2014年03月02日

港が語る東と西の物語

地域とともに活躍する川村学園女子大学





   ーロッテルダムかハンブルクかー



第1回  はじめに


 日本の港は、どうして元気をなくしてしまったのでしょうか。
かつては、海運国といわれていた日本の港は、横浜も神戸も東京も取扱貨物量で上位に位置していました。
今は、日本で首位を占める東京港ですら、世界ランキング20位のなかには入っていません。

それとは対照的なのが、シンガポール・中国・韓国・ドバイ・台湾の港で、世界ランキング10位内にずらりと
名を連ねています。

目をヨーロッパの港に向けてみましょう。

ヨーロッパで最大の取扱貨物量を誇るのは、オランダのロッテルダム港ですが、実は、ここで
活躍しているのが、先に挙げたアジア国々のグローバルターミナルオペレーターたちです。

グローバルターミナルオペレーターというのは、世界的規模でコンテナターミナルを経営する企業のことで、
コンテナターミナルへの投資や開発、M&Aによって事業を拡大し続けてきました。

この西の舞台に東の役者という現象は、北海沿岸のオランダ・ベルギーの主要な港において、
特に顕著にみられます。フランス・ドイツでも近年、その傾向は強まってきています。ただ、
興味深いのは、ロッテルダムに次ぐヨーロッパ第2の港であるドイツのハンブルク港には当てはまりません。
ハンブルク港は、今でも市営企業であるHHLAの独壇場であり、そこにブレーメンのこれも
市営企業であるBLGが一部入りこむ形になっています。このハンブルク港のやり方は、
ヨーロッパ北海沿岸の主要港(ルアーブル・ハンブルクレインジと呼んでいます)においては珍しいケースです。

筆者は、長年、日本の港を対象として、港と後背地における物流について調査・分析してきました。
そして、10年くらい前から、フィールドをドイツに移し、@北ドイツの港の連携と競合 
Aドイツの都市と港という2つの切り口から調査を進め、成果をまとめてきました。

公開講座では、まずは、東と西の物語というテーマに則って総論を展開し、続いて各論として、
筆者のフィールドの1つであり、先ほど珍しいケースであると紹介したハンブルクについて取り上げます。


第1回   はじめに
第2回   総論・・・グローバルターミナルオペレーターと港
第3回   各論・・・ハンブルクの生き方
第4回   おわりに



写真1  
ハンブルク港とHHLA(港湾総合物流業であり、グローバルターミナルオペレーターでもある)


ハンブルクの市営企業HHLAの本社で、ハンブルク港に立地している



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写真2  
ブレーメンとBLG(港湾総合物流業で、グループ企業の1つがグローバルターミナルオペレーターのオイロゲート)


ブレーメンの市営企業BLGの本社ビルで、港ではなく中心市街地に立地している



港 写真2.jpg





第2回につづく




文学部 史学科 教授 生井澤 幸子








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2014年02月10日

女性が学ぶということ(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





女性と大学(2)



 当時の先進国であったイギリスでも、サロンで知的な会話を楽しむ女性の集まりが開かれるようになったのは、
18世紀後半のことです。彼らはブルーストッキングズとよばれました。
(本当に青い靴下をはいていたわけではありません。)

大学といえば、オックスフォードとケンブリッジだけだったイギリスに、ロンドンやダーラムなど新しい大学が作られ、
女性も聴講できるようになったのは、19世紀になってからです。ケンブリッジは、比較的早く1865年には女性も
男子と同じ試験を受けることを認めましたが、学寮生活をして教育を受けるのが大学であった時代に、
女性のための学寮が開かれたのは、1869年でこれは、1873年に移転してガートン・カレッジとなりました。
その寮生は、ケンブリッジの教育を男性と同等に受けられはしましたが、卒業試験にどれほどすぐれた結果をだしても、
学士号は与えられませんでした。ロンドン大学は最も早く、1880年には女性にも学士号をだしましたが、
女性を受け入れるのが遅かったオックスフォードでさえ、1920年には女性にも学士号を出したのに、
ケンブリッジがようやく女性の学士号授与を認めたのは、戦後の1948年です。

1970年代にも、卒業はしたけれど学士号を受け取られなかった元卒業生たちに遅ればせながら、学士号を授与する
儀式が行われていたといいます。

 初期に女性の学問を受ける権利を求めた先駆者たちはひどい理不尽にくるしめられました。
女性が頭を使うと子宮が動いて子供を産めなくなるとか、学問をした女性は貰い手がなくなって、
一生独身でいなければならなくなるなど平気で非難されました。男性優位の社会で、女性の進出を認めることは、
多くの人にとって脅威とみなされたのです。

このように学問を志す女性を差別した時代は、日本においても終わったと思われていますが、
世界にはまだまだ女性であるために教育の機会が失われている人々がたくさんいます。

最近の例ではパキスタンのタリバーン勢力によって銃撃されたマララ・ユスフザイという女学生がいます。
彼女と友人たちは手厚い手当をうけ回復しましたが、その殺人未遂事件の理由はただ彼女が女子の教育を受ける
権利を主張したからなのです。

教育はそれほど恐怖されるものでもあるのです。

 一方では今日の日本のように、教育を受けることが男女とも当然のこととされる国にあっては、教育は権利よりは
むしろ義務のように扱われ、学ぶことの喜びは些少される傾向があります。自分で振り返ってみても、文字が読める
ようになってわからないことが理解できた時の喜びはあったはずなのですが、忘れてしまっています。

やはりタリバーン以後のアフガニスタンで、女の子がはじめて文字の書き方を学んだときの表情を描いた映画が
あります。学ぶことがどれほどの喜びと誇りを与えてくれるかを思い出させてくれる逸話です。

 このように私たちは、最高学府において、人間が長い歴史のなかで培ってきた叡智(これをリベラルアーツといって
よいでしょう)にふれ、たとえどんな世界や状況になっても、自分の人生を素晴らしいものにする能力を身に着けていく
のです。大学はその手伝いをするところです。

 特に女性にとっては、学ぶ権利は近い過去に身近な女性たちが大きな偏見や抵抗と戦いながら獲得してきたもので
あることをよく知り、先人への深い感謝をもって、享受すべきなのです。そしてこの権利を損なうことなく
次の世代に伝えていくことが、自分たちの責任だということを認識しなければならないと思います。

                                               完




川村学園女子大学の風景(2)





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平成25年10月26日保護者会における講演から


教育学部長 山本由美子




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2014年01月29日

女性が学ぶということ

地域とともに活躍する川村学園女子大学


女性と大学



人間は社会的存在なので、生まれた時から社会で生き抜くためのスキルを身に着ける教育を受ける必要があります。

教育には3種類あります。

第1に親や身近な人によるものです。これはしつけと呼ばれるものでもあります。

あいさつや礼儀を学び、社会の伝統的ふるまいを身につけることで不要な軋轢から身を守ることが
できるようになります。

加えて初歩的な読み書きの技術を得て、社会における基本的なコミュニケーション力を養い、安全な人間関係を
作り出すことに役立たせることも現在ではしつけのうちにはいるかもしれません。この教育は愛情をもつ人間によって
なされるすぐれたものではありますが、限界があります。
なぜなら、子どもは成長し、親の知識や能力の範囲から出て行こうとするものだからです。


次に学校またはそれに類するものによる、期間を定めた制度のなかで受ける教育があります。このための期間は、
近代から現代にかけて、ひたすら伸びてきました。なぜなら人間として知るべき知識の量が膨大になり、
学ぶべきことが増え、社会が複雑化したからです。今日無知は無責任と同義語になっています。知識は開かれている
のでそれを求めないということは、本人の選択の問題となり、その責任がかかってくるからです。
この教育の制度は人類の叡智の結晶であるといっても過言ではありません。
人の平均的な発達段階に応じて教える内容や方法を変え、ある程度決まった期間を学ぶことに専従させる
というものです。


第3に自らによる教育です。なぜなら制度としての教育を離れてからも、人は社会の変化や環境の激変など、
個々の状況の変化に応じて必要なことを学び続けなければならないからです。そのスタイルは非公式で、学ぶ相手は
自ら選んで師事するひとであったり、メディアを通じて流れてくるものであったり、友人、知人、上司、部下、
時には子供であったりもします。この学びは意識するにしろしないにしろ生きている限り続くものです。

こうしてみると、人間は学ぶ動物であるともいえるのかもしれません。


大学は制度としての教育の最終過程にあるものです。学校の中でも最高学府といわれます。

人間が自らを成長させることに専念できる最後のチャンスといえるかもしれません。そこで学ぶことは長い間
男性の特権でした。

このチャンスが女性にも開かれるようになったのは、ごく最近のことです。

古来女性は結婚して子供を産み育てる役割をもつとされてきました。

もちろん歴史上にその知性や能力を認められた女性がいたことは、事実ですが、かなり例外的であったといえる
でしょう。

それが両立できるものであることが受け入れられるまでには、時間がかかりました。

女性が公然と自らの知性をひけらかすことは善くないとされました。初等教育を受けられるようになっても、
受動的であることが期待され、時間の過ごし方から読む本の選択まで親や教師の指導のもとにあるべきだと
されました。

ナイティンゲールも『自伝』で、まだ若くて家族のもとにいたころ、日々読みたくもない本を与えられ、
やりたくもない刺繍をやらされて時間をつぶさねばならなかったことがどれほど苦痛であったと述べています。

(2)につづく


川村学園女子大学の風景




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平成25年10月26日保護者会における講演から

                        
教育学部長 山本由美子




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2014年01月19日

いのり、うたう、沖縄の女たち(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





3.死者を送るな哭き歌;奄美・徳之島のクヤ



 奄美諸島の徳之島では、葬儀の場で遺体を前に、集落の女性たちが直接死者にな哭き掛けます。


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徳之島町井之川集落では、そうした葬送の歌をクヤと呼び、現在もうたい継がれています。
クヤとは「悔やみ」の意味かとされます。歌の文句は、例えば親の立場の人に対しては;

♪ オー *うやがなし(親様)イーノー

と、ただそれだけを繰り返します。

 「うや(親)がなし」とは親を敬っていう呼び方です。その前後にオーとかイーノーといったリフレインをつけ、
声を長く引きのばしてうたいます。亡くなった方の年齢や立場に応じて、*の呼称を次のように変えます。
   *うやほーがなし(親より上の先祖様);年寄りにたいして

   *うめいーり(思いの兄弟);大人の男性  〃
   *うめうなり(思いの姉妹);大人の女性  〃
   *かなしぐゎ(愛しい子);小さな子供 〃



 先述の「えけり(兄弟)、をなり(姉妹)」は沖縄方言ですが、徳之島では「いーり、うなり」といいます。
また「七歳以下は~様」といい、小学生以下にはクヤをしない集落もあります。


クヤによる直接の声かけは、死者に「情けを掛ける」のであり、別れのしるし、いわば形見であるといわれます。
「この歌がないとあの世にいかれない」「この歌があの世の扉を開く」ということで、一晩中絶やしてはいけないと
されました。通夜や出棺前に長老の女性がうたい出すと、その場にいる女性たちが声を合わせ、かつては葬儀の間中
ごうごうと鳴り響いていたといいます。これを聞くと哀切さも極まり、胸の奥が締め付けられるようで、
「枯れたと思っていた涙がまたでてくる」ということです。



 徳之島の各集落では、このような葬送歌が少しづつ旋律を変えながら女性たちによりうたわれてきました。


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お坊さんや神主さんが頼めなかった時代に、自分たちの手で死者を弔う大切な歌だったのです。



4.死者との絶えざる対話;奄美・沖永良部島のユタ 




 最後に沖永良部島のフズヌユエ(フズの祝い)という先祖供養の儀礼をみてゆきましょう。

フズとは「こぞ」=去った年、あるいは本尊(ふず)=去った人のことだといわれます。
「去った年、去った人の祝い」ということで、旧正月の月におこなわれます。


 沖永良部島でも、ごく一般の人が親族の霊を祀り、ショージ(みそぎ禊)という祭祀をとりおこなう姿がみられます。
各家庭では、人が亡くなって七日目くらいまでにユタを頼み、死者の霊を降ろして思いを語らせます。
ユタの呪詞のリズムに導かれ、その場に集まった親族の中で号泣・失神・身震いする人が現れます。
それは亡くなったばかりの死者の霊が降りてきたしるしであり、受けた人は終生その特定の死者を祀ります。
具体的には1・5・9月のかみづき~月に、聖なる泉に行って洗い米で霊を祀り、水をもらってきて先祖棚に供えた後
家内を浄め、健康祈願をします。


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ショージゴーの泉で米を洗う




 とくに旧正月の月には、フズヌユエ祝として大規模にショージをとりおこないます。
ユタを頼み、祀っている死者の名前をあげて次々に降ろしてもらい、同じ場で生きている人の健康祈願(請願)を
セットでおこなうのです。このもてなしにより死者は「天の庭に上って、花あそびをする。」いわば最高の先祖供養であり、
死者が生者を守るという観念の具体的な現れでもあります。

 1999年3月に、北部の国頭集落でおこなわれた次第は以下のようでした。

<フズヌ祝>
@かんじよう勧請;ユタが「子孫がこのように全員集まってフズヌユエをしてさしあげるので、
どうか先祖 のウヤカミを全部お供して降りてきて、喜んでもてなしを受け取って下さい」と請う。


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フズヌ祝:儀礼の開始前にユタの手で膳が準備される



Aシバタタキ;一同島みかんの小枝を持ち、ユタのうたうじゆし呪詞【資料7】に合わせ床を叩く。


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【資料7】



  一貫したそのリズムのうちに、B〜Dが進行する。
B死者の名を呼び、降ろす;亡くなって間もないこの家の主人と、妻が祀っている計27霊が
 次々に呼ばれる。妻は霊的な感受性が強く、また夫は几帳面で信仰心が厚い。そのため祀る人がいなくなった霊も
よく頼まれ、その範囲は多岐にわたっている。中にはショージの対象では ないのに、自分から勝手に「祀ってくれ」と
名乗り出てくる霊もいるという。
C死者との対話;「ほらほら、線香の火がゆらいでいる。もう降りてきてるんだね」とユタがいい、
「亡くなったお父さんが、・・・と言っている」と妻に伝聞態で語り始める。その最中に、 同席している姉が感極まって
「わたしもあの世に連れて行って!」と死者に直接叫ぶ。姉は体 が不自由で泣き暮らしているのである。
以後死者と家族の直接の対話が繰り広げられる。
D~(ハミ)降(ウ)ルシ;ショージの後継者を指名する。【資料8】


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【資料8】



E別れ;死者は「何の不足もなく喜んで逝った。病院もいくだけいき、ちょいちょい家にも戻ってきて、
こんなに丁寧にしてもらって有り難い。だけど病気には勝てないなあ」と言いつつ別れて行く。
F歌で死者を送る;

 ♪切り捨てる松ぬ、若芽さくやりや/後生にめぬ我親、いきちめらやしが
(切り捨てる松に、若芽がさすことがあるか/あの世にいらした我が親を、生き返らすことができるか)と
「ぐしよう後生いきんとうぶし節」でうたい、「可愛そうだなあ、戻ろうとしても戻れないなあ」 とユタは別れを告げる。
後生(ぐしょう)とはあの世のことである。
G花米占い、線香花占い;洗米の数や線香の燃え具合をみて、運勢などを占う。  
<請願>
H払い口;子孫の厄は死者が全部持って行き、強い呪言の力で屋敷内の悪魔を消してくれ、と祈願する。
I悪魔払い;出雲の神から琉球の~まで総動員し「悪魔退散」と叫びつつ、黒い炒り豆を家内に撒く。
「この炒り豆の芽が出たら、出てこい(勿論そういうことはありえない)」という強力な払いである。
その後、「子や孫の商売繁盛、健康祈願、家庭円満」を唱えつつ、玄関口に供物を置いて悪魔に食べさせる。
両脇は包丁で固め魔物の侵入を防ぐ。
H施餓鬼供養;家人は供物のお裾分けを持って玄関口より外に出て、屋敷の境の路上に施餓鬼のために置く。

おわりに

以上みてきたように、琉球弧の女性たちは、共同体と家の祭祀者、人生の救済者であるのみならず、
固有の文化や世界観の継承者としても重要な存在です。生家と婚家に両属し、祭祀の中心的な役割を果たす
彼女たちの「おおらかな暖かみや自信、社会性」は、そうした立場からくるものでしょう。
彼女たちは女性としての性や属性を持ったままで高い霊性、社会的人格を認められ、その精神的権威は今も
さほど衰えていないように思われます。





<参考文献>
北村皆雄 2011「女が男を守る島−オナリ神信仰と久島」『アジア太平洋研究』成蹊大学
酒井正子 2005『奄美沖縄 哭きうたの民族誌』小学館
瀬川清子 1980『女の民俗誌;そのけがれと神秘』東京書籍
田中真砂子1982「沖縄の女」綾部恒雄編『女の文化人類学;世界の女性はどう生きているか』弘文堂
比嘉政夫 1987『女性優位と男系原理』凱風社 
比嘉康雄 2000『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書 他



文学部 日本文化学科 教授 酒井正子




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2013年12月29日

いのり、うたう、沖縄の女たち(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





2,「女が男を守る神の島」くだかじま久高島の神まつりと女性


 久島は沖縄本島の東方6キロの海上に浮かぶ、人口約270人の平坦な島です。
琉球創世神話の地として知られ、島造り、兄妹始祖、うたき御嶽(拝所)の始まり、穀物漂着などの
神話が語り継がれています。

太陽が昇る東の方角にある太陽神信仰の聖地として、王家から崇敬されてきました。

歴代の国王とその「をなり神」であるきこえ聞得おおぎみ大君(最高神女。【資料2】参照)が、
旧暦1月の「麦の初穂まつり」に参詣した「神高い島」です。


 また「女が男を守る島」でもあります。久はいとまん糸満と並ぶうみんちゆ海人(漁師)の拠点で、
男はしばしば遠洋漁業に出かけ、半年以上も留守にしました。その間女は島を守り、農業や子育てをしつつ
夫の安全と大漁を祈願し、帰りを待つのです。年間40回をこえる祭祀があり【資料3】、
一家の主婦がおもな祭祀者となってとりおこなわれます。


【資料3】



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 久高島では原始共産制を思わせる「地割り制度」が行われてきました。地割りとは耕作地の個人所有を
認めず、村が均等に割り振る制度です。男は15歳より追い込み漁の訓練が開始され、年齢階梯的な組織に
組み込まれます。一方女は30歳より、ノロを頂点とする神女組織に組み込まれ、段々地位が上がって
70歳で引退します【資料4】。伝統的な社会・宗教組織や共同体意識が強固な島といえましょう。


【資料4】



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 人々が居住する集落は島の南部にあり、その居住区域によって東の外間ノロ家、西の久ノロ家の
どちらかに属します【図2】。


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両ノロには各々にー根ちゆ人と称する男性神職者と、ウメーギという補佐役がつきます。根人は一般に古くから
島に住み着いた、草分けの家筋であるにー根や家の当主です。またその姉妹を「にーがん根~」といい、
権威ある存在です。集落全体の大きな祭祀は、これらのクニガミ(司祭団)がとりしきります【資料4】。




 神女組織に加入する大がかりな儀礼を「イザイホー」といい、12年に一度、午年の旧暦11月におこなわれて
きました。「島に生まれ、島の男と結婚し、島に住む、30〜41歳の女性」が加入候補者で、いわばすべての
主婦がその対象者です。しかし近年、この条件にあてはまる女性がおらず、1990年以降は中止を余儀なくされて
います。このことに対する沖縄社会全体の落胆は大きく、神女継承への様々な模索が各地でみられます。


 それではイザイホーの実施過程をみていきましょう。


 祭りの開始一ヶ月前の午の日に、イザイホーをおこなうことが御嶽の~に報告されます。

本祭は旧暦11月15日より4日間にわたります。

・1日目 候補補者は早朝、泉で身を清め各々の祖母霊の香炉を継承します。夕刻には各々の属する
ノロ家に参集し、行列して祭場に入場します。七つ橋と祭祀小屋(~あしゃぎ)を七回出入りした後、
その奥の、祖母霊の宿る七つ屋という小屋に籠もります。祭場全体は、背後の鎮守の森にまもられるように
配置されます【図3】。


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沖縄ー1.jpg



祭祀小屋の前の広場が現世とすれば、小屋の後はあの世の世界といえましょう。七つ屋にこもるということは、
いわばあの世で一夜を過ごすことになります。


・二日目 祖母霊と一夜をともにした候補者たちは、外の庭(=現世)に現れ、「洗い髪垂れあしび」を
します。「あしび」とは遊び、すなわち神とともに歌い踊ることを意味します。この時はまだ洗い髪姿です。


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・三日目 祖母霊と合一し、霊威(守護力)を備えた成女(ナンチュ)として再びこの世に登場。
一人前の神女としての認証を受ける「朱付け」の儀礼を受けます。前日まで長く垂らされた洗い髪を
きりりと結い上げ、白いはちまきに紅・白・黄の紙花を飾り、まことに晴れやかな姿です。


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額と両頬に朱印を受け、えけり(兄弟)に奉仕されるその姿は、神女としての生まれ変わりを鮮明に
示しています。そして「聖なる森、家族、神を祀る旧家、農業、漁業、島の栄え」を願って~うたをうたいつつ、
この日の儀礼を終了します。【資料5】


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・四日目 午前中の「船送り」の儀礼でニライカナイ(海上の浄土)へと神々を送り出し、三日三晩籠もった
小屋を後にして、新たに生まれた神女として実家に戻ります。この時、草冠を着けをなり(姉妹)~として
えけり(兄弟)と対面。上座に招かれてえけりに拝礼され、酒杯を受けます。
まさしく「をなりーえけり」の対となる関係が固められるわけで、「をなり~」誕生の瞬間を印象づけます。
夕刻よりイザイホーを無事すませた祝いの宴が、盛大におこなわれます。


 以上、七つ屋に三夜籠もり祖先霊(ウプティシジ)と合一、タマガエー(魂替え)により神性を備え、
をなり神の資格を得て戻り兄弟と対面する、というプロセスを踏みます。これは典型的な通過儀礼の構造を
示しているといえましょう。卒業や結婚式、葬式などの通過儀礼においては、いったんこれまでの集団から
引き離され(分離)、どちらにも属さない「境界」の領域で試練を経た後、新しい集団に「統合」される、
という3段階の局面がみられます。


 イザイホーの過程でいえば第一日目が「分離」、二〜三日目が「過渡(境界)」、四日目が「統合」に
あたります【資料6】。


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「境界」状態では七つ橋をわたって七つ屋にこもるわけですが、この際に様々な試練を受けます。
七つ橋とは祭祀小屋の前に、梯子形に木を七本置いてしつらえられた橋のことです。浮気した妻、
神女にふさわしくない女はこの橋から落ちる、などと言われ、日頃から身を慎むのです。夜籠もりの際には、
沢山の~うたや祈りの文句を習ったり、互いに打ち解け結束を固めたりするといわれています。


 以上、島に暮らす主婦全員が~女となり、~まつりをとりおこなう姿をみてきました。

 さて死者供養や葬式においても、聖職者や葬儀屋などの専門職ではなく、いわゆる普通の主婦が、
死者を送る大切な役割を果たします。私自身の調査から奄美の例をいくつかご紹介しましょう。


【資料2】
田中真砂子1982「沖縄の女」綾部恒雄編『女の文化人類学;世界の女性はどう生きているか』弘文堂pp.244〜245


(3)につづく


文学部 日本文化学科 教授 酒井正子





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2013年12月19日

いのり、うたう、沖縄の女性たち

地域とともに活躍する川村学園女子大学



いのり、うたう、沖縄の女性たち
                            

私は琉球弧(奄美沖縄地域)の歌謡・芸能研究のため、島々のフィールドワークを30年ほど続けています。
鹿児島の南から台湾にかけて、弓なりに連なる島々が琉球列島です。


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【図1】



琉球弧、南西諸島などとも呼ばれ、北から奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島に大きく分かれます。

行政的には奄美諸島は鹿児島県に、沖縄〜宮古諸島は沖縄県に属します。

かつては独立の琉球王国が存在し、中国や東南アジア諸国と盛んに交易をおこなっていました。
明治12年(1879)に沖縄県として日本の国家体制に組み込まれるまで、日本本土とは別の歴史を歩んできたのです。
第二次世界大戦で国内唯一の地上戦、戦後のアメリカ統治を経て、1972年日本に復帰しました。


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【年表】



亜熱帯気候に属し、気候風土、ことばや生活習慣も、日本本土とは違っています。

女性が宗教や儀礼において果たす役割も大きく異なります。

その一端をご紹介しましょう。

1,女性祭祀の奄美沖縄と「をなり神信仰」


 日本本土では、中世以来、女性不浄観が根強くみられました。出産、月事の血のケガレを忌み、
仮小屋で煮炊きの火を別にして過ごすという風習が全国的にありました。月経中の女性は神社の鳥居をくぐらない、
女性を土俵にあげない等のタブーはよく見聞きしますし、神社の神主などの神職は男性に限ります。
祭や芸能を男性のみでとりおこなう、という伝統も少なくありません。



 対照的に琉球弧(奄美沖縄)では、~まつりの司祭者は女性です。ノロ(神女)を頂点に多くの女性聖職者が、
祈願や祭祀をとりしきります。月経時に別屋に隔離するという生活もみられません。月水が長く続くなどの変調は、
神女となるべき神聖なしらせと考えられたのです。出産は忌みではなく、霊魂の再生と考えられました。


 また女性の霊的優位、とりわけ姉妹(をなり・うない)が兄弟(いーり・えけり)を守護する「をなり神」の特別な力を
認める社会です。兄弟姉妹のうち一人のをなり(姉妹)と一人のえけり(兄弟)が対となって、生涯にわたり霊的に
結ばれた親密な関係を持ちます。女性は結婚しても生家の祭祀のためにたびたび里帰りします。

それは家をついでいるえけりとその家族の繁栄を、生家の先祖達に祈るためなのです。

男の子は小さい時から自分のをなりを大事にするよう教えられて育ちました。【資料1】



 危険な航海や戦争、移民や出稼ぎなど人生の重大な岐路にあたっては、をなり神が心をこめて織った手拭いと
髪の毛を仏壇や拝所の前でえけりに手渡し、安全祈願をしました。戦争中は千人針が手拭いの代わりでした。
お守りのおかげで奇跡的に命を助かったというエピソードが語られ、「奇跡を信ずる男たちの顔は、をなりに対する
感愛と敬愛の情にみちていて、感動的であった」といいます[田中1982]。

また石垣島では、男が旅に出るときは月水で染めた手拭をお守りとし、行政官になって赴任する兄は、をなりの祈りと
杯を受けて行ったといわれます[瀬川1980他]。


 沖縄の女性聖職者は、ノロ(しん神じよ女=女性~職の長)が共同体の公的な神まつりを司祭する一方、
ユタ(民間の巫者、シャーマン)は、直接神霊と交流し治療託宣などをおこなうという分業がみられます。


 
では「をなり神」「神女」誕生の儀礼をみていきましょう。



【資料1】田中真砂子1982「沖縄の女」綾部恒雄編『女の文化人類学;世界の女性はどう生きているか』弘文堂p.243
他の参照文献
瀬川清子 1980『女の民俗誌;そのけがれと神秘』東京書籍


(2)につづく


文学部 日本文化学科 教授 酒井 正子





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2013年12月06日

TOKYO 2020 (4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





7年後への課題



 最終投票では,まず,マドリードが脱落。財政面やドーピング問題などが最後まで影響しました。
また,最終プレゼンテーションでの「上から目線」の演説は,IOC委員の反感をかったと思われます。
 東京との決選投票で敗れたイスタンブールは,ドーピング問題に加えて,隣国シリアの情勢が致命的でした。

 こうして,東京都が2020年の夏季オリンピックの開催地に決定したのです。

 さて,これからの7年間


 「東日本大震災からの復興を成し遂げた日本の姿を世界に発信し,最高のおもてなしで
日本のすばらしさを感じてもらう絶好の機会だ。しっかりと支援していく」。

 
2013(平成25)年9月11日の東京招致に関する閣僚会議で,安倍晋三首相はこう述べました。

 今後,7年後に向けた施策の検討が関係機関で本格化すると思われますが,行政面でも選手強化の面でも,
課題は山積しています。


 行政面では,まず,スポーツ庁の設置をどうするのかを検討しなければいけません。

また,半径8キロメートル以内に競技施設の8割を配置する「コンパクト五輪」ゆえに懸念される渋滞問題。
必要とされる8万人もの大会運営を支えるボランティアの確保と育成も大きな課題です。


 一方,選手の強化については,文部科学省が2013年8月に公表した「2020ターゲットエイジ育成・
強化プロジェクト」が動き出します。2020年大会の主軸となる23〜27歳から逆算して,現在16〜20歳を
「ターゲットエイジ(照準年代)」と設定。人材発掘や選手強化を手厚く支援する仕組みです。


 文部科学省やJOCは,金メダル数の目標として,世界3〜5位に相当する25〜30個を掲げています。
しかし,選手の育成は,計算どおりにいかない難しさがあり,また,過剰な「メダル主義」は,
勝利至上主義強化という危険性と表裏一体であることを忘れてはいけません。


 さらに,もうひとつ

 7年後のオリンピックは,「震災復興」をテーマに掲げています。最終プレゼンテーションで,
安倍首相はこう述べました。


 「(福島の)状況はコントロールされている」

 「汚染水は福島第一原発の0.3平方キロメートルの湾岸内に完全にブロックされている。」

 この発言に違和感を感じた日本人は少なくなかったのではないでしょうか。

 しかし,言い切ったからには実現(安倍首相の解釈であれば「維持」)してもらわなくては困ります。
安倍首相の発言は,「世界公約」です。できなかったでは済まされない問題です。

 7年後,原発問題や震災から完全に復興した姿を見てもらい,支援への感謝を笑顔で伝えられる,
そんな開会式を迎えたいと思います。


 2011年4月2日,東日本大震災の復興支援のために行われたプロ野球慈善試合のセレモニー。

 楽天イーグルスの嶋基宏選手がスピーチを行いました。

「見せましょう,野球の底力を。]

 「こんなときに野球なんて」という声のなか,「こんなときだからこそ野球を」という強い気持ちがこもっていました。

 楽天イーグルスの活躍に,一時でも震災のつらさを忘れ,こころ癒やされた人も多かったはずです。
(優勝,おめでとう!)

 「こんなときだからこそスポーツを」

 「こんなときだからこそオリンピックを」

 スポーツの力を信じてみようと思いませんか。




2020.jpg



(常名峰生氏撮影・提供)



教育学部 社会教育学科 准教授 藤原昌樹






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2013年11月22日

TOKYO 2020 (3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





立候補都市の顔ぶれ


イスタンブール

 イスタンブールは,これまで2000年から2012年までの夏季オリンピックに,4大会連続で立候補して
いましたが,すべて落選。今回で5度目の挑戦です。

 近年のトルコ経済の順調な発展により,競技会場の建設,インフラの整備が急速に進んだことに加え,
国民(市民)からの高い支持などが評価されています。

 また,「BRIDGE TOGETHER(ともに橋を架けよう)」というイスタンブールが掲げたスローガンは,
ボスポラス海峡をはさんでアジアと欧州にまたがる地理的特徴を生かした,東西の文化と未来をもつなぐ
オリンピックを強調しています。

 「イスラム圏初」に加え「初の2大陸同時開催」という明確な大会理念が強みです。

 反面,激しい交通渋滞が予想され,また,隣国シリアの内戦も気がかりなところです。



マドリード
 マドリードは,2012年と2016年の大会に2大会連続で立候補しましたが,惜しくも落選。
今回で3大会連続の立候補です(それ以前にも,1924年,1936年,1972年に立候補)。

 債務危機による深刻な経済状況で,新設する会場の建設費やスポンサーの獲得などに影響が出かねない
との指摘があるなか,今回は「スマート五輪」をテーマに掲げ,ほとんどの競技施設がすでに建設済みである
ことをアピールしています。

 また,IOC委員の過半数近くをヨーロッパ出身の委員が占めているため,マドリードは一定の票を確保できる
のではとの見方もあり,マドリードを「最有力」とする声も聞かれました。



東京都

 オリンピック招致の海外向けスローガンは,「Discover Tomorrow(未来をつかもう)」。
国内向けスローガンは,「今,ニッポンにはこの夢の力が必要だ」に決まりました。

 東京都は,2016年大会立候補の際に指摘された,「メインスタジアムの新設」,「メインスタジアム周辺の
交通インフラ」,「選手村の広さ」,「国民の支持率」という4つの課題を解決する,新たな大会構想を
考える必要がありました。

 このうち,「国民の支持率」を除く3つの課題については,1964年の東京オリンピックのメインスタジアムと
なった国立競技場(正式には,国立霞ヶ丘競技場)を改築して使用することで解決しました。

 2016年の計画では,メイン会場となるオリンピックスタジアムを,晴海に新設する予定でした。

これは,現在の国立競技場が,老朽化のため改修工事をする必要があることと,陸上競技の規則
(例えば,レーンの数。規則では9レーン必要だが国立は広さの関係で8レーンまでしかない)を
満たすことができないなど,オリンピックスタジアムとしては使用できないという理由からでした
(2016年の計画では,サッカー会場としてのみ使用)。


 そのほかにも東京都としては,都市整備などの思惑もあったのでしょうが,いずれにしても2020年大会の
構想では,現在の国立競技場とその周辺も敷地にして,新しい国立競技場を建設する計画を決定しました。
新しい国立競技場は,2019(平成31)年3月に完成予定です。

 既存の施設を立て替えて使用することで,メインスタジアムの新設という課題は解決しました。
また,晴海案では,スタジアム近辺にひとつしか駅がなく,「交通インフラ」という課題をあげられて
いましたが,国立競技場周辺には多数の駅があるため,この課題も解決。

 さらに,2016年の計画では,有明に31ヘクタールの選手村を計画していたのですが,
リオデジャネイロの75ヘクタールと比較されて「狭い」と指摘されました。
しかし,晴海のスタジアム建設予定地(44ヘクタール)に選手村を建設することで,十分な広さを
確保することができ,この課題も解決。

 残るは「国民の支持率」という大きな課題です。

 震災からの復興もいっこうに進まず,「こんなときに・・・」という声は,根強く残っています。

 しかし,あることをきっかけに支持率が上がっていったのです。

 2012(平成24)年に開催されたロンドンオリンピック。

このブログでも取り上げましたが,みなさんの記憶にも新しいのではないでしょうか。

 大会が終わって1週間が経った8月20日。メダリストたちの凱旋パレードが東京・銀座で行われ,
炎天下のなか50万人(主催者発表)が詰めかけました(そのときの模様はこちらから)。

 この凱旋パレードこそ,世論がオリンピック招致に前向きになったターニングポイントだと,
筆者は考えます。東京でオリンピックのあの感動を味わいたい,選手たちの姿を目撃したいという機運が
徐々に高まり始めました。

 2012年5月23日に行われた1次選考では,他の都市が70%を超える支持率であったのに対し,
東京都は47%(反対も23%でトップ)しかありませんでした(IOC調査。以下も同様)。
しかし,2013(平成25)年6月25日にIOCが公表した評価報告書では,3都市中最も低かったものの
70%の支持を集め,反対は16%でマドリードの20%より低いという結果でした。

 こうして,国民の支持率という課題も解決しました。


運命の最終プレゼンテーション

 滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」が注目を集めた最終プレゼンテーション。

 意外にも,投票権をもつIOC委員は,この最終プレゼンテーションを聞くまでどこの都市に投票するか
決めていないという人が少なくありません。

 それだけに最終プレゼンテーションは重要な意味をもちます。

 オリンピック開催を引き寄せた東京招致団の最終プレゼンテーションは,まさに命運を分けた45分間だったと
いえるでしょう。IOCのジャック・ロゲ会長(当時)が「とても印象的だった」と称えたように,
3都市のなかで日本が抜群にすばらしいプレゼンテーションであったといえます。

 世界的な不況が長引き,中東などで政情不安が続くなか,東京の主張は「安心,安全」の確実性に加えて,
スポーツの本質にIOC委員の目を向けさせました。

 筆者がとくに印象に残ったプレゼンターは,パラリンピック陸上の佐藤真海(まみ)さんです


 骨肉腫に冒されて右足を切断した19歳の少女に,生きる力を与えた「スポーツの力」。
東日本を襲った大地震による津波で,ふるさとを引き裂かれた被災者に希望を与える「アスリートの力」。

 「私がここにいるのは,スポーツによって救われたから。スポーツが人生で大切な価値を教えてくれた。
2020年の東京で,その価値を世界に広めたい」。


 情感を込めた手のしぐさと,穏やかな笑みに込められた佐藤さんの思いは,IOC委員だけではなく,
スポーツを愛する世界中の人々に届いたことでしょう。

 この約4分間のプレゼンテーションは,間違いなく東京招致を引き寄せました。


(4)につづく


教育学部 社会教育学科 准教授 藤原昌樹







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2013年11月03日

TOKYO 2020 (2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



2020年夏季大会へ,再び・・・


 招致に敗れた帰りの機上で,石原慎太郎知事(当時)は,「総力戦でやらなければダメだと思った。
IOCはみんな政治家でしたたか。JOCの組織力じゃ太刀打ちできなかった」と述べ,涙したというエピソードがあります。

 オリンピック開催の夢はついえたかに思えましたが,意外なところから招致構想が持ち上がります。

 2009年10月11日,「平和の祭典」と呼ばれているオリンピックを被爆地である広島市と長崎市で開催することで,
核兵器廃絶と平和の尊さを世界に訴えようと,2020年夏季オリンピック招致をめざし,広島・長崎オリンピック構想が
表明されました。


両市の被爆を象徴する建物



広島ドーム.jpg        長崎.jpg


・広島の原爆ドーム       ・長崎の浦上天主堂
 
(フリーウィキペディアより)




 しかし,この構想には,大きな問題点がありました。

 オリンピック憲章には,開催都市は1都市開催が原則と記されています。実現すれば近代オリンピック史上初めての
複数都市開催になるのですが,やはり壁は高かったようです。

 同年12月,IOCは複数都市の共同開催構想を却下。

 2010(平成22)年1月15日には,長崎市が立候補を断念し,広島市が単独でヒロシマ・オリンピック構想を表明します。
しかし,2011(平成23)年4月14日,広島市長選挙で招致反対を訴えて当選した新広島市長が,オリンピック招致を
正式に断念し,ヒロシマ・オリンピック構想ははかなく消えていきました。

 さて,東京都。

 2011年4月12日,前日の東京都知事選挙で再選された石原慎太郎知事(当時)が,2020年夏季オリンピックへ,
再度立候補の意欲を表明します。

 しかし,日本の情勢は,最悪でした。

 サブプライムローン問題に端を発したリーマン・ショックによる長引く不況,不安定な政局,そして,3.11 ・・・。

 東日本を襲った未曾有の震災は,沿岸部を中心に甚大な被害をおよぼしました。それに続く原発の問題。

 「こんなときに,オリンピックどころじゃない」

 多くの批判の声があがりましたが,東京都は招致活動を継続します。



2020年夏季オリンピックの開催地選考

 2011年9月1日,2020年夏季オリンピック立候補の申請が締め切られ,翌2日にIOCが,バクー(アゼルバイジャン),
ドーハ(カタール),イスタンブール(トルコ),マドリード(スペイン),ローマ(イタリア),それに東京都の6都市から
正式に立候補の申請を受理したと発表しました(その後,ローマは立候補を取り下げます)。


東京都では、

 ・9月15日,東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会が設立。
 ・10月18日,東京都議会が2020年夏季オリンピック・パラリンピックの東京招致を求める決議案を賛成多数で可決。
 ・10月19日,文部科学省内に招致対策本部を設置。
 ・12月6日,衆議院本会議,翌7日には参議院においても,オリンピック・パラリンピック東京招致に関する決議が
賛成多数で可決。
 ・12月13日,政府が,2020年オリンピック・パラリンピック東京招致を閣議了解。
と、着々と「オールジャパン」体制ができあがります。

一方IOCでは、
 2012(平成24)年5月23日,カナダのケベックシティで開かれたIOC理事会で1次選考が行われました。

2016年の開催地選考では11項目だった評価項目が,今大会の選考過程からは14項目(「競技会場・会場配置」,
「選手村」,「国際放送センター・メインプレスセンター」,「過去の国際大会開催実績」,「環境・気象」,「宿泊施設」,
「交通・輸送計画」,「医療・ドーピング対策」,「治安・警備計画」,「通信」,「エネルギー」,「通関・入国管理」,
「政府・世論の支持」,「財政・マーケティング」)に増え,総合平均点ではなく,正式立候補都市の選出に値するかの
評価が出されました。


 1次選考の結果,評価の高かったイスタンブール,マドリード,東京が正式立候補都市に選出されました。



(3)に続く


教育学部 社会教育学科 准教授 藤原昌樹






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2013年10月20日

TOKYO 2020

地域とともに活躍する川村学園女子大学




TOKYO 2020


その瞬間。
会場が静寂に包まれ,人々の視線が一点に集まります。

ジャック・ロゲ会長(当時)が,おもむろに封筒から取り出した用紙には ・・・


TOKYO 2020



Tokyo_2020_Announcement.jpg




Tokyo 2020 Announcement
IOC ジャック・ロゲ会長


ウィキぺディア・コモンズ(2013年 9月8日 作者 SWannasln)




夏季五輪として56年ぶりとなる東京開催が決まった瞬間でした。



始まりは2005年。
 2005年(平成17)1月,日本オリンピック委員会(以下,JOC)竹田恒和会長が年頭の挨拶で,
2016年,2020年のオリンピック・パラリンピック開催に向けて努力していきたいと述べました。


 それを受けて,東京都の石原慎太郎知事(当時)は,同年9月20日,平成17年度第三回都議会定例会の
所信表明において,正式に2016年のオリンピック招致を表明したのです。

 しかし,こうしたオリンピック招致に向けた発言は,当時,どちらかというと冷ややかに受け止められました。


 時はバブル景気崩壊後。ひたひたと忍び寄る不況の足音を,私たちは敏感に感じているころでした。
「格差社会」などということばが,流行語になったのもこのころです。


 もうひとつの理由は,相次ぐオリンピック招致の失敗です。

 夏季大会では,東京都が2016年のオリンピックに立候補する以前にも,名古屋市が1988年大会(ソウルで開催),
大阪市が2008年大会(北京で開催)に立候補し,いずれも大差で敗れています。招致に費やした巨額の負債が
残っただけでした。


 こうした世論をよそに,東京都はオリンピック招致活動という,大きな挑戦を開始することにしたのです。

 2006(平成18)年8月30日には,JOCが国内立候補都市評価委員会を開催し,同じく招致に名乗りを上げた
福岡市と国内立候補都市の座を争いました。55人名の選定委員による投票の結果,東京都は11票差で競り勝ち,
2016年五輪の国内立候補都市に決定したのです。



2016年夏季オリンピックの開催地選考


 オリンピック開催地の選考は,立候補を希望する都市が,自国の国内オリンピック委員会をつうじて
国際オリンピック委員会 (以下,IOC) に立候補の申請を行うことで始まります。そして,大会開催の7年前に開かれる
IOC総会で,IOC委員の投票により開催地が決定するのです。この選考方式はオリンピック憲章の第5章34則で
定められています。


 さて,2016年夏季オリンピック開催地への立候補は,バクー(アゼルバイジャン),シカゴ(アメリカ),
ドーハ(カタール),マドリード(スペイン),プラハ(チェコ),リオデジャネイロ(ブラジル),そして東京都の
7都市が立候補を申請しました。


 この7都市は,次に,申請ファイル(概要計画)を IOC に提出し,11項目にわたる1次選考を受けます。
11項目とは,「政府支援・世論」,「インフラ」,「競技会場」,「選手村」,「環境・影響」,「宿泊施設」,
「交通」,「治安」,「国際大会開催経験」,「財政」,「遺産・有効活用」で,それぞれに得点がつけられ,
その総合平均点6点以上が,IOC理事会による1次選考通過の目安になります。


 1次選考の結果,6点以上を獲得した5都市のうち,東京(8.3点),マドリード(8.1点),
シカゴ(7.0点),リオデジャネイロ(6.4点)が正式立候補都市に選出され,1次選考を通過しました。


 東京都は宿泊施設の項目で10点満点を得たほか,環境や治安,選手村で高い評価を受け,全都市中トップの
総合平均点で1次選考を通過したのです。


 なお,ドーハについては6.9点を獲得しながら,夏季の高温を避けるために提案した10月開催がIOCの規定に
反することや,競技施設の乏しさ,人口規模の小ささなどの懸念から,1次選考で落選しました。


 1次選考を通過した都市は,より詳細な開催計画を記した立候補ファイルをIOCへ提出します。
その後,IOCは評価委員会を組織し,委員会のメンバーはそれぞれの立候補ファイルを精査するとともに,
各都市を現地視察します(東京都の視察は2009年4月16日〜4月19日でした)。


 2009(平成21)年9月2日,現地視察を終えた評価委員会は,視察の結果をもとに各都市の長所と課題を
併記した評価報告書を公表しました。


 それによると,東京都は,コンパクトな会場配置,財政面,安全・治安面で評価を得たのに対し,
競技場,交通インフラ,選手村の広さ,国民の支持率の課題が指摘されました。なかでも55.5%という
支持率の低さは致命的で,4都市中最も高いマドリードの84.9%に大きく水をあけられてしまいました。


 2009年10月2日,デンマークの首都コペンハーゲンで開かれたIOC総会において,2016年オリンピック開催地を
決める投票が行われました。


 まず,シカゴ,東京,リオデジャネイロ,マドリードの順に最終プレゼンテーションを行い,
その後,評価委員会による各都市の最終評価報告を経て投票が行われます。


 開催地は,投票総数の過半数を獲得した都市に決まりますが,仮に1回目の投票でどの都市も過半数に
達さなかった場合は,最も票の少なかった都市を落選させ,2回目の投票を行います。この方法で過半数を
獲得する都市が出るまで投票を繰り返すのです。


 1回目の投票では,マドリードが28票で最も多く,次いでリオデジャネイロの26票,東京22票,
シカゴ18票という結果でした。規定によりシカゴが脱落。


 2回目の投票が始まりました。結果は,リオデジャネイロが46票,マドリード29票,東京20票。

 東京都は最終投票に進むことができませんでした。



250px-Maracana.jpg



Games of the XXXI Olympiad

エスタジオ・ド・マラカナン (ブラジル、リオデジャネイロ)

(クリエイティヴ・コモンズより)




(2)につづく


教育学部 社会教育学科 准教授 藤原昌樹





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2013年10月11日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(5)【リストラされる女性たち】

 全ての労働者に職場を保証する、という社会を実現した中華人民共和国。
 世界最高の女性就労率を実現した中華人民共和国。
 しかしそのことが、「労働力の極端なだぶつき」という形で中国経済を落伍させることになったのです。

これを是正するために急激なリストラが実行される中で、男女間の格差が問題になります。


 女性の方が失業率が高く、就職が難しい。
 女性の方が賃金が低く、非正規雇用が多い。


 …日本でも折に触れて問題になるテーマですよね。中国の経済システムが日本など諸外国に似たものに
なってきたことにより、必然的に社会問題も、諸外国と似たものになってきた、ということです。
中国政府は、女性や年少者を保護する法律を制定したり、違反した企業に対する罰則の強化を進めたりして
いるものの、現実はなかなか厳しいようです。


 男女ともみんな社会で働く、ということは、夫婦ならみんな共稼ぎ、ということになります。
現代中国では基本的に「専業主婦」はあり得ませんでした。


 しかし上述のように国を挙げてリストラを進める際、一家が完全に路頭に迷うのを防ぐため、
「夫婦の片方が離職することで、もう片方の在職を保証する」という策が多くの職場に浸透しました。
 つまり夫婦のどちらが辞めてもいいわけですが、筋力の差・出産や授乳の問題から、どうしても女性が
犠牲になるケースが多い、というのが現実です。もちろん、男性と全く同じ業務を続けられる女性もいますが、
全体としては少数にとどまらざるを得ないようです。


 また、急速な経済成長の陰で、それを牽引する沿海部・都市部と、昔ながらの農村部との間で、
経済格差がどんどん開いていきました。

 最近のニュースで皆さんがご覧になっているであろう中国の街角は、大変に文明的(?)ですが、
それは都市部の映像。農村は発展から取り残されるばかりです。



高津5−1.jpg




Village – South of Changjiang River




 そうなると、農村の男性は地元で働くより遙かに高収入を得られる都市へ「出稼ぎ」に向かうように
なります。その結果、畑を耕すのは女性と高齢者だけと言うことになり、女性は働かなければならないから
なかなか進学できない=低学歴化が進展する、そしてそのことが男女格差に輪をかける、という悪循環も
見られるといいます。



【「女性は家庭に戻れ」?】

 このように中国社会が大きく変わる中で、むしろ「女性は家庭に戻れ」という意見が積極的に新聞や雑誌を
飾るようになりました。男性も女性も社会で働くようになった結果、労働力が余ってしまっている。
それなら、女性は家事や子育てという仕事に専念すべきだ、と。

 そう言われたら、女性としてはどうでしょうか。当然、「性別分業論だ」「女性差別だ」という反発が、
女性の団体から強く上がるようになります。


 しかし、「女性は、その能力を活かして優秀な母親になるべきだ」「主婦や母親の仕事を、もっと高く
評価すべきだ」と言われたら、女性としてどうでしょうか。…言っていることは、実は「女性は家庭に戻れ」と
ほとんど変わらないのですが、こちらのような意見には、あまり反発が強くないようです。

 また、「女性は家庭に戻れ」に反発はしても、「じゃあどうすればいいの」という問いに対する具体的な
解決策は、なかなか提示できないと言います。

 さらに近年の若い女性の間では、自ら高キャリアで働きたい、社会で活躍したい、あるいはバリバリ稼ぎたい、
という将来の夢あるいは目標を抱く傾向が、減ってきているそうです。

 むしろ、高学歴高収入の男性と早く結婚したい、と。



高津5−2.jpg




Jiayuguan-071




 いかがでしたでしょうか。皆さんがお持ちだった「中国の女性」のイメージと比べて、どうでしたか。

 僕は、社会主義の道を全力で走っていた時期はともかく、その前もその後も、日本と大して変わらないなあ、
と思ったというのが正直なところです。

 最近、日本と中国との間は、ハッキリ言って険悪になっています。

 でも隣同士のご家庭の間でも、たとえ仲がよくても、問題が全くないということは稀です。
ゴミ出しとか騒音とか、「またかよ、困ったもんだな」と思わされることは多い。だからといって、
全面対決になるケースよりは、普段はニコニコとつきあうケースの方が普通でしょう。


 国同士だって、相手にウザい点があるとは思いつつも、何とかケンカを回避してニコニコとつきあう方策を
考える方が賢明でしょう。

 しかしそのためには、相手を理解する、という努力が欠かせません。

 理解すると一口に言っても、そのテーマは無限にありますが、今回は「中国の女性の姿」という形で、
その一つをご紹介してみたわけです。

 このテーマを手がかりに、中国がどのような問題を抱えているのか、そこに生きる人々はどんな社会を
生きているのか、様々な方面について知識を得ていってほしいと思います。

 自分(日本)の過去と現在を知り、相手(中国)の過去と現在を知ること。おそらくそれが、
よりよい未来を築くための必要条件だと僕は信じています。




文学部 史学科 准教授 高津純也





posted by 園遊会 at 13:06| Comment(2) | シリーズ「女性と文化」

2013年10月04日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(4)【社会主義体制のもとで】


 1949年に成立した中華人民共和国は、労働者と農民によって築かれる国家として、社会主義に
基づく諸政策を実施してきました。

 建国後、一部の地主が大土地を所有して貧しい小作人をこき使うような農業を否定するため、
全ての土地を国有化し、全ての農民をいずれかの農場で耕作させ収穫も平等に分配する「農業の集団化」を
進めるとともに、一部の資本家が大工場を経営して貧しい労働者をこき使うような工業を否定するため、
全ての工場を国有化し、全ての労働者をいずれかの工場に分配し労働させるようにしました。


 従って、原則として失業は存在しない、誰もが必ずどこかの職場で働ける、ということになったわけです。
この点は前に記したとおりです。



高津4−1.jpg



People's commune canteen2




 就職難に苦しむ現代の我が国の若者には、なんて羨ましい国だ、と思われるかもしれませんね。


 しかし考えてみれば、国が全て労働力の分配を決めているということは、人々には職業選択の自由がない、
ということになります。決められた職場に必ず向かい、決められた職業に必ず就かなければならないのです。
また一方で、職場の方でも、雇用の自由がないことになります。決められた労働者を必ず働かせなければならず、
足りないとか余ってるとかで自ら調整することはできないのです。


 そしてそれとともに、国として男女同権・男女均等を掲げたので、上述の労働力に男女の差はないものと
されました。男性も女性も必ず就業できる。この点も既に紹介しました。

 女性が農場でトラクターを整備したり、街中でバスを運転したり、といった中国の風景は、
こうして誕生しました。「女だから」と就職で不利をこうむったり、同じだけ働いても賃金が低かったり、
といった差別から解放されたのです。


 「男女雇用機会均等法」が定着したにもかかわらず、裏では依然として男女間の格差が存在していると
言われる我が国の女性には、なんて羨ましい国だ、と思われるかもしれませんね。


 しかし考えてみれば、この方向性は容易に「女性にも男性と同じ労働を強要する」ことにつながって
しまいます。前に紹介した太平天国での女性の苦しみと同様です。女性に、男性への同化(=女性性の圧殺)を
強いることになるわけです。


 「女性も男性と同じ労働をこなす」ことさえ実現すれば、イコール「女性の解放の実現、男女平等の実現」と
短絡的に考えられがちですが、実際には、それでは根本的な問題解決にはならないわけです。

事実、結局は、若くて体力があり、未婚(=妊娠・出産・子育てという負担がない)の女性しか、
男性と全く同様に働き続けることはできませんでした。


【改革開放の功罪】


 さて、上述のような社会主義政策は、1970年代後半に、大転換を余儀なくされることになります。

がんばって働いても手を抜いても給料が変わらない→労働意欲の低下。
全ての労働者を必ず雇用しなければならない→圧倒的な非効率。
 
などなどの理由により、中国が経済的にも産業技術的にも他国より全く遅れてしまっている、
ということが明らかになったからです。


 ケ小平の指導の下で、「四つの現代化」(=農業・工業・国防・科学技術の近代化)という政策が
進められ、それを経済面で支えるために「改革開放政策」が開始されました。

社会主義国という看板は掲げたままですが、上述の「国有化・集団化」に代表される経済政策は転換され、
大胆に資本主義的な市場経済システムが導入されたのです。


 これによって、80年代後半以降の中国は急速な高度経済成長を遂げることになります。



4−2高津.jpg



Shanghai Tower construction, April 12, 2011


 近年、「GDPで日本を抜いた、米国に次ぐ世界第二位となった」という統計がセンセーショナルに報じられた
ことを記憶されている方も多いでしょう。


 しかしその成功のために必要だったのは、生産性の低い国営企業などのリストラ、無駄に多い労働者の削減、
といった「効率化」です。

 それは至極ごもっともなのですが、当然、失業者が街にあふれ、所得の格差が広がるという、
以前の社会主義国家中国では見られなかった光景が広がり、社会問題化することになったのです。

 それに伴って問題になっていったのが、男女間の格差、待遇の性差別、ということになります。

最後にこの点に注目してみましょう。




(5)につづく


文学部 史学科 准教授 高津純也








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2013年09月26日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





(3)【中国版『女工哀史』?】



19世紀後半から20世紀初頭の中国では、産業の近代化に伴って、工場制手工業さらには機械工業が発達しました。
従って、中国大陸に数多くの工場が誕生し、そこで多くの労働力が必要となりました。

 
工場での単純労働は、前近代の農業や工業と異なり、それほど筋力を必要としませんし、職人の熟練の技も必要と
しません。それはとりわけ、どの国でも近代化の初期の段階で発達する軽工業(製糸業・紡績業など)において顕著です。

だからどの国でも、近代化を達成すると、低賃金で女性や子供を大量に雇用しました。
 
中国でも同様だったのです。

貧しい農村から都会に出てきて工場に勤め、劣悪な労働条件の下で酷使される若い女性たち…。




Tomioka .jpg



Inside Tomioka Silk Mill




と言うと、日本の明治時代の工場の女性のことを思い出す方もいるでしょう。

その過酷な労働と悲惨な境遇を描いた『女工哀史』という文学作品をご存じの方も多いでしょう。


それと全く同じことが、中国でも起きていたということです。

しかも悪いことに、その悲惨さを中国より先に経験していた日本で、女工の酷使が社会問題化した結果、
1916年に女性の深夜労働を法律で禁止すると、日本の資本家たちはコストの上昇を恐れ、生産拠点の多くを
中国に移転したのです。

その結果、中国の女性たちは新たに日本から移転してきた工場で、ますます酷使されることになりました。
中国での生糸の生産高は増加しつつありましたが、さらに加速し、1920年代にピークを迎えます。


その「成長」を支えたのは、言うまでもなく女工の酷使です。


すなわち、日本の女性が酷使から逃れることになったのと入れ替わって、中国の女性の労働がさらに過酷になったとも
言えるのです。



【女性たちの労働運動】

 
当然、その中で女性が待遇改善を求め、労働争議を起こすケースも出てきます。

第一次大戦後は、帝国主義や資本主義の行き過ぎに対する反発が強まった時期で、またロシア革命でソビエト連邦が
成立したという画期もあり、世界各地で社会主義思想に共鳴する人々が増え、民衆の権利向上が叫ばれた時期でもあります。


日本の「大正デモクラシー」もその一角を占めることはご存じでしょう。

 
中国でも、「五・四運動」(1919年に発生した、欧米や日本による帝国主義的進出がいっこうに改まらないことに
反発する大規模な民族主義運動)において、列強に抗議するだけでなく自らの文化の近代化も模索され、
多くの人々が社会運動や民族運動に関する理論と知識を身につけていきました。

 
ソ連の影響下に中国共産党が創設されたのもこの時期です(1921年)。

このような風潮の中で、中国でも各地で女工たちによるストライキが頻発するようになりました。



高津3−2.jpg



May Fourth




 …と、ここまで中国の19世紀後半〜20世紀初頭の女性たちの姿を見てきましたが、いかがでしたか。


「日本の明治大正の頃の女性の変化と、あまり変わらないね」と思った方も多いのではないでしょうか。 


その通り、時期がわずかに違ったぐらいで、そっくりな展開だったのです。
 
もっと言えば、産業革命と社会の近代化を経ていく中で、女性に求められる役割が変わり、それに対して
女性も新たに教育を身につけ、職業の幅を広げ、権利を主張し、男性に対抗し…という流れ自体は、欧米でも日本でも
中国でも共通だった、と僕は思います。それを「女性解放」と言うのであれば、時期の差こそあれ、欧米でも日本でも
中国でもちゃんと進んだのだ、と言っていいでしょう。


その後、20世紀の30年代40年代は、中国にとっては完全に「戦争の時代」でした。15年に及ぶ日中戦争、
その終結後の国共内戦…。

 
その果てに、中華人民共和国の成立がやってきます。

 
そこで現実のものとなった社会主義の世の中。完全雇用と男女平等が唱えられ、実際にかなりの程度実現したことは、
前に述べたとおりです。


 次回は、その中華人民共和国において、建国以来60年あまり経った現在に至るまでに起こった展開について、
まとめてみましょう。




(4)につづく

文学部 史学科 准教授 高津純也





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2013年09月18日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




(2)【太平天国、「男女同権」を唱える】



時は19世紀後半。
 かつてはアジアの超大国だった清朝は、既に全盛期を過ぎ、政治経済に行き詰まりを見せていました。
社会には様々な矛盾が蓄積して各階層の人々が不満を抱え、特に各地の農村部で反乱が頻発する、
不穏な状態でした。
 そこに、イギリスとの間に起こったアヘン戦争(1840〜42年)で敗北したことで混乱に拍車がかかり、
中国史上最大の農民反乱とも言われる、太平天国の乱(1851〜64)が発生します。

 この「太平天国」は、キリスト教の教義を取り入れた一種の新興宗教集団で、既存の社会の打破とユートピアの建設を
目指して武装蜂起しました。反乱は15年近くも続き、一時は中国南部の大半を支配するほどの激烈さでした。




太平.jpg




Vanquishing of Wuchang city




 その反乱集団の中で、男女の完全な同権が唱えられたのです。
 これは中国史上例のないことで、伝統的な中国思想と異なる価値観を取り入れた太平天国ならではの主張とも
言えます。

 この太平天国の主張こそ、中国における女性解放のはしりだとする考え方もあります。
 確かに、現代の女性から見れば、太平天国の主張は素晴らしい、画期的だ、と言えるでしょう。
 しかし、当時の女性が、この考え方を歓迎したのでしょうか。答えは「否」に近かったのです。
 太平天国の主張は、当時の女性には、「女性にも男性同様の義務を押しつける」と受け取られたのです。
やったこともない従軍や生産労働を、筋力に勝る男性同様にこなすことは、当時の一般の女性には過酷以外の何者でも
ありませんでした。
さらに、その仕事を拒否する女性には、恐怖と暴力による強制が待っていました。


これでは、真の女性解放、男女平等の社会とは言えませんよね。


【近代化と女性教育・職業婦人】


 さて、時代が下って19世紀後半になると、アジアからも欧米同様の近代化を目指す国家が現れます。
 その先駆けは、日本。ペリー来航から明治維新を経て、国家機構も産業構造も、全く新しい近代的なものへと
生まれ変わったことは、皆さんよくご存じでしょう。
 実は中国も、近代化を模索していました。アヘン戦争や太平天国の乱で痛い目に遭った結果、19世紀半ばには
軍隊や工業の分野で西洋の技術を取り入れ、近代化が進みました。




アヘン.jpg




Foochow Arsenal




 しかし19世紀末、中国を上回る速度で近代化を達成した日本に戦争(日清戦争)で敗北すると、それをきっかけに
再び欧米諸国(プラス日本)の進出が加速し、中国はまるで植民地のような状態に陥ります。

 これに対し、中国の知識人たちの間では、欧米に対抗するための富国強兵策や社会構造の近代化について、
新聞や雑誌を舞台に議論されるようになります。

 その中で、社会の半分を占める女性の力量に期待する意見が活発化するのです。また、滅亡に瀕した清朝も、
近代的な教育制度と学制の導入を検討します。

 こうして、女性に対する教育が進むようになりました。そして女性の間でも「学ぶ意欲」が高まり、
さらには教育を身につけた女性たちによって「古くさい思想の打破」「女性差別の解消」が唱えられるようになります。



school.jpg




Chinese Chefoo school




 やがては史上初めて北京大学で学ぶ女子学生が誕生したり、女性たちによる街頭デモが行われたり…と、
社会の表舞台で自己主張する女性の姿が目立つようになっていきました。

 また、上海や香港といった、欧米の文化が流れ込む大都市では、例えばカフェで働く女性やオフィスで秘書として
働く女性など、新しい職業に身を投じる女性も現れ、次第に職業の幅を広げていくことになりました。

 「でも、そんな教育を受けた女性や都会のハイカラな女性って、ほんの一部だけでしょ。社会の大多数を占める
女性たちはどうだったの?」と訝る方もいらっしゃるでしょう。

 そこでここからは、中国における「女性労働者」の誕生と実態について、まとめてみたいと思います。




(3)につづく


文学部 史学科 准教授 高津純也





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2013年09月09日

「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働

地域とともに活躍する川村学園女子大学




「女は天の半分を支える」−近現代中国と女性の労働−


(1)

 皆さんが「中国の女性のイメージは?」と尋ねられたら、どうお答えになるでしょうか。

 あの七夕の伝説に出てくる「織り姫」のような女性でしょうか。それとも、現在の北京や上海の公園で、
ひなたぼっこしているおばあちゃんの映像でしょうか。
 もちろん芸能人の名前をお出しになる方もいるでしょうが、それはちょっと「中国の女性のイメージ」を代表する、
とは言えないですよね。

西太后とか、歴史上の人物についても同様です。


 僕は、男性と同じ職場で、男性と全く変わらない仕事をしているオバチャンの姿を思い浮かべます。



A guard looks at a worker.jpg



A guard looks at a worker



woman pushing her loaded bike.jpg



Woman pushing her loaded bike





 今でこそ、JRの運転士のような職業にも女性が進出していますが、それは日本ではつい最近のこと。

でも中国ではもっと前から、社会の様々な場所で男性と同じように女性が働いています。
警察官にしても、日本だと「婦警さん」と男性警察官の間には差が感じられますが、中国では全く差がありません。


 その一方で、「昔の中国の女性」と言ったら、イメージはどうでしょう。
 お屋敷の奥の部屋にたたずむチャイナドレスのお嬢様、とか。



Qipao woman.jpg



Qipao women


 
あるいはもっと昔なら、機織りをしたり琴を奏でたりするお姫様、とか。



Playing a zheng.jpg



Playing a zheng





 全然、社会で活発に働いているイメージはありませんね。

 いったい、「昔」と「今」とで、何がどう変わったのでしょう。
それとも、上に述べたようなイメージそのものが間違っているのでしょうか。



【男女平等の実現?】

 現在の中国が、共産党が全ての権力を握る社会主義国であることは、ご存じと思います。
そうなったのは1949年、中華人民共和国成立によってです。



無題PRCFounding.jpg



PRCFounding




 その結果、全ての企業が国有化され、共産党が全ての労働力分配を決定することになりました。
同時に、社会的労働と経済的自律性の男女均等が政策として掲げられました。
 
つまり、国民は一定の年齢になれば、必ずどこかで就業することになる。
失業率ゼロ、男女差別も全くない。そんな国になったのです。

 
そんなうまい話があるか?…勿論、いいことづくめではなく、大きなマイナスポイントを中国は抱えることになります。
しかしその話は後回しにしましょう。


 とりあえず、少なくとも建前上は、中華人民共和国の下で「男女平等」が実現しました。男女間の雇用状況の格差や、
職種・賃金の格差は、まあ完全に平等とまでは実際にはいきませんでしたが、諸外国に比べればずっと小さくなったのは
事実です。


 この成果を、中華人民共和国は大きな成果として宣伝しました。
その際によく使われたのが、タイトルに掲げた「女は天の半分を支える」というスローガンです。
女性も、男性と全く同じだけ社会を支えているのだ。差別は撤廃されなければならない、女性は解放されなければ
ならない。それを我が国はいち早く実現したのだ、と。


 それ以前はどうだったのか? やはり、男性に比べて女性が社会に参加する局面は限られ、賃金に格差があったり、
権利に制限があったりしたわけです。


但し、それが諸外国に比べて特にひどかった、中国では女性は奴隷のように扱われていた…とか言うことはありません。
そのことは後ほど具体的に説明しましょう。


 しかし、男女平等の実現が大きく宣伝される中で、必然的に、「昔はひどい世の中だった」という表現が強調される
ことになります。


「かつての中国は男尊女卑で、女性には良妻賢母であることだけが求められ、『家』制度に縛り付けられて家庭に
閉じ込められ、男性の所有物のように扱われ…」と位置づけられることになりました。


儒教的倫理に支配されたかつての中国には、確かに理不尽な差別や社会的地位の固定化もあったことは
否定できません。しかし、まるで「旧中国=儒教社会=差別社会」「新中国=共産主義社会=平等社会」のように
二分化してしまうとすれば、それは新中国の側の「宣伝」を鵜呑みにすることになりかねません。


 そこでここからは、作られたイメージを離れて、いささか冷静に、中国近代における女性の権利向上への道のりを
まとめてみることにしましょう。



(2)につづく


文学部 史学科 准教授 高津純也





posted by 園遊会 at 12:03| Comment(0) | シリーズ「女性と文化」

2013年08月26日

新種化石発見とその命名(4)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



新種化石発見!





新種発見報告 −同定と文献−

 採集した際に割れてしまったDouvilleiceras属のアンモナイト標本を大学の実習室で木工用ボンドを使い、
元のノジュールに復元しました。完全にボンドが固結した後に、エアースクライバー(圧縮空気で岩石を削る
ペンシル型の機器)を使い、慎重に化石の周りについている不要な岩石を取り除きます。こうした作業を
クリーニング(剖出作業)と呼んでいます。

これでやっと化石の名前(学名)を調べることができるようになります。この名前を形態の特徴などから決めることを
生物学や古生物学などの自然誌では、鑑定とは呼ばずに「同定」といいます。ここから狭義の分類学の調査・研究の
始まりとなる訳です。


化石last.jpg



 Douvilleiceras属は、白亜紀前期の前期アルビアン期の後期から中期アルビアン期の前期(約1億1千万年前)に
汎世界的に分布していたいわゆる示準化石(学問的に正確には示帯化石といいます)で、古くからヨーロッパで
よく研究された種類です。

そこで、この同定作業では、アンモナイトを記載した古い文献(19世紀前〜中期頃に新種として記載・報告された文献)に
当たる必要があります。特に、フランスのドォービニー(A. d’Orbigny)のモノグラフ(1840-1842年)や
イギリスのケーシー(R. Casey)のモノグラフ(1960-1980)は、Douvilleiceras属種がまとまって記載されており、
同定する上で有用でした(図10、11)。

しかし、今回、得られた標本は、ヨーロッパで良く産出するDouvilleiceras orbignyi Hyatt(図12)という種に
殻装飾が良く似ているのですが、イボの数が異なることに気付きました。つまり、調査で得られた標本は、
側面のイボ数が6ですが、ヨーロッパのものは7あるのです。

その後、あらゆる文献に当たりましたが、6コ有ることを記述した論文はありませんでした。

こうした文献をしらみつぶしにチェックすることは、新種として報告する上でICZNによる先取権の問題が出てくるからです
(当然ですが、すでに報告・記載されていれば、新種として報告できません)。



化石last5.jpg




2003年に私は学術雑誌にこの資料を基に、新種として記載報告をしました。その時の学名は、
Douvilleiceras kawashitai sp. nov.(図13)として、発見した人の名(川下 由太郎氏)を種名に
付けております(sp. nov.とは新種という意味)。

なお、この時の論文には、同時に運良くもう一つ別標本が新種であることが判明し、
Douvilleiceras compressum sp. nov.(compressumとは殻がやせているという意味)で、殻の形態の特徴から
名前を付けております。このような例のほかに、化石では産出した地名が良くつけられ、最も有名なのは、
Nipponites mirabilis Yabe, 1904(図14)という「日本」という地名が属名に付けられており、
世界的に良く知られた異常巻のアンモナイトがあります。変わった形をしていますね!



化石last4.jpg




このように、化石では、発見者や研究者の人名が付けられる他に、形態の特徴や産出地の地名が名前(学名)に
付けられるのが一般的です。(ただし、著者が学名:属種名に自分の名前を付けることはできません)。

なお、アンモナイトは、恐竜(例えば、学名:Diplodocidae? gen. et sp. indet.
(ディプロドクス科に含まれる可能性があるが、属と種は同定できないという意味);和名:モシリュウ )や首長竜
(例えば、学名:Futabasaurus suzukii Sato, Hasegawa and Manabe、2006;和名:フタバスズキリュウ)などと違って、
和名が付けられたことはありません。

このことは、見方を変えれば、日本人の生活の中で、アンモナイトがあまり興味の対象になっていないことの
表れなのでしょうか?

なお、参考までにアンモナイトの別称は、漢字で「菊(きく)石(いし)」と表しますが、今はあまり使われないようです。

なぜ、菊石と呼ぶのでしょうか?調べてみて下さい!

最後に一言:
化石発見の嬉しさは、筆舌に尽し難い感動があります。

みなさんも是非、野外で化石採集を楽しんで、新種発見にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。



教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2013年08月19日

新種化石発見とその命名(3)

地域とともに活躍する川村学園女子大学





新種化石発見!



新種発見物語 −経験と運−


札幌から東へ約60km離れたところに、三笠市というかつて炭鉱で栄えた街があります。
この街を流れる幾(いく)春(しゅん)別(べつ)川(がわ)の上流には、桂沢(かつらざわ)湖(こ)(北海道で
最初に造られた多目的ダムによってできた湖)があり、その周辺は、古くから地質や化石の研究が行なわれ、
特にアンモナイトを研究する人であれば、誰でも知っており、一度は訪れるほど有名な地域です。

私は、新たなダム建設に伴い、1989年から10年以上にわたってここの湖周辺地域の白亜系の調査をしてきました
(図6、7)。





化石3.JPG






1994年9月の調査の際に新種の化石(アンモナイト)が発見され、その時の化石調査の一コマが『三笠市立博物館
年報 第13号』に掲載されています。以下にその一部を紹介します。




『9月4日(日)、快晴。午前9時、調査補助の嶋貫年男・川下由太郎(故人・ハンター兼)両氏と共に、
幾春別川支流の奔(ぽん)別(べつ)川(がわ)のかねてから気になっていた小さな枝沢に入る。私はルートマップ
(地質や化石の調査記録)を作成しながら上流へと足を進める。前方では姿は見えないが、嶋貫氏が初秋とはいえ、
沢を覆い隠すばかりに生い茂った草を刈ってくれており、時々、大型ハンマーで川床の転石(岩盤から風化などに
よってはずされて川の中に転がっているノジュールなどのことを指す)や露頭に挟在されるノジュールをたたく音が
「カーン、カーン」と沢に響く。私のすぐ前では川下氏がご自慢のライフル銃を肩に重くくい込ませながら、
小さなハンマーでノジュールをたたいている。いつもながら、調査はこうした場面の繰り返しである。
沢を登り、すでに3時間以上過ぎた頃であろうか。奔別川支流の枝沢では地層が立っているせいか、大小様々の
滝に出くわすが、ちょうど、小さななめている滝にさしかかった時であった。川下氏が径15cmほどのノジュールを
たたいていた。「おーい、おーい」と私を呼んだ。「化石が何か入っているようだが、暗くてよく見えん。
先生、ちょっと見てくれ。最近は、目が悪くなって、こまいものが見えにくくなった」と例のごとく冗談まじりに
言う。そこは、トンネルのように空を覆い隠すほどに草木が茂っており、確かに暗い。私が近寄って見ると、
ノジュールの割られた破断面に茶色の殻らしい化石の断面が曲線となって見える。さらに目を凝らしてみると、
ほんの僅か“イボ”のようなところがぽつぽつと見えた。「あっ、これは、もしかしたら」といった予感が脳裏を
よぎった。私は泥岩の露頭にくいいって、なめるようにノジュールの割られてあいた穴を見た。まだ、一部が露頭に
残されている。その穴の周辺にも破片が散在している。私はノジュールの破片を必死になって掻き集めたが、
残念ながら、少し足りない。しかし、どうにか元の丸いノジュールに組み合わせることができた。
再度、私の手の上に組まれて復元されたノジュールに目を凝らした。「いやー、川下さん、これは大発見だ」と
私は声をはずませた。』

 



化石3−2.JPG






以上が、化石発見の一コマですが、この調査の目的の一つに日本では珍しいDouvilleiceras属のアンモナイト
(示帯化石種の一つ:地層の地質年代を決定するのに重要な種類)を直接、露頭から採取することでしたので
(私の研究室にこれまでに採集されたDouvilleiceras属の標本は7つありましたが、全てが転石)、つい「大発見だ!」という
言葉がでてしまいました。

したがって、この採集時点では、そのアンモナイトが、新種というおまけが付くとは夢にも思っていませんでした。




4)につづく


教育学部 社会教育学科 教授 二上 政夫




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2013年08月10日

新種化石発見とその命名(2)

地域とともに活躍する川村学園女子大学



新種の化石発見!



野外調査 −感動と恐怖−

 野外調査に際しては、私は次のようなものを準備して山に入ります。少し大きめのリュックサック(時には背負子)、
大型ハンマー(3〜5kg)、小型ハンマー(1kg)、タガネ、クリノメーター(地層を測る器具)、調査バック、野帳、カメラ、
新聞紙(化石を包むため)、大型の鈴(熊避けのため)など。


さて、調査地ですが、北海道のほぼ中央部には、南北に細長く(浦河から宗谷岬まで:日高山脈、夕張山地、天塩山地
などの山間部が中心)中生代白亜紀に主として浅い海に堆積した蝦夷層群(えぞそうぐん)(およそ1億2千万年〜
7千万年前)という地層が分布しています。私はここを研究のフィールドとしています。

この地層からは、アンモナイト(図2)を始めとして、二枚貝、巻貝、魚、エビ、ウニなど多種多様な海生生物の
保存状態の良い化石が見い出されます。

また、極めて希ですが、海に住んでいた首長竜や陸に住んでいた恐竜の化石も見つけられたことがあります。

なお、北海道はアンモナイトの産地として、世界的に知られています。


 私にとって、この北海道で化石の野外調査をすることは、最大の楽しみでありますが、その反面、苦しみでもあります。



化石 図2、図3.jpg






 ここでは、約5千万年間の生物の出現や絶滅の様子を垣間見ることができ、本題である新種の化石を発見することも
けして珍しい事ではありません。ハンマーでノジュール(化石の入っている白っぽい玉石のような塊)(図3)を割った
瞬間に、1億年前の生物が再び“呼吸”をするかと思うとその時のわくわく感は言葉で表すことができない程の感動が
あります。

時に大きさが50cmを越えるような(重さも50kgを超えます)アンモナイトを山奥で見つけると、「やった!」という思いが
湧き上がります。それと同時に、どうやって道路まで運ぼうかと悩みますが、結局、背負って運ぶしかありません。

斜面を這いつくばったりすることもあり、大きなアンモナイトを背中に背負ったその格好は「蝸牛(かたつむり)」状態に。

かっこ悪いですよね!


 一方、こうしたアンモナイト産地は、ヒグマの生息地と重なっています。調査中にヒグマの糞や足跡など(図4、5)を
みると、恐怖が体中を走り回ります。この恐怖心は、実話を基にしたドキュメンタリー小説『羆(くま)嵐(あらし)』
(吉村 昭 著)を以前に読んだことに起因しているのかもしれません。



図4,5again 2.jpg






 私の40年間の調査の中で、至近距離(5m位離れたところ)でヒグマと出くわしたことが一度だけあります。
その瞬間は、心臓が口から出そうになるとは言いますが、正にその状態。

その時の尋常ではない心臓の鼓動の高まりは、私の脳裏から今も離れません。

その時、熊と私は、お互いに驚いて反対方向?に走ったものと思います。実は熊はどうしたのか、
必死のあまり記憶にありません。この時ばかりは事故にならず、極めて運が良かったと今でも感じています。


なお、北海道のアンモナイト産地の多くは、国有林の中にあります。

入山する場合は、事前に森林管理署の入山許可を必ず得る必要がありますので、注意して下さい。




(3)につづく


教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫




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2013年07月31日

新種の化石発見とその命名

地域とともに活躍する川村学園女子大学





新種の化石発見!−名前はどうやって付けるの?−



生物の名前と分類学 −学名と和名−



 私たち「ヒト」は、地球にいる生物に限らず、宇宙のありとあらゆる「もの」に対して、名前を付けたがる生き物です。
事実、みなさんの身の周りにあるものについては、それぞれ固有名詞がつけられ、ものを区別しながら生活をしている
ことと思います。しかし、私のように、年をとってくると、「あれ」とか「それ」とか「これ」とか、その固有名詞が直には
でてこなく、代名詞で済ましてしまう場合がありますが!


 さて、星の世界では、世界中のアマチュア天文家が日夜望遠鏡を覗きながら、新しい星を探していることを耳にします。
私が子供の頃に、彗星発見の話しを学校で聞かされた記憶があります。これが「池谷関彗星:C/1965 S1 (Ikeya-Seki)」
でした。これは、池谷さんと関さんが違った場所で同時に彗星を発見したために、このように呼ばれていることを御存知
の方も多いかと思います。したがって、この場合は、発見者の名前が“星”に付けられた訳です。

このようなことでも分かるように、ものに名前を付けるときには、それぞれ何らかの意味が込められて付けられています。


ところで、生物の名前はどのように付けられるのでしょうか。


実は、名前の付け方には、厄介なルールがあります。このルールは、動物の場合、「国際動物命名規約」
(International Code of Zoological Nomenclature:略してICZNと表記)です。

この規約による名前の付け方は、18世紀にスウェーデンの生物学者リンネ(Carl von Linné;
ラテン語名でCarolus Linnaeus)(図1)により提唱された二名式命名法(二名法ともいう)が用いられ、
属名(generic name)と種名(specific name)、その後に最初に新種として発表した人の名とその発表された西暦年号で
記すことが国際的に決められていることです。



リンネの肖像画.jpg



その際の属種名はラテン語化した文字表記をイタリック(斜体)で表わすことになっています。
また、その適用は1758年1月1日からとされています。したがって、この年以前に付けられた名前は、
全て無効になるわけです。このルールに基づいて、例えば、犬は、Canis familiaris Linnaeus, 1758、
猫は、Felis catus Linnaeus, 1758といった具合に表しますが、命名者名や年号は時々省略されることがあります
(ただし、命名者と年号を付けるかどうかは、ICZNでは任意とされ、学名の一部ではありません)。
これが学名(scientific name)と呼ばれるものです。したがって、学名は世界共通の生物名であるということができます。



この学名の二名法は、私たちの名前、つまり、姓と名で作られていることとに似ていますね!



 しかし、私たち日本人は、欧米人と違って、ラテン語化した学名、すなわち、アルファベットで示された語句が、
習慣的に生活の中で馴染まないことから、上述の学名に対して対になる日本語の和名が付けられます
(ただし、和名をつけるかどうかはその分野での慣行で、付けないことも良くあります)。
和名は、当然日本国内だけで通用する生物分類の専門的に近い名前で、慣例として、カタカナ表記をすることで、
一般的な固有名詞と視覚的に区別しています(上述したように、学名はイタリック表記にすることで区別)。
したがって、分類学的に言えば、「犬」と「イヌ」は違うのです。また、「犬」は英語名で「dog」、フランス語で「chien」、
ドイツ語で「Hund」といった具合に,それぞれ異なった言語圏の名称で呼ばれています。

このようなICZNの規約にとらわれない和名を含めたこうした“地方名称”は、すべて俗名(vernacular name)と
いうことになります。


 なお、化石の学名はこの現生生物の命名規約に準じて、名前を付けることになっています。




現生種と化石種 −種とは何か−


 生物や化石に名前を付けるときに、基本的な考えとして「種とはなにか?」ということが重要な命題になります。
このことを抜きにして名前を付けることはできません。なぜならば、名前は生物の種類(種)に付ける訳ですから。

現在、生きている生物の種の考え方(生物学的種概念)は、1942年にドイツ人のマイヤー(E. Mayr)によって
「種は、相互に生殖的に隔離されており、実際にあるいは潜在的に相互の間で交配が可能な自然集団の全群」であると
指摘されています。すなわち、種とは、交配して子孫が残せるかどうかということが最も重要な要素であることを
表したものと解釈できます。


 ところが、化石の場合、発見される多くの生物の遺骸(硬組織や軟組織)が石、つまり、鉱物によって置換されて
います。運よく生殖器官が見つかっても、現実的に交配することは、不可能です。したがって、化石を基にして、
子孫を作り出すことはできないのです。こうしたことから、化石の種とは、個体群の変異を考慮しながら、
生物の形の不連続性を基にして、種を認定するほかありません。

このような種のことを「形態種」(morphospecies)または、リネー種(linnean species)と呼びますが、
化石は正にこうした種なのです。つまり、極論を言えば、形質の違いが種の違いとなるわけです。




(2)につづく




教育学部 社会教育学科 教授 二上政夫





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2013年07月18日

旅する女性作家ーK.マンスフィールド(5)

地域とともに活躍する川村学園女子大学




旅する女性作家 ― K. マンスフィールドの旅 ―



ここは海抜5000フィート。天国から涼しいそよ風が吹き、
森の木の葉は、いつも揺れている。
スイスほど、美しい土地は想像できません。
シエールは、完璧な街です。 
          
(K.マンスフィールド、1921年7月付の手紙)





1921年5月、マンスフィールドは南仏を出て、イタリア経由でスイス・アルプスに入り、7月、シエールに到着します。
シエールは、アルプスの山並みを背景に、葡萄畑が一面に広がる美しい町です。

ドイツの詩人リルケ(1875〜1926)も晩年をシエールで過ごしました。
マンスフィールドが滞在した、ホテル・シャトー・ベル・ヴューに、リルケも同じ時期に、度々訪れています。



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アルプスを背景とするシエールの中世の町並




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リルケも滞在した Hotel Chateau Bell Vue




マンスフィールドは、シエールから3kmほど離れたモンタナに、シャレー(スイス風の山小屋)を借り、
夫マリも合流します。冬でもアルプスの山頂の雪は白銀に輝き、緑の森の中に青く澄んだ湖が点在し、
シャレーは鮮やかな花で飾られ、そこは、まさに、地上のエデンでした。




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花で飾られたスイスのシャレー、現在、
モンタナへは、ケーブルカーで登山できる。





私は残りの人生のすべてをここで過ごしたいと思っています。
ここは、今まで知っているどの地よりも、ホームだと思えるのです。
ここには、鉄道も、自動車もカジノもジャズバンドもなく、穢れのない地です。
小さな花の一つ一つが、新しい光を放っています。

(マンスフィールド、1921年7月付の手紙)




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シエールの南側の斜面に葡萄畑を広がり、遠くのアルプスの頂きには、雪が残る。




地上の楽園において、マンスフィールドとマリは、堕落前のアダムとイヴとして、無垢な幸福な日々を過ごします。
彼女は、この地で、最高傑作と言われる、「入り江にて」を執筆します。そして初雪降がるスイスの秋は、
想像を絶する美しさでした。



低い山に初雪が降ると、すべては水晶のように透明な光で
輝きます。空は、驚くほど青く澄みわたるのです。
                (1921年11月の手紙)


しかしながらこの牧歌的生活も終わる時が来ました。マンスフィールドの病状は、ますます悪化の一途をたどり、
1923年1月、彼女はフォンテーヌ・ブローで永眠します。


マンスフィールドは、20才の時に家庭を飛び出し、2回の結婚では、堅固な家庭を築くことはできませんでした。
旅をする彼女は、いつも本当の家庭、「ホーム」を求めていました。

現実に妥協せず、失われた楽園の回復を求めて旅を続けました。



芸術とは現実をヴィジョンに妥協させようとする試みではない。
現実の中に、芸術家自身の世界を構築しようとする試みである。
       (K.マンスフィールド、1921年11月の日記)



マンスフィールドの母は、19世紀の裕福な家庭の主婦でした。何不自由ない暮らしの中で、母は家庭の束縛を嫌い、
家庭からの逃走、自由な旅を夢想していましたが、実行するだけの勇気も覚悟もありませんでした。

マンスフィールドは、母の願いを受け継いで、20世紀初頭の世界を自由に生きました。

しかし、結核を病むマンスフィールドは、一人外国のホテルで孤独で不安な夜を過ごす時、ふと母を思い出し、
いつも夫や家庭に守られていた母の境遇を羨みます。

マンスフィールドは自由でしたが、彼女を守ってくれる夫は、彼女のそばにいませんでした。
彼女は護身用のピストルを携帯していました。

家庭の束縛を断ち切って、自由を得たマンスフィールドは、孤独と危険という代償を払いました。
家庭の外にあるのは、「自由という風の吹く荒地」でした。


21世紀に生きる私たち女性も、マンスフィールドと同様に、新しいライフスタイルを模索しています。
私たちもまた後戻りのできない旅に出たのではないでしょうか。

                                                了

(写真は、すべて筆者が撮影しました。)




文学部 国際英語学科 教授 手塚裕子






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