスフィールドは、20才の時に家庭を飛び出し、2回の結婚では、堅固な家庭を築くことはできませんでした。
旅をする彼女は、いつも本当の家庭、「ホーム」を求めていました。

現実に妥協せず、失われた楽園の回復を求めて旅を続けました。



芸術とは現実をヴィジョンに妥協させようとする試みではない。
現実の中に、芸術家自身の世界を構築しようとする試みである。
       (K.マンスフィールド、1921年11月の日記)



マンスフィールドの母は、19世紀の裕福な家庭の主婦でした。何不自由ない暮らしの中で、母は家庭の束縛を嫌い、
家庭からの逃走、自由な旅を夢想していましたが、実行するだけの勇気も覚悟もありませんでした。

マンスフィールドは、母の願いを受け継いで、20世紀初頭の世界を自由に生きました。

しかし、結核を病むマンスフィールドは、一人外国のホテルで孤独で不安な夜を過ごす時、ふと母を思い出し、
いつも夫や家庭に守られていた母の境遇を羨みます。

マンスフィールドは自由でしたが、彼女を守ってくれる夫は、彼女のそばにいませんでした。
彼女は護身用のピストルを携帯していました。

家庭の束縛を断ち切って、自由を得たマンスフィールドは、孤独と危険という代償を払いました。
家庭の外にあるのは、「自由という風の吹く荒地」でした。


21世紀に生きる私たち女性も、マンスフィールドと同様に、新しいライフスタイルを模索しています。
私たちもまた後戻りのできない旅に出たのではないでしょうか。

                                                了

(写真は、すべて筆者が撮影しました。)




文学部 国際英語学科 教授 手塚裕子






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2013年07月11日

旅する女性作家ーK. マンスフィールド(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




旅する女性作家 ― K.マンスフィールドの旅





あなたの前には、自由という風吹く荒地が広がっています、
この自由という幸福の約束に向かって両手を広げて走るのです
                ― K. マンスフィールド



1918年、マンスフィールドとマリは正式に結婚します。

二人とも、文学的名声と富を得て、ロンドンに庭付きの大きな家を買います。

マンスフィールドも、やっと定住するかと思われましたが、1919年9月、彼女は家を出、夫と離れ、
一人外国の旅に出ます。

彼女は結核に冒されていました。イギリスの寒い冬に耐えられず、暖かい土地をめざして、1923年に亡くなるまで、
旅を続けます。

1919年の冬はイタリアのリヴィエラの避寒地オスペダレッティ。
ニュージーランドに似た入り江のほとりの海辺のリゾート地です。



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(オスペダレッティの絵葉書)





1920年の冬は南仏コートダジュールのリゾート地、マントン。マントンの入り江と海、
ヤシの木は、ニュージーランドによく似ていました。

この町で、マンスフィールドはヴィラ・イソラ・ベラという美しい家を借りました。
オリーブの木の下、ヘリオトロープの花のかぐわしい香りが漂う庭と、テラスから眺める星空を
マンスフィールドは、この上なく愛しました。




この家は、私が人生で一番愛した、最初の本当の家です。
この小さな家は、私のためだけに存在しているのです。
私の胸は、カロリ(ニュージーランドの町)に対する時と
同様に、この家を愛さずにはいられないのです。
            (1920年11月付、夫宛の手紙)






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(Villa Isola Bella: マンスフィールドが愛した家、
  現在は閉鎖されている。 撮影:筆者)



Villa Isola Bella cutting.jpg




マントンは、かつて回教徒の商人と地中海貿易で栄えた町でしたので、旧市街には、イスラム教徒が作った
白い迷宮のような建物が残されています。

戯曲家、ジャン・コクトー(1889~1963)もこの町に住み、海に張り出した岬にコクトー博物館があります。
挿絵画家、オーブリー・ビアズリー(1872~1898)も、結核の療養ため訪れ、この地で亡くなりました。
スペインの作家ブラスコ・イバニュエス(1867~1928)も、マントンに移住し、ここで没しました。

多くの芸術家に愛された町、美しい海と温暖な気候、マントンはマンスフィールドが最も愛した町でした。
この町で、彼女は多くの傑作を執筆しました。現在、ヴィラ・イソラ・ベラにつづく道路は、
キャサリン・マンスフィールド・アベニューと名付けられています。



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(マントンの夜景、入り江の向こう側に見えるのが旧市街、絵葉書)




しかし、マンスフィールドの結核の病状は深刻になり、彼女はさらに転地療養の効果を求めて、
1922年春、スイスのアルプスに向かいます。



(5)につづく



文学部 国際英語学科 教授 手塚裕子








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2013年07月03日

旅する女性作家ーK. マンスフィールド(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



旅する女性作家 ―K. マンスフィールドの旅― (3)





詩人とは、失われた無垢を探し求める、心の旅人
                   ― W.H. オーデン

弟の死によって、マンスフィールドは、ニュージーランドで過ごした、子供時代の思い出を共有する人を
失いました。つまり彼女は、弟の死と同時に無垢な子供時代のニュージーランドを失ったのです。

この時から、マンスフィールドは憑かれたように、ニュージーランドを舞台とした子供時代の物語を書き始めます。
「プレリュード」、「入り江にて」、「園遊会」、「人形の家」等、マンスフィールドの代表作と呼ばれる、
ニュージーランドものは、すべて、弟への挽歌であり、ニュージーランドへの心の旅でありました。



 私は、私の国について書きたい。弟と私はそこで生まれた。
そして、今も私は心の中で弟と共に思い出の地をさまよっている。
私は、思い出の地を書くことによって蘇らせたい。神秘のように、
輝きのように、残照のように、私の小さな太陽は、もう沈んでしまった。
弟よ、私は、あなたのために、長い挽歌を書きましょう。  

(1916年1月22日の日記より抜粋)




少女時代のマンスフィールドは、ニュージーランドを憎んでいました。しかし、弟の死後、初めて、
ニュージーランドの価値に気付きます。アダムとイブが、楽園追放後、初めて楽園の価値にめざめたように。

旧約聖書、創世記によれば、人類の祖先、アダムとイヴは神の命令に背いて、禁断の木の実を食べ、
楽園から追放され、善と悪とを知る者となり、自分たちの犯した罪を悔いながら、楽園の回復を望みます。



フェリクス・クルパ(幸福な堕落):悪を知り堕落して初めて私たちは善を知りうるという逆説があります。
ボヘミアンに憧れ、故郷を飛び出したマンスフィールドが、ロンドンで数々の悪を経験した後、
ニュージーランドの物語を描き始めた背景には、旧約聖書に描かれた楽園追放と回復への旅という、
普遍的なテーマが読み取れます。



しかしながらマンスフィールドは、ニュージーランドの物語を繰り返し書きながら、現実のニュージーランドには一度も
帰りませんでした。彼女が帰りたかったのは、現実のニュージーランドではなく、弟と過ごしたあの日のニュージーランド、
失われた子供時代の無垢の楽園、幻影(ヴィジョン)のニュージーランドなのです。



マンスフィールドは、彼女のヴィジョンにふさわしい故郷を求めて、地中海沿岸の旅に出ます。そして発見したのは、
プロヴァンスの海辺の街、バンドールです。バンドールは、ウェリントンと同様、入り江のほとりにたつ街ですが、
ヨーロッパの古い歴史と文化の薫る街、地中海から優しい風が吹きよせる街、まさしく、彼女の楽園と呼ぶのに
ふさわしい場所でした。



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Bandol: 輝く地中海を見下ろすテラス。筆者撮影




この街の高台に、マンスフィールドはヴィラ・ポーリンという小さな家を借り、マリを呼び寄せ、
マリには弟の役割を演じてもらい、ニュージーランドの子供時代を再現します。

マンスフィールドとマリは、午前中は仕事、午後は、海辺を散歩、夕方は読書という、楽園のような生活を送ります。
彼女は、友人のモレル令夫人に充てた手紙で次のように書いています。



 私たちは暖炉のそばにすわって、ほとんど一日中、仕事をします。
午後遅く、私たちは、帽子をかぶって、風の中に駆け出し、海岸
に降りていきます。夕方になると、私たちは本を読み、語り合い、
将来のプランを作ります… 私たちは、ものすごく幸福です。  
 (1916年2月26日付)





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(左:バンドールの駅、右:Villa Pauline、2枚とも筆者撮影)



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ヴィラ・ポーリンで書いた小説「アロエ」は、後に「プレリュード」となって、出版され、
新しいモダニズムの文学として高い評価を受けます。



(4) につづく


文学部 国際英語学科 教授 手塚 裕子





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2013年06月24日

旅する女性作家ーK.マンスフィールドー(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



旅する女性作家――K.マンスフィールドの旅――(2)


ボヘミアン、風のように自由に、何にも縛られない、流浪の芸術家。

20世紀初頭、ロンドン、パリ、ミュンヘンに、ボヘミアが誕生しました。そこには、伝統や慣習に背を向け、
自由奔放に新しい芸術を創造する、若く野心的な芸術家たちが世界中から集まりました。

1908年、ニュージーランドを出発したキャサリン・マンスフィールドは、喜望峰経由で6週間の船旅を終え、
憧れのロンドンに到着。

彼女は、さっそくボヘミアン芸術家になるため、経験を求めて、無謀な青春彷徨を始めます。
むこうみずな恋愛、失恋、妊娠、突然の結婚と家出、流産等、数々の経験の後、
マンスフィールドは小説を書き、作品「疲れた子」が、1910年、雑誌『ニューエイジ』に掲載され、
文壇デビューを果たします。

『ニューエイジ』時代のマンスフィールドは、ロンドンのボヘミア、チェルシーにアパートを借り、
髪型、服装、インテリアのすべてをスタイリッシュにまとめ、植民地から来た「リトル・コロニアル」は、
メトロポリス・ロンドンの「モダンな新しい女」へと変身しました。


1911年、短編集、『ドイツの宿にて』を出版。文芸雑誌『リズム』の編集長、ジョン・ミドルトン・マリと出会い、
二人は恋に落ち、同棲。マンスフィールドは、『リズム』の副編集長となり、二人は二頭の虎と呼ばれ、
文壇で活躍します。

『リズム』は、若い日のパブロ・ピカソの素描を紹介するなど、新しい芸術のオピニオン・リーダーでした。



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雑誌『リズム』の表紙―知恵の実を食べようとしている楽園のイヴを
描いている。楽園追放のモチーフは、この雑誌のテーマであった。
(川村学園図書館所蔵)




『リズム』時代のマンスフィールドは、ブルームズベリーに建つ高層集合住宅、クローヴリー・マンションの
最上階に住み、大都市ロンドンの眺望を楽しみ、インテリアは日本風にまとめました。

マンスフィールドは、1910年5月に、「日本展」を見て以来、日本のエキゾチックな魅力に魅せられていました。



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クローヴリー・マンション (筆者撮影)




1914年、第1次世界大戦勃発。雑誌は売上不振から廃刊に追い込まれ、マンスフィールドとマリの間には、
倦怠感が漂い、隙間風が吹き始めます。

そのような折、マンスフィールドの弟レズリーが、戦争に志願してイギリスにやって来ます。

再会した弟と彼女は、ニュージーランドの思い出を、夜が更けるまで語り明かします。



1915年、マリに飽きたマンスフィールドは、パリに渡り、そこで『ニューエイジ』の先輩女性ジャーナリスト、
ベアトリスと再会し、彼女の先導で、パリのボヘミア、モンパルナスを探検します。

当時のモンパルナスには、ピカソ、モディリアーニ、シャガール、マチス、藤田嗣治など、きら星のような芸術家が
集まっていました。

ベアトリスは、モディリアーニと恋に落ち、約2年間同棲し、モディリアーニは、何点かのベアトリスの肖像画を
描きました。

ベアトリスがパリのボヘミアン芸術家の仲間入りをした一方で、マンスフィールドは、以後、ボヘミアに背を向け、
故郷、ニュージーランドに、目を向けます。

20才の時に捨て去った故郷、ニュージーランド。軽蔑していた故郷への望郷の念が、生まれた時、
マンスフィールドのもとに、弟の戦死という悲劇的知らせが届きます。

つづきは、次回に。




(3)につづく


文学部 国際英語学科 手塚 裕子




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2013年06月16日

旅する女性作家 ―K.マンスフィールド―

地域とともに活躍する川村学園女子大学



旅する女性作家
―― K. マンスフィールドの旅 ――



風のように自由に、時代を駆け抜けた漂泊の女性作家、キャサリン・マンスフィールド。

その34年の短い生涯の中で、彼女は50回以上引っ越し、人生の半分を見知らぬ土地のホテルで
過ごしました。

家族のいる安全な家庭を飛び出し、危険を冒して、一人、未知の世界を彷徨したマンスフィールド。

彼女を旅へと駆り立てたものは、一体、何だったのでしょうか。

フランス、フォンテーヌ・ブローの墓地に眠る彼女の墓標には、次のようなシェイクスピアの言葉が
刻まれています。


But I tell you, my lord fool, out of this nettle, danger,
We pluck the flower, safety.      ( I Henry IV, 2, iii )

(訳)この危険という茨の中から、安全という花を摘むのです。
                  (『ヘンリー4世 第1部』、2幕3場)



マンスフィールドは、南半球のニュージーランドに生まれ、文学的野心を抱いて、20才でロンドンに渡り、
その後、パリ、南イタリア、南仏コートダジュール、スイスを旅し、最後は結核のため34才で
フォンテーヌ・フローで永眠します。

マンスフィールドの旅の足跡をたどりながら、女性と旅と芸術について考えてみたいと思います。


マンスフィールドの旅は、芸術家になるための、いわば自己実現の探求の旅でした。
彼女が生きた20世紀初頭のヨーロッパは、モダニズムの時代を呼ばれる変革の時代でした。
19世紀の堅固な家父長制度が揺らぎ、婦人参政権運動、女性解放運動の機運が高まり、
それまで家庭に束縛され、妻となり母となる以外に職業選択が許されなかった女性たちの
意識とライフスタイルに大きな転機が訪れました。

マンスフィールドの旅は、新しい女性のライフスタイルを探求する旅でもありました。

キャサリン・マンスフィールドは、1888年10月14日、当時イギリスの自治領であったニュージーランドの首都、
ウェリントンに生まれます。
ウェリントンは、海から吹き上げる強い風の吹く街として有名ですが、マンスフィールドの生まれた日は、
特に風の強い日でした。


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赤:Wellington, New Zealand




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The Twilight, Wellington(スタンプ・メイツより)




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マンスフィールド生家(撮影:筆者)




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Portrait of K. Mansfield 1918 (T.G.Macarthy Trust Fund)




風の街に生きる人々の様子を、彼女は作品、 “The Wind Blows” の中で次のように語っています。



They cannot walk fast enough. Their head bent, their legs just touching,
they stride like one eager person through the town, down the asphalt zigzag,
where the funnel grows wild and on to the esplanade. It is dusky – just
getting dusky. The wind is so strong that they have to fight their way through it,
rocking like two old drunkards. (underline, mine)



(訳)彼ら(姉と弟)は、速く歩けなかった。頭を下げ、よろめきながら、
まるで一人の強い意志のある人のように、彼らは街を抜け、羊歯の茂るジグザグの舗道を下り、
海岸の遊歩道に出た。もうあたりは暗くなっていた。
風があまりに強いので、彼らは風と戦いながら、歩かなければならなかった。
まるで老いた酔っ払いのように、よろよろと。 (下線筆者)



風といえば、エミリー・ブロンテの不朽の名作『嵐が丘』でも、強い風の吹く荒地に生まれ育った男女は、
心の中に吹く強い風のような情念に突き動かされ、激しい恋に落ちていきます。マンスフィールドの
強い意志と激しさには、風と戦いながら歩くウェリントンの地が大きな影響を与えているように思われます。


また、風は船の帆をうごかす旅の原動力であり、自由の象徴です。マンスフィールドの祖先は、19世紀初頭、
ヨーロッパ大陸から船に乗って、新天地をめざし、ニュージーランドに来たパイオニア(開拓者)でした。
マンスフィールドは、自分の中に、パイオニアの血が流れていることを誇りに思い、20才の時、
次のような詩を書きました。



 I, a woman with the taint of the pioneer in my blood
Full of a youthful strength that wars with itself and is lawless.
( “To Stanislav Wyspianski” )


(訳)私は、パイオニアの血を引く女
   私の若い力は、自分でも制御できない
   理性でも制御できないほど激しい



マンスフィールドの人生の旅について、詳細は次回からお話しします。


(2)につづく


文学部 国際英語学科 教授 手塚 裕子




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2013年06月08日

ビアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





ービアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立ー



【6】 「ピーターラビットのおはなし」(The Tale of Peter Rabbit, 1902)


これはポターの最初の作品で、そしてもっとも有名な作品でしょう。ストーリーを説明する必要はないと思いますが、
わんぱく子ウサギピーターが、お母さんの言いつけに背いて人間の農園に侵入し、ひどい目にあう話です。



小ピーターラビットポラロイド.JPG





ここでも、作品に描かれる「家庭的空間」は、奇妙に多層的なイメージを持っているように思われます。
ピーターの母が切り盛りする家は、マクレガーさんに捕まりそうになって命からがら逃げ出してきたピーターが
家に逃げ込む場面からも分かるように、彼にとって安全な隠れ家であるはずです。しかし、その一方で
そこが彼にとって必ずしも居心地のよい場所ではないことも示されています。


ピーターが巣穴の中にいるところを描いたイラストは作品中に2枚しかありません。
ひとつは逃げ帰ってきたピーターが息も絶え絶えで床に横たわっている場面、もうひとつは、ベッドの中で、
薬を飲ませようとする母親を避けるように顔までシーツをかぶっている場面です。

このどちらでもピーターの顔はよく見えません。このことは、ピーターの個性が家の中では十分に発揮されていない
ことを表しているのではないでしょうか。


ジマイマやトムの場合と同じように、作品中の「家庭的空間」と「野性的空間」は、はじめは対照的なものとして
描かれているようですが、次第に似通ったものに見えてきます。マクレガーさんの畑はピーターにとって危険な
場所ではありますが、農場である以上、人によって管理される「家庭的」な空間です。
クッツァーはこのことについて次のように論じています。



Peter, caught between the two domestic spaces of his mother’s burrow and
Mr. McGregor’s garden, is also caught between the suffocating effects of home
and more frightening aspects of wider domestic spaces defined by others and
not by the self. There is danger in both spaces: danger of suffocation at home,
and danger of being turned into rabbit pie by the gardener. (Kutzer, p. 211)



「お母さんの巣穴とマクレガーの庭という2つの家庭的空間のあいだを行き来するピーターは、
つまり、息づまる思いをさせられる家庭と、自身ではなく他人によって管理されているもっと広い、
さらに恐ろしいもう一つの家庭的空間という2つの状況の間で板ばさみになっているのである。
どちらの空間にも危険がある。家の中にいて息の詰まる思いをするか、それとも庭師によって
ウサギのパイにされるかなのである。」



この2つの家庭的空間の類似を象徴するのが、トムの場合もそうでしたが、ピーターが来ている青いジャケットです。
物語の冒頭に、お母さんがピーターのジャケットのボタンを留めてやる場面があります。
ピーターは息苦しそうにちょっと顔をしかめています。つまりこのジャケットは、彼にとって、
母親による管理の象徴なのです。



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e-text, The project Gutenberg License




マクレガーさんの畑では、このジャケットが網にひっかかってピーターは身動きできなくなります。



peter31.jpg


e-text




つまりジャケットは文字どおりピーターを束縛するものとなるのです。ここでも、
家庭的空間で主人公が受けている束縛が、もう一つの空間でより明示的に、より極端な形で反復される
という図式を見てとることができます。ピーターが畑で直面する危険は、家庭において彼が日々直面している
「危険」を表現するためにこそ描かれているのです。

こう考えてくると最後の場面も違って見えてきます。ピーターはやっとのことで家にたどりつき、
お母さんに叱られ、ベッドに寝かされて薬をもらいます。しかし、ポターがここを「ああ、ピーター、
無事に帰って来られてよかった。お母さんにめんどうみてもらえていいね」というようなハッピーエンドとして
描いていないことは明らかです。クッツァーは次のように論じています。




On another level, one the adult reader is more likely to be aware of, Peter is swaddled into
immobility in that bed, bound in by coverlet and mother both, finally caught much more firmly
than if he had uncomplainingly accepted his jacket in the first place. In fact,
he is nearly as immobile and smothered as he would have been in Mr. McGregor’s pie.
For the boy rabbit who was so intent on shedding clothes and home, being caught by
and bound by domesticity may be the worst punishment possible. (Kutzer, p. 212)



「考えようによっては、大人の読者ならたぶん気づくだろうが、ピーターはベッドにくるみこまれ、
ベッドカバーと母親に束縛されて身動きできず、彼が物語の最初に文句を言わずにジャケットを着ていた場合に
そうなったであろうよりも、はるかにしっかりつかまってしまっているのである。実際、彼はマクレガーさんの
パイに入っているのとほとんど同じぐらい身動きがとれず、息ができない状態だといえる。家庭や衣服の束縛から
逃れたいとあれほど願っていた男の子のウサギにとっては、家庭的なものにとらえられ、束縛されるというのは
考えうる限り最もひどい罰だろう。」



ピーターが「マクレガーさんにパイにされる危険」があることは、物語のはじめから強調されています。
物語の最後でピーターがベッドにくるみこまれるとき、そこにはパイのイメージが重ならずにはいません。
つまりピーターにとって、お母さんにベッドに寝かされて世話を焼かれることは、パイ皮に詰めこまれて
焼かれるのとほとんど同じ程度に、なんとかして避けたい「危険」なのです。




【まとめ】
このようにビアトリクス・ポターの作品には、あらためて読み返すとちょっと驚くほどに、家庭空間に対する
反感が随所に示されています。それはたいていの場合、母親の管理する家庭を「子どもの個性や自由を脅かすという
点で、家庭の外に広がる空間と同じぐらい危険な場所」として描くという形をとります。さらに彼女はそれを通して、
家庭に従属する生き方を女性に押しつけてくる男性中心社会へも批判の目を向けているのではないかと考えられます。




もっとも、このような解釈はあくまでひとつの「読み」にすぎません。ポターが数多く書き残した日記や書簡には、
そのような反感や批判を読みとれるところはほとんどないからです。

衣服を身につけたこの可愛らしい生き物たちだけが、ポターが生涯だれにも打ち明けることのなかった、
彼女の本当の気持ちを知っているのかもしれません。







Hill Top Farmのある、イギリス湖水地方の動物たちのショット:



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楽しげに野原を飛び回るウサギたち


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shutterstock_124389247りすcutting.jpg


こんな企んだ顔をしたリスや



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何かに夢中になって水面に顔を突っ込んでるリスの姿から



リスのナトキン拡大cutting.jpg


リスのナトキンのイメージは生まれたのでしょうか?





ねずみcutting.jpg




果実や収穫の小麦のなかでいそいそ働くねずみたちの姿から



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HuncaMuncaたちが生まれたのでしょうか?





きつね.jpg


待ち伏せしているきつねもいれば,


Tom Kittenのようなおっとりねこもいます。



小Tom Kitten.JPG





また、ポタ―は、Herdwich という希少な羊を積極的に保護しました。


小Herdwich Sheep.JPG





農場内では、アヒルに威嚇されている女の子も!



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たくさんの小動物たちが自然の中で人間と共存する美しい「湖水地方」が、ポタ―の想像力の源泉でした。



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Farmhouse reflected in tranquil lale




文学部 国際英語学科 教授 菱田信彦







【参考文献】
Kutzer, M. Daphne. “A Wildness Inside: Domestic Space in the Work of Beatrix Potter.” The Lion and the Unicorn 21(2): 204-214, 1997.
Potter, Beatrix. The Complete Tales of Beatrix Potter. London: Warne, 1989
レイン、マーガレット『ビアトリクス・ポターの生涯:ピーターラビットを生んだ魔法の歳月』(猪熊葉子訳、東京:福音館書店、1986)





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2013年05月27日

ビアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―ビアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立―




【5】 「2ひきのわるいねずみのおはなし」(The Tale of Two Bad Mice, 1904)


この作品は、ポターがヒル・トップ農場を購入する前、ロンドンの実家で両親とともに暮らしていたころに
書かれたものです。


これはある「人形の家」(doll’s-house)にまつわる物語です。

人形の家とは当時の上流や上層中流家庭で好まれた玩具で、ミニチュアの家の中にミニチュアの家具調度を
備えつけたものです。ワードローブやカップボードには美しい衣装や食器類が並び、テーブルの上には
料理のミニチュアさえ置かれています。


この作品の人形の家にはルシンダとジェインという人形が暮らしています。ルシンダはお嬢様風で、
ジェインは「コック」だと説明されています。



Doll's House2.JPG


original text: doll's-house (free encyclopedia)




ある日、ルシンダとジェインが「外出」したとき、ネズミ(mouse)の夫婦、トム・サムとハンカ・マンカが
壁の穴から出てきて人形の家に入り込みます。2匹はテーブルのうえにご馳走が並んでいるのを見て大喜びし、
さっそく食べ始めます。しかし石膏でできた料理にはむろん歯が立ちません。怒った彼らは料理をたたき壊します。



ネズミキャップ.jpg


ファミリーマート、ふろくのボトルキャップ




彼らはさらにタンスや食器棚をひっかきまわしてあらゆるいたずらをしますが、
そのうちに衣類や寝具、家具などは(本物の布や木材でできているので)使えることに気づきます。
彼らはルシンダの衣装や羽根枕、揺りかごなどを自分たちの巣穴へ運んで行ってしまいます。

その後まもなくネズミ夫婦に赤ちゃんが生まれます。イラストには赤ちゃんたちが揺りかごに並んで眠り、
そのかたわらでルシンダの衣装を身につけたハンカ・マンカが、もう1匹の赤ちゃんを抱いて、
やはり人形の家から持ってきた椅子に腰かけているところが描かれます。物語は次のように終わっています。


わるいねずみ.jpg


Hunca Munca (c) Royal Albert




So that is the story of the two Bad Mice,−but they were not so very very naughty after all,
because Tom Thumb paid for everything he broke.
He found a crooked sixpence under the hearthrug; and upon Christmas Eve,
he and Hunca Munca stuffed it into one of the stockings of Lucinda and Jane.
And very early every morning− before anybody is awake−Hunca Munca comes
with her dust-pan and her broom to sweep the Dollies’ house! (pp. 83-4)


「これで、2匹の悪いねずみのお話はおしまいです。でも2匹は本当はそんなにひどいねずみだったわけではありません。
トム・サムは壊したものをみんな弁償したのです。トムが暖炉の敷物の下で曲がった6ペンスを見つけたので、
トムとハンカ・マンカはクリスマスイブにそれをルシンダとジェインの靴下の中に入れておきました。
そしてハンカ・マンカは、毎朝とても早く、みんなが起きだす前に、ちりとりをほうきを持って
人形の家を掃除しに来ます。」


お掃除.jpg


Hunca Munca(BESWICK)




作品中に描かれる人形の家は、ノーマン・ウォーンの姪のもので、彼が作品の資料にするためにポターのところに
持ちこんで来たのだと言われています。この作品は、当時ポターの編集担当者だったノーマンの協力のもと、
彼といろいろ話し合いながら構想されたものなのです。そう考えるとこの物語はたいへん示唆的です。


この作品が出版された翌年の1905年7月、ノーマンはポターにプロポーズし、彼らは婚約しました。
しかし前にも述べたように、ポターの両親は娘が「商人の息子」であるノーマンと結婚することに大反対で、
婚約は公表されませんでした。不幸なことに、ノーマンがそのわずか1ヶ月後に白血病で急逝したため、
2人の婚礼の日はついに訪れませんでした。


「2ひきのわるいねずみのおはなし」は、いわば、ポターとノーマンの最も幸せな日々の中で書かれたものなのです。
人形の家をさんざん荒らして家財道具を持ちだし、それを自分たちの家庭を築くのに利用する
ハンカ・マンカとトム・サムの姿には、ポターの願望が反映されているのではないか、と
クッツァーは指摘しています。



It is tempting here to see something of Potter’s own desires being played out
in the miniature text. She was still some years away from her own escape to
Hill Top farm, but The Tale of Two Bad Mice was written in close consultation
with Norman Warne, who within the year was to propose to Potter and cause her
to do battle with her parents over her acceptance of the proposal. Potter,
consciously or not, seems in this small novel to be arguing for creating one’s
own domestic space, no matter how destructive it may be to someone else’s
peaceful home. (Kutzer, p. 210)



「ここで、ポター自身の願望がこの小さな作品に反映されているのではないかと考えてみたくなる。
(この作品が書かれた当時)ポター自身がヒル・トップ農場へ脱出するまでにはまだ数年あったが、
「2ひきのわるいねずみのおはなし」はノーマン・ウォーンとの綿密な話し合いのもとに書かれたものであり、
ウォーンはその年のうちにポターに求婚して、その求婚を受けるかどうかをめぐってポターと両親との間に
論争を引き起こすことになった。この短い小説でポターは、意識してのことかどうかはともかく、
それが他の人の平和な家庭にとってどれほど破壊的なことになろうとも、自分自身の家庭空間を築くことが大切だ、
と主張しているように思われる。」



物語の後半に、人形の家の持ち主である女の子が出てきます。つまりルシンダは、その家に住んではいますが、
家の主人ではありません。彼女は持ち主の思い通りに動く「人形」にすぎず、自分の好きなように行動することは
許されないのです。

このルシンダの姿は、ポターにとって、両親の家における自分自身のイメージだったのではないでしょうか。
両親の家は、人形の家と同じく、上層中流階級の家庭として整然と管理され、豪華な家具調度で飾られてはいますが、
そこにいる限りポター自身は、両親、とくに母親の思いどおりに動かねばならない「人形」でしかありません。
両親とどんなに激しく衝突し、家庭の平和をむちゃくちゃにすることになったとしても、それでも家を出て、
たとえささやかでも自分のものと呼べる家庭を築きたい・・・
質素な巣穴の中で生まれたばかりの赤ん坊を胸に抱くハンカ・マンカの姿は、ノーマンとともに過ごした日々の中で
ポターがたえず思い描いていたものだったのではないでしょうか。

ルシンダとハンカ・マンカはどちらもポター自身の姿であり、
物語の最後でハンカ・マンカがルシンダの衣装を身につけていることがそれを象徴しています。



その後しばらくしてポターはヒル・トップ農場を購入し、やっと両親の家からの脱出を果たします。
しかし、それからも彼女はいろいろ両親の財政上の相談にのったり、母親からちょっとした用事で呼びつけられては
ロンドンの実家に戻ったりしていたようです。ハンカ・マンカが壊したものを弁償したり掃除したりするために
人形の家に戻って来るという「落ち」は、ポターが自分の将来の姿としてひそかに予感していたものだったのかも
しれませんね。




(5)につづく


文学部 国際英語学科 教授 菱田信彦





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2013年05月18日

ビアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





―― ビアトリクス・ポターの作品にみる女性の自立 ――



【4】 「ひげのサムエルのおはなし」(The Tale of Samuel Whiskers, 1908)

この物語の主人公は、「こねこのトムのおはなし」(The Tale of Tom Kitten, 1907)にも出てくる
子猫のトムです。


Tom Kitten  4隅カット.jpg


Tom Kitten Figure (Beswick)




彼は、お母さんのタビサ、妹のモペットとミトンと一緒に暮らしています。
彼らの住む家のモデルとなっているのは、ポター自身が後半生を送ったヒル・トップ農場で、
屋内の家具調度にいたるまでそのまま再現されています。


ある日タビサは、パンを焼く間じゃまにならないように、子どもたちを戸棚に閉じ込めようとします。
モペットとミトンはすぐに見つかりますが、トムは暖炉をよじ登って煙突の中に逃げこんでしまいます。


この「パンを焼く」(baking)という行為は、家庭的な営みを象徴するもののひとつとして、
英米の文学作品によくあらわれます。週に一度「パンを焼く日」(baking day)を決め、一週間分のパンや
菓子などを焼いておくのです。前に紹介した児童文学研究者のクッツァーは、この「パンを焼く日」に
母親が子どもたちを閉じ込めようとし、トムが煙突へ逃げることについて次のように論じています。




In his attempt to escape from this sort of domesticity, Tom flees up the kitchen chimney.
The adult reader, at least, should be aware that Tom’s effort at escape is likely to
be doomed, since he chooses as a potential route out of domesticity a conventional
symbol of domesticity: the kitchen hearth and chimney. (Kutzer, p. 207)



「この種の「家庭らしさ」から脱出しようとして、トムは煙突を登って逃げて行く。少なくとも大人の読者は、
トムのこの逃走の試みは結果が見えているということに気づくべきだろう。トムは「家庭らしさ」から逃げ出す
ためのルートとして、台所の炉辺と煙突という、伝統的な「家庭らしさ」の象徴を選ぶのだから。」



前述のアヒルのジマイマと同様、この作品でも「家庭の都合」が主人公にとって束縛的に作用します。
タビサは、パンを焼くという家庭的な営みのために、トムを戸棚に閉じ込めようとします。トムはそれを嫌って
煙突に逃げ込みます。ここでもやはり、母親による家庭の管理・運営が、子どもの自由を奪うものとして
描かれていることがうかがえます。

しかし、トムが脱出路として選ぶ暖炉(fireplace)、そしてその周りの炉辺(hearth)は、
やはり家庭的な団欒の象徴というイメージが強いものです。このことはトムが、家庭的束縛からの脱出を
試みるにもかかわらず、けっきょくその外側には出られないだろうということを暗示しているのです。


トムは、複雑な煙道の中をはい進むうちに、ネズミ(rat)のサミュエルとアナ・マライアが住む一画に
落ちこんでしまいます。アナ・マライアはトムに飛びかかってジャケットをはぎ取り、ひもで縛り上げます。



jumpcutting.jpg


E-text: the project Gutenberg License




見ていたサミュエルは、トムを材料にして “a kitten dumpling roly-poly pudding” を作ってくれと
言いだします。


Samuel-Whisker4隅カット.jpg


Samuel Whiskers Figure (BESWICK)




この “roly-poly pudding” (巻きプディング)というのは、小麦粉で作った生地を麺棒で平らに伸ばし、
ジャムなどを塗ってロール状に丸めてオーブンで焼いた、イギリスの伝統的なデザートです。
ふつう肉類を巻きこむことはないのですが、ネズミたちは、トムを具にして巻きプディングを作って食べようと
いうのです。


私たちはここで、ネズミたちがやろうとしているのもまた baking であることに気づかざるを得ません。
自分を束縛する母親の baking から逃れようとして、トムはもっと恐ろしい baking の中に陥ってしまうのです。




roly-poly piddingcutting.jpg


E-text: the project Gutenberg Licence




アヒルのジマイマの場合と同様、作品中の「家庭的空間」と「野性的空間」は、はじめは対照的に見えるのに、
しだいに重なり合っていきます。トムの母親、タビサが管理する秩序ある家庭と、骨の散らばるネズミたちの巣穴は、
正反対のイメージをもつように思われます。しかし、タビサとアナ・マライアがともに baking にいそしみ、
それがどちらもトムの束縛へとつながっているのを知るとき、この二人のキャラクターは奇妙にダブってきます。



Ana Maria.jpg


Ana Maria Figure (Beswick)




それを象徴するのが、トムが着ている青いジャケットです。「こねこのトムのおはなし」では、
母親がトムに小さくなった上着を無理に着せようとする場面があります。トムにとって上着は、
いわば母親による抑圧の象徴なのです。「ひげのサムエルのおはなし」では、トムを捕まえたアナ・マライアが
ジャケットをはぎ取って彼を縛り上げます。母の着せた上着がアナ・マライアの縛めにとってかわるとき、
アナ・マライアが母親のネガティブ・イメージとして描かれていることはほとんど疑いようがなくなります。


この作品でも、主人公が「野性的空間」で体験する危機的状況は、それが「家庭的空間」の写し絵であることを
示すところに主眼があります。トムは、アナ・マライアに縛られてもう少しで食べられそうになるのと同様、
自分の家庭においては、つねに母親に管理されて、もう少しで息が詰まりそうな思いをしているのです。


トムは大工のジョンの手で救出されますが、その後すっかりネズミが怖くなり、
大きくなっても一人前のネズミ捕りになれずに終わります。
その一方、比較的「いい子」だったトムの妹たちは、ネズミを捕るのが上手な猫に成長します。

ここにも、家庭的空間に対するポターのアンビバレントな思いがうかがえます。
母親の束縛を脱して外へ抜け出すことを強く願いながらも、自分にそうするだけの力があるか、
そうすることが本当に賢明なことなのかどうかを危ぶんでいるのです。

これがヒル・トップ農場を購入して両親から独立した後に書かれた作品であることを考えると、
母親に対するポターの葛藤がいかに深いものであったかを感じとることができます。







(4)につづく


文学部 国際英語学科 教授 菱田信彦





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2013年05月11日

ビアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



―ビアトリクス・ポタ―にみる女性の自立―



以下に、ポターの作品をいくつかとり上げて、作品中に出てくる家庭空間がどのように描かれているか
見ていきましょう。


【3】 「あひるのジマイマのおはなし」(The Tale of Jemima Puddle-Duck, 1908)


ジマイマは、農場に飼われている雌のアヒルです。

彼女は自分で卵をかえしてヒナを育てたいと願っていますが、
農場主の妻はアヒルの卵をニワトリに抱かせることにしているので、それを許しません。
とうとうジマイマは、農場を抜け出して自分だけで卵をかえせる場所を見つけようと決意します。

ジマイマの物語は、母親になることや家庭を営むことの困難さを描いた話として読むことができます。

彼女は農場のアヒルですが、卵を抱きたいと願う母性本能と、誰にも邪魔されずに自由に生きたいと思う
野生の本能が備わっています。


ジマイマという一個のキャラクターの中で、「農場で飼われている」という家庭的側面と、
「自分だけで卵をかえそうとする」という野性的側面がせめぎあっており、
それが彼女を危機的状況に陥れます。

作品の冒頭にあるイラストが、ジマイマのこのような状況を端的に表しています。そのイラストでは、
ジマイマが自分の産んだ卵を隠したところを農場主の息子に見つかり、卵をとり上げられてしまいます。
背後では彼の母親がにこにこしながらその様子を見ています。



Hill Topのジマイマ.jpg



男の子モノクロ.jpg




農場主の妻は自分の子どもを育てているのに、ジマイマにはそれが許されません。
農場にいるかぎり、彼女は一人前の女性として扱われることはないのです。


また、ジマイマが卵を隠そうとするのはルバーブという植物の葉陰です。
ルバーブの茎は食用になりますが、葉は有毒です。
このことはジマイマが植物、ひいては自然界についてあまりよく知らないということを示しています。
さらにそれは、卵を守ろうとする彼女の行為がかえってそれらを危険にさらしていることを暗示し、
その後の展開の予兆となっています。

このように、ポターの作品ではイラストが多くのことを語ります。
本文が述べていないことをイラストが読者に伝えていることもあるのです。

農場を抜け出して森にやって来たジマイマは、そこで一人の「紳士」に出会います。
その場面のイラストは、彼が切り株に腰かけて新聞を読んでいるところを描いています。
じつは、本文ではこのキャラクターは終始「紳士」と呼ばれ、その「正体」は一度も言及されません。
しかし、イラストを見れば彼が何者であるかは明らかです。



きつね新聞ドロップ.jpg


きつね紳士フィギュア(Border Fine Atrs)



そればかりでなく、「紳士」の背後にはピンクの釣鐘のような花がいっぱいに咲いています。
これはジギタリス、別名キツネノテブクロ(foxglove)です。



Fox Glove縮小.JPG




gloveには鋭い爪を覆い隠すものというイメージがあります。「紳士」の背後にfoxgloveを描くことによって、
ポターは彼が本性を隠したキツネであることを示しているのです。

ところがジマイマは彼の正体にまったく気づきません。ジマイマが卵を産む場所を探していることを聞くと、
「紳士」は彼女を自分の小屋の物置へと案内します。



cup fox ポラロイド.jpg




そこには鳥の羽毛がいっぱいに敷き詰められていて、ジマイマはその居心地の良さに感心しますが、
その羽毛はいったいどこから来たのか、ということには考えを向けません。



ジマイマ縮小ポラロイド2.jpg




こうして、自分を抑圧する農場から逃れて自由になろうとしたジマイマは、
より大きな危険と束縛の中に身を落としてしまいます。



ジマイマが卵を産み終わるころ、「紳士」は、オムレツをごちそうするからハーブとタマネギを農場から
取ってきてくれと彼女に頼みます。このときでさえジマイマは、オムレツは卵から作るものであること、
そしてハーブやタマネギはローストダックの詰めものにするものだということに思い至りません。
彼女の野生動物としての本能は、農場で生まれ育ったために鈍っています。



たまごポラロイド2.jpg




ジマイマは、卵をかえしたいと願う野生の本能を抱いているために農場での生活に適応できなかったわけですが、
野生の世界での生活にはもっと適応できないのです。

このことは、作品中に描かれる家庭的空間と野性的空間が始めに思ったほど本質的に異なるものではないことを
読者に気づかせます。それをよりはっきりさせるのが、コリー犬のケップたちによるジマイマの「救出劇」です。

ジマイマの様子がおかしいのに気づいたケップは、彼女から「紳士」の話を聞きだし、
フォックスハウンドの子犬数匹をつれて森の中の小屋へ向かいます。
彼らはキツネを追い払い、ジマイマは救出されますが、興奮した子犬たちは
ジマイマが大事に暖めていた卵をみんな食べてしまいます。


児童文学研究者ダフネ・クッツァーは、「内なる野性: ビアトリクス・ポターの作品における家庭的空間」と
題する論文で、この場面について次のように論じています。



Just as Jemima’s nature combines the wild and the domestic, so do both dogs and fox.
The dogs are still hunters−in fact the ill-trained puppies who accompany Kep get so excited
they gulp down the eggs they came to rescue−and the fox tries to ease the work of hunting
by luring his prey to him and “farming” his next meal. The line between the domestic and
the dangerous is quite thin here.
(Kutzer, pp. 206-7)


「ジマイマの性質が野性的なものと家庭的なものを合わせもっていたように、犬たちとキツネも
それらを合わせもっている。犬たちにはハンターとしての本能があり、それでケップといっしょに来た
未熟な子犬たちはあまり興奮したため、自分たちが救出に来た卵をむさぼり食ってしまう。
一方、キツネは狩りのしごとを容易にするために餌食をおびき寄せ、次の食事にそなえて「飼育」している。
ここでは、家庭的なものと危険なものとの境界はたいへんあいまいである。」



ここで述べられているように農場という「家庭的」な空間に属している犬たちは、野性的な本能を宿しています。
彼らは本能に駆られて本来キツネがするはずだったこと、すなわちジマイマの卵をむさぼり喰うという行動に出ます。

その一方、「野性的」な存在であるはずのキツネが家庭的な側面を示します。
彼は、食料を確保するためにジマイマを「飼い」、卵を産ませるという、本来農場で行われるはずの活動に
いそしんでいるのです。

ジマイマはケップにつれられて泣き泣き農場に帰ります。その後、彼女は卵を抱くことを許されますが、
卵は6つのうち4つしかかえりません。ジマイマはけっきょく、農場の外でも、中でも、自分の本来の居場所を
見出すことができないのです。



ジマイマがポターの自画像であることは言うまでもないでしょう。
農場は彼女が生まれ育った家庭、そして農場主の妻は、ポター自身の母親を表していると考えられます。



男の子.jpg

絵本のカラ―挿絵



(ポタ―の農園、Hill Top Farm がそのままモデルとなっていることが分かります)




Hilltop.jpg


ルパープ畑に面している側(Free Wikipediaより)




成人してからも外出ひとつでさえ母にうるさく言われるような状況を脱し、独立して自分だけの家庭を築きたい
という願い、それがジマイマの「野性の本能」に相当します。一方、生まれてこの方学校にさえ通ったことがなく、
ほとんどの時間を家庭内ですごしてきた自分が、今さら外の世界に出てやっていけるのかという不安、
それがジマイマの「無知」と、彼女が野性的空間で直面する危機によって表現されています。


先述のように、この物語を読み進めるにつれ、対置されていたはずの家庭的空間と野性的空間は、
どこか同質の存在としてしだいに重なり合っていきます。ジマイマはキツネによって小屋に囲いこまれ、
彼女と彼女の卵は、文字どおり命の危険にさらされます。しかしその卵を食べてしまったのが、
キツネではなく、農場の犬たちだったことは暗示的です。これは農場という本来なら安全な、居心地のよい
場所であるはずのものが、ジマイマにとってある種の「脅威」であることを示しています。

キツネによって利用され、閉じ込められ、命を脅かされていたのと同様、農場にいるかぎりジマイマは、
農場主たちによって利用され、束縛され、つねに「自分らしさ」を押し殺して生きていかねばならなくなるのです。

ジマイマが森で体験する危機は、むしろ彼女が農場で直面している「危険」を鏡のように映し出すもの
としてこそ描かれたのだと考えられます。このように、ポターの作品はしばしば、彼女自身の家庭への
不満や批判を、遠回しなやり方で表現する役割を果たしています。




※記事内の写真は、Royal Albert, Wedgewood, Royal DoultonのMyマグカップ等



(3)につづく


文学部 国際英語学科 教授 菱田信彦




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2013年05月02日

ビアトリクス・ポタ―の作品にみる女性の自立

地域とともに活躍する川村学園女子大学



―― ビアトリクス・ポターの作品にみる女性の自立 ――


【序】 作者について

『ピーターラビットのおはなし』(The Tale of Peter Rabbit, 1902)をはじめとする、
かわいらしい動物たちを描いた絵本をご覧になったことがあるでしょうか。

作者ビアトリクス・ポター(Beatrix Potter)は、1866年にロンドンのサウスケンジントンで
生まれました。




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※Helen Beatrix Potter





両親は働かずとも親の遺産で暮らしていける身分でした。ヴィクトリア時代の裕福な家庭の娘として、
ビアトリクスは学校へ行かず、乳母や家庭教師によって育てられました。




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※at fifteen years old with her springer Spaniel




同年代の子どもと遊ぶ機会もほとんどなく、一人で自然観察に熱中することが多かったようです。
夏にはスコットランドや湖水地方などの貸別荘で過ごし、環境保護にも関心を持つようになりました。

彼女はナチュラリスト・アーティスト(学術書に動植物の図版を描く画家)になることを志し、
専門の家庭教師について本格的に絵の訓練を受けました。自分でも観察した動植物の詳細なスケッチを
数多く残しています。

また植物については専門的な研究を進め、いつかリンネ協会(イギリスの代表的な生物学会)で
自分の研究を発表したいという夢を抱きます。しかし両親はビアトリクスが学術的な活動をすることに
反対し、しきりにやめさせようとしました。

唯一ビアトリクスの味方だった叔父が、キューガーデン(国立植物園)へ研究員として彼女を推薦し、
彼女はそれまでの研究成果を携えて面接を受けます。しかしキューガーデンは、女性であるという理由で
彼女をまったく相手にしませんでした。

また彼女は独自の研究により「地衣類は菌類と藻類の共生関係である」という説を提唱しますが、
それをリンネ協会で発表することは許されず、叔父が論文を代読したのみでした。ほぼ同時期に
ドイツの研究者が同様のことを論じており、後にビアトリクスの説は正しかったことが証明されました。

彼女を排斥したことをリンネ協会が謝罪したのは、ポタ―の没後50年も経った1997年のことです。


身につけた絵画の技量と生物学の知識を生かす方法として、ビアトリクスは絵本作家として
活動を始めました。知人の息子のために書いた子ウサギが出てくる絵手紙を本にするよう勧められ、
それが1902年に『ピーターラビットのおはなし』として出版されます。この作品はたちまち評判となり、
その続編も好評で、その収入は彼女が経済的に自立することを可能にします。




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※First edition, 1902





やがて彼女は湖水地方にヒル・トップ農場を購入し、ようやく両親の家を出ることができました。


標識.jpg


※a signpost



Hilltop ポラロイド.jpg


※Hill Top Farm





彼女はヒル・トップ農場やその周辺を舞台としてさらに作品を書き続けますが、視力が低下したため、
1930年の『こぶたのロビンソンのおはなし』を最後に筆を折ります。


晩年は羊の品種改良など農場経営に励み、また両親の遺産や著作権収入によって湖水地方の土地を
買い上げ、初期のナショナル・トラスト運動に大きく貢献しました。

1943年に77歳で亡くなりました。




【2】 ポターの作品にみられる「家庭的空間」のアイロニー


ビアトリクス・ポターの作品には様々な形で家庭的な空間が描かれますが、
その多くが、安心できる居心地の良い場所というよりも、どこか緊張感や危うさをはらんだ空間として
描かれていると言われます。また家庭的な空間は、しばしば外部の「野性的空間」との対比によって
示されます。主人公が家庭的空間の外へ逃げ出したいと願ったり、野性的空間からの「侵入」を
防ごうとしたりする姿が描かれ、ときには家庭的空間そのものが、外部の野性的空間と同様に、
主人公にとって危険な場所として表象されます。


若いころのポターが、つねに両親、とくに母親との緊張関係の中ですごしていたことを考えると、
彼女の作品において家庭空間がこのように描かれることは不思議ではありません。

実際ポターは、ヴィクトリア朝後期の基準からしても娘としての義務に極端に縛られた生活を送っており、
自分でもそのことを不満に思っていたようすがうかがわれます。

彼女は「ピーターラビット」シリーズを出版したウォーン社の社長の弟で、
彼女の編集担当者だったノーマン・ウォーンと交際するようになり、後に婚約しますが、
両親はこの婚約に大反対でした。それは、出版社を経営するウォーン一家は「商人」であって、
自分たちとは身分が違うと考えていたからだと言われています。



ポターからノーマンにあてた、彼の母を訪問できないことを詫びた手紙が残っています。
〔以下、英語の引用には下に拙訳を付してあります〕


“I hardly ever go out, and my mother is so exacting I had not enough spirit to
say anything about it. I have felt vexed with myself since, but I did not know
what to do. It does wear a person out.” (Kutzer, pp.204-5)

「私はとても行けそうにありません。母はたいへん厳しいので、私はそれについて何か言う気力を
失ってしまいました。それ以来自分に腹が立ってしかたがないのですが、どうしたらいいのか
分かりません。こういうことは人を消耗させます。」



ポターはこのとき36歳でした。この年齢で、しかもすでに作家としてキャリアを積み、
かなり収入もあったにもかかわらず、彼女は婚約者の母を訪問したくても自分の母親に反対されて
出かけられないという状況に置かれていたのです。



「ピーターラビット」シリーズを書くことは、このようなポターにある種の「自由」を与えました。
まずそれはいうまでもなく、収入源として、彼女が経済的に自立する手段となりました。
更に、それは両親に対してひそかに抱いていた反抗的な感情を発散する手段を彼女に与えたと
思われます。作品中の家庭的空間を、人を抑圧する、ある意味で危険な場所として描くことによって、
自分の家庭に対する反感を表現しようとしたのだと言われています。


※from the free encyclopedia



(2)につづく


文学部 国際英語学科 教授 菱田信彦




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2013年04月21日

ヴェールの文化史(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学







イスラーム圏内において実際どのようなヴェールが使われているのだろうか。

もっとも有名なのはアフガニスタンやパキスタンのブルカやイランのチャドルであろう。

どちらも全身をおおうが、ブルカは、縫製されており、目の部分のみ網目模様になっていて、
みられることなく見ることができる。




shutterstock_53727424ブルカ1.jpg


※Afghan women in burka from Mazar





cuttingポラロイド.jpg


(※)Afghan woman and child in Parwan Province





一方チャドルはただの四角い布というよりは少し半円形にかがってあるもので、
頭から被って足下まで覆うようになっていて、顔を完全にかくすことはない。




shutterstock_13437049チャドル1.jpg


※Muslims






そのような全身を覆うヴェールは、ほかにジルバーブ、アバヤ、ガラビヤ、ブルヌスなど
地方によっていろいろな呼び方があり、使い方や形状も異なる。


ほかに顔だけを覆うニカブ、キナ、リトマなどがあり、布だけでなく仮面のようなもので顔を覆う場合もある。




ニカブ2縮小.JPG


※woman in niquab





頭からスカーフのように被るものは、ヘジャブ、キマル、インラなどとよばれるが、
よほどきびしいと思われているイランでも、ヘジャブとマントウ(大きめのコートのようなもの)を
身に着けていれば、糾弾されることはない。



二人の女性縮小.JPG


※two young Asian Muslim college students






ヴェールの役割が必ずしもネガティヴなものではないことはすでにのべたが、
現実に今日ヴェール着用者がふえているようなのは、イスラーム原理主義者に対して無用な軋轢をおこさないため、
またチャドルですべておおうと、なかの服に気を使わないので楽であると主張する人もいる。

またその外面だけで信仰深い人、つつましい人と評価してもらえることが社会で生きるにあたって有利であるともいう。

しかし今日もっとも現代的な変化は、国や家が豊かになって、エアコンが普及すると、
自然のままでは耐えがたかった暑さや湿気のなかでヴェールをつけることが可能になり、
そうすることでイスラーム教の信仰を持っていることをアピールできるだけの余力が生まれたことを
証明していることになることである。

つまりヴェールを身につけることが、自らの裕福さと信仰に関する知識を持っていることの両方を
社会に主張できるというメリットがあると知られてきている。

このメリットは、その社会においてヴェールをつけることから生じる不都合を補ってあまりあると考える人が
増えているところに今日の軋轢の原因があるといえるだろう。




Purchase縮小.JPG


※The central pavillion in the Bagh-i Fin gardens, Iran






※royalty free/right managed picture
(※)From Wikipedia Commons



教育学部 幼児教育学科 教授 山本由美子





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2013年04月12日

ヴェールの文化史(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





オリエント世界ばかりでなく、世界の各地でヴェールまたはその類似のものは、
伝統的衣服の一部をなすことが多い。

一方ヴェールは場合によって地位や身分を表したり隠したりすることができる。
ヴェールの生地や色、手の懸け具合や細工の高度さによって、持ち主の富や権力を表したり、
美しさを演出することもできる。

自在に隠したり見せたりすることで、性的な魅力を高め、男女双方に対して脅威ともなりうる。

またヴェールの隠すという機能は日常的に使われている。つまり布をかけることで見られたくないものや、
アイデンティティを隠したりできるということである。時には男女の区別さえ不明にすることができる。




shutterstock_52030957女性cutting.jpg

※Beautiful Middle Eastern woman in niqab traditional veil





shutterstock_133831835男性縮小.JPG

※eyes of a beautiful man with black scarf




ヴェールによって職業を表すこともある。看護婦の頭巾や尼僧のかぶり物などを考えてみればよいだろう。


しかし今日ヴェールの問題で論じられるのは、圧倒的にイスラーム教とのかかわりにおいてである。
とくに女性の隔離と差別と結び付けられて論じられる。

これはイスラーム教にのみ係わる問題なのだろうか。

実はごく最近まで、カトリックの信者は教会に入る時頭を覆ったし、
ユダヤ教でも女性のヴェールはつつましさをあらわすこととしてすすめられている。

しかし現代のイスラーム教が宗教的なアイデンティティとして、強くヴェールの着用を訴えるようになったことが
イスラーム教とヴェールの問題を突出したものにしている。


その根拠とされるコラーンの引用は33:59と24:30−31のみで
身体を覆うほうが安全で便利で被害をうけることが少ないという教えと、女性はつつましくあらねばならないから、
美しいところをみせびらかしてはいけないというごく普通の教えである。

実際、今日のイスラーム教の全世界的広がり方から見ても、ヴェールをつけることに合理的な理由を見つけることが
困難である場合が多い。
たとえば熱帯雨林地帯で身体をすべて覆わなくてはならないとなると苦痛以外のないものでもないし、
健康をそこなうことにもなる。

それゆえ古来イスラーム世界においてさえ、ヴェールの着用には地域的にも文化的にも大きなヴァリエーションがあった。

その社会で主流の民族かまた少数民族か、住んでいるところが都市か田舎か、教育を受けているか否かなどの要素が
ヴェールの着用に係わってきていた。




※royalty free images



(3)につづく





教育学部 幼児教育学科 教授 山本由美子




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2013年03月31日

ヴェールの文化史

地域とともに活躍する川村学園女子大学





ヴェールの文化史(1)


本来衣類は、人間が身に着けるもので、それ自体が文化である。なぜならば人間の身体は基本的に弱いもので、
自分以外のものの補助や保護なしには、自然の変化や脅威から身を守ることができないばかりか、
存在すら覚束ないからである。したがって衣類の役割はまず寒暖や風雨など、
また虫や動物などの自然から加えられる危険から身体を保護することにある。


加えて衣類の特徴は外面的であることである。つまり人間の外面にあることで、
それだけで何らかの意味を付帯させることが可能になる。


美のように目でみて快いかどうか、また離れてみてもその人の重要性や身分を示すことができるなど
その他の要素が加わると、本来の用途つまり自然や危険からの保護という観点からは受け入れられないものになる
ことがある。


身分や裕福さを表すために、暑くても厚着をしたりするし、流行を追うために寒くとも薄着をしたりする。
また服装は伝統や宗教的な価値観を表明することができるのでそのためには本来の機能からは逸脱していても、
主流の文化となりうることがある。


ヴェールももともと衣類の一つである。人間が布を織ったり編んだりする技術を手にいれた時ヴェールの歴史は始まる。
ヴェールとは覆いまたはカヴァーである。普通は裁ちっぱなしの布なので最も簡単な衣類といえる。


大きさはいろいろあるが、不要な時にはたためること、重くないことなどの条件をクリアすると、
かなり細い糸をつくることができた、もしくは薄い布が生産できるだけの技術力をもった社会を想定する必要がある。


私たちが知る限り透ける布について最も古い証拠は古代エジプトにある。
新王国時代の壁画では、女神や踊り子が美しい透ける衣装を着ている。




Tomb_of_Nakht_-_three_musicians.JPG


※古代エジプト 新王国時代の壁画




その衣装の肩の部分を引き上げてヴェールのように使った可能性はあるが、
画に残っていないのは、彼らが鬘をつける風習をもっていたからであろう。

シュメールでも鳥の羽を重ねたようなヴェールをかぶった女神像が残っている。

パルミュラの墓石板浮き彫りにはヴェールを被った女性像が多いが、
彼らは今日のように手でヴェールをささえていることがある。




487px-PalmyraWomanパルミュラ.jpg

※パルミュラの墓石板 浮き彫り




これらのヴェールは彼らの社会的地位の表明かもしれない。
紀元前13世紀のアッシリアの法律では、ヴェールを身につけられるのは身分の高い女性に限られていた。
農婦や奴隷や売春婦はヴェールをつけてはならないとされていた。
アケメネス朝ペルシア(紀元前7〜4世紀)でも、ヴェールは上流階級や王族の女性にのみ許され、
一般女性が着用することは禁じられていた。

このように古代オリエント世界からヴェール着用の例は数多くみられる。
これは基本的にこれらの地域が乾燥地帯で、昼夜の温度差も大きく、日中は太陽光線をさえぎったり、
埃をよけたりするのが快適に暮らす条件であったからだろう。

したがって、女性ばかりではなく男性が身につけたターバンも同様の使われ方をしていて、
必要に応じてターバンをほどいて広げ杖のうえにかけて日よけにして昼寝をしたりするのは、
今日でも砂漠では見かける風景である。


※ウィキぺディアコモンズより



(2)につづく


教育学部 幼児教育学科 教授 山本由美子





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